REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

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塔島ひろみ

2019年4月24日

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から 第 3 回

前川直哉

大学教員とジェンダー

 先日行われた東京大学入学式での、上野千鶴子さんの祝辞が東大公式サイトで全文公開されています。日本社会において女性差別が未だ存在していること、東京大学もその例外ではないことを指摘した上で、しかし現状は完璧な社会ではないが、これまで多くの人びとの力、学問の力により、不完全ながらも社会は少しずつ改善されてきた、次はあなたたちが学び、社会をより良くしていく番だ、とエールを送っています。大学で学ぶことの意義を真摯に伝える、入学式に相応しい素晴らしいメッセージだと感じました。
 上野さんの祝辞でも触れられていますが、東京大学の教員に占める女性の比率は低く、准教授で11.6%、教授職で7.8%に過ぎません。ことは東大に限りません。残念ながら日本の多くの大学において、教員は圧倒的に男性が多いのが実情です。
 なぜ女性の大学教員が少ないのか。結婚・出産・育児などとの両立の難しさ(なぜこれらが男性研究者にとってはあまりハンディとならず、女性研究者のキャリアにおいては障壁となるのか、がそもそもの問題です)や、大学教員の世界に残る「男性社会」の排他性など、様々な説明が成り立ちます。それらに加え、ジェンダー研究者の澁谷知美さんから、とても興味深い記事を紹介して頂きました。米国・ノースカロライナ州立大学の研究者が行った、講師の性別が分からないオンライン講義を用いた実験を紹介する記事です。この実験は、男性講師によるオンライン授業について、学生に「講師は男性だ」と伝えた場合、「講師は女性だ」と伝えた場合、そして女性講師によるオンライン授業について「講師は男性だ」と伝えた場合、「講師は女性だ」と伝えた場合の、それぞれの学生からの授業評価を比較したものです。
 その結果、講師の実際の性別には関係なく、「講師は男性だ」と伝えられたグループの方が、「講師は女性だ」と伝えられたグループよりも、高い評価を講師に与えることが分かりました。全く同じ人の、同じ授業を受けていても、「講師は男性だ」と学生が考えるだけで授業評価が上がるのだから驚きです。「教授が学生から高い評価を得るための最良の方法とは?――男性であることだ」という刺激的な記事タイトルも、あながち間違いとは言い切れず、思わず唸ってしまいます。記事でも指摘されている通り、多くの学生もまた(一般の人びと同様に)権威のある女性について、ある種の偏見を抱いている可能性があります(この実験をもとに書かれた論文については、こちらの記事も参考にして下さい)。
 この調査が示す知見は、男性の大学教員である私自身の経験や見聞とも合致します。私の親しい女性教員の中には、授業評価アンケートの自由記述欄や授業中のコメントカードで、学生から暴力的な酷い言葉を書かれた経験がある人も少なくありません。一方、男性である私の授業では、授業内容への疑問や反論を呈されることはあっても(それ自体は歓迎すべきことです)、非理性的な罵詈雑言を投げかけられたことはこれまでありませんでした。私の授業の能力が、特段優れているわけではありません。上の記事を読んだ後では、やはり「女性に学問を教わること」自体に、何らかの反感を抱く学生がごく少数ながらいるのでは、と疑ってしまいます。学生からの授業評価アンケート結果がどのくらい教員の採用や昇進につながるかは大学によってバラバラですが、たとえ大学からの人事考課に直結しない場合であっても、学生から理不尽で暴力的なコメントが来れば授業のモチベーションに影響するでしょうし、場合によっては教員が授業をすることに恐怖心を抱いてしまう事態にもなりかねません。
 この問題は、私が担当する「ジェンダー論」の授業ではより一層、複雑になります。私が研究し、大学で教えているジェンダー論とは、性差別について考え、少しでもそれをなくし、より公正な社会を目指そうとする学問分野です。その授業では当然、日本において男性が女性に比べ、進学や就労など様々な場面において恵まれた環境にあることや、多くの性暴力において男性が加害者、女性が被害者となっている現状などについて、各種の実証データをもとに説明することになります。
 「女性は性差別にあっている」。同じことを、同じエビデンスを用いて説明していても、教員が女性か男性かで、学生の受け取り方が変わる可能性があります。女性が性差別を告発すると、例えそれが大学の授業という場であっても、「区別と差別を混同している」「自説に都合の良いデータだけを用いている」「男性もつらいのに、女性の話ばかり」「フェミニストが騒いでいるだけ」などと感情的な反発を受けることが少なくありません。社会の公正を訴える声が、単なる「わがまま」や「私怨」であるかのように矮小化されてしまうのです。
 一方、男性教員である私が同じ内容を語ると、どうなるでしょうか。「私は差別の加害者側にいるが、より公正な社会を作るために、この差別と闘っている。私は男性であるという特権を投げ捨ててでも、ジェンダー論を研究し、授業しているのだ」。社会正義のために己の利益を顧みない、素晴らしいヒーローのように振舞うことができます。実際の私は、ジェンダー特権を享受しているから研究を続けられているし、大学で教えられているのにも関わらず、です。そして女性教員の授業が不当に低く評価され、男性教員である私の「ジェンダー論」が不当に高く見積もられること自体、これまで私たちが行ってきたジェンダーに関する研究や活動が、まだまだ不十分なものであったことを示しています。
 ジェンダー論の授業に限らず、そして大学教員に限らず、性別によって能力や業績が正当に評価されない社会は、間違っています。冒頭の上野さんの祝辞に対しては「よくぞ言ってくれた」という肯定的な意見のみではなく、ネット上を中心に批判や否定的な反応も数多く寄せられました。もちろん傾聴に値する批判もありましたが、中には感情に流されたような暴論も見られ、私は「果たして同じ祝辞を男性が述べていたら、ここまで批判の声が上がっただろうか」と考え込んでしまいました。
 社会に残る女性差別の影響を受け、ジェンダーに関わる何らかの偏見を抱いている学生がいるとしたら、ジェンダー論の担当教員や女性教員のみではなく、全ての教員がそうした偏見を正す努力を行わねばなりません。これまで男性研究者とは比較にならないほどの逆風の中で、多くの研究と実践を積み重ねてきた、たくさんの女性研究者たち。その功績に最大限の敬意を払い、より公正な社会を実現するために、私たち男性にできること、すべきことは何か。過去の数多くの闘いの中で紡がれてきた言葉、そして2019年の東大入学式をふくめ、今なお紡がれている言葉に耳を傾けながら、考え続けています。

