REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

障がいあるからだと私
  村山美和

2021年4月7日

障がいあるからだと私

第1回

私の紹介文

はじめまして。今回から、連載をさせていただくことになりました。
久方ぶりに、文章を発表する機会をいただいて、少し緊張しています。
私がこの文章を書いている今は、自宅からさほど離れていない石神井川に沿ったソメイヨシノが、少しずつ咲き始めた季節です。文章を書く機会をいただいたことに感謝しています。

1回目の今回は、私がどんな人なのか、ということと、この連載で何を書いてみたいかということを、少し記させていただこうと思います。

●私について
東京に住んで20年以上経ちました。もともとは埼玉生まれです。
私のからだには「脳性まひ」という障がいがあります。出生時に重い仮死状態だったため、脳に酸素が不足したことが原因だと聞かされています。
私が生まれた時代や、地域性もあり、義務教育は肢体不自由児施設に入園して、施設内学校で(この頃は養護学校も少なく、その小中学校はその地元の公立学校の分教場という位置付けでした)受けました。
中学卒業後に家族のもとに帰り、13年間を過ごします。
この13年のあいだに、父は脱サラをして、私と働ける店を持ってくれたので、8年あまりその店で両親と働きました。この時間は今思うととても貴重なひとときでした。最低限必要な社会性が身についたことと、両親と一緒にいた時間を長く持てたことで、二人について私なりの理解が深まったと感じた時期でもあったからです。
家を出て、当時の障がい者支援団体に所属して自立生活(福祉制度を活用して自分の責任のもと暮らしていくこと)を始めたのが27歳の時です。
今年で自立生活28年。思えばあっという間に感じます。

自立生活を始めてから十数年あまりの前半の年月を、障がい当事者運動に燃えて生きました。仕事としていろんなことを知った年月になりました。仕事は生き甲斐であり、私にとって大事なものだったはずでした。

40代前半に、それまでの気持ちに変化があり、名乗ってきたすべての肩書きと仕事をやめさせていただきました。

今は商店街の賑やかなまちで、以前働かせていただいた自立生活センター等からの介助派遣を受けながら、自分なりの生活をしています。

昔から拙いものですが、詩を書いています。
幸運なことに縁に恵まれて、若年の頃に本を2冊出版させていただきました。
この連載のお話を下さった、塔島ひろみさんとは、詩を通じての思い出を一緒に過ごさせていただいたご縁があります。
必要に迫られていろんな本を読んだり映画を観たりしてきましたが、趣味として認識してはおりません。趣味はパズル系のゲームでしょうか。30代から40代にかけて、ドラクエにはまり、突然の「卒業」が来るまで、本当に楽しみました。なのでゲームは好きなのだと思います。また、こつこつと自分なりにできることは好きです。習い事も、はまれば続けられる方だと思います。
なにより食べることは大好きです。
今はコロナ禍で伺えなくなってしまいましたが、今の街に越してから5年ほど、特養で傾聴ボランティアの活動をしていました。今は某団体でメールカウンセラーとしてボランティア登録し、ぽつりぽつりマイペースでメールでのご相談を引き受けさせていただいています。
昔からせっかちで、感情的に生きるほうではありました。住むところも結果的に、引っ越しを何度もしています。商店街を歩くのが好きで、魚は魚屋で、肉は肉屋で買いたいたちです。病院も総合病院より、クリニック等を診療科に合わせて受診したいと思うほうです。
書いていくときりがないことですが、こんな感じで、今私は、小さな自分の世界の中で、自分一人分の責任をとって生きられたらいいと感じながら、日々を送っています。

●私がこの連載で書いてみたいこと
今回、書いてみたいことは、「障がいあるからだ」と私との関係についてです。おもに、このからだで生きてみて教わったことを、体験談として書いてみたいと考えております。

実は3年ほど前、自分なりに、まとめてみたのですが、世間に出す度胸もなく、いつも私の拙い文を読んでくれる数人の友人にみてもらっただけで、(すごく長い文章になってしまって、当時読んでくれた方々には感謝しております)お蔵入りさせてしまいました。自分でも主観が過ぎているように感じて、ブログにも載せられないと思ってしまったのです。
今回はその経験を踏まえて、少し客観的に、書いてみようと思います。

障がいは私の一部であり、私の人生そのものでもあります。このからだから、どんなことをもらってきたか、起きるものごとに対してどのように考えて納得してきたか、少しでもわかりやすく書きあらわすことができたら、本望だと思っております。
体験は一人一人違うもので、同い年であっても同郷であってもそれぞれ感覚も価値観も違うように、障がい名が同じであっても、ひとつの出来事に派生する思いは十人十色でしょう。私の観点は、私なりのものでしかないのだと思います。

一体本当に書けるでしょうか。自分で勝手にハードルを上げてしまった気がしますが、私自身と対話をしながら、書いていこうと考えています。
自分語りになってしまい、ときには読みづらいものになるかも知れません。拙い表現になるかも知れませんが、日々の出来事からひとりの人間が何を得たか、お付き合いいただけるなら幸いです。

2021年5月6日

障がいあるからだと私

第2回

からだから教わった「待つことと、考えて動くこと」

私のからだは、介助のかたが毎日来てくださることで日常生活が成り立つぐらいの障がいがあります。
日常生活の小さなこと、例えば歯を磨くとか、体を洗うとか、何かを食べるとか、その一つ一つに人の手助けが加わることで、はじめて毎日がうまくいきます。
からだがまったく動かないわけではありません。自分としては、中途半端に動くのに何もできない、ということを理解するのが難しかったように思います。
小・中学生の時に過ごした肢体不自由児施設では、私は「身の回りのことができる子」の中に入っていました。(もしかしたらその施設独特のことだったかも知れませんが)きちんと服が着られずにだらしなくても、下着がだらだら見えていても、着られるなら「できる」に入ったし、ぼろぼろこぼしながらものを食べたとしても、口に運べたなら「自分で食べられる」ということだったように思います。お味噌汁で胸元が汚れていたとしても、そのまま施設内学校に通っていたように思います。
自分でできるか、できないか、それを決めることは私にとってとても難しいことでした。と言いますか、どうにか自分でできていると思っていたかも知れません。
中学卒業後に実家で暮らした十数年間の中で、私にとっての「できないこと」というものがはっきりしてきたように感じています。
家庭では、ご飯も綺麗に食べないといけないし、小ぎれいでいなければなりません。掃除をするならきちんと綺麗にしないとできたとは言わないし、その感覚は、あくまで私の場合ですが、施設の経験では身につけられませんでした。一人暮らしになる前に、家庭で暮らすことができて本当に良かったと思っています。
家庭にいるこの時期に、身内が、他の誰にも言えなかったであろうことを言ってくれたのも、良かったのかも知れません。
ある日教えてくれたのです。
「お前は自分でなんでもできると思っているだろうけれど、本当は何もできないんだよ」
今の私は、その意味がよく理解できます。私が「自分でできる」という気持ちだけ持っていてもどうにも生きていけないということが。そのぐらい、私は一人では何もできないからだを持っていたのでした。

