REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

続・酒田から
 斎藤典雄

2023年7月5日

続・酒田から

第1回

ようこそ酒田へ

 酒田には日和山公園という市民の憩いの場がある。家のすぐ裏で徒歩1分で行ける。
 高台になっていて、酒田港、日本海、最上川、月山などの出羽三山、市街地が一望出来る。特に日本海に沈む夕日は格別で、沈む瞬間にはジュワッとした音が聞こえてきそうな気がするのだ。もはや黄昏しか感じないおれにはぴったりで、おいでおいでと誘われているようで、気がつくといつも眺めている。
 公園は昔と違いすっかりキレイに整備されている。毎日のように掃除して、手入れが隅々まで行き届いている。たぶん市から委託されているのだろう。皆かなりの高齢者ばかりだ。まだ高齢者見習いでプー太郎のおれは頭が下がる。本当にご苦労さま。
 しかし、お祭りなどのイベント以外はいつ行っても人影はまばらだ。数人いるかいないかで、おれが行けば貸し切り状態だ。なんてもったいないのだろう。
 公園入口には映画「おくりびと」(09年アカデミー賞外国語映画賞・日本アカデミー賞作品賞他6部門受賞)の「NKエージェント」(葬儀社)があり、映画そのままのセットが無料公開されて一躍脚光を浴び、当時は映画ファンや外国人などの観光客で賑わっていたのだが、今はさっぱりだ。昨年老朽化により改築されて、しゃれたベーカリー&カフェ、レストランに変身してしまった。
 ここは元、明治時代からの料亭「小幡楼」として高名な政治家や文人客をもてなしたとされる。また、板垣退助や皇族も訪れたといわれ、酒田では超有名だったそうだ。
 園内には日本最古級といわれる洋風の木造六角灯台がある。夜になると青と黄色にライトアップされ、何とも幻想的だ。これはウクライナ支援ということだが、酒田ではわざわざ見に来る人は誰もいない。
 また、広場には池があり、北前船の実物1/2の大きさの模型が浮かべられていて、港町酒田の風情を醸し出している。
 酒田はこの北前船により飛躍的に栄えたといわれているのだ。江戸時代に酒田から西廻り航路で下関、大阪を経由して米や魚などを江戸に運んだ。当時の酒田の庄内平野は日本一の米どころだった。それで、全国各地の商品や文化を積んで帰港したということだった。
 この北前船で巨万の富を成し得たのが、知る人ぞ知る本間様だ。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」とうたわれるまでになった日本一の豪商、大地主なのだ。
 それにしても、帆1枚で荒れた日本海をそれこそ何日もかけて航行したとは驚きだ。この船は逆風でも進むことが出来たと文献にあるから本当なのだろうが、俄かに信じ難い。夢とロマンは感じるが、いったい何人の命が奪われたのだろう。そんなことばかり考えてしまう。
 いずれにしても、本間様は世のため人のために尽力された。日本海からの暴風や飛砂を防ぐクロマツを海岸線一帯に植木するなど、酒田の人々の暮らしを守った話は有名だ。本間様、様々なのだ。今の酒田があるのは本間様のお陰だと誰もが思っているのだろう。
 更に、園の遊歩道は文学の散歩道となっている。全29基の文学碑が建てられている。江戸時代から昭和にかけて酒田を訪れた文人などだ。おれは文学にはとんと疎いが、名前を知っているだけでも松尾芭蕉、与謝蕪村、斎藤茂吉、野口雨情、井上靖、若山牧水、正岡子規、吉田松陰、竹久夢二、田山花袋などだ。好きな人は一日中いても飽きることはないと思う。
 4月になればソメイヨシノなど約400本が咲き誇る桜の名所でもある。毎年桜まつりが開催されて、家族連れなどで賑わう。日本の都市公園百選にも選ばれている。
 ここで思い出すのは、東京から来てくれた同僚数人との花見だ。公園でしこたま飲んだ挙句、町の飲み屋に繰り出し、壁に掲げてある「おすすめ旬のメニュー」を3人前ずつ、あれ全部と言って注文した。お店もこんな客は初めてだったのだろう。そんなことより、庄内の春の祭りには欠かせない、脂ののったサクラマスの独特の香味はとろけるようで絶品だった。忘れられない。
 また、例年5月に開催される「酒田まつり」は400年以上の古い歴史がある。園には露店も多数出店され、日和山から町への一直線の約1キロの道路には600もの露店が並んだ。これは東北一だそうで、人人人で大賑わい。歩くのもやっと。こんなに大勢の人が酒田にいたのかと思う程繰り出す。東北最大級の祭りということで、おれが小学生の頃は公園にサーカスも来ていた。みんな遠い昔のことだが、そりゃあ今でも大盛りあがりだ。
 「酒田甚句」という古い歌がある。
 日和山 沖に飛島 朝日に白帆
 月も浮かるる 最上川
 船はどんどんえらい景気
 今町舟場町 興屋の浜 毎晩お客は
 どんどんシャンシャン
 シャン酒田はよい港 繁盛じゃおまへんか
 海原や 仰ぐ鳥海あの峰高し
 間を流るる最上川
 船はどんどんえらい繁盛
 さすが酒田は大港 千石万石
 横づけだんよ
 ほんま酒田はよい港 繁盛じゃおまへんか

