REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

障害と社会
 長瀬修

2020年2月5日

障害と社会

武漢―障害学国際セミナー、桜、水餃子

武汉-东亚残障论坛,樱花,水饺 *中文
Wuhan-East Asia Disability Studies Forum, Sakura (Cherry Blossoms), Gyoza (Dumplings) *English (Google-based translation)

 武漢と聞くと、コロナウィルスによる新型肺炎が連想されてしまうだろう。その武漢で、障害学国際セミナー2019を昨年10月中旬に開催できたのは本当に幸いだった。
 障害学国際セミナー(East Asia Disability Studies Forum)は2010年にソウルで開催されて以来、毎年、持ち回りで開催されている東アジアの障害学の議論と交流の場となっている。私が所属する立命館大学生存学研究所は当初から主催組織を担っており、韓国と日本の枠組みで開始したが、その後、中国と台湾も加わっている。その拡大には、REDDY(多様性の経済学)の前身のREASE(経済と社会的排除の研究)による公開講座研究会を通じて形成された東アジアのネットワークが大きく貢献したことを忘れることはできない。
 武漢での障害学国際セミナーは「全員のためのインクルーシブな社会」をテーマとし、全体では10回目、そして中国では2015年の北京に続いて2回目の開催となった。武漢は中国の中央部に位置し、チベット高原から東シナ海まで流れるアジア最長、世界で3番目の長さの長江に面し、高層ビルが林立する人口1000万を超す巨大都市である。今回の訪問でも、壮麗な夜景が印象的だった。
 近代史では、中華民国建国のきっかけとなった1911年の蜂起、そして日本の武漢作戦で知られている。日本軍は中華民国蒋介石政権の臨時首都となった武漢を1938年に攻略、占領したのである。
 日本軍に従い、『武漢作戦』を著した石川達三は「戦はやがて終わり、兵はやがて帰還するであろう。そして国民はそれまでに迎えたほどに多くの傷兵を迎えなければならない。彼ら傷痍軍人のうえに生涯の平和と幸福とが甦ってくる日まで、戦捷の完全な喜びは保留さるべきものであった」と締めくくっている。武漢作戦の前の徐州作戦で失明した高名な盲人そして障害者リーダーである松井新二郎(吉川英治文化賞受賞)のことがまさに心に浮かぶ。
 武漢には桜の名所がある。戦時中に日本軍に接収された武漢大学に、負傷した日本兵を慰問するために桜が植えられた。そして、現在は多くの市民が花見のために武漢大学に足を運んでいる。
 私が武漢を初めて訪問したのは、2013年8月だった。中国の障害者組織や市民社会組織が開催した、インクルーシブ教育・就労に関する会議と、知的障害者を含む若手障害者の研修イベントに招待されたのだった。現政権の発足から間もないこともあり、まだ自由があった時代だった。会議では成果として「武漢宣言」も出された。現在では、こうしたことは無理となってしまい、若手障害者の研修の機会も閉ざされてしまっていることが本当に悲しい。
 その武漢訪問はちょうど、尖閣諸島の問題で日中関係が非常に悪く、反日デモが中国全土であった2012年の翌年だったため、多少の緊張感もあった。しかし、実際に訪問してみると、中国側の参加者からはとても歓迎された。ボランティアスタッフの学生たちには、一緒に写真に入ってほしいと何回も頼まれたのは、うれしい思い出である。
 会議の合間には、ホスト役の武漢大学公益法律発展センターのスタッフが、李白の詩にもうたわれた有名な黄鶴楼を案内してくださった。見晴らしの良い黄鶴楼で、「自宅が近くなので、お昼をご一緒にどうぞ」と、私ともう一人の日本からの参加者に声をかけてくださった。恐縮したが折角なので、二人してお招きにあずかることにした。
 彼女の家に着くと、リラックスしていた父親は娘が突然、外国の客を連れてきたので驚いていた。しかし、事情を聞いて、すぐに私たちの昼食に水餃子を作ると張り切り、材料の買い物に武漢名物の猛暑の中、わざわざ外出し、娘と二人で水餃子を作って下さった。
 食事をしながら私は日中戦争について尋ねずにはいられなかった。私の問いに、親戚が命を落としたと父親は語った。手作りの水餃子の味が一層、身に沁みた。帰りには水墨画をお土産に持たせてくれるなど、本当に歓待された。その歓待は重く、そして一層有難く感じられた。
 新型肺炎で武漢が一躍注目されて以来、そして特に1月下旬に封鎖されてしまってからは、武漢でお世話になった人たちのことが本当に気にかかる。障害学国際セミナーもその一例だが、国境を越えて同じテーマに取り組むことは、特に東アジアのように、植民地支配や冷戦を含む戦争や他の政治的、歴史的要因によって分断が深刻な地域においては、大きな意味を持っていることを痛感する。<〇〇人としてではなく、一人ひとりの顔を思い起こすことができる関係>が持つ意味をかみしめている。
 今年の6月には、私たちの障害学国際セミナーのパートナーである武漢大学の張万洪教授を京都にお招きし、集中講義をしていただく。そして9月26日、27日には障害学国際セミナー2020を立命館大学生存学研究所がホストとして、京都の朱雀キャンパスで開催する。今回のテーマは「障害者の地域での自立生活」(障害者権利条約第19条)であり、シンガポールや香港からの参加も検討しているところだ。
 そのころには、新型肺炎の蔓延も終息していることを心から願う。そして、武漢からの参加も心待ちにしている。私自身、また武漢を訪問する機会が楽しみだ。そう、まだ見る機会を得ない、美しいという武漢の桜を愛でたいものだ。

