REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から
 前川直哉

2018年12月5日

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から

第 1 回

シールとジェンダー

 私の研究テーマは「ジェンダー/セクシュアリティの社会史」です。昨年著した『〈男性同性愛者〉の社会史』という本では、同性愛というセクシュアリティのテーマと、男性の経済的・社会的な特権というジェンダーのテーマとを交差させながら、歴史を描くことを意識しました。
 私自身も男性同性愛の当事者なのですが、ジェンダー/セクシュアリティ研究に関心を持った直接のきっかけは、「同性愛者である」ことから来る自分自身の被差別体験ではありません。むしろ自分が男性として「得をしている側」であること、それまで無自覚に特権を得ていた(そして、現在も得ている)側であると気づいたことが、大きな転機でした。一度気づくと、自分が履かせてもらっている下駄の大きさが気になって仕方がありません。もし私が女性だったら、希望通りの進路に進めていただろうか。同性愛を研究し、いくつかの論文や著書を世に出すことができただろうか。様々な疑念が頭に浮かびます。
 ジェンダー研究の醍醐味の一つは、自分の中の嫌な部分、自分であまり好きでない部分について「そうか、これもジェンダーの問題だったのか!」と気づけることです。今秋に翻訳が出て話題となったレベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』(左右社)も、その典型といえるでしょう。この本では、女性に対して上から目線で偉そうに説明したがる(たいして詳しくないことも、時に相手の方が詳しいことでも)という、少なくない男性に見られる特徴が鮮やかに描き出されました。そしてこうしたジェンダーの力学によって女性が沈黙を強いられ、苛酷な暴力と結びつく場合があることも。マンスプレイニング(man+explain)という流行語を生んだ彼女のこのエッセイは、多くの女性の共感を呼ぶこととなり、そして私は「うぅ、思い当たる……気をつけよう……」と冷や汗をかきながらページをめくりました。同様の思いをされた男性もおられるのではないでしょうか。
 「あやふやな知識しかないのに偉そうに説明したがる男性、内心間違ってるなと思っていても黙って聞く女性」という構図は「マウンティングする男性、コミュニケーションする女性」と言い換えることもできるかもしれません。競争社会の中で自分の優位性を示そうと、懸命にマウンティング行為を試みる男性たち。自分の意志にかかわらずケア役割を担うことを強いられ、意に沿わない言動にもニコニコと黙ってうなずくことを良しとされる(ちょっとでも歯向かうと「可愛げがない」と罵られる)女性たち。「男性は外で仕事、女性は内で家事・育児」という近代的な性別役割分業観を背景とするこうしたジェンダー規範に、生きづらさ、息苦しさを感じている人は大勢おられることでしょう。そして実はこの種のジェンダーの水路付けは、子ども時代にはもう始まっているのです。
 私(40代)とほぼ同世代の、気の置けないジェンダー研究者の集まりで雑談していた時のことです。話題が子ども時代の愛読雑誌に及んだ時、何人かの女性研究者たちが、少女マンガ雑誌の付録のシールの思い出話で盛り上がりました。「雑誌の付録シール、友達との交換日記に貼ったりしたよね」「そうそう、それで返事に『このシールかわいい!』って書いたりね」。会話を聞いていた私は衝撃を受けました。私たち当時の男子にとってシールといえば「ビックリマンシール」。チョコ菓子のおまけについているそのシールは貼るものではなく、コレクションし、レアなシールを友達に自慢するための道具でした。シールを通じて女子がコミュニケーションを学んでいる間に、私たち男子はマウンティングを学んでいたのです。「バトル中心の少年マンガ、恋愛もの中心の少女マンガ」がジェンダー規範の形成に寄与している点はこれまでもたくさんの研究で指摘されてきましたが、まさかおまけのシールまでとは……と慄然とする思いでした。

