REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

バタバタ公園バタフライ
 小川てつオ

2019年1月9日

バタバタ公園バタフライ

第1回

はじめまして

誰がどうということを言いたいわけではなくて、また、言ったところで何をどうしたいというわけでもなく、こういう知的なフレームに入って(どういう知的さかも分からないのだけど)、自分のことを書くと言うときに、ほのかに感じるのは「見世物」ということだ。しかも、このエッセイ欄にはそれぞれは興味深いものには違いないマイノリティと言われる方の言葉が列挙されるという。見世物小屋と何がちがうのだろう。見世物小屋の何が悪いのだろう、ということも分からない。ちょっと、ゆっくり考えよう。いや、その前にこんな勝手なことを書かせてもらえることに感謝します(没はなさそうなので)。
私は一回どこかで見世物小屋に入ったことがある。「親の因果が子に報い」とか言う(ちがうかもしれない)アナウンスに誘われて、若干の熱に浮かされたような気分で薄暗い小屋に入り、金魚を飲み込む人間ポンプや蛇を鼻から口に通す女性や火の輪くぐりをする動物(犬?猿?)、下半身が魚か何かだった女性を見た。あんまり面白いものでもなかったのだが、希少な物を見たという満足感とだまされた気分が半々に残った。
表現するということは、自分の人生をその分差し出すということだと思う。だから、どんな場所でどんな風に差し出すのかが気になる。そんなこと気にしない人も気にしている場合ではない人もいる。けど、けっこう私はうじうじしている。だって、受け取られないならまだしも、受け取る人がため込むばかりだったりしたら嫌じゃないですか。受け取る人も、差し出して欲しい。研究している人も学者と言われる人もそうして欲しい。そうしている人もいるだろう、もちろん。コレクターがいても、多様にはならない。それは全然ちがうと思う。それぞれが差し出すことしか、それが出来る場にしか、多様性はない。
偉そうだと思うが、そうではなくて、うじうじ、しているところから始めてます。
薄暗い闇があって、テキヤの屋台とかが並んでいて、なんとなく生ぬるい風が吹いていて、見世物小屋があり、そこで行われる出し物だから、当時の時代状況でも違和感は拭えないながらも、なじむような雰囲気はあった。きっと、それがくっきりとした照明のスタジオで演じることになったら、それでもやるに違いないが、きっともの悲しい気持ちになるだろう。

私が都内の公園のテント村で暮らしはじめた、今から15年前、私はテント村の生活について表現しようとは考えてはいなかった。いや、ちょっと、ちがって、表現というものを文章を書いたりするような狭いこととして考えてもいなかった。とにかく、そこで、生活するというのが面白すぎた。ブログに文章に書くようにしたのは、テント村が無くなりそうになった時だった。テレビにさえ出て、本当に嫌な思いをした。行政にも、世間の大部分にも、放っておいてほしかった。私が暮らし始めた頃、公園には350軒ものテントや小屋があった。私は、公園から(というかテント村から)1歩も出ないままに、世界の中心にいる、と感じていた。ここが世界の中心だと思っていた。そう、それは、そこに多様性があったためだ。
次回は、そんな話が書ける(かな?)。

本ページ自体のあり方について、厳しく疑問をつきつけられ、深く、考えさせられました。

歯医者の待合室でぼんやりテレビのニュース番組を見ていたとき、劇団態変の映像が流れ、主宰者の方が、「障害者のカッコ良さは障害そのものの中にしかない」と話すのを聞き、慄然としたのを覚えています。本ページの編集にあたって、マイナスイメージを持たれている属性のその属性自身のカッコ良さを伝えたい、という思いが、私にはありました。

しかし、障害者自身が自分の肉体で表現する劇団態変に比し、自分は普通の立場にいながら、その「普通」から見て「普通でない」方々のことを伝えたい、という本ページのスタンスそのものが、「違う」のだということ、 人は、「普通」と「普通でない」に分けられるものではなく、本当の「多様性」は、障害種、性、マイノリティかどうか、などという小さな枠組みを超越した、「一人ひとり」が差し出したときに初めて実現するもので、そこを目指していかなくてはいけないこと、 このエッセイに教えていただきました。

本ページにこのエッセイを掲載できたことは、よい方向へ向かえる第1歩になると確信します。

小川さん、どうもありがとうございました!

REDDYエッセイページ担当 塔島

2019年4月10日

バタバタ公園バタフライ

第2回

南米の人たち

今回は、テント村にいた南米の人たちの話を書きます。というのも、そのうちの1人に会ったことがテント村に住むきっかけになったためです。その人の名前は仮にベルナルドにします(以下、この連載はすべて仮名です)。私は、月に一回くらい友達とこの公園でパーティを開いていたことがありました。ささやかな機材を持ち込んで、DJしたり演奏したり踊ったりだべったり、というもので、公園中央にある広い芝生広場でだらだらしていました。今では、このようなことは出来ません。それだけ管理が厳しくなったのです。ある日のパーティの終わりころ、どこからともなくベルナルドは現れました。いかつい男で怪しげな日本語でマイクアビールしました。ホームレスを助けるために、ネットワークをつくって、という言葉が聞き取れました。
ベルナルドがテントを案内するというので、数人で一緒について行くことにしました。ベルナルドはテントで8年住んでいるという話でした。暗闇の中を足早に歩くベルナルドに連れられて、小屋が所狭しと立ち並んでいる一帯に到着しました。大きな公園であるにしても、このような場所があることにそれまで全く気がついていませんでした。窓も玄関もある精緻な小屋が多く、おとぎの国に迷い込んだ感じです。シシオドシや岩で作庭された小屋を指さしてベルナルドは自慢げでした。ここはコウミンカン、と言ってめくったテントの中にはタイコの類いがチラと見えました。公民館? じんわりと衝撃をうけました。ここには確固たるコミュニティがある!と感じたからです。
ベルナルドによる謎のツアーは駆け足に終わりましたが、テント村のことは頭から離れませんでした。その頃、私は「居候ライフ」と称して、様々な他人の家で暮らす生活を6,7年くらい続けていました。だから、自分の家や部屋は特にありませんでした。
しかし、すぐにテント村で暮らしはじめたわけではありません。ホームレス生活に対しては戸惑いがありました。それを超えるのは、自分の中でいくつかの転機が必要だったように思います。約半年後、私はテントを担いで、興奮気味にテント村のベルナルドを訪ねました。2003年の春のことです。しかし、ベルナルドはブラジルに帰ったようで不在でした。仕方なく立ち話をしているホームレスのおじさんたちに相談しました。どこにテント張ればいいか管理事務所に聞いてみたら、と言われました。そんなの絶対無理だろう、と思いましたが、とりあえず事務所に行きました。出てきた職員は苦々しく、あんたがホームレスになるわけじゃないんでしょう?、と言いました。ホームレスになります!、と答えました。少し偉そうな人が出てきて、この公園には300名もいるからどこかよそで張ってくれなどと言いましたが、食い下がると、絶対ダメな場所はある、とトーンダウン。再び、立ち話をしているおじさんたちのところに戻ると、今度は村長みたいな人が出てきて、若いんだから帰れと諭されました。しかし、話しているうちに、なんとなく認められ村長みずからスコップで整地してくれました。彼が庭園を作っていた人でした。ベルナルドを受け入れ、ベルナルドが連れてくる外国人たちを受け入れていたのも彼でした。あんたも一国一城の主なんだから好きに暮らせばいい、と言って私にもあまり干渉しませんでした。
さて、私がテントを建てた場所は、テント村の中で〈南米村〉と呼ばれたところでした。南米人がベルナルドを入れて5人、トルコ人1人、アメリカ人1人が日本人と混じって暮らしていました。ベルナルドもそのうち帰ってきました。全身入れ墨した筋肉ムキムキのマッチョマンの彼は、ジャーナリストだと言って(ごついカメラを持って)いましたが、何をしていたのかは分かりません。あとは、小柄だけど負けん気が強くて、よく一緒に遊んだボリビア出身の日系人。優しげな顔立ちでエスニックな絵を描いていたエクアドルの人。よく焼き肉パーティをしていたブラジル人。いつも売り物のシャツを水場で洗濯していたおだやかな色白のブラジル人。彼は恋人と暮らしていました。トランス好きでテントでも爆音でかけていたトルコ人。日本人の妻に離縁され保育園に通っている子どもにも会えなくて、悲しげな様子の若いアメリカ人。
ベルナルドたちは、パトロールと称してテント村を夜中に巡回していました。テント村の安寧を守るための行動らしかったけど、手にバットなどを持った彼らに出くわすとギョッとしたものでした。ベルナルドは、誰彼かまわず「元気〜?」などと声をかけ、ガハハハと笑っていました。テント村の年寄りを尊敬しなくてはいけない、みたいなことをよく言っていました。皆と仲良くしようとしていて好かれていました。他のブラジル人もテント村の女の人の逃げた猫を探したり、助け合いの気持ちが強かったと思います。
南米の人たちはパーティが好きでした。朝からバーベQをやっていて、ボルトガル語で目が覚める時もありました。彼らなりにトラブルを起こさないようにしていましたが、音がうるさくて周りとケンカになってしまうこともありました。村長が怒鳴って注意をしている時もありました。でも、彼らに限らずトラブルは常にたくさんあったので特段目立っていたわけでもありません。しかし、テント村が切り崩されていった時、真っ先にいなくなったのは彼らでした。万引きでつかまった、などの話も聞いたけど、管理側が彼らを追い出すという噂があったし、管理側の意図もあったかもしれません。
ベルナルドは、今も数年に一回、持ち前の大声で「みんな元気ー?」「大丈夫-?」とかいいながらテント村に現れます。最近では、背中にパラシュートを背負っていました。丘の上で訓練していたと言っていました。相変わらずバイタリティにあふれ、言っていることはよく分かりませんでした。

P.S
塔島さん、拙い原稿に応答ありがとうございます。言葉は、切り分け、指し示し、色をつけます。今回の原稿でも、●●人と書きながら違和感もありました。「南米の人たちはパーティが好きでした」?。嘘でもありませんが、これだって、けっこうイメージに乗っかっているところがあります。そして、洗濯をよくしていた人もブラジルの人でしたが、パーティに参加していなかったし、どちらかというと静かにしているのが好きそうでした。そういう人のことはどこかに行ってしまいます。言葉は難しいです。ホームレスのテント村に南米の人が住んでいた、これはイメージを裏切ることかもしれません。でも、一方で南米人という既成イメージに依拠しているところもあります。現実は言葉を超えているから豊かで多様です。言葉が追いつこうとしても追いつくことはできないことが重要だと思います。
ではでは、次回も宜しくお願いします。

