REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

エッセイ

経済学エッセイ

 

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塔島ひろみ

2019年1月30日

「難病と私」第1回

大関智也

「正体不明の病気にかかる」

私が初めて異変に気がついたのは1999年4月の始め、大学院博士後期課程に進学し、新たな研究室で実験を始めたばかりの頃であった。今は東大の経済学の研究室で働いているが、当時は化学の研究をしていたのだ。実験の後に先輩と話をしながらフラスコを洗っていた時、流しに落として割ってしまい、その時右手にしびれを感じたのであるが、これが1日たっても2日たってもおさまらない。今度は足にも異変が起きてくる。右足が上がりにくくなり、引きずるように歩き何度もつまずいてしまうのである。
私は自律神経失調症のような、ストレスからくる神経症状のようなものではないかと思っていた。思い当たる節はたくさんある。学会発表のために連日研究室に泊まって準備していたし、普段あまり飲まない私が大学そばの酒店で6缶パックの発泡酒を2つ買い、3日後には研究室で全てカラにしていたし、その忙しいときに葬儀の受付までやらされていたからである。

そういうことで、私は近所の病院で診てもらったのであるが、何の病気かわからないので別のもう少し大きな病院で診てもらうことになった。そこでもわからず、しばらく様子を見ましょうということになった。当然症状が良くなることはなく、さらに目までおかしくなってくる。あらゆるものが二重に見えてしまう。ものがよく見えないので、目つきまでおかしくなってきて、周りからはそれをとがめられる。
利き手はしびれ、目はまともに見ることができず、歩くこともおぼつかない。こんな状況では実験なんてできそうにもないはずなのだが、実験ノートを読むと、週に何度かやっていたようだ。毎週土曜日のゼミで一週間分の研究内容を1〜2分で報告しなくてはいけないので、なんとかごまかしていたのだろう。
ただ、それ以上に困っていたことは、右手がまともに使えなくなってしまったので箸で食事ができないことと字が書けないことであった。幸い母と兄と妹が左利きであるためなのか、箸は1週間後には左手で使えるようになった。しかし字を左手で書くことはできず、筆圧がなくても書ける油性マジックをしばらく使っていたのであるが、研究室では有機溶剤を大量に使うため、ノートにこぼすと何が書いてあるかわからなくなってしまう。これは芯の柔らかい鉛筆を使うことで解決した。
しかし症状はよくなることはなく、このままでは死ぬまで様子を見られるだけになるに違いないと思い、別の神経外科の病院で診てもらうことにした。後になってわかることであるが、私の病気は神経内科の領域なのだが、当時の私は「神経内科」という診療科があることを知らなかったのだ。当然ここでもすぐにはわからなかったが、父の古くからの知り合いでもあるこの病院の先生は何かが引っ掛かったのだろう。MRIを撮ろうということになった。そこで別の大きな病院で脳のMRIを撮影してもらったところ、一つの病名が浮かび上がる。多発性硬化症の疑いと。

さて、私には一つの病気の疑いがかかったのであるが、難病というのはやっかいなものであり、「○○という症状が出たので、あなたはこの病気です」とすぐに示されるわけではない。特徴的な症状だけではなく、別の似たような病気と区別できなくてはいけない。様々な検査の結果、幸か不幸か、私の場合は比較的早く診断がついた。やはり多発性硬化症ということであった。おかしいと気づいてから2ヶ月半、その直後に兄のところに子どもが生まれた。両親にとっては初孫、私にとっては初めての甥っこである。初めて孫を抱いた時の父の喜んでいる顔が忘れられない。
こうして、私のわけのわからない症状について「多発性硬化症」という病名がついたのであるが、病名以外は何もわからなかったのでインターネットで調べたところ、とりあえず最初にわかったことは、「現在は治療法が確立されていて、完治することはないが、この病気そのもので亡くなることは少ない」ということであった。どうやらすぐ死ぬことだけはなさそうなので、私も家族も何故か安心したのである。