 このエッセイではこれから、身近な話題を取り上げながら、ジェンダーやセクシュアリティの視点で考えてみたいと思います。なるべく「上から目線の、知ったかぶり説教」にならないよう気をつけつつ……。

2019年1月23日

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から

第 2 回

「トランスジェンダーとともに」あるために、男性がなすべきこと

 いま、ツイッター上では「#トランスジェンダーとともに」「#ともにあるためのフェミニズム」というハッシュタグを付けた投稿が、静かな広がりを見せています。
 きっかけは同じツイッター上に現れたトランスフォビア(トランス嫌悪)言説でした。経緯については、堀あきこさんが「トランスジェンダーとフェミニズム ツイッターの惨状に対して研究者ができること」という記事で丁寧にまとめて下さっています。私たちジェンダー/セクシュアリティ研究者にとってショックだったのは、トイレや更衣室・銭湯などの話題になったとき、トランス女性を排除しようとする言葉が「フェミニズム」の語と一緒に語られたことでした。
 飯野由里子さんは「共に在るためのフェミニズム」全文をネットで緊急公開され、フェミニズムにとって二元論的思考への批判が大きなテーマであったことを述べた上で、「セックス/ジェンダーの二元論及び性別二元論が現実の世界の中で生み出している具体的な被害に目を向け、特定の人びとの生存を困難にしている現状の改善に参加することは、フェミニズムだからこそ、またフェミニズムであるがゆえに、挑戦しなければならない課題だ」と指摘します。本来であればトランスジェンダーと「ともに」あるはずのフェミニズムが、トランスジェンダーを排除する分離主義に陥ってはならないと、警鐘を鳴らしているのです。私も、堀さんや飯野さんをはじめ「#トランスジェンダーとともに」のハッシュタグのもとに集まり声を上げる、多くの研究者と同じ思いを共有しています。

 私にとって許せないのは、自分がゲイ男性だと公言する元参議院議員の松浦大悟氏が、トランス女性の更衣室等利用に恐怖を感じるシス女性の声を悪用し、トランスジェンダーへの排除や差別を煽るような発言をしていることです。遠藤まめたさんが「松浦大悟さんの「女湯に男性器のある人を入れないのは差別」論への疑問:野党批判のためにトランスジェンダーへの恐怖を煽るのか?」という記事で指摘する通り、松浦氏の主張は事実誤認に基づくものです。何より私が憤ったのは、松浦氏が「トランス女性」と「トランス女性を排除しようとするフェミニスト」という二項対立を仮構し分離主義を煽りつつ、しかも自らの姿を消す(どちらに批判が来ても自分に火の粉が及ばないようにする)という手法をとっていることです。
 そもそも、なぜトランス女性をトイレや更衣室から排除しようとする声が、一部の女性たちから上がったのでしょうか。もとをただせば性暴力(盗撮や痴漢などもふくむ)について、男性が加害者となり、女性が被害者となるケースが圧倒的に多いという日本社会の現状に行きつきます。今回のケースにおいて恐怖の対象となり、非難されているのはトランス女性ではありません。男性による女性への性暴力が無数に存在し、放置され、世の多くの男性がそれらを大した問題だと感じていないという状況こそが恐怖の対象であり、非難されているのです。
 トランス女性の話題が出てくるずっと以前から、たくさんの女性たちは男性からの性暴力を怖れ、公衆トイレや更衣室、銭湯や電車・バスなど、公共空間の利用を避けざるを得ない状況に追い込まれていました。こうした女性たちの痛切な声に耳を傾けず、女性専用車両に対して「男性差別だ」と的外れな批判を十年一日のごとく繰り返し、ポルノサイトに「痴漢」「盗撮」「レイプ」などのジャンルがあることに違和感を持たず、男性による女性への夥しい性暴力を放置・黙認してきた男性たちへの怒りが、トランス女性への恐怖心や排除といういびつな形で表明されているのです。
 つまり今回の件は「フェミニスト」や「トランス女性」の問題ではなく、男性に突き付けられた問題です。女性への性暴力をなくす努力を十分にしてこなかった、私たち男性の怠慢こそが問われています。この点について語らず、シス男性であり女性更衣室に入らない自分はまるで「第三者」「公平なレフェリー」であるかのようにふるまう松浦氏の言動が、私の目にはひどく不誠実なものに映りました。

