REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

十人十色
  村上愛

2019年12月4日

十人十色

第一回

色眼鏡

 先日、横浜市立大学の医学部入試における小論文の問題を目にした。

 問題は以下の通りである。

 「高校の授業の一環として稲刈りの体験作業があり, あなたはそれに同伴した指導者です。農家の高齢の御夫婦が, お礼にとおにぎりを握って持ってきてくれました。しかし多くの生徒は知らない人の握ったおにぎりは食べられないと, たくさん残してしまいました。これについてあなたはどう考え, 生徒や農家の方とどのように話しますか。1,000字以内にまとめなさい。」

 この入試問題を記事として取り上げた小林氏によれば、上記の問題は昨今、他人が握ったおにぎりを食べられない人が増えているという話題にからめて出題されたようだ。一般に、赤の他人が触れたものに触れたくないという気持ちは不自然なものではない。だが、問題文の前半を読めばわかるように、この問題で取り上げられているのは抽象的な「知らない人」ではない。ここで生徒が食べられなかったのは「農家の高齢の御夫婦」というより具体的な「知らない人」が握ったおにぎりである。小林氏によれば、ここで「高齢」という設定が入っているのは、医学部の入試問題として「高齢者に対する意識の度合い」をはかるためであるとされる。なるほど、それではなぜこの問題文ではわざわざ「稲刈りの体験作業」と「農家の」老夫婦という設定まで加えてあるのか。

 これは筆者の推測であるが、作問者がより具体的でリアリティのある設定にしようとしたという点が挙げられるだろう。おにぎりと稲刈りの体験作業は結びつけやすく、また我が国の農業就業人口の平均年齢は65歳を越えているため農家を訪れた際に老夫婦に出会うことは確率的にも高いことである。 

 さて、この問題が問題として成り立っている事実につけ、「農家の高齢の御夫婦」に対してある程度社会的に共通したイメージが存在すると分かる。そうでなければ問題を解くことも採点することもかなわないだろう。だが、「農家の高齢の御夫婦」という設定によって、「知らない人」が握ったおにぎりを食べられないことにリアリティを与えるのだとすれば、それはどういうことか。

 この問題を解くのは医学部の受験生だ。作問者が問題文の前半でリアリティを与えられると思っているのならば、それは「横浜市立大学の医学部の受験生」にとって「農家の高齢の御夫婦」は「知らない人」としてリアリティがあると思っているということになる。すなわち、「横浜市立大学の医学部の受験生」という社会的属性と「農家の高齢の御夫婦」という社会的属性の間に、おにぎりが食べられないほどの隔たりがあると仮定されていると思われる (例えば、農家の高齢者が受験者に含まれているとは思っていないだろう)。しかし、個別の個人を超えたこのような特定の社会的属性に対する固定化したイメージは、いわゆる色眼鏡である。そして、この色眼鏡をはめずしてこの問題を解くことは難しいだろう。この問題に限らず、色眼鏡を外すことは難しく、不可能に近い。なぜなら我々は社会的属性から想起される固定化したイメージなしに社会を理解することはできないからだ。むしろ持っている数々の色眼鏡こそ、自分が社会をどう見ているのかという態度を表している。その点を明らかにするために、「農家の高齢の御夫婦」の部分を空欄    にして他の言葉を考えてみよう。

     にどんな言葉を当てはめることもできる。地域の小学生、近所のIT企業の社員、地元の野球選手、農業を学ぶ外国人学生、近くに住む車いす利用者、農家のゲイカップル、地元の政治家、差別主義者の夫婦などなど。挿入する語によって問題文の印象や解答が変わるとすれば、それは特定の社会的属性をもつ人々に対する我々のイメージを反映しているに過ぎない。ただ、明らかに社会がマイノリティとして認知しているカテゴリーをこの    にあてはめると、偏見と言われる可能性もあるかもしれない。マイノリティのグループに対する固定化したイメージの連想は、偏見と紙一重だからだ。

 ここで強調しておきたいのは、全ての色眼鏡が偏見といった悪いものであるわけでないということだ。当然、この横浜市立大学の医学部入試問題が「農家の高齢の御夫婦」に対する偏見だと言うつもりも毛頭ない。ただ、繰り返しになるが、社会的属性から何らかの固定化したイメージを想起するならば、それが寛容的であれ差別的であれ、個別具体的な個人を離れた色眼鏡に過ぎない。そして、その色眼鏡は、自分が社会をどのように捉えているかを反映している。そのため、自分がかけている色眼鏡に自覚的になることは、自分と社会との関わりを考える上で欠かせないものだ。

