REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

「障害」について考えていること
  加福秀哉

2020年4月15日

「障害」について考えていること

第一回

「ふつう」ということば

 私自身が「障害」について考え始めたのは、4年ほど前のことである。それまでにも漫然と考えることはあったが、自分と、自分の中にある障害(感音性難聴)という悶々としたモノとのかかわりについて、真剣に向き合い始めたのはその時からだった。
 「障害」を考える際には、その対比として「健常」「ふつう」という概念が用いられる。最近では「障害」と「健常」ということばによって隔てられる二項対立の構図自体が見直されつつあるが、それでも尚、それらのことばを以てしてのみ語り得る言説が多く存在するし、このような議論においては現状欠かすことのできない概念である。以下では、それぞれのことばの扱いを考える上での、私なりの解釈を与えたいと思う。以下の議論は、障害に関する理論の定式化といった大袈裟なものでは決してなく、あくまで一つ一つの概念について読者の方々の思考を広げるヒントとして読んでいただければ幸いである。

「ふつう」とは

 「ふつう」というのはつくづく便利なことばだなあと思う。普段そのことばを使う上でも、何をもって「ふつう」と言っているのか、常々意識している人は少ないだろう。それほどに使いやすく汎用性の高いことばではあるが、一方で「ふつう」に囚われ、振り回されるようなケースも多く存在する。「ふつうは〜なのに、あなたは〜(自分は〜)」といったフレーズのように、一般的に「ふつう」を基準にして、それと比較して優れているか、劣っているかを判断するケースは典型的なものだ。ここでは、そのような「ふつう」という基準の意味するところについて、私の専門である統計学の観点も少し交えながら考えてみる。

 「ふつう」ということばの意味を定義するならば、自分の周りに存在するある一定数の人たちの平均±誤差といったところだろうか。これを統計学的にもう少し厳密に言うと、ある母集団の平均値や最頻値などの代表値±誤差、ということになる。ここでの母集団ということばに注目してほしい。統計学の世界では、大前提として性質を調べたい対象である母集団が存在し、その母集団の中から得られたデータをもとに分析を行う。当然、異なる母集団があれば性質の違いが数値として表れるし、そこから導かれる結論も異なってくる。統計学においては至極当たり前な考え方だが、このことを「ふつう」ということばに当てはめるとどうだろうか。
 母集団が違えば、「ふつう」も異なる。例えば「大学生のふつう」と「幼稚園児のふつう」は異なるし、母集団が一人であれば「自分のふつう」「その人のふつう」ということになる。そして普段私たちが「ふつう」ということばを用いるとき、そこには無意識のうちに何らかの母集団が背後に想定されている。つまり、普遍的な「ふつう」というものは、理論上はともかく現実的には存在しないのである。ここで改めて先ほどのフレーズを思い出してほしい。「ふつうは〜なのに、あなたは〜(自分は〜)」というフレーズはすんなりと多くの人に受け容れられているが、「ふつう」の背景にある母集団は見事なまでに意識されていない。そしてたいていの場合、母集団はその場やその発言者の都合によって無意識に、また故意に選択されている。そのことが、この類のフレーズに対して居心地の悪さを感じる一つの要因であると考えている。このように不用意に「ふつう」ということばを用いて語ることは、統計学において母集団についての議論をすっ飛ばして平均値や中央値を議論するのと同義であり、それほどに愚かなことである。

「健常」と「障害」

 同様に「健常」と「障害」についても私なりに解釈してみる。「健常」とはある指標について「ふつう」であるか、もしくは「ふつう」に到達可能な状態のことであり、「障害」とはある指標について「ふつう」との間に解消が極めて困難な、または不可能な障壁が存在する状態のことであると考える。ここには2つの論点がある。①指標の存在、そして②「ふつう」の裏側の母集団の問題である。
 まず①の論点について、先ほど「ふつう」が母集団の代表値±誤差を意味しているという話をしたが、そこには同時に母集団の何の性質に着目しているか、代表値が何の代表値であるか、という指標が存在している。指標というのは、例えば学校のクラスの母集団の中で身体測定のデータをみるときの、身長や体重といったもののことだ。障害について考える上でも指標というものが存在するが、2つ注意点がある。1つは必ずしも数値で表される定量的なものではなく、定性的なものもあり得ること、そしてもう1つはその指標の軸上での評価は、とくに定性的な指標に関しては主観的にしかなされ得ないということである。例えば私の聴覚障害の評価は、聴力という指標の上で定量的にもなされるが、一方で聴力の数値に表れない「ことばの聞き取りやすさ」という指標も実は存在し、これに関しては私の聞き取りの感覚について、ことばを十分に聞き取れるという一般的な(私にはわからない、すなわち想像の)感覚との乖離を、私自身が主観的に評価している。指標の主観的評価に関しては、障害の程度評価などの客観性が要求される場合にはなかなか折り合いが難しく、現実にもその問題は多く見受けられる。
 指標を明らかにすることにはメリットも存在する。それは、不用意に「障害者」と一括りにされる論調を回避できることだ。例えば肢体障害を持つ方の中には「移動のしやすさ」という指標に関して不利を被っている方もいらっしゃるが、聴覚障害の当事者である私は、「移動のしやすさ」という指標の上では「健常」である。逆もまた然りで、肢体障害の方は「聴力」「聞き取りやすさ」「コミュニケーションの理解度」などの指標の上では「健常」であったりする。このことは当たり前に見えるが意外と見落とされがちなところで、何か「障害」があるからといって決して「障害者」と一括りにして論じないという意識は大変重要である。
 そして②の論点について、実はこの議論から本題に迫っていくのだが、第1回は一旦ここまでとし、次回以降詳しく考えていこうと思う。

加福秀哉(かぶく ひでや)

東京大学大学院経済学研究科卒。聴覚障害当事者。在学中に「障害者のリアルに迫る」ゼミに携わる。

エッセイのご感想がありましたらフォームより送信ください。