2019年4月17日

ライフタイムで住宅を考える 02

丹羽菜生

社会資本としていえを考える

 彼と彼女は一緒に住むことを考え、家を探すことを始めた。職場近くの賃貸マンションは、入り口に階段があったり、部屋の廊下やトイレが狭く、車いすを使う彼が住めるところはなかった。車いすでも住める部屋がある近くの公団も、何年先に空きが出るか分からないという。新築されたばかりの分譲住宅を見にいくものの、やはり入り口の階段や廊下の狭さ、水回りの不便さは変わらない。「エレベーターを設置していただいても構いません」などと不動産屋さんはいうが、そんなスペースは全くない。「車いすだとなかなか住むところもないものね」と二人は話す中、半年ほど過ぎた。
 知り合いの不動産屋を介して、「近くに土地が出ているから見に行ってみて」という連絡が入った。「え?土地?」と二人は驚きながら、とりあえず見に行くこととした。今まで住んでいた場所からそれほど遠くないにもかかわらず、大通りから一本入った場所にあるその土地は、随分静かだった。今でもこの辺りは、通りから一本入ると静かで昔ながらの住宅が多くあることを初めて知った。
 見学した土地の横は、昭和を思わせるようなトタンの塀で囲われた駐車場で、敷地の正面は雑草で覆われていた。旗竿地のその土地は、土地としては十分満足いくものであったが、二人は土地を購入することはまだ早いと考え、「車を駐車すると、車いすが通れない」など、色々とそこには住めない理由を付けて保留にした。「それならば」と、その前の道路に面した土地はどうかと不動産屋から連絡があった。この近辺で土地が出るのは珍しいので、住むことを考えているのならば押さえて置く方が良いとのことである。聞くと、最初の旗竿地と道路に面したこの土地は、昭和30年代から40年代にかけてこの近辺に多くあった大学の学生のための賄い付きの下宿屋の一つであったが、家主が亡くなり相続の関係で4つに分割されたものだという。そこの下宿屋には著名な文豪も下宿していたようだ。さすがにそうした下宿屋はもう大学近辺にはほとんどなくなってしまったが、かろうじてこの界隈には今も数軒ある。その中には大正ロマンの面影を残した建物などもあり、学生の街であったことを偲ばせる。なかなか素敵なところだった。

 それまで元気だった人が突然、車いす生活になるような場合、自立についていろいろな考え方がある。例えば、事故に遭う前のように出来る限り一人ですべてを行うべきだという考えや、時間をかければできるとしても、介助を受けることでより容易に出来るのであればそれを選ぶことも選択肢の一つであるという考えなど。彼にとってマンションでの生活は、障害を負ってからの彼の自立生活に、いろいろな課題と方向を示していた。失った機能を補う物(=車いすを含む補助具やパソコン)、人(=ヘルパー)、場所(=家や職場)とどのように関わり、その関係を保つのか、これらは彼にとって重要な要素になる。それを自分でプログラムして、生活にうまく取り込むことによって、彼の身体的な大きな障害という問題は、小さな問題へと変わることを、ここで彼はうまく自分の中で消化しているように、彼女は感じていた。

 個人の住宅は、法的規制の対象ではない。またコスト面などからみても、車いすでも住めるようにするという考え方はなかなか取り入れられない。それが彼と彼女が見た町の中の現実であった。「そんなものよね」と二人は話すが、なんだか少し寂しかった。二人は住宅について色々話し合った。高齢になったり障害を負ったりして、今まで住んでいたところに住めなくなったときは、住める場所に移ればよい、という考え方も間違いではない。しかし、家族構成が変わったので広いところから少し狭いところに移ろう、というのと比べて選べる住宅の幅が狭いという点で、両者の意味が違う。まして高齢者や障害を負った人が施設や障害者用の住居など特別な場所でないと住めないとなれば、住むことができる場所が極端に限られてしまうことになる。「そもそも、高齢者や障害者のみが集まって住むよりも、まちの中にいろいろな人が普通に住むことのほうが自然なんじゃない?」彼女は言う。

 先日遊びに行った車いすを使う友人の家では、トイレの戸を開けたままでないと使えないと嘆いていた。車いすや介助の必要な人でも使えるトイレとなると、一般の住宅ではなかなかない。最近ではマンションやハウスメーカーなどでも高齢者配慮住宅として、大分配慮がされつつあるが、それでも広いトイレがあっても、前の廊下が狭くて曲がりづらく、使い勝手が悪い、というような話はよく耳にする。「一般的な住宅でも個々の状況に対応できるように配慮されているならば、住む側の選択肢が広がり、提供する側にとっては対象となる入居者=消費者の数は増えることになるのに」彼は言う。

 もちろん、住宅だけでなく、まち、店、そして映画館や美術館、歴史的な施設などでも、そうした配慮をすることで、来場者を選ばないということが施設側の利益にもつながるはずだ。それは教育施設においても同じだ。誰もがどこにでも行けるという体験、誰もが同じように学べるという体験ができることは、社会の豊かさにもつながるはずだ。つまり、建築が長く使え、 誰でも使えることは、経済的にも有利に働くのにと二人は話す。

 住宅が人を選ばない、つまり誰もが住める住宅は、さまざまな人が利用できるという点で、社会にとってもプラスになっていく。言ってみれば「社会資本としてのいえを考える」ということになる。社会資本としての住宅を考えることは二人の課題になった。実際には、色々、限界もある。何が一般化できて、何ができないか、どこまでそれぞれの状況に合わせていけるのか、そして住宅を設計する中で、健常者と障害者を隔てている境界はなんなのか。そんなテーマで二人は自分たちがまちに住むということを自分たちの事として考え始めた。
(続く)