2019年6月5日

バタバタ公園バタフライ

第3回

エノアールの話

とにかく暑い。もう30度を超えている。年々、暑さに弱くなる。なので、テントに引きこもるが、テントの中も冷房があるわけでないので、やっぱり暑い。今日はエノアールなので半日、外にいた。エノアールとは何か? ぼくのテント前で開いている物物交換のカフェ。同じくテント村在住のいちむらみさこさんと運営している。余り物や拾った物(要は何でもいい)を持ってきていただき、飲み物を出すという仕組みである。出すお茶などもまた、誰かが持ってきたものである。紅茶・コーヒー・緑茶・紅茶・ハーブティというオーソドックスなものから、苦茶(台湾)・ごぼう茶・マテ茶まである。ナゾ茶という、ぼくが天才的なミックスを気分で試みるお茶も意外と人気。エノアールはもう15年以上やっている。初めの頃は毎日やっていたが、今は日曜だけにしている。
なぜ、物物交換か? 1つには、このカフェは(もちろん)非公認的なものだから、商売っ気を出すのは遠慮している。ただ、それより重要なことは、物物交換が野宿者マナーに沿っているということだ。野宿者文化というものがあるとしたら、その1つの源泉は物物交換であるはずだ。実際のところ、ぼくたちは日々不要なものや余り物をあげたり、もらったりしている。それが可能なのは、使えるゴミがたくさん都会に存在していること、そして、お互いの生活がある程度見えていて、誰が何を必要としているか予想できるからだ。コミュニティに基づき、コミュニティを強化するツールとして物物交換がある。なので、それに則るのが、テント村にあるカフェの振る舞いとして至って自然なのである。それに、金を払うようなカフェじゃ野宿者は、こない!(例外として、マクドナルドやファミレスがあるが、あれは、夜をあかすor電源供給の場所である)。金がかかるというのは誰かを排除しているということだから、限定的な場であれ、それがないのは気分がいい。
さて、エノアールはどんな感じか? 簡単に今日のことをスケッチしてみよう。まずは、もともとテント暮らしで、今は生保でアパートにいるMさんが久しぶりにやってきた。暑さでバテた表情である。10キロやせた、と嘆く。体力に自信があった山男のMさんも、70歳を超えて足がしびれたり耳が遠くなったり、体調の変化に落ち込んでいる様子。しかもスマホ料金が法外に高くて原因が分からないと悩んでいた。Mさんのスマホの設定をいじる。次に、いちむらさんを取材するために北欧の女性がやってくる。青汁を出す。公園そばの植え込みにテントを張っているKさんがくる。彼は常連さん。アルミ缶を集めて暮らしている。いちむらさんが席を外すと誰も英語が話せないので、なんとなく沈黙。そこへ自転車のカゴにアルミ缶を入れたAさんがにぎやかにやってくる。Aさんが「トランペットのことが気になっているんですけど」と言う。トランペットの練習をしているというぼくの話を覚えていたらしい。「あなたのトランペットは世界で一番いいです」と言う。えっ、聞かせてもいないのに?というか、やっと音がでる程度なのに?「でも、音楽は権力者に支配されているので、あなたは世間に認められないでしょうけど、20年後には大丈夫です」。なんだか励まされた。そこに、野宿者支援に関わったり海外のスクワットハウスに暮らしたりしているYさんが颯爽とやってきた。さらに、昨日通りがかった、ヒッピー風の若者と白人女性などの3人組が立ち寄った。Aさんが歌を歌います、と言う。でも、スマホの操作に手間取って伴奏がなかなか始まらない。Kさんは少し青い顔して戻ってきてトイレで吐いたという。暑さのせいだろうか。Aさんが自作曲(メロディは賛美歌のようだった)を立ち上がって歌いはじめる。少し、照れたような表情で、あれ?と言って途中で終わった。もう一回歌います。今度は、虚空の何者かに訴えるかのように声を張り上げて歌った。歌詞はよく分からなかったが、未来とか愛とか、力強い感じだった。みんな拍手。ぼくは、最高です、と言った。なんか感動した。北欧の女性は涙ぐんでいた(ような気がした)。Aさんは「20年後にはすべての病気が音楽で治ります」と言った。ヒッピー風の若者はオーストラリアでアボリジニと1年暮らしていたと言い、Aさんは若者のことを先生と呼んで質問したり話したりしていた。
こうして色んな人が1つの場を共有して言葉を交わす。日が暮れると、最後までいた人と一緒にイスとテーブルを片付ける。あとには何も残らない。でも、ずーと続いている時間の中に様々な登場人物たちが出入りしているかのような「永遠の相」というべき感触が心に残る時がある。

2019年9月18日

バタバタ公園バタフライ

第4回

春の夜の夢

今は分からない 他の人には分からない あまりにも若すぎたとただ思うだけ だけど幸せ 空にあこがれて 空をかけていく あの子の命は ひこうき雲 (荒井由実・ひこうき雲)