2019年1月23日

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から 第 2 回

前川直哉

「トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと

 いま、ツイッター上では「#トランスジェンダーとともに」「#ともにあるためのフェミニズム」というハッシュタグを付けた投稿が、静かな広がりを見せています。
 きっかけは同じツイッター上に現れたトランスフォビア(トランス嫌悪)言説でした。経緯については、堀あきこさんが「トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること」という記事で丁寧にまとめて下さっています。私たちジェンダー/セクシュアリティ研究者にとってショックだったのは、トイレや更衣室・銭湯などの話題になったとき、トランス女性を排除しようとする言葉が「フェミニズム」の語と一緒に語られたことでした。
 飯野由里子さんは「共に在るためのフェミニズム」全文をネットで緊急公開され、フェミニズムにとって二元論的思考への批判が大きなテーマであったことを述べた上で、「セックス/ジェンダーの二元論及び性別二元論が現実の世界の中で生み出している具体的な被害に目を向け、特定の人びとの生存を困難にしている現状の改善に参加することは、フェミニズムだからこそ、またフェミニズムであるがゆえに、挑戦しなければならない課題だ」と指摘します。本来であればトランスジェンダーと「ともに」あるはずのフェミニズムが、トランスジェンダーを排除する分離主義に陥ってはならないと、警鐘を鳴らしているのです。私も、堀さんや飯野さんをはじめ「#トランスジェンダーとともに」のハッシュタグのもとに集まり声を上げる、多くの研究者と同じ思いを共有しています。

 私にとって許せないのは、自分がゲイ男性だと公言する元参議院議員の松浦大悟氏が、トランス女性の更衣室等利用に恐怖を感じるシス女性の声を悪用し、トランスジェンダーへの排除や差別を煽るような発言をしていることです。遠藤まめたさんが「松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問:野党批判のためにトランスジェンダーへの恐怖を煽るのか?」という記事で指摘する通り、松浦氏の主張は事実誤認に基づくものです。何より私が憤ったのは、松浦氏が「トランス女性」と「トランス女性を排除しようとするフェミニスト」という二項対立を仮構し分離主義を煽りつつ、しかも自らの姿を消す(どちらに批判が来ても自分に火の粉が及ばないようにする)という手法をとっていることです。
 そもそも、なぜトランス女性をトイレや更衣室から排除しようとする声が、一部の女性たちから上がったのでしょうか。もとをただせば性暴力(盗撮や痴漢などもふくむ)について、男性が加害者となり、女性が被害者となるケースが圧倒的に多いという日本社会の現状に行きつきます。今回のケースにおいて恐怖の対象となり、非難されているのはトランス女性ではありません。男性による女性への性暴力が無数に存在し、放置され、世の多くの男性がそれらを大した問題だと感じていないという状況こそが恐怖の対象であり、非難されているのです。
 トランス女性の話題が出てくるずっと以前から、たくさんの女性たちは男性からの性暴力を怖れ、公衆トイレや更衣室、銭湯や電車・バスなど、公共空間の利用を避けざるを得ない状況に追い込まれていました。こうした女性たちの痛切な声に耳を傾けず、女性専用車両に対して「男性差別だ」と的外れな批判を十年一日のごとく繰り返し、ポルノサイトに「痴漢」「盗撮」「レイプ」などのジャンルがあることに違和感を持たず、男性による女性への夥しい性暴力を放置・黙認してきた男性たちへの怒りが、トランス女性への恐怖心や排除といういびつな形で表明されているのです。
 つまり今回の件は「フェミニスト」や「トランス女性」の問題ではなく、男性に突き付けられた問題です。女性への性暴力をなくす努力を十分にしてこなかった、私たち男性の怠慢こそが問われています。この点について語らず、シス男性であり女性更衣室に入らない自分はまるで「第三者」「公平なレフェリー」であるかのようにふるまう松浦氏の言動が、私の目にはひどく不誠実なものに映りました。