 色眼鏡に自覚的になることは多様性を考える上でも重要だろう。自分とマイノリティとの関係を見直すことができるからだ。そもそも社会における多様性を議論する際、我々は上記にあげたような社会的属性に対して議論を行うことが多い。そのため、マイノリティの社会的属性に対し今現在どういう色眼鏡をかけているのか自覚することが、現状を理解する上でも改善する上でも必要となる。

 ただ、色眼鏡をなくすことは難しい。なぜなら、色眼鏡を消失させるためには、マイノリティがマイノリティたる社会的属性そのものが消失しなければならないからだ。これは極論だが、全ての社会的属性が消えてしまえば、我々はただ1つ、「人間」というカテゴリーによって包含され、そのとき多様性は社会的属性でなく単に個人の問題に帰するだろう。そのような極限的な状況においては、例えば障害も個性の一部、病気も個性の一部、レズビアンも個性の一部となり、障害者という概念も健常者という概念も性的マイノリティという概念も全て消失している。だが、社会において個々のマイノリティが抱える問題に個別に対応したいのであれば、社会的属性を消失させるわけにはいかないだろう。そして、カテゴリー的な社会的属性の概念(障害者、レズビアン、ゲイ、妊婦、子ども、など)が存在する限り、我々はその社会的属性になんらかのイメージを持つものであり、そうしたイメージは、それが寛容的であろうとなかろうと、常に色眼鏡に過ぎない。

 結局、より寛容的な色眼鏡に1本ずつかけかえる、ということが多様性につながると思われる。その点、マイノリティの包摂においては、そのマイノリティの社会的属性に対する既存の色眼鏡を作り変えることが不可欠だ。色眼鏡を作り変えることで、社会におけるマイノリティのあり方を見直すことができるようになるだろう。

 そのために、まずは自分がどのような色眼鏡をかけているのか、今はめている色眼鏡を手に取ってよく眺めてみることから始めよう。上記の医学部入試問題は、様々な社会的属性に置き換えることで、自分の持つ色眼鏡を再認識する機会を与えてくれたように思う。 

参考資料
横浜市立大学医学部、小論文問題(平成31年度)、
https://www.yokohama-cu.ac.jp/admis/undergraduate/tt534t0000000gfu-att/igaku_shouronbun.pdf (2019.11.28日閲覧)
小林 公夫、医学部入試で出た「他人のおにぎり問題」あなたはどう答えますか?、
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68473 (2019.11.28日閲覧)
総務省統計局、3.高齢者の就業、
https://www.stat.go.jp/data/topics/topi1133.html (2019.11.28日閲覧)

2020年3月10日

十人十色

第二回

白いマスク

歴史の教科書でみかけたこともあるだろう、黒ずくめの服装に鳥のくちばしのような白いマスクをかぶった医者を。ヨーロッパでペストが蔓延した際、医師は香辛料をつめたくちばし型のマスクを着けた。ペストに対して有効と考えていたからだ。

白いマスクをかぶった医者の画

現代のわれわれがこの絵をみても、滑稽なコスプレにしか見えないかもしれない。だがマスク姿をどう見るか、それは時と場所次第であり、それは今も昔も変わらない。

21世紀のアメリカでは、街中でのマスクは忌避される。連日新型コロナウイルスのニュースばかり流れている2020年3月6日現在、筆者の住むシカゴ郊外の街でマスクをしている人を見かけることはめったにない。自宅と大学の間は片道30分ほど、街の中心部を歩いていくが、1日に一人見るかどうかだ。

なぜこんなにもマスクを着けたがらないのか。あるときアメリカ人の知人に尋ねてみた。以下は彼の私見であるが、紹介しよう。まず、マスクをつけるということは病気の象徴である。予防のためにマスクを着けることが習慣化していないため、病気の人がつけるものという印象があるようだ。では、病気と見られて悪いのだろうか。実のところ、職場や学校で病気とみなされることはどうしても避けたい、ある意味、恥ずべきことなのだという。熱があっても健康なふりをして仕事に行きたがる人もいるそうだ。「インフルエンザなのに無理して学校や職場に行きたがるということ?日本なら学校には治るまで来ないようにと言われるのに。」つい聞き返してしまった。これはアメリカ人の価値観だと思う、でも、そもそもインフルエンザかどうかわからない場合が多いのだと知人は続ける。アメリカには日本のように皆保険制度がない。せいぜい市販の薬を買うだけで、わざわざ高額になる病院に行って診断を受ける人は少ないのだ。自分の病気が何かも知らず、マスクもつけず、健康なふりをして街に出かけ、菌をばらまいている人がいる!アメリカでは公衆衛生がまだまだ浸透していないんだよ、と彼は締めくくった。