 「おまへんか」などは酒田では使わない言葉だ。これはまさしく、北前船での関西との交流によるのだろう。
 家の近所には江戸時代からの老舗料亭も多い。北前船で栄えていた頃に船主や商人をもてなした。酒田は京文化の影響が濃いと言われている。それを今でも目にすることが出来るのは舞妓さんかもしれない。通りでよく擦れ違う、きらびやかな着物をまとい、顔には真っ白なドーランを塗りたぐり、なぜかおれは恥ずかしくなり後ずさりしてしまう。一瞬にして異次元の世界へタイムスリップしたかのような気分になる。
 このように酒田にもいい所はいっぱいある。が、昔のことばかり言ってもしようがない。
 全国の田舎同様、なんたって自分が生まれ育ったふるさとが一番だと思っている人は多いはずだ。その土地の人柄、人情味、悲哀、はたまた過酷なこともある。日本海、山、川がもたらす恵みの幸。命の誇りの庄内米。自然は豊かで食べ物は旨い。酒田は野鳥まで肥えている。申し分なしだろう。
 自然はいつも変わらない。何も言わずに冬を越す。雪が溶け、春になれば草木が芽吹き、緑いっぱいになる。花は健気に咲き乱れる。この景色は古今東西変わることなく人々の心を和ませてくれる。
 しかし、人間はそうはいかない。何もしなければ町は寂れて疲弊して行く。しょぼいったらない。人口減少、少子化、雇用など、問題が山積している。酒田では一昨年、戦後70年続いた由緒あるデパートが倒産した。また今年は、近所のスーパーが閉店してしまった。不便といったらない。町はますます閑散としている。感傷に浸っている場合ではない。
 その上、地震や豪雨による自然災害だ。近年ではこれが当たり前になっている。あろうことか、猿や猪が田畑を荒らし、町を闊歩している。そればかりか熊まで出没する有様だ。これらは全国的なことで、何も酒田に限ったことではない。なるようにしかならないでは済まされないことだ。
 全国の自治体も必死なのだろう。酒田も市を挙げて町の安全や活性化、町おこしには精力的に取り組んでいる。
 何もしていないおれに言う資格はないかもしれないが、企画されたイベントなどはやっている人の顔ぶれがいつも同じように見える。ごく一部の人しかやっていないのではないか。全体で盛り上がっていない。それは、皆それぞれが自分のことで精一杯なのだと思う。
 酒田には大学もあり、学生たちの若い力も協力はしてくれている。だが、どうしても地元に根差すことがない。卒業すればおさらばで、殆どの人が都会へ出て行ってしまう。就職先が乏しいからだ。働かなければ生きて行けない。働かざる者、食うべからず。ん?!おれのことか。
 これも誰か、お偉い人が提言していることだと思うが、酒田は山形県では唯一の港湾都市だ。
 子どもの頃は家と学校、友達の家の往復ばかりで町へ出ることは殆どなかった。実家は駅前だったので日和山に来るのはお祭りの時だけで、港ではなく川で遊んでいた。家から少し行くと田んぼばかりで、てっきり農村だと思っていたら酒田は港町だったのだ。しかも重要港湾都市と言うではないか。
 ならば、それを活かす。このところはコロナでなくなってしまったが、外航船クルーズなどの寄港、誘致に本腰を入れる。
 外国人相手だから英語も出来ないといけない。先日町を歩いていたら、商店街のアーケードに旗がズラリと吊るしてあった。そこには「町を歩けば、じょんぶになるの~」と書いてある。酒田の方言で「丈夫になるよ」ということだ。このように、東京から来た人は酒田の人は何を喋っているのかさっぱり分からないとよく言う。まるで外国に来たようだと。そうなのだ。酒田は方言がキツイ。
 酒田の人は普段から方言と標準語の二刀流で生きてきた。英会話などは訳はない。ちょっと習えばすぐ出来る。へっちゃらだ。
 全国どこでもやっている。「いらっしゃい、いらっしゃい」。これだよ。酒田に呼び込むことだ。
 港町酒田。海の観光振興展開。とりあえずの急務ではないのか。