“張万洪教授"
2019年1月に来日、日光を訪問した際の
武漢大学の張万洪さん©長瀬修

“Sakura
ルーマニアの Marina Madalina Muscan さんが本稿を読んで2020年3月17日に寄せてくださった絵(デジタルペインティング)です。
「桜の花と餃子」© Marina Madalina Muscan
なお、相模原障害者殺傷事件の際に寄せてくださった絵と詩、そしてご自身の写真はこちらでご覧ください。
(敬称略)

https://mp.weixin.qq.com/s/aExaKCUwoK_hD_FDBJcXiw
中国でのインクルージョン促進に取り組む融易咨询(Easy Inclusion)という市民社会組織が紹介してくださっています。

2019年3月7日

障害と社会

喪失―殺害された国際障害者年の父(マンスール・ラシッド・キヒア)の娘

こども時代に大切な親を失ってしまうという経験は何をもたらすのだろうか。その親が障害者の権利そして人権全般の取り組みで重要な役割を果たした人の場合はどうだろうか。リビアの外務大臣や国連大使を務め、のちに政府の人権侵害に抗議して辞職し、亡命中のフランスから出張先のエジプトで拉致され、母国で殺害されたマンスール・ラシッド・キヒアの娘、ジハン・キヒアは父親に最後に会った時、6歳だった。
“Jihan
「ジハン・キヒア」©Puxan BC

障害者の権利を考えるうえで重要な1981年の国際障害者年を提案したマンスール・ラシッド・キヒア(以下、キヒア)とその悲劇的な人生を知ったのは、障害者権利条約交渉の初期に、障害者の権利の国際的な起源を調査していた時だった。心に突き刺さった。その調査をもとに、2004年に下記のように『福祉労働』誌に記した。同誌の了承を得て、ここに再掲する。