 では松浦氏と同じシス男性のゲイである私にできること、すべきことは何でしょうか。一つは「LGBT」の言葉にこめられた、性的マイノリティの連帯を強く訴えることでしょう。私はこれまで、いくつかの理由から「LGBT」という言葉の使用はなるべく避けてきた一人ですが、今はこの言葉に込められた「連帯」を大切にしたいと考えています。
 ゲイ男性は「LGBT」や「性的マイノリティの連帯」などの言葉によって得られた果実のみを享受しつつ、実際には他の性的マイノリティの置かれている状況について無関心なのではないか、という批判は少なくありません。また森山至貴さんが『LGBTを読みとく』(ちくま新書)で強調する通り、かつてゲイ解放運動は同性愛の脱病理化を訴える過程で、トランスセクシュアルやトランスヴェスタイトの人びとを差別し、その抑圧に手を貸してしまった歴史を有しています。
 こうした歴史を反省し、性的マイノリティにおけるゲイ男性の一種の特権性を自覚しながら、性自認・性的指向にかかわらず、全ての人びとが排除されず、自分らしく生きられる社会をつくるために声を上げる。これまで公衆トイレや更衣室の問題で悩み、苦しんできたトランスジェンダーが、まさにそのトイレや更衣室などの話題を契機に、排除されようとしているという事態の重大さに対し、看過できないとの思いを抱いているゲイ男性は、きっとたくさんいるはずです。今こそ私たちは、暴力的な排除の言葉を自分自身に投げかけられた言葉として受け止め、それに抗い、「トランスジェンダーとともに」あることを強く宣言するときなのです。

 そしてもう一つ必要不可欠なのは、あらゆる性暴力を許さない社会を作り上げるための不断の努力です。先述の通り、現在の日本において圧倒的に多くの性暴力は男性を加害者として、女性を被害者として起こっています。こうした現状を直視し、全ての人の性的自由は守られなければならないこと、それを脅かす性暴力やセクハラは決して許されないことを、男性である私たちが強く主張しなくてはなりません。なぜ自分は性暴力の被害にあうことに過度に怯えず日々を過ごせているのか、なぜ盗撮カメラの存在をほとんど心配せずに公衆トイレや更衣室を利用できているのか、なぜネット上に突然現れるポルノ広告を何も見なかったかのようにスルーできるのか、トランスジェンダーのイシューについて他人事のようにふるまえるのは一体なぜなのか。これらの問いの背景にある男性の特権性を見据え、ジェンダーの非対称な構造をなくす努力をし、あらゆる性暴力を許さないと男性が決意し、声を上げることがきわめて重要なのです。
 私はこれまでジェンダーを研究する男性として、自分が踏まれている足よりも「自分が踏んでいる足」について、可能な限り考えるようにしてきたつもりです。性暴力についても同様で、ジェンダー論の授業などでは(男性という優位な立場にある自分がジェンダー論の授業を担当することへの居心地の悪さを常に感じながらも)「男性が加害者にならないこと」に焦点をあてて説明してきました。それでも「何を言おうが、お前が男性である限り信用できない」と批判されることもあります。そんなとき私は、そうだろうな、と感じます。私にできることは、次の世代の人たちがこうしたちょっと悲しい対話をしなくて済むよう、努力を積み重ねることだけです。
 私はジェンダー研究者として、性的マイノリティ当事者として、フェミニズムから多くを学びました。フェミニズムは当事者である女性の権利獲得と同時に、性についての社会的公正を求める運動です。性的マイノリティの権利獲得運動もここから多くのことを学んできており、私もそうした先人たちの並々ならぬ努力によって拓かれた地平に存在しています。
 だから私も飯野さんの言葉の通り、フェミニズムこそがトランスジェンダーを支える大切な存在だと信じています。そもそものほころびの原因は男性にあるのですから、両者の結び直しのために男性である私たちがすべきことはたくさんあるはず。その最初の一歩の掛け声こそが「#トランスジェンダーとともに」なのです。

2019年1月22日

地獄とのつきあい方 第二回

小林エリコ

『地獄とのつきあい方』トップ画
イラスト:小林エリコ©
引きこもっていた頃の話

私には人生において、躓きが何回かある。精神疾患は高校生の頃から抱えていて、それが原因なのか分からないが、引きこもりも経験している。私の引きこもりは致し方ないものだったと思うのだが、全ての引きこもりは致し方なくしているのだと今はわかる。私の引きこもりは世界に対しての防御だった。私は、あの当時、傷つくのがとても怖かったのだ。その頃の話をしようと思う。

私は短大を卒業したが、就職浪人になった。私と同世代の人で、同じ経験をしている人は多いのではないかと思う。あの頃は不況が日本を覆い、全く先が見えなかった。当時、大卒でも就職できなかった人がとても多く、私もその一人だった。桜が咲き誇る中、袴を履いて、着物を着ていた二十歳の私は自分の足元がグラグラ揺れているのを感じていた。明日から何をして生きればいいのか、どこに通えばいいのか、そういうことが頭の中を支配して不安ばかりがあった。