2023年8月23日

続・酒田から

第2回

闘う国労

 国鉄に入った。嬉しかった。なにしろ大学に次々と落ちていたからだ。高校の時、全く勉強しなかったから受かるはずがなかったのだが。
 配属先は新宿駅だった。一日の利用者が何百万人。日本のみならず世界一の乗降客。天下の新宿駅だ。
 東京の地理も右も左もまだ分からない、田舎者のおれは山手線内回りと総武線が発着するホームの担当だった。
 一人でホームに立ち、マイク片手に案内放送をする。「お下がり下さい。電車が参ります」。手旗を振って電車を発車させる。「信号進行、発車オーライ」。客案内をする。今でこそお客様だが、当時は客と言っていた。
 客に聞かれる。「あっち、こっち」と顎で対応する職員もいた。なんという横柄な態度なのだろう。それでも通っていた。今なら完全にアウトだ。
 「幡ヶ谷(京王線)はどっちですか」。おれは阿佐ヶ谷(中央線)しか知らない。モジモジ。応えようがない。「下北に行きたいんだけど」。今から上野発の夜行列車は間に合うのだろうか。とりあえず上野方面の外回りを案内する。「ここからすぐの下北沢だよ、青森の下北半島行ってどうすんだ、バ~カ」。
 こんなんでよくやってこれたものだ。あの頃のおれはホント、アホだった。
 ぺーぺーだからゴミ集めがあった。「業務連絡う。ブルートレイン発車」という先輩の嘲笑うかのような放送で作業を開始する。青い大きなカゴを引っ張って、ホーム各柱に備え付けてあるゴミ箱のゴミを抜き取るのだ。当時は痰ツボまで設置されていた。なんて不衛生なことか。嫌で嫌でしょうがなかった。
 そんな最中に、「典雄じゃないか」。田舎の同級生とバッタリ会った。「なんだよ、国鉄でゴミのバイトやっているのか。予備校は辞めたのか」。おれは一言「んだ」と応えて、再び臭いカゴを引くしかなかった。
 夜勤明けの会議などは机に平伏していつも寝ていた。講師役の上司が「明けの人は眠いのは当たり前です。どうぞ寝て下さい」と言うのだった。どこかが狂っている。労使対等と言われるが、国労(国鉄労働組合)の力は絶大だった。荒廃しきった職場、勿論全てではないが、これが国鉄の現状だった。
 10年程が過ぎた87年に国鉄は分割民営化(以下分民とする)されて、新会社JRとなった。当時一番言われていたのは意識改革だった。当然だと思った。
 分民の経緯は国鉄の膨大な赤字解消だったが、その原因はまるで国労にあるかのように、国鉄職員は働かない、サボっている、ヤミ手当、カラ出勤などと、マスコミは「ヤミ・カラ・キャンペーン」を張り、国鉄はけしからんと徹底的に叩いた。国鉄のことが新聞に載らない日はなく、分民の嵐が日本中に吹き荒れることになった。
 国労は分民反対闘争に突入した。国論は二分されたが、国是に反対する国労は国賊だとまで言われた。国鉄当局による「国労にいたら新会社には行けない」などの露骨な差別分断攻撃。交渉も話し合いも無視した既成事実を積み重ねた対応。それらは当局が国労からやられ続けた積年の怨念でも晴らすかのような暴挙だった。この結果、国労組合員は怒涛の如く脱退させられ、驚くことに自殺者が200人にもなっていた。
 職場では「脱退者は裏切り者だ」と昨日まで仲間だった組合員から罵られ、毎日が針の筵だったに違いない。当局の甘い餌につられた優柔不断な仲間もいたが、多くは自分の良心で脱退したのだと思う。子どもじゃあるまいし、国労に愛想を尽かして見捨てて行ったのだ。もうこの頃は、全国に20数万人いた組合員が3万人にまで激減していた。
 それでも国労は国家的不当労働行為(法律で禁止されている)だとして地方労働委員会(以下地労委とする)へ救済の申し立てをするなどして、労組としての正しい道を歩んでいた。
 結局、新会社JRには約8000人が不採用となり、国労の1047人が国から首を切られた。新たな闘い、いわゆる国鉄闘争が始まった。
 国労は1047人の解雇を撤回させるためにあらゆる手を尽くした。ILO(国際労働機関、ジュネーブ)にも提訴して国労に有利な勧告を引き出せたりしたが、これには拘束力がないのだった。また、裁判でも和解案なども示されたが、JR側は「たとえ不当労働行為があったとしても、国鉄とJRは別会社だ」として頑なな態度を変えることはなかった。
 別だと言われても、変わったのはJRという企業名だけで、出勤すれば建物も線路も駅長のてっぺん禿も差別も何も変わってはいないではないかと、おれは屁理屈をまくし立てていた。闘争は泥沼の様相を呈した。一向に埒が明かない。出口の見えない長期化は免れないようだった。
 それならと、一部の人達が国鉄を引き継いだ鉄建公団を相手に訴訟を起こすなどした。国労は除名するだのしないだのと内部対立も激化。一般組合員から見ればもうしっちゃかめっちゃかで、訳が分からなくなっていた(おれのことです、あしからず)。ちゃらんぽらんなおれは、賛成か反対かもどっちつかずなのだった。
 国労の最高決定機関の全国大会も、団結はおろか混乱を極めた。会場は荒れに荒れて休会になるなどの異常事態。あろうことか機動隊が配備されたりしたのだった。異様としか言いようがない空気。最早、国労には永久に結論を出すことは不可能だと思った人が大半だったのではなかったか。
 こうして闘争は10数年が経過した。何より期待していたであろう、待ち望んだ最高裁の判決が紆余曲折を経た03年に出た。「JRに法的責任なし」。耳を疑った。なんと、3対2という僅差での確定だったのだ。だが、これが判決だ。重く受け止めるしかない。これが現実なのだ。
 気持ちの切り替えが出来なかった。いったい、これまでの苦労は何だったのか。集会の動員は勿論、地労委、裁判所にも行った。全国大会も傍聴した。1047人の何人かとも仲間になった。たかが一組合員だったが、自分のことだと思ったからだ。国労組合員はもう1万4000人まで落ち込んでいた。国労は自然消滅の運命を辿るしかないとまで囁かれていた。それでも闘った。国労は闘い続けていた。
 闘争23年目になっていた。1047人の高齢化は進み、解決を見ずして亡くなった人は59人に達していた。これ以上の長期化は何としてでも避けなければならない。政治が動いていた。ILOも日本政府に対して7度目の勧告が出されていた。
 2010年だった。遂に決着した。時の民主党政権下での政治決着だった。異論はあったが、戦後最大の労働運動はこれで終止符が打たれた。長い、まるで一生のような長い闘いだった。
 解決金は一人当たり2200万円。多い少ないは別として、国労のゴネ得だとする批判も多かった。そのような中で、何より国労は人道的見地から評価して受け入れたのだった。苦渋の決断だったに違いない。
 振り返れば、国鉄の分民は国鉄の赤字解消は表向きなのであり、戦う国労潰しが目的であったのだ。日本の労働運動を牽引する程の力を誇示していた国労潰しだった。このことは、当時の中曽根首相が後に「国労を潰して、総評、社会党を潰すことを狙った」としゃあしゃあと発言している。
 忘れもしない、中曽根自民党政府は「国鉄職員は一人も路頭に迷わせない」と言明して、「所属組合による差別はしない」とする附帯決議までしている。それらは全て反故にされた。大嘘だったのだ。これだから今の政府も信用できない。
 全国の地労委では不当労働行為があったと認定され、国労差別だとする救済命令が出されても、裁判ではまた違った見解が示される。現場では何一つ変わらない。やりたい放題だった。世の中いったいどうなっているのか。
 繰り返すが、職場では国労の弱体化、若しくは国労を嫌悪する労務政策の強行による差別で大量の解雇が行われた。組合員には大切な家族もある。過ぎ去った日々は二度と取り戻すことは出来ないのだ。
 それにしても、国民からの国労への風当たりは強かった。国労支援は必ずしも多いとは言えなかった。しかし、不当な差別や人権侵害はあってはならないし、決して許されるものではない。この一点に集約されるのだと思う。国労はよく闘った。がんばった。
 世の中には強い弱いが存在する。経営側が強すぎるのはよくない。自民党1強も考えものだ。物言わない労働者、闘う人のいない世の中に未来はあるのだろうか。要はバランスが大事なのかもしれない。
 あれからもう何十年も過ぎた。国鉄のことなど誰も語らなくなった。が、今の世の中にも似たような共通することはごまんとあるだろう。差別や人権の問題は時代には関係がない。人が生きて行く上で、人間にとっては普遍的なものなのだ。しっかりチェックしていくしかない。
 最後に蛇足になるが、おれたちは普通の労働者だ。何も変ではないということをどうしても伝えたくて、国労のこと以外に日々の暮らしも書いた。そうすれば分かってもらえると思った。書いたら、結局おれは変なやつだった。それが本になった。無駄な抵抗に終わってしまった。
 気がつけば本来の業務より組合運動にのめり込んで退職まで来てしまった。所詮、おれには二刀流という芸当など出来る器ではなかったのだ。