「殺害された<国際障害者年の父>――マンスール・ラシッド・キヒア」
 前回の本誌の「現場からのレポート」で報告させていただいたように、国連では、障害者の権利条約の策定作業が着実に進んでいる。権利条約に関する第一回特別委員会でベンクト・リンクビスト特別報告者(当時)が「障害者の条約は国際障害者年からの取り組みの論理的な着地点である」と述べているように、現在の国際的な障害問題に関する努力は1981年の国際障害者年に多くを負っている。
 この国際障害者年を国連が宣言、実施する過程で大きな役割を果たした一人のリビア人を紹介したい。それは、国際障害者年の着想を得て、1976年の国連総会での提案を実際に行ったリビアの人権活動家、マンスール・ラシッド・キヒア(Mansur Rashid Kikhia)である。72年に外務大臣を務め、76年当時にはリビアの国連大使だったキヒアこそが、国際障害者年というイニシャティブを取った人物だった。〈国際障害者年の父〉という呼び方ができるとすれば、キヒアが最もふさわしい。
 しかし、現在の条約策定過程の起源に関する研究の一環として、なぜリビア提案かということで調査を行った結果、心痛む事実が明らかになった。
 1976年の国連経済社会理事会で国際リハビリテーション協会(RI)のノーマン・アクトン事務総長が、障害者問題に関する発言を行い、その発言を聞いたキヒアがイニシャティブを取ってアクトン事務総長にアプローチし、国際障害者年の提案を行ったという経緯がある。リビア国内で視覚障害に関する組織との交流があったキヒアによって、国連による国際障害者年を宣言しようという提案は、「思いつかれ、提出され、推進された」。
 1981年を国際障害者年と宣言した76年の国連総会以後、国際障害者年に関するイニシャティブは提唱国のリビア政府が握り、国際障害者年に関する決議の提案もリビアが中心となって行われた。そしてキヒア大使自身は、79年3月の第1回国際障害者年諮問委員会の委員長、翌80年8月の第二回国際障害者年諮問委員会の委員長を務めている。
 第2回の諮問委員会の報告書が同氏の名前で、ワルトハイム事務総長宛に提出された日付は80年8月30日となっている。そして翌9月には、リビア政府によるリビア国内外の深刻な人権侵害に抗議するためにキヒアは辞職している。
 第2回国際障害者年諮問委員会の報告書は同氏の国連大使、リビア政府の公務員としての最後の仕事だったかもしれない。翌81年の国際障害者年の本番までの道筋はつけたということで、区切りをつけたのだったのだろうか。今となっては確認する術もないと思われる。
 リビア政府を離れてから同氏は、フランス*に住んでNGOの立場から、アラブ地域、とりわけリビアの人権問題に積極的に取り組んだ。また、在外の反体制派の取りまとめ役も務めた。その過程で、1969年のクーデター以来、独裁権力を握ってきたカダフィ政権の不興を買ったことは想像に難くない。
 93年12月10日に同氏は、自らが評議員を務めるアラブ人権機構(Arab Organization for Human Rights)の会合に出向いていたエジプトのカイロで行方不明となった。
 1997年9月28日の米国ワシントンポスト紙は「エジプト、リビア、拉致に関与」という見出しの記事で、米国の市民権取得まであと4カ月だったキヒアが、リビア政府とエジプト政府の工作員によって拉致され、リビア政府側に引き渡された後、リビアに連れ戻され、1994年初頭には殺害されたと報じた。同年、アムネスティインターナショナルはキヒアに関するアピールを流している。死亡が確認できないためか、アラブ人権機構は2000年の年次報告書まで、評議員としてキヒアの名前を掲載していた。キヒア事件の真相が明らかになるのは、カダフィ政権後まで待たなければならないと思われる。
(『福祉労働』103号、2004年6月25日、94-96頁:文献は省略)*原著では「米国」としたが、「フランス」だったことが判明したため、本稿で修正。


チュニジアに始まったアラブの春の一環として、リビアで「カダフィ政権後」が実現したのは、2011年だった。しかし、私はキヒアの件をフォローすることを長きにわたって怠ってきた。

一つの優れた書評がそれを変えてくれた。西崎文子によるヒシャーム・マタール著『帰還―父と息子を分かつ国』(人文書院)評である(朝日新聞、2019年2月9日)。著者、ヒシャーム・マタールの父、ジャーバッラー・マタールもリビアの反体制運動のリーダーとしてカダフィ政権の力でエジプトにおいて拉致され、殺害されている。父と会えなくなった時、ヒシャームは19歳だった。この書評を読んですぐにキヒアを思い起こした。そしてキヒアについて本当に久しぶりに検索してみた。新たな衝撃が待っていた。

40年以上続いたカダフィ政権崩壊後の2012年に、首都トリポリの諜報機関でキヒアの遺体が「巨大冷凍庫の中で、凍ったまま、完全に無傷の状態」で発見されていた。家族とのDNA照合の結果、本人であると確認された。行方不明になってから19年が経過していた。しかし、まだ多くの疑問が残されている。死亡時期についても、1997年説と2001年説がある。「拉致された後で何が起こったのか」、「どこで、どういう形でキヒアは死を迎えたのか」。そうした問いへの答えをジハンはじめ家族は現在も求めている。
“Mansur
「マンスール・ラシッド・キヒア」ジハン・キヒア提供