 では松浦氏と同じシス男性のゲイである私にできること、すべきことは何でしょうか。一つは「LGBT」の言葉にこめられた、性的マイノリティの連帯を強く訴えることでしょう。私はこれまで、いくつかの理由から「LGBT」という言葉の使用はなるべく避けてきた一人ですが、今はこの言葉に込められた「連帯」を大切にしたいと考えています。
 ゲイ男性は「LGBT」や「性的マイノリティの連帯」などの言葉によって得られた果実のみを享受しつつ、実際には他の性的マイノリティの置かれている状況について無関心なのではないか、という批判は少なくありません。また森山至貴さんが『LGBTを読みとく』(ちくま新書)で強調する通り、かつてゲイ解放運動は同性愛の脱病理化を訴える過程で、トランスセクシュアルやトランスヴェスタイトの人びとを差別し、その抑圧に手を貸してしまった歴史を有しています。
 こうした歴史を反省し、性的マイノリティにおけるゲイ男性の一種の特権性を自覚しながら、性自認・性的指向にかかわらず、全ての人びとが排除されず、自分らしく生きられる社会をつくるために声を上げる。これまで公衆トイレや更衣室の問題で悩み、苦しんできたトランスジェンダーが、まさにそのトイレや更衣室などの話題を契機に、排除されようとしているという事態の重大さに対し、看過できないとの思いを抱いているゲイ男性は、きっとたくさんいるはずです。今こそ私たちは、暴力的な排除の言葉を自分自身に投げかけられた言葉として受け止め、それに抗い、「トランスジェンダーとともに」あることを強く宣言するときなのです。

 そしてもう一つ必要不可欠なのは、あらゆる性暴力を許さない社会を作り上げるための不断の努力です。先述の通り、現在の日本において圧倒的に多くの性暴力は男性を加害者として、女性を被害者として起こっています。こうした現状を直視し、全ての人の性的自由は守られなければならないこと、それを脅かす性暴力やセクハラは決して許されないことを、男性である私たちが強く主張しなくてはなりません。なぜ自分は性暴力の被害にあうことに過度に怯えず日々を過ごせているのか、なぜ盗撮カメラの存在をほとんど心配せずに公衆トイレや更衣室を利用できているのか、なぜネット上に突然現れるポルノ広告を何も見なかったかのようにスルーできるのか、トランスジェンダーのイシューについて他人事のようにふるまえるのは一体なぜなのか。これらの問いの背景にある男性の特権性を見据え、ジェンダーの非対称な構造をなくす努力をし、あらゆる性暴力を許さないと男性が決意し、声を上げることがきわめて重要なのです。
 私はこれまでジェンダーを研究する男性として、自分が踏まれている足よりも「自分が踏んでいる足」について、可能な限り考えるようにしてきたつもりです。性暴力についても同様で、ジェンダー論の授業などでは(男性という優位な立場にある自分がジェンダー論の授業を担当することへの居心地の悪さを常に感じながらも)「男性が加害者にならないこと」に焦点をあてて説明してきました。それでも「何を言おうが、お前が男性である限り信用できない」と批判されることもあります。そんなとき私は、そうだろうな、と感じます。私にできることは、次の世代の人たちがこうしたちょっと悲しい対話をしなくて済むよう、努力を積み重ねることだけです。
 私はジェンダー研究者として、性的マイノリティ当事者として、フェミニズムから多くを学びました。フェミニズムは当事者である女性の権利獲得と同時に、性についての社会的公正を求める運動です。性的マイノリティの権利獲得運動もここから多くのことを学んできており、私もそうした先人たちの並々ならぬ努力によって拓かれた地平に存在しています。
 だから私も飯野さんの言葉の通り、フェミニズムこそがトランスジェンダーを支える大切な存在だと信じています。そもそものほころびの原因は男性にあるのですから、両者の結び直しのために男性である私たちがすべきことはたくさんあるはず。その最初の一歩の掛け声こそが「#トランスジェンダーとともに」なのです。