ライフタイム・ホームズ・アソシエーション http://www.lifetimehomes.jp/

2019年4月10日

「バタバタ公園バタフライ」 第2回

小川てつオ

南米の人たち

今回は、テント村にいた南米の人たちの話を書きます。というのも、そのうちの1人に会ったことがテント村に住むきっかけになったためです。その人の名前は仮にベルナルドにします(以下、この連載はすべて仮名です)。私は、月に一回くらい友達とこの公園でパーティを開いていたことがありました。ささやかな機材を持ち込んで、DJしたり演奏したり踊ったりだべったり、というもので、公園中央にある広い芝生広場でだらだらしていました。今では、このようなことは出来ません。それだけ管理が厳しくなったのです。ある日のパーティの終わりころ、どこからともなくベルナルドは現れました。いかつい男で怪しげな日本語でマイクアビールしました。ホームレスを助けるために、ネットワークをつくって、という言葉が聞き取れました。
ベルナルドがテントを案内するというので、数人で一緒について行くことにしました。ベルナルドはテントで8年住んでいるという話でした。暗闇の中を足早に歩くベルナルドに連れられて、小屋が所狭しと立ち並んでいる一帯に到着しました。大きな公園であるにしても、このような場所があることにそれまで全く気がついていませんでした。窓も玄関もある精緻な小屋が多く、おとぎの国に迷い込んだ感じです。シシオドシや岩で作庭された小屋を指さしてベルナルドは自慢げでした。ここはコウミンカン、と言ってめくったテントの中にはタイコの類いがチラと見えました。公民館? じんわりと衝撃をうけました。ここには確固たるコミュニティがある!と感じたからです。
ベルナルドによる謎のツアーは駆け足に終わりましたが、テント村のことは頭から離れませんでした。その頃、私は「居候ライフ」と称して、様々な他人の家で暮らす生活を6,7年くらい続けていました。だから、自分の家や部屋は特にありませんでした。
しかし、すぐにテント村で暮らしはじめたわけではありません。ホームレス生活に対しては戸惑いがありました。それを超えるのは、自分の中でいくつかの転機が必要だったように思います。約半年後、私はテントを担いで、興奮気味にテント村のベルナルドを訪ねました。2003年の春のことです。しかし、ベルナルドはブラジルに帰ったようで不在でした。仕方なく立ち話をしているホームレスのおじさんたちに相談しました。どこにテント張ればいいか管理事務所に聞いてみたら、と言われました。そんなの絶対無理だろう、と思いましたが、とりあえず事務所に行きました。出てきた職員は苦々しく、あんたがホームレスになるわけじゃないんでしょう?、と言いました。ホームレスになります!、と答えました。少し偉そうな人が出てきて、この公園には300名もいるからどこかよそで張ってくれなどと言いましたが、食い下がると、絶対ダメな場所はある、とトーンダウン。再び、立ち話をしているおじさんたちのところに戻ると、今度は村長みたいな人が出てきて、若いんだから帰れと諭されました。しかし、話しているうちに、なんとなく認められ村長みずからスコップで整地してくれました。彼が庭園を作っていた人でした。ベルナルドを受け入れ、ベルナルドが連れてくる外国人たちを受け入れていたのも彼でした。あんたも一国一城の主なんだから好きに暮らせばいい、と言って私にもあまり干渉しませんでした。
さて、私がテントを建てた場所は、テント村の中で〈南米村〉と呼ばれたところでした。南米人がベルナルドを入れて5人、トルコ人1人、アメリカ人1人が日本人と混じって暮らしていました。ベルナルドもそのうち帰ってきました。全身入れ墨した筋肉ムキムキのマッチョマンの彼は、ジャーナリストだと言って(ごついカメラを持って)いましたが、何をしていたのかは分かりません。あとは、小柄だけど負けん気が強くて、よく一緒に遊んだボリビア出身の日系人。優しげな顔立ちでエスニックな絵を描いていたエクアドルの人。よく焼き肉パーティをしていたブラジル人。いつも売り物のシャツを水場で洗濯していたおだやかな色白のブラジル人。彼は恋人と暮らしていました。トランス好きでテントでも爆音でかけていたトルコ人。日本人の妻に離縁され保育園に通っている子どもにも会えなくて、悲しげな様子の若いアメリカ人。
ベルナルドたちは、パトロールと称してテント村を夜中に巡回していました。テント村の安寧を守るための行動らしかったけど、手にバットなどを持った彼らに出くわすとギョッとしたものでした。ベルナルドは、誰彼かまわず「元気〜?」などと声をかけ、ガハハハと笑っていました。テント村の年寄りを尊敬しなくてはいけない、みたいなことをよく言っていました。皆と仲良くしようとしていて好かれていました。他のブラジル人もテント村の女の人の逃げた猫を探したり、助け合いの気持ちが強かったと思います。
南米の人たちはパーティが好きでした。朝からバーベQをやっていて、ボルトガル語で目が覚める時もありました。彼らなりにトラブルを起こさないようにしていましたが、音がうるさくて周りとケンカになってしまうこともありました。村長が怒鳴って注意をしている時もありました。でも、彼らに限らずトラブルは常にたくさんあったので特段目立っていたわけでもありません。しかし、テント村が切り崩されていった時、真っ先にいなくなったのは彼らでした。万引きでつかまった、などの話も聞いたけど、管理側が彼らを追い出すという噂があったし、管理側の意図もあったかもしれません。
ベルナルドは、今も数年に一回、持ち前の大声で「みんな元気ー?」「大丈夫-?」とかいいながらテント村に現れます。最近では、背中にパラシュートを背負っていました。丘の上で訓練していたと言っていました。相変わらずバイタリティにあふれ、言っていることはよく分かりませんでした。

P.S
塔島さん、拙い原稿に応答ありがとうございます。言葉は、切り分け、指し示し、色をつけます。今回の原稿でも、●●人と書きながら違和感もありました。「南米の人たちはパーティが好きでした」?。嘘でもありませんが、これだって、けっこうイメージに乗っかっているところがあります。そして、洗濯をよくしていた人もブラジルの人でしたが、パーティに参加していなかったし、どちらかというと静かにしているのが好きそうでした。そういう人のことはどこかに行ってしまいます。言葉は難しいです。ホームレスのテント村に南米の人が住んでいた、これはイメージを裏切ることかもしれません。でも、一方で南米人という既成イメージに依拠しているところもあります。現実は言葉を超えているから豊かで多様です。言葉が追いつこうとしても追いつくことはできないことが重要だと思います。
ではでは、次回も宜しくお願いします。

小川てつオ:プロフィール

1970年生まれ。幼いころは多摩川の川原にあるセメント工場の寮に住んでいて、敷地に土管がたくさん転がっていて、多摩川は泡をたてて流れていた。2003年から都内公園のテント村に住んでいる。
ホームレス文化 https://yukuri.exblog.jp

2019年4月3日

難病と私 第2回

大関智也

難病とは? 多発性硬化症とは?