文化的に、日本を含む韓国や中国などの東アジアでは、アメリカに比べて街中のマスクに抵抗がないようだ。だからだろうか、私が街で見かけた数少ないマスク使用者は皆アジア系であった。

しかし、たとえ自分自身がマスクを着けたいと思っても、住んでいる場所の文化、価値観を無視して着用することはリスクを伴う。先月、マスクを着けていたアジア系女性に対し、ニューヨークで殴り掛かった人がいたらしい。暴力行為に至る人は数少ないだろうが、マスクを見るだけで恐怖心が高まる人は実際にいるようだ。感染症から自分の身を守るためにマスクを着けるのか、あるいは暴漢から身を守るためにマスクを着けないのか。難しい二択である。

結局筆者はマスクの代わりにネックウォーマーを代用して気休めとした。冬の間、外気温が連日零下となるこの街では、マスクを着ける人はいずともネックウォーマーやフード、バラクラバなどで目だけをのぞかせて歩く人はいたるところにいる。日本では防寒具から目だけが光っているほうが怖がられるだろう。結局、見慣れたものであれば恐怖を連想しないようだ。それもまた悲しいことである。さて、これから暖かくなり春が来たらネックウォーマーは使えなくなる。その時どうするか。目覚めたら、白いマスクが街にあふれている世界線にワープしていてほしいと切に願っているところである。

2020年6月08日

十人十色

第三回

科学と隔離

 今回のコロナ対策では、罹患していることが判明した場合に、一時的であれ隔離措置をとられ、日常生活に大幅な制限を加えられる状況です。科学的主張に基づく平時では考えられないような人権にかかわる処置がなぜ容易に生じたのでしょうか。また、このような人権にも関わるような事態をなぜ平然と社会が受け入れたのでしょうか。

 この問題を考えるために、日本の比較的近い歴史をみてみましょう。かつて日本では戦前からハンセン病患者の隔離を行い、1996年まで強制隔離を継続した過去があります。現在ではハンセン病の感染力は非常に弱く、全く隔離は必要ないことが知られていますが、当時はそう考えられていませんでした。なぜならハンセン病の専門家が隔離は必要と主張していたからです。日本で隔離政策を推し進めた光田健輔という医者はハンセン病の感染力を非常に強力だと考えており、そのため隔離政策を進めることだけがハンセン病を根絶するための唯一の方法だと信じていました。光田の主張に従い、政府は患者を強制的に隔離しました。それだけでなく社会全体でハンセン病隔離のためのキャンペーンを行い、患者狩りも行いました。いったん隔離されると、多くの場合患者は終生を施設内で過ごさねばなりませんでした。医者という専門家が「科学的知識」に基づいて隔離は必要だと言うと、それを覆すことは他の専門家にしかできません。さらに、社会の中に一度隔離が定着すると、今度は患者に対する差別や偏見まで社会に広がってしまいました。

 ハンセン病の場合、現在の視点からすれば誤った理由によって隔離政策が長引いていた点はよく強調されます。では、仮にハンセン病の感染力が実際に光田の主張したように強かったならば、病気を根絶するために個人を一生涯隔離したことは正当化されるのでしょうか。

 コロナウィルスに対する現在の様子をみると、他人に伝染させる可能性がある場合は一時的であれ厳しく社会から個人を隔絶しても構わないと思われているようです。

 このように医学は時として人間を非人間的に扱うようですが、これは、自然科学というものの対象が物質であり、人間ではないからだということが指摘できます。自然科学的な発想でいると、コロナウィルスという物質の隔離をしようとするとき、物質への対処方法を優先して考えてしまいます。しかし、ウィルスの宿主が人間である限り、それは社会的な問題を必ず伴います。そして、社会的な問題については、自然科学とは別に、人間を対象とした社会科学で分析する必要があります。単なるコロナ対策の経済効果を試算するといったことや、経済回復政策にとどまらず、個人の人権の問題として隔離政策の是非を社会科学的に考えることが今求められています。

