REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

地獄とのつきあい方
――精神障害者の視点から――
小林エリコ

『地獄とのつきあい方』トップ画
2018年11月9日

地獄とのつきあい方

第一回

初めての精神科

初めて精神科に行ったのは高校生の時だ。眠れない日々が続き、死にたいと思うことが毎日あり、母親に精神科に行きたいと頼み込んだ。母親は最初、精神科に連れて行くのを拒んだ。家から精神病患者を出したくなかったのだろう。しかし、一睡もできないというのは想像以上に辛く、何回かお願いしたら連れて行ってくれた。しかし、家の近くでは近所の人の目があるからダメで、何駅か離れた遠い病院へ行った。駅からバスに揺られ、空を眺めていると寂寞とした気持ちになった。流れる雲を眺めながら、絶望的な気持ちになっていた。学校では今頃みんな授業を受けているのに、私は学校を休んで精神科に行っている。母の隣で深くため息をついた。

最初、精神科というと、優しいお医者さんがいるとイメージしていた。何しろ、診るのは心なのだ。しかし、予想と反して、お医者さんはとても冷たかった。若い女医はわたしを一瞥した後、カルテに目をやったきり私の方を見なかった。私が眠れなくて辛い、死にたいと考えてしまう、といったことを訴えても、あまり反応を示さない。相変わらず私の目を見てもくれない。そして、私と一緒について来た母だけに残るようにいい、私は診察室を追い出された。母とお医者さんの診察が終わり、私は薬を出された。私はお医者さんに自分の話を聞いてもらえた感覚は全くなかった。そして、私がなんの病気なのかすら教えてもらえなかった。大人になってから母に聞いたら「思春期特有のもの」という診断だったそうだ。

私は家に帰ってから、薬を飲んだ。しばらくすると薬が効いて来たのか、なんだか心がスッとして明るい気分になった。
私は面白くもないのに、ニヤニヤ笑ってしまう。
「お母さん、薬ってすごく効くんだね」
と、言いながら歩き回って、家の中の何にもないところで頭をぶつけたり、転んだりした。さらに、明るい気分になるのは一時的なもので、その後は今まで体験したことがない深いうつに襲われて、起きることができなくなり涙が止まらなくなった。母に薬の服用をやめるように言われたのだけれど、真面目な私は、薬の服用をやめたくなかった。病気が治らなくなると思ったのだ。しかし、このままでは学校に通えなくなるので、薬の服用をやめた。

次の診察で薬を変えてもらった。けれど、一ヶ月ほど経って、体重が三キロも増えてしまい、私は焦った。当時は何が原因だかわからず、お医者さんに伝えたところ、「あなたの不摂生」と言われた。しかし、これは間違いで、太ったのは薬が原因だ。大抵の精神薬は副作用で太ることが多く、また、喉の渇きなどもある。私は一時期、あるお医者さんにかかっていたとき、薬を1日30錠ほど処方されていて、その時の体重は80キロ近くなっていた。大量の薬を処方され、頭の中はぼんやりして、歩くときもすり足になり、ただ漠然と死にたい気持ちがあった。

私は精神病というのは、すぐに治るものだと思い込んでいた。昔、製薬会社が「うつは心の風邪」というキャンペーンをやっていたせいもあると思う。風邪ならすぐに治るのだろうと考えていたのだ。しかし、3回目の診察で、お医者さんに「いつ頃治るのでしょうか?」と聞いたら「この病気がそんなにすぐ治るわけないでしょ!」と怒鳴られた。すぐに治らないと怒鳴られたことは大変ショックだったが、治らないのは本当で、私は高校生の時から20年以上も精神科に通っている。そして、精神障害者手帳も取得した。