 さて、前回は私の病気に至るいきさつを話したのであるが、今回は難病と多発性硬化症(MS)について説明したいと思う。

【難病とは?】
 昔は「不治の病」ということで「難病」という言葉が使われていたが、2015年1月に施行された「難病の患者に対する医療等に関する法律(いわゆる難病法)」で定義されている。
 ・原因が不明である(発病のメカニズムが明らかでない)
 ・治療方法が確立していない(ほぼ治ることはない)
 ・希少である(患者の数が少ない)
 ・長期間の療養が必要である(重症であることが多い)
 ・客観的な診断基準がある(特徴的な症状があり、他の病気と区別ができる)
これらの条件を満たした病気は「指定難病」として扱われ、医療費の助成などが受けられる。

 その前の制度として「特定疾患」というものがあり、1972年に始まった国の特定疾患治療研究事業で指定された病気であり、多発性硬化症は1973年に指定されている。
特定疾患として指定されていた病気は約60であったが、難病法施行により、現在では331の病気が指定されている。

【多発性硬化症(MS)とは?】
 多発性硬化症は上に示した条件を満たしている病気であり、指定難病として扱われているがその起源は古く、19世紀半ばには存在が知られている。病名の由来も、脳やせき髄などに固くなった病巣部がいくつもできるということからであり、1871年にW. A. Hammondによって「multiple sclerosis」と名付けられ1)、現在も使われている。「多発性硬化症」という病名は「multiple sclerosis」の和訳であり、「MS」と略される。

 多発性硬化症は自己免疫疾患の一種とされ、脳や脊髄などの神経線維の周りにある髄鞘(ミエリン)を自分自身の免疫で破壊してしまう病気である。これにより神経の信号伝達がうまくいかなくなり、それが原因で様々な症状が起きる。高校の生物の授業で、髄鞘があることで神経間での命令伝達が速くなるということを習った記憶がある。

 前回書いた私に起きた症状、手のしびれや足が上がらなくなること(運動機能障害)や目の症状(物が二重に見える:複視)というのは典型的な症状である。
それ以外にも疲れやすい、排尿・排便障害、ものが飲み込みにくい(嚥下障害)、精神的に不安定になるなど、様々な症状が出ることがある。
 あとは首を曲げたときにしびれのような痛みのような症状(レルミット徴候と呼ばれる)が出たり、体温が上がることで症状が一時的に悪化する(ウートフ現象と呼ばれる)ことがある。
私も一時期このウートフ現象に悩まされたことがあり、入浴後にぐったりしたり、37度の熱で動けなくなってしまったことがある。

 またこの病気は20〜30代で発症することが多く、男性よりも女性にかかりやすく、黒人よりも白人にかかりやすく、低緯度地方より高緯度地方に住む人のほうがかかりやすいとされる。日本では類似疾患である視神経脊髄炎と合わせて患者数は約2万人いる。

 多発性硬化症の診断基準や治療方法について(というよりも、難病全般についての診断基準や治療方法)は厚生労働省や難病情報センターのWebページを参照していただきたいが、私がこの病気にかかった20年前には治療法は今より少なく、効果のあるものはステロイドの投与とインターフェロン注射ぐらいであった。
 しかもインターフェロンは認可されていなかったため保険適用外であり、医療費助成の対象外であった。そのため非常に高価であり、インターフェロンを使う人はほとんどいなかったが、現在は2種類のインターフェロン製剤が認可されており、治療方法の一つとして使われている。

 また現在では様々な薬が開発され、その一つに「フィンゴリモド」というものがある。
 私の大学院生時代の研究室の先輩がこの薬の研究・開発に関わっていたのでOB会で会うと話をするのだが、私自身は現在の治療法でうまくいっているためこの薬を使っていない。
 一番身近な患者が使っていないことに申し訳ないと思うこともあるが、私自身はインターフェロンで悪化した少数派の患者なので、新しい治療法については前向きではない。

 前回の最後に書いたことであるが、現在ではこの病気で亡くなることは少ないが、劇症化したり、病巣の発生部位によっては短期間で亡くなることもあるらしい。
 アルプスで見つかった氷漬けのミイラ「アイスマン」の調査をしていた考古学者が多発性硬化症の影響で亡くなっており、「アイスマンの呪い」として知られている。

参考文献
1) 高橋昭. 多発性硬化症の歴史. 月刊臨床神経科学. 2004, vol. 22, no. 7, p. 756-761.

【難病医療助成制度とは?】
 もし、あなたや身の回りの人が何らかの難病と診断されたら、「難病医療助成制度」を申請することをお勧めします。
 申請には、必要事項を書いた申請書、医師の診断書(書式が決まっている)、保険証のコピー、住民票、住民税課税(または非課税)証明書などが必要です。
 認定には数か月かかりますが、申請した月までさかのぼって適用されるので、この間にかかった医療費の還付を受けられることがあります。
 申請の方法や制度の内容については、ソーシャルワーカーに相談してみるとよいと思います。

 詳しい内容については「難病情報センター」のwebページ等を見ていただきたいのですが、毎月一定額以上は病院や薬局で支払う必要がなくなります。
 難病に対する診察、薬代、入院費用など、保険適用のものについては自己負担が2割になり、さらに毎月一定額以上の負担をしなくて済むようになります。
(上限額は世帯年収で変わりますが、1か月あたり2,500〜30,000円です。ここでいう「世帯」とは保険証単位でのもので、私のように両親と同居していても、国民健康保険の両親と社会保険の私では別世帯の扱いになります。なお人工呼吸器等を使用している場合、年収にかかわらず上限は1,000円になり、生活保護世帯は負担がありません。)

 難病とは無関係の症状(例えばインフルエンザとか虫歯とか)については一般の人と同じように病院で支払うことになりますが、難病の直接の症状でなくても関係があれば(例えば、難病の薬の副作用でじんましんが出た、難病の影響で脚が悪く、転んでけがをした)医療費助成の対象になる場合があります。

2019年3月27日

地獄とのつきあい方 第四回

小林エリコ

『地獄とのつきあい方』トップ画
イラスト:小林エリコ©
病気になって分かること

私の友人にトキンさんという人がいる。彼女はフリーペーパーのゾンビ道場というのを発行していることで知った。同じ精神疾患当事者ということもあり、ずっと気になっていた。同人誌の即売会で会った時に、挨拶をしたり、共通の友人がやっているお店で会って話したりした。そんな彼女が本を出版した。「解離性障害のちぐはぐな日々」という本だ。私は早速買って読みだした。そして、解離性障害という病気についてあまりにも無知だった自分を恥じた。解離性障害が多重人格だということも初めて知った。そんな彼女からトークイベントを一緒にやりませんか?というお誘いをいただいて、池袋のジュンク堂でトークイベントを開催してきた。今回はそのことについて書こうと思う。