2019年4月24日

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から

第 3 回

大学教員とジェンダー

 先日行われた東京大学入学式での、上野千鶴子さんの祝辞が東大公式サイトで全文公開されています。日本社会において女性差別が未だ存在していること、東京大学もその例外ではないことを指摘した上で、しかし現状は完璧な社会ではないが、これまで多くの人びとの力、学問の力により、不完全ながらも社会は少しずつ改善されてきた、次はあなたたちが学び、社会をより良くしていく番だ、とエールを送っています。大学で学ぶことの意義を真摯に伝える、入学式に相応しい素晴らしいメッセージだと感じました。
 上野さんの祝辞でも触れられていますが、東京大学の教員に占める女性の比率は低く、准教授で11.6%、教授職で7.8%に過ぎません。ことは東大に限りません。残念ながら日本の多くの大学において、教員は圧倒的に男性が多いのが実情です。
 なぜ女性の大学教員が少ないのか。結婚・出産・育児などとの両立の難しさ(なぜこれらが男性研究者にとってはあまりハンディとならず、女性研究者のキャリアにおいては障壁となるのか、がそもそもの問題です)や、大学教員の世界に残る「男性社会」の排他性など、様々な説明が成り立ちます。それらに加え、ジェンダー研究者の澁谷知美さんから、とても興味深い記事を紹介して頂きました。米国・ノースカロライナ州立大学の研究者が行った、講師の性別が分からないオンライン講義を用いた実験を紹介する記事です。この実験は、男性講師によるオンライン授業について、学生に「講師は男性だ」と伝えた場合、「講師は女性だ」と伝えた場合、そして女性講師によるオンライン授業について「講師は男性だ」と伝えた場合、「講師は女性だ」と伝えた場合の、それぞれの学生からの授業評価を比較したものです。
 その結果、講師の実際の性別には関係なく、「講師は男性だ」と伝えられたグループの方が、「講師は女性だ」と伝えられたグループよりも、高い評価を講師に与えることが分かりました。全く同じ人の、同じ授業を受けていても、「講師は男性だ」と学生が考えるだけで授業評価が上がるのだから驚きです。「教授が学生から高い評価を得るための最良の方法とは?――男性であることだ」という刺激的な記事タイトルも、あながち間違いとは言い切れず、思わず唸ってしまいます。記事でも指摘されている通り、多くの学生もまた(一般の人びと同様に)権威のある女性について、ある種の偏見を抱いている可能性があります(この実験をもとに書かれた論文については、こちらの記事も参考にして下さい)。
 この調査が示す知見は、男性の大学教員である私自身の経験や見聞とも合致します。私の親しい女性教員の中には、授業評価アンケートの自由記述欄や授業中のコメントカードで、学生から暴力的な酷い言葉を書かれた経験がある人も少なくありません。一方、男性である私の授業では、授業内容への疑問や反論を呈されることはあっても(それ自体は歓迎すべきことです)、非理性的な罵詈雑言を投げかけられたことはこれまでありませんでした。私の授業の能力が、特段優れているわけではありません。上の記事を読んだ後では、やはり「女性に学問を教わること」自体に、何らかの反感を抱く学生がごく少数ながらいるのでは、と疑ってしまいます。学生からの授業評価アンケート結果がどのくらい教員の採用や昇進につながるかは大学によってバラバラですが、たとえ大学からの人事考課に直結しない場合であっても、学生から理不尽で暴力的なコメントが来れば授業のモチベーションに影響するでしょうし、場合によっては教員が授業をすることに恐怖心を抱いてしまう事態にもなりかねません。