このからだでここまで生きてきて、教わったことをざっくりまとめると、「待つこと」、「考えて動く」ということだったように思います。
最近気がついたのですが、私は実はなんでも自分でやりたいという気持ちが強いようなのです。そして、ある程度整ったやり方を追求したいのです。
ただ自分でやればいいということではないのです。なんとかかたちを整えたい、できる人と思われたいのです。
その気持ちを、思うようにできないこのからだで生きながら、折り合いをどこでつけるか考えてきたという感じでしょうか。
できないことを他者の手に委ねるということは、私にとって、「待つこと」だったのかも知れません。頭の中にやりたいことはたくさんあるけれど、ほんとうに細かいことまでたくさんあるので、すべてをやっていただくことはできないし、自分の手を介していないので、請け負ってくれた人がどこまでどんなふうに動いたら疲れるのか、しんどいのか、実感がありません。
そして、頼みたいことは計画的に順番よく頭の中から出てくるわけではなく、本当はすっとんきょうなところから、リズム感なく出てくるのです。まったく出てこないこともあるのです。
そのような私の生活に、たくさんの人が介助を通して関わって下さったんだなあと、しみじみ振り返ることがあります。
30年近く、この生活を続けていても、頼み忘れていたり、ほんとうにやりたいことではないことにとりくむ1日になったり、心の声をもし聴かれてしまったら、より呆れられると思われることを考えている自分がいたりするのです。
すぐに体が動かなかったり、自分のやりたいことがうまく伝わらなかったりして、意地がやけていた(腹立たしかった)頃もありましたが、最近は、このからだのおかげで、手前味噌ですが、少しは考えることがうまくなったかも知れない、と感じるようになりました。
たぶん、私の性格から、もし障がいあるからだでなかったら、思いつきでどこでも出かけて行ったし、やりたいと思うことは何も考えずに飛び込んでいったことでしょう。

障がいあるからできなかったと言っているわけではありません。私は若い頃、とても感情的に、よく動いていました。一緒に動いてくれている人たちのことを、一見考えているようで、考えていなかったようにも思うのです。逆に、一緒に動いてくれた人たちが私のことをおもんばかって寄り添ってくれたから、やりたいことができていたようにも感じています。

障がいのないからだを今回の人生でもらっていたら、はちゃめちゃなことになっていたかも知れないと、感じるのです。
一人で動けないことを前提に、一緒に動く人のことも考えられる限り考えて、ものごとに取り組むことができたことで、そしてそのことに慣れていったことで、すこしは、ものごとの手順が身についたように思うのです。

ある時、そうやって他者のことを考えながら行動していくことというのは、私が障がいあるからやらなくてはいけないこと、というものではないのだと気がつきました。多くの世界でそのようなことは必要なことで、私の場合はそれが生活と密着している環境なだけなんだと、気づいたのです。
このからだだから向き合う必要があったというわけではなく、人は誰しも他者のことを考えながら生きることが大事なことなのだなあと、そんな、もしかしたら当たり前なのかも知れないことに、気がついたのです。
私だけのことではないんだと。
どうしても障がいに注目して考えてしまう私にとって、この気づきは実は大きなことでした。それからはほんの少しだけ、考えの幅が広がったように感じたのでした。

2021年6月9日

障がいあるからだと私

第3回

介助を受ける日々からもらったもの

介助の方がいてくれる生活を30年近く続けてきて、どんなことを学んだのか、感じてきたことはどのようなことだったのか、振り返ってみました。

【最初の6年間】
この時間は、東京に越す前の時間でした。私の所属していた障がい者団体は、介助の仕事を常勤の雇用として実現することを目指していました。そして、介助の必要な障がい当事者は、介助者を雇用する立場として、どのように介助者に働いてもらうか、考えていく姿勢を持つことを求められました。
私はこの中で、自分が自由に生活するためには、働いてくれる他者の立場に立つことが大事だということを学びました。
この時は団体で一緒に活動している人たちと、障がいのあるなし関わらずよく話したという印象があります。私はまだ社会経験が乏しく、頭の切れる人たちの中で、どこかびくびくし、自分の発言が間違っていないか、何か言われたりしないか、実はそんなことをいつも気にしていたように思いました。
制度もまちづくりもこれからだった時期でした。介助時間は圧倒的に少なく、24時間介助の必要な人が活用できない制度でした。駅はエレベーターなどない駅が主流でした。行政との話し合いと日常生活と運営会議の日々の中で、団体の活動は刺激的なものであり、魅力がありました。
後半の2年間は、一定量増えた介助時間で、専属で介助のかたを雇用する経験もしました。多くの時間をそのかたと過ごし、たくさん話し、二人で泣いたり笑ったりして過ごしました。たくさん動き、自分の世界は広がっていきました。

【東京に越してからの最初の10年】
東京に縁あって越し、新しい生活が始まった時、いくつかの自立生活センター(障がい当事者が運営主体になり障がい者の自立を支援する団体)に介助者の派遣をお願いしました。
介助者を調整してくださるシステムがしっかりしていて、調整役のコーディネーターさんとのやりとりが、自分の介助体制については多くなりました。介助のかたと直接やりとりすることに慣れていた私は、最初は戸惑いがありました。行き違いがあったとしても、介助のかたと直接話し合うことは少なくなりました。
数年後自立生活センターでの仕事を本格的にいただいて、そのシステムの中で私の日常生活と仕事の世界が広がっていきました。
この十年間では、介助のかたと距離を保つということを、少しずつ知っていったように思います。調整役として第三者が入ってくださることで、以前と少し違う距離感を学んだように思うのです。私にとっては、介助のかたを自分が雇っていくという気持ちが、なかなか切り替えられなかったように感じます。途中から自立生活センターの仕事がメインになったので、そのままで良かったのかも知れません。
職場である自立生活センターから介助のかたを派遣していただくことで、公と私と多面的な見方を学んだ時期でもありました。責任者という立場から、私自身がルールにとらわれていた期間でもありました。
私はあまり理論的に考えられる方ではないので、少し混乱しながら取り組んでいたと思います。

【仕事や所属を辞めてから現在】
退職し、所属から離れたことで、私自身は本当はどのような関係性を介助のかたと作っていきたいのか、いちから考え直すことになりました。
最初の数年はそれほど感覚的に変わっていませんでした。
徐々に、少しずつ、介助のかたとの関係性が変化していったように思います。
私の気持ちが、少しずつ自由になっていったようです。

介助というのは、私のできないことを頼める制度であり、介助制度があるから自己実現できるものです。それは今もそうだと思います。
少し気持ちが変わったきっかけは、ある一般向けの連続講座を受講した時でした。
少人数の講座でしたが、障がいある立場の者は私一人でした。
私はここで初めて、誰かに注目してもらって生きてきた自分の感覚を意識し、一般の社会では人はそんなに他者に注目しないということを知りました。
そして、私自身が、あまり人に興味を持とうとしてこなかったことを自覚しました。
私はいつも、近づいてきてくれる人と関係を作り、それが自然だと思ってきました。でも気がついていませんでした。自分から他者に注目しようとしてなかったということに。
興味を持たなければ、人を知ることはできないということに、気づいていなかったのです。
そのことに気がついてから、私は自分が持っていた「枠」のようなものを外して、どのような時も目の前のかたと関係をつくっていこうと思うようになりました。
介助のかたに関しても、私の中では「介助者」という枠を外して、日々のことを一緒に過ごそうと思ったのです。そして、うまくできなくてもいいから私の方から相手のかたに興味を持ち、注目する気持ちを意識しようと考えました。
これは私の心の中だけのことですので、相手の方の気持ちは別のことです。それぞれの、さまざまな気持ちで私の生活に関わろうとしてくれている方々と、少しお互いの心に残るような関係性を持ちたいと思うことは、もしかしたらごうまんな願いなのかも知れません。
ただ、そのように考えるようになってから、私は前よりも気持ちが落ち着いたように思います。日々来てくださるかたがたの苦手なことや嫌いなことも少しですが感じられるようになりました。そして、心に少し余裕ができました。もちろん介助をしていただくのですが、多くのことを求めなくなりました(今まで求め過ぎていたのかも知れません)
介助という仕事を通して一緒に過ごす時間も、自分の気持ち次第で変化していくものなのだなあと今は思います。
介助という仕事を通して、日々新しく出会い、または別れていく機会が、私に教えてくれたことなのだと感じています。
もしかしたら、このように感じることが、私自身がつくってきた「障がいの枠」を外すということだったのかも知れません。