 また、人々が隔離政策を素直に受け入れている要因ですが、これは科学的体系に対する信頼があるからです。私たちの多くはコロナウィルスを見たことはありませんし、まして感染する現場をその目で見たことなどありません。しかし、私たちは(あるいは政府は)感染症の専門家の主張を信じ、隔離政策をとっているわけです。この点において科学信仰もひとつの宗教に過ぎません。

 科学信仰が宗教の様相を呈しているからといって、反知性主義や反科学主義に陥る必要はありません。経済史の専門家であるJoel Mokyrによれば、そもそも科学とは、それ以前の哲学や宗教に根差した知識体系と異なり、過去の専門家の言説を覆すことが許された体系です。つまり現在主張されている内容は専門家と呼ばれる人々が相互に認め合うという仕組みによって信ぴょう性を担保しており、誤りを指摘して修正することで科学は発展しています。科学信仰における根本的な信頼は、相互に批判し認め合うPeer Review System そのものに根差しているわけです。そして科学信仰は、無批判で受け入れるべきものでは全くなく、絶えず批判にさらしてこそ信じられるものなのです。

 今回のコロナに関しては、すでに個人の行動を制限するという事態が進行しています。科学体系は批判を歓迎する体系であるからこそ、人権の抑制が進むようであれば批判の声を学問的にあげる必要も当然出てくるでしょう。患者の位置情報の追跡など、今後も個人を制限、監視するような政策が「科学的知識」に基づいて提案されていくと思われますが、社会全体でコロナに罹患する患者数を減らすという公益のために個人がどこまで譲歩すべきなのか、慎重に検討すべき時期と思われます。

2020年12月24日

十人十色

第四回

線引き

のっぺらぼう

 私の隣人には顔がない。のっぺらぼうで、壁越しにシャワーの音を響かせている。

 私の世界を構成するもの、それは私の感覚が与えてくれるものそのものだ。散らかった部屋を照らす薄暗い電灯、指先を冷やすビール缶、路地に漂うサンマの香り、通り過ぎていく救急車のサイレン。知覚できないものは私の世界に存在していない。私は自分の認識能力という壁の内側に閉じ込められている。この閉じ込められた世界に自分以外の人間は存在しているのだろうか。

 もちろん私は自分以外の人間と共に社会の中に生きている(と感じている)。玄関を出れば道行く人が見え、店に入れば店員の声がする。「日本社会」という言葉が私の辞書にある以上、確かにこの日本社会は存在して、その中で生きているに違いないのだ。「では、あなたが思い描く日本社会とは何ですか」と問われると答えに窮する。本来、そこには生まれたばかりの赤ん坊から、明日死ぬ人まで、一生会うこともない無数の人がいるだろう。しかし、認識できていないそんな人たちは私の世界に存在していない。それでも私が日本社会に生きている、というとき、私の頭の中の日本社会とは何なのだろうか。

 私にとっての日本社会、それは自分が見聞きした人のイメージの総体だ。家族の顔や友人の顔だけでなく、今日すれ違った人々の顔、ニュースで見る人の顔、何らかの形で知覚した様々な人の顔を思い浮かべる。「日本社会ってこんなものだろう」というイメージがなんとかできあがる。

 では、このイメージされた日本社会に、私の隣人はいるだろうか。私は隣室の住人の名前も顔も知らず、その事実が覆ることはない。私の隣人は彼・彼女がたてる物音以上には私の世界に存在しない。私が思い描く隣人にはやはり顔がない。

 顔のない隣人は他にもいる。「あなたの思い描く日本社会とは何ですか」と問われたとき、車いすの人、寝たきりの人、LGBTの人、移民、そういったマイノリティと呼ばれる人を思い描いただろうか。いや、そもそも車いすの人を想像したとして、その言葉「車いすの人」で思い描いたのはどんな顔だろうか。日本社会とは何だろうか、という問いと同じように、そもそもマイノリティとは何なのか、それすらも結局私がいままで知覚したことのある誰かの顔の寄せ集めに過ぎない。でも、私が顔を知らない人は知らないまま、今日もどこかでのっぺらぼうのまま生きている(と私は知覚している)。