今年の春、桜がまだ散りきらぬ時にイデさんは公園の池に入水して亡くなった。
イデさんのテントからは荒井由実の歌がよく聞こえてきた。他にも竹内まりや、とか、70年代のヒット曲。テント村の人たちの多くとは、もう15年以上の顔見知りではあるけど、バックグランドについて知ることは少ない。それぞれの生活やちょっとした言葉から想像することがほとんどだ。
イデさんは複数の黒猫を飼っている人としてテント村では知られていた。たくさんの猫を連れて散歩をしていた。連れて、というよりも、連れられて、が正確だ。犬と違って気ままな猫たちは、どこかにいなくなったり、1カ所にじっとしていたりするわけで、散歩といっても忍耐が必要なはずだった。ちなみに、テント村では猫を飼う人が多くいたが、それは公園によく捨て猫があったためだ。最近ではそれもなくなった。テントが減ったので、捨てる方も当てに出来なくなったためだろう。紐をつけて猫を飼っている人もいた。せっかく広々とした場所なのだし、ぼくは猫に気の毒だと思ったが、イデさんのところの猫たちは自由に出歩いていた。そのため、しばしばイデさんが猫を探す声がテント村には響いていた。いつもより1オクターブくらい高い声で歩きながら猫の名前を連呼していた。
しかし、行方不明になったり亡くなったりして5匹以上いた猫は1匹になってしまった。残ったキクちゃんは、イデさんの帰りを待っていてミャーミャーと鳴く甘えん坊だったが、その他の人には警戒心が強く全くなつこうとはしなかった。
イデさんは、掃除が好きな人としてもテント村では知られていた。夏になると時には上半身裸で、冬でもごく薄着で、テントの回りや園道を竹箒で掃いていた。野宿者の中には、掃除好きな人がたまにいるものだが、イデさんの掃除は少し常軌を逸したところがあった。その様子は鬼気迫るものすらあった。いや、話しかけると普通のイデさんであったのだが、容易に話しかけにくいような集中の仕方だったのだ。イデさんのテントの回りには落ち葉一つなかった。皮肉なことだが、それが周囲とのトラブルの種になっていた。決してイデさんに悪意はなかったと思うけど、掃き掃除で飛んだ小石が回りのテントにぶつかったり、大切に育てていた植物が傷ついたり、そういうことで回りの人がストレスをためていた。イデさんはほぼ毎日、看板持ちの仕事で働いていたから朝が早くて、夜明け前の4時ころから掃除を始めていたのだ。そして、苦情を言ってもイデさんの掃除は止まらなかった。
もう10年以上も前のことだが、こんなこともあった。イデさんの近くには、羽が傷ついて飛べないカラスを飼っている人がいた。このカラスはいたずらカラスで、ぼくも困っていた。しつこくやってきては色んなものをつついてダメにする。靴を隠す。しかも、ちゃんといつも履いている靴を隠すのである。カラスの飼い主とイデさんは仲が良かったのだが、ある時、竹箒を振り回してイデさんがカラスを追いかけていた。威嚇なんてものではなくて、100%本気だ。カラスも必死で逃げている。イデさんは、ぼくらが座っているところにも走り込んできて、箒で一閃。イスの背もたれのプラスチックが砕け散った。カラスではなく、ぼくが危なくノックアウトされるところだった。イデさんは一言もなくカラスを追いかけ続けた。きっとカラスが猫にちょっかいを出したのだろうけど、イデさんの豹変ぶりにぼくは心底、驚いてしまった。穏やかに見えるイデさんの内側には、曰く言い難い、やりきれなさや憤懣が鬱積しているのではないだろうか。ぼくは、そう感じていた。
イデさんは、今のテント村の人とは多くの交流を持っていなかったが、元テント村の人たちはたまに訪れていた。それは主に、イデさんにお金を借りるためだったと思われる。イデさんは毎日働いていたし浪費もしなかったので、ギャンブルでスッた人たちが借りに来ていたのだ。人のいいイデさんは、きっと断らなかったのだろうと思う。
そんなイデさんの生活が激変したのは昨春のことだった。ストーブから引火して、テントが全焼したのだ。隣りのIさんのテントも少し類焼した。火を消そうとしたイデさんは手や顔に火傷を負った。ブルーシートは石油で出来ているから燃えやすく、また燃えたブルーシートは皮膚に張り付いて危険なのである。消防車がきて鎮火にあたり、テレビニュースにも取り上げられる騒ぎになった。イデさんの小屋はテント村で一番大きいくらいであったが、跡形もなく燃えてしまった。
数日後、イデさんは片手に包帯をして退院してきたが、それからも大変だった。Iさんとも相談して焼け跡の隣に、ぼくのところで余っていた小さなテントを再建した。イデさんは、焼け跡から必要なものを拾っていた。しかし、イデさんは白内障が悪化して、目がよく見えなくなっていた。カセットやラジカセやあらゆるものが溶けて渾然一体となっており、ものすごい高熱になったことを物語っていた。
イデさんが小さなテントにおさまると黒猫のキクちゃんも帰ってきた。この火事にもっとも驚いたのはキクちゃんだったにちがいない。ただ、イデさんの手が治るまで1ヶ月くらいの間、仕事に出られないイデさんに寄り添うことが出来たのは、キクちゃんにとって、うれしかったかもしれない。
東京都の公園課が火事を出したという理由でイデさんを追い出しにかかった。渋谷区の福祉課も連動して、もうテントには住めない、と圧力をかけた。イデさんが治療を受けている病院まで都の役人は押しかけてイデさんに出て行くように言った。サービスセンター(公園管理事務所)へ東京都から呼び出されたイデさんに、ぼくが同行しようとすると、センター中に入れないように役人や警備員が実力的にぼくを阻止した。
さらに、東京都はイデさんのテントの上のブルーシートとロープを無断で剥いで撤去した。取り返しにイデさんと共に付き添った時には、センター長が「ホームレスは(公園)利用者ではない」と暴言を吐いて、ぼくやIさんを追い出そうとしたこともあった。これらのことついては、当然、きちんと抗議をした。そういう騒動の中でも、イデさんの公園で暮らすという気持ちには強いものがあった(猫が大きな理由だった)のでマイペースにも見えたけど、実際はストレスと不安が相当あったにちがいない。東京都は、晴れた日には、雨よけのブルーシートを取り外すことをイデさんに約束させていた(ぼくらが追い出された時のことだ)。東京都にとってさえ、それが何の意味を持つのかぼくには全く理解ができなかった。しかし、イデさんは約束したからと言って、そのルールを守っていた。
数ヶ月して、東京都もようやく追い出しは諦め、イデさんのテントを守るために応援の人が集まることもなくなり、イデさんの生活は平常に戻っていった。だいぶ前からキクちゃんを呼び歩く声も耳にするようになったし、掃き掃除も再開していた。
イデさんの目はますます悪くなり、近くから声をかけて、やっとこちらに気がつくようになった。白内障の手術をするためには、まずは糖尿病の治療をする必要があったのだが、その終わりが見えてきた頃に、渋谷区の福祉とケンカをして病院通いを止めてしまった。イデさんの話では、仕事をしているのだから自費で手術をうけるように、福祉がしつこく言うから嫌になったとのことだった。ぼくの推測では、生活保護を受けない(公園から出て行かない)ことに対する嫌がらせだったのではないかと思う。
そのころは、イデさんの看板持ちの仕事も週の半分くらいまで減らされていた(一日5000円との話だった)。イデさんは、貯めているお金は、田舎の弟夫妻に世話になっている病気の妻の葬式代にすると言っていた。
今年の4月2日、ぼくは園道の掃除をしているイデさんと話した。イデさんのテントにはシートがかかっていなくて、中のテントもペチャンコになっていたのが見えたからだ。ぼくはドンキーホーテで新しいテントを買うことを勧めた。イデさんからは値段などを聞かれた。
あと、もう火事から1年もたったんだし、晴れた日にシート取るのはやらなくていいんじゃないの、とぼくは言った。いつものように、イデさんは、雨の日以外は畳んでもいいって念書を書いたからなぁと言いながらも、昨日は夕方から雨でテントの中がビショビショになっちゃったよ、と言った。そういうこともあるからさ、もう東京都もこだわってないんじゃないの、センターに交渉に行こうよ、一緒に行くからさ、とぼく。イデさんは少し笑いながらうなずいていた。明日は仕事だとイデさんは言っていたので、ぼくは、そのうち一緒に交渉できればいいと思っていた。ぼくは、イデさんの肌着がずいぶんと汚れていることが気になった。もともと服装に頓着しない方ではあったけど、顔も汚れていた。また、肌着から露出している首元が、広範囲にわたって象皮のように黒く変色していた。イデさんは、虫に刺された、薬は塗っている、と言っていたけど、皮膚炎のようだった。
4月4日深夜、Iさんに警察から電話があった。病院でイデさんが亡くなったことを告げられた。携帯に残っていた番号からかけてきたとのことだった。
――4月3日夜8時ころ、公園中央の大きな池に入っていく不審な人を見かけた花見客数人が、その人を引っ張りあげた。すでに意識はなかった。救急搬送されたが、4日夕方に息を引き取った。
警察の話は以上だった。
イデさんが、なぜ池に入り込んだのかは分からない。なぜ、帰路とは異なる方角にある池に向かったのか。目が悪いことが関係しているのだろうか。池の水深はひざぐらいしかないが、水底はコケによって滑りやすく場合によっては立ち上がれずに溺れることもあるかもしれない。しかし、それにしても腑に落ちない。花見客の中で自死を試みることも考えにくい。猫を残して、と思えば、その可能性はなおさらに低い。
その夜1時すぎ、警官たちがテントに遺書が残されていないかを調べにやってきた。中にいたキクちゃんが唸り声をあげた。遺書は、もちろん、なかった。結局はナゾである。ただ、イデさんの生活が次第に困難さを増してきていたことを想起しては、さまざまな思いが胸中を巡るばかりであった。
イデさんのあまりに突然な死の波紋はゆっくりと拡がった。ぼくたちは、イデさんのテント前に机を置き、焼香できる簡単な祭壇をつくった。テント村で誰かが亡くなるといつもそうするのである。たまたまイデさんを訪問した人たちが線香をあげていた。机の上には、缶コーヒーやワンカップや花が次第に置かれていったが、その中には猫缶も混ざっていた。そう、キクちゃん。イデさんの隣人だったIさんがテント脇に台車を置いて猫小屋を作った。でも、キクちゃんは、イデさんのテントや焼け跡に敷き詰められたシートの下などにひそんでいた。
イデさんのご遺族(弟)が上京してテント村を訪れた。ぼくは不在だったため会うことはなかったのだが、弟さんの話では、イデさんは若い頃に宗教に入ってそれっきり連絡がなかったという。ぼくらが住所を聞いていた実家は廃屋のまま放置されていたらしいが、たまたま弟さんが郵便ポストを見たら、こちらからの手紙が入っていたのだという。たまに田舎に連絡も取っているし、火事のことも知らせたとイデさんはぼくらには言っていたが、実際はどうだったのだろうか。イデさんの結婚相手の話なども弟さんからは出なかったという。
4月半ばを過ぎて、イデさんの追悼会をテント前で行った。テント村住人や元住人、ぼくらの友人、渋谷中の野良猫の世話をしている人、などが集まった。まずは荒井由実の「ひこうき雲」を流した。そして、テント村周辺にもっとも長く野宿しているKさんが般若心経を唱えた。鐘の代わりは灰皿だ。イデさんのことを口々に話し合ったが、そんなに多くのことは誰も知らなかった。そんなものだろう。
その数日後、センターと都はイデさんのテントを撤去し、1年間そのままだった焼け跡のガレキを処分した。センターの職員は作業に入る前に、「拝ませてください」と祭壇の前に立った。焼け跡のシートを剥がした時、黒い物が飛び出した。キクちゃんだった。センター長も「あれが猫ちゃん?」と驚いていた。それからのキクちゃんは、テント村から離れたところでたまに姿を見かけるだけになった。声をかけても脱兎のごとく逃げていった。こっそりと猫小屋のエサは食べていたようだが、ほとんど野生化していた。
ぼくらがテント前でお茶を飲んでいると、キャスターを引っ張ってきた日焼けした大柄のおじさんが、イデさんのとなりにテントを張るためにやってきた、と言い出した。そういう約束をしたようなのだ。おにぎりを配るボランティアをしていて、家はあるけど、火事を出した人に見て貰いながら夏の間だけテントで住もうと思って、冬は寒いから無理、となんだか要領を得ない。ぼくが、その方は最近亡くなったのです、と言うと、それほど驚いた様子もなかった。祭壇に案内すると、おじさんは「あ、何か言っている」とあたりに耳をこらして沈黙した。「みんなを幸せに頼んだって…」。おじさんは、焼香の仕方が分からないともじもじしていたが、いざ線香に火をつけ立てると、突然、「かわいそうに」と顔をくしゃくしゃにして泣き出した。そして、今日は帰ります、と慌てたように立ち去った。
イデさんの祭壇は49日設置してから、周りの住人と最後の線香をあげて片付けた。
それから3ヶ月もして、ぼくが水場で食器を洗っていると、30代くらいの身なりのきちんとした男性が「イデさん知りませんか?」と話しかけてきた。こういう場合、一応、警戒する。様々な過去を置いて出てきた人が多くいるためだ。彼はキリスト教のある宗派の人で、公園のベンチで週一回、イデさんに聖書のことを教えていた、という。イデさんの行方が分からなくて探しに来たという話だった。ぼくは、イデさんに起きた出来事を話した。彼は「人生の終盤になって、人生の意味を考えたいという人はけっこういるんです」と言った。また「イデさんはおだやかだから、話していて癒やされるという感じでした」とも言っていた。彼には、そろそろ田舎に帰ろうかな、とも話していたそうだ。ぼくは、イデさんのテントから遺品として預かっていた聖書のプリント(彼がつくったもの)を彼に返した。
その後、キクちゃんはIさんの熱心な世話によって次第に気持ちを開いていって、Iさんのテントに住み着くようになった。今では、Iさんの帰りを待っていて、帰ってくるとミャーミャーと大声で鳴く。イデさんと一緒の頃のキクちゃんに戻った。でも、料理で湯気や煙が出たりすると、唸り声をあげるという。火事のことを思い出すのだろう。

2020年3月25日

バタバタ公園バタフライ

第5回

それでもなんとか生きていく(か?)