2023年10月11日

続・酒田から

第3回

もう一度、彼女

 思い出すと切りがないが、思い出さずにはいられない。
 病院には感謝している。入院は初め二ヶ月だった。退院すると決まった時は嬉しかった。どんなに変わり果ててもそんなことは関係ない。病院から解放されて家でゆっくり出来る。メンタル面でもかなり楽になる。外出も家の周りなら10分位は可能かもしれない。いいことばかりが頭を過ぎった。
 抗ガン剤投与も二週間に一度の通院だった。これだけでも時間的余裕はたっぷりある。有意義に過ごそうと思った。
 ところが、全くそうではなかった。栄養剤の点滴、貧血による輸血など、一週間に二度三度も通院しなければならない状態だった。抗ガン剤投与どころではなかった。朝早くから午後3時、4時まで病院にいた。おれはいい。彼女はもうくたくただった。
 それは無理もなかった。病院でしっかり摂っていたと思っていた食事が三口程しか食べていなかったのだ。箸を床に落としたらそれで終わりだ。ナースコールをしたところでもう食べられない。痛みが襲ってくるからだ。
 ドクターは家での様子を聞いてきた。おれは食事のことや気付いたこと、どんな些細なことでも一週間に1~2回は手紙を出していた。勿論、返事はなかったが診察時に薬を代えたりして下さったので十分応えてくれたのだと思っている。
 彼女が何々を食べたいと言う時には出前をとった。でも一口二口がやっとだった。おれはお粥にシラスを入れたり、リンゴをすったりと体に良さそうなものは何でも作った。少しでも美味しいと言って食べてくれた。また、おれの分は彼女が眠りに就いた時など全速力でスーパーへ行き15分で戻ってきた。
 食事以外は殆ど臥床状態だった。10種類以上の薬の半分は眠気を催す成分が含まれていたから当然だったのか。少しでも体調が良さそうな時には歩かせた。狭い家の中を行ったり来たり。転ばないようにしっかり手を引いて、足腰のリハビリのつもりだった。それも数分が限度だった。
 おれは無力だ。何をやっても水泡に帰す。一ヶ月後に再び入院せざるを得なかった。コロナで面会は禁止だったが、どうせ個室なんだし他の患者さんに迷惑をかけることはない。おれは付きっ切りで彼女の傍から離れることはなかった。もうどんなことをしても後がないのだ。
 朝9時頃に定期的な回診があった。これには辟易した。ナントカ部長とやらが数人の部下を従えてやって来る。「食事は3度ではなく食べたい時でいいですよ」など、やさしい言葉をかけてくれる。おれはありがたそうに頷きはするが、そんなことは分かり切っている。もう何もかもが煩わしくてしょうがない。彼女は苦しんでいる。それを我慢しているのだ。「見せものじゃないんだ、お前ら。とっとと消え失せろ」という気持ちにしかなれなかった。
 痛みが襲ってくるとナースコールをする。なかなか来てくれない。やきもきする。数分経っても来ない。聞けば、鍵がなかったと言う。麻薬は普通の薬とは違い管理が厳重なのだ。これでは、もし夜間などで誰もいなかったら地獄の思いだったのではないか。激痛だというのに、いったいどこが完全看護なのかと言いたくなる。
 その時からおれは麻薬を持ち歩くようになった。家に残っているのがいっぱいあったからだ。それをすぐに飲ませた。漸く来てくれたナースはおれに抱きつくかのような勢いでお礼を言う有様だった。一生懸命やっているナースを責めることは出来ない。
 思い出すだけで彼女がおれを呼ぶ悲痛な声が蘇ってくる。耳から消えていかない。すぐそこにいるかのようだ。これを黙っていろとでも言うのか。おれには出来ない。
 家の中がすっかり空っぽになってしまった。酸素ボンベや点滴用の機材、車椅子などみんな引き取りに来てもらった。介護ベッドの業者が気が利くことを言ってくれた。「奥様の思い出としてしばらく置いておく方もいらっしゃいますよ」と。
 ふざけるな。うるせえんだよ。お前なんかに何が分かるというんだ。もう見たくもない。さっさと持ってってくれ。バカヤロー、もう来るな。二度と来るんじゃねぇぞ。チキショー。
 彼女は死について家でも病院でも一言も言わなかった。そんなに強くはない彼女がだ。もしおれなら「死にたくない」とワァワァ大騒ぎの毎日だったろう。彼女は何故言わなかったのか。おれには分かるような気がする。もう最後なのだから絶対に言わないと心に決めて、弱いおれに強さを見せてくれたのだ。このまま死んでしまいたい。言ったところで楽にはならない。おれを困らせるだけだ。いくら激痛に耐えても、死ぬ。
