REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

ムジュンと生活と私
  村山美和

2023年8月2日

ムジュンと生活と私

第一回

水が怖いのにプールを続けている理由

 私は水が苦手です。泳ぐなんて一生できないように思います。
 でも、プールのスクールに通い続けています。
 苦手なものは本当はやりたくないのか、やりたいから続けているのか、私にも実は自分の心が謎のままです。

●本当は行きたくなかったスキー

 もう10数年前になりますが、元職場でスキー研修に行くことが決まりました。私はスポーツをするのが好きではなかったので、実は本当の気持ちは、行きたくありませんでした。
 でも、私はこの職場の責任者の一人でした。せっかく初めて職員研修の予算がついたのに、「好きでないので行きたくありません」なんて言えませんでした。
 職場には、私が研修に行きたくないと本当は思っているということを知る人もいたように思います。研修など行きたくない、仕事の現場が大変なのに、と、思っている人もいたように感じます。私が「行きたくない」と言えば、この研修は無くなり、もしかしたら職場は波風が弱まり安定したかも知れません。
 当時の私は、行きたくないという自分の気持ちよりも、小さな団体が職員の研修旅行を予算をつくって実行するするということの方を重要だと思い、反対はしませんでした。積極的に行きたかったわけではないので、流された感じでしょうか。職員が全員で研修に行くのですから、職員の人たちには日常の現場の調整をたくさんしてもらわなくてはいけません。情けなく、申し訳ないことでしたが、私はビクついてしまっていました。余計に職場のみんなを大変な状況にしてしまったからです。

 一泊二日の研修のうち、スキーの時間は二日間合わせて丸一日分ぐらいはあったように思います。
 私は座って滑るチェアスキーの、バイスキーという種類のものに乗って滑ることになりました。インストラクターが後ろについて、紐で手綱を引くようにチェアスキーをコントロールしてくれます。
 チェアスキーには、雪上を滑る板が一枚のもの(モノスキー)と、2 枚のもの(バイスキー)があるそうです。モノスキーは体を支えるアウトリガー(スキーのストックの先に小さなスキーがついているもの)を両手に一本ずつ持ち、上達すれば一人で滑れるようになります。冬季パラリンピックで見たことがあるかたもいらっしゃるのではないでしょうか。
 バイスキーは、アウトリガーを握れなくても、後ろにインストラクターがつくことで、自分で滑っていると言う体感を味わえるチェアスキーです。その代わり独歩はできないと言われています。
 私ともう一人の車椅子ユーザーの同僚は、初めての体験ということと、二人ともアウトリガーを持てそうもなかったこともあり、バイスキーの体験になりました。
 一般のスキーのようにリフトにチェアスキーに乗ったまま乗って高いところに行き、そこから滑降します。
 もちろん初心者用の場所でしたが、スキーリフトに乗るのも初めての私は、もう怖くて泣きそうでした。いや、多分泣いていました。リフトも怖かったし、滑るのも怖かったのです。
 誰に言われたか覚えていなかったのですが、多分インストラクターに言われたのだと思います。
「声を出すと怖くないよ」
 その言葉のままに、私は声を出しながら滑っていました。後で同僚から聞きましたが、その声は周りにはとてもうるさかったようです。
 ところが、リフト4回目に乗って登り始めた時、その怖さが無くなり、面白いと思うようになりました。
 それはなんとも言えない感覚でした。今まで怖くてしかたなかったものが、突然怖くなくなったのです。
 ああ、体が慣れたんだと思いました。体というものは、慣れていくものなんだと学んだのです。
そして、スポーツのことが実は嫌いではなかったということを知りました。
 研修旅行が終わったあと、私は毎年一回、数年間バイスキーを楽しみました。
 冬山のスキーリフトを怖いと思うことも二度とありませんでした。スキー自体は必ずインストラクターがつかないと滑ることはできませんでしたが、思い切りその時間を楽しむことはできました。
 スキーをしている間は、そのことしか考えられなくなり、頭の中は雪山一色になりました。それが、忙しかった当時のいい気分転換になりました。
 最初は後ろ向きでトライしたスキーでしたが、結果的に楽しい思い出になったのです。始める前の私から考えると、予想外でした。

●スクーバダイビングで知った、「私の怖いもの」
 スクーバダイビングをやり始めたときも、いつかは水に慣れていくのではないかと、本当に思っていました。諦めなければきっといつかできるようになると。
 スクーバダイビングを始めようと決心した頃、私は40 代になったばかりでした。数年前に職場の研修旅行でチェアスキーを体験して、スポーツの楽しさをほんの少しだけ体験できたものの、体を思い切り動かすなど、それほど真剣にやったことはなかったのです。
 なのに、ある日スクーバダイビングの世界に飛び込みました。
 当時の知人からのつてで、障害者ダイビングを請け負ってくれる団体とコンタクトをとり、意気揚々と和歌山県の串本町に出かけました。
 海の中に入ってしまえば、すぐに水に慣れて、きっといい初体験が味わえるに違いない、私は間違いなくそう思っていました。
 この時、自分は泳げない、ということは自覚していました。お風呂で他者に頭から水をかけられることも苦手でした。でも、「泳げなくてもスクーバダイビングはできる」とどこかに書かれてあったり、人づてに聞いていたことが、「泳げない私にもできる」という結論になったのだと思います。
 その団体は、初心者でも、浅瀬の穏やかなところから体験させてまず海に慣れてもらうというやり方をとっていました。
 私も一連の理論的な講義を受けたあと、実践としてその、池のように穏やかな海に入ることになりました。
 一連の説明を受けて、ウエットスーツに着替えさせてもらい、マスクを装着してレギュレーターを咥えさせてもらって、いざ海水の中に入れてもらう直前に、気がついたのです。
「あ、私、水が怖い」
 本当に、本当に直前まで私は気がついていませんでした。まさか自分に、水に対してのこれほどまでの恐怖があるなど。
 串本には、それでも4回通いました。怖さは慣れれば解消できると思ったのです。
 串本にあった団体は、私があまりにも海に入ること、水に入ることを怖がることもあって、指導も厳しくなっていき、おくびょうな身としては耐えられず、4回通って他団体を探すことにしました。
 新しく出会ったインストラクターの方に今までの経緯を話すと、
「ゆっくりやりましょう。最初はプールで慣れるところからですね」
 やっぱり、普通はそうなりますよね。そう言われて、なんだかホッとしました。
 そもそもなぜ海に入りたかったかというと、知人からの「海でたとえばイルカと一緒に泳いだりするといいかも知れないよ」という言葉でした。海でイルカと泳ぐ、そのフレーズが忘れられず、実現してみたくなったのです。

 海に入るとしたら、と当時の私はその方法を冷静に考えたのでした。海に安全に入るとしたら、やはり二人は付き添ってもらう必要があるかも知れないと、まず思いました。チェアスキーのバイスキーに乗るときは、二人のインストラクターが必要だったからです。滑降するときは一対一でしたが、スキーリフトに乗るときは二人の助けが必要だったのです。
 海の中は酸素もないし、慣れている人が付き添わないと難しいのではないかと思いました。ちょうどその頃に別の友人がフルフェイスで海に潜る体験をしてきたという話も聞いていたので、ああ、絶対スクーバダイビングがいいと確信してしまったのでした。
 海に行くことを勧めてくれた知人は数年後、もっと簡単にイルカとふれあう体験ができるところはあったのではないか、と話してくれました。障害がある人を支援して海に入らせてくれる団体は、スクーバダイビング以外にもあったのではないかと。
 私は、「スクーバダイビングは私にもできる」と思ったのだと思います。適切な助けがあれば、私はなんでも「できる」、だからちゃんとリサーチして、助けを得ていけばいいと思っていました。スクーバダイビングも、私がやる気になればできるようになると信じていました。いつか本当に海の中を、スキーのように楽しく潜ることができるようになる、その予定でした。

● 知らなかった、自分のこと
 スクーバダイビングの講習を受けている間に、わかったことがあります。
 ひとつめは、私は覚えが悪いということです。
 障害者ダイビングは、たとえ自分でいろんな準備ができなくて、人にやってもらうことが多いとしても、手順は必ずわかっておくこと、そしていざという時に人に指示ができること、というものがありました。こうして書いてしまえば生活の介助を受ける時と同じことでした。なにかを行なう時は当たり前のことですが、全ての手順を覚えなければなりません。
 それが何回やっても覚えられないのです。
 スクーバダイビングの練習は月に一回でしたが、復習をしても、酸素ボンベとレギュレーターのつなぎ方や BC(酸素ボンベとレギュレーターを繋いで体に装着するための装具)の扱い方、その他もろもろのの手順を忘れてしまって身につかないのです。何年という単位で毎回同じ作業をするのに本当に覚えていられないのです。
 ふたつめは、体で覚えることがとても苦手だということでした。
 体への新しい刺激に、慣れていかないのです。スキーの時は4 回目のトライでスキーリフトに乗る感覚に慣れましたが、それは実は私にとって奇跡的なことでした。本当に水の中は怖くて、浮き輪などの補助もなく、インストラクターがいてくれるとはいえ、ひとりでプールに入ることが本当に苦痛で信じられないほど怖かったのです。ウエットスーツは水に浮くようになっているし、レギュレーターを加えれば水の中で息もできるのに、全て理屈の中ではわかっているのに、頭と体が納得しないのです。
 お世話になったこの時のインストラクターは、8年もの間、私の練習に付き合ってくれました。必ず少しでも進歩したところを見つけてくれて、褒めてくれました。
 そしてどんなにできなくても、焦らなくてもいい、時間はたっぷりあるのだから、自分のペースでやればいい、遊びの時間なのだから、と伝えてくれたのでした。
 自分という肉体と精神の現実を自覚させられながら、私は「諦める」という選択がなかなかできませんでした。いつか、続けていればいつの日かできるようになると本当に思っていたのです。

●苦手だからできない、という感覚について
 自分が、障害があるからとかそういう理由でなく、苦手だからできない、と決定づけること、それは私にとってとても難しいことです。
 やってみてできなかった、と本当に思える体験が少ないということも原因の一つかも知れません。障害があって体が動かなくてできないことはたくさんありますが、それらのことは「苦手だからできない」のとは少し違うように思います。
 例えば、大学で心理学実験のスクーリングを受けたことがありました。心理学実験はパソコンを操作しての実験が多く、障害学生は物理的に難しいので無理にパソコンを操作しなくても良かったのですが、私はパソコンならできるのではないかと思い、できる範囲で参加させてもらいました。そうすると思いの外うまくキーボードを打つことができませんでした。スピードがないのは仕方ないことですが、頭の中がこんがらがってしまうのです。この、うまくできないということが、障がいのせいなのか、それとも私の苦手な分野だったからなのか、この場合は結論を出すことはできませんでしたが、ああ、できない、と、本当に実感できた体験ではありました。
 もう一つ例を挙げれば、初めて電動車椅子に乗って少し走ったむかしむかし、道に迷って家に帰れなくなりました。その頃はまだ実家に住んでいたのですが、通りすがりの親切な男性に車で家に送ってもらう羽目になりました。自分一人で出歩いてみたことで、方向音痴だということを自覚した出来事でした。
 私はいまだに、自分でできないことやできにくいことが、障害があるせいでできないのか、それとも単に苦手なのか、線引きを引けていない気がしています。できないことがなぜできないのか自分で分析できないところがたくさんあるように感じるのです。
本当は結論を出したいのです。私ができないことが、障害のせいでできないのか、苦手だからできないのか、それともなんらかの他の理由なのか、いちいち本当は分かりたいのです。