思えば、私は多剤大量処方という言葉も知らなかった。日本の精神科は患者に出す薬の量がとびきり多い。特に、便秘にはよく悩まされた。私は副作用の便秘を治すために、下剤を精神科で処方してもらっていた。病気を治すために薬を飲んで、その副作用を消すためにさらに薬が出るという、ひどい悪循環に陥っていた。薬の多いのが体に良い訳がなく、突然死する人もいるらしい。定期的な血液検査も必要だそうだ。しかし、当時の私はそんなことはしてもらえず、ただ、病気が良くなると信じて薬を服用していた。
薬の多さに気がついたのは、通所していたデイケアのスタッフで、突然の肥満や喋り方、歩き方から判断したようだ。すぐに医者に連絡してくれて、薬を減らすことになった。しかし、薬を増やすのは簡単だけれど、減らすのはとても難しい。突然薬を大量に減らされた私はひどい頭痛と不穏に襲われて泣きわめき続けた。
ある時、デイケアで薬の勉強会が行われた。講師の医師は少ない薬の量を心がけている医師だった。母はその医師に頭を下げた。
「うちの娘を診てやってください」
そして、病院を移り、数年かけて減薬に取り組んだ。
精神科に通って、病気が改善されるのでなく、私の病気は悪化していった。私の回復に時間がかかったのはこの国の精神医療が遅れているせいもあるかもしれない。

一時期は自殺未遂を繰り返し、精神病院への入退院も繰り返していたので、かなり重症だったと思う。あの頃の自殺未遂は本当に死にたいからだと思っていたけれど、死にたかったのではなく、社会との繋がりが断たれていて、寂しかったのだと思う。何しろ、私は20代から30代にかけて、自宅と精神科デイケアの往復だけで過ごしている。友人が仕事をし、結婚している中、私はおいてけぼりを食った気持ちでいた。

そんな中で、「精神病新聞」というミニコミを自分で発行し、情報発信を続けていた。「精神病新聞」を発行することで、ミニコミを作っている人と友達になることができ、私は孤独からいくらか解放された。精神病新聞は10年くらい発行し続け、各種メディアで取り上げてもらえるようになり、昨年はイースト・プレスから単行本「この地獄を生きるのだ」を出版した。現在は、NPO法人で事務員として働きながら作家として文章を書いている。

この連載では、私が体験したこと、感じていることなどを書かせもらおうと考えている。精神病者から世界がどのように見えているのか、また、精神病の人と関わる時に、どのようなことを意識すればいいのか、そのような助けになる連載になればと思う。

2019年1月22日

地獄とのつきあい方

第二回

引きこもっていた頃の話

私には人生において、躓きが何回かある。精神疾患は高校生の頃から抱えていて、それが原因なのか分からないが、引きこもりも経験している。私の引きこもりは致し方ないものだったと思うのだが、全ての引きこもりは致し方なくしているのだと今はわかる。私の引きこもりは世界に対しての防御だった。私は、あの当時、傷つくのがとても怖かったのだ。その頃の話をしようと思う。

私は短大を卒業したが、就職浪人になった。私と同世代の人で、同じ経験をしている人は多いのではないかと思う。あの頃は不況が日本を覆い、全く先が見えなかった。当時、大卒でも就職できなかった人がとても多く、私もその一人だった。桜が咲き誇る中、袴を履いて、着物を着ていた二十歳の私は自分の足元がグラグラ揺れているのを感じていた。明日から何をして生きればいいのか、どこに通えばいいのか、そういうことが頭の中を支配して不安ばかりがあった。

就職できなかった私は、どうしたらいいのか分からなくて、実家で寝起きするだけの日々をスタートさせた。朝は昼近くまで眠り、母が作る食事をもそもそと食べた。やることがないので、近くのゲーム屋さんに向かう。中古の二千円程度のゲームを購入する。ビニール袋に入ったゲームをぶら下げて、トボトボと昼の街を歩く。目に入る人がみんな立派に見える。主婦、外回りのサラリーマン、小学生。みんなそれぞれ役割を持って生きているのに、私にだけ役割がない。働かなきゃいけないと思いつつ、どうしたらいいのか分からない。新卒という最も良い条件ですら、雇う会社が現れなかったのだ。たくさんの会社から「お前はいらない」と言われた経験を思い出すと、もうあんなことは二度と体験したくないと体が震えてしまう。だからと言って、バイトをするのは嫌だった。ちゃんと正社員で働きたいという願望が強くて、バイトを始めたら正社員が遠のく気がしたのだ。しかし、いくら言い訳をしても、現状を変えるために動き出さない今の私はクズだ。自分の無能さを認めたくなくて、ゲームの世界に逃げ込む。冷蔵庫からビールを取り出し、飲みながらゲームをプレイする。私は不安な気持ちから逃げたくて、ずっとゲームをやっていた。面白いからやるのではなく、ただの時間つぶしであることは明らかだった。私は人生に対して、何もしないということを選択した。失敗続きの人生を送った私は、新しく何かに挑戦することに怯えきっていた。もう、履歴書を書くのも、求人を見るのも嫌だった。私は酒を飲んで意識を飛ばすことに集中した。