歴史の中に置き去りにされてきたキヒアの功績を幸いなことに国際社会は少しずつではあるが認めようとしている。障害者権利委員会第16会期中の2016年9月にジュネーブの国連ジュネーブ事務所で開催された障害者権利条約採択10周年を記念するイベントにおいて、テレジア・デゲナー(当時、副委員長)がキヒアの功績を紹介し、ジハンからのメッセージを披露した。デゲナーは、障害者権利条約と同じく2006年に国連総会が採択した強制失踪条約にも言及している。

そして、2017年6月にニューヨークの国連本部で開催された第10回障害者権利条約締約国会議は冒頭で、ジハン自らが発言の機会を得た。キヒアも演説を行った総会ホールにおいて、ジハンは、キヒアについて語ることができたのである。1930年代に戦争で障害者となった人たちを目にして、父は障害問題への関心を持ったと語ったジハンは、2012年12月3日にベンガジで営まれたキヒアの国葬に触れて、「私は、リビアの障害のある子どもたちが父を称える歌を歌っているのを目にしました。その瞬間に12月3日が偶然にも国際障害者デーであることを知りました。これは父にふさわしく、深遠な象徴だと思います」と述べた。そして、父キヒアが「蒔くのを手伝った小さな種が、今日の巨木のような成功へと成長したことを目の当たりにするのは、心からの驚きだ」とし、父の功績を称えるのみならず、父が家族と共に生きた人生を祝福する機会を、まさに父が活躍した総会ホールの壇上で得られたことに心からの謝意を表明した。(ジハンの発言は国連テレビのアーカイブで見ることができる。冒頭から15分後)。

アーティストであるジハンは、今、夫キヒアを探し求める母の視点を通して父キヒアに達しようとするドキュメンタリー映画に監督として取り組んでいる。“Searching for Kikhia”(キヒアを探して)である。リンクからは、予告編を見ることもできる。以下に掲載した「監督からのメッセージ」と「シノプシス」も参考にしていただきたい。

ジハンと同じく父を失ったヒシャーム・マタールは『帰還』や『リビアの小さな赤い実』など著作を通じて父そして、その父を探そうとする家族の姿を描いてきた。興味深いのは、ヒシャームの父、ジャーバッラー・マタールとキヒアの人生がニューヨークで交錯していることである(以下の関係年表を参照)。キヒアがすでに1968年から赴任していたニューヨークのリビア国連代表部に、1970年にジャーバッラーが着任し、キヒアが外相に就任する1972年まで一緒に勤務している。そして、監督からのメッセージに記されているように、ヒシャームはジハンのドキュメンタリーに出演することが決まっている。

本稿に寄せて、ジハンからメッセージが届いているので紹介する。

1981年の国際障害者年が日本の障害政策推進に大きな影響があったと知り、その国際障害者年を1976年にリビアの国連大使として提案した父のマンスール・ラシッド・キヒアからいっそう、力を得る思いです。父の人生と業績を学び続けておりますが、国際障害者年がリビア提案だったことを忘れていない方たちが日本にいてくださることに素晴らしい驚きを覚えると共に、身が引き締まる思いを強くしております。日本、そして世界の皆様に、父に敬意を払い、その崇高なビジョンを祝福するドキュメンタリー映画「キヒアを探して」を見ていただく日を楽しみにしております。

障害者の権利そして人権の歩みに大きな足跡を残したキヒアの生を思う時、人権の不可分性と相互依存性が強く心に残る。人権を守る取り組みは総合的、包括的なものであり、たとえば障害者の人権だけを守ることはできない。障害者の権利は他の人権全般と密接に関係している。

そのキヒアと6歳の時に物理的に切り離されてしまったジハンは、父の生と死を把握するために、喪失と向き合う勇気ある旅を続けている。その旅路は国際障害者年の提案から障害者権利条約に至る障害者の権利を保障しようとする現在進行形の取り組みと間違いなく重なる。私はそのジハンの旅を見守りたい。

(敬称略)