瀬山紀子「介助・介護の時間」 第5回 ついてゆく、という感覚
2021年7月7日

障がいあるからだと私

第4回

ご飯をつくるということ

私は、自立生活を始めてから、本格的に家事を覚えました。
当時来てくださっていた、ベテランのホームヘルパーさんから、いろいろ教わった気がします(あまり記憶には残っていないのが残念です)。当時は、ヘルパー派遣の時間数も少なく、週3回程度しか派遣日数も認められていなかった頃でした(市のホームヘルパー制度とは別に、介護人派遣制度みたいな制度がその地域にはあり、そのお金を使って、障がい者団体から夜の介助派遣を受けていました)。そのような事情から、朝にホームヘルパーさんが来てくれる時は、おかずを何品か、つくりおきしてもらっていたりしていたと思います。
家族と暮らしていた時は、自分の部屋の掃除と(いつもうまくできなくて、ほんとうに汚い部屋でした)、自分の分の洗濯、長いブラシを使ってお風呂を洗って湯を溜めるぐらいの家事をするのが精一杯でした(このころは若かったせいか、今よりもからだの自由がききました)。
一人暮らしを始めたことで、人の手を借りられることになり、それによって自分の部屋がきれいに保てることが、とても嬉しく感じられたことを思い出します。

料理は好きで、ヘルパーさんが来ない日は何度か、なんとも言えない食べ物を作って食べたことはあります。ほんとうに数回のことだったと思います。なぜなら、かなり集中してもからだが思うようにはいかなかったからです。ほとんど、ホームヘルパーさんや、夜来てくれる介助の方に作っていただいていました。
自立生活の考え方の一つに、「自分のできないことは、人に頼んですることで自分がしたということと考える」というものがあったように思います。もしかしたら私がそのように考えていただけかも知れませんが、私はこの考え方の中で自己実現をしていきました。週3回派遣の市のホームヘルパーさんは別に考えても(このころの市のホームヘルパーさんには、お願いできることが確か家事だけに限られていました)、夜来てくださる介助の方に対しては、私が指示することで初めて、私のやりたいことが叶っていくと思っていたし、例えば料理の手順も、私の指示通りに動いてもらうことで初めてものごとが進んでいくんだと思っていました。自分ではできないことが多くても、人がいてくれることで、私はどのようなことでもできていくんだと信じていました。

時代は進んで、多くの時間を介助のかたと過ごすようになり、私は私のやりたいことが実現できていることを実感していました。

確かに一面ではそうでした。私は多くの料理を、介助の方に頼んで作り、生活を続けてきました。失敗してまずくなったものもあり、やってみたらイメージと違うものができたこともありました。その中で、いろんなことを覚えたはずでした。

ちょっと違うかも知れないと感じたのは、ごく数年前のことです。
あっ、私は料理を覚えていない、ということに気がついたのです。
私のからだの中に、料理を作ったという工程の記憶や、感触がないのです。

残っているものも、確かに少しはありました。例えばお味噌。
ここ20年以上、私は介助の方の手を借りて味噌を作ってもらいます。初回は、作った経験のあるかたから教えていただきながらつくり、翌年からは初めて味噌づくりを経験する、という人にお願いしてきました。
その工程は、20年経ったことで、感覚として私の中に残り、作業がしやすい工夫も含めて「こうしてください」と言えるような気がしています。

ただ、他の料理に関しては、覚えているという実感がないのです。
私自身、料理が得意でない人にも、きちんと指示をすれば大丈夫と思っていた頃が確かにありました。でもそれは実は、関わってくれた人が基本的なことを知っていて、私が伝えたことを察してくれたからかも知れないと、最近は思うようになったのです。
私が料理を通して経験してきたことは、「自分が作りたいと思っているものをわかりやすくどのように伝えたらいいか考えて伝える」「相手のかたがやりにくそうな時に、どのように工夫してみたらいいかを考える」ということだったのかも知れません。
私は料理を覚えてはいなかったし、体験できてはいなかった、感覚としてからだに残ることをできていたわけではなかったのでした。

お味噌の仕込みをしていただいている時は、毎回私はその場所で工程を見ながら、確認したり試行錯誤をしていました。今思えば、いつもその工程すべてを見ていました。
日々の料理の場面は、最初の数年間こそ台所でその工程を見ていましたが、いつもそうしていたわけではありませんでした。いつも目で追っていたら、もしかしたらこのような感覚にならなかったかも知れません。
また、あくまでこの結論は私がたどり着いた「結果」なので、介助制度を利用している人全てに当てはまることではないと思います。私の場合は、感覚として料理をする経験を獲得することはできなかった、ということです。
そして、このような結果になったからといって、自己実現してきた過去の時間に何か不満があるわけではありません。たくさんのかたに、私の生活に関わっていただいたことは、ほんとうに得難い時間だったと感じています。
たどり着いたところがそこだった、ということです。

私の感覚として、私が調理したという経験になっていないということがわかってから、少し気持ちが変わったように思います。できないということをより受け入れられるようになったというか、無理をしなくなったように思います。作ってくださる人の手に委ねるところは委ねて、その状況を楽しめるようになったように思うのです。

2021年8月4日

障がいあるからだと私

第5回

「人並み」という価値観、私の「制限」

「人並み」になりたかった
私は、十数年前まで、「人並みの生き方」というものを求めて生きていました。
私は仕事が好きでした。仕事があることで社会と繋がっている実感を持てたし、自分のできることがあるという毎日が好きでした。
私は仕事ができていると思っていました。できないことは人の手を借りるというかたちで、こなせていると思っていました。
仕事がある状態が「人並み」であると信じ、自分がそこで生きられていることに満たされていました。そして誰もがその「人並みに生きる」場所を探すことができると思っていました。

パートナーを持ちたいと願っていました。自分で家庭を作りたいという願望がありました。
出会いはご縁ですが、誰もがご縁と出会うチャンスがあり、私もその中にもちろん入っていると思っていました。
それが普通の、「人並みの」人生だと思っていました。
もしも、そのチャンスが得られないということがあるのならば、私が生きる社会がどこか歪んでいるのだろうと思っていました。

社会に対して、私の存在も認めてほしいといつも思っていました。
障がいある私が感じる日々の阻害されたような気持ちは、未成熟な社会の状態だからこそもたらされるものなのだと考え、社会が育っていけば感じ方も変わるのだと信じ、自分がこのからだで生きていくことで社会が育っていくんだと考えていました。

40代に入って、私が選んだことは、それら自分の中の「人並みの生き方をしたい」という思いと向き合うことでした。
障がいのある私のからだは、本当に人並みの生き方をしたいのか、そもそも「人並み」というのはどのような意味があるのか、考えることを選んだのでした。

仕事ができる人だと思われたいというのは、実際に仕事ができるようになりたいと思うことと違うことのようでした。私は、自分は仕事のできる人間だと思い込んでいて、何がわかっていないのかを知ろうとはしていませんでした。

パートナーが欲しいというのは、本当は、私を全面的に受け入れてくれる誰かを欲しているだけだったのかも知れません。私は心のどこかで、自分が誰からも受け入れられていないように、勝手に感じてきたのかも知れません。
では私は誰かを積極的に受け入れようとしてきたでしょうか。

社会に自分を認めて欲しいという強い思いは、私のどこからやってくるのでしょう。では逆に、私は目の前の人の生き方を認めているのでしょうか。私なりの先入観で見ていないと言い切れるでしょうか。

障がいある私が感じる日々の不満や憤り、やるせなさ、など諸々の気持ちは、障がいない体を持つ人たちも、環境がちがっても、どこかで感じているのではないでしょうか。私はその部分を知ろうとしているでしょうか。