今回はトキンさんの本の出版記念ということもあり、私が彼女に質問をするというスタイルをとった。打ち合わせの時に決めておいた質問を何個か話させてもらう。私は彼女の口から「解離性障害とはどういう病気か?」ということを聞いた。
漫画でも描かれているのだけれど、自分の中に何人かの人格があるそうで、「自分の中にたくさん人がいる」という感覚があるそうだ。これはなかなか想像しにくい。状況に応じて、人格が変わるらしい。私はずっと疑問に思っていることを聞いてみた。
「私はトキンさんと会っている時、いつも同じ人に会っている感じがするのですけれど、違う人格の時はありましたか?」
そう聞くと、
「エリコさんと会っている時は、いつも同じ人格ですね。だからわからないのかも」
と言われた。
なるほど、と思いながら、違う人格にも会ってみたいなどと思ってしまった。

トキンさんは解離性障害という病気を抱えて、困難を生きているのだけれど、あまり自分が困っているという感覚がないらしい。自分と世界の間に薄い膜があり、その膜のせいで、感覚をあまり感じないという。痛み、悲しみ、喜び、そういったものが普通の人より弱く感じるそうだ。だから、悲しみや、痛みという負の感情を強く感じることがないのだという。それゆえ、あまり困っていないのだ。
私はこの話を聞いて、病気がトキンさんを助けているのだろうか、と考えた。生き続けることができないほどの強い痛み、悲しみ、それらを和らげるために膜を張る。喜びなどのプラスの感情も消えてしまうけれど、生き抜くためには仕方ない。

病気というものは悪いもののように思えるけれど、実際はそうでないと言われていて、その人を助けるために生まれたのが病気だという考えが出てきている。風邪を引くのだって体が疲れて菌への抵抗力が減っていて、体を休ませるためだし、産後うつは、子育ては一人でできないほど大変なものだから、うつになって周囲の手助けが必要になる状況にしていると何かの本で読んだ。

病気の話を聞いた後は、二人で制度の話をした。病気が長い私たちはいろんな制度を使っているけれど、そもそも、病気になり始めのころは、何の制度があるのかすら分からない。
医療費が一割負担になる自立支援医療制度、税金などの優遇措置がある障害者手帳、障害の重さが認められれば受給できる障害年金。診断書や初診日や、いろんな書類を必死に集め、見たこともない書類と格闘しなければならない。そして、精神障害は大体2年ごとに更新の手続きがあるので、いちいち市役所に行って手続きをしないといけない。
日本の福祉制度は申請主義と言われている。向こうの方から「困っているようだからこれを使ったらどうですか?」とは一切言ってこない。自分で調べて、自分で申請しないと使えない。弱者にあまり優しくない国だと思う。特に、社会的に弱い人というのは、情報弱者であることも多いので、今の状況では福祉は国の隅々まで行き届いていない気がする。

その後は、精神病院での話をした。私たちは二人とも、精神病院に入院している。精神病院に入院した時、作業療法が楽しかったという話をした。二人とも物を作るのが好きだからだ。
そして、精神病院のあるある話としてお風呂の話をした。精神病院では毎日お風呂に入れないのだ。話を聞いてみると、トキンさんも週に2、3回しか入れなかったらしい。私もそれくらいだった。内科や外科の患者で入浴が困難なら入浴が限られるのはわかるのだけど、私たち精神科の患者は体が健康で、入浴に何の困難もない。誰の手助けも借りることなく入浴できるのに、回数が制限されるのは何故なのだろうか。むしろ、入浴ができないことがストレスになっていて、それをいつも患者同士で愚痴っていたのを思い出す。

最近、本で読んだのだけれど、アメリカで黒人に対して白人記者が「黒人差別についてどう思うか?」とインタビューした際、黒人が「それは白人に聞いてくれ」と答えたと言う。黒人差別が白人の問題であるということは明らかだ。そして、これは全てのマジョリティ、マイノリティの問題に当てはまるのでないだろうか、女性問題も男性の問題だし、障害者問題も健常者の問題なのだ。
けれど、マジョリティほど、マイノリティの問題に無関心だ。私は心あるマジョリティに声が届くように、何らかの方法で発信し続けようと思う。

小林エリコ:プロフィール
小林エリコ:肖像画

1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。現在も精神科に通院しながら、NPO法人で事務員として働く。
ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。
自殺未遂の体験から再生までを振り返った著書「この地獄を生きるのだ」(イースト・プレス)が大きな反響を呼ぶ。
エッセイ「わたしはなにも悪くない」(晶文社スクラップブック)にて連載。
大和書房WEB連載「家族劇場」連載中。

2019年3月7日

「障害と社会」

長瀬修

喪失―殺害された国際障害者年の父(マンスール・ラシッド・キヒア)の娘

こども時代に大切な親を失ってしまうという経験は何をもたらすのだろうか。その親が障害者の権利そして人権全般の取り組みで重要な役割を果たした人の場合はどうだろうか。リビアの外務大臣や国連大使を務め、のちに政府の人権侵害に抗議して辞職し、亡命中のアメリカから出張先のエジプトで拉致され、母国で殺害されたマンスール・ラシッド・キヒアの娘、ジハン・キヒアは父親に最後に会った時、6歳だった。
“Jihan
「ジハン・キヒア」©Puxan BC

障害者の権利を考えるうえで重要な1981年の国際障害者年を提案したマンスール・ラシッド・キヒア(以下、キヒア)とその悲劇的な人生を知ったのは、障害者権利条約交渉の初期に、障害者の権利の国際的な起源を調査していた時だった。心に突き刺さった。その調査をもとに、2004年に下記のように『福祉労働』誌に記した。同誌の了承を得て、ここに再掲する。