就職できなかった私は、どうしたらいいのか分からなくて、実家で寝起きするだけの日々をスタートさせた。朝は昼近くまで眠り、母が作る食事をもそもそと食べた。やることがないので、近くのゲーム屋さんに向かう。中古の二千円程度のゲームを購入する。ビニール袋に入ったゲームをぶら下げて、トボトボと昼の街を歩く。目に入る人がみんな立派に見える。主婦、外回りのサラリーマン、小学生。みんなそれぞれ役割を持って生きているのに、私にだけ役割がない。働かなきゃいけないと思いつつ、どうしたらいいのか分からない。新卒という最も良い条件ですら、雇う会社が現れなかったのだ。たくさんの会社から「お前はいらない」と言われた経験を思い出すと、もうあんなことは二度と体験したくないと体が震えてしまう。だからと言って、バイトをするのは嫌だった。ちゃんと正社員で働きたいという願望が強くて、バイトを始めたら正社員が遠のく気がしたのだ。しかし、いくら言い訳をしても、現状を変えるために動き出さない今の私はクズだ。自分の無能さを認めたくなくて、ゲームの世界に逃げ込む。冷蔵庫からビールを取り出し、飲みながらゲームをプレイする。私は不安な気持ちから逃げたくて、ずっとゲームをやっていた。面白いからやるのではなく、ただの時間つぶしであることは明らかだった。私は人生に対して、何もしないということを選択した。失敗続きの人生を送った私は、新しく何かに挑戦することに怯えきっていた。もう、履歴書を書くのも、求人を見るのも嫌だった。私は酒を飲んで意識を飛ばすことに集中した。

毎日、酒を飲み、ゲームをするだけの日々は全く楽しくなかった。私はなんのために10代の頃、必死に勉強し、受験して短大まで出たのだろうか。試験前、自分の部屋でシャーペンを握り、参考書を開き、英語や漢字や数式と格闘し、来るべき将来のために備えていたのに、短大を卒業した今、私は引きこもりになっている。その現実を直視することが辛くて、酒を飲み、ゲームの電源を入れる。就職ができなかったときに、どうすればいいのかを学校では教えてくれないし、就職できなかった人間を学校はサポートしてくれない。そもそも、人生のレールから転落したときに、誰に助けを求めるべきか分からない。父や母はそんな私に対して何もしなかった。特にこれといって何かをやれだとか、早く就職しろなども言わなくて、それはとても有り難かった。あの当時、親から責められていたら、家に居場所がなくなっておかしくなっていたと思う。

私はどうしようもなく、寂しくなると学生時代の友人に電話をした。友人たちは働いたり、資格取得のために勉強したりしていたけれど、私と話してくれた。話している間は寂しい気持ちが和らぐのだけれど、電話を切ると、いつものように無限の時間が押し寄せてきて発狂しそうになる。就職浪人とはいえ、仕事を探したほうがいいのだろうが、短大時代に、何社も落ち続けた私は、どこかの会社に受かる自信が全くなかった。私は一歩前に踏み出す勇気がなくなり、ただ、生気を失ったゾンビみたいに日々を暮らしていた。

酒を飲んでゲームをする日々が1ヶ月以上続いた頃、何か生活を少し変えたいと思い、駅前のペットショップで五百円で売られていたミドリガメを飼った。カメは中学の時に飼ったことがあり、飼育の仕方はわかっていた。小さい水槽を用意し、砂利を入れて、大きめの石を入れる。カメが日光浴できるようにするためである。名前をなんと付けようかと考えた結果、偉大な人の名前がいいだろうと思い、ジミー・ヘンドリクスから名前を取り、ジミヘンと名付けた。無職で引きこもりの私にようやく友達ができた。私は毎日ジミヘンの水槽の水を取り替え、餌をやり、可愛がった。

ミドリガメはほっぺたの辺りが赤くなっていてとても可愛らしく、まるで幼い子供のように見える。ジミヘンは水面に浮かぶ餌をゆっくりと食べる。手足を動かして水を掻き、のろのろと岩の上に登り、日光浴する。ジミヘンを観察するのに飽きると、また酒を飲んで時間を潰した。ジミヘンは飼い主の私が無職であろうと、なんの才能もないゴミのような人間であろうと、私を決して否定せず、ただ、毎日じっとしてそこにいた。