コロナが猛威をふるっている。ふるっているらしい。
ぼくは、マスメディアにあまり接していないので、世間のニュースのほとんどは人伝てに、だいぶ遅れてやってくる。コロナのことも炊き出しが中止になりだして、ようやく身近に感じてきた。ぼくの住んでいる公園の周辺では、ぼぼ毎日、複数の炊き出しが行われている。主にキリスト教系だが、中には仏教や新興宗教などもやっている。それも、たいていは海外に、特にアジア諸国に本拠がある団体だ。日本の団体はむしろ少数派。ぼくは、あまり炊き出しに行っていない。なるべくなら食べたいものを食べたい。というか、材料が乏しくても料理することが一番の楽しみなのだ。それと、やはり、待たされたり並んだり説教をきいたり、と炊き出しの世界もそれなりに面倒がある。それでも、テントに持ってきてくれるものはありがたく頂戴しているし、週1回くらいは炊き出しも利用させてもらっている。他の人から配食されたものを貰うこともよくある。炊き出しは腹を満たすだけではなく、情報交換や交流の場にもなっている(それだから逆に行きにくい人もいるかもしれない)。
その炊き出しがコロナの影響で激減しているのだ。屋外とはいえ、どうしても密集するし、食品を扱うので、主催側としても万一のことを考えるのだろう。今のところ、このあたりでは、毎日午後に、おにぎりの配布があるので、炊き出しメインの人でもなんとか飢えることはないだろうが、長期化してくると、かなり厳しくなりそうだ。
炊き出し団体の中でも、形態を変えて続けているところもある。野宿者も交えて公園で炊事し配食していた支援団体は、パック飯に変えて、公園からすぐに立ち去るようにお願いしていた。テント村に弁当を持ってきていた教会は中止したが、有志によって菓子パンを配っている。グローブをしたり配布方法に気を使いながら、むしろ回数を増やすグループもある。
東京都建設局や都知事が花見の自粛を促しているが、これもけっこうな痛手だ。なぜなら、缶集めしている人にとって、花見は一年で最大の稼ぎ時だからだ。このところアルミの買い取り値段は下落傾向(キロ70円台)にあり、ただでさえ苦しそうだ。しかも、冬は缶ビールなどを飲まないから廃棄される量も少ない。缶集めの人にとって、春になれば、というのはけっこう切実な思いなのだ。テント村の缶集めの人たちは、仕方がないとあきらめ顔だったが。ぼくは缶集めをやっていないので関係ないようで、実はある。テント生活は、ブルーシート小屋という別名があるくらいで何かとブルーシートが必要なので、花見の時に一年分のそれを拾い集めているのだ。あと、折りたたみテーブルとか色んな拾い物ができる。(注 掲載前に花見シーズンに入ったので、聞いてみたところ、花見でのアルミ缶は例年の3分の1程度、とのこと。大規模な団体は来ていない。そのため、やはり大きなブルーシートはない。)
マラソンの警備員をやる予定がなくなったり、工事車両の洗車の仕事がなくなったり、賃労働をしている野宿者にもダイレクトな影響が出ている。
また、テントを持たない野宿者にとっては、一日中いられる場所として図書館は重要だ。渋谷区の図書館は通常どおりだが、新宿区の図書館は返却カウンターしか開いていない。
野宿者は公共スペースで生活している。そのため、公共セクションの動向が生活や生命に直結するところがある。
そのことで思い出すのは、昨年10月の台風19号時の避難所の対応である。台東区では避難所が野宿者の受け入れを公式に断ったため、大きな社会問題になった。その際に、渋谷区は「まともな対応」した自治体の例としてあげられることもあったが、実際のところは決して褒められたものではなかった。台風前日に、自分も参加している「ねる会議」という団体で渋谷区防災課を訪れた。避難所開設と野宿者受け入れについて確認するためだ。私たちが防災課を訪れたのは、雪などの時に避難できる場所を確保しようという議論を以前からしていたためもあるが、公園課に用事があったので、ついでという偶然な要素もあった。防災課は慌ただしい雰囲気に包まれていた。3カ所で避難所開設が、ちょうど決まったところだったようだ。そして、渋谷区職員は、野宿者も受け入れることを言明したのだった。すぐさま私たちは、それらの施設と「野宿者も利用できます」と記した手書きビラを作成し、公園内外や駅周辺などで配布した。
翌日の午前中、風雨が強まる中、10名ほどで避難所に出向いた。だが、3カ所のうち1カ所しか野宿者は受け入れる予定はない、今後はそこに行ってほしいと、派遣されていた渋谷区職員が言い出した。
また、渋谷区の避難所は前夜に10カ所ほどに拡大していたが、その1つの小学校へ「ねる会議」メンバーが行ってみたところ、原則として地域住民だけ、と副校長が野宿者の受け入れを拒否した。もちろん、私たちはこれらの対応について丁寧に抗議をした。昼過ぎになって、ようやく、野宿者を受け入れるよう、全避難所に通達されたらしかった。私たちに他の施設を斡旋しようとした職員も、その後は親身に対応してくれた。急迫する事態と混乱の中で、話の行き違いが生じることも理解はできる。ただ、野宿者にしわ寄せが行き、それが、無意識の差別の作用であることがうっすらと見えもした。それは、けっこう怖いことだ。
ちなみに、私たちは2時間ほど廊下で待たされて、ちがうフロアの広い部屋(スタジオ)に案内された。そのフロアは野宿者専用となったわけだった。そのことも微妙な感じはあるが、でも実際のところ、一般住民と混ざるより、のびのびできたことも事実だろう。炊き出しでもらった食べものを交換したり、ラジオ中継をみんなで聞いたり、のんびりした時間を過ごした。台風の時は、テントをたたく雨や終始続く落木の音などで、なかなか眠れない。倒木や、垂直に落ちてきて地面に突き刺さる枝などがあって心臓に悪い。それに比べて、建物の中の冗談みたいな静けさよ。よく眠れたと言っていた人も多かった。
野宿者は私物もお金も最小限しか持たない人が多いので、その分、公共的なものに関係して生活している。これは、孤絶した存在として描かれがちな野宿者像から遠いことなのではないだろうか。炊き出しも含めた公共的なネットワークの中で生きているし、また、野宿者同士のつくるネットワークの中でも生きている。
そもそも、ぼくは公園に住んでいるし、他の人にしても、道路上だったり河川敷だったり施設の軒下だったり、公共地に暮らしている。そして、この地表というものの公共性、だれのものでもないという始原的なあり方まで考えたときには、野宿者の暮らしは、そういう未分化の所有というものに根ざしているとイメージすることができる。そして、ついでながら言えば、地球規模に広がるウィルスの伸張とそれを囲い込んで消滅させようとしている人類の努力を見ながら、始原的なものと所有権秩序の相克を連想してしまう。
なんだか話が抽象的になってきたが、野宿者は、行政サービスなどに代表される公共、未分化の所有に根ざした公共、という2重の公共の中で生きているのだと思う。
そして、それでもどうにかなる、という部分の多くは後者に依拠している。
街に落ちている廃物を利用して暮らすこと、それらの物を交換しながら関係を作ること、これらは未分化の所有の実践である。また、公共施設にしても、想定されているものとは異なる使い方をしていることは、未分化の所有に属することとも言える。
大規模災害が起きた時、多くの人が一時的にしろ、野宿者あるいは野宿者的な生活になるだろう(し、なってきた)。公的機関が充分に機能するとは思えない。その時に、有用なのは、こうした知恵であるにちがいない。
コロナの今後は不透明だが、すでに野宿生活にかなりの影響を及ぼしている。放射能の時もそうだったのだが、知り合いの野宿者たちはあまり動じていないようだ。影響をもっとも受けがちなグループの1つが野宿者なのも確かだが、すでに避難生活を長年経験しているのも野宿者である。
それでもなんとかなるのかどうかは分からない。

2020年4月24日

バタバタ公園バタフライ

第6回

結局、ホームレスはコロナ10万円、貰えるのか?

10万円。野宿者にとって、この額はでかい。直截的すぎるタイトルにしたのは、そのためだ。多くの野宿者にとり、3ヶ月〜半年の生活費に相当する。平均的な俸給生活者のレートに直せば、50万から100万くらいの感じだ。炊き出しは減り、アルミ缶の値段が下がり、仕事がなくなっている現在において、否応なしに期待は高まる。
コロナ給付金のことを考えると夜も眠れないという人もいるくらい、現在、野宿者の一大関心事だ。もちろん、金額だけではない。「すべての住民」に自分たちは入っているのか、という問題でもあるからだ。
20日高市総務大臣の記者会見をうけて、メディアは路上生活者も給付が受けられると一斉に報じた。しかし、住民登録している市区町村の役所で申請給付と聞いて、あきらめ顔の人やがっくりしている人がほとんどだ。
報道とは裏腹に、現行のやり方では、多くの野宿者には10万円が給付されないことは明らかだ。もし、このままで政府が押し通すならば、もっとも困窮している一群の人に生活保障のお金は渡らず、すべての人に給付というのはかけ声だけの空約束に過ぎなくなる。

ホームレスにとってのコロナ給付金の問題点

①住民票のある場所に住んでいない
だからホームレスなのだ。また、住民票が抹消されている人、どこにあるのか分からない人もいる。政府は住民票を復活させれば支給する、と言っているし、住民票は戸籍の附票によって判明するが、無戸籍者にも対応するらしいが、それらの手続きについてサポートがなければ出来ない人はかなりいる。
②申請書が郵送では受け取れない
(ほぼ)全ての野宿者は郵便受けを持っていない。現行では、マイナンバーカードを持っていない人の申請書は郵送することになっている。住民票のある役所から転送などによって申請書を取り寄せようとしても郵便受けがなければ受け取ることが出来ない。
③世帯主との関係が良くない
世帯主が自分でなく、親・兄弟や配偶者である方もいる。世帯主にまとめて給付されるので、世帯主とやりとりできる関係でなければ、給付を受けられない。
④本人確認書類がない
現在有効な免許証・パスポートなどの顔写真付きの身分証明書がない人、保険証や社員証などもない人がほとんどだから、本人確認の提出ができず、給付が受けられない。

野宿者に給付するためには

①について
「今いる場所」の役所で申請・給付をする。DV被害者について、一定の要件を満たせば、このようにすると総務省は説明している。当然の事だ。しかし、DV被害者のみではなく、野宿者も含めるべきである。
②について
実は野宿者であっても郵便受けを作れば郵便は届く(現にぼくがそうである)。郵便法において、何人も郵便の利用について差別されることがない(第5条)と規定されている。しかし、このことは周知されていないし、定住していない野宿者にとっては現実的な話ではない。現状として、郵便受けを持たないのだから、それに対応した方法で申請書が受け取れなければならない。1つは郵便局留めだろう。2009年定額給付金の時には出来たようだ。また、すべての役所の福祉課などで受け取り可能にすべきだ。
そもそも申請書を役所窓口で入手できるように工夫すれば、この問題自体がなくなる。
③について
これもDV被害者のケースに準じて考えればいいと思う。世帯主とは別に給付を受けたい人は「今いる場所」の役所に申し出を行い、申請・給付が受けられるようにする。その場合は、世帯主からの申請があってもその人の分は支給をしないようにすれば良い。
④について
顔写真付きの地方公共団体の機関が発行している身分証明書ならいいはずだ。とすれば、最近は渋谷や新宿でも東京都の特別就労対策事業(公園の清掃など軽微な内容の日雇い労働者向けの仕事)の求職受付票、通称ダンボール手帳を持っている人がそれなりにいるので、まずは、これを身分証明書として認めれば良い。ダンボール手帳も持っていない人については、職員の聞き取りなどで対応すれば良い。

コールセンターとのやりとり

これらの問題点について、総務省が設置しているコールセンター(0356385855)に質問してみた。しかし、この3日間に結構かけたが、回線が現在混雑しています、というアナウンスが流れるのみ。100回目くらいに奇跡のように繋がってびっくりした。
しかし、自分の電話が10分無料で、うっかり10分たつと切れる設定になっていたため、もっと聞きたいこと言いたいことはあったが、あわてて質問することになった。
以下、野宿者のことを聞きたい、として

 申請書が郵送だと受け取れない、身近な役所窓口で申請書をもらえるのか?
 やむ得ない場合に限り、役所窓口で申請給付が受けられる。詳細が決まっていない。各自治体と相談して決めたい。
 申請書が窓口で貰えるように検討はしているということですね。
 さようです。