●水が怖いと言いながらプールに休まず行く気持ち
 プールの障害者クラスがある、フィットネスクラブを紹介してくれたのは、いきなりスクーバダイビングを始めて水になれないで困っている私を見かねた、当時の職場の同僚でした。
 正確には、そのプールのスクールを紹介してもらえるように、すでに通っている障がいのあるメンバーの人に話を通してくれたのでした。
「やっぱり最初はプールから始めた方がいいんじゃないんですか」
 そのように、職場の人のはからいがあり、月3回ほどプールに通えるようになったのです。
 私はフィットネススクールのプールに通いながら、月一程度のダイビング練習を数年続け、ダイビングの練習をしていた専用プールが閉鎖になると、海に行っての練習を続けました。8 年間の時間でようやく「私はダイビングはできない」と、自分で決着をつけることができました。
 最初に少し書きましたが、水への恐怖は、実は小さい頃からありました。例えばお風呂などで他者からお湯をかけられるのも怖くて嫌でした。窒息するような気がしてしまうのです。一人暮らしをし始めても改善されず、介助の方に髪を洗ってもらったあとは、自分でシャワーを使って泡を落とす日々でした。それだけ怖かったのに、なぜかスクーバダイビングはできると思っていました。「ダイビングは泳げない人でもできるのよ」いろんな情報を集めた時に聞いた、この言葉を信じていました。泳げなくてもできるならば、私にもできると、本気で思っていました。
 スクーバダイビングはやめましたが、プールのスクールには通い続けています。そこはレクリエーションとしての泳ぐ楽しみを教えてくれるところで、必ず一対一でボランティアさんがついてくれます。

 スクールの最初には、水に慣れていつか一人でもプールの中で身が守れるように、背浮きとバブリングの練習をするのですが、実は、私はいまだに一人で背浮きはできません。支えてくれる手がないと、沈んでしまいそうで怖いのです。もう通い続けて 10数年になるのに。
 ボランティアさんはローテーションのため、毎回担当の人が変わりますが、みなさん私の「できない」ということに付き合ってくれています。ちっとも上手くならない私ですが、あまり他のメンバーさん(障がいあるかたがた)と比べられることもなく、上手くなっていかないなりに自分と向き合う時間をいただいています。
 今の私にとって、このプールの時間は、思い切り運動できる貴重な時間になっています。「できない」ということはもう問題でなく、水を楽しいと思えていることがいいと思っています。そう言えるということは、多少水への恐怖が和らいだのかも知れません。
 スクーバダイビングの練習とプールのスクールのおかげで、誰からどんなふうに水をかけられても大丈夫にはなりました。古くから関わってくれている介助の方は、「それだけでも大きな進歩」と伝えてくれます。確かに、多少はできるようになったこともあるのかも知れません。
水に入るのは苦手で怖いけれど、水の中で感じる体の軽さは魅力的で、その重力が軽減された感覚を味わうのは好きになりつつあるかも知れません。言い訳がましいようですが、苦手だからやりたくないというわけではないのです。

※お世話になっているフィットネス
 公益財団法人東京YWCA YWCAフィットネスワオ
  http://www.tokyo.ywca.or.jp
 あひるの会
 https://www.tokyo.ywca.or.jp/wellness/ahiru/index.html

2023年9月06日

ムジュンと生活と私

第2回

個人商店に行きたい気持ち クリニックを選びたい気持ち

● 個人のお店が好き
 通信制の高校を卒業したあと、両親と有限会社を設立して、私は文房具店の店長を任されました。
 任されたといえば聞こえはいいのですが、就職できる見込みのない私とどうやって一緒に暮らしていくか、両親が考えて与えてくれた、仕事という「居場所」でした。社会経験の少ない私にとってそこは、外の世界を経験する場であり、地域の人と関係を深めていく場でもありましたが、仕事がうまくできたとか、だんだんできることが増えていったとか、そういうことを実感できる場ではなかったように思います。私の心には、残念ながら商売を覚えようとか、仕事を地道に頑張ろうとか、そのような気持ちは生まれませんでした。甘く世間を捉えていたのだと思います。いつかこの家を出て、家族に頼らず生活していきたい、私の気持ちはそればかりでした。
 仕事が終わるとよく、近所の本屋さん、洋服屋さん、和菓子屋さんに立ち寄りました。実家のある地域のお店なので、多分私は「村山さん家の娘さん」という存在だったと思います。皆さんとても親切だったし、今考えるとよく話を聞いてくれました。一人での外出に慣れていけばいくほど、関係性はギクシャクしなくなっていったように記憶しています。
 障がい者の自立生活(福祉制度等を活用して地域の中で生活の主体者として暮らすこと)を支援する団体を頼って自分なりの一人暮らしを叶えたのち、新しいまちでいろんなお店を体験していきます。
 当時、アパートの裏にはスーパーがありました。「食いっぱぐれがないね」と誰かから言われたりしました。
 実家にいた頃もスーパーには行っていましたが、個人的な生活必需品しか買う機会がなかったように思います。生活の主体者になると全てのものが自分で買う範囲になるので、最初はヘルパーさんに頼んで買ってきてもらうことも多かったように思います。
 そのまちには電動車椅子で行ける範囲のところに大きなホームセンターがあり、入ってみると興味深いものがたくさん売っていて、よく覗きに行っていたように思います。電球が切れたり、生活用具が壊れたりすると、早速行って、関係のない違う商品までみて帰ってきました。
 飲み屋さんも飛び込んでみると車椅子での入店を快く受け入れてくれるところもあり、そういう相性のいい店を探すのが大好きでした。この頃は多少利き手の動きも良く、スプーンを使えばどうにかきれいに食べ物を口に運べたので、いざという時のために一人でも入れる店を探しておくことをしていました。
 いざという時というのは、介助のかたがいない日に作り置きがない時、急に介助の方が来られなくなった時などです。現在は福祉制度が整い、介助のかたが見つからなかったり、派遣されない日があったりということは私の場合は無くなりました。自立生活を始めた当時は、まだ制度が整っていなかったこともあり、いろんなことを考える必要がありました。
 この時期によく一人で行った飲み屋さんの一つに沖縄料理の居酒屋さんがありました。その店は多少混んでいても、私が行くと席を確保してくれました。沖縄そば、美味しかったです。お店の名前は忘れたけれど、この店で親切にしてもらったせいか、今でも沖縄料理は大好きです。
 東京に越す前は、あまり商店街にこだわらず、大きなお店もどんな店も入れるところは好きでした。私が知らないだけだったかも知れませんが、その地域は個人商店は少なかったように思います。あったかも知れませんが、一人で入ることが多かったこともあり、やはり無意識に車いすでの入りやすさを優先していたと思います。
 所属していた団体が飲み会でよく使っていた飲み屋は、学生に人気のある、手頃な価格でいろんなおつまみを出してくれるところでした。私もときおり誘われていくと、あんず酒をよくオーダーして飲みました。その店は二階でしたが、行きは飲み仲間に上まで上げてもらい、帰りはみんなよっぱらってしまっているので、新しく飲みにきた学生さんに頼んで階段をおぶってもらって降りた記憶があります。この店に行く時は、電動車椅子は階段の近くに置きっぱなしにしておいたように覚えています。
 当時は、店に車いすで入れなければ周りの人に手を借りて店の中の椅子に座らせてもらい、トイレに行きたい時は(トイレの中がきれいな時は)這ってそのトイレを使わせてもらう、そのようなことを気にせずやっていました。入店を拒絶されたりなどという思い出は、このころはあまりありません。
 ここまで書いてこんなことを書くとなあんだ、と思われるかも知れませんが、それほどたくさんの店を渡り歩いていたわけではありません。誰かから誘われたりして行き始める店が多かったようにも思います。もともと私は小心者なので、入りたい店にいつもストレートに突き進んでいたわけではなく、今思い起こせば入った店にいい店が多かったと感じているだけなのです。そこから考えると確かに大型商業施設内のお店は、昔も今も入りやすいのかも知れません。