カメを飼ったことで、なんとなく、自分に役割が持てて、ジミヘンのために、ペットショップでカメの飼育用品コーナーを眺めて、新商品を見つけてはジミヘンに買ってやろうかと悩んだりした。しかし、飼い主が無職で無能のせいであろうか、ジミヘンは病気になってしまった。ジミヘンの甲羅に白い斑点ができてしまい、明らかに元気がなくなった。私は甲羅に栄養を与えてやろうと思い、カルシウムのある餌を買って与えたり、日光に当てたりしたが、ジミヘンはしばらくしたら死んでしまった。私は動かなくなったジミヘンを見て、なんとも言えない気持ちになった。私はカメすらまともに育てられない上に、自分の娯楽のために、小さな命を粗末にしたのだ。

私は公園に行ってジミヘンを木の根元に埋葬した。穴を掘りティッシュでくるんだ小さな体を土に埋める。思えば、私は子供の頃から随分たくさんの生き物を飼ってきた。セキセイインコ、文鳥、金魚にカマキリ。私は自分の心を慰めて欲しくて、たくさんの小さな命にすがって生きていた。動物を飼うという行為は人間しかしない。そのことを思うと、人間には何かとても罪深いものを感じる。私は私のために死んだミドリガメに土をかけながら、このままではダメなのだろうなと感じていた。

私はジミヘンがいなくなってから、また学生時代の友達に電話をかけた。友達たちは私のことを思って「実家を出たほうがいい」と助言した。電話口の友人の言葉に後押しされて、私は実家を出る決意をした。引越しのお金はすべて母に出してもらって、東京に住むことにした。仕事が決まらないままの引越しは不安であったが、なんの罪もないジミヘンを死なせてしまったことを考えると、あのまま実家にいたら、ジミヘン以外にも何者かを殺しかねなかったと今は思うのである。

小林エリコ:プロフィール
小林エリコ:肖像画

1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。現在も精神科に通院しながら、NPO法人で事務員として働く。
ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。
自殺未遂の体験から再生までを振り返った著書「この地獄を生きるのだ」(イースト・プレス)が大きな反響を呼ぶ。
エッセイ「わたしはなにも悪くない」(晶文社スクラップブック)にて連載中。

2019年1月16日

「障害当事者と学校」第 1 回

冨田佳樹

「私の難病と学歴-養護学校とは」

私は5歳のときに筋ジストロフィーと診断された。先天性の遺伝子の欠損により、筋肉が壊死・変質する難病である。時間が経つにつれ運動機能に障害が現れる。症状が進行すると歩行が困難になり、やがて寝たきり、気管切開で呼吸器導入、胃ろうを余儀なくされる。病気との付き合いは34年になる。

現在はREDDYの在宅勤務スタッフとして勤務している。サイト制作、事務補佐、雑務が主な業務である。日常生活の多くで介助が必要で、家族やヘルパーの力を借りながら暮らしている。

一般の小学校に通い、卒業後は養護学校(中学部、高等部)に通い卒業。受験を経て大学に進学した。親の仕事の都合で2回の転校を経験した。小学2年生のときに北九州市から名古屋市に、中学3年の夏に名古屋市から神奈川県伊勢原市に転居を余儀なくされた。中学1年〜3年の夏まで愛知県、中学3年秋〜高卒まで神奈川県の県立養護学校に通った。

大学では障害を持った学生を受け入れるケースが少なかった。よって教員も学生も手探り状態だった。幸いなことに、学部・学科による聞き取り調査と、可能な限りの配慮があり、在学中の学習環境を整えることができた。

特別支援学校とは、様々な障害を持った児童・生徒が必要な支援を受けながら学校生活を送る場である。2007年度改正の教育基本法第71条に規定されている。

「特別支援学校の目的として、「視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けること」と規定した。(第71条)」

通っていた当時は養護学校という名称だったが、上記の法改正により現在は特別支援学校と呼ばれている。

中学・高校は名古屋市内、平塚市内と 2校の県立養護学校に通ってきた。どちらも 3つの学部があった(小学部、中学部、高等部)。校内はバリアフリーに対応。エレベーター、スロープ、手すり、身障者トイレが完備されていた。通学は指定の停留所でスクールバス運行される。車椅子で搭乗可能な電動リフト付きのバスで、専属の添乗員(学校によっては教員も同乗する)が生徒の乗降を手伝う。