「殺害された<国際障害者年の父>――マンスール・ラシッド・キヒア」
 前回の本誌の「現場からのレポート」で報告させていただいたように、国連では、障害者の権利条約の策定作業が着実に進んでいる。権利条約に関する第一回特別委員会でベンクト・リンクビスト特別報告者(当時)が「障害者の条約は国際障害者年からの取り組みの論理的な着地点である」と述べているように、現在の国際的な障害問題に関する努力は1981年の国際障害者年に多くを負っている。
 この国際障害者年を国連が宣言、実施する過程で大きな役割を果たした一人のリビア人を紹介したい。それは、国際障害者年の着想を得て、1976年の国連総会での提案を実際に行ったリビアの人権活動家、マンスール・ラシッド・キヒア(Mansur Rashid Kikhia)である。72年に外務大臣を務め、76年当時にはリビアの国連大使だったキヒアこそが、国際障害者年というイニシャティブを取った人物だった。〈国際障害者年の父〉という呼び方ができるとすれば、キヒアが最もふさわしい。
 しかし、現在の条約策定過程の起源に関する研究の一環として、なぜリビア提案かということで調査を行った結果、心痛む事実が明らかになった。
 1976年の国連経済社会理事会で国際リハビリテーション協会(RI)のノーマン・アクトン事務総長が、障害者問題に関する発言を行い、その発言を聞いたキヒアがイニシャティブを取ってアクトン事務総長にアプローチし、国際障害者年の提案を行ったという経緯がある。リビア国内で視覚障害に関する組織との交流があったキヒアによって、国連による国際障害者年を宣言しようという提案は、「思いつかれ、提出され、推進された」。
 1981年を国際障害者年と宣言した76年の国連総会以後、国際障害者年に関するイニシャティブは提唱国のリビア政府が握り、国際障害者年に関する決議の提案もリビアが中心となって行われた。そしてキヒア大使自身は、79年3月の第1回国際障害者年諮問委員会の委員長、翌80年8月の第二回国際障害者年諮問委員会の委員長を務めている。
 第2回の諮問委員会の報告書が同氏の名前で、ワルトハイム事務総長宛に提出された日付は80年8月30日となっている。そして翌9月には、リビア政府によるリビア国内外の深刻な人権侵害に抗議するためにキヒアは辞職している。
 第2回国際障害者年諮問委員会の報告書は同氏の国連大使、リビア政府の公務員としての最後の仕事だったかもしれない。翌81年の国際障害者年の本番までの道筋はつけたということで、区切りをつけたのだったのだろうか。今となっては確認する術もないと思われる。
 リビア政府を離れてから同氏は、米国に住んでNGOの立場から、アラブ地域、とりわけリビアの人権問題に積極的に取り組んだ。また、在外の反体制派の取りまとめ役も務めた。その過程で、1969年のクーデター以来、独裁権力を握ってきたカダフィ政権の不興を買ったことは想像に難くない。
 93年12月10日に同氏は、自らが評議員を務めるアラブ人権機構(Arab Organization for Human Rights)の会合に出向いていたエジプトのカイロで行方不明となった。
 1997年9月28日の米国ワシントンポスト紙は「エジプト、リビア、拉致に関与」という見出しの記事で、米国の市民権取得まであと4カ月だったキヒアが、リビア政府とエジプト政府の工作員によって拉致され、リビア政府側に引き渡された後、リビアに連れ戻され、1994年初頭には殺害されたと報じた。同年、アムネスティインターナショナルはキヒアに関するアピールを流している。死亡が確認できないためか、アラブ人権機構は2000年の年次報告書まで、評議員としてキヒアの名前を掲載していた。キヒア事件の真相が明らかになるのは、カダフィ政権後まで待たなければならないと思われる。
(『福祉労働』103号、2004年6月25日、94-96頁:文献は省略)


チュニジアに始まったアラブの春の一環として、リビアで「カダフィ政権後」が実現したのは、2011年だった。しかし、私はキヒアの件をフォローすることを長きにわたって怠ってきた。

一つの優れた書評がそれを変えてくれた。西崎文子によるヒシャーム・マタール著『帰還―父と息子を分かつ国』(人文書院)評である(朝日新聞、2019年2月9日)。著者、ヒシャーム・マタールの父、ジャーバッラー・マタールもリビアの反体制運動のリーダーとしてカダフィ政権の力でエジプトにおいて拉致され、殺害されている。父と会えなくなった時、ヒシャームは19歳だった。この書評を読んですぐにキヒアを思い起こした。そしてキヒアについて本当に久しぶりに検索してみた。新たな衝撃が待っていた。

40年以上続いたカダフィ政権崩壊後の2012年に、首都トリポリの諜報機関でキヒアの遺体が「巨大冷凍庫の中で、凍ったまま、完全に無傷の状態」で発見されていた。家族とのDNA照合の結果、本人であると確認された。行方不明になってから19年が経過していた。しかし、まだ多くの疑問が残されている。死亡時期についても、1997年説と2001年説がある。「拉致された後で何が起こったのか」、「どこで、どういう形でキヒアは死を迎えたのか」。そうした問いへの答えをジハンはじめ家族は現在も求めている。
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「マンスール・ラシッド・キヒア」ジハン・キヒア提供

歴史の中に置き去りにされてきたキヒアの功績を幸いなことに国際社会は少しずつではあるが認めようとしている。障害者権利委員会第16会期中の2016年9月にジュネーブの国連ジュネーブ事務所で開催された障害者権利条約採択10周年を記念するイベントにおいて、テレジア・デゲナー(当時、副委員長)がキヒアの功績を紹介し、ジハンからのメッセージを披露した。デゲナーは、障害者権利条約と同じく2006年に国連総会が採択した強制失踪条約にも言及している。

そして、2017年6月にニューヨークの国連本部で開催された第10回障害者権利条約締約国会議は冒頭で、ジハン自らが発言の機会を得た。キヒアも演説を行った総会ホールにおいて、ジハンは、キヒアについて語ることができたのである。1930年代に戦争で障害者となった人たちを目にして、父は障害問題への関心を持ったと語ったジハンは、2012年12月3日にベンガジで営まれたキヒアの国葬に触れて、「私は、リビアの障害のある子どもたちが父を称える歌を歌っているのを目にしました。その瞬間に12月3日が偶然にも国際障害者デーであることを知りました。これは父にふさわしく、深遠な象徴だと思います」と述べた。そして、父キヒアが「蒔くのを手伝った小さな種が、今日の巨木のような成功へと成長したことを目の当たりにするのは、心からの驚きだ」とし、父の功績を称えるのみならず、父が家族と共に生きた人生を祝福する機会を、まさに父が活躍した総会ホールの壇上で得られたことに心からの謝意を表明した。(ジハンの発言は国連テレビのアーカイブで見ることができる。冒頭から15分後)。