毎日、酒を飲み、ゲームをするだけの日々は全く楽しくなかった。私はなんのために10代の頃、必死に勉強し、受験して短大まで出たのだろうか。試験前、自分の部屋でシャーペンを握り、参考書を開き、英語や漢字や数式と格闘し、来るべき将来のために備えていたのに、短大を卒業した今、私は引きこもりになっている。その現実を直視することが辛くて、酒を飲み、ゲームの電源を入れる。就職ができなかったときに、どうすればいいのかを学校では教えてくれないし、就職できなかった人間を学校はサポートしてくれない。そもそも、人生のレールから転落したときに、誰に助けを求めるべきか分からない。父や母はそんな私に対して何もしなかった。特にこれといって何かをやれだとか、早く就職しろなども言わなくて、それはとても有り難かった。あの当時、親から責められていたら、家に居場所がなくなっておかしくなっていたと思う。

私はどうしようもなく、寂しくなると学生時代の友人に電話をした。友人たちは働いたり、資格取得のために勉強したりしていたけれど、私と話してくれた。話している間は寂しい気持ちが和らぐのだけれど、電話を切ると、いつものように無限の時間が押し寄せてきて発狂しそうになる。就職浪人とはいえ、仕事を探したほうがいいのだろうが、短大時代に、何社も落ち続けた私は、どこかの会社に受かる自信が全くなかった。私は一歩前に踏み出す勇気がなくなり、ただ、生気を失ったゾンビみたいに日々を暮らしていた。

酒を飲んでゲームをする日々が1ヶ月以上続いた頃、何か生活を少し変えたいと思い、駅前のペットショップで五百円で売られていたミドリガメを飼った。カメは中学の時に飼ったことがあり、飼育の仕方はわかっていた。小さい水槽を用意し、砂利を入れて、大きめの石を入れる。カメが日光浴できるようにするためである。名前をなんと付けようかと考えた結果、偉大な人の名前がいいだろうと思い、ジミー・ヘンドリクスから名前を取り、ジミヘンと名付けた。無職で引きこもりの私にようやく友達ができた。私は毎日ジミヘンの水槽の水を取り替え、餌をやり、可愛がった。

ミドリガメはほっぺたの辺りが赤くなっていてとても可愛らしく、まるで幼い子供のように見える。ジミヘンは水面に浮かぶ餌をゆっくりと食べる。手足を動かして水を掻き、のろのろと岩の上に登り、日光浴する。ジミヘンを観察するのに飽きると、また酒を飲んで時間を潰した。ジミヘンは飼い主の私が無職であろうと、なんの才能もないゴミのような人間であろうと、私を決して否定せず、ただ、毎日じっとしてそこにいた。

カメを飼ったことで、なんとなく、自分に役割が持てて、ジミヘンのために、ペットショップでカメの飼育用品コーナーを眺めて、新商品を見つけてはジミヘンに買ってやろうかと悩んだりした。しかし、飼い主が無職で無能のせいであろうか、ジミヘンは病気になってしまった。ジミヘンの甲羅に白い斑点ができてしまい、明らかに元気がなくなった。私は甲羅に栄養を与えてやろうと思い、カルシウムのある餌を買って与えたり、日光に当てたりしたが、ジミヘンはしばらくしたら死んでしまった。私は動かなくなったジミヘンを見て、なんとも言えない気持ちになった。私はカメすらまともに育てられない上に、自分の娯楽のために、小さな命を粗末にしたのだ。