私がずっと求めていた「人並み」の生き方は、私の場合、多くの助けを得ることで成り立たせることができました。
そのことに対して、私は、制度を活用して自分で生きている、と思ってきました。
ただ、それは、もしかしたら、日本という国で、今の時代に生きているから成り立っていることなのかも知れません。
私は世界を理解してきたでしょうか。
私の立ち位置がどのように支えられているのか、考えてきたと言えるでしょうか。

私が本当に生きたかった生き方は、「人並みな」生き方だったのでしょうか、その疑問を解いてみたいとあるとき思いました。
こだわってきたものを捨てたらどうなるのか、知りたかったのです。

肩書きを捨てて、所属を最低限にして10年ほど生活してみて感じたことは、人並みという概念は苦しかったなあ、ということでした。
自分を「世の中」に一生懸命当てはめて、誰かからの賞賛を本当に欲していたんだなあと思いました。
一生懸命に生きていると、より多くの人に思って欲しかったんだなあと。
縛られていたのは私だったなあと思いました。

誰かに認めてもらうことで、私は何かをできるようになったでしょうか。私の中の答えは、 noでした。
そうではなく、自分が知らないことが多かった、できそうもないことが多かった、というところから、私は始めなくてはいけなかったと気がつきました。

「人並み」という私の中の概念の中に、私自身がすんなりいられる場所はなかったのでした。
私ができることは他のところにあり、それは私にしかわからないことでもあり、私しか納得しないものでもあるようでした。

生きるのは、ある一面では本当に難しいことなんだと感じます。自分というものを理解しようとすればするほど、一般的な通念の中で揺れてしまう自分がいます。「人並み」という型にはまってみたくなる自分もいます。

私は今も、自分の中に残っている固定概念と話し合いながら生活しているような気がします。
人から、何もしていないとみられるのは、やはりまだどこか寂しいです。
本当に自分は「この部分」で役立っている、と、立証したい欲に駆られます。一体誰に認めてもらいたいのでしょうね、私は。
でも、そういう部分がありながら、実は自分のできることをこつこつ行い、そのことを他者が知らなくても、私は大丈夫、と感じている自分も確実にいます。
そして、その部分が確実に育っていることを自覚もできるようになってきています。

私が持つ 「制限」
障がいがあることで、現実社会の中でうまくいかなかったことは、結構あったと私は感じています。
うまくいかなかった経験と、今日の私の生活とは、延長線上で繋がっています。
どうあってもうまくいきそうもないこと、あるいは今も叶いそうもないことを、私は「制限」と呼ぶことにしています。

例えば、唐突ですが、私は2階以上の家が本当は好きです。
できれば石造りの階段をトントントン、と上って、自分の部屋の玄関のドアを開けたいと思っています。
誰かの手を借りて、ということではなく、車椅子のままフラットに、という意味でもなく、ただ自然に自分で歩いて階段を上り下りする、という日常になぜか憧れています。
悲観的な話ではなく、今回の人生ではとうてい叶えられそうもない(叶わなくてもいい)話なので、こういったことを「制限」がかかっていると今の私は捉えています。

少し極端な例をあげてしまいましたが、「制限」があるとはいいながら、叶ったことはたくさんありました。
ひとり生活はずっと叶っていますし、誰かと住んだひとときもありました。引っ越しも思ったよりも多くなりました。最初の引っ越しから数えれば6回ですが、住む街も数回変わりました。新しい場所に決まるたびに「ここにずっと住む」という気持ちで移っていたので、私にとっては多くなったという印象です。
職業を持った年月もあり、本を出版する経験もさせていただきました。
スポーツも、スキーはバイスキーという方法で経験し、ダイビングはオープンウォーターのカードまでは取れませんでしたが、面倒見のいいインストラクターとの出会いがあり、8年間、できるかどうかを試す時間をいただきました。スイミングは、今コロナ禍の状況で一時的にストップしたりもありますが、40歳の時に知人から紹介された障がい者クラスに現在も通わせていただいています。

今思うと、その出来事自体が自分自身で完結するものに関しては、全て叶っているように感じています。自分自身で完結するといっても、必ず介助のかたや、助けてくださる周りの方はいてくださっていて、その関係性の中で叶えられたことではあります。私が選ぶことで、私以外の人たちの分の責任を負うもの、例えば子供を持つとか、一般的なかたちでの婚姻などの類のものは、今のところこの人生では、ご縁はないようです。
家族についての考え方など、思いもよらない方法で叶ったものもあるし、今の気持ちとしては、それはそれでよかったのかも知れないと思うようになりました。

そう考えてみると、私に与えられた宿命的な「制限」は、「体が思うように動かない、言語が思うように通じない、みた感じ障がいがあることが誰がみても明白」ということに尽きるのかも知れません。
その制限を持ったからだで生きることで、見た目で扱われる世界がどのようなものか、能力が出せない状態というのはどういうものか、身を持って体験ができないということがどういうことか、何もできないと思われることがどういうことか、意思が伝わりにくいということがどういうことか、たくさんのことを体験してきたように感じています。
逆説のような言い方になりますが、それらの経験はきっと、私がこの人生の時間を生きていく上で必要な経験だったのだと思います。もしもこの人生がすんなりと何もかもできていたり、つまづきに憤ることがなかったら、ここに今書いたような、「叶わないこともあってそれはそれでよかった」とは、言うことはできなかったかも知れません。なんとも言い難いことではありますけれども。

私自身宗教は持っていませんが、人が進む人生とは、どこまでも成長しながらかたちを変えて歩き続けるものなのではないかと考えるところがあります。その視点からいくと、今回このからだを通して味わったさまざまな想いは、私の糧になって心に生かされていくのだろうと思うのです。
もし次の人生があり、たまたま障がいないからだで生きることになっても、心のどこかで今回の苦味や豊かさを少しでも覚えていたなら、他者に対して、せめて意地の悪いことはしないと、選べるかも知れません。他国の人と暖かく賢く生きる方法を考えつくかも知れません。障がいある人の必要なことを少しぐらい察することができる心を持てるかも知れません。

なんだか夢物語のような書き方になってしまいました。
誤解してほしくないのですが、差別や偏見のある社会の問題を容認しているというわけではありません。もし誰もが自分と同じように他者のことも思える社会であったなら、私はもっと別のことで悩む人生が送れていたかも知れないし、世界はもっと違う環境であるかも知れません。
私が気になっているのは、私の中にもある、人に対してのバイアス、社会観です。私は今回ここまで生きてみて、少しはそのバイアスを自分から捨てることができたように感じます。少しだけ視野を広げて世界をみられるようになった気持ちもあります。
さまざまな経験がなかったら、どんな人間として50代を迎えていたかわかりません。そう考えていくと、私の人生経験は自分にとっては無駄なものはなかったと思います。「制限」の存在は、今回の私の人生にはあってもいいものでした。
多分こうした「制限」は、肌の色や目の色、生まれた国と同じように、自分が選択できる種類のものではないのでしょう。

2021年9月8日

障がいあるからだと私

第6回

私と仕事 その関係性と今の気持ち

19歳の時に、両親と一緒に自営業を始めたことが、私の仕事経験の一歩でした。
数年後に、ピアカウンセリング(同じ境遇・環境にある人同士が対等な関係で支え合う手法)の世界を知り、障がい当事者運動に飛び込んで、その関係の仕事にご縁ができて働かせてもらいました。
すべて整理して退職したのは43歳の時です。

私にとって仕事は、自分を社会と結びつける手段だったように思います。
仕事をすることで、社会に少しは役に立つ人間になっていると思っていたい自分がいました。
働くことで今日のご飯が食べられる(働かざる者食うべからず)、という強い考えのある家庭環境で育ったこともあるかも知れません。