 身分証明書は、ダンボール手帳が使えるか?
 現段階では本人確認書類が決まっていない。身分証明書がない方もいるので、いろいろ検討しているところ。

 世帯主にアクセスできない人について、今いる場所の役所での申請給付を、DV被害者だけでなく、考えているのか?
 住所不定者に対する救済処置は検討している。
 それは、住民票が抹消されている人については4月27日以降に住民登録しても給付されるという話のことですよね。
 さようです。
 さきほどの点については検討しているのか?
 お声としてあげている。補正予算案が決まらないと固まらない内容。総務省にあげて今後検討していく。

 申請書を「今いる場所」に送る場合、郵便局で転送設定をお願いすることになるのか?
 郵便形式については転送可能になるのか、転送不要になるのかまだ決まっていない。
 場合によっては、住民票のある役所から直接、今いる場所に郵送されることになるのか?
 そうですね。もしくは、住所に届かなかった場合、転送がきかなかった場合は、役所に戻ってくるので、お近くの自治体に確認・相談して、自治体の方から何らか手続きをする形になると思います。

むろん、申請書は役所窓口などで入手できるように、ダンボール手帳を本人確認書類にするように、現在地での申請給付をDV被害者だけでなくひろげるように、意見させてもらった。

今いる場所が生活の本拠である

2006年、大阪の公園に住んでいる野宿者が、テントへの転居届を受理しなかった大阪の区長を相手に裁判を起こした。つまりは公園のテントを住所にして住民登録できるように求めた。地裁は、生活の本拠、が住所であるとし、区長は転居届を受理しなければならない、とする画期的な判決を下した。しかし、高裁は、「健全な社会通念」に基づいて請求を退ける逆転判決を下し、最高裁は高裁判決を支持した。法律の判断を司法が投げ捨てたことを認めたとも言える異様な判決であった。
また、2007年には支援団体の事務所などに置いていた日雇い労働者・野宿者などの住民票を大阪市が2000名以上職権削除するという出来事があったし、簡易宿泊所に泊まれず住民票を移動できない野宿者については、何の代替処置もしなかった。住民票がなければ、選挙権もなくなる。野宿者に好意的な政治家があまりいないのも、選挙の数に入らないせいかと勘ぐりたくもなる。
また、最近、運転免許証の住所とテントの場所がちがうとして、免状不実記載の疑いで家宅捜索をうけた人がいる。この場合、免許証がテントの場所(居所)で取得できるのか、と言えば、それは簡単ではないだろう。
野宿者は、今いる場所、に住民票も置けないし、それを補完するような権利も確立されていない。
今回、コロナ給付金で浮き彫りになってきているのは、野宿者の、今いる場所=生活の本拠、における権利がそもそも剥奪されているということである。
今いる場所に基づいて、10万円を支給すること。DV被害者に対する考え方を適用すれば、困難な事ではないはずだ。
野宿者にとっては、10万円は生活保障というより生命保証だ。野宿者のことに関わる人たちや世間の声を結集して政府に要求していくべきだし、非力ながらぼくもその列に加わりたいと思う。
行政はすぐに本気で取り組んでいただきたい。

※この原稿は4月24日現在の筆者が触れ得た情報に基づいて書きました。コロナ給付金については、現在、不明なこと、未決定なこと、見込みなことが多いため、最新の情報も併せ、ご確認ください。

2021年2月8日

バタバタ公園バタフライ

第7回

2度目の緊急事態宣言

2度目の緊急事態宣言の中で東京の野宿者たちはどう過ごしているのか、ということの前に、前回の緊急事態宣言時に閣議決定された特別定額給付金、一律10万円のことがまだ終わっていないのです。ほとんどの方は昨年夏には支給されていたわけで、もうとっくに使ったよ、というのが当たり前の話です。現在、2度目の一律給付金についても取りざたされているところ。まぁ、それを考えるに当たっても、これは重要な話ではあります。
なんで、まだ終わっていないのか。就籍という手続きをしている人がいるためです。就籍というのは、戸籍を新たにつくることです。なんで戸籍をつくる必要があるのかといえば、戸籍がないと住民登録ができないからです。なんで住民登録する必要があるのかといえば、住民登録しないと給付金を受給できないからです。逆にたどると、給付金→住民登録→戸籍、という風にめんどくさいことが数珠つなぎになっているが故に、まだ手続きが終わっていない人がいるんですね。本当に面倒です。
私たちは(全国の野宿者や支援者による多くの団体もまた)、定額給付金と住民登録は本来なんの関係もないのだから、住民登録を要件にせず支給するように総務省に求めました。どうしても住民登録というならば、テントや路上あるいは福祉事務所の住所で登録させるように、まぁ、そういうことも求めました。
個人的にいえば、昨年の春から夏、そして秋と、ずーーと給付金のことに関わってきました。特に夏はかかりっきりでした。総務省前で泊まり込みもしたんですよ。これは大手メディアには全く報道されていないですが。総務省の敷地内、玄関前で30名ほど段ボールを敷いて泊まり込みというのは前代未聞のはずです。8月4日、5日のことでした。泊まり込みといっても、総務省の役人たちが全くのゼロ回答、しかも、こちらは全員での交渉を求めた(5月20日には実現させた)にも関わらず、6名に絞れといって小部屋しか用意しないので、きちんと対応しろ、と回答待ちの態勢で全国からの署名を胸に一夜を明かしたのでした。ぼくはあんまり眠れなかったですが、日頃から段ボールで野宿している山谷のメンバーなどは、蚊がいなくてよく眠れた、と言って元気でした。すごいなぁ。日中は死ぬほど暑かったです。官庁街というのは殺風景なところで、蚊がいないのはいいけど建物の陰しか日陰がない。ぼくは熱中症になりかかってクラクラでした。5日になって、ようやく、みんなの前に役人たちが姿を現したので署名を手交しましたが、ゼロ回答のまま。日が暮れ涼しくなってきた総務省前を立ち去る時、今年の夏は終わったなぁ、と思いました。つまり、総務省を動かすことは出来なかったな、と感じたのです。それからも大変は大変でした。背に腹は変えられないので、住民登録できる場所を確保して受給できるように自治体との交渉や野宿のみんなへの案内に奔走しました。結局のところ、総務省が住民登録ありき、という大方針を変えなかったために、当事者はもとより、各地の支援団体、自治体に過重な負担がかかったのでした。
総務省の役人が言っていたのは、住民登録以外のやり方をすると、2重払い防止ができない、法的な問題がある、迅速にできない、新たなシステムを構築する予算がない、ということでした。それに対しては、私たちも新たなスキームを提出しました。私たちだけではなく、法曹家のグループも提出していました。細かい論点はいろいろあるわけですけど、私たちのスキームで、2重払い防止はできたと思います。新たなシステムというほどのものも必要ありません。迅速さでいえば、1ヶ月くらいは余計にかかったと思います。法的な問題は、住基ネットまたは戸籍の運用が絡んでおり、政治的な判断が必要だったかもしれませんが、そのための熱意が総務省にはなかったと思います。もちろん素人が考えたものなので、いろいろ穴があったり、それでも貰えない人もいたと思いますが、野宿者に関して捕捉率がだいぶ上がったはずです。
また個人的な話になりますが、住民登録、戸籍、こういうことを考えないまま、ここまで生きてきました。実家を出てからは、同棲したり居候したりしていて、自分でアパートを借りるなんてこともなかったわけです。そして、50歳。まぁ、年齢のことはいいですが、野宿者の知人から教えてもらいましたが、50歳になって結婚していないと生涯未婚者になるらしいです。なので未婚者だし、戸籍もそのままです。
ちょっと雲をつかむようなところがあったのですが、この間の給付金騒ぎで多少は勉強になりました。
まず、戸籍が不明である人が一定数いることが分かりました。この件で関わった80名ほどの中で5〜10名くらい。その中でも、本人の記憶をさかのぼって当該自治体を調べる等しても、どうにも判明しない方も3名いました。出生届がない無戸籍者で法務局が把握している場合は、住民登録がなくても受給可能(登録を前提としない唯一の例外)なのですが、不明では、それも当てはまらない。ただし、本籍がはっきりしないと住民票はつくれない、というのはあくまでも自治体の運用の話です。法律に書かれているわけではないのです。むしろ住民基本台帳法(第7条)では「本籍がない者および本籍が明らかでない者については、その旨」を住民票に記載することになっています。しかし住民票と戸籍が、<戸籍の附票>という住所の履歴を記した文書によって紐付けされている関係上、附票に記載できないという事務的な不備が発生します。また、戸籍情報がないと最終的な本人確認ができないと役所が言うわけです。本人確認できない、って言われてもねぇ、、、俺は俺だよ、と本人にとっては不条理な話です。本人確認は、手持ちのもの(診察券や手紙なども含め)なども有効ではあるのですが、戸籍の記載情報を利用しての聞き取りが決定打らしいです。そうして2名の方は給付金をあきらめてしまいました。一人は戸籍をつくる手続きに入ることになりました。
ここで一言はさんでおくと、総務省を動かせなかった、と書きましたが、粘り強い運動によって勝ち取ったこともありました。申請締め切りは、申請書の郵送開始から3ヶ月以内と実施要領で定められています。スタートが違うので、締め切りも各自治体によってマチマチでしたが、多くは8月末前後でした。渋谷の場合は8月25日。もう半年近く前ですね。それでも今でも給付金の手続きが可能なケースがあるのは、総務省が7月16日に各自治体向けに以下の事務連絡を発出したためです。
「住民登録のないホームレス等の方で、住民登録の意向を持つ方から、申請期限直前に給付金の申請の申し出があり、期限をまたいで住民登録の審査が行われることとなった場合は、その後、遡って申請期限までの日付を住民となった日として住民票が作成されれば、適正な申請として取り扱って差し支えない」
つまり、締め切り前に給付金の申請を申し出て、住民登録の審査に何らか入っていれば、自治体判断で支給していいですよ、ということです。これは、申請締切の延長を運動側が総務省に強く要求した結果だったと思います。
さて、戸籍の就籍に必要なことは何でしょう? それは日本国籍の証明です。また出てきましたよ。戸籍の先にも国籍という数珠がまだ連なっているのでした。日本は1985年から父親か母親が日本人であったら、子どもが日本の国籍を得られるようになりました(呆れたことに、その前は父親だけです)。父親か母親が日本人であることをどう証明するかといえば、戸籍があることによって、、、だから、戸籍が不明だから作ろうっていうんでしょうが。堂々巡りです。家庭裁判所に就籍申し立てに行った時、受付の方も、そんな証明ありませんよねぇ、と一人ごちていました。
で、この先、どうなるんでしょうか? まだ家裁の調査が始まっていないので未知数であるとしか言えないです。
そして、翻って考えてみると、この当該の方は、60数年の人生の大半において、これらの数珠たちとなんの関係もなく暮らしてきたわけでした。飯場にいったり日雇いしたり野宿したりアルミ缶集めしたり、という生活の中では、すっきりと関係ないことでした。別にそんなのなくてもどうってことない、と言えば言えるわけです。むしろ多くの野宿者は、そのような数珠から逃げるように避けるように生きてきたわけです。言い換えれば、国家に管理されたくないということです。住民登録という話が出てきた時点で、俺(私)には関係ない、関わりたくない、という人もいたと思います。まぁ、それを旗印に、しゃちほこばっているわけではないので、給付金だといわれれば貰っておくけど、という人も、もちろんいます。10万円といえば大金ですからね。それで一時は管理されそうになっても、結局はされないだろうと思います。就籍しようとしている方を含め、そういう人たちと肌を接して暮らしているぼくには皮膚感覚として伝わってくるものです。
今回の給付金のことで、つまり国家は「すべての人」を把握できていない、ということもあぶり出されたわけです。すべての人に配るといいながら、それが出来なかったのだから、政府や官僚は失敗しましたと恥じてもよいはずです。彼らには反省してもらう必要がありますが、だからといって無闇に管理されたいわけではありません。
繰り返しますが、10万円を貰うのに住民票が必要です、なければ登録してください、というやり方しかなかったのが問題だったわけです。住民登録できないところで生活している人たちが一定数いるのが現実ですし、コロナで困っているのは、住民票のあるなしとは関係ないことだからです。
たとえば、マイナンバーカードを持っている人だけに支給します、なければカードを作ってください、ということであったら、おかしいと思う人もたくさんいたでしょう。実際、マイナンバーカードを持っている人はオンライン申請が出来ます、というアドバンテージを付加しましたが、混乱が生じて郵送した方が早いなどというマヌケなことになりました。しかし、何年か先には普通なことになっているかもしれません。そういう枠組みは誰か(政府とか)が作っているのですが、現在は処罰より利益誘導的に作られ(なんかおトクー)、その枠組みが社会通念になり常識化していきます。しかし、その枠組みは変化するもので、また、自分たちで変化させることもできるはずです。暮らしの中で、それを考えていくのがいいと思うんですけどねぇ。