特別支援学校に通う児童・生徒には身体障害者、知的障害者、重度重複障害が在籍している。学年を担当する教員は生活指導、教科の授業の他に、生徒の補助や介助も行う。例えば、車椅子の乗降り、教室の移動、食事の手伝い、トイレ介助、薬の投与など多岐にわたる。

これまでの養護学校、大学での学校生活を踏まえ、障害を持った当事者から見た教育環境と課題について紹介していく。

2019年1月9日

「バタバタ公園バタフライ」 第1回

小川てつオ

はじめまして

誰がどうということを言いたいわけではなくて、また、言ったところで何をどうしたいというわけでもなく、こういう知的なフレームに入って(どういう知的さかも分からないのだけど)、自分のことを書くと言うときに、ほのかに感じるのは「見世物」ということだ。しかも、このエッセイ欄にはそれぞれは興味深いものには違いないマイノリティと言われる方の言葉が列挙されるという。見世物小屋と何がちがうのだろう。見世物小屋の何が悪いのだろう、ということも分からない。ちょっと、ゆっくり考えよう。いや、その前にこんな勝手なことを書かせてもらえることに感謝します(没はなさそうなので)。
私は一回どこかで見世物小屋に入ったことがある。「親の因果が子に報い」とか言う(ちがうかもしれない)アナウンスに誘われて、若干の熱に浮かされたような気分で薄暗い小屋に入り、金魚を飲み込む人間ポンプや蛇を鼻から口に通す女性や火の輪くぐりをする動物(犬?猿?)、下半身が魚か何かだった女性を見た。あんまり面白いものでもなかったのだが、希少な物を見たという満足感とだまされた気分が半々に残った。
表現するということは、自分の人生をその分差し出すということだと思う。だから、どんな場所でどんな風に差し出すのかが気になる。そんなこと気にしない人も気にしている場合ではない人もいる。けど、けっこう私はうじうじしている。だって、受け取られないならまだしも、受け取る人がため込むばかりだったりしたら嫌じゃないですか。受け取る人も、差し出して欲しい。研究している人も学者と言われる人もそうして欲しい。そうしている人もいるだろう、もちろん。コレクターがいても、多様にはならない。それは全然ちがうと思う。それぞれが差し出すことしか、それが出来る場にしか、多様性はない。
偉そうだと思うが、そうではなくて、うじうじ、しているところから始めてます。
薄暗い闇があって、テキヤの屋台とかが並んでいて、なんとなく生ぬるい風が吹いていて、見世物小屋があり、そこで行われる出し物だから、当時の時代状況でも違和感は拭えないながらも、なじむような雰囲気はあった。きっと、それがくっきりとした照明のスタジオで演じることになったら、それでもやるに違いないが、きっともの悲しい気持ちになるだろう。

私が都内の公園のテント村で暮らしはじめた、今から15年前、私はテント村の生活について表現しようとは考えてはいなかった。いや、ちょっと、ちがって、表現というものを文章を書いたりするような狭いこととして考えてもいなかった。とにかく、そこで、生活するというのが面白すぎた。ブログに文章に書くようにしたのは、テント村が無くなりそうになった時だった。テレビにさえ出て、本当に嫌な思いをした。行政にも、世間の大部分にも、放っておいてほしかった。私が暮らし始めた頃、公園には350軒ものテントや小屋があった。私は、公園から(というかテント村から)1歩も出ないままに、世界の中心にいる、と感じていた。ここが世界の中心だと思っていた。そう、それは、そこに多様性があったためだ。
次回は、そんな話が書ける(かな?)。

本ページ自体のあり方について、厳しく疑問をつきつけられ、深く、考えさせられました。

歯医者の待合室でぼんやりテレビのニュース番組を見ていたとき、劇団態変の映像が流れ、主宰者の方が、「障害者のカッコ良さは障害そのものの中にしかない」と話すのを聞き、慄然としたのを覚えています。本ページの編集にあたって、マイナスイメージを持たれている属性のその属性自身のカッコ良さを伝えたい、という思いが、私にはありました。

しかし、障害者自身が自分の肉体で表現する劇団態変に比し、自分は普通の立場にいながら、その「普通」から見て「普通でない」方々のことを伝えたい、という本ページのスタンスそのものが、「違う」のだということ、 人は、「普通」と「普通でない」に分けられるものではなく、本当の「多様性」は、障害種、性、マイノリティかどうか、などという小さな枠組みを超越した、「一人ひとり」が差し出したときに初めて実現するもので、そこを目指していかなくてはいけないこと、 このエッセイに教えていただきました。

本ページにこのエッセイを掲載できたことは、よい方向へ向かえる第1歩になると確信します。

小川さん、どうもありがとうございました!