 のっぺらぼうを消すには顔を見てくるしかない。しかし、日本中の全ての人に会うわけにもいかず、認識能力の限界によって私の世界からのっぺらぼうはいなくならないだろう。否、私の世界はのっぺらぼうだらけだ。それは怖いことだろうか。だったら、知らない顔を知っている誰かの顔で代用するのはどうだろう。頭の中の隣人に仮面を被せるのは簡単なことだ。どこかで見たことのある誰かの顔のイメージを貼り付けて納得すればいい。のっぺらぼうの代わりに知っている顔のコピーに囲まれて暮らす世界は居心地いいかもしれない。

 しかし、仮面は仮面に過ぎない。仮面の下の素顔は空っぽのまま存在していない。仮面に満足した世界、それは虚構の世界だ。虚構に慣れてしまうと、いざ素顔を見る機会に出会っても、もう顔を見ようとしなくなるのではないか。それでは欺瞞の世界ではないか。だとしたら、のっぺらぼうに囲まれた世界にとどまることで、いつか隣人の素顔を知る日を待てばいいではないか。

 残念ながら、仮面の欺瞞から逃れることは出来なそうだ。そもそも、私は「のっぺらぼう」という仮面をもう隣人に被せている。灰色で目も鼻も口もない。これはれっきとした仮面だ。純粋無垢なまま、ただ真実の素顔を知覚できる日を待つことなどこの世界では許されていない。そもそも、知っていると思っている人の顔ですら、再現性がないことに気付くだろう。友人のまゆげの形、親のほくろの数、上司の禿げ頭の生え際、どれも細部は知覚されていない。私がそもそも知っていると思っている顔ですら、すべて仮面に過ぎない。少しばかり、のっぺらぼうより精巧な仮面だ。

 どうやら、私の世界にいる人間は皆仮面をつけているらしい。仮面の造り手は私だ。「のっぺらぼう」が気に入らないなら他の仮面を与えることができる。そして、自分が居心地の良い仮面を積極的に散りばめ、知らないものを知った気になる。知覚に支えられた虚構と欺瞞の世界。この自分だけの世界で、望む仮面を作り、他人を理解した気になる。細部まで作りたい仮面があるならこだわり、どうでもいいものは作らない。どうせ、知った気分という感覚以外に、何かを知り得ることなどないのだから。仮面の種類の豊富さが、私の世界の多様性だ。

 正直に言おう、私は隣人の顔に興味がない。いざ玄関前ですれ違ったとしても、きっと目を合わせずにやり過ごし、顔など見ない。所詮は知覚能力の限界によって限られた世界、隣人の顔が「のっぺらぼう」のままでも構わない。

白地図に線を

 地元から東京に出てきた頃、東京出身者と話していてとまどうことが多かった。彼らの日本地図が同心円状だったのだ。「東京」が真ん中、その外側をぐるっと取り囲む「地方」。東京以外はみな「地方」という言葉でくくられ、その中にある差異は無視される。いや、想像がつかないのだ。知っている場所と知らない場所、東京とその他。要は「その他」の意味としての「地方」から私はやってきたとみられた。

 地元は広島県だ。広島県は隣の岡山県や山口県とも異なるし、海を挟んだ愛媛県とも異なる。いや、訂正しよう、広島は広島でも私の出身は備後地方だ。私は自分を広島出身と名乗ることはない。広島と言えば広島市を含む安芸を指すことが多い。安芸は備後とは異なる。旧国名も違えば、江戸時代の藩も異なる。言葉だって違う。備後弁も広島弁と言われるが、安芸と備後それぞれの出身者が出会えば、会話をした途端に違いがわかるほどには異なる。

 地元に帰れば、備後地方であることなど名乗らない。誰もが同じ地域の出身だから当然だ。問題になるのはどの小学校に通っていたか、いや、それどころか、同じ学区内のどのエリアに住んでいたか、が問題になる。私が住んでいたのは八幡神社が祀られた小高い丘の周辺に広がる住宅街で、「宮の端(みやのはな)」と呼ばれていた。町名とは全く異なるにも関わらず、小学校の秋の運動会では皆地区名をゼッケンにつけて参加していた。「宮の端(みやのはな)」は他地区より人口が多く、地区対抗では有利で毎年優勝候補だった。それが誇らしかった。

 知らないものはおおざっぱにまとめてしまう。そして知っているものは細かく区切りがちだ。私の日本地図は、広島の備後地方だけ細かく線が引かれているが、他の地域は同じ広島県でも白い部分が多い。隣の岡山県もすこしだけわかるが細かい線は引けない。同心円状ではないけれど、私の日本地図もずいぶん雑なものだ。