給付金の話がだいぶ長くなりました。書き出したら数時間ですけど、実はこれを書くまで3ヶ月くらい筆が進まなかったんです。書けないことや不首尾なこともあるし、またテーマが実は大きくて、便秘気味だったわけです。
どれくらい貰えない人がいたのか、調べる必要があるだろうと思って、それも果たせないでいます。本当は、それは立案実行した政府の責務だと思いますけどね。たとえば、ぼくのいるテント村付近、30名ほどの中で、受給したのは3割ほどだったと思います。また、野宿している人だけが貰えなかったということではないんです。たとえば、無料定額宿泊所という野宿者が生活保護を取ったら、たいてい行くことになる民間の施設(別名、貧困ビジネスとも言われてます)があります。渋谷区で利用している宿泊所約15箇所ほどの中で、住民登録可能なところは1つだけです。ということは、それ以外の施設に入っていて住民登録がどこにも残っていなかった人は貰えてないはずです。どこかにあっても申請書を手に出来た人は限られているでしょう。また、野宿者で入院していた人は、役所窓口で相談することすら出来なかったでしょう。そういうことは誰も調べていません。
まだまだ書くことはあるんですけど、、。話が進まないので、現在の話をします。
1月8日から始まった緊急事態宣言。おおむね前回よりも落ち着いた受け止めがなされているように感じます。1回目の時は炊き出しが半減しましたが、今のところ1つ2つが取りやめになっただけです。しかし、宣言が延期になったので、他にも取りやめるところも出てくるかもしれません。ただ、前回の経験があるので、やれるところは状況をみて炊き出しを増やすでしょう。アルミ缶の値段が下落したというようなこともありません(中国への輸出が買い取り価格に反映するらしいです)。
マスクをする、こまめに手指の消毒をする、は野宿者の間でもすっかり定着をしました。今年度の越年越冬闘争は宣言前のことでしたが、陽性者数がうなぎのぼりになっている時だったこともあり、各地とも例年とは大きく変更して行われました。渋谷ではボランティアからの感染も懸念して、なるべく少人数で炊き出しすることになりました。芝居や餅つき、紅白鑑賞、新年乾杯などのイベントはすべて取りやめました。しかし、新たに野宿になる人のためにも泊まれるようにしました。とはいっても、大テントで集団夜営というわけにはいかないので、一人用テントを多く用意しました。昨年度の越年では一日50人くらい泊まる日もありましたが、今年度は多くて15人ほど。その理由の1つは、12月29日から1月4日にかけて、東京都が主に野宿者を対象にしてビジネスホテルの部屋を提供したためです。食べ物はありあわせの備蓄品だったようですが、(ホテルだから当たり前ですが)シャワーもあると利用した人は喜んでいました。
もう1つ、昨年末くらいからテント村や炊き出しにユーチューバーたちが頻繁にやってくるようになりました。野宿者は手近な対象でありながら、だいぶ閲覧数が稼げるようです。その取材姿勢や内容がマスメディアに比して酷いと一律に言うこともできないでしょうが、野宿者の抱える様々な事情や襲撃の危険性などに理解も配慮もないままに取材している浅薄な内容が多いと感じます。金につられて、または断れなくて番組に出てしまった人が後悔していることもあります。ぼくのテントにも週1回くらい、そういう取材者がやってくる。もちろん断るし、まぁ、説諭したりもします。ぼくの推測にすぎないのですが、ユーチューバーの身辺での横溢は、コロナで、スマホを部屋で見るしかない視聴者と、仕事があまりなくなった取材者と、街にいて少し浮いている野宿者の、波の重なりみたいなものではないかと思います。野宿者が嫌な形で異物化されなければよいなと思ってます。
昨年は亡くなる野宿者が例年より少し多かったです。コロナが野宿者の間で、はやっているということではありませんよ。屋外にいることが多い野宿者の感染機会は、むしろ比較的少ないかもしれません。しかしコロナに罹患しなくても、コロナの影響は野宿者の生活と心身にも少しずつ、弱いところ目立たないところから浸潤してきていると思います。
昨年は花見はありませんでした。今年はどうなるんでしょうか? 公園にいると、酔っぱらいが増えてうんざりするわけですが、アルミ缶をたくさん拾えたりブルーシートを確保したり、それはそれなりに、春が来た、といったような晴れがましさはあるものです。今年も花見がないとすると、やはり少しさびしいですね。

※住民登録のない野宿者への給付金を巡っては、さまざまな団体が声をあげました。ぼくが参加している「ねる会議」も、大阪(釜ヶ崎)・山谷・三鷹・横浜(寿町)などの団体と連携して行動しました。こういうことも近年はあまりなかった経験でした。交渉や行動などの具体的な内容については「みんなの宮下公園を守るブログ」が詳しいです。

資料の説明

給付金に関する野宿者についての要望書等と総務省通知(事務連絡等)をまとめました。

1、要望書等
4・27要望書
5・20要望書
6・30要望書
8・4給付金スキーム
8・17要望書
「ねる会議」が関わっている総務省等に提出した主な要望書です。
8・4給付金スキームは同日の総務省交渉において提出したものです。これは総務省・法務省・厚労省を相手にした6月30日の政府交渉の際に、大阪の団体が提出したスキームを元にしています。また、住基ネット利用に法的問題があるとの総務省見解に対し、8・17要望書では改良したスキームを付しています。
同じ主題の要望書は、ホームレス総合相談ネットワーク(6月5日)NPOもやい(6月10日)などからも出されています。

2、総務省の通知
4・28特別定額給付金室通知
4・30特別定額給付金給付事業実施要領
6・17住民制度課通知
7・17住民制度課通知
7・17特別定額給付金室通知
簡単に問題点を指摘します。
4・28通知ー自治体が野宿者に対して給付金の周知をはかるようにとの内容になっていますが、ほとんどの自治体においてはそのようなことは行われなかったと思います。給付金を担った部署は自治体によってバラバラでしたが、地域振興課や住民戸籍課など野宿者についての情報や知識がない部署が中心になっていることが多く、また福祉課との連携もなされていませんでした。
住民登録の場所としてあげている、自立生活センターは満床状態であり、ネットカフェで住民登録できるところは実質的にはありません。
6・17通知ーすでに行っていると言う自治体から、従うことは出来ないと言う自治体まであった、解釈に幅がある内容。大阪市でワンナイト・シェルターで住民登録をすることになったのは、この通知が影響していると思う。ただ、そのような施設がないところでは有効性がない。
7・17通知(住民制度課)ー給付金支給を目的とした緊急処置ではない、としている。しかし、このタイミングでの発出は給付金を念頭においたものであることは明らかであり、それならば緊急処置として従来の住民登録の概念にこだわらない内容のものを出すべきであった。なお、問11に関して、橋の下で住民登録を認められた例もある。少なくとも、河川敷や庁舎で住民登録を認めないという判例は存在しない。
7・17通知(給付金室)ー給付金事務においても住基ネットの利用は可能であると明言すべきであった。自治体において対応が分かれることになった。これが給付金室からの野宿者に関する最後の通知になったわけだが、問6で実質的な期間延長を提示したこと以外に踏み込んだ内容がない。ちなみに民間支援団体への財政補助について書いてあるが、一緒に行動した団体・個人はそのようなお金を受け取っていない。

2021年10月20日

バタバタ公園バタフライ

第8回

「森の賢者」は、いない

漠然とながら、ホームレスと言われる人の中に、都会の森に身を潜めた哲学者というべき型があるのではないか、という思いがあった。深い思索を極めた聖なる世捨て人たる老賢者。しかし、ぼくが思い描いたような人には、ついに出会わなかったと言っていい。
それと重なりつつ、すべてが重なるわけでもないこととしては、本を読むような人は野宿者には、あまりいないという事実がある。特に、人文書を読むような人は極めて少ない。
ぼくは本の世界に親しんできたし、今も親しんでいる。また、野宿者になるまでは、周囲にいる人も、そんな人が多かった。しかし、そういうタイプの人間というのは、世の中において少数であり、まして野宿者の世界では、ほぼ皆無であるということを永らく意識していなかった。
つまり、教養主義的というか教養指向の人がいない。エノアールで読書会を始めるようになって、それが明白になった。そこにはアートが好きだったり、日頃から哲学の本なども読んでいる人たちがきている。ぼくは楽しいし触発される。しかし、そこで交わされる、それなりに知的な会話というのは、参加していた野宿の人には、おおよそ火星人の会話みたいだったかもしれない。そこでの単語、常識、比喩といったものは、なかなか通じない。そのギャップから生まれるものもあったけれど、やはり基本的に分からない話は退屈なはずだ。結局のところ、野宿者が参加することはなくなった。
一言でいえば、そのような教養はなくても、ここでは生きていけるのである。
野宿者の世界においては以下のごとくである。
全く読み書きできない非識字の人が、ごく少数いる。スーパーで一緒に買い物している人が、手当たり次第、カゴに品物を放り込んでいくので、びっくりしたことがあった。見慣れた品物であっても品名や値札は、それとなく見るものだが、それがない。あとで、字が読めないのだと他の人から教えられた。ちなみにスーパーで本人は、かなり得意そうだった。
ひらがなと簡単な漢字は読めるが、書くのは難しいという人はけっこういる。それらの人は、役所的な文書を作る時には、代筆してもらっていることが多い。野宿の世界にいる限り、そんなに困ることはない。
読み書きできても、活字を読まない人は多い。活字は読んでも、スポーツ新聞だけという人も同じくらい。五輪反対運動をぼくがしていることを知っている人は、スポーツ新聞の情報で、いろいろと教えてくれた。
ここからは、ぐっと少なくなるが、時代物とか大衆小説を読む人はいる。週刊誌(新潮とか文春など)を読む層とだいたい重なっている気がする。
これで活字の世界は、ほぼ打ち止めである。
なお、若い野宿者は状況が違う。ネット依存の人も多い。そういう流れで、ライトノベルを読む人はいる。

