REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

エッセイ

2021年10月20日

バタバタ公園バタフライ 第8回

小川てつオ

「森の賢者」は、いない

漠然とながら、ホームレスと言われる人の中に、都会の森に身を潜めた哲学者というべき型があるのではないか、という思いがあった。深い思索を極めた聖なる世捨て人たる老賢者。しかし、ぼくが思い描いたような人には、ついに出会わなかったと言っていい。
それと重なりつつ、すべてが重なるわけでもないこととしては、本を読むような人は野宿者には、あまりいないという事実がある。特に、人文書を読むような人は極めて少ない。
ぼくは本の世界に親しんできたし、今も親しんでいる。また、野宿者になるまでは、周囲にいる人も、そんな人が多かった。しかし、そういうタイプの人間というのは、世の中において少数であり、まして野宿者の世界では、ほぼ皆無であるということを永らく意識していなかった。
つまり、教養主義的というか教養指向の人がいない。エノアールで読書会を始めるようになって、それが明白になった。そこにはアートが好きだったり、日頃から哲学の本なども読んでいる人たちがきている。ぼくは楽しいし触発される。しかし、そこで交わされる、それなりに知的な会話というのは、参加していた野宿の人には、おおよそ火星人の会話みたいだったかもしれない。そこでの単語、常識、比喩といったものは、なかなか通じない。そのギャップから生まれるものもあったけれど、やはり基本的に分からない話は退屈なはずだ。結局のところ、野宿者が参加することはなくなった。
一言でいえば、そのような教養はなくても、ここでは生きていけるのである。
野宿者の世界においては以下のごとくである。
全く読み書きできない非識字の人が、ごく少数いる。スーパーで一緒に買い物している人が、手当たり次第、カゴに品物を放り込んでいくので、びっくりしたことがあった。見慣れた品物であっても品名や値札は、それとなく見るものだが、それがない。あとで、字が読めないのだと他の人から教えられた。ちなみにスーパーで本人は、かなり得意そうだった。
ひらがなと簡単な漢字は読めるが、書くのは難しいという人はけっこういる。それらの人は、役所的な文書を作る時には、代筆してもらっていることが多い。野宿の世界にいる限り、そんなに困ることはない。
読み書きできても、活字を読まない人は多い。活字は読んでも、スポーツ新聞だけという人も同じくらい。五輪反対運動をぼくがしていることを知っている人は、スポーツ新聞の情報で、いろいろと教えてくれた。
ここからは、ぐっと少なくなるが、時代物とか大衆小説を読む人はいる。週刊誌(新潮とか文春など)を読む層とだいたい重なっている気がする。
これで活字の世界は、ほぼ打ち止めである。
なお、若い野宿者は状況が違う。ネット依存の人も多い。そういう流れで、ライトノベルを読む人はいる。

支援者には高学歴な人も多く、それらの人は教養指向が身についている。野宿者と支援者の間には、そのような溝もある。そのような溝の架橋として、または象徴として、支援団体がつくる「仲間」(野宿者)向けの新聞(通信)がある。内容は、行政交渉などの告知や報告、野宿に関する情報などである。支援者たちが、炊き出し時や野宿者の寝場所に出向いて配布している。教養人である支援者が文字で伝えようと考えるのは自然である。しかし、機関誌や左翼の雑誌に書く時のような文章では、ほとんど野宿者は読まない/読めない。そのため、文章は平易に、漢字には送り仮名を振る。その結果として、それらの新聞(通信)がどれほど読まれるようになるのか分からないけど、全く読まれないというわけでもない。唯一の読み物という人もいそうだ。
しかし、正しい情報をいくら書いても口コミには負ける。野宿者は噂社会で生きているからである。ぼくは、そういう通信に記事を書いているし、この公園だけで配る新聞もテント村の人とともに作ってきたけど、そういう溝は常に感じている。
そもそも本(文字)を読むというのはどういうことなのだろうか。高校生の頃、周囲から隔絶して本を読むこと、本の世界に触れることは、自分にとって大いなる慰めで数少ない救いでもあった。切実さの度合いや動機は様々であったとしても、見聞を広め、自分の考えを内省する時間を持つということだろう。そして、それは基本的には一人で行うことである。
一方で、話す世界には相手が必要だ。会話というのは、続けることが第一義で内容は二の次である。そのため、会話というのは人生における時間の耐えがたさを緩和するもので(逆にいえば、人生の耐えがたさを浮き彫りにするもので)、人生の意味を深めるものではない、たいてい。いやいや、そうでない会話もある。どっちにしても、会話というのは、生きている場を維持するためのものである。野宿者にとって、会話はとても大切だ。
人との関わりをあまり持たないようにしている野宿者の一部が、活字が好きな人たちである。
ぼくのテントには本棚がある。そこには、わりと人文系の本が並んでいる。でも、たいして読んでいるわけではない。お守り?。なんか嫌になって、処分したくなってきた。それでも、捨てられない本は、それなりの数あるはず。
そして、このブログの文章だが、やはり読んでいる人は教養のある人だろう。それは特殊な世界なのだということを苦い味とともに考えることも必要だと思う。その苦さは、座りの悪い自分の苦さでもある。

残念ながら、野宿者に森の賢者はいない。それでも、生き方において、地金が光るような人に出会ってきた。それは、その人に会わなければ、存在することが想像しにくい存在である。そのエッセンスを言葉で表現することは難しい。それでも、教養主義とは異なるやり方で表してみたいという思いがぼくにはある。

小川てつオ:プロフィール

1970年生まれ。幼いころは多摩川の川原にあるセメント工場の寮に住んでいて、敷地に土管がたくさん転がっていて、多摩川は泡をたてて流れていた。2003年から都内公園のテント村に住んでいる。
ホームレス文化 https://yukuri.exblog.jp

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