●クリニックを探す癖
 具合が悪くなった時にどこの病院に行くかということは、実家での生活が始まった時からの課題でした。小中学校を過ごした肢体不自由児施設では、園長先生が医師であり、看護師さんも常勤していたので、施設から他の病院に通うということはありませんでした。
 実家に生活が移った時、具合が悪くなると最初は地元の総合病院に連れていってもらっていたと思います。文房具店を始めてからは、電動車椅子を使えるようになったこともあり、文房具店のお得意様になってくれた新設の病院に自分の意思で通っていた記憶があります。
 歯医者を探すのは至難でした。施設を出たあと虫歯が見つかると(施設では年一回歯の定期検診があり、歯科医師さんが来てくれていましたが、治療した記憶がなぜか今はありません。多分治療は受けていたと思うのですが)、親が通っていた歯医者に連れていってもらったのかも知れませんが、忘れてしまいました。二十歳を過ぎてからは、県のリハビリテーション施設内の歯医者を予約して通っていたと思います。
 実はその歯医者で治療を受けている時、歯を削った後に使用する消毒液が喉に流れて、刺激の強さに大混乱したことがありました。それ以来そこの歯医者が怖くなってどこも通わないまま、東京に越すことになります。東京の友人がそんな私の歯を心配して、「絶対に臆病なあなたもそこの先生は大丈夫だから」と、新宿御苑近辺にある歯科クリニックを紹介してくれたことで、私の口腔内の悩みは無くなりました。障がいへの理解がものすごくある、気さくな歯医者さんで、今でもお世話になっています。
 歯医者さんとの出会いは私にとってとても大きなものでした。
 リハビリテーション施設の医療は障がいのある私にとって理解されやすく行きやすいところと思うところがありましたが、消毒薬の一件からそうではないのかも知れないと思うようになり、友人のつてからたどり着いた歯科クリニックの心地よさに、やはり実際に受診してみて安心できたという話の方が確実だと思うようになりました。
 ただ、私はもともとビビリですから、そう簡単に通えるクリニックと出会ったわけでもなく、そもそもあまり病院に行くような病気もしなかったので、なかなか病院等に近づけませんでした。
 本当に探すようになったのは、職場を辞めて自分で健康診断を受けなくてはいけなくなった40代前半ぐらいからです。健康診断自体は、元職場の定期検診を頼んでいたクリニックが引き続き引き受けてくれました。でも子宮がん検診や乳がん検診など、そのころから受けた方がいい健診が多くなり、行きたくないから行かない、では心がすまなくなってきたのです。
 私は本当に病院は嫌いなのです。小さい頃に東京の療育施設で受けた一カ月に一回の検査が嫌だったのか、園長先生が医師だったとはいえあまりいい医療体制ではなかった埼玉の施設のやり方に慣れてしまったからなのか、とにかく痛いのも体をいじられるのも通わなくてはいけなくなるのも好きではありませんでした。
 医者に行かなくていいのなら、民間療法でいいと思ったものはなんでもやってみました。でもお金をかけるのはケチ根性があるために飛び込めず、あまりお金がかからなくて、あまり周りを巻き込むことが少ないものに限られましたが。
 そういえば、障がい者関係の活動を始めたときに、先輩からアドバイスをいただきました。
「これからは健康を維持するために、少しお金をかけなさい」
 その時期にその先輩から、体を総合的にみてくださるいろんな民間療法に詳しい人を紹介していただき、それからずっとご縁は続いて、いまでもそのかたには定期的に体をみていただいています。そのかたは障害についての知識も豊富で、健康に不安を感じた時、西洋医学とは別の観点から話を聞いてくれて、求めれば意見を聞かせてくれます。もう長いお付き合いなので、私にとっては友人でもあり遠い親戚のような存在になっています。
 少し話が脱線しましたが、40歳を過ぎるといろんな検査を受ける機会をもらうようになり、ドキドキしながらクリニックを探し始めました。本当に少しずつ検査を受けるようになって、最寄りのクリニックに行くことに慣れていったという感じです。今住んでいるところでは、健康診断はこのクリニック、障がいのことはまた違う病院、漢方などの処方を頼む時はまた別のところというように、いくつかの医療機関を使い分けるということになっています。そうしたくて病院をたくさん探したわけではなく、この状況はあくまで結果論なのです。

●用途に分けて考えている関係性
 お店選びもクリニックを探す時も共通しているのは、「自分の求めるものがあるところ」を探しているということでしょうか。
 お店に求めるものは、私が欲しいものがあるということと、対応がいいということです。対応の良さに、「電動車椅子で店の中に入れる」という条件は必ずしも当てはまりません。もちろん入れた方がとても楽しいですが。店が大きいから車いすでも気持ちよく入店させてもらえるとか、狭い店だから嫌がられるとか、そんなことは入ってみないとわかりません。車いすが入れるぐらい十分広いお店でも断られたことはあったし、逆に私の方が「ここは絶対無理」と感じられるような狭そうなお店でも「入って、入って」とほぼ無理矢理入れてくれたところもありました。店の中に入るのが無理でも、店頭にお店の人が出てきてくれて対応してくれるところはありますし、必要に迫られるものならば介助の方に買ってきてもらうという選択肢もあります。
 確かに大きな商業施設でならいっぺんにものは揃いますが、私は一つ一つのお店の特色を感じるのが好きなんだと思います。特に食品を扱っている店は、季節によって独自のものが売られる可能性もあるし、やっぱり定期的に覗きたくなるのです。
 病院に求めているものは受け入れてもらえることと、その病院が持っている技術を提供してもらえるところであることです。これも総合病院にわたりをつけてしまえば簡単に問題は解決してしまうのかも知れません。
 数年前に今のまちに越してきた時、地元の障がいある知人にも言われました。
「総合病院の方が一箇所で全部済むから楽でいいよ」
 確かにそうなのかも知れません。でもできれば私はどこか具合が悪くなったときにさっとその患部のクリニックで診察を受けてすませたいのです。贅沢な話なのかも知れませんが、総合病院で半日過ごすよりも、ちょっと近くのクリニックによって、その帰りに何か買い物をして帰りたい、そんな一日を過ごしたいのです。
 そのためには少し具合が思わしくない時がチャンスで、そのときにお試しの感覚でクリニックに行っていました。あまり多くを期待せず、対応してもらう中で自分なりにそのクリニックが普段お世話になれるところか見ていくのです。
 おかげさまで今のまちに住み始めてから、変な対応をするクリニックや医院とはあまり会わなくなりました(たまにありましたが、他を知っているとそこには行かなくていいと思えるのですぐに気持ちは切り替わります)。とりあえず何か困ったときに行けるところはあるという環境になりつつあります。贅沢を言えは、軸になる「主治医」のような先生に出会えたらいいと思っています。今の時代は主治医に意見書を書いてもらわないと障がい福祉サービスが継続して受けられない時代で、いまだに私は以前住んでいた区でその役割を引き受けてくれた診療所を頼っています。ここがクリアできたら、私はまたこのまちに一歩受け入れられることになるのでしょう。
 さて、今の私はいつかの友人が私にしてくれたように、もし誰かから「いい病院知りませんか」「どこかいいお店を知りませんか」と聞かれたとき、どのぐらい答えることができるでしょうか。私はその人のリソースの一つになれるでしょうか。
 そのように考えると、もう少し頑張らなくてはいけないことがありそうです。うかうかしていられません。

※お世話になっている治療室
 自然堂
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~jinendo/

※お世話になっている歯医者さん
 北川歯科クリニック
 https://kitagawasika.com

2023年10月18日

ムジュンと生活と私

第3回

段差が少しある家が好き

●こころの下地
 小中学校の時に過ごした施設のお風呂の湯船は、洗い場との段差がフラットでした。湯船の中は少し広めの浅瀬があり、少し奥に一段深い場所がありました。その日のお湯の量で状況は変わりましたが、浅瀬は正座しておへそぐらいまでお湯があった気がします。私は四つ這いで後ろ向きになり湯船に入っていました。
 そのことを知っていたかは不明ですが、中学卒業後、私が実家での生活をスタートさせる前に、両親は家の改築をしてくれています。お風呂の湯船もできる限り洗い場との段差をなくすよう、埋め込み式にしてくれました。
 実家の洗い場と湯船との段差は10センチ前後ありましたが、この段差が返って私に安心感をくれました。なぜなら、間違って足を伸ばしてしまってもそのまま湯船に落ちることはなかったからです(施設のお風呂は実家のものよりもフラットでしたが、何人かと一緒に入ったり、職員の人がいたりしたので、うっかり落ちるということはありませんでした)。なのでお風呂に関してはあまり生活環境を変えずに、実家生活をスタートさせることができました。
 推測ですが、親は私が実家に帰っても一人でトイレとお風呂を使える環境を第一に考えてくれたのではないかと思います。また、実家の玄関は引き戸で玄関先に電動車いすがギリギリ入ったので、上がり框に這って簡単に降りることができました。玄関については、私が一人で外出するようになれるかどうかは予想がついていたか分かりません。ただ、車いすを玄関に入れたり外に出したりするときに、ドアだと開閉が大変だという気持ちはあったのではないかと勝手に思っています。
 思えば私も自立生活をする際に、使いやすいトイレ、どうにか出入りできるお風呂、車いすに簡単に乗り降りできる玄関が、住む家を決めていく基準になったと思います。
 自立生活を始めるために引っ越した家を含めて、私は7回住み替えています。
 実際に家探しをするのは、実は思いの外大変で、妥協しなければいけないところがたくさんありましたが、ひとつひとつあまり覚えていない自分がいます。

●一件目
 初めての自立生活をするための家は、支援団体の知人からの紹介でした。
「家賃7万円の家があるよ」
 できれば自分で探し当てたくて、最初はその家は乗り気ではありませんでした。家賃も当時の私にとっては高かったし、あと2万円は抑えたいと思っていました。でも現実は厳しく、不動産屋まわりは完敗で、その家に住むことになりました。
 両親が、お風呂の洗い場と湯船の段差を埋める台を、ビールの空き箱を繋げて作ってくれました。お風呂のドアは内側に開くものだったのですが、ひっくり返すと外向きに開くドアとして使うことができました。これも両親がやってくれたことです。
 思えばいざ引っ越すと決めると、ほとんどの家具は親が用意してくれた一人暮らしでした。
 玄関にはスロープをつけて、家の中に電動車いすを入れられるようにしました。2DKのこのアパートは、ふた部屋とも畳で、日当たりも良く、とても心地いいところでした。
 ただ、アパートの裏にスーパーマッケットの米倉庫があったようで、そこから一度ドブネズミが大発生して、部屋の中を毎晩走り回っていた期間がありました。
 大家さんに鴨居に薬を入れてもらうことで落ち着きましたが、ネズミが走り回っている、と周りの人たちに言ってもなかなか信じてもらえず、困りながらもその出来事を楽しんでいる自分がいました。
 今の私はさすがにドブネズミなど聞いただけでゾワっとしますけれども。

●二件目 県営住宅
 最初のアパートに住んで丸四年経ったときに、県営住宅の単身者用に入ることができました。本当は世帯向けだったようなのですが、知人が県に交渉してくれて、応募が通ることになりました。もう四半世紀前のことなので、例外を通してくれたのだと思います。
 このころは所得がほぼなく、所得によって変わるその県営住宅の家賃は、3千円になりました。
障がい者用にリフォームしたところだったので、玄関の他に緩やかなスロープを使って出入りできるサッシ(引き戸)があったり、広い浴室と脱衣所、手すり付きの洋式トイレがあったりと至れり尽くせりでした。
 広さはいわゆる団地の2DK。ふた部屋ともフローリングでした。
 生活するには動きやすく過ごしやすい部屋だったのですが、困ったのは毎晩大きなgちゃん(ゴキブリ)が2匹ぐらいやってくることで、この時期に私はg恐怖症になりました。
 毎朝、布団の下の除湿シートが湿るのも大変でした。コンクリートばりの床にフローリングシートを貼ってあるせいだと思いますが、いつも手際よく対処してくれる介助のかたがありがたかったです(この頃には毎朝介助のかたが来てくれるようになっていました)。それ以外はとてもいい環境でした。生活に必要なものは徒歩圏内にあったし、所属団体も徒歩10分ぐらいのところにありました。最寄駅は少し遠かったのですが、苦にはなりませんでした。
 この住宅でずっと暮らそうと思って越したのですが、なぜか一年半後に東京都に越すことを決めてしまいます。
 ほんとうに、引越しの前日まで、「今ならまだ引き返せる、こんな家賃の安いところにはもう一生住めないぞ」と独り言を言いながら悩んでいました。