支援者には高学歴な人も多く、それらの人は教養指向が身についている。野宿者と支援者の間には、そのような溝もある。そのような溝の架橋として、または象徴として、支援団体がつくる「仲間」(野宿者)向けの新聞(通信)がある。内容は、行政交渉などの告知や報告、野宿に関する情報などである。支援者たちが、炊き出し時や野宿者の寝場所に出向いて配布している。教養人である支援者が文字で伝えようと考えるのは自然である。しかし、機関誌や左翼の雑誌に書く時のような文章では、ほとんど野宿者は読まない/読めない。そのため、文章は平易に、漢字には送り仮名を振る。その結果として、それらの新聞(通信)がどれほど読まれるようになるのか分からないけど、全く読まれないというわけでもない。唯一の読み物という人もいそうだ。
しかし、正しい情報をいくら書いても口コミには負ける。野宿者は噂社会で生きているからである。ぼくは、そういう通信に記事を書いているし、この公園だけで配る新聞もテント村の人とともに作ってきたけど、そういう溝は常に感じている。
そもそも本(文字)を読むというのはどういうことなのだろうか。高校生の頃、周囲から隔絶して本を読むこと、本の世界に触れることは、自分にとって大いなる慰めで数少ない救いでもあった。切実さの度合いや動機は様々であったとしても、見聞を広め、自分の考えを内省する時間を持つということだろう。そして、それは基本的には一人で行うことである。
一方で、話す世界には相手が必要だ。会話というのは、続けることが第一義で内容は二の次である。そのため、会話というのは人生における時間の耐えがたさを緩和するもので(逆にいえば、人生の耐えがたさを浮き彫りにするもので)、人生の意味を深めるものではない、たいてい。いやいや、そうでない会話もある。どっちにしても、会話というのは、生きている場を維持するためのものである。野宿者にとって、会話はとても大切だ。
人との関わりをあまり持たないようにしている野宿者の一部が、活字が好きな人たちである。
ぼくのテントには本棚がある。そこには、わりと人文系の本が並んでいる。でも、たいして読んでいるわけではない。お守り?。なんか嫌になって、処分したくなってきた。それでも、捨てられない本は、それなりの数あるはず。
そして、このブログの文章だが、やはり読んでいる人は教養のある人だろう。それは特殊な世界なのだということを苦い味とともに考えることも必要だと思う。その苦さは、座りの悪い自分の苦さでもある。

残念ながら、野宿者に森の賢者はいない。それでも、生き方において、地金が光るような人に出会ってきた。それは、その人に会わなければ、存在することが想像しにくい存在である。そのエッセンスを言葉で表現することは難しい。それでも、教養主義とは異なるやり方で表してみたいという思いがぼくにはある。

2021年12月8日

バタバタ公園バタフライ

第9回

2020東京オリパラ大会と野宿者排除

わたしは2013年初頭から<反五輪の会>メンバーとして、オリンピック反対運動を続けてきたので、ほかの論点や感想もコモゴモあるが、今回は標題の点だけに絞りたい。というのも、ネットや雑誌で、この点についての色々な発言や記事があり、自分の知る限りの正確なところを記しておく必要を感じたためだ。

あくまでも管見の範囲なので確定的なものではないが、2020東京オリパラで排除された野宿者は、145名、間接的な影響で排除された野宿者は41名、計186名になる。
数字に入っていない未遂のケースも含めて、その概要を書いてみたい。

1、視察での排除

2013年3月4日~7日、IOC評価委員会の東京視察が行われた。国立競技場から代々木競技場の間の都道にあった野宿者の荷物に、警告書が大量に貼られた。「2月27日までに撤去しない場合は不要な物として処分する。その後、3月8日までの間、この付近に放置された荷物・テントはすべて即刻撤去する。 東京都建設局第二建設事務所 代々木警察」という内容だった。
当時、代々木公園付近の都道に10張ほどのテント、約20人分の荷物があり、国立競技場付近の都道に約10人分の荷物があった。
代々木公園内に移動させた荷物には、公園のサービスセンターが翌日撤去期限の警告書を貼った。また、移動した宮下公園前の道路で荷物に放火され、全て焼失された方もいた(この時期、渋谷近辺では野宿者の荷物に対する放火が頻発していた)。これらの人たちは、10日近く、不安とストレスの多い日々を送ることになった。
道路を管理する第二建設事務所は「通常業務」とシラを切ったが、「上から口止めされている。言ったら俺の首が飛ぶ」という職員もいた。また、国立競技場に接する明治公園でテント・小屋に暮らしていた約10名の野宿者は、園内の一隅に集められ、周囲から見えないように白いシートで囲われた。
正確なバスコースをIOCから都は教えられていなかったという話で、警告書を貼った都道ではバスは通らず、多くの人が荷物を移動させた場所の前をIOC委員のバスが通ることになった。

2、開催準備

・明治公園

明治公園では、国立競技場の西側沿いの〈四季の庭〉に、古い人で30年近く、約10名がテント・小屋で生活していた。また、明治公園霞岳広場、国立競技場の軒下、東京体育館や近場のトンネルなどに夜だけ就寝する人も点在した。
東京五輪が決定した直後の2013年10月下旬、東京都の東部公園緑地事務所が小屋を訪問し「11月か12月に工事に入るので立ち退いてください」と勧告した。しかし、国立競技場を運営管理する、工事発注者の日本スポーツ振興センター(JSC)に確認してみたところ、予定されている埋蔵文化財調査は小屋から離れており影響がないことが分かった。東部公園緑地事務所も事実誤認の可能性があることを認めた。

この時期、東京都は先走って野宿者対策を行おうとしていた。わたしが住む公園でも、職員が「オリンピックも決まったことだし、そろそろ考えてくれ」というようなことを言っていた。五輪をやるなら野宿者はいなくなってほしい、少なくとも見えなくなってほしい、という空気が職場に入ったに違いない。行政職員にとって、オリンピックは、国や財界の実力者や首長たちからトップダウンでもたらされる例外的なイベントであり、日常業務を超えたことを実現できるかもしれないという欲望と義務感を生み出すものであったことが伺える。

明治公園〈四季の庭〉における野宿者の闘いは、2度の園内移転を経つつ、JSCや都を相手として2年半に及んだ(詳しい経緯は、<反東京オリンピック宣言>(航思社2016)の拙稿などを参照されたい)。
2016年1月27日、明治公園の大半は東京都からJSCへと無償貸与された。同日、JSCは職員・警備員・警官、併せて200名ほどを動員して、野宿者のテントへの通路の封鎖や水道の停止を強引に行おうとした。しかし、わたしたちはフェンス設置などをある程度、阻止した。
2016年3月18日、JSCは土地明け渡しの〈仮処分命令申立書〉を明治公園住人に持ってきた。仮処分の必要性として「平成28年3月下旬までに本件土地を工事可能な状態にして施工業者に引き渡さなければ2020年東京オリ・パラ大会の開催自体が危ぶまれる状況にあること」をJSCは筆頭にあげた。そして、4月16日早朝に強制執行され、明治公園の野宿者4名と応援で泊まっていた数名が排除された。大半の荷物は東京湾岸部にある倉庫までトラックで持ち去られた。
身一つで追い出された野宿者たちは近くの公園に移動し、支援者によってテントが再建された。しかし、その場所も、日本体育協会とJOCの新ビル(ジャパンスポーツオリンピックスクエア)をつくるために、東京都による追い出しが迫った。準備工事資材の搬入阻止、国会議員による内閣委員会での五輪相への追及、などの効果もあり、他の公園への移転を東京都が提案してきた。

また、明治公園内にある東京体育館においても、2018年7月からオリパラ競技(卓球)に向けた大規模な施設改修工事がはじまり、10月には、周囲の庇で夜間就寝していた約12名が締め出された。改修工事自体は2020年1月末には終わったはずだが鋼板で囲ったまま一般利用を再開しなかった(12月18日再開予定)。
現在、就寝していた場所にはロープが張られている。

・有明

2019年10月末、明治公園の支援者のツイッターに「江東区有明で追い出しされそうなのをご存じかな?」と元野宿者からメッセージが寄せられた。野宿経験者からツイッターで情報提供があるというのが今っぽい出来事だった。炊き出しも含め支援活動は新宿・渋谷・池袋・上野・山谷などの野宿者の集住地に限られている。東京五輪の競技場がたくさん作られた湾岸エリアは、関係の網の目から漏れていた。
オリンピックのシンボル的施設の工事によって、寝場所が通行止めになる野宿者が2名いた。11月には、説明もないままに、組織委員会が工事看板を設置した。
現地の野宿者とともに港湾局(東京都)や組織委と交渉を重ねた。「港湾局から完全閉鎖するように言われている」(組織委)、「閉鎖とは言っていない」(港湾局)と見解が食い違った。はじめは私たちに会議室を用意していた組織委は人数制限し、ついには逃げ回る状態に。お台場の五輪セレモニーにおいて、小池都知事に抗議したりと追及を続けた結果、2020年3月、野宿場所を通行できるように変更した工事看板が設置された。その後、五輪延期に伴って、その看板も撤去された。2021年5月に工事が開始されたが野宿者の寝場所には影響はなく、五輪期間中も同じ場所で生活をつづけた。このように、運動的な闘いによって、追い出しを撤回できた場所もあった。