REDDYエッセイページ担当 塔島

小川てつオ:プロフィール

1970年生まれ。幼いころは多摩川の川原にあるセメント工場の寮に住んでいて、敷地に土管がたくさん転がっていて、多摩川は泡をたてて流れていた。2003年から都内公園のテント村に住んでいる。
ホームレス文化 https://yukuri.exblog.jp

2018年11月28日

ライフタイムで住宅を考える 01

丹羽菜生

身体に合わせるか、家に合わせるか

人は家を考える時、何を重要と考えているだろうか。
「日当たりの良さ」、「地震に耐える強さ」、「暑さや寒さ」、「環境」、「デザイン性」・・・。
全て欠かせない事項であるが、そこにもう一つ、「ライフタイムー時間軸-」も追加するというのはどうだろう。
時間軸の追加とは、つまり、自分の身体に何かが起こってもそこでそれまで通り住み続けられるかどうかということである。

特に、若い夫婦が住宅を考える際、目の前にあるローンと子育てのことで精一杯で、そこに「住み続ける」という時間の概念が抜けていることが多い。

「何かがあった時には引っ越しをすれば良い」ということをよく聞く。そうあっさり割り切れるのであれば、そのようにされるので問題はないが、多くの人はそれまで過ごしていた家からそう易々と引っ越しは出来ない(したくない)ものである。

それまで築いた地域から離れるだけでなく、子どもの学校も変わらなくてはならないかもしれない。

身体の状態が家に合わないから引っ越すというのは、本来であれば、本末転倒である。身体の状態が合わないから住みたい所に住めないというのは、寂しすぎる。

身体の状態に合わせられる家であれば、それほど多くの変更なしにそれまでの延長で生活が続けられる。

例えば、プロのバンドに片足突っ込みながら大学でのプロジェクトで海外へも行くような大学生活を送っていた人が、ある日理由もわからぬ病で急に倒れてしまい、それ以降、車いすでの生活を余儀なくされた場合、彼はどのようにその先の生活を送るのか想像してみる。

建て売りの実家は玄関の敷居が高く、「よっこらしょ」というかけ声が必要になる。狭いトイレにはかろうじてトイレの横の壁をあけることが出来たので、2つの扉があるトイレにして横から介助を行う。大きくて立派な洗面台の足下には物入れがあるため、顔を突き出した無理な体勢で顔を洗わなくてはならない。浴室にはギリギリ入れるが、ギリギリの中自分が転ばないか心配してひやひやしながら介助を行う。廊下から部屋に入るのも車いすを回転しながら「よっこらしょ」と。ここで毎日の生活を行うのは難しい。

彼の場合は、仕事の関係で実家を離れ都心のマンションを借りることになった。自立である。大家さんの厚意で部屋の扉は全て取り払い、カーテンに付け替えた。三角の土地に建つ仕事場近くのマンションには、至る所に無駄な空間があり、幸いなことに車いすで生活をする彼にとっては介助者が入れるスペースとして役に立った。職場近くでそんな家はまずそこしかない。彼はとても運が良い。

彼には彼女が出来た。同じマンションの違う階にもうひとつワンルームの部屋を借りた。少し変わった形の同棲である。そして結婚となって二人が住める家を探した時、住みたいと考えたこの地域に住める家を見つけることは出来なかった。

自立した彼が一人暮らしで感じたことと、変わった同棲生活から学んだことは幾つかある。彼にとって住むための家に必要なことは、車いすでもスムーズに使える玄関や水回り、居室への入口と広さである。そして彼女にとって住むために必要なことは、彼の介助を楽に行えるスペースと動線、それから彼女のプライバシーの確保である。
(続く)