 この問題は、私が担当する「ジェンダー論」の授業ではより一層、複雑になります。私が研究し、大学で教えているジェンダー論とは、性差別について考え、少しでもそれをなくし、より公正な社会を目指そうとする学問分野です。その授業では当然、日本において男性が女性に比べ、進学や就労など様々な場面において恵まれた環境にあることや、多くの性暴力において男性が加害者、女性が被害者となっている現状などについて、各種の実証データをもとに説明することになります。
 「女性は性差別にあっている」。同じことを、同じエビデンスを用いて説明していても、教員が女性か男性かで、学生の受け取り方が変わる可能性があります。女性が性差別を告発すると、例えそれが大学の授業という場であっても、「区別と差別を混同している」「自説に都合の良いデータだけを用いている」「男性もつらいのに、女性の話ばかり」「フェミニストが騒いでいるだけ」などと感情的な反発を受けることが少なくありません。社会の公正を訴える声が、単なる「わがまま」や「私怨」であるかのように矮小化されてしまうのです。
 一方、男性教員である私が同じ内容を語ると、どうなるでしょうか。「私は差別の加害者側にいるが、より公正な社会を作るために、この差別と闘っている。私は男性であるという特権を投げ捨ててでも、ジェンダー論を研究し、授業しているのだ」。社会正義のために己の利益を顧みない、素晴らしいヒーローのように振舞うことができます。実際の私は、ジェンダー特権を享受しているから研究を続けられているし、大学で教えられているのにも関わらず、です。そして女性教員の授業が不当に低く評価され、男性教員である私の「ジェンダー論」が不当に高く見積もられること自体、これまで私たちが行ってきたジェンダーに関する研究や活動が、まだまだ不十分なものであったことを示しています。
 ジェンダー論の授業に限らず、そして大学教員に限らず、性別によって能力や業績が正当に評価されない社会は、間違っています。冒頭の上野さんの祝辞に対しては「よくぞ言ってくれた」という肯定的な意見のみではなく、ネット上を中心に批判や否定的な反応も数多く寄せられました。もちろん傾聴に値する批判もありましたが、中には感情に流されたような暴論も見られ、私は「果たして同じ祝辞を男性が述べていたら、ここまで批判の声が上がっただろうか」と考え込んでしまいました。
 社会に残る女性差別の影響を受け、ジェンダーに関わる何らかの偏見を抱いている学生がいるとしたら、ジェンダー論の担当教員や女性教員のみではなく、全ての教員がそうした偏見を正す努力を行わねばなりません。これまで男性研究者とは比較にならないほどの逆風の中で、多くの研究と実践を積み重ねてきた、たくさんの女性研究者たち。その功績に最大限の敬意を払い、より公正な社会を実現するために、私たち男性にできること、すべきことは何か。過去の数多くの闘いの中で紡がれてきた言葉、そして2019年の東大入学式をふくめ、今なお紡がれている言葉に耳を傾けながら、考え続けています。

エッセイのご感想がありましたらフォームより送信ください。

2021年3月1日

東北地方の性的マイノリティ団体 活動調査報告書

REDDYの活動

『東北地方の性的マイノリティ団体 活動調査報告書』を刊行しました。

東北地方の性的マイノリティ団体活動報告書表紙

REDDY性的マイノリティ班の前川直哉(福島大学特任准教授)が、和光大学の杉浦郁子教授と行った共同研究「東北地方の性的マイノリティ団体活動調査」の報告書が完成しました。報告書には東北地方の性的マイノリティ団体に関わる23名(19団体)の方へのインタビューを収録しており、東北の性的マイノリティ団体に関する本格的な学術調査としては初めてのものとなります。
REDDYサイトでは、ご本人の掲載許可を頂いたインタビューをPDFで公開いたします。

東北地方の性的マイノリティ団体 活動調査報告書

このエッセイに関連する法律など