私は公園に行ってジミヘンを木の根元に埋葬した。穴を掘りティッシュでくるんだ小さな体を土に埋める。思えば、私は子供の頃から随分たくさんの生き物を飼ってきた。セキセイインコ、文鳥、金魚にカマキリ。私は自分の心を慰めて欲しくて、たくさんの小さな命にすがって生きていた。動物を飼うという行為は人間しかしない。そのことを思うと、人間には何かとても罪深いものを感じる。私は私のために死んだミドリガメに土をかけながら、このままではダメなのだろうなと感じていた。

私はジミヘンがいなくなってから、また学生時代の友達に電話をかけた。友達たちは私のことを思って「実家を出たほうがいい」と助言した。電話口の友人の言葉に後押しされて、私は実家を出る決意をした。引越しのお金はすべて母に出してもらって、東京に住むことにした。仕事が決まらないままの引越しは不安であったが、なんの罪もないジミヘンを死なせてしまったことを考えると、あのまま実家にいたら、ジミヘン以外にも何者かを殺しかねなかったと今は思うのである。

2019年2月27日

地獄とのつきあい方

第三回

『居るのはつらいよ』を読んで

医学書院から発売された東畑開人さんの「居るのはつらいよ」という本を読んだ。
久しぶりにすごい本に出会ってしまって、ムムムと唸った。この本の舞台は精神科デイケアなのだ。私は精神科デイケアに六年以上通っていた。だから、内部のことは良くわかる。それゆえ、この本に書かれているデイケアが実にリアルであることに驚いた。私のデイケアの体験を交えながらこの本について語ろうと思う。

私はデイケアに三ヶ所通った経験がある。一つは毎日プログラムがみっちりあるイケイケ型のデイケア、もう一つは自助グループやセラピーなど、治療を主な目的としたデイケアだ。前者は疲れてしまったのと、スタッフとの折り合いが悪くて三年ほどでやめた。後者は友達が全くできなかったのと、治療が辛くなりやめた。もう一つは「居るのはつらいよ」に書かれて居るような「居場所型デイケア」だ。今回はこの「居場所型デイケア」について書きたいと思う。

私がデイケアを主治医から勧められたのは、20代半ばだったと思う。ブラックの編集プロダクションを自殺未遂というショックな出来事で辞めたあと、実家に戻ってきた。就活をするが全く受からない。私は病院と家を往復するだけの日々を過ごしていた。友達も徐々にいなくなり、さみしい日々を過ごしていた。そう、あの頃の私には社会のどこにも居場所がなかったのだ。それを知ってだろうか、主治医は「あなたには居場所が必要だから、デイケアに通ってみてはどうか」と私に言ってきたのだ。デイケアが何か、ということはよくわからなかったが、とりあえず見学をしてみることにした。

クリニックに併設されたデイケアには私と同じ病気の人が5人くらい集まっていて、おしゃべりをしたりトランプをしたりしていた。私もデイケアのメンバーの人に声をかけてもらってトランプをした。この時、私はようやくデイケアに「いる」ことができた。これは私にとって今まで経験したことがない、大切な経験になった。

私はずっとどこにも「いる」ことができなかった。考えてみれば、学生時代はいじめに遭っていたので、学校は私の居場所ではなかった。そして、私の家庭はとても荒れていて、家庭も居心地が悪かったのだ。その後、社会人になってからはブラックの会社に勤めてしまい、会社にいることが出来なくなった。私はこの社会でどこにも居場所がなかったのだ。そして、精神科デイケアで初めて「いる」ことが許された。精神科デイケアでは私は排除されなかった。ただ、みんなとおしゃべりし、トランプをし、スポーツなんかをして、1日を過ごすことが出来た。