● 三件目の半地下の部屋で
 悩みながらも越した部屋は、東京都の市部にあった、やはり2DKの部屋でした。
 鉄筋コンクリートで三階建てのこのアパートは国道のすぐ横に立っていました。国道よりも低い位置に一階があり、その一室を借りたのでした。家賃4万8千円。必要な設備はあったので、固定費を抑えられるならと思い選びました。家賃のこの価格は世間的には安いと感じられるかもしれませんが、今まで過ごしやすい家に住んでいた私にとっては高く感じるところでした。生活の質を下げるということは勇気がいるものだと実感しました。
 地元の業者さんに、お風呂の洗い場には檜で台を作ってもらい、アパートの玄関にも木で折り畳めるスロープを作ってもらいました。おかげでこの家でも電動車いすを室内に入れておくことができました。この家はドアが金属製だったので、車いすが多少あたっても壊す心配もなく安心でした。
 この家は半地下のせいなのか、立て付けが悪かったからか、引っ越してそうそうヒキガエルが部屋の中にいたり(朝に来てくれた介助のかたに手袋をはめて外に出してもらいました。)、何年か住むと小さいgちゃんや蛾のような羽虫がたくさん出てきてしまったり、生き物にけっこうな縁のある部屋でした。
 和室がふた部屋、障子もあって、国道の音もさほど気にならず、生き物とは共存したくはありませんでしたが、好きな部屋ではありました。
 この家から静かな道を通って駅まで歩く10分程度の時間がとても好きでした。駅の反対側の口はとても賑やかでしたが、私のアパートは少し寂しい口にありました。それがまた、好きでした。
 そして、職場に通うために乗っていた、青梅特快も、好きでした。最寄駅の駅員さんは私の前ではおどけて自分の好きなロック歌手のモノマネをしてくれました。気を遣ってくれていたのでしょう。

●楽しく、切なく、四件目の広い家
 3年後に仕事の都合で区の方に越すことになり、同時に一緒に暮らしてくれる人もあって、二人で家賃を払うアパートに越すことになりましたが、この家は一番苦労せずに決めた家になりました。不動産周りを一緒に住む人が引き受けてくれたのです。そして、勤め先の社宅扱いになって、少し家賃補助をいただき、何よりも勤め先が保証人になってくれました。この家だけは、親に保証人を頼まなくて済んだのでした。
 二人で住むということで、2LDKの間取りで、洗面台がある家でした。三階に住むのも初めての経験でした。家賃は私の分は7万円。山手線の内側にあるこの区では、それでも家賃は安いほうだと言われました。
 この家は和室は一室だけでした。室内はほぼフラットで、今までのようにスロープを取り付けなくても、少し玄関をコンクリで埋めれば、車いすで上がることができました(この時から、勤め先と繋がりのあるかたに、スロープ等の工事をお願いしています)。最初はそのフラットさが嬉しかったのですが、フローリングの床から電動車いすに乗るのは思いのほか大変で、介助のかたがいて初めて安全に乗り降りできるのでした。
 ある程度広い家だったので車いすのまま生活することもできたのですが、私としてはやはりこの家でもゴロンとできる生活を選びました。いつものようにお風呂の洗い場には湯船に合わせた、すのこを作ってもらいました。
 この家の最寄駅は駒込駅の東口で、まだエレベータがなく、東京に越す前によく乗っていたチェアメイト(車いすを乗せて階段を運ぶキャタピラ式の道具。駅員さんが一人で扱うことが多かったように思います。)で階段を対応してもらっていました。
 家から徒歩5分前後のところに商店街があり、この時期に個人商店の楽しさを知り、満喫しました。
 日当たりはあまりよくない部屋でしたが、誰かと住むという日々はなかなかいい思い出ができました。残念ながら3年で共同生活は終わり、4年住んでこの家を出ることにしました。
 このアパートの大家さんは本当にいい人で、同じ建物に住まわれていましたが、何かあるとすぐ来て直してくれました。引っ越す時も誠実に対応してくださったことが、印象に残っています。
 引っ越す時に私は間違えてお風呂の蓋を引越し先に持ってきてしまいました。大家さんと最後の点検をした時にそのことに気が付いたのですが、後の祭りで、
「お風呂の蓋だけは請求させてもらうね」
 と、一万円だけ引かれて、他の敷金はすべて返してくれました。何も考えずに受け取りましたが、多少汚れたところもあったろうに、他のことは一切言われなかったことは、今思い起こすと本当にありがたかったと思います。

●五件目は小さな古い家
 共同生活が解消になると、身に迫ってくるのは家賃のことで、この回の引っ越しは少しハードルが高かったように思います。仕事の関係で区を引っ越すわけにはいきませんでした。職場の家賃補助はありましたが、ケチな私の理想は補助がなくてもどうにか暮らす見通しがつくことでした。
 この家を探すあたりから、「理想の家」というものを頭に描きながら探していくようになったのですが、この時の私の理想の家は、
「家賃8万円以下、広さ30平米、バストイレ別、日当たり良好、一階」というものでした。
 都心でこの条件はかなり無謀だったのですが、ある時介助のかたが、空き家があるよ、と教えてくれて、その家に決めることができました。
 家賃7万8千円、広さ31平米、バストイレ別でウォシュレット付き、日当たりが少し良好、二階建ての一階部分を借りることができたのです。
 この家は、大好きな家で、決める時は末長くここに住まわせてもらおうと思ったところでした。和室とダイニングの1DKでしたが、玄関から廊下があり、和室には床の間がありました。サッシは昔の実家を思い出すような懐かしいデザインでした。
 今回はずっと住むことを考えて、お風呂の台を、滑りにくくてソフトなものに別注で頼み、玄関先にあった一段の段差はコンクリートで少し急だけど壊れないスロープを作ってもらいました。玄関ドアの内側は車いす一台分が入るスペースがあり、一段上がって廊下でした。私はそのスペースに電動車いすを置いて、段差をうまく活用して這って家の中に入りました。玄関は木製のドアで、シンプルなものだったので、そのままでは一人で開け閉めが難しかったのですが、介助のかたの提案でヒモとネジでテコの原理で簡単に閉められるようにしてもらいました。
 車いすを置くと玄関が占領されることもあり、介助のかたにはサッシの方から出入りしてもらうことにしました。
 野良猫がある日子供を2匹連れてきて、庭先でご飯を食べるようになったり、トイレでなんとなく手をついただけなのに小指を骨折してしまったり。夜中に鍵をかけ忘れたサッシがそろりと開いて、一人怖い思いをしたり、思い起こせばいろいろあった期間でした。
 東日本大震災の当日は、小指を骨折したばかりで思うように動けずに、この家で過ごしました。介助のかたが当日夜も翌日も来てくれて、ありがたかったことを思い出します。
 少し遠くに住んでいる大家さんとは、最後の数年間であいさつは交わせるようになりました。借りた当初は大手の不動産屋さんが仲介してくれたのですが、途中から、直接やりとりしてくださいと言われるようになったのです。ドキドキしましたが、ちゃんと話を聞いてくれる人ではありました。もう少し長く住んでいたらどうなったかな、とときおり思うことがあります。

●10年住んだ六件目のさらに古い家
 本当はずっと住みたかった五件目の家でしたが、途中で仕事を辞めてしまったこともあり、物価の安いまちに越したくなりました。この時は本当に、仕事や所属などの都合は考えず、自分の意思だけで、引っ越すことを決めました。
 この時も自分のこれから住む「理想の家」のイメージをきちんと持つようにしました。
 家の大きさは2DK(広さにこだわるのは、介助のかたといっしょにいる時間が多いというのがいちばんの理由です。私が風邪などを引いた時に、別室で待っていてもらえる家がいいと思っているのです)、日当たりがいいこと、バストイレ別、そして、車いすを玄関に置けて、できれば引き戸でドアが閉められる方がいいと考えました。家賃は前の家より幾分やすくなることが、なお理想的でした。そして全部叶いました。
 友人が紹介してくれた不動産屋さんが、部屋探しと、地元の不動産屋さんとの仲介もしてくださったのですが、とても面倒見のいいかたで、私の希望をすべて聞いてくれて、必ずありますよ、という前向きな対応をしてくれたのです。そして、私がネットで探した物件に、「プロの僕が見つけられないものを見つけてくるなんて」と悔しがりながら、詳細を教えてくれたりしました。内見もいくつもしました。最後はその不動産屋さんが「ここはまだ見つけてないんじゃないんですか」と言いながら教えてくれたところと契約することになりました。
 ここの家に住み始めてから少し大変だったのは、トイレが和式で狭かったこと(汽車便だったので、段差を活用して、便座を置くことで解決しました)、大家さんや契約先の地元の不動産屋さんと私があまり折り合いが良くなかったことです。
 最初は「困ったことはいつでも言ってください」と伝えてくれた地元の不動産屋さんでしたが、問題を解決するまでとても時間がかかることが多く、なかなか勉強になる経験をさせていただきました。
 この家で、ガス漏れ、水道漏れ、ネズミの問題等、一通り経験しました。さすがにガス漏れはすぐに対応してくださいましたが、水道漏れはなかなか解決せず、区の無料法律相談を利用したりして対応を考えたりしました。
 家自体はとても作りのいい日本家屋で、前回の家のように二階建てでした。一階部分を私は借りていたのですが、玄関には当時新築祝いでいただいたらしい大きな鏡が貼ってありました。ふた部屋あった和室は立派な欄間で仕切られていて、奥には秘密基地のような、木の床のサービスルームがありました。
 大きな窓は、サッシになる前の木枠の窓。鍵はネジ式でした。
 この家の良かったところは、玄関からの車いすの出入りが比較的楽だったところです。引き戸が比較的大きく(昔の規格だったのかもしれませんが)、上り框の前に車いすをとめると、框と車いすの高さがほどよく、簡単に車いすから降りることができたのです。
 もし、大家さんと不動産屋さんとどちらか一方でも相性がよかったら、私は今でも住み続けていたかもしれません。ご縁なので仕方がないですが。
 この家を本当に出なくてはいけないと決心したのは、天井裏に小動物らしきものが棲み始めたこと、それによって天井に少しヒビが入り、そのヒビの周りにシミがあることが分かった時でした。流石にやばいと思い、不動産屋さんに報告して一応見てもらい、水漏れではないこと、明らかに小動物がいるということを確認して、大家さんに伝えてもらいました。が、それからことは一向に進みませんでした。
 小動物がどこから出入りしているかを調べようと、介助のかたに、家の玄関脇にあった物置をよく点検してもらうと、物置の天井が抜けていて、二階のトイレの容器がよく見えました。あまりにも丸見えで本当にびっくりしました。つまり、動物さんも何もかも、天井裏にも二階にも入りたい放題だったということです。10年住んで気がつかなかった私も私でしたが、不動産屋さんも大家さんも、どこまでご存知だったのでしょう。
 大好きだった家。大変なこともたくさん体験した家、商店街まで近く、駅も近く、挨拶してくれる人とたくさん出会えた家。でも小動物には負けました。やはり動物さんと共同生活はできません。