40代の時に、仕事も役職もあったのに立ち止まってしまったのは、「自分への疑問」が大きくなったことが理由のひとつにありました。
「私は本当に仕事をできているのか」という疑問です。

両親と自営を営んでいた頃は、仕事という意味もわからず、ただ反発心ばかりでした。いつか、自分にあった職業にたどり着きたい、きっと私にもできる仕事があるはずだ、と思っていました。
信頼できる障がい者団体とめぐり逢ったり、「ピア・カウンセリング」の講座にたどり着いた時は、「私はこの世界で生きよう」と思い、自分なりに勉強を重ねたり、休日には積極的に地域活動に勤しみました。
少しずつ行動の幅を広げて、家を出るという道を選びました。

当時のこの選択は、家族の心を傷つけたかも知れません。多くのものを用意してもらったというのに、たくさんの大事なものを実家に置いていくことになったと感じます。若かった私にはその道しか考えられませんでした。
引き止めることなく、今の道を選ばせてくれた両親には、やはり感謝の念しかありません。

一人で暮らすようになって、団体の活動に忙しくなりながら、心のどこかに引っ掛かりがありました。
自分自身が給料、もしくは活動したことへの報酬をいただくことへの抵抗感というか、違和感というか、罪悪感というか、割り切れないわだかまりがあったのです。
かといって、対価をもらいたくないわけではありませんでした。まったく報酬のない仕事については、げんきんなほどに私はやる気を失いました。
私の中で、指針のようなものがあったように思います。自分が働いたものに値する対価についての指針です。自分勝手なものなのでそれが妥当かどうかは分かりませんが、その「指針」より多くはもらえないとは考えていました。
でも、その「指針」以下の対価だと、やる気を失ったりもしました。

実家での自営の仕事の時にも、一人前に働けない自分に対して、いつも何か引っかかっていました。
場所が変わっても、活動内容が変わっても、その気持ちが晴れることはありませんでした。
確かに対価は得たい、自分なりに働きたい、
では私が日々行なっていることは、私ができる「仕事」なのだろうか、見合った内容なのだろうか、そんなわだかまったものが、いつもあったのです。

仕事とはなんなのでしょうか。私が社会に提供して、その対価をいただけることとはなんなのでしょう。私に何ができるのでしょう。
私なりにさまざまなことに取り組んできたつもりではありました。できることはやってみたと思います。
なのになぜか、自分でできている、という意識が薄いような気がしていました。
東京に越して、役職をいただいてからも、割り切れない気持ちをいつも感じていました。
そのような思いになること自体も、責任から逃れているようで、もやもやとしていました。

生きる道が変わって、仕事や役職、所属を辞めさせていただいた後、しばらく職安で新しい仕事を探していた時期があります。
わかっていたことですが、私の今までの実績や経験などを、面接で聞かれることはありませんでした。採用する側に求められたものは、障がいの等級と、毎日働くことができるかどうかでした。私の方も、自分が現実的に何ができるのかという視点からしか職を探しておらず、マッチすることはほぼありませんでした。

仕事を辞めて数年経ち、自分なりの生活のペースが掴めてきた時、ふと、対価をもらうという発想から離れてみようと思いました。それまでは、いわゆる対価の発生する「仕事」に固執していたのですが、その気持ちを一回捨ててみようと思ったのです。
そのように気持ちを切りかえたあとに、ふと、ボランティア活動をしてみようと思い立ちました。タイミングよく、このころ、在住の区では各種のボランティア養成講座の開催時期だったようで、いくつかの講座を受ける機会を得ました。傾聴ボランティア等、今まで触れる機会がなかった世界に飛び込むことができたのです。

ボランティア活動をゆっくりと経験していきながら、対価にこだわっていたのは私だったのだな、と改めて思いました。私は、自分ができることはどんなことなのかを意識せずに、ただ、仕事のできる人だと周囲にわかってもらいたかっただけだったのだな、と思いました。これまでの私にとって「仕事」とは、人並みに食べていける人と認識してもらうための「手段」であり、できる人と思われるために必要なものだったようです。
つまり、仕事という意味を履き違え、もしくはわかっていなかったのだと思いました。

ボランティア活動に曲がりなりにも自分なりに慣れてきた時、仕事というものはお金という対価がないものであっても、自分の持っているものを活用しているという実感が感じられたならそれでいいように感じました。私は一つ一つ経験して、自分のできることに対して技術を磨いていけばいいし、その行為で喜んでくれる人がいるということを大事に思えればいいんだと感じたのです。

私のからだは自分が望むようには動けず、私がやりたいことと、社会が私に求めるものにはずれがあるように、今も実は感じています。日本の福祉制度の中で生きられるという環境があることで、私は生活を成り立たせてきました。恵まれた環境に生きていることを自覚しています。
物理的には確かに私のできることは少ないし、秀でた才能もありません。自分の体を使って労働力として提供することが難しい現実があり、今の社会になかなか労働力として入っていけない現状は私の日常においては変えていくことはできませんでした。
だからこそ、自分なりの考えに至ることができたのかも知れないと、今は感じています。

2021年10月13日

障がいあるからだと私

第7回

伝えるーー 思い込む意識 伝わる言葉

思い込む私
私は客観的にみても思い込みの激しい方だと思います。今までたくさんのことを思い込んだまま、行動してきたようです。私の心がよりいろんなことを自覚するように願いをこめて、いま自覚のあるものだけを、恥ずかしいけれど最初に書かせていただこうと思います。

●障がいのない人は、一人でなんでもできるのではないか、という思い込み
介助を通して関わってくださる人たちと話をしていく中で、ふと気がついた時がありました
私は、自分が何もできないと思っている一方で、私に関わってくれる人たちは、なんでもできるんだと思っていたようなのです。
得意な分野、不得意な分野があっても、ひととおり必要なことはできてしまうのだろうと本当に思っていました。
できない、苦手という認識の仕方が、私とは少し違うのだと思っていたのです。ひと通りのことができた上で、苦手なのかそうでないのかを判断していると思っていました。
介助を頼む時、その考えは私の中でいろんな混乱を引き起こしました。私は本当に、自分のできないことをすべて、介助のかたに頼もうとしていたのです。
日常的なことでも、その方によってできないことや苦手なことがある、ということを実感するまで、私は、私のしたいことが実現できないのは、頼み方や説明の仕方が悪いからだと思っていました。
あるとき、ふと、あるかたに聞いてみたことがあります。
「○○さんは、ご飯をこぼすことはある?」
それはあるよ、とその方は答えてくれました。服が汚れることもあるし、と。
服をうまく着られないこともあるし、ボタンをうまくはめられない服もある、というのです。
ああ、そうなんだ、と、その時に初めて感じたのです。障がいがなくても、日常の中で苦手な動作や難しい所作があるのかも知れないと。
私は自分のできないことをできるかたちに叶えたいという思いがいつも強くありますが、その動作を、目の前の人はすべてできるものだという観念のもとで物事を頼んでいました。それは確かに私からみたらみなさん「できる」に変わりないことなのですが、その人その人思いは違うということを少し分かった出来事でした。
人に頼んで日常生活を営むということは、ただ単に頼めば叶うというものではないのかも知れないと、そんな思いも生まれてきました。その人その人得意なものもあれば苦手なものもあり、受け取り方も理解の仕方も違うのが自然な世界なのだと、私は少しずつ理解をしていったように思います。
同時に、若い時にいろんなところに行き、やりたいことが叶っていったのは、私の言葉や意思を汲み取り動いてくれた人がいたからできたのだと、この時も改めて感じたのです。