【監督からのメッセージ】
私の父、マンスール・ラシッド・キヒアはカダフィの手ごわい脅威だと見なされていました。リビアに対する父の強迫的ともいえる忠誠心、そして「兄弟」に理を諭す覚悟は悲劇的な失踪と死をもたらしました。ほんの6年前に私たちが発見した現実があります。カダフィが殺害されてから約1年後の2012年、父の遺体はリビアのトリポリにあるカダフィ宮殿近くの巨大冷凍庫の中で、凍ったまま、完全に無傷の状態で見つかったのです。ある意味では、父の遺体の発見は私の家族に一つの区切りをもたらし、父を探し求めるという拷問にも等しい母の旅も終わりました。しかし、私にとって探索は終わったわけではなく、むしろ、形ある身体の探索から比喩的な探索へと変貌したのです。突き詰めれば、父を創り出した一方で父を殺めた国を理解すること、そして私自身をよりよく理解することを求めているのです。

この映画は、今日のリビア、内戦、そして人々と反体制派の失われた夢を反映しています。この映画の製作過程を通じて、父親という存在の重要性と父親を失うことが家族と社会にどういう影響を与えるのか、私は学んでいます。父と自分の国抜きで、自分のアイデンティティを私はどのように調整するのでしょうか。そして私の経験のうちどれだけが今日のリビアのジレンマ(特にリビア人のディアスポラ)全体を反映しているのでしょうか。私は対立するものの和解を模索します。具体的には、議論の余地のない英雄とされている父と、議論の余地のない化け物であるとされているカダフィ、この両者を共に「人間」として考えたいのです。

父のこれまでに語られていないストーリーを語ることによって、私はリビアの語られていないストーリーも語っています。父の人生とキャリアはリビアの政治と現代史に密接に関係しています。私個人の旅がリビアの現代史の歩みと共に進んでいるという構造なのです。父を知り、当時の政治情勢を知悉している方たちとのインタビューは、大きな文脈と背景を提供してくれます。リビアの総理大臣経験者、外務大臣経験者、そしてカダフィ政権下でやはり父親が失踪したピューリッツァー賞受賞作家、ヒシャーム・マタール(『帰還』)の出演が決まっています。ニュース映像を利用するほか、私たちのプライベートコレクションを活用してカダフィ、ホスニ・ムバラク元エジプト大統領、クリントン夫妻という権力者たちの未公開画像も活用します。

【シノプシス】
父親が拉致されたとき、この映画の監督を務めるジハン・キヒアはわずか6歳だった。カダフィ政権への最大の脅威と広く見なされていた父、マンスール・ラシッド・キヒアは、カダフィ政権に対する平和的反体制派運動の指導者で、リビアの将来的なリーダーというのが衆目の一致するところだった。外務大臣も務めた人権派弁護士としてキヒアはリビアに過剰なまでの忠誠心を持ち、彼は独裁者であるカダフィに「兄弟」として理を説こうとしたが、待っていたのは「失踪」という結末であった。

ジハンは、母親であるバハ・オマリー・キヒアが19年間にわたりフランスとアメリカを行き来して父親を探すのを見守ってきた。シリア系アメリカ人芸術家であったバハはジハンと彼女の兄弟たちに楽しみ溢れる子供時代を送らせながら、5か国(アメリカ、シリア、リビア、フランス、エジプト)の、相反する複雑で疑惑に満ちた政治的思惑の間を必死で立ち回った。バハは、彼女の持つ創造的本能と機知を組み合わせることにより、危険な政治ゲームで世界の大物たちと渡り合うという、思いがけない立場に立つこととなった。この危険に満ちた捜索によって彼女は夫の解放交渉のため、リビア砂漠の真ん中で真夜中にカダフィと対面するに至ったのであった。

ジハンの母親、家族、友人、および事件に関与した鍵となる人物のエピソードを積み重ねたこのドキュメンタリーは、真実を包み隠すことなく、時には矛盾を孕みながら提示する。ジハンは、記録映像、ファミリービデオ、調査研究映像、そして自身の視覚芸術作品を用い、自らは知ることがなかった父親の顔と父親を探し求める母親の冒険の全貌を明らかにしようとしている。観客は、ジハンの生々しくまるで夢のような探求の旅路に招かれるだろう。

彼女は、自分と家族の弱さ、親密さ、そして実存的な旅路をありのままにさらけ出すことで、政治を自分の外側の遠い事物としてではなく、各個人同士の人間関係に深く侵入してくる生々しい経験として描き出している。