 だからこうしておれと一緒の時に、おれの腕に抱かれて死ぬのがいいと思い、いつもおれの名前しか言わなかったのだ。おれも言えなかったよ。死ぬなんて、そんなこと言えるはずがなかった。あまりにも短すぎた。おれは二人の情熱なんてどうでもよかったんだ。情熱の後の、静かな普通の暮らしがしたかったんだ。
 いい年をして、全てを賭けた最愛の彼女だったのに。母親も漁師さんまでいなくなり、おれの生活はガラリと変わった。やる気が全く起こらない。何もかもブルーだ。塞ぎ込んでしまう。かといって焦燥はない。
 食事は摂れている。きちんと三食食べている。が、殆ど自分で作ることはしなくなった。スーパーへ行っては総菜など出来合のものを買ってくる。味気無いが、これで別に問題はないだろう。
 これまでは漁師さんの手伝いが生活の中心だったが、今はたまにしか行かなくなった。新しく始めた漁師さんも高齢で、もう趣味でやっているようなところがある。「10日に一回位でいいかな」などと言っている。だから張り合いがない。暇な時間だけが増えている。
 また、一日何もしなくても風呂だけは入いる。昔はカラスの行水だったが、30分位は湯に浸っている。大汗をかかないと気が済まない。長いが、極楽だ。昨日は箱根、今日は草津。入浴剤での温泉気分。
 晩ごはんは決まって5時。軽く晩酌をやりながら最後にみそ汁と白いごはんだ。テレビはニュース以外は殆ど見ない。ウルサイと思うようになった。見たい音楽番組などは録画する。
 夜は早く寝る。起きていてもしょうがない。ロクなことはないと思って布団を敷く。8時頃には寝てしまう。まるで年寄りみたいだ。いや、十分年寄りだ。ジジィなのだ。
 その分、朝は早い。3時頃には起きている。深酒を止めたから二日酔いがない。爽快だ。彼女が亡くなって暫くは浴びる程飲んでいた。飲むしかなかった。「酒に逃げるな」という友人の忠告など全て無視だ。飲む以外は泣くしかなかったからだ。空が黄昏に染まる頃には枕を抱いて布団にひれ伏していた。
 東京からわざわざ何人かの友人が来てくれた。おれはとり乱した。なりふり構わず思いをぶちまけた。その一方では元気なふりをしていた。
 いよいよ一人ぼっちになってしまった。思いを誰に言ってもおれが感じているようには伝わらない。おれの表面しか知り得ないのだと思った。
 6時頃には簡単な朝食を、といってもしっかり食べる。一日がまた始まる。やることが何もない。退屈すぎる。コーヒーばかり飲んでしまう。起きて数時間も経つというのにスーパーも郵便局もまだ開いていない。困った世の中だ。いや、困ったのはおれの方だ。
 思い切って町をぶらつく。彼女のことが頭を過ぎる。二人で歩いた所ばかりだ。道端に小さな花が咲いている。彼女の好きな花だ。バカヤロー、おれを一人にしやがって。お前なんか大っ嫌いだ。でも愛している。美しさの後には痛みがある。「おかえり」という当たり前だったしあわせはもうない。
 天気のいい午後は懲りずに港に行く。午前中で仕事を終える漁師さんたちは誰一人いない。暖かな日差しに包まれる。まどろみの中に解けていく。感情がやわらかくなる。
 GWも酒田まつりも終わり、笑い合った人達は離れて行った。町の賑わいも消えた。皆一人ぼっちだ。さみしさを隠す、いつもの酒田に戻った。
 田植えが始まっていた。ここからは遠くて見えないがその様子は手にとるように分かる。新米が出たのはついこないだのように思う。まるで昨日のようだ。時の流れは早い。酒田の風と鳥海山からの豊かな水が美味しい庄内米を作る。一年なんてあっという間に過ぎて行く。
 彼女が亡くなって2年になろうとしている。何とか日常に戻りつつあるおれは、友人に未だに元気なふりをしていると言ったら、ふりをする元気があるなら大丈夫だと言われた。そうだよな。一人ではどうすることも出来なかった。友人の助けでここまで来れた。おれは何もかも無謀だった。今でも罰が当たったと思っている。自分を恥じている。
 残りの人生はもう何もしたくない。何も望まない。ゼイタクはしない。何もしない。それでいい。時の流れに穏やかに身を委ねるだけでいい。
 生活がガラリと変わったと言ったが、一番変わったのは酒の量を減らしたことだ。どうしてあれ程飲まなければならなかったのか。言えることは必要だったからだ。健康を損ねて体を壊したら元も子もない。何もしないが何も出来なくなる。これまでもそんな人は大勢見てきた。若い頃とは違い無理は出来ないのだ。出来ることは潔く観念すべきだ。
 彼女の命日には墓前で誓う。「もう大丈夫だよ。強く生きるから」と。
 過ぎ去った日々は長いようで短いようで。おれには短いとしとしか思えない。それは何もかも全て満足していないからだと思う。