アーティストであるジハンは、今、夫キヒアを探し求める母の視点を通して父キヒアに達しようとするドキュメンタリー映画に監督として取り組んでいる。“Searching for Kikhia”(キヒアを探して)である。リンクからは、予告編を見ることもできる。以下に掲載した「監督からのメッセージ」と「シノプシス」も参考にしていただきたい。

ジハンと同じく父を失ったヒシャーム・マタールは『帰還』や『リビアの小さな赤い実』など著作を通じて父そして、その父を探そうとする家族の姿を描いてきた。興味深いのは、ヒシャームの父、ジャーバッラー・マタールとキヒアの人生がニューヨークで交錯していることである(以下の関係年表を参照)。キヒアがすでに1968年から赴任していたニューヨークのリビア国連代表部に、1970年にジャーバッラーが着任し、キヒアが外相に就任する1972年まで一緒に勤務している。そして、監督からのメッセージに記されているように、ヒシャームはジハンのドキュメンタリーに出演することが決まっている。

本稿に寄せて、ジハンからメッセージが届いているので紹介する。

1981年の国際障害者年が日本の障害政策推進に大きな影響があったと知り、その国際障害者年を1976年にリビアの国連大使として提案した父のマンスール・ラシッド・キヒアからいっそう、力を得る思いです。父の人生と業績を学び続けておりますが、国際障害者年がリビア提案だったことを忘れていない方たちが日本にいてくださることに素晴らしい驚きを覚えると共に、身が引き締まる思いを強くしております。日本、そして世界の皆様に、父に敬意を払い、その崇高なビジョンを祝福するドキュメンタリー映画「キヒアを探して」を見ていただく日を楽しみにしております。

障害者の権利そして人権の歩みに大きな足跡を残したキヒアの生を思う時、人権の不可分性と相互依存性が強く心に残る。人権を守る取り組みは総合的、包括的なものであり、たとえば障害者の人権だけを守ることはできない。障害者の権利は他の人権全般と密接に関係している。

そのキヒアと6歳の時に物理的に切り離されてしまったジハンは、父の生と死を把握するために、喪失と向き合う勇気ある旅を続けている。その旅路は国際障害者年の提案から障害者権利条約に至る障害者の権利を保障しようとする現在進行形の取り組みと間違いなく重なる。私はそのジハンの旅を見守りたい。
(敬称略)

【監督からのメッセージ】
私の父、マンスール・ラシッド・キヒアはカダフィの手ごわい脅威だと見なされていました。リビアに対する父の強迫的ともいえる忠誠心、そして「兄弟」に理を諭す覚悟は悲劇的な失踪と死をもたらしました。ほんの6年前に私たちが発見した現実があります。カダフィが殺害されてから約1年後の2012年、父の遺体はリビアのトリポリにあるカダフィ宮殿近くの巨大冷凍庫の中で、凍ったまま、完全に無傷の状態で見つかったのです。ある意味では、父の遺体の発見は私の家族に一つの区切りをもたらし、父を探し求めるという拷問にも等しい母の旅も終わりました。しかし、私にとって探索は終わったわけではなく、むしろ、形ある身体の探索から比喩的な探索へと変貌したのです。突き詰めれば、父を創り出した一方で父を殺めた国を理解すること、そして私自身をよりよく理解することを求めているのです。

この映画は、今日のリビア、内戦、そして人々と反体制派の失われた夢を反映しています。この映画の製作過程を通じて、父親という存在の重要性と父親を失うことが家族と社会にどういう影響を与えるのか、私は学んでいます。父と自分の国抜きで、自分のアイデンティティを私はどのように調整するのでしょうか。そして私の経験のうちどれだけが今日のリビアのジレンマ(特にリビア人のディアスポラ)全体を反映しているのでしょうか。私は対立するものの和解を模索します。具体的には、議論の余地のない英雄とされている父と、議論の余地のない化け物であるとされているカダフィ、この両者を共に「人間」として考えたいのです。

父のこれまでに語られていないストーリーを語ることによって、私はリビアの語られていないストーリーも語っています。父の人生とキャリアはリビアの政治と現代史に密接に関係しています。私個人の旅がリビアの現代史の歩みと共に進んでいるという構造なのです。父を知り、当時の政治情勢を知悉している方たちとのインタビューは、大きな文脈と背景を提供してくれます。リビアの総理大臣経験者、外務大臣経験者、そしてカダフィ政権下でやはり父親が失踪したピューリッツァー賞受賞作家、ヒシャーム・マタール(『帰還』)の出演が決まっています。ニュース映像を利用するほか、私たちのプライベートコレクションを活用してカダフィ、ホスニ・ムバラク元エジプト大統領、クリントン夫妻という権力者たちの未公開画像も活用します。

【シノプシス】
父親が拉致されたとき、この映画の監督を務めるジハン・キヒアはわずか6歳だった。カダフィ政権への最大の脅威と広く見なされていた父、マンスール・ラシッド・キヒアは、カダフィ政権に対する平和的反体制派運動の指導者で、リビアの将来的なリーダーというのが衆目の一致するところだった。外務大臣も務めた人権派弁護士としてキヒアはリビアに過剰なまでの忠誠心を持ち、彼は独裁者であるカダフィに「兄弟」として理を説こうとしたが、待っていたのは「失踪」という結末であった。

ジハンは、母親であるバハ・オマリー・キヒアが19年間にわたりフランスとアメリカを行き来して父親を探すのを見守ってきた。シリア系アメリカ人芸術家であったバハはジハンと彼女の兄弟たちに楽しみ溢れる子供時代を送らせながら、5か国(アメリカ、シリア、リビア、フランス、エジプト)の、相反する複雑で疑惑に満ちた政治的思惑の間を必死で立ち回った。バハは、彼女の持つ創造的本能と機知を組み合わせることにより、危険な政治ゲームで世界の大物たちと渡り合うという、思いがけない立場に立つこととなった。この危険に満ちた捜索によって彼女は夫の解放交渉のため、リビア砂漠の真ん中で真夜中にカダフィと対面するに至ったのであった。

ジハンの母親、家族、友人、および事件に関与した鍵となる人物のエピソードを積み重ねたこのドキュメンタリーは、真実を包み隠すことなく、時には矛盾を孕みながら提示する。ジハンは、記録映像、ファミリービデオ、調査研究映像、そして自身の視覚芸術作品を用い、自らは知ることがなかった父親の顔と父親を探し求める母親の冒険の全貌を明らかにしようとしている。観客は、ジハンの生々しくまるで夢のような探求の旅路に招かれるだろう。