ジハンは父親のこれまで語られていない物語だけでなく、リビアの語られていない歴史も語っている。自分の中にある沈黙という空洞からずっと逃れられなかったジハンは、このドキュメンタリー製作の過程で自らの内面をこじ開け、自身の夢から目覚め、そしてトラウマと和解しようとする。「失踪とは何か」、「正義と名誉とはどのようなものか」、「英雄はどのように作られるのか」、「一人の男の娘であるとは何を意味するのか」、こういった問いをジハンは自身に投げかける。

ジハンはこうした複雑な経験をドキュメンタリーを通して解き明かすことで、自分の家族の傷跡、ひいては人類の傷跡の下に眠るものを見つけ出すことを願っているのかもしれない。しかしこの作品において最も大切なことは、彼女が「人の苦しみが本物の幸福、やさしさ、感謝を生み出すのである」と確信し、それを観客に訴えかけようとしていることだ。

(ジハン・キヒアからのメッセージ、監督からのメッセージとシノプシス、すべて長瀬訳)

【関係年表】

マンスール・ラシッド・キヒア ジハン・キヒア ジャーバッラー・マタール ヒシャーム・マタール リビア全般
1931 ベンガジで誕生
1949 独立
1968 国連代表部赴任
1969 カダフィによるクーデター
1970 国連代表部赴任 ニューヨークで誕生
1972 外相就任
1973 外相退任 国連退職
1975 国連大使就任
1979 エジプトに一家で亡命
1980 辞職・フランスに一家で亡命
1984 リビア人権協会設立
1986 リビア国民同盟設立、事務総長就任
1987 誕生
1990 カイロの自宅で拉致 父が拉致された時はロンドンで留学中、19歳
1993 12月10日、出張先のカイロで拉致 父が拉致された時、6歳
1996 アブサリム刑務所虐殺事件
2011 アラブの春カダフィ殺害
2012 9月トリポリにて遺体発見12月3日ベンガジにて国葬 リビア帰還
2017 障害者権利条約締約国会議で発言

(長瀬作成)

*ジハン・キヒア氏とテレジア・デゲナー氏の協力に感謝します。My sincere appreciations to Jihan Kikhia and Theresia Degener.
*このエッセイのために再度必要となった、『福祉労働』誌で言及したノーマン・アクトン氏の発言に関する資料(Duncan, B., 2000, “The International Year of Disabled People: An Interview with Norman Action”, International Rehabilitation Review, August 2000, volume 50, Issue 1, 1-12)を提供してくださった日本障害者リハビリテーション協会の松井亮輔氏、原田潔氏に感謝します。

★本研究はJISPS科研費「東アジアにおける障害者権利条約の実施と市民社会」(研究代表者:長瀬修、18K01981)及び「病者障害者運動史研究」(研究代表者:立岩真也、17H02614)の助成を受けたものです。

(長瀬修 立命館大学生存学研究センター教授)

2019年7月3日

障害と社会

国際障害者年ー「19年の薔薇」とキヒア

 1981年の国際障害者年をリアルタイムで思い出せるのは、私のような高齢者の世代に属する人が多いだろう。当時、大学生だった私は、土曜日の午後に障害児と地域の子どもが公園で一緒に遊ぶという活動内容のボランティアサークル(上智大学わかたけサークル)に加わっていた。そのため、国際障害者年の社会的インパクトが大きかったことをよく覚えている。
 国際障害者年をきっかけにして始まった取り組みとしてダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業がよく知られている。日本の若い障害者の海外での研修事業であり、1981年以来、512人を17か国に送り出してきた。国連の障害者権利委員会副委員長の石川准をはじめ、多くの障害者リーダーがこの研修に参加した経験を持つ。また、この事業から派生する形で誕生したアジア太平洋障害者リーダー育成事業もあり、海外28か国・地域からの137人の障害者が日本で研修を受けてきた。日本の障害分野の貢献として、誇るに足る実績である。
 もちろん、国際障害者年の影響は国際的な広がりがある。同年の国際的インパクトについて、”Rethinking Disability”というプロジェクトが欧州研究会議の資金助成を得て、オランダのライデン大学を中心に推進されていることを知った。連載前回の「喪失―殺害された国際障害者年の父(マンスール・ラシッド・キヒア)の娘」で記述した、キヒアによる国際障害者年提案、そしてその後の展開に関して、英国リーズ大学主宰の障害学メーリングリストに投稿したところ、このプロジェクトから連絡があったためである。国際的にも、国際障害者年の影響の全貌に関する、こうした研究が進められている。
 その国際障害者年を提案した父、マンスール・ラシッド・キヒア(以下、キヒア)に関するドキュメンタリー映画、『キヒアを探して』(仮題)を監督として製作中のジハン・キヒアを私が所属する立命館大学生存学研究所の客員研究員にこの6月から迎えることができた。映画が完成し、日本で公開の暁には、是非、来日してほしい。
 6月上旬に米国でジハン・キヒアに紹介されたのが姉のビサン・トロン(Bisan Toron)である。ボーカルアーティストである彼女のアルバムには、継父であるキヒアに捧げた「19年の薔薇」(Nineteen-year Roses)が含まれている。トロンのサイトには、トロンが作詞、作曲したこの曲のミュージックビデオも掲載されている。キヒアの幼少時代からの姿や、国葬の模様を垣間見ることができる。是非、ご覧いただきたい。以下、あくまで歌詞のイメージを伝えるための試みとしての対訳である。