 ただ、一部だけでも細かい地図を持っていると、違う地域を訪れたときに、類推することはできる。数年前、東日本大震災の復興支援で福島の各地を訪れる機会があった。行ってみると浜通り、中通り、会津の3つの地域はまるで独立しているかのようだった。歴史も異なれば江戸時代の藩も違う。風土も農産物も異なる。もともと西日本の端に暮らしていたころには、所在地さえ曖昧だったが、今は福島県というと必ず三つの地域に分けて考えるようになった。震災以降特に1つの県にまとめられて語られがちだが、浜通り、中通り、会津には私が「宮の端」とそれ以外の地域を分けて考えていた以上の大きな違いあると今ならわかる。もちろん、もっと細かく分けられるはずだが、そこまで深く知らないことはご容赦願いたい。ただ、さらに細かい線が引けることは想像に難くない。

 もちろんこれは類推に過ぎない。それでも、まだ訪れたことのない県、地域、国にもひとくくりにできない何かがあり、そこに暮らしている人にしかわからない細かい境界線がいくつも引かれているに違いないと思う。日本の中の広島の中の備後の中の「宮の端」のように。

 そんな類推に何の意味があるのかと思うかもしれない。東京に出てきたとき、「その他」の扱いをされて私はたじろいだ。自分が大切にしてきた細かい線が全てないがしろにされ、動揺した。だからこそ、私はせめてもの類推をし、他の「地方」出身者の線を大事にしたいと思っている。そして、新しい場所、新しい地域に行くときには、きっとそこに私が知らない細かい線が無数にひかれていることを想像する。うっかり大事にされている線を無視しないよう、目を凝らす。とてもすべての線を見ることはできないが、かといって白紙のままであるよりは、と思うのだ。

 もちろん、細かい線を引き続ければいいというものでもない。出身地を聞かれるたびに実家の住所を番地まで答えていても仕方がない。出身を通じて伝えたいのは、自分が他人と共有した文化的体験だ。たまたま同じ地域に住んでいただけにも関わらず、同じ方言を話し、同じ季節の移ろいをみて、その土地の歴史を共に受け継いだこと、それこそが文化の共有体験だ。広島、や備後と口にするのは、共有体験をしていない人に自分の文化を伝えるための符号に過ぎない。アイデンティティの一部、自分を構成する社会的要素を伝える1つの方法が出身地なのだ。

 だからこそ、自分がどこに属しているのか答えることは難しいのかもしれない。相手によって「広島」や「備後」と答えたり「宮の端」と答えたりする必要があるのはなぜか。これは今自分が相手に伝えたいアイデンティティはなんであるのか選ばなければならないからだ。出身地を語ることで、自分はこんな社会的背景を共有している、と瞬時に伝えてしまえるからこそ、どれだけ細かい地図を相手にみせるのかが重要になる。むしろ、ある程度漠然とした白地図を使うことが便利な時もあるのだ。

 そうそう、今なら東京の中にも細かい線がたくさんひかれているとわかる。私は私で東京のことをわかっていなかった。環八の内側、環七の内側、山の手通りの内側がそれぞれ異なること、下町の文化と山の手の文化の違い。私の地図にも、やっと東京の細かい線が引かれ始めている。

2021年08月04日

十人十色

第五回

「人並み」という価値観、私の「制限」

「人並み」になりたかった
私は、十数年前まで、「人並みの生き方」というものを求めて生きていました。
私は仕事が好きでした。仕事があることで社会と繋がっている実感を持てたし、自分のできることがあるという毎日が好きでした。
私は仕事ができていると思っていました。できないことは人の手を借りるというかたちで、こなせていると思っていました。
仕事がある状態が「人並み」であると信じ、自分がそこで生きられていることに満たされていました。そして誰もがその「人並みに生きる」場所を探すことができると思っていました。

パートナーを持ちたいと願っていました。自分で家庭を作りたいという願望がありました。
出会いはご縁ですが、誰もがご縁と出会うチャンスがあり、私もその中にもちろん入っていると思っていました。
それが普通の、「人並みの」人生だと思っていました。
もしも、そのチャンスが得られないということがあるのならば、私が生きる社会がどこか歪んでいるのだろうと思っていました。