彼女は、自分と家族の弱さ、親密さ、そして実存的な旅路をありのままにさらけ出すことで、政治を自分の外側の遠い事物としてではなく、各個人同士の人間関係に深く侵入してくる生々しい経験として描き出している。

ジハンは父親のこれまで語られていない物語だけでなく、リビアの語られていない歴史も語っている。自分の中にある沈黙という空洞からずっと逃れられなかったジハンは、このドキュメンタリー製作の過程で自らの内面をこじ開け、自身の夢から目覚め、そしてトラウマと和解しようとする。「失踪とは何か」、「正義と名誉とはどのようなものか」、「英雄はどのように作られるのか」、「一人の男の娘であるとは何を意味するのか」、こういった問いをジハンは自身に投げかける。

ジハンはこうした複雑な経験をドキュメンタリーを通して解き明かすことで、自分の家族の傷跡、ひいては人類の傷跡の下に眠るものを見つけ出すことを願っているのかもしれない。しかしこの作品において最も大切なことは、彼女が「人の苦しみが本物の幸福、やさしさ、感謝を生み出すのである」と確信し、それを観客に訴えかけようとしていることだ。

(ジハン・キヒアからのメッセージ、監督からのメッセージとシノプシス、すべて長瀬訳)

【関係年表】

マンスール・ラシッド・キヒア ジハン・キヒア ジャーバッラー・マタール ヒシャーム・マタール リビア全般
1931 ベンガジで誕生
1949 独立
1968 国連代表部赴任
1969 カダフィによるクーデター
1970 国連代表部赴任 ニューヨークで誕生
1972 外相就任
1973 外相退任 国連退職
1975 国連大使就任
1979 エジプトに一家で亡命
1980 辞職・米国に一家で亡命
1984 リビア人権協会設立
1986 リビア国民同盟設立、事務総長就任
1987 誕生
1990 カイロの自宅で拉致 父が拉致された時はロンドンで留学中、19歳
1993 12月10日、出張先のカイロで拉致 父が拉致された時、6歳
1996 アブサリム刑務所虐殺事件
2011 アラブの春カダフィ殺害
2012 9月トリポリにて遺体発見12月3日ベンガジにて国葬 リビア帰還
2017 障害者権利条約締約国会議で発言

(長瀬作成)

*ジハン・キヒア氏とテレジア・デゲナー氏の協力に感謝します。My sincere appreciations to Jihan Kikhia and Theresia Degener.
*このエッセイのために再度必要となった、『福祉労働』誌で言及したノーマン・アクトン氏の発言に関する資料(Duncan, B., 2000, “The International Year of Disabled People: An Interview with Norman Action”, International Rehabilitation Review, August 2000, volume 50, Issue 1, 1-12)を提供してくださった日本障害者リハビリテーション協会の松井亮輔氏、原田潔氏に感謝します。

★本研究はJISPS科研費「東アジアにおける障害者権利条約の実施と市民社会」(研究代表者:長瀬修、18K01981)及び「病者障害者運動史研究」(研究代表者:立岩真也、17H02614)の助成を受けたものです。

(長瀬修 立命館大学生存学研究センター教授)

2019年3月6日

「障害当事者と学校」第二回

冨田佳樹

「難病の診断-総合療育センター」

幼少期は福岡県北九州市で過ごしていた。病気を知るきっかけは幼稚園だった。当時の担任から、発達が遅れている可能性を遠回しに伝えられた。言葉のおうむ返しがみられる、ハサミがうまく使えないなど、手先の不器用さを挙げられ、夏休みを利用して最寄りの総合療育センター受診を勧められた。

総合療育センターとは、様々な障害を持った子供が医療、療育、リハビリテーションを受ける医療機関である。外来診療、手術、入院が利用できる病院としての機能がある。また、医療ケアの必要な幼児、成人が入所して生活を送る福祉施設の役割もある。治療、機能維持、育児など、さまざまな相談や支援を受けることができる施設である。

最初に小児科を受診した。問診で担当の医師から「発達の遅れは病気が原因の可能性もあるからね」「血縁者に歩けていたのに、途中から歩けなくなった人がいませんか」と言われた。母は「変なことを聞く先生だなぁ」と思ったそうだ。念のため血液検査を受けた。

結果は血液中のCPKの値が異常に高かった。CPK(クレアチンフォスフォキナーゼ)とは筋肉の代謝に欠かせない酵素である。筋肉細胞に異常があると血液の中にCPKが大量に流れ出るため、数値が非常に大きくなる。血液検査の内容を踏まえて、数週間後に筋生検を受けることになった。筋生検は体内の神経、筋肉の一部を切り取り、組織を詳しく分析する検査である。筋生検によって筋肉組織内のジストロフィン蛋白の欠損が確認できた。こうして私は進行性筋ジストロフィー(以後「筋ジス」と省略)と診断された。この疾患は遺伝子上の欠損が原因で発症する。血縁者に筋ジス患者がいる場合は血液検査のみで筋ジスと判断される。一方で、筋ジス患者が血縁者にいない場合、筋生検が診断の決め手となる。医師から血縁者に関する問診があったのは、このためである。

小児科の先生は、以前勤務していた病院で筋肉系の疾患を専門としていた。適切な検査と診断を受けたことで、比較的早い時期に病気を知ることができた。診断を受けてから、リハビリのために月に一回通院し、数か月に一度小児科と整形外科の診察を受けた。歩行訓練など軽い運動をすることが多かった。主治医から「心肺機能の維持、背骨の変形を防ぐために、なるべく立位、歩行を長い期間続けてください」と強く勧められた。また、「他の子供と比べないこと。時間がかかっても急かさず、自分でできることは自分でやらせること」をアドバイスされた。筋ジストロフィーは進行するにつれ、背骨の変形(側弯)、心肺機能の低下、歩行の困難の症状が現れる。機能低下を少しでも遅らせる対処療法の一環として、立位・歩行の継続が推奨されていた。

難病との付き合いはここから始まった。運動機能の低下と、進学の難しさを目の当たりにするのは、小学生の高学年になってからだった。

都市のアクセシビリティ01:シンガポール

丹羽太一

エッセイ:アーカイブ