「19年の薔薇」 ビサン・トロン作詞、作曲(古畑正孝・長瀬修訳)
    The dead fish to her finger returned her ring
    魚に呑まれて キッチンから
    Lost then swallowed its way back to the kitchen
    母の指に戻った 失われた指輪
    Thawed body to the house returned her son
    解凍されて 帰還した息子の体は
    Azul-exile caught blue and the bedroom frozen
    長い不在後に 青く青く凍り付いた寝室へ
    Grown nineteen years, roses on his coffin broken
    19年育ち 棺の上で枯れる薔薇 
    Sown always and only for dying this way
    枯死するためだけに いつも種蒔かれてきた
    Maybe the return came first, before the loss
    失われる前から たぶん帰還は定められていた
    Maybe the return came first, before the living
    生まれる前から たぶん帰還は定められていた
    Caught bedroom frozen blue…
    青く凍り付いた寝室

 19年はキヒアが拉致された1993年から、遺体が発見され国葬に付された2012年までの19年間を指す。キヒアの棺は葬儀前の数時間だけ、母のベンガジの家に安置された。キヒアが幼少期を過ごした部屋で、棺の上の薔薇をトロンが目にした時、その薔薇はまるで父に捧げられるために、19年間育ってきたのではないかと感じられた。そして、「青」は、その部屋の壁やベッドカバーの青色からの着想だとトロンは語っている。
 『この歌には深い悲しみがありますが、継父に何が起こったのかを「理解」して、疑問や感情を少しは整理できたので、祝福のようにも感じました。私は継父の死の「目的」を求めて、歌詞を書いたと思います。すでにご承知かもしれませんが、歌詞で「失われる前から たぶん帰還は定められていた 生まれる前から たぶん帰還は定められていた」と書いたのは、継父の死は運命だったという気がしているからです。薔薇もそうです。継父の死は、その人生の目的と一体だったのだと感じているのです。継父の遺体の帰還は星の中に書かれていて、そうでなければ帰還はあり得なかったのです。私は継父の死の中に希望の兆しを探していました。継父の生の目的を見いだし、継父の精神が続いていることを探し求めていたのです。悲しみのあまり、歩みを止めたくはないのです」とトロンは言う。
 ジハン・キヒアは映画を通じて、そしてビサン・トロンは歌を通じて、大切な人の喪失という経験に向き合おうとしている。私の想像の世界では、この素晴らしい抒情的な歌は完成した映画のエンドロールですでに流れている。障害者権利条約への道のりへの大きな起点となった国際障害者年が紡ぐ物語は続く。

(敬称略)

*ビサン・トロン氏の協力に感謝します。I express my sincere thanks to Bisan Toron.