社会に対して、私の存在も認めてほしいといつも思っていました。
障がいある私が感じる日々の阻害されたような気持ちは、未成熟な社会の状態だからこそもたらされるものなのだと考え、社会が育っていけば感じ方も変わるのだと信じ、自分がこのからだで生きていくことで社会が育っていくんだと考えていました。

40代に入って、私が選んだことは、それら自分の中の「人並みの生き方をしたい」という思いと向き合うことでした。
障がいのある私のからだは、本当に人並みの生き方をしたいのか、そもそも「人並み」というのはどのような意味があるのか、考えることを選んだのでした。

仕事ができる人だと思われたいというのは、実際に仕事ができるようになりたいと思うことと違うことのようでした。私は、自分は仕事のできる人間だと思い込んでいて、何がわかっていないのかを知ろうとはしていませんでした。

パートナーが欲しいというのは、本当は、私を全面的に受け入れてくれる誰かを欲しているだけだったのかも知れません。私は心のどこかで、自分が誰からも受け入れられていないように、勝手に感じてきたのかも知れません。
では私は誰かを積極的に受け入れようとしてきたでしょうか。

社会に自分を認めて欲しいという強い思いは、私のどこからやってくるのでしょう。では逆に、私は目の前の人の生き方を認めているのでしょうか。私なりの先入観で見ていないと言い切れるでしょうか。

障がいある私が感じる日々の不満や憤り、やるせなさ、など諸々の気持ちは、障がいない体を持つ人たちも、環境がちがっても、どこかで感じているのではないでしょうか。私はその部分を知ろうとしているでしょうか。

私がずっと求めていた「人並み」の生き方は、私の場合、多くの助けを得ることで成り立たせることができました。
そのことに対して、私は、制度を活用して自分で生きている、と思ってきました。
ただ、それは、もしかしたら、日本という国で、今の時代に生きているから成り立っていることなのかも知れません。
私は世界を理解してきたでしょうか。
私の立ち位置がどのように支えられているのか、考えてきたと言えるでしょうか。

私が本当に生きたかった生き方は、「人並みな」生き方だったのでしょうか、その疑問を解いてみたいとあるとき思いました。
こだわってきたものを捨てたらどうなるのか、知りたかったのです。

肩書きを捨てて、所属を最低限にして10年ほど生活してみて感じたことは、人並みという概念は苦しかったなあ、ということでした。
自分を「世の中」に一生懸命当てはめて、誰かからの賞賛を本当に欲していたんだなあと思いました。
一生懸命に生きていると、より多くの人に思って欲しかったんだなあと。
縛られていたのは私だったなあと思いました。

誰かに認めてもらうことで、私は何かをできるようになったでしょうか。私の中の答えは、 noでした。
そうではなく、自分が知らないことが多かった、できそうもないことが多かった、というところから、私は始めなくてはいけなかったと気がつきました。

「人並み」という私の中の概念の中に、私自身がすんなりいられる場所はなかったのでした。
私ができることは他のところにあり、それは私にしかわからないことでもあり、私しか納得しないものでもあるようでした。

生きるのは、ある一面では本当に難しいことなんだと感じます。自分というものを理解しようとすればするほど、一般的な通念の中で揺れてしまう自分がいます。「人並み」という型にはまってみたくなる自分もいます。

私は今も、自分の中に残っている固定概念と話し合いながら生活しているような気がします。
人から、何もしていないとみられるのは、やはりまだどこか寂しいです。
本当に自分は「この部分」で役立っている、と、立証したい欲に駆られます。一体誰に認めてもらいたいのでしょうね、私は。
でも、そういう部分がありながら、実は自分のできることをこつこつ行い、そのことを他者が知らなくても、私は大丈夫、と感じている自分も確実にいます。
そして、その部分が確実に育っていることを自覚もできるようになってきています。

私が持つ 「制限」
障がいがあることで、現実社会の中でうまくいかなかったことは、結構あったと私は感じています。
うまくいかなかった経験と、今日の私の生活とは、延長線上で繋がっています。
どうあってもうまくいきそうもないこと、あるいは今も叶いそうもないことを、私は「制限」と呼ぶことにしています。