東畑さんは居場所型デイケアのことを「アジール」(避難所)と表現されていた。まさしく、私にとってデイケアは社会からの避難所だったのだ。

今、思い出すと、デイケアは不思議なところだった。どのような集団でも誰かが必ず排除されるのに、デイケアでは誰かが排除されることがなかった。学校だと、ちょっとみんなと違うだけで、すぐにいじめの標的になるが、デイケアでは一切そういうことが起こらない。
キックベースをしている時、足の悪いメンバーさんがいて、次のホームベースに移動するときに、ものすごい時間がかかるのだが、誰も文句を言わず見守っていた。デイケアのメンバーたちは自分たちが排除されてきた存在だから、そういった優しさが自発的に出てくるのだと思う。東畑さん流にいうならば「ケア」が行われていたのだ。

東畑さんはデイケアのことを面白く表現されていた。デイケアというのは円環的時間が流れているというのだ。例えるならサザエさんのような時間だ。毎日小さな事件は起こるけれど、サザエさんの家が破滅してしまうような大きな事件は起こらない。ずっと同じような日常を永遠と過ごす、それが円環的時間だ。
私はこれにひどく納得した。私はデイケアに通い始めた一年間はとても楽しく過ごしていた。夏休みはキャンプに行ったり、クリスマスはみんなで出し物をして、ちょっとしたご馳走を食べたりして面白おかしく過ごしていた。けれど、二年たち、三年経ってくると不安になるのだ。
「私は死ぬまで、ここで毎年クリスマス会をやって過ごすのだろうか」
と。
そう考えたら、具合が悪くなってきて、デイケアに行くことができなくなった。せっかくの社会の避難所は、私に永遠の心の安寧を与えてくれなかったのだ。そもそも、避難所というのは、言葉を見ても、一生いる場所を表現していない。震災にあった人も復興を目指し、DVを受けてシェルターに入った人も、いつかは外に出て行く。

デイケアは三年というルールがある。それ以上いるメンバーには国からのお金があまり降りないのだ。けれど、私はスタッフから「三年以上いてもいいのよ」と言われた。優しいようにも聞こえるが、私には苦痛だった。私はずっと働きたかったからだ。
私は自分の家があまり裕福でなかったせいか、お金を稼いで自立するということへの憧れがとても強かった。私は社会に出て失敗したけれど、もう一度、社会に出たいと願っていたのだ。それに、デイケアの七夕の短冊には「仕事が見つかりますように」というお願い事を何個か見つけた。病気であっても、障害があっても、仕事をしたい、自立したい、そういう気持ちがある人は多いように感じる。

その一方で、自立を諦めてしまっているように見える人もデイケアには何人かいた。彼らの本当の気持ちは私にはわからないが、一日中タバコ室にこもってヤニだらけのスウェットを着ている人をみると、少し不安になる。一生ここにいるのだろうか。
もちろん、そういう選択をしたのなら仕方ないが、円環的時間から飛び出すことはないのだろうか、と考える。

私は人間というのは「いる」だけで価値があると思っている。そして、「いる」だけをするデイケアを維持するのはかなりのお金がかかる。私がデイケアに通うのが辛くなったのは、利用料を払わなければならないことも大きい。
「いる」ことに高額のお金をかけているけれど、私はそのお金をかけてまで、居続けなければならないのだろうか。東畑さんはこれを「会計の声」と呼んだ。私は会計の声に負けた。デイケアに居続けるのが難しくなった私は自殺未遂をするようになった。「いる」を続けるのは本当に難しいのだ、命がけなのだ。

デイケアの利用者としての視点から「いる」について書かせてもらったけれど、東畑さんの「居るのはつらいよ」をぜひ一読して欲しい。精神科デイケアという不思議の国を丁寧に書き留めたこの本が名著であるのは間違いない。

2019年3月27日

地獄とのつきあい方

第四回

病気になって分かること

私の友人にトキンさんという人がいる。彼女はフリーペーパーのゾンビ道場というのを発行していることで知った。同じ精神疾患当事者ということもあり、ずっと気になっていた。同人誌の即売会で会った時に、挨拶をしたり、共通の友人がやっているお店で会って話したりした。そんな彼女が本を出版した。「解離性障害のちぐはぐな日々」という本だ。私は早速買って読みだした。そして、解離性障害という病気についてあまりにも無知だった自分を恥じた。解離性障害が多重人格だということも初めて知った。そんな彼女からトークイベントを一緒にやりませんか?というお誘いをいただいて、池袋のジュンク堂でトークイベントを開催してきた。今回はそのことについて書こうと思う。