●そして、今の家
 区内で再び家探しをした時、できれば住む地域を変えたくありませんでした。一応、水道漏れのハプニングの時から、少しだけ家に危機感を持ち、都営住宅に毎回申し込んでいました。単身者は申し込める個数も少なく、倍率も高いものでしたが、やらないよりはやった方がいいと考えていました。
 不動産屋さんを数軒まわると、どこも親切な対応で、連絡先と部屋の要望を聞くと、「いいのがあったら電話でご連絡します」と丁寧に言われました。でもなんとなく、連絡は来ないだろうと感じました。事実そうでした。
何軒目かの不動産屋さんが、
「今は保証会社に入れないと99パーセント大家さんから断られちゃうんだ。物件はあるけれど、結局断られるのをわかっていて見せることはできない」
 と教えてくれました。
 保証会社を通すには、私に所得がないといけません。
 そうか、だから、行く先々で不動産屋さんにていよく対応されたんだ、と納得しました。
 これはしつこく探さないと見つからないと思い、不動産屋のご主人を持つ友人に相談して、力を借りることにしました。地域の違うところに会社があるのに、友人たちは、私がネットで調べた家を不動産屋の視点からチェックし、内見も付き添ってくれました。
 たどり着いたのが今の家です。残念ながら友人たちの仲介にはならなかった家ですが、彼女たちは家が見つかるととても喜んでくれました。
 今の家は、今まで住んだ家と少し違います。
 まず、ほぼ室内はバリアフリーです。前の持ち主さんがご病気だったため、車いすでも生活できるようにリフォームしたと伺っています。
 また、築50年以上のとても古い家なのですが、白と赤の配色が印象的な、とても可愛い内装になっています(私は可愛いのは実は少し慣れません)。
 バリアフリーということもあり、全室フローリングです。大きなポリカーポネードのひさしがあるので、洗濯物も、車いすも雨に濡れることはありません。
 玄関からは、車いすでは出入りが難しかったのですが、大きなサッシがダイニングにあったので、そこから車いすで出入りできるように、幅広く頑丈なスロープを工事してもらいました。
 大きな違いは、賃貸でなくなったということです。自立生活してから一度もやらなかった、「親に泣きつく」という行為をして、借金をさせてもらったのです。
 人生は予期しないことが起こるものです。家探しの旅がこんな形で決着がつくなんて思っていませんでした。(少なくとも今の段階では引っ越すことはないと思っています。)これももしかしたら小動物が天井裏に住み着いてくれたおかげでしょうか。
 購入のためにお世話になった不動産屋さんは、とても丁寧に対応してくださる会社でした。一人の購入希望者として私を認めてくださり、細かいことにもきちんと対応してくださったので、とても信頼することができました。
 私は相変わらず室内ではゴロンとできるような生活をしています。床全面に柔らかいジョイントマットをしき、どこをぶつけても怪我しないように工夫しました。
 あいかわらずさまざまな細かい面で工夫を重ねながら、新しい家と親しくなりつつ生活しています。

●家探しを振り返って
 私はいつも、引っ越すことになるたびに、ずっとその家に住み続けたいと思いながら、家を探してきました。数年後にまた引っ越すことになるなんて、毎回思いもしませんでした。
 公営住宅にこだわらなかったのは、単に当たる確率が低いからです。それでも一度は当選し、いい思いをして、その時も本当に「もう引っ越しはしない」と思ったものでした。人生は思わぬ方向に行くもので、それも実は自分が選んでいたんだなあと今は思います。
 ただ、私の中にはいつも、「住めればいい」という気持ちがあったと思います。「私に家を貸してくれるところなどそうはないのだから、条件は最低限にしよう」という気持ちです。
 障がいがある者はなかなかかしてくれる家はないから、あきらめずに探すことが必要なんだと、毎回気合をいれて取り組んではいましたが、私の中にも自分に対しての差別心を消すことはできなかった気がします。住みやすい家、心地いい家、という視点は二の次で、最低限のものがありどうにか暮らしていければそれでいい、と思いながら見つけてきたと思うのです。
 最後の家を探さなくてはいけなくなった時、「購入」という選択肢をなかなか受け入れられない自分がいました。「私にはそんな資格はない」と強く思っていたのです。アドバイスしてくれた知人のおかげで「購入」も選択肢に入れることができましたが、一番私を見下していたのは私自身でした。
 今思うと、毎回引っ越さなくてはならない状況ができ、どうにか家も見つかって実現していけたのは、奇跡だったと感じます。障がいがある身でそれができたからというわけではなく、考えてみれば誰にとっても家探しというものは大変な作業で、状況は違っても困難さはそんなに変わらないのではないか、と思うようになり、その中の一人である私は毎回自分の住む家にたどり着くことができたんだ、という気持ちです。多くの人が困難を乗り越えて引っ越しが叶うのは奇跡のようで、私もそれを叶えてもらった一人だったのでした。
 思えば、毎回の引越しの時に、住む家が完璧にバリアフリーであることを私は望みませんでした。最低限、玄関に入れること(もしくは私が出入りできる工夫をするのに耐えられる家であること)、お風呂とトイレが私でも使用できることが叶えば、それでほぼ快適と感じられました。その気持ちも実は私にとっては必要だったのかも知れないと、今は感じています。多くを望んでいく部分と、妥協する部分と、分けて考えることで家が見つかっていったように思うからです。
 ただ、最後の回のように、収入面などの理由で、システム的に借主として当てはまらなくなったり、不動産屋さんに借主として認識されなくなるということは、結構精神的に響きました。民間のアパートを転々としてきた身としては、悲しいことだと感じました。
 兎にも角にも、今は、6回分の大家さんと、7回分私を信じて力を貸してくれた不動産屋さん、各回に親身になってくれた友人たちに感謝しています。

※お世話になった不動産屋さん(五十音順)
 株式会社新日本ハウス
 https://www.aprc.co.jp
 株式会社日本ランドマーク
 https://jpn-landmark.co.jp

2023年11月29日

ムジュンと生活と私

第4回

私の中の私の矛盾

 今回のエッセイを書いてみようと思ったきっかけは、私の好きなもの、選ぶものについて、なぜそれを選ぶのか聞いてみたいというお話をいただいたことでした。
 周りから見ると、私はどうも、バリアフリーでない場所、車いすユーザーが行きやすくないところを選んでいるように見えるところがあるらしいのです。
 そのお話を伺って、前回までに思いつくまま三つのお話を書かせていただきましたが、書きながらも、私の中ではどれも自然の流れのような認識で、あまり心に矛盾は感じられませんでした。
 今回は私の中の矛盾について書かせてもらおうと思います。

●できること できないこと
 私は何ができて何ができないのか、このことは今も考えると、もやっとしてしまいます。
 日常生活のあらゆることが一人ではうまくできないから、生活の中に介助というかたちで人の手を借りて、私は生活してきました。
 その中で、できると言うことはどこまでをいい、できないとはどこからを言うのか、今だに私は整理ができない部分があるのです。
 例えば、今の私は、ごはんをフォークで口に運べるけれど、こぼしてしまいます。スプーンを使うとせっかくすくった食べ物をあさっての方向に投げてしまいます。
 洋服も、時間をいっぱいかければ着ることができる服もなくはないけれど、自分で着られる服はかぶるだけのものなど、種類が本当に限られているし、なによりもきちんと着ることはできません。
 それでも施設で生活していた幼少期は、そういう状態でも「できる」とされてきました。確かに子供の頃は今よりも少し体が動いたので、スプーンはもう少し上手く使えていたかもしれません。
 私に「できない」と言うことを教えてくれたのは、家族だったと思っています。
 「お前は自分でできると思っているだろうけれども、本当は何もできないんだよ」と伝えてくれたのは、母でした。確か、二十歳を迎える直前ぐらいの頃だったと思います。
 以前もどこかで書いたかも知れませんが、私がいた肢体不自由児施設の中では、こぼしたご飯で洋服が汚れても、ご飯を口に運ぶことができれば「自分でできる」ことでした。ズボンが曲がっていてもおしりがズボンにきちんと入っていなくても、ある程度できていれば「自分でできる」ことでした。食べ物で服が汚れてしまっているとか、身なりがおかしいとか、そういうことをずっと気づけなかったわけではなかったのですが、いちいち誰か施設の職員の人を捕まえて「整えてもらう」ことはしませんでした。それでも生活していけたし、誰もそれほど気に留めていなかったように思います。私も、友人が同じような状態であっても、気になりませんでした。
 家庭に生活の場が移って、私は自分の「できている」と思っていたことが、実は完結していないことだったと知ります。着替えも食事もどうにかできたけれど、食べ終わったお皿を洗ってみても汚れをぜんぶ綺麗にすることはできなかったし、洗濯物も家族が納得する畳み方はできませんでした。掃除もうまくゴミを取り切ることはできませんでした。何かをやってみても、その後誰かがやり直さなくてはいけなくなったり、なおさら手間をかけることになりました。
 家族の中で役割を持てないことは、辛いと感じることでもあったように思います。
 一人暮らしを始めて、最初の数年はそんなに介助時間を認めてもらえなかったので、自分で調理をしたり、掃除をする機会も多くありました。その頃は、私が届く位置に電子レンジや電磁調理器を置き、週3回ほど来てくれるヘルパーさんにつくりおいてもらったおかずを温めたり、簡単なスープを作ったりして食べていましたが、何回か自分で調理の真似事を繰り返してみるうちに、本当に自分ではうまくできないということを自覚していったように覚えています。
 自分でできる、ということは、本当に自然に体を使って、物事をある程度その形として整えることなのでしょう。私のように、何度繰り返しても体が動作を覚えなかったり、その作業自体を毎回することが物理的にしんどくなる場合は、やはり「できない」という範疇になるのだと思います。母が早いうちに「お前はほんとうは何もできない」と伝えてくれたことは、実は良かったことなのかも知れません。もしも、若かったあの時、自分でできることが多いと思ったまま誰にも何も言われずにいたらどうなっていたのか、「そう、あなたはなんでも一人でできるね」と、言われるだけだったら、今どのような生活になっていたのか、私には想像できません。ありがたいことだったと今は感じています。
 「できる、できない」で、今もモヤっとするのは、環境によって、「できる、できない」があやふやに誤魔化されてしまうところにあるように感じます。私がいた施設で着替えや食事が「できる」と判断されたのはなぜなのでしょう。私が「できます」と言ったからでしょうか。身なりが整っていなくてもいいとされたのはなぜなのでしょう。
 家庭の中で、私が「できない」とされたのは、そのやり方では外で通用しないと家族が認識したからではないかと思います。自分だけの世界ならばご飯をどう食べてもいいけれど(たとえ手を使わず口をお皿につけて食べても、こぼしても)、服を中途半端に着る毎日でも生きられるかも知れないけれど、家族を含めて誰かと一緒に過ごす時には、なんでもいいわけではないのです。
 小さい頃の環境で染みついた「できる」という認識は、あれからもう何十年も生きている私をいまだに混乱させているのも事実です。それが私の人生の中で良かったのか悪かったのか、今はまだわかりません。ただ、「できない」と教えてもらったことは、今まで一人暮らしを続けている中で良かったと本当に思っています。「できない」ことを介助のかたに頼めるからです。
 介助のかたに「できないこと」をしてもらうことで、自分の「できないこと」が明確になる日々があります。
 日々の中で片付けてもらうことや、用意してもらうことをいざ自分でやろうとしても、やはり「できない」自分がいます。
 私はなかなか自覚が遅い部分がありますが、「できない」ということを自覚していくことで自分の身の置き方が理解できていくような、そんな気持ちも味わっています。