●頭で思ったことをすべてからだで表現できる、という思い込み
数年前のことです。
ある時、私が伝えたことがうまくつたわらず、なかなか思うようにやりたいことができなくて、いらいらとしたことがありました。
このころは自立生活歴もそれなりに長くなり、仕事を辞めて住む場所も変えた頃でした。
まだまだ、試行錯誤をしながら、それでも伝えきれていないという思いが残り、うまくやってもらいたいことが叶わないという気持ちにさいなまれることはたびたびあったのです。
その日の介助のかたは、ふと独り言のようにつぶやきました。
「美和さんは頭の中の世界で物事を考える、私は体を使って動く、だからズレがあるのね」
私は、そう言われるまで気がつきませんでした。
私は頭の中だけで自分の生活を進めていきます。からだの動作で叶えてくれるのは、介助のかたです。
頭で考えることと、体を使うことは、違うのです。
私は自分で動作ができないので、体を使うとどのようになるのか、あまり分かっていません。なので頼むペースも、そこまで考えていなかったし、頼んだ動作によってどうなるのか、私の中で勝手に想像していた結果と、実際にやってもらったことで起こることとは違いも出てくるということをわかっていませんでした。
介助のかたのその言葉のおかげで、この時から「違い」を意識するようになりました。
私の頭の中の感覚と、介助のかたが体を動かしてそれを表現する感覚の、違い。それは本当は、おおきなものなのかもしれません。
なんとなく、意思疎通を試みることの考え方が違ってきたように感じています。

つまり、これら出来事以前の私は、本当にまるでそのようなことを思いもしなかったのです。
私が伝えることを、実際の動作する側がどのように表現し、体を使っていくかということまでは、想像ができていませんでした。
少しそこのところを知ったことで、頼んだことがどのように行われていくか、そのプロセスに興味を持つことができました。教えていただいてよかったなあと今でも感じています。
一方で、知るということ、理解をするということは、本当に恥ずかしく、それまでの自分の行動を思うと浅はかさを痛感します。目の前の人が何を感じながら物事を進めようとしてくれていたのか、分かろうともしなかった自分がいたわけですから。

ことばを使う、言葉に使われる
私は思ったことをそのまま口に出してしまう癖があり、そのことでたくさん失敗しています。
介助のかたとも、私の言葉の強さが原因で、関係性にひびが入ったことは何度となくあります。
友人を失ったこともあるし、大切な人を怒らせてしまったこともありました。

私は、自分の気持ちは他者に伝えていくことがいいことなんだとずっと思ってきました。
伝えることで心が伝わるんだと思っていました。そのこと自体は間違っていませんでした。
私が勘違いしていたのは、言葉は相手に伝えたいことを伝えるものだということを履き違えていたことです。
気持ちを伝えれば、相手と意思疎通ができていくと思っていたところです。

なぜそう思ってしまったのかは、不明です。
ヒントをくれた人たちとめぐり逢うまで、「誰も」教えてくれなかった、という言い方をしたくなる気持ちもありますが、半世紀超えてなんだかんだ生きてきた自分の立場からは、もうそのように言える言葉ではないでしょう。

そう言えば、二十歳を超えたある日、ふと思ったことがあります。
「成人になったのだから、過去に経験してこなかったことを言い訳にはもうできない」
なぜ不意にそう思ったのかもう定かではありません。障がいがあることで家庭から離れて施設で暮らすことになったこと、障がいという社会的理由で行動がどうしても制限され経験できなかったことが多いと知っているのに、そのまま二十歳を迎えてしまった、という自分の中のもやもやしたもの、それらをいったん整理したかったのかも知れません。

話を戻して、十数年前まで私は、思ったことをなんでも伝えれば、相手は私の話を理解してくれると思っていたのです。
聞いてくれない人、理解してくれない人は、変わっている人なんだと、本当に思っていました。
人同士の意見が食い違うのは当たり前であり、違う意見を言い合いながらその人との仲が深まっていくのだと思っていました。
だから、いつも私は挑んでいました。

自分の考えが正しいという、過信のような考えというものは、どこから生まれてくるのでしょう。私はいつも正しいか正しくないかという答えにこだわり、積み重ねた経験も知識もないところから、なぜか自分が正しい考えを持っているということを信じ込んでいました。
その考えを崩すことができるようになったのは、小さな日々の経験や知識が、心に積もっていったからなのかも知れません。多くの人と関係を深めながら、自分の感情のおさめ方を理解していったように感じます。

相手の方が私に合わせてくれることが多かったのかも知れないと自覚したのは、数年にわたって介助にきてくださっていた人が、去っていった時だったと思います。たくさんの人と介助を通して出会い、別れてきましたが、私が言った一言が、別れる原因になったと自覚し、自分の言葉の強さに衝撃をうけたのは初めてでした。
この時期は、言葉について見直し始めた頃でもありました。ものを書くことにおそれを感じ始めた時期も重なりました。
思えばすべて、心ある人たちとの出会いの中で、その人たちからの苦言や態度から考え始めたように思います。自分一人の思考力では、自分の行動を見直していくことはできませんでした。

いつ頃からか定かではないですが、徐々に私は、人に伝えることを考えて話すようになりました。
言い訳のようですが、私は本当に知らなかったのです。自分が相手を思いやることで友情が深まるということ、好きな人を自分から大切にしていこうと思うこと、その気持ちを態度に出すことで初めて自分の気持ちが相手に伝わるということを。相手からもらうことを求めず、自分からそうしようと思うことが大切なんだということを。

生きていけば、肉体が大人の体になるように、心も自然に育っていくのだと思っていたし、人との関係も自然に深まっていくのだと、本当に思っていました。人を理解していこうとする姿勢が、私にはなかったのです。
今思うと、感じたものをそのまま言葉にしていた時期は、もしかしたら言葉に「使われていた」時期だったのかも知れません。感じたことをしゃべっているのに、自分のどこかで「まだなにも話せていない」と思っていました。ちゃんと話を聞いてくれることを、目の前の人にいつも求めていました。なのに自分では、いつも誰かの話を聴く側であるように感じていたのです。自分が話した言葉を自覚できない状態ということは、私は言葉に使われていた、つまり自分の感情を自覚できていなかった、ということになるように思います。

今は、そうですね、あえて自己評価をするならば、自覚した分、ほんの少しはましに、言葉を使えるようになったのでしょうか。
せめて、大切な人、身近な人を故意に悲しませたくはないと、いつも思っております。

態度は言葉に出るようで、過去の私のだめだめな姿勢は、きっと、その時々にわかる人には感じられたことでしょう。
この章の前半に記したように、思い込みもはげしいところがありました。
それでもいつも、介助という仕事を通して寄り添ってくれた人がいました。付き合いを続けてくれた友人、知人の存在がありました。意見してくださる人がいました。
その積み重なった日々があり、今の私がいます。

2021年11月17日

障がいあるからだと私

第8回

身になったと思えること、いまだ苦手なこと

身になったと思えること
この章の最初は、このからだで人生を生きてみて、身についたと思えることを書き出してみます。

●人の話を少しは聞けるようになった
自分は人の話を聞けない人間だ、と、まず自覚することが難しいことでした。私はいつも人の話に耳を傾けてきたと思っていたし、発言したいことの半分も言えていないと思っていました。
自覚することがどこから始まったのか、考えてみると、やはり知人から面と向かって、「あなたは人の話が聞けない」と言われてからだと思います。そう言われた頃は、ピアカウンセリングの仕事になれてきた時期で、私自身も「話が聞けるようになった」と思っていたし、周りから評価されることが多かったように思います。
なので、別の視点からのこの指摘は、この時期の自分にとって厳しく感じるものでした。
この頃から少しずつ、私は他者から率直に何かを指摘されたりする経験があまりないことに気がついていきました。ものごとを言われ慣れていないせいか、少し言われたことでも心に大きく残って、なかなか踏ん切ることができないのです。その癖は実は今でもあります。
人から何かを言われると、気にする分、自分を振り返る作業をするようになります。言われてみると、相手の話を聞いているようで、相手のことをまるで知らない私がいました。その人が何が好きで何が苦手で、どんなことに興味を持っていてどんな癖があってなど、私は覚えていないことが多かったのです。
そう気がついた時、それまでの私は、人の話を聞き流していたのかも知れないと感じました。
あれから十何年もの時間の中で、少しは耳を傾けられるようになったかな、と思える自分がいます。まだまだだとは思いますが、目の前の人がなんとなく安心して話しているように感じる時、少しだけ自分のことを評価しています。