“
三角の土地に建つマンションでの生活

ライフタイム・ホームズ・アソシエーション http://www.lifetimehomes.jp/

2018年11月2日

「障害と社会」

長瀬修

小説「障害者と私」

 土曜日の午後、家にいると呼び鈴がなった。頼りになる夫が玄関に出てくれて、配達員から受け取ろうとすると、国の役所からの「本人限定受取」なためダメで、私が健康保険証を出して、ようやく受け取ることができた。何か大切な連絡かと思い、急いで開いた。夫も心配そうに見ている。
 開けてみると封筒には、難しそうな書類がたくさんだ。まず目に入ったのは1枚目の「旧優生保護法による不妊手術への謝罪と補償」と題する紙だ。最初に自分の名前が書いてある。ドキッとした。フリガナがふってあるけど、漢字だらけのむずかしそうな紙だ。
 別に「わかりやすい説明」と題するイラストも入ったカラーの紙もあり、分かりやすそうなので、そちらをまず見てみると、自分で希望していないのに、子どもができない体にしてしまう手術(優生手術・不妊手術)を受けさせてしまったお詫びと、お詫びのしるしにお金がもらえると書いてあった。金額を見ると大金だ。
 そういえば、「優生保護法」という昔あったひどい法律について裁判になっていると、テレビで見たことがあったけど、自分と直接、関係があるとは思っていなかったので、注意して見てはいなかった。
 確かに小さい時に、何か手術を受けさせられて、その時の傷跡が今も、おなかに残っている。少しこわい気がして、何の手術だったのか深く考えることはなかった。亡くなった両親から話はなかったし、50代になってから一緒になった夫とそのことについて話すことはこれまでなかった。
 小さい時に大切な自分の体にそんなひどいことをされていたなんて。どう受け止めたらいいのだろう。誰の責任だったのだろうか。「障害者」にはそんなことを勝手にしていいなんて誰が決めたんだ。そして、私に手術することはどうやって決まったんだろう。父や母はどう思っていたんだろうか。考えてみると涙が少し出てきた。服の上から、傷あとを触ってみる。夫婦になったのは年をとってからで、子どもを作ろうと思ったことはなかったし、傷あとが痛むわけでもなく、特に医者に診てもらったこともなかった。
 いろいろと記入して返送してくださいと書いている紙には、分からないことがあったら遠慮なく連絡してくださいとか、希望すればうちに来て説明もしてくれるとあり、電話番号とファクス番号も書いてある。
 どうすればいいのだろうか。どうしようか。誰に相談しようか。
 ふと、非常勤で再雇用されている役所のことを思い出した。雇用率達成のために「障害者」として自分が登録されていたらしいことを、先日、給湯室で仲の良い同僚から聞いた。人事課の友人からたまたま聞いたそうだ。再雇用されなかった同僚もいたから、自分の場合は「障害者」だということで、優先的に再雇用されたのだろうか。
 うちの役所も、障害者雇用の「水増し」をしているというので、地元のテレビが取り上げていた。昔は、確か手帳を持っていたはずだけど、ここずっと使ったことはない。どこかにあったのだろうか。なくしてしまったかもしれない。手帳を出してくださいと役所で言われたことは、少なくとも再雇用の時はなかった気がする。
 障害者差別解消法という法律ができて、大学の先生が講師だったつまらない研修を役所で受けさせられた時、今の自分は障害者かどうか、少し考えたことを思い出した。その研修では、最初に目をつぶって「自分を障害者だと思う人」、「自分を障害者だと思わない人」どちらかに手を挙げるように言われた。どっちに手を挙げるか迷ってしまって、どちらにも挙げられなかったけど、講師はそういう人もいますと言っていた。
 そう、自分のことを「障害者」かどうか、いつも誰かがどこかで決めてる。手術もそうだし、役所の登録もそうだ。
 手元にある大事な書類にもう一度、目を向ける。自分は障害者だったから手術を受けさせられてしまったようだ。そうなら、それはとてもひどいことだから、きちんと謝ってもらった方が良い。お金がもらえるならうれしい。いや、当然かもしれない。もらえたら、家族に少しは良い思いをしてもらえるかもしれない。
 夫は相変わらず、心配そうにこちらを見ている。どうしようか。いつもと違う土曜日の午後だ。(了)

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本稿はフィクション(2018年10月31日記)。勇気をもって旧優生保護法国家賠償請求訴訟に踏み切った皆様と、献身的に支える優生保護法被害弁護団の皆様に捧げます。

(長瀬修 立命館大学生存学研究センター教授)

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丹羽太一

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