2023年11月15日

続・酒田から

第4回

マイ・ブルー・ヘブン

 酒田に戻って来てからの数年間は同僚達が次から次とやって来た。
 「斎藤が漁師になったんだってよ」「典ちゃんが自給自足してるんだって」と、どうも変な噂が広がったらしい。家に来た同僚が職場でおれのことを大袈裟に吹いているに違いなかった。「今度おれも行ってみようかな」という人がいたりする。で、「典ちゃんなら歓迎してくれるよ、と言っておいたから」と連絡が来る。
 おいおい、ふざけるなよ。あんなやつはおれの友だちでも何でもない。断ってくれ、と言い返す。だいたい家は旅館ではない。こっちだって寝具を用意したりと大変なのだ。
 それでも嬉しかった。何をご馳走してやろうとか、何処へ連れてってやろうとか、あれこれ考えるのが楽しかった。それが今では毎年来るのは3~4人しかいなくなった。平穏無事な当たり前の暮らしに戻ったということだろう。
 皆本当によく来てくれた。付き合いのなかった若い子までやって来た。彼らの関心事は拙著だった。「あんなことを書いて大丈夫だったんですか」「クビになるんじゃないかといつも心配してました」と。組合のことをまだよく知らないのだから無理もないのかもしれない。
 全く心配ご無用。タイトルが「秘密」といっても、おれが書いたのは国労の主張のオウム返しにすぎない。また、新聞やTVで公になったことばかりなのだ。
 「当局からの圧力は相当なものだろう」というネットでの書き込みもあったが、会社側もしっかり読んでくれていたのだろう。要注意人物としてマークされていたには違いないが、呼び出しやらのお咎めは一切なかったのだ。逆に拍子抜けしたくらいだった。管理者達はおれと話す前に「書かないでよ」とか「典さんに喋ると書かれるからなぁ」と言う始末で、段々と引いて行くのだった。悪く言えば、無視されたということか。
 せっかく書いたのだから反響が気になるのは言うまでもない。熱狂的な鉄道ファンは多いが、おれが書いたのはそんな類いではない。読者は部内の人、それに中高生が多かったようだ。少しガッカリしたが、おれの文章が子どもレベルなんだろうと諦めるしかなかった。「車掌さんの裏話、面白かった」「のほほんとした日常に心が和んだ」。一方では「組合の話は重くてよく分からなかった」などなど。
 おれは国労のことをメインとして書いたつもりだったが、闘いについての意見は皆無に等しかった。親戚からは国労のことは書かない方がよかったと言われ、しまいには怒られてしまったのだ。ならいったい何を書けというのか。
 しかし、特に印象に残り今でも忘れられない投書があった。それは、JR  でラッシュの尻押しのバイトをしたという若い人だった。その節は国労の人には良くしてもらい大変お世話になったと。それでたまたま拙著を読み、卒論で国鉄経営と労組について書いたのだという。そのために何十回と熟読して自分の人生の中では一番大切な本だとあった。これは今でもネットで見られる。
 ホントかよ。何だか信じられなかったが、もう嬉しくてしょうがなかった。そこまで言われると、おれには何か重大な責任があるかのように思ってしまった。「済まなかった、あんなアホバカ本で。おれは未熟だったよ」と謝りたい気持ちでいっぱいになった。
 あれからもう何十年も経つ。今ではこの人も「あの頃は若かったなぁ」と思っているのだろうか。出来ればそう思ってほしい。
 乗務中にはネームプレートをジロリと見られて、「あの本の斎藤さんですか」と何度も声を掛けられたりした。また、わざわざ職場まで会いに来てくれた人もいるなど、どれも楽しかったし、懐かしいことばかりだ。それなのに、彼女とはそんなことも何一つ話をすることもなく逝ってしまった。悔しいったらない。
 それにしても、人は何故書くのだろうか。いや、人はと言うと仰々しいというかおこがましい。この場合、あくまでもおれはということですから、あしからず。
 自己顕示欲が強いから。思いを共有したいからといろいろあるが、とどのつまりは自己満足だと思っている。更に言うなら、いつ脱線してもおかしくない自分を書いたことから逸脱しないように律しているような気がするのだ。ま、人それぞれでいい。
 酒田に戻ったというなら「なんちゃって斎藤鮮魚店」のことを書かない訳にはいかない。
 漁師さんから魚を貰うと、おれは得意になっていた。そう、もう有頂天になっていたのだ。  おれが獲った訳ではないのに、まるで自分が獲ったかのような気持ちになるのだった。「どうだ、参ったか」。これが酒田だ。日本海だ。あれが鳥海山。そこが最上川。ちょっと向こうが庄内平野だと、ふるさとの見るもの全てに感動して、満面に笑みを浮かべては訳が分からなくなっているのだった。
 帰宅するとすぐに下処理に取り掛かる。獲れたての山程の魚を前に、ウロコ、腹ワタなどを取ってキレイにしたら親戚などにお裾分けする。次に東京の同僚や友人、子どもらに発送する。箱に詰める時は彼女の細やかな気配りで、ズボラなおれには出来ない程見事に整う。これで魚がより一段と美味そうに見える。
 「どうだ、参ったか」。今獲れたばかりだ。どこよりも新鮮だ。酒田の魚だ。旨いぞ、食べてくれ。おれのロマン、海のロマンを感じてくれと心を込めて送るのだ。
 翌朝は市場で競りにかけられる。酒田の店頭に並ぶはずだ。おれが網から外した魚だ。もしかしたら、東京の築地まで行くのかもしれない。
 「どうだ、参ったか」。想像が膨らむ。夢が広がる。これがおれだ。今のおれだ。「次は駅~、出口はドアの開いた方」とアナウンスしていた車掌の時には得られなかった体験だった。信じられなかった。本当に楽しかった。よくやったと今更ながら思う。
 「届いたよ」という知らせが来る。送る時も嬉しいが、これまた嬉しい。そうか、食べてくれ。美味そうに食べている姿が目に浮かぶ。こんなに嬉しいことはない。
 初めの頃は、勿論腹ワタなどは取って、例えば鮭なら1本ドドーンと送っていた。相手のことなど考えなかった。魚をさばけるかなどお構いなし。近所に魚屋さんがあれば頼むだろうし、なくてもどうせ自分達で食べるのだから見映えなどどうでもいい。なんとか調理してくれるだろうと思っていた。結局「どうだ、参ったか」という気持しかなかったのだ。
 それが、2~3度送っているうちに実はさばけないときた。あんなに喜んでいてくれたのに、それならそうと遠慮しないで最初から言ってくれよ。おれの仕事がまた増えた。でも苦
 でも何でもなかった。とにかくおれの「どうだ、参ったか」を見せてやりたい思いばかりだったのだ。
 魚を送るトロ箱もホームセンターでは結構な値段がした。いちいち買うのもエライこっちゃと悩んでいたら、港のすぐ近くに発泡スチロール箱を粉々にする工場があると漁師さんが教えてくれた。渡りに舟だった。船名を言ったらタダで貰えた。助かった。缶コーヒー代位は置いてくる。汚れは家の浴室でキレイになった。もはや、まるで魚屋さながら。「なんちゃって斎藤鮮魚店」は絶好調だった。もう嬉しくて泣きたくなった。
 そのうち家の冷蔵庫の冷凍室では足りなくなり、新しく冷凍庫を買おうと考えていた。頼みの綱はやっぱり漁師さんだった。知人がくれると言うのだ。古いやつだと言われたが使えれば何でもいい。なんてラッキーなんだ。
 その人が家まで運んでくれた。昔懐かしい、駄菓子屋などでアイスクリームを入れる上部に引き戸がある代物だった。ところが、何日かすると電気代がバカにならないことを知った。悩んだ挙句、結局処分することにした。それが産業廃棄物とやらで6000円もかかってしまった。やれやれ。タダで貰ったというのに、トホホだったのだ。
 また、こんなこともあった。魚を送ったのに届いたという知らせが来ない。いつもすぐに連絡をくれる人だ。3日目に宅配の会社から電話があった。何度も伺ったが留守で、鮮魚と書いてあるから送り返すと。結局数日も経ってしまい氷も全て溶けていた。もったいないけど仕方なく捨てるしかなかった。後で聞けば旅行に出掛けていたと言う。おれが迂闊だった。こんなこともあるのだ。それからは所在を確かめてから送るようにした。
 とにかく山程貰うので処理に困った。二人で食べ切れるものではない。新しい冷凍庫も満杯になっている。
 ひと頃は宅急便のいつものお兄ちゃんにあげたりした。床屋のばあさんにも八百屋のおばあちゃんにもあげた。昔よく通った飲み屋のマスターにも持って行った。挨拶はするが付き合いのない近所のオッサンにまでやった。
 もうおれ一人の体ではいくつあっても足りなかった。しんどかったが止めなかった。晩ごはんと酒が旨いったらない。嬉しい悲鳴とは正にこのことだ。
 乗ってるうちが花だろう。出来ることならこれからも皆にひと泡ふかしてやりたい。「どうだ、参ったか」と。有頂天になること、上昇機運は大事なことだ。
 彼女も魚が好きで本当に良かった。こんなにありがたいことはないと、せっせと食べた。二人共これ程魚を食べたことはこれまでにない。食べるということは生きるということだ。