今回はトキンさんの本の出版記念ということもあり、私が彼女に質問をするというスタイルをとった。打ち合わせの時に決めておいた質問を何個か話させてもらう。私は彼女の口から「解離性障害とはどういう病気か?」ということを聞いた。
漫画でも描かれているのだけれど、自分の中に何人かの人格があるそうで、「自分の中にたくさん人がいる」という感覚があるそうだ。これはなかなか想像しにくい。状況に応じて、人格が変わるらしい。私はずっと疑問に思っていることを聞いてみた。
「私はトキンさんと会っている時、いつも同じ人に会っている感じがするのですけれど、違う人格の時はありましたか?」
そう聞くと、
「エリコさんと会っている時は、いつも同じ人格ですね。だからわからないのかも」
と言われた。
なるほど、と思いながら、違う人格にも会ってみたいなどと思ってしまった。

トキンさんは解離性障害という病気を抱えて、困難を生きているのだけれど、あまり自分が困っているという感覚がないらしい。自分と世界の間に薄い膜があり、その膜のせいで、感覚をあまり感じないという。痛み、悲しみ、喜び、そういったものが普通の人より弱く感じるそうだ。だから、悲しみや、痛みという負の感情を強く感じることがないのだという。それゆえ、あまり困っていないのだ。
私はこの話を聞いて、病気がトキンさんを助けているのだろうか、と考えた。生き続けることができないほどの強い痛み、悲しみ、それらを和らげるために膜を張る。喜びなどのプラスの感情も消えてしまうけれど、生き抜くためには仕方ない。

病気というものは悪いもののように思えるけれど、実際はそうでないと言われていて、その人を助けるために生まれたのが病気だという考えが出てきている。風邪を引くのだって体が疲れて菌への抵抗力が減っていて、体を休ませるためだし、産後うつは、子育ては一人でできないほど大変なものだから、うつになって周囲の手助けが必要になる状況にしていると何かの本で読んだ。

病気の話を聞いた後は、二人で制度の話をした。病気が長い私たちはいろんな制度を使っているけれど、そもそも、病気になり始めのころは、何の制度があるのかすら分からない。
医療費が一割負担になる自立支援医療制度、税金などの優遇措置がある障害者手帳、障害の重さが認められれば受給できる障害年金。診断書や初診日や、いろんな書類を必死に集め、見たこともない書類と格闘しなければならない。そして、精神障害は大体2年ごとに更新の手続きがあるので、いちいち市役所に行って手続きをしないといけない。
日本の福祉制度は申請主義と言われている。向こうの方から「困っているようだからこれを使ったらどうですか?」とは一切言ってこない。自分で調べて、自分で申請しないと使えない。弱者にあまり優しくない国だと思う。特に、社会的に弱い人というのは、情報弱者であることも多いので、今の状況では福祉は国の隅々まで行き届いていない気がする。

その後は、精神病院での話をした。私たちは二人とも、精神病院に入院している。精神病院に入院した時、作業療法が楽しかったという話をした。二人とも物を作るのが好きだからだ。
そして、精神病院のあるある話としてお風呂の話をした。精神病院では毎日お風呂に入れないのだ。話を聞いてみると、トキンさんも週に2、3回しか入れなかったらしい。私もそれくらいだった。内科や外科の患者で入浴が困難なら入浴が限られるのはわかるのだけど、私たち精神科の患者は体が健康で、入浴に何の困難もない。誰の手助けも借りることなく入浴できるのに、回数が制限されるのは何故なのだろうか。むしろ、入浴ができないことがストレスになっていて、それをいつも患者同士で愚痴っていたのを思い出す。

最近、本で読んだのだけれど、アメリカで黒人に対して白人記者が「黒人差別についてどう思うか?」とインタビューした際、黒人が「それは白人に聞いてくれ」と答えたと言う。黒人差別が白人の問題であるということは明らかだ。そして、これは全てのマジョリティ、マイノリティの問題に当てはまるのでないだろうか、女性問題も男性の問題だし、障害者問題も健常者の問題なのだ。
けれど、マジョリティほど、マイノリティの問題に無関心だ。私は心あるマジョリティに声が届くように、何らかの方法で発信し続けようと思う。