例えば、唐突ですが、私は2階以上の家が本当は好きです。
できれば石造りの階段をトントントン、と上って、自分の部屋の玄関のドアを開けたいと思っています。
誰かの手を借りて、ということではなく、車椅子のままフラットに、という意味でもなく、ただ自然に自分で歩いて階段を上り下りする、という日常になぜか憧れています。
悲観的な話ではなく、今回の人生ではとうてい叶えられそうもない(叶わなくてもいい)話なので、こういったことを「制限」がかかっていると今の私は捉えています。

少し極端な例をあげてしまいましたが、「制限」があるとはいいながら、叶ったことはたくさんありました。
ひとり生活はずっと叶っていますし、誰かと住んだひとときもありました。引っ越しも思ったよりも多くなりました。最初の引っ越しから数えれば6回ですが、住む街も数回変わりました。新しい場所に決まるたびに「ここにずっと住む」という気持ちで移っていたので、私にとっては多くなったという印象です。
職業を持った年月もあり、本を出版する経験もさせていただきました。
スポーツも、スキーはバイスキーという方法で経験し、ダイビングはオープンウォーターのカードまでは取れませんでしたが、面倒見のいいインストラクターとの出会いがあり、8年間、できるかどうかを試す時間をいただきました。スイミングは、今コロナ禍の状況で一時的にストップしたりもありますが、40歳の時に知人から紹介された障がい者クラスに現在も通わせていただいています。

今思うと、その出来事自体が自分自身で完結するものに関しては、全て叶っているように感じています。自分自身で完結するといっても、必ず介助のかたや、助けてくださる周りの方はいてくださっていて、その関係性の中で叶えられたことではあります。私が選ぶことで、私以外の人たちの分の責任を負うもの、例えば子供を持つとか、一般的なかたちでの婚姻などの類のものは、今のところこの人生では、ご縁はないようです。
家族についての考え方など、思いもよらない方法で叶ったものもあるし、今の気持ちとしては、それはそれでよかったのかも知れないと思うようになりました。

そう考えてみると、私に与えられた宿命的な「制限」は、「体が思うように動かない、言語が思うように通じない、みた感じ障がいがあることが誰がみても明白」ということに尽きるのかも知れません。
その制限を持ったからだで生きることで、見た目で扱われる世界がどのようなものか、能力が出せない状態というのはどういうものか、身を持って体験ができないということがどういうことか、何もできないと思われることがどういうことか、意思が伝わりにくいということがどういうことか、たくさんのことを体験してきたように感じています。
逆説のような言い方になりますが、それらの経験はきっと、私がこの人生の時間を生きていく上で必要な経験だったのだと思います。もしもこの人生がすんなりと何もかもできていたり、つまづきに憤ることがなかったら、ここに今書いたような、「叶わないこともあってそれはそれでよかった」とは、言うことはできなかったかも知れません。なんとも言い難いことではありますけれども。

私自身宗教は持っていませんが、人が進む人生とは、どこまでも成長しながらかたちを変えて歩き続けるものなのではないかと考えるところがあります。その視点からいくと、今回このからだを通して味わったさまざまな想いは、私の糧になって心に生かされていくのだろうと思うのです。
もし次の人生があり、たまたま障がいないからだで生きることになっても、心のどこかで今回の苦味や豊かさを少しでも覚えていたなら、他者に対して、せめて意地の悪いことはしないと、選べるかも知れません。他国の人と暖かく賢く生きる方法を考えつくかも知れません。障がいある人の必要なことを少しぐらい察することができる心を持てるかも知れません。

なんだか夢物語のような書き方になってしまいました。
誤解してほしくないのですが、差別や偏見のある社会の問題を容認しているというわけではありません。もし誰もが自分と同じように他者のことも思える社会であったなら、私はもっと別のことで悩む人生が送れていたかも知れないし、世界はもっと違う環境であるかも知れません。
私が気になっているのは、私の中にもある、人に対してのバイアス、社会観です。私は今回ここまで生きてみて、少しはそのバイアスを自分から捨てることができたように感じます。少しだけ視野を広げて世界をみられるようになった気持ちもあります。
さまざまな経験がなかったら、どんな人間として50代を迎えていたかわかりません。そう考えていくと、私の人生経験は自分にとっては無駄なものはなかったと思います。「制限」の存在は、今回の私の人生にはあってもいいものでした。
多分こうした「制限」は、肌の色や目の色、生まれた国と同じように、自分が選択できる種類のものではないのでしょう。

村上愛

Northwestern University 経済学博士課程に所属する学生。ゲーム理論と経済史を勉強中。

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