2023年12月27日

続・酒田から

第5回

おれのビートルズ

 音楽は誰でもない、神様がおれに与えてくれた最高のプレゼントだと思っている。
 酒田に戻ると、子どもの頃にお世話になった担任の先生に無性に会いたくなった。既に何人も亡くなったと聞いたからかもしれない。
 こうしてはいられないと、すぐに高校の担任宅へ訪ねて行った。失礼にも突然伺ったからか、先生は初めキョトンとしていた。いや、無理もない。デキの悪い生徒だったから記憶にないのだろう。すると、「あのビートルズの典雄君か」とおっしゃったのだ。おれはもう、これだけで涙腺が爆発してしまいしそうだった。すっかりおじいさんになられた先生との思い出話に花が咲き、会えて本当によかったと思った。いつまでもお元気でいて下さい。
 また、近所の肉屋さんに行った時のことだ。見たこともない店員が「もしかして典雄君」と言うのだった。中学の同級生で、ここに嫁いで来たのだと言う。で、「まだビートルズ聴いてるの」と。
 そうなのだ。前置きが長くなってしまったが、おれは手がつけられない程のビートルズかぶれで通っていたのだ。それは50年以上経った今でもだ。全然飽きることがない。殆ど毎日聴いている。色褪せることは全くない。
 いくら愛した女房でも長くいると空気のような存在になるとよく言われるが、ビートルズにはそれがない。今でもときめく。新しい発見がある。どうしようもなくなる。泣けてくる。昔と違うのは、どの曲も哀愁に満ちた気持ちになるということだろうか。
 中学の時にラジオから「抱きしめたい」という曲が流れてきた。弾けるような強烈なサウンドだった。じっとしてなどいられないリズム。そして、たまらなくなるハーモニー。一発で痺れた。虜になった。酒田の田舎では盆踊りの太鼓の音しか心に響いたことのなかったおれだった。勿論、英語の意味など分かるはずがない。でも、そんなの関係ねえ。「アホな放尿、犯~」(I Want To Hold Your Hand)と一緒になって口ずさんでいた。もう全ての曲が金縛りになった。
 当時は、ビートルズは音楽ではない、ビートルズを聴くと不良になると大半の大人が言っていた。おれは猛反発した。そう言われれば言われる程にのめり込んで行った。それが今では音楽の教科書にも載っている。
 学校が終われば友だちと夕方まで聴き呆けた。帰宅すれば皆は受験勉強に励んでいるというのに、再び深夜まで聴き続けていた。勉強などそっちのけだった。暇がなければ暇を見つけて、寝ても覚めてもビートルズだったのだ。気がついたら、おれはすっかり不良になっていた。大人の言うことは当たるものだ。おれは大きく成長していたのだ!?
 多くの人は、ビートルズで知っている曲はと聞かれたら、「イエスタディ」や「レット・イット・ビー」などを挙げるだろう。これらはポール・マッカートニーの作品で、ボーカルもポールだ。ポールの曲はどれも美しく、親しみやすい曲が本当に多い。歌い方も上品でメチャクチャに上手い。ポール以上のメロディメイカーはいないのではないか。
 だが、ビートルズ4人の中でおれにとって絶対なのがジョン・レノンだ。いったい何がこんなに狂おしくなる程おれの心をわし掴みにしてしまうのか。ズバリ言うなら「あの声」だ。ちょっぴり掠れた、ささくれた、あのやさしい声。この世の中にはない。グサリと胸に突き刺さる。ハートをジーンとメロメロにしてしまう。あの声質が何よりおれをたまらなくする。
 例えば、初期の「ミスター・ムーンライト」という曲だ。66年の来日公演のニュースを見た人ならビートルズが嫌いでも耳にしたはずだ。羽田から宿泊先のヒルトンホテルまでパトカーに先導されていた時に流れていた曲だ。イントロなしでいきなりジョンのボーカルが炸裂する。この圧倒的な迫力といったらない。凄まじいシャウト。もうこれだけで卒倒してしまう。身動きが出来なくなるのだ。
 初期のビートルズはジョンでもっていた。他にも「イン・マイ・ライフ」や「ガール」などの切ないバラード。挙げれば切りがないが、うるうると泣かせるったらない。
 世界中を熱狂の渦に巻き込み、揺るがし、狂わせてしまったジョンのあの声。世界中を席巻してトップの座に躍り出たジョンのあの声は天下一品と言う他はない。
 こうして人が聴いて感動する音楽というのは科学的に解明されているのだそうだ。それは「予想を裏切る、意外性」だという。
 ジョンの曲はどれもゾクゾクして、とにかくかっこいいのだが、転調が多いのだという。素人のおれには分からないが、理論家の学者や音楽の先生によればあまりにも乱暴で禁じ手なのだそうだ。つまり変。褒められたものではないのだと。
 ええぃ、何をか言わんやだ。ファンでそんなふうに聴こえる人は一人もいない。ジョンは言うだろう。「ロックは理屈じゃない。自由だ」と。そうだと思う。まったくその通りだ。理論が何だと言うんだ。