●本当はどうしたいか
 自分が本当はどうしたいのか、些細なことで悩むことがあります。
 例えば、私は電動車いすで外出しますが、その時ほとんどの場合介助のかたにつきそってもらっています。
 電動車いすの運転自体は手前味噌ですがとても慣れていて、自信もあるのですが(最近は老化とのすり合わせが必要な時も出ては来ました。少し寂しいですが)、行く先々で一人ではできないことが多かったり、身辺的なこともできないので、介助のかたと歩いているのです。
 若い時は一人で出歩くことも多くありました。行きつけのお店には一人で行き、よくお店の人に多くをお願いして対応してもらって買い物をしたものです。
 介助のかたといつも一緒に行動していると、そういうものとして周囲の人は認識します。なのでときおり、少しの時間、一人で外にいると、「今日は一人なの?」と声をかけられたりしています。あるいは、「一人で大丈夫なの?」「危ないわよ」などと言われたりします。
 よく考えれば別に大したことがないのですが、ムッとしている私がいます。
 私のことを何も知らなければ、きっとかけられない言葉なのだと思います。なんとなく挨拶を交わしたり、お店に品物を買いに行ったりして、関係性が少しあるから、言われるのだとわかっています。わかっているのに、好意的にはとれないのです。
 一人で出歩くことをしてはいけないと言われているような気になってしまうのです。なんとなくそれがかなしかったり、大げさなのですが私の自己選択を否定されているような気になってしまうのかも知れません。
 確かにいつも介助のかたと出かけているのだし、あまり一人で電動車いすで出歩くことは無くなったのだから、「一人では出かけられない」という認識は間違っていないのです。なのに私の心はなんなのでしょう。
 そんなに一人で出かけられると世間に思われたいならば、一人で電動車いすでどんどん外出すればいいのです。若い時にそうしていたように。介助のかたと出かけるのが主なのであれば、周囲が「この人は一人で出かけられない」と思われてもそれは当たり前のことなのです。
 私が抱えてしまっているムジュンは、私のままで行動することに対して世間が反応する様子が、自分が描いていたものと違い、それが解せないのではないかと思います。多分私自身が、「できない」私のことを認めていないのかも知れません。だから「できない」と見られてしまうことに過剰に反応してしまって、物事を好意的に受け取れないのかも知れないのです。
 もし、道ゆく顔見知りの人が「今日は一人なのね」ぐらいでとどめてくれていたら、私もニコッと笑って「そうなんです」ぐらいの言葉を返して通り過ぎることができるのかも知れません。そんなふうに声をかけてくれる人たちも、かつて住んだ地域にはいらっしゃったこともあったように思います。
 それ以上のつっこみは、私の中では未だ「想定外」なのです。
 「一人で出かけたら危ないわよ」
 と声をかけてくれた人の言葉は、
 「危ないから送って行こうか」
 という展開にはなりませんでした。私が、
 「大丈夫、大丈夫」
 と元気よく答えると、
 「気をつけてね」
 と言ってくれて、お別れできました。相手方は、いつも誰かと一緒に来る人が突然一人で来たことに驚いただけなのかも知れません。私の方が、過敏に言葉に反応してしまったのかも知れません。
 こんなふうに日々の出来事についてに反応してしまう私は、果たして周りからどのようにみられたいのでしょう。何をそんなにこだわっているのでしょう。
 本当は、介助のかたと一緒に歩いていても一人で電動車いすででかけていても、「こんにちは、今日はいい天気ですね」などと軽く挨拶を交わせればそれでいいのです。
 なぜなら、もし私が介助のかたと歩いてなかったら、それなりの私だけの「理由」があり、それはある程度時間をかけて説明しないと、顔見知りの関係性の中では理解できないことなのではないかと思うからです。人はそれを知りたいほど人に興味を持たないことも、今の私はわかっています。私自身も、親しい人以外の人たちのことにどれほど興味を持って生きているかと問われたら、それほどでもない日常を生きていることを自覚しています。また、やたらとふかく聞かないということも大事なことだと、最近ようやく少し分かるようになりました。そのことは、近所に住む方々や、商店街の方々が私に教えてくれました。日々のあいさつの中で、見せてくれているのです。
 私の弱いところは、いざ突っ込まれてしまうと「ちゃんと説明しなければいけないんじゃないか」という想いに苛まれてしまうことです。受け流すことがとても難しいのです。ひとつひとつ生真面目に四角四面に受け取ってしまうのです。だからといって、いろいろ説明できる技量もなく、またそれを求められているわけでもない状況の中、それほど私を理解しようと思ってはいないであろう相手のかたへの対応がうまくできずに、苦しくなってしまうのだと思います。
 人は自分の思うようには反応しない、人の行動はコントロールできない、私はそのことが今ひとつまだピンときていないのかも知れません。なんだか私は本当にまだまだだと感じます。

●一緒にいて欲しいひと
 介助を受けて日常生活を送っている私は、1日の大半を介助のかたと過ごしています。
 私の障がいの状態は、からだ自身は多少動かせるので、何もしなければ一人で部屋にいることは可能です。トイレに行ったり、何かを食べたり、着替えたり、お風呂に入ったり、家事をこなしたり、日々の小さな問題を対処していくには、誰かの手が必要になります。なので介助制度を使って生活してきました。
 今まで、本当にたくさんのかたがたが私の介助に関わってくださいました。数え切れないほどの出会いと別れがありました。
 正直に言えば、関わってくれた全ての人と水が合ったわけではありません。私は結構世間が狭く、人に対していろいろと思いをいだいてしまうほうです。そして自分の感情には敏感ですが、他者が抱くであろう感情には鈍感なところがあるようです。
 そのせいもあるのか、関係がうまく築けなかったり、私の情動的な言葉で関係性が壊れてしまったことも少なくありませんでした。
 いつも誰にそばにいて欲しいか、と自分に問いかけたとしたら、「私と水が合う人」という気持ちが出てきてしまいます。より自分の気持ちに向き合えば、毎日会いたい人は心にあると思います。日によっても、誰にそばにいて欲しいかという思いは変わったりもします。もし本当に可能であるならば、日常生活は、できれば心に思うかたがたと、平和に、あうんの呼吸で過ごしたい、それが実は私の本音の部分なのだと思います。
 そうは言っても、そう簡単に最初から誰とでもそのような関係になれるわけではないし、水が合う人だからいつも一緒にいられるというわけではないということは、人間関係を経験している誰もがわかる事実だと思います。私も出会うかたのすべてを受け入れることができません。自分で全ての水を整えることはできません。ときには合わないと感じる本音を隠して、変わりなく態度を変えずに過ごしている自分がいます。日々、来てくださるかたがたがいなければ、まともにご飯が食べられないし、身ぎれいにできないし、掃除も洗濯もできないのにも関わらず、どこかで自分は傲慢なのです。ときには素直な気持ちで感謝ができないまま、ありがとうと伝えているいやらしい自分を感じます。もしかしたら周りには表情がバレバレなのかも知れませんが。時折、ああ、私は嘘をついている、なんてうじうじと思ったりしています。何事もないように、笑顔で快活に必要なことを伝えようとする時、自分の中のムジュンが鮮明になります。
 本音の希望は、果たして誰かに叶えてもらうものなのでしょうか。
 なんとなく、それも違うように感じています。
 確かに、あうんの呼吸のように自然に馬が合う誰かと一緒にいられたなら、そのような日々は穏やかだと思いますが、そのような世界が最初から用意されているわけではありません。日々のさまざまな人との出来事に向き合うことでいつか実現していくものなのかも知れませんけれども。私自身も「この人とは水があわない」という現実をもう少し整理して、そのように決めつけてしまったそのかたのことを、知ろうとすることが必要なのでしょう。穏やかに感じる日々というものはきっと誰かが与えてくれるものではなく、自分が自分に与えていくものなのでしょう。
 つまり、私が、今日隣にいてくれるかたのことを少しでも穏やかに謙虚に考えられることが、大事なことなのかも知れません。
 私の「本音」の部分は、私の「子ども」の部分とも言えます。自分が何も努力をしなくても、誰かが与えてくれたらいいのに、とそんなふうに発想してしまう幼い部分です。私が「水があわない」と感じている時、相手側もそう感じているかも知れないということを、私はもっと深く考えられるようになる必要があります。
 そのためには「誰と一緒にいたいか」という問いかけに対する本当の自分の答えから、目を背けてはいけないようにも感じています。
 私と日々一緒にいてくれるかたがたも、その時間もしかしたらしんどいこともあるかも知れないし、毎回思いは違うかも知れません。お互いに感じ合いながら、その時間を作り合っているのだと思います。きっとそれは意識することがなくても、双方が貴重な体験をしているのかも知れません。
 少なくとも、私のほうは「子ども」を卒業するために、そのような経験を少しずつ重ねているのでは、とも感じています。

●もしかしたらそう言うものなのかも知れない
 私は障害があるから、この体を通して起こるいろんなことに対応できないということを深掘りしてしまうのですが、もしかしたらこの世界は、私のように他者に理解してもらえなかったり、どこか自分の気持ちとずれた人間関係によって成り立っているのかも知れないと、最近よく思うようになりました。自分の気持ちと違うことが起こるのがもしかしたら普通のことなのかも知れない、それほど人は人を理解しようとしていないのかも知れない、その中で少し苦しみを抱えて多くの人が生きているのかも知れないと考えるようになったのです。
 私も道ゆく人のことをちゃんと知ろうとはしていないし、親しい人のこともどれぐらい分かろうとしているか不明です。自分のこころ次第で物事はいかようにも捉えられるからです。
 私もこの瞬間、目の前の人に心ない一言を投げかけているかも知れません。自分自身、他者が私に対して行なう思いもよらない行動を、まだすべて面白がることができない部分があるのですから。きっと道ゆく人もそう、状況も環境も違うけれど、他者との関係性を納得できる日々をいつも送っているわけではないのだと、そんなあたりまえのことを時々思い返します。
 私だけではない、障害があるから感じることなのではない、心のムジュンはどなたにもあるということが普通のことなのかも知れません。
 私も、誰かに本当の気持ちを理解されない一人、真のコミュニケーションをまだ取れない一人、相手を理解しようとする気持ちが足らない一人、悩みながら生きている、世界の中の一人でしかないということなのだと感じます。