●自分の苦手なこと、未熟なことを自覚できるようになった
自分を省みることができるようになると、自分の捉え方が変わっていくようです。私はなかなかそこが切り替わらず、どうにも自分ではできないことをできるようになろうと思ってきました。私はどうも、自分は、本当になんでもわかっていると思っていたようでした。
わかっていると思っているから、何かできないことが起きた時に、なぜできなかったんだろうという「穴」に落ちてしまうのです。そして、外側の世界に原因を求めてしまいがちでした。
自分は実は何も知らない、未経験なことが多いと心からわかった時、「ああ、知らないんじゃできないよ、勉強するしかないじゃない、できる範囲で経験していくしかないじゃない」と思えたのです。 何か、そこからまた、道が見えた気がしました。不思議な感覚でした。

●ものの頼み方が少し上手くなった
おこがましいことかも知れませんが、自分ではそのように感じています。若い時から私は、頼んだことはしてもらえると思っていたきらいがありました。家族と住んでいた時はその気持ちが幾分抑えられていましたが、他者からの介助を受けながらの生活スタイルに入ると、「どう頼めば自分のやりたいことが叶うか」ということにどうしても焦点が当たる日々になっていきました。その視点からだと、やりたいことの意味が伝わらなかった時に、どうしてもいきどおったものが残るのでした。
視点を変えるヒントは日々もらっていたように思いますが、今も印象に残るきっかけは、あるかたの言葉でした。
そのかたは自分の日常のことを話されたのだと思いますが、
「人にものを頼む時は、その人の時間を提供してもらうわけだから、その分のお礼を常に考えるわ」
私は介助という仕組みを使って、自分のできないことを補いながら生活をしています。福祉制度を活用しているので、介助のかたは仕事で関わってくださり、対価が支払われます。
その中で、どのように関わるかたにものごとを頼んでいくかを考えながら実践していく機会を、私は与えられているのかも知れないと、その時感じました。
少し、頼まれた側の気持ちを意識しながら、言葉を使ってみようと思ったのです。
少し意識をしていくと、自分のやりたいことが叶っていくことに、感謝する気持ちが生まれるようになりました。

●人と一緒にいることが楽しいと思えるようになった
このことが一番大きなことだったように、今は感じています。
私は、人と一緒にいることが、得意ではありませんでした。一緒にいたくないということではありません。距離感が掴めないのです。
肉親と一緒にいる時も、パートナーと一緒にいる時も、どこか変に相手に期待して、近づき過ぎてしまったり、無関心になってしまったり、とても不安定でした。自分なりに相手を理解したいと思って思いを巡らすのですが、独りよがりになってしまい、かえって溝を深めてしまうことが多かったように思います。
自立生活の中で、30年近くの年月を費やしながら、関わってくださったり、友人としてお付き合いを続けてくださるかた一人一人との距離を、感じる経験を積ませてもらったように思うのです。
特に、介助で関わるかたは、私自身が選んだ人に来ていただいているのではありません。最初に所属した埼玉の団体では、介助希望のかたと面接する役割ではありましたが、東京に越してからは、自立生活センターが紹介してくださる人に、日々来ていただくかたちをとっています。
その、お互いにその時その時巡り会う流れの中で、多くの人と知り合い、お別れしてきました。関係性がうまくいかない時もあり、ちゃんとお別れができないまま関係が終わることもありました。そのような中で学んだことは本当に多かったと思います。
おごった言い方になってしまいますが、今私は、たとえ少し苦手意識を感じてしまうかたと巡り合ったとしても、私なりにその人といる時間を楽しんでいると感じています(相手のかたの気持ちは未知数ですが)。
このような気持ちになれただけでも、自立生活をしてきて本当に良かったと感じています。

いまだにとても苦手なこと
後半はいまだ苦手なことについて振り返ってみます。

だいぶ最近では、自分の感情や思い癖を整理できてきたと思っていますが、今でも越えられない、苦手なシチュエーションもいくつか残ってもいます。
ひとつは、子供扱いされている、と感じてしまう時です。
どんな言葉であっても、しぐさであっても、すぐに反応してしまう自分がいます。相手のかたが、「そんなつもりではなかった」と伝えてくださっても、心に残ってしまうのです。
そしてそれは、むくむくとふくらみ、いらだちの種になります。

もうひとつは、尊重されてないと感じてしまう時です。
子供扱いされることと、似たようなものなのかも知れません。
たとえば日常の中での小さな行き違いの中で、大きく反応してしまう自分がいます。
伝えたはずの言葉が実は伝わっていなかった時、物事を先回りして準備されてしまう時、相手の方が悪気なく、善意でしてくださっているとわかっていても、どうしても「意思を尊重されていない」という気持ちが強く出てしまいます。

今はコロナ禍でマスクをつけて話すことが多く、私の方での聞き間違いも増えてしまっているので、本当に気を付けて考えなくてはいけません。
コロナ禍といえば、今は世界中の人たちが尋常ではない環境で生活している状況ですから、誰にとっても、丁寧に人の話を聞ける状況とはいえない気もしています。私の精神状態も、ごく普通に暮らしていた2年前の状態と少し違って、敏感になってしまっているかも知れません。

もっと突っ込んでいうなら、コロナ禍というこの状況下で、障がいあるからだで生きてきた心の反応をいつものように自分に許してしまう私は、まだまだ青いなあと思うこの頃です。

苦手なことを深く考えてみると、要は「できる人」と周囲に思われたいという自分の欲望に当たります。
「できる人」とは、「思慮深い人」という意味です。
人にそう思われたい自分は、実は自らのことを「考えが浅く何もできない」と思っているようでした。
自分がそう思っているから、周囲にはそうでないと思ってもらうことで自分が納得したいようなのでした。
自分が、できないことがたくさんあると認めて、覚えたいことは覚えられるように努力すればすむことなのに、です。

悩み続けていた時、あるかたに教わりました。
「もしその人があなたの浅はかな考えを知っていて子ども扱いしてくるなら、その人はあなたを深く理解している人かも知れないね。なぜなら浅はかだということを知っているということは、よほど深く付き合わないとわからないから」
なるほど、私は自分のことを「考えが浅はかなところがある」と知っていますが、それは自分の内面を知っているからなのかも知れません。人が私をどうみるかは、別の問題です。
「もしもその人が、あなたのことを見かけで(障がいによるしぐさやようす、言語の発生のしかたなど)子ども扱いしてくる人なら、ものごとを知らない了見が狭い人なだけだから、まともに相手にしなくてもいいんじゃない?」ああ、そうですね、そういう見方もありました。なるべく人をそういうふうに見てくる人だと勘繰らないようにしていますが、直感的に感じることがあるとしたらそれは本当のことなのかも知れません。
そうやって観察すればいいんだ、と、この時、そのかたのことばでやっと先行きがみえました。
心の中でそうやって観察するくせを覚えて、自分らしく社会的に生きていく方法をさぐればいいんだなと思えたのです。