 ジョンには「イマジン」という有名な曲がある。平和の歌だ。ビートルズは65年に英国エリザベス女王からMBE勲章を授与されている。その時、過去の受勲者が「あんな連中と一緒にされてはたまらない」と猛反発したという。それに対してジョンは「あなた方は戦争で人を殺して貰ったが、おれたちは音楽で人を楽しませている」と発言した。ジョンは後に「ベトナム戦争の英国支援に反対する」として勲章を返還している。また、来日公演のインタビューでは「若くして富と名声を得て、あと何が欲しいか」と問われ、「平和だ」と一言答えていた。なんてクールなんだ。ナイスガイ。惚れ惚れする。
 ジョンはいつもウィットとユーモアに溢れていた。ナイーブな感性、素直で潔よい。飾ることがない。弱さも情けなさも全てさらけ出していた。シンプル、だからこそ奥が深い。
 その反面、夢想家でちゃっかり者なのだ。やんちゃな甘えん坊、わがまま、やりたい放題、自分勝手なやつ。それらは全て、誰もが生身の人間だということを教えてくれている。
 英国はリヴァプール。田舎の港町。労働者階級に生まれ、悪ガキだったジョン。瞬く間に大スターになり、欲しい物は全て手に入れた。偉大な先駆者にまで昇り詰めたジョン。我等の正真正銘のロックンローラーはジョンをおいて他にはいない。
 そんなジョンはもういない。死後40年以上になる。ビートルズも解散してから50年が過ぎた。おれにはまるで昨日のことのようだ。が、今なお絶大な人気と影響力を誇り、衰えることはない。どんな形容も賞賛も決して何一つ大袈裟なことはない。
 大好きなミュージシャンや憧れだった、心の支えだった大切な人が亡くなる。これは宿命であり、どうしようもないことだ。
 もっともっと聴きたかった。新しいメッセージが欲しかった。ずっと一緒にいたかった。一緒に歩んで行きたかった。一緒に歳を重ねたかった。それが全て途絶えて、二度と叶わぬ夢となる。悔しくて悲しくてどうしようもない。残された名声だけが生き続けている。
 レコードやCDを聴く。ビデオを観る。まだ生きていると錯覚する。そこにいる。一緒だと感じる。「おかえり」と思わず声を掛けてしまう。
 もはやビートルズはおれの体の一部分だ。生活から切り離すことは出来ない。歌を聴くと安心感を与えてくれる。当時のことが鮮明に蘇る。それも良かったことだけだ。しかも何故か実際より美しくだ。心が安らぎとともにゼイタクに高まって行く。
 いずれにしても、ビートルズは格別な存在だ。ジョンとポールの絶妙なハモり。それにジョージの繊細な天の声がかぶさる。リンゴのパンチの効いたドラムがリズムをコントロールする。4人が繰りなすサウンド、コーラス、ハーモニーは荘厳なまでに美しい。
 それにしても、ビートルズは二十歳そこそこでこれ程の感動的で素晴らしい旋律を生み出すこと自体が信じられない。しかも次から次へと休む間もなく立て続けだった。それもいとも簡単であるかのように。ビートルズ全213曲の名曲群。駄作など一曲もない。天才たるゆえんがここにある。
 ロックは多種多様で何でもありだ。自由奔放、思うがままでいい。愛と平和、抵抗、闘争、反体制、非日常などなど。逆の見方をすれば、ストレートで大真面目と言えるだろう。
 ロックはまた、多くの人に誤解されている所がある。あいつはバカだ、イカレている、狂っているといった粗暴、下品、汚いなどのネガティブな言い回しが賞賛だったり、共感だったりすることだ。分っかるかなぁ。だからこそかっこいいのだよ。
 勿論、ビートルズ以外にも好きなアーティストはいっぱいいる。だが、一定の距離を置くことが出来る。つまり、冷静でいられる。聴きたいが、聴かなくても済ますことが出来る。それがビートルズとなれば別なのだ。とりあえずビールなら、その後に日本酒かウィスキーに切り替えるように、最後に辿り着くのがビートルズだ。一日に一度はビートルズに触れないとダメ。気が済まない。恋しいビートルズ。
 聴いてしまったらミーハーと同じだ。誰からどう思われようがお構いなし。まるで子どもだ。ビートルズに関しては全てを肯定する。ひれ伏す。跪く。すっかりジジィだというのに、永遠の中学生になっているのだ。
 さぁ、残された道を突っ走るしかない。今日も明日も、未来に向かって生きて行く。

斎藤典雄:プロフィール

山形県酒田市生まれ。高校卒業後上京。75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻る。いつくたばってもおかしくないジジィだが、漁師の手伝いをしながら現在に至る。
著書
『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)
『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)
など

→エッセイ  酒田から

酒田から

斎藤典雄

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