2024年01月17日

ムジュンと生活と私

第5回

ムジュンが実は普通の世界で生きていく

●本当に段差の少しある家が好きか
 今住んでいる私の家は、購入した時から、ほぼバリアフリーの家でした。
 赤いドアの玄関は狭いため最初から車いすの出入りは諦めましたが、玄関脇の居間に繋がる大きなサッシの幅は電動車いすが余裕で出入り可能でした。なので、サッシの高さに合わせて庭の一部をコンクリートで埋めてもらい、窓からの車いす出入りを叶えました。
 お風呂は引き戸で中も比較的広く、湯船も一般の高齢のかたが使うのであれば使いやすそうなものが設置されていました。お湯は上下のレバー操作で簡単に使用することができ、温度調節も指一本でできます。
 各部屋の照明スイッチも大きなもので、押しやすさを考えたものでした。
 これだけちゃんと揃っている家を、ところどころ「使いにくい」と感じてしまう私は、やはり人と少し違う体を持っているんだと実感してしまいます。
 お風呂の湯船は今のところお客様用です。私は入ることができません。昔なら、どうにか湯船に入ろうと考え、湯船と高さが合うスノコを洗い場に敷いたことでしょう。最近の私は、幼児用のプールにお湯を溜めて、なんとなく湯に浸かったという気分を味わうだけでいいのです。大きな湯船に入るよりも数十倍も安全だし、お湯も経済的だったりします。介助のかたに聞かないと本当のところはわかりませんが、私が楽だと思っているのだから、きっと介助の仕方もこのほうがうまくいっているのではないかと勝手に思っています。
 もし今の私が、湯船に入ることを優先していたら、どのような生活になるでしょう。今の大きさの湯船に入るには、体を持ち上げるためにリフトが必要かも知れません。毎回の介助をお願いするには、介助のかたが二人は必要になるかも知れません。そのような生活を選んでもいいのですが、今の私は選択をしていません。おもちゃのような小さなビニールプールに毎回入って、転んでも痛くなく、溺れることもほとんどないこの環境を楽しんでいます。
 今住んでいる家のトイレも、便座の高さがあり、私の身長では支えてもらっても腰掛けることができないものでした。なので、約10cm強の段差をつけるようにしました。軽い材質の、それこそスノコのようなものを重ねて、その上に安めのヨガマットを敷いて滑らないようにしています。
 話が少しそれますが、最近の水洗トイレは高さがあるものが主流になりました。身長149cmの私は、街のどの多目的トイレでも腰掛けるのに背が足らなくて困る場合が多くなりました。車いすからの移乗の時に、抱きかかえてもらう方法を取るなら、便座の高さがある方が介助のかたの腰の負担が少なくなりいいのかも知れません。支えてもらって自分で車いすから便座に移る私には、利用が少し難しいトイレなのです。手すりの位置もトイレによってまちまちなことも手伝って、中には本当に「利用できない」多目的トイレに出会う事態が起こっています。他の車いすユーザーのかたはどうなのか、気になるところです。
 家のトイレ問題も、お便器自体を床に埋めてしまうか、お便器をもう少し小さいものにするという改善策は浮かびます。ただまず現実的に今の時代、一昔前の小さな洋式便器はないようなのです。よくよく探せばもしかしたらあるかも知れませんが、「温水洗浄便座」の主流は背丈のあるもののようです(私は温水でお尻を洗う製品を使用しています)。床にお便器を埋めるのも、費用がかかります。私の障がいの程度が変わったら、また手直しが必要になるかも知れません。住宅改造については、活用できる障がい福祉制度がありますが、一回しか利用できませんから、とても慎重になります。
 本当はお風呂の湯船に入れた方がいいし、トイレの段差なんてない方がいいのです。どう考えても、家の中は段差がない方がスムーズに動けるでしょう。車いすからの乗り降りも、車いすと並行した高さの床があれば、とても楽になるのですが、それを実現するには、また家の中に結構な高さの段を作ることになります。残念ですが、全てを思い通りにはできません。現実の中で生きているのですから。
 ものごとはやはり、どちらがより必要なのか、選びやすいのかで選ばれていくものなのかも知れません。妥協点を探して選んでいるものに「好き」という言葉を使ってしまったから、おかしいことになったのかも知れません。
 そう、私は、少し段差のある家が好きというわけではなく、より居心地良い、好みの合う家が好きなのです。段差をあえて家の中に作る背景には、全て希望通りの環境にできるほど資金持ちではないということもあります。また、生活する中で、より良いアイデアがなかなか浮かばないことも課題です。
 確かにすべて住みやすく揃っていた方がいいとは思いますが、私にとって全てを求めることは、得る目的に対して(例えば引っ越す際のアパート選び等)とても高いハードルを自ら作ってしまうことでもありました。ちょっと不便でも、安価で、または少し簡単な作業で手に入り、工夫次第で自分らしく暮らせるならば、それはそれで面白いのではないかと思って乗り切ってきました。
 今の家に暮らす一つ前の貸家に住んでいたときは、網戸のある部屋が限られていたり、隙間風が気になったり、物干し台がとても高い位置にあったりと、工夫した方がいいと思われることはわんさとありました。いろんな介助のかたと、ああでもない、こうでもないと話し合いながら工夫を形にしてもらいました。その時間はとても楽しいものでした。
 そのような日常は、誰の日常であっても、他者には見えない世界です。私はたまたま自分ではできないことが多く、一緒に時間を過ごすその日の介助のかたに頼んでやってもらうので、日常のいろんなことは、介助のかたと共有されます。それもまた面白いところです。
 確かにだからと言って、階段のある2階以上の部屋や、介助が大変なほど狭いトイレの設置された部屋は選ぶことはありませんでした。そう考えるといつも制限はあったのかも知れませんし、狭い範囲の中から選んでいるのかも知れません。でもそれなりにリサーチしたり自分で足を運んだり、行動した結果たどり着いているので、経験値としてはそれほど悪くはなかったのではないかと思っています。
今の家は、ほとんどバリアフリーですが、改善したいところは実はたくさんあります。それを改善していけるか、妥協点を探して落ち着けるかは私次第です。

●ムジュンはやはり心の中に
 小さなお店に行くことも、私の中にムジュンはありません。
 確かに商業施設の中は電動車いすでどこにでも行けるし、大抵はどこかの階に多目的トイレがあり、トイレを探す手間もありません。お店で入店拒否されることもあまりないし、そういう意味ではドキドキすることもありません。
 ただ、私が行きやすいということは、多くの皆さんが行きやすい場所であるということです。なのでいうまでもないことですが、いつもとても混んでいます。それはいいことであると思うのですが、人混みは少ししんどいと感じることがあります。
 私の場合、商業施設では顔を覚えられることはあまりありません。一回一回丁寧な対応はしてもらいますが、顔を知っての挨拶をしあうことはあまりありません。別の言い方をすると、大型商業施設では、私は独りになれるのです。丁寧に対応されるけれども、孤独な時間も味わえる、皮肉でなくそういう場所なんだと思います。
 小さいお店だとそうはいきません。愛想良くされるかそっけないかは入ってみないと分かりませんし、歓迎されるかどうかも何回か行ってみないと分かりません。電動車いすで行けば、相手にとって好ましく感じてくれてもくれなくても、インパクトが強く、すぐに見知った関係になります。名前などお互いに知らなくても、お店の人と私との関係性は始まっていきます。そこのところがとてもドキドキして、好きなのです。もちろん、車いすで店内に入れるなら本当に楽しいと思います。でもそれは私にとって運のようなものです。
 以前、しっかりした障がい者団体が活動していると思われるまちで、絶対余裕で車いすも入れそうな蕎麦屋さんに入ろうとした時、入店拒否をされたことがありました。店内はお客さんもまばらでした。その頃私はまだ青くて、障がい者団体があるところは飲食店も理解者が多いと思い込んでいるところがありましたから、こんなこともあるんだとショックを受けたのを覚えています。だからといってそのまちの障がいある知人に言うこともなく私は帰りました。お店の人を説得しなかった私にも障がいある側として非があるような気になってしまったからです。なんとなく、障がい者としての義務を果たさなかったような、すまない気持ちになってしまったのです。
 入れそうだと思う店に入れなかった時、入れてもらえなかった時、私の中には憤りを感じますが、受け入れられなかったお店の人の心はどうだったのでしょう。そこに何があったのでしょうか。
 以前、名が売れている下着屋さんに電動車いすで入ろうとした時、「電動車いすは入れないんです」と、入店を断られたことがありました。手動の車いすは入れるとのことで、通路も広くとってあるお店でした。その場では介助のかたに店内を見てきてもらって買い物を済ませましたが(多分少し店員さんと揉めたとは思います)、煮え切らず、その店の社長さん宛に手紙を書いたことがあります。
 しばらくして、社長さんから返信をいただきました。
 そのお店ではその頃、店内の電動車いす使用者と歩行者が接触する事故が多かったそうです。高齢のかたが客層として多いお店でした。近年、高齢のかたも簡易電動に乗られるかたが増えていることは知っていましたが、お客同士でトラブルに発展してしまうことが、そしてそれが賠償問題まで大きくなってしまう場合の多いことが、社長さんの気に病んでいる点とのことでした。
 「あなたのようにマナーのいい人ばかりではない」とあった文面に、どう返信しようか迷っているうちに月日は流れてしまっています。おそらくその店は今も電動車いすでは入店できないのではないかと推測しています。反論も何も書けなかった私も悪かったと、今も心に残る出来事です。
 私にとって電動車いすは「足」ですから、入れそうな店で入店禁止を言い渡されるとやっぱり悲しい気持ちになります。ただ、そのかたの偏見や知らないことから来る「拒否」だけでなく、それぞれの理由があるのだということも実感しました。
 今は、すべての人に差別をしないように求めるのはとても難しいことだと言うことを知っています。悲観的に言っているのではなく、現実として実感しています。現実を知れば、他者の行動に対してひとつひとつ感情的な反応をすることよりも、自分がどうしたいかで、次の行動を決めた方がいいと思えるようになります。入店を拒まれたらかなしいですが、たくさんのお店がある今の世の中、相性のいい店に行けばいいだけのこと、と思ってしまうのは、いけないでしょうか。