何度も書くようですが、人に認めてほしいと求めるよりも、自分がまず今の自分をみとめてあげないといけないということですね。私自身が自分に一番近くにいるのですから。そして、スキルとして足りないと感じることに関しては、経験する機会を自分に与えてあげないと、なりたい自分にはなれません。
誰かが認めてくれたから、スキルが身につくわけではありません。私の経験値だけが、私の心の成長につながるのですから。
必要な経験値として、いいように考えれば、子供扱いされて嫌な気持ちになることも、私にとっては必要だった経験なのかも知れません。大人になってから他者から子供扱いされることがどんなに嫌な気分になるか、経験しないとわからなかったかも知れないことなのでしょう。このような経験をしてしまったら、私はもう他者に同じことはできません。
障がいあるこのからだをもっているからこそ、生活という場でできた経験なのかも知れません。
自分の了見を広げるための経験、加えて、ひとさまの気持ちに寄り添える視野を培うための経験だったと考えるなら、子供扱いされることも、尊重されていないと感じたことも、本当に貴重な経験でした。
でもできれば、もうこの種類の経験は繰り返ししなくても十分経験させていただいたので大丈夫だと思うのですが、人生的にははたして、そうはうまくいかないものなのかも知れません。

2021年12月22日

障がいあるからだと私

第9回

家族観について行き着いたこと

私には、「自分で家族を作りたい」という夢があった時期があります。
結婚でも同棲でもいいから、誰かと「家族」になって、一緒に暮らしたいとずっと思っていました。子どもについては、縁があれば育てたいけれど、ご縁がなければそれはそれでと思い、積極的に考えてはいませんでした。でも、伴侶的な人とは出会いたいといつも思っていました。
曲がりなりにも数年間の同棲を経験してから、少しずつ考えが変化してきました。
同棲を解消してから、何かに発展するような出会いはなく、想いを寄せた異性のかたとは、「友人」となりました。友人からは、程よい距離感の取り方を教わったように思います。その関係性の中で、自分がいつも恋愛をしたがっていたこと、誰かに自分が特別に親しいと思われたいといつも願っていることを自覚したのです。
それはまるで、無条件に愛してくれる父親を求めているようでした。
私はいつも、誰かからの深い理解に触れたいと願っていたようです。
だからといって、自分が誰かを深く理解しようとしているとはいいがたく、独りよがりに想いを寄せた人のことを思ってはいましたが、その人が幸せになるということはどういうことなのか、私のどんな行動がその幸せに少しでも繋がることになるのか、そのような視点はなかなか持つことができませんでした。
これは私が障害があるからというわけではなく、ただそういう視点を持てない幼稚な部分があったというだけだったと思います。人の幸せを心から願うということを、やってこなかったということです。
友人との距離感を経験したおかげで、少しは自分の本能的な考えに目を向けることができ、異性とも友人として心を落ち着けて付き合えるようになったと思います。

このころに、一つの夢を見ました。
私の周りには、男の人も女の人もいて、私はその中でにこにこしながらその時必要なことをこなしている、という、大雑把ですがそのような内容の夢でした。当時夢に詳しい知人からの解説によると、
「これからは男女の枠を超えて、あなたはいろんな人から助けられながら生きていくの。男女の愛に限らず、いろんな愛を知るのよ」
という感じだったと記憶しています。
当時の私には、この程度の説明さえも内容の厳しさを感じたものです。え、それって、伴侶とは会えないということ? 恋愛するなということ? そんなの、厳しすぎる、という具合に、分析してくれた方に食らいつき、「たかが夢ごときに」と呆れられたものです。

今振り返ると、私の日常はその夢に近いことになっているように感じます。多くの人が生活に関わってくださっていますが、私にとっては一人一人が家族のような人たちだと感じているからです。介助で関わってくださる人たちだけでなく、マッサージに来てくれる友人や、よく行くお店の人との関係性、時候の挨拶を交わすぐらいのお付き合いの人も含めて、私にとって大事な人だと感じます。
介助の仕事で関わってくださるのは、同性介助なので全て女性ですが、友人知人は男女関わらずさまざまな人とのおつきあいを持てています。思い起こせばありがたいことです。
私の中で、家族という意味が少し変化したのかも知れません。大げさかもしれませんが、「家族イコール血のつながり」ということばかりではなく、「家族イコール私がなんらかの関係性を持っている人」と考えるようになったのです。
以前は、人のことに興味が持てなくて、私自身が誰かに求めるばかりの毎日でしたが、そうではなくて私自身が人を大切にできればいいということを理解したのです。そこをわかると、とても心が楽になったのでした。
誰かに愛されたいと思わなくても、私が愛したい人を愛していけばいいと、なんとなくわかってきたのです。相手が私のことをどう思おうと、ビジネスライクで付き合いたいと思っていようと、距離を置きたいと思っていようと、品物を買いに来るお客さんの一人でしかないと思っていようと、私はそのことを寂しがる必要もないし、何か違うものを求めようとしなくていいのです。
私はただ、大事だと感じた人との関係性を、その人が望んでいる距離感をはかってつくっていけばいい、それだけのことだったのです。
私には肉親という家族もいるけれど、それ以外の家族もいる、そんな感覚でしょうか。

一般的な家族というイメージから考えても、すごく仲良い家族もいれば、そうでもない関係性もあるでしょう。一緒にいて安心できる日もあれば、一緒にいることで緊張したり、より孤独を感じることもあるのですから。
多くを語り合えば分かり合えるというわけではないし、一緒にいる時間が長ければ親密になれるというわけでもありません。分かり合えていると思ったら違っていた、と気がつくこともあったりします。人との関係は本当に難しいところがあったりします。そのような中で、人がどのように思ったとしても、私なりの「家族」を日々感じることができるなら、それでもいいのかも知れません。

私も日々、心から楽しい日もあれば、言い知れぬ寂しさを感じる日もあります。それが自然なのではないかとも感じます。きっとそのような心の変化の中で、私の心は育つのだと思うのです。
誰かを求めることをやめた時、本当に楽になっていった自分がいました。
そして、自分で家族を作りたいという夢が、想定しなかったかたちで叶ったのだという気持ちが強くなってきています。

村山美和(むらやま みわ)

夏生まれ。現在板橋区民。今は肩書きはありません。マイペースでブログに詩を書いています。
 
ご縁をいただいて、2冊(エッセイ1冊、詩集1冊)出版の経験があります。
 
あんドーナツ    筒井書房 (発行 七七舎) 1995年
誇りを抱きしめて  千書房           1997年
 
脳性まひの障害があります。肢体不自由児施設で9年過ごし、その後、家庭で13年過ごしました。自立生活を始めてもうすぐ30年になります。
食べることと読書と街を歩くことが好きです。
尊敬する人物は「アンリ・サンソン」。好きな小説は「十二国記」、好きな映画は、気持ちはいつも変わりますが、現在は「インビクタス・負けざるものたち」です。
ふりかえると、話を聴く側に立つ経験をすることが日々の中で多くありました。私はきっと、話を聴ける人間になりたかったのでしょう。
 
・ホームページ等
詩のサイト 詩的せいかつ https://ameblo.jp/sakuranoichiyou/
ホームページ http://littleelephant.cute.coocan.jp/index/top.html
 よろしかったらのぞいていただけると幸いです。
 
・お世話になっている方々のサイト
今回書かせてもらった文章の内容に関係したり、実際のやりとりを表現させていただいた方のサイトを、許可をいただいたので載せさせていただきます。
 
第3回・第10回エッセイ関連
  Medicine Wheel https://medicinewheel.tokyo/index.html
 
介助派遣を主にお願いしている団体 
  特定非営利活動法人スタジオIL文京 https://ilbunkyo.jimdofree.com

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