(長瀬修 立命館大学生存学研究所教授)

『帰還』の訳者の金原瑞人さん(法政大学社会学部教授)がご自身のサイトで紹介してくださいました。
金原瑞人 近況報告 2019年7月19日

2018年11月2日

障害と社会

小説「障害者と私」

 土曜日の午後、家にいると呼び鈴がなった。頼りになる夫が玄関に出てくれて、配達員から受け取ろうとすると、国の役所からの「本人限定受取」なためダメで、私が健康保険証を出して、ようやく受け取ることができた。何か大切な連絡かと思い、急いで開いた。夫も心配そうに見ている。
 開けてみると封筒には、難しそうな書類がたくさんだ。まず目に入ったのは1枚目の「旧優生保護法による不妊手術への謝罪と補償」と題する紙だ。最初に自分の名前が書いてある。ドキッとした。フリガナがふってあるけど、漢字だらけのむずかしそうな紙だ。
 別に「わかりやすい説明」と題するイラストも入ったカラーの紙もあり、分かりやすそうなので、そちらをまず見てみると、自分で希望していないのに、子どもができない体にしてしまう手術(優生手術・不妊手術)を受けさせてしまったお詫びと、お詫びのしるしにお金がもらえると書いてあった。金額を見ると大金だ。
 そういえば、「優生保護法」という昔あったひどい法律について裁判になっていると、テレビで見たことがあったけど、自分と直接、関係があるとは思っていなかったので、注意して見てはいなかった。
 確かに小さい時に、何か手術を受けさせられて、その時の傷跡が今も、おなかに残っている。少しこわい気がして、何の手術だったのか深く考えることはなかった。亡くなった両親から話はなかったし、50代になってから一緒になった夫とそのことについて話すことはこれまでなかった。
 小さい時に大切な自分の体にそんなひどいことをされていたなんて。どう受け止めたらいいのだろう。誰の責任だったのだろうか。「障害者」にはそんなことを勝手にしていいなんて誰が決めたんだ。そして、私に手術することはどうやって決まったんだろう。父や母はどう思っていたんだろうか。考えてみると涙が少し出てきた。服の上から、傷あとを触ってみる。夫婦になったのは年をとってからで、子どもを作ろうと思ったことはなかったし、傷あとが痛むわけでもなく、特に医者に診てもらったこともなかった。
 いろいろと記入して返送してくださいと書いている紙には、分からないことがあったら遠慮なく連絡してくださいとか、希望すればうちに来て説明もしてくれるとあり、電話番号とファクス番号も書いてある。
 どうすればいいのだろうか。どうしようか。誰に相談しようか。
 ふと、非常勤で再雇用されている役所のことを思い出した。雇用率達成のために「障害者」として自分が登録されていたらしいことを、先日、給湯室で仲の良い同僚から聞いた。人事課の友人からたまたま聞いたそうだ。再雇用されなかった同僚もいたから、自分の場合は「障害者」だということで、優先的に再雇用されたのだろうか。
 うちの役所も、障害者雇用の「水増し」をしているというので、地元のテレビが取り上げていた。昔は、確か手帳を持っていたはずだけど、ここずっと使ったことはない。どこかにあったのだろうか。なくしてしまったかもしれない。手帳を出してくださいと役所で言われたことは、少なくとも再雇用の時はなかった気がする。
 障害者差別解消法という法律ができて、大学の先生が講師だったつまらない研修を役所で受けさせられた時、今の自分は障害者かどうか、少し考えたことを思い出した。その研修では、最初に目をつぶって「自分を障害者だと思う人」、「自分を障害者だと思わない人」どちらかに手を挙げるように言われた。どっちに手を挙げるか迷ってしまって、どちらにも挙げられなかったけど、講師はそういう人もいますと言っていた。
 そう、自分のことを「障害者」かどうか、いつも誰かがどこかで決めてる。手術もそうだし、役所の登録もそうだ。
 手元にある大事な書類にもう一度、目を向ける。自分は障害者だったから手術を受けさせられてしまったようだ。そうなら、それはとてもひどいことだから、きちんと謝ってもらった方が良い。お金がもらえるならうれしい。いや、当然かもしれない。もらえたら、家族に少しは良い思いをしてもらえるかもしれない。
 夫は相変わらず、心配そうにこちらを見ている。どうしようか。いつもと違う土曜日の午後だ。(了)

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本稿はフィクション(2018年10月31日記)。勇気をもって旧優生保護法国家賠償請求訴訟に踏み切った皆様と、献身的に支える優生保護法被害弁護団の皆様に捧げます。

(長瀬修 立命館大学生存学研究センター教授)

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