●心地やすさが変化していく
 最近になって、私の身体は老化により大きく変わりつつあります。簡単に安全に使いつづけていけるはずだったビニールプールのお風呂も、出入りに苦戦するようになりました。電動車いすの運転にも、多少の難しさを感じるようになりました。
 私の障がい、脳性まひ特有の不随意運動の出方が変わったことと、筋力が落ちたことで、普段の体の使い方に支障がでてきたのです。
 老化による障がいの変化は初体験です。なのでここ数ヶ月はなかなか現実を受け入れられずに困りました。なぜかこの状態になって、「人に迷惑をかけてはいけない」などと言う気持ちが大きくなってしまい、体の状態が変化していくリアルタイムの介助方法が考えつかなくなってしまったのでした。
 腰を支えてもらう、という一つの介助を増やすだけで、介助のかたの体に負担をかけてしまうのではないか、介助の仕方を変えることは「迷惑をかけることなのではないか」と、神経質になってしまうのです。今まで、「できないことは頼んで代わりにしてもらえばいい」と言う考えのもとで生活してきたというのに、ここにきて沸き起こった私にとってとても大きな心のムジュンでした。
 これは、私の中の偏見もあると思います。障がいが重くなることで「人に迷惑をかけてしまう」と感じてしまうことは、「自分のことは自分でしたい」と感じている自分がいるということになります。気持ちは感じても仕方ないとしても、できないことを人に頼むということは、「迷惑」にはならないはずです。できないことをしてくださる相手に対して感謝の気持ちを持ち、相手のことを思いやり、誠実であれば、頼むことに罪悪感は持つ必要はありません。そこのところを、今回私は見失ってしまいました。少し卑屈になったし、びくついてしまったのです。
 やはり自分は「何かをできている」と思いたいのでしょう。そして「できないということは人の迷惑になる」と、未だ心のどこかで思っていたのでしょう。これは私の中の無知な部分だったのだと思います。半世紀も重度障がい者と呼ばれる立場で生きてきながら、まだその「できない立場」を理解していなかったのですから。
 今回のことで、介助のかた一人一人と介助方法について話し合ってみました。今までの介助に加えてひとつ体を支える動作が増えたり、電動車いすの運転の時にやってもらいたいことを話し、介助がうまくいかない時は介助の仕方について提案をもらったりもしました。
 自分がどうやって介助をしてもらいたいか、自立生活を始めてから、私はずっと自分で考えて、介助のかたに伝えてきました。介助のかたの体のことも、私なりに考えてきたつもりでした。
 でも、今回の体の変化で身体的な支えが多くなった時に、介助を受ける私側と、介助をする介助者側双方の感覚のすり合わせも必要なんだということを学びました。私も気持ちを殺さず、かと言って勝手にこの介助の仕方がベストと思い込むことはせずに、いいと思うやり方は話し合ってみようと改めて思ったのです。
 今の時点で、老化による機能低下はまだ進みつつありますが、関わってくださっている介助のかたがたと話をしたり説明したり提案を聞かせてもらったりしたことで、これからもどうにかなるかも知れないと思えるようになりました。
 心のムジュンというものは、自分の中にある偏見や、物事を知らないことを、あらわにするものなのだとも感じました。

●ムジュンの世界と私
 どう考えても、ムジュンがある世界の方が真の世界なんだと、ここまでいろいろ書いてみて思います。理想の世界は心の高いところにあるけれど、もしかしたらそれ自体が歪んでいるのかも知れません。
 私にとっては、障がいあるこの体で社会に出た時、自然に受け入れられることが理想であり望みであるのです。「できない体」で生活する時、なるべく自分で自身のことを考え決めて生きていきたいのです。水の合う人とできれば一緒にいたいし、折り合いの合わないところはできるだけ避けたいと思っています。
 そして、興味のあるところにはどこでもいきたいし、苦手そうなことも時には挑戦しながら生きていきたいと思っています。多くの人と接点を持ちたいし、できるだけ住んでいる地域に溶け込んで、市民の一人として生きていきたいと思っています。
 ただそこで、私の中の世界でものを見ている私には、いつも思いもよらないことが起こります。時に納得していなくても、私はそこに自分をはめ込んで生きようとします。私の側が感じるムジュンです。
 例えばなんとなく子供扱いされているように感じたり、入店を嫌がられたりするさまざまなことは、私でない他者の感情や都合が起こすことです。私の世界には、私を拒絶するものは作らないようにしているからです。
 もう数十年も前、駅にエレベーターがないのが普通の、世界がありました。多目的トイレが行政機関や大きな商業施設にしかない世界がありました。私はその世界に生きながら、「誰でも乗りたい人が乗れるエレベーターがある駅に変わればいい」「必要な人が使える広いトイレがあちこちにある街になってほしい」と願いながら生きてきました。私なりに動いてもきました。
 今、駅のエレベーターを当たり前に以前からそこにあるように、多くの人々が利用しています。私は時間があることも手伝って、忙しそうに駆け込んできた人や順番など守らず先に乗り込もうとする人に「どうぞ」と先に乗ってもらう確率が高くなっています。車椅子に乗った私に順番を譲られて先にエレベーターに乗っていく人々は、さまざまな表情を残していきます。すまなそうに乗る人や、一瞬戸惑う人、ありがとうと言ってくださる人、我関せずのように見える人、本当にそれぞれです。
 多目的トイレも、以前より格段に設置場所が増えましたが、多機能なこともあって利用人口も増えたように感じます。私は外出するときは、その周辺で利用できそうな多機能トイレの場所を数カ所想定して出かけます。利用人口が多いので、使用中の場合も多いのです。デリケートな場所なので、それぞれ使われるかたにご事情があるのだと私は思っています。社会状況でいろんな手立てを考えること自体は、私が車いす使用者だから、ということではなく、きっともっと多くの人たちがそれぞれの事情の中で思い悩んでいるのではないかと感じています。
 それに、私は、駅にエレベーターがないとき、「みんなが使えるエレベーター」が設置されるといいと望んできました。どこか特別な通路の先にある「専用エレベーター」は望みませんでした。
 多機能トイレも同じです。街中に設置されていってほしいと望んだトイレは、使いたい人が誰でも使用できるトイレでした。今私が生きる世界は、以前の夢であった環境が叶いつつあるのです。
 誰でも使えるということは、いろんな価値観の人が使えるということなのだと、変わりゆく環境を体験しながら私は知りました。私が出先で多機能トイレをなかなか使えない現実は、当時の私にとっては想定外だったと思いますが、夢が叶いつつある今の日常の中で何が起こるのかを体験していくしかありません。多機能トイレをそれほどの多くの人が使いたいと思うとは、私には思いもつかなかったし、理解していなかったからです。
 エレベーターに対しても、同じように私は捉えていたと思います。「みんなが使えるように」と言いながら、心のどこかで「私も使えるように」という気持ちだけが大きかったのではないかと思うのです。
 あくまで私だけの気持ちです。活動家のかたがたは、今の世界のあり方を見込んで話を進めてこられたのだと思います。私は本当に、何も知らないままにいろんなほしいものを望んできたんだと、そう感じます。ムジュンに見えて、実はちゃんと世界はムジュンなく進んでいるのかも知れないと、多くの人たちが順番を待つエレベーターの前で思うこの頃です。そうは言っても、本当に設備がなかった一昔前から見れば、格段に街は進歩しました。私が今抱えているムジュンは、設備が整いつつある中での幸せないきどおりなのかも知れません。
 日々起こるさまざまなことは、私の世界と、広い世界との接触によるものなのだと思います。
 広い世界にはいろんな人がいて、私のことをよく思わない人、車いす使用者だからなんとなく離れる人、私と付き合ってみて「馬が合わない」と思う人もいるでしょう。私も同じく、普段自分の世界の価値観の中でいい悪いを決めながら生きているので、ふと広い世界で人と出会うと、自分の価値観で判断したりその人を見てしまったりしているのかも知れません。そこにもしかしたら相手のかたは、私が感じることのないムジュンを感じているのかも知れません。
 広い世界は、私のことをよく知らないのかも知れません。私が広い世界のことをよく学んでいないように。
 私の世界と「広い世界」は、相互関係で成り立っているのかも知れません。知り合おうとすれば理解は深まるけれど、一方通行ではすれ違ってしまうかも知れません。
 広い世界を作っているのは、私も含めて一人一人であり、年月や地域性やお国柄も絡んで複雑になっていて、だからこそ多くのムジュンがあるのが当たり前な環境になっているのでしょう。
 私ができることは、広い世界を少しでも理解することなのでしょう。世界はなかなか私の生き方を理解してくれないかも知れないけれど、私も広い世界のいろんなことを理解しようとしていないのかも知れないから、そこから一歩でも進もうとすることが大事なのだと感じます。それを具体的に書くなら、少し行きにくい場所でも興味があるならチャレンジすること、水が合わないと感じることを理由に価値観の違う人を拒絶しないこと、思いもしないことを言われても、すぐに毛嫌いしないでその人がなぜ私にそう言いたかったのか考えてみること、そして、落ち込むことがあってもめげないこと、でしょうか。
 こうしてカッコよくまとめようとすることも、本当はビビリーな私の中にあるムジュンなのかも知れません。

障がいあるからだと私

村山美和

村山美和(むらやま みわ)

夏生まれ。現在板橋区民。今は肩書きはありません。マイペースでブログに詩を書いています。
 
ご縁をいただいて、2冊(エッセイ1冊、詩集1冊)出版の経験があります。
 
あんドーナツ    筒井書房 (発行 七七舎) 1995年
誇りを抱きしめて  千書房           1997年
 
脳性まひの障害があります。肢体不自由児施設で9年過ごし、その後、家庭で13年過ごしました。自立生活を始めてもうすぐ30年になります。
食べることと読書と街を歩くことが好きです。
尊敬する人物は「アンリ・サンソン」。好きな小説は「十二国記」、好きな映画は、気持ちはいつも変わりますが、現在は「インビクタス・負けざるものたち」です。
ふりかえると、話を聴く側に立つ経験をすることが日々の中で多くありました。私はきっと、話を聴ける人間になりたかったのでしょう。
・ホームページ等
詩のサイト 詩的せいかつ https://ameblo.jp/sakuranoichiyou/
ホームページ http://littleelephant.cute.coocan.jp/index/top.html
 よろしかったらのぞいていただけると幸いです。
 
・お世話になっている方々のサイト
今回書かせてもらった文章の内容に関係したり、実際のやりとりを表現させていただいた方のサイトを、許可をいただいたので載せさせていただきます。
 
第3回・第10回エッセイ関連
  Medicine Wheel https://medicinewheel.tokyo/index.html
 
介助派遣を主にお願いしている団体 
  特定非営利活動法人スタジオIL文京 https://ilbunkyo.jimdofree.com
 

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