2019年6月19日

地獄とのつきあい方

第五回

齋藤陽道さんの「声めぐり」「異なり記念日」

齋藤陽道さんは写真家である。そして、音が聞こえないという障害を持っている。そんな齋藤さんが一度に2冊の本を出した。それが「声めぐり」と「異なり記念日」だ。
「声めぐり」はほとんど思い出せないと本人が語っていた幼少期から青年期のことで、「異なり記念日」は自分の子供との暮らしの話だ。
私がこの二つの本を読んで、一番深く感動したのは言葉の美しさだ。齋藤さんが紡ぐ言葉は宝石のようにきらめき、日本語がこんなにふくよかで豊かだったのかということを改めて知らされた。思い出したくない記憶ですら「固まった蜂蜜の瓶の蓋のように開かない」という綺麗な表現で語られる。それは、耳で聞く言葉と、口から出す言葉を失ってこそ得られたものなのだと思う。

齋藤さんはろう学校で知り合った人と結婚して、子供をもうけた。音が聞こえない、という障害は遺伝性を持っているらしく、子供がどうなるのか気にしていたのだが、検査の結果、「聞こえる」ということが分かった。聞こえない両親を持つ子供は「コーダ」と呼ばれるそうだ。私はこの本を読んで、コーダという存在を初めて知った。思えば、私は自分の障害については随分調べたが、自分と関係がない障害になってしまうと理解が及ばなくなってしまう。私は自分を恥じた。

コーダの子供がどうやって親と意思表示をするのかといえば、手話で行う。手話というと、自分で頑張って覚えるイメージがあるが、コーダだと、親との生活の中で自然に覚えてしまうらしい。私はなるほどと思いながら読み進め、写真家である齋藤さんが撮った子供の樹ちゃんが「すき!」という手話をしている写真を見て思わず顔がほころんでしまう。

この二つの本はとても良い本であるのだが、それと同時に、深い反省を私たちに促す。私たちはどれだけ、聞こえない人たちのことを考えて生きているのだろうか、という事だ。
「声めぐり」の中で、齋藤さんがバイト先でとてもひどいイジメに遭うシーンがある。聞こえない人を馬鹿にする、ということは絶対にやってはいけないという常識があるが、この世の中に存在する健常者と呼ばれる人たちの中には通じない人がいる。強い者は弱い者を叩くのが常だが、強い者たちは自分が何か努力をして、強くなったと思っているのだろうか。そして、弱い人は何かをしなかったために弱くなったのだろうか。障害を負うというのは誰の身にも起こりうる。齋藤さんを虐めたバイト先の人はもし、この先の人生で自分が同じような障害を負うことになったらどう思うのだろうか。

私は精神障害者であって、障害者であることを悔しいと思うことがある。しかし、同時に感謝しているところもある。それは、自分が謙虚になったということだ。病や障害は傲慢な心を鎮めてくれる。そして、よく生きるにはどうしたらいいのかと思索することができる。
聞こえる者と、聞こえない者、歩ける者と歩けない者、見えない者と、見える者。様々な人がこの世の中にいて、一緒に生きている。私たちがやらなければならないことは、色々な異なりを見極め、相手の立場に立って考えることだろう。そして、何かができない人のニーズに合わせた社会は生きやすい社会になるということを知ることだろう。

小林エリコ:プロフィール
小林エリコ:肖像画

1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。現在も精神科に通院しながら、NPO法人で事務員として働く。
ミニコミ「精神病新聞」を発行するほか、漫画家としても活動。
自殺未遂の体験から再生までを振り返った著書「この地獄を生きるのだ」(イースト・プレス)が大きな反響を呼ぶ。
晶文社スクラップブックエッセイ「わたしはなにも悪くない」に大幅加筆した単行本「わたしはなにも悪くない」(晶文社)発売中。
大和書房WEB連載「家族劇場」連載中。

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