僕の家族は父と母、3つ離れた兄の4人家族だ。父は金属工場で働いていて、母はホテルでベッドメイキングのパートをしている。両親は子煩悩で、夏になると、月に1回、大磯ロングビーチへ連れて行ってくれて、毎週日曜日になるとプールに泳ぎに行かせてくれた。
小学生の頃、近所の友達の間でピンポンダッシュが流行った。ピンポンダッシュとは、知らない人の家の玄関のベルを鳴らした後、急いでその場を去り、物陰から家の人が出てくるのを見物するといういたずらだ。誰もいない玄関で家主が不思議そうな顔をしながらあたりを見回すのを眺めるのが面白かった。
放課後、友達と住宅街を歩きながら、ターゲットの家を定めると、玄関のベルを押して、大急ぎで逃げた。しかし、いつもと違うのは、家主のおじさんが顔を真っ赤にして僕たちを追いかけてきたのだ。複数いた友達は蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、足が遅い僕だけがおじさんに首根っこを掴まれた。
「お前ら、なにやってんだ!」
おじさんが恐ろしい顔で僕を睨む。
「僕だけじゃない、友達もやってるよ」
怯えた僕は、おじさんにそう訴えた。
「友達とかどうでもいい! お前もやったことには変わりない! お前の名前と家を教えろ⁉」
僕はこわごわと自分の名前と住所を言った。おじさんは僕の手を強く握ったまま、僕の家まで来て、玄関から出てきた母にいきさつを話した。
「本当に申し訳ありません。こんなことは2度としないようにきつく叱っておきます」
母が深々と頭を下げた。おじさんが玄関のドアを閉めて帰ったとたん、母は烈火のごとく怒り出す。そして、僕を押し入れの中に閉じ込めた。
「この中で反省しなさい! お母さんがいいって言うまで出ちゃダメよ!」
僕は真っ暗闇の押し入れの中で膝を抱えて座っていたが、すぐに飽きてきて、ふすまを開けると、母が僕を無言で押し入れに押し込める。「ここから出してよ」と母に縋るが、無視された。絶対に出してくれないと分かると、僕は背中を丸めて芋虫のように固くなった。数時間すると、母が食事を持ってきてくれたが、押し入れの中で食べるように命じられた。
「お母さん、おしっこいきたい」
そう頼めば、トイレまで連れて行ってくれるが、帰ってくると、また押し入れに閉じ込められる。
何時間も押し入れにいると、朝も夜も分からなくなり、おかしくなってしまいそうだ。
「お父さん、お兄ちゃん、お腹減ったよ」
そうしたら、父と兄がふすまを開けて食事を手渡してくれた。
結局、僕は3日間、押し入れの中で過ごした。このお仕置きは一度きりだったが、とても辛かった。
僕と違って兄は勉強もスポーツもできた。兄の出来がいいせいか、僕は両親からあまり褒められたことがない。褒めてくれるのは半年に1回あるかないかだ。でも、小学校の時にドッチボール大会で優勝した時は「よくやった」と父が褒めてくれた。両親が何も褒めてくれなくて、僕が落ち込んでいる時は、代わりに兄が慰めてくれた。
1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。その後、生活保護を受給し、その経験を『この地獄を生きるのだ』(イースト・プレス2017)にて出版。各メディアで話題になる。
その後の作品には『生きながら十代に葬られ』(イースト・プレス2019)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社2019)、『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房2020)、『私がフェミニズムを知らなかった頃』(晶文社2021)『私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに』(幻冬舎2021)がある。
→エッセイ 地獄とのつきあい方
〈エッセイ 著者リスト〉
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