・潮風公園

有明の野宿者から、お台場にある潮風公園の野宿者たちが追い出されたという話を聞いた。しかし、彼らとともに潮風公園を見に行った時には、ビーチバレー場工事着手(2019年12月1日)の5日後で、すでにフェンスなどで囲われ、公園の大部分には入ることができなかった。
潮風公園には、荷物を常在させ夜間就寝している方が5、6名いたということだった。施工業者によると、着工日の早朝には、園内にいた2名ほどの野宿者が出て行ったという。
組織委に対して話し合いを持ったが、組織委は、野宿者が寝泊まりをしていることは認識していなかった、着工以前については関知しない、行政上必要な手続きは行った、と他人事のような責任逃れを繰り返した。
潮風公園では常に警備員が見回り、福祉事務所に委託された巡回相談員も定期的に野宿者のもとを訪れていた。品川区生活福祉課は、12月の巡回時に公園閉鎖に気づき、野宿者に会う術もなかっという。ホームレス自立支援法11条「適正な利用の確保」における「支援等に関する施策との連携」すらないままに排除が起こったことになる。
その後、潮風公園を排除されたらしい人の一部を近辺で見かけたものの、意志疎通がうまくできないまま、この件についてはうやむやになった。

大型施設の施工後、野宿者排除は、開催直前までないだろうとタカをくくっていたら、組織委が担う仮設施設の工事においても排除が起きた。
湾岸地区において、人知れず排除された場所もあっただろうと思う。

3、開催直前

コロナ状況下での五輪開催には、広範な層の人たちが反対をした。また、代々木公園でのライブサイト開催についての疑問の声は、樹木伐採反対からライブサイト自体への批判へと拡大した。外出自粛を呼びかけている東京都が密集状況を不必要に創出するという矛盾は明らかだった。そして、その流れは聖火リレー中止、無観客へとつながったのであったが、それらの反対の声というのは、長年続けてきた(私たちの)五輪反対の運動とは関係ない層から生まれ、結びつくこともほぼなかった。そのため、コロナ以前からの問題である、野宿者排除については、それらの層の人たちから顧みられることは少なかったと思う。
とはいえ、外国客の中止を含めたオリパラの縮小に連動して、野宿者に対しての排除も抑制されたのは不幸中の幸いだった。
一方で、聖火セレモニー、そして競技会場近辺の交通規制・立入禁止による排除は行われた。

・代々木公園(立入禁止)

代々木競技場に隣接する、公園内の広大な敷地が、駐車場にするために、7月16日から9月5日まで立入禁止となった。それに伴い、少なくても4名の野宿者が追い出された。
立入禁止の一部は、雨を避け常住できる場所だった。また、ベンチでは不特定の野宿者が就寝していた(なお、公園内のベンチは。2018年及び2021年2月、中央の手すりで仕切られた、横になりにくいものに変わっている)。東京都の東部公園事務所などは常住している方に対して「公園のほかの場所に移動してください」と言っていたが、屋根がある場所は限られており、新たにテントを張ることは認めようとしない。移転した場所でも、公園にもかかわらず、会場周辺警備の警察官によって、テロ対策を名目に執拗に声をかけられ追い出された人もいた。ちなみに、駐車場には10台以下しか停車しているのを見たことがなくガラガラだった。代々木競技場には自前の駐車場があり、隣接する旧岸記念体育会館(JOC・日体協ビル)跡地も臨時駐車場だったのだから当然だ。

・国立競技場周辺(交通規制、立入禁止)

オリパラ期間中、国立競技場周辺は戒厳令下のようだった。6月8日から順次、立入禁止区域と交通規制を拡げ、7月3日から9月16日までは幹線道路(外苑西通り)封鎖までも行い、地域住民を度外視してオリパラ優先になった。
競技場の近くに住む野宿者に対しては、4月末に5月、6月には出て行くように、都の第二建設事務所が通告。5月末、組織委も野宿している場所を鋼板で完全に囲うと明言した。
6月18日、現地で組織委(大会運営、警備)と都の建設局(道路課)、第二建設事務所と話し合いを行った。野宿者のことで組織委が現地に来たのははじめてのことであった。
組織委の担当者は、関係車両の円滑な走行とセキュリティのために立入禁止が必要であるという、説得力のない説明をするばかりで、野宿者の人権や生活については何も答えられなかった。また、代替場所を提示しなかった。
7月3日の深夜、一帯は封鎖され、雨天時に野宿者が利用していた橋の下も閉鎖された(次の日まで当事者のみ出入りはできた)。すでに移転はしていたが、野宿場所についても、7月5日閉鎖するとの組織委の話が前倒しになった。2名が長期にわたって生活の場所を追い出されることになった。

・渋谷地区(聖火リレー)

6月16日、聖火リレーコースの都道において、置かれているテント小屋や荷物に、都の第二建設事務所が警告文を貼付した。
「この物件は、東京オリンピック聖火リレー(7月22日)、パラリンピック聖火リレー(8月24日)の支障となるため、至急撤去してください。撤去されない物は、支障物として移動・撤去します。」(一部は東京オリンピック聖火リレーのみ記載)
情報開示資料によると都は渋谷地区で49カ所警告文を貼付している。自転車(1台)をのぞけば、すべてが野宿者関連の物資であり、少なくても40人くらいは影響をうける内容だった。聖火リレーと明記し、支障物とみなすなど、文言も露骨で居丈高だ。
現地の当事者と建設事務所の交渉時に、建設事務所は、警備上の支障になるから遠くに移動してくれ、テロリストに物を置かれてはこまる、と発言。
その後、建設事務所は、荷物置き場を渋谷区内につくる、リレーの2、3日前までに移動してくれ、と言っていたが、都内の聖火リレー中止とともに、移動撤去の話は立ち消えた。

・新宿都庁周辺(聖火セレモニー)

聖火リレーは中止になったが、公園や広場などで聖火セレモニーは行われた。7月23日セレモニーが行われた新宿都庁周辺の野宿者のうち15名ほどが、寝場所や荷物に警告文を添付され、撤去しなければならなかった。22日朝から23日夕方まで戻ることができなかった。
また、パラリンピックでも、8月20日、聖火セレモニー(集火式)が行われた。5名ほどの野宿者のテント・荷物に対して、警告が貼付され前日から撤去を余儀なくされた。
担当の第三建設事務所は、かねてより野宿者の荷物を即時廃棄したり、粗暴に振る舞っている。

・横浜スタジアム

横浜スタジアム周辺(横浜公園を含む)では40名前後が就寝していた。7月24日から開始されるソフトボールや野球競技の会場準備によって一部が立入禁止になり、7月23日昼から全面的に入れなくなった。
支援団体の交渉によって、簡易宿泊所(ドヤ)40床をで横浜市が借り上げ、8月23日まで食事を含め無料利用できるようにした。36名が利用した。しかし、コロナ禍でもあり10名弱は利用せずに出て行ったという。市が700万の予算をつけたということだが、五輪による排除なのだから組織委員会が担うべきだろう。
行政が代替場所を用意したことは、他の地域にくらべてだいぶマシに感じられる。関内地区の支援者によると、生保を使わずに簡易宿泊所に泊まれたことで利用者から肯定的な評価があったとのことである。しかし、その場に残る選択がなかったことを考えると、やはり追い出しと言うべきだろう。

4、間接的な影響

オリンピックによって間接的に追い出しをうけた人たちもいる。オリンピックがなければ、実現しなかったかもしれない工事や事業によって追い出された野宿者である。
渋谷区立宮下公園は、2014年に「2020年東京オリンピック・パラリンピックを迎えるにふさわしい公園」を目的の1つとして募集要項が発表された。オリンピック観光のためのホテル不足を理由として公園敷地内にホテルをつくる三井不動産の案が契約候補になった(都市公園法上、問題があったため、ホテル部分を公園敷地から切り離した)。2017年3月27日、渋谷区と三井不動産は、抜き打ちで公園を封鎖、公園内に夜間就寝していた野宿者約10名を追い出した。公園を屋上につくったショッピング施設であるミヤシタパークは、2020年7月28日にオープンした。

大都市では、公園や建物の再開発の潮流が渦巻いており、野宿者は常に排除の危険にさらされている。オリンピックは、その潮流を押し進める1要素だったのであり、さまざまな要素が複合して排除が起きることも多い。
たとえば、都庁の膝元にある新宿区中央公園では2013年から2年間で67人いた野宿者を追い出した。その後にオリパラを視野に入れた公園整備が進められ、2020年7月16日には公園内にスターバックスやレストランなどが開業した。現在は、集団でご飯を食べようとしただけで警備員が飛んでくるような管理が厳しい公園になっている。野宿者追い出しは、オリンピックや公園の商業化に向けた露払いであったように思えるが、詳しい事情が分からないため、今回はカウントしなかった。

5、総計

○直接的影響による排除

・国立競技場建設
 4名

・東京体育館
 12名

・IOC評価委員視察
 テント20名 荷物30名

・潮風公園
 6名

・聖火セレモニー
 新宿 20名

・交通規制、立ち入り禁止
 国立競技場周辺 3名 荷物1名
 代々木公園 4名
 横浜スタジアム周辺 45名

計145名

○間接的影響による排除

・国立競技場建設
  明治公園 6名(強制排除をのぞき)
  競技場周辺 10名
  道路などの荷物 10名

・宮下公園
 10名

・ジャパンスポーツオリンピックスクエア建設
 5名

計41名

総計 延べ186名

※同一の人が受けた排除もカウントしている。また、追い出しの強いストレスのあったケースでも、追い出しが未遂の場合は含まれていない。

6、結語

以上の簡潔な説明と数字では、それぞれの受けた苦難やダメージが伝わりにくいと思うので、どれほどの意味があるのか分からないが、ある程度の野宿者がオリパラによって負の影響を受けたことは示せたのではないかと思う。コロナで縮小しなかったら、もっと排除があったことは間違いない。また、開催に賛否が分かれている状態は、推進側を慎重にさせもしたはずだ。結果として、わたしの住んでいるテント村には大きな影響がなかったのだが、オリパラの進捗に常に不安な気持ちにさせられた10年だった。
オリパラは多くの野宿者にとって、首を縮めて過ぎ去るのを待つしかない嵐のようなものだった。オリパラで日本が金メダルをいくつ獲ったとか話題にする野宿者に誰1人として会ったことがない。自分たちにとってオリパラというものがどのようなものであるのか、野宿者にとって強弱はあっても、それぞれ感じていたためだろうと思う。

小川てつオ:プロフィール

1970年生まれ。幼いころは多摩川の川原にあるセメント工場の寮に住んでいて、敷地に土管がたくさん転がっていて、多摩川は泡をたてて流れていた。2003年から都内公園のテント村に住んでいる。
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