REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

酒田から
 斎藤典雄

2022年10月5日

酒田から

第1回

漁師さんとの出会い

 おれのふるさと、酒田。酒と田んぼ、かな。
 日本海に面した山形県の港湾都市だ。都市といっても人口10万人程の田舎町。日本海、鳥海山、最上川に囲まれた、日本有数の米どころ庄内平野が広がっている。自然が豊かで食の宝庫でもある。
 JRを早期退職して東京から戻った。一人暮らしの母親が認知症を患い施設に入ったからだ。中学の同級生だった彼女と新しい生活を始めた。漁師さんの手伝いをするようになった。これまでの軌道を波に乗り換えて10年が過ぎた。
 酒が好きだ。
 節約倹約しようと決めていた。飲み屋通いも控えなければならない。が、初めの頃は日が暮れて赤提灯が灯るとどうしても暖簾を潜らずにはいられなかった。
 高齢のマスターと仲良くなった。「魚が好きなら港に遊びに来い」と言われた。マスターは漁師さんでもあったのだ。
 何度か獲れたての魚を貰った。何かお礼にと「手伝うことはありませんか」と尋ねた。「いいからまた来い、くれてやるから」と。
 ある日おれは意を決して、カッパ上下に長靴スタイルで半ば強引に船に乗り込んだ。その時からだ。まるで信じられない夢のような生活が始まったのだ。
 手伝いは漁を終えて港に船が戻ってから魚を網から外すことだ。午前中の3時間位だった。おれが漁師さんと一緒に沖に出るのは海が穏やかな時に限られた。波がなくてベタ凪の時だけだった。漁師さんはおれに怪我でもされたら大変だと思ったのだろう。
 「あっ、来た来た、おれの船が」。カモメ群れ飛ぶ海越えて、だんだん港に近づいて来る。今日は獲れただろうか。いつもワクワクする。大漁ならいいのに漁師さんは意外にも醒めている。「自然相手だからなぁ」と。
 しかもあまり市場に出荷しない。みんな人にくれるのだった。だからおれも遠慮なく貰える訳だが。驚くことに鮭ならイクラだけしか出荷しないのだ。全部人にくれる。それで余ればバイ貝漁の餌にしたり、それでも余れば翌日沖に出た時に捨ててしまうのだ。だから皆ゾロゾロと大喜びで貰いに来る。
 周りの漁師さんも高齢の人ばかりだ。やっぱり大漁など期待していないようだ。家でゴロゴロしててもしようがないから漁に出る。体力の続く限り健康のため老化防止にとやっている気がするのだ。何より漁が根っから好きなんだと思うが。
 おれは山程貰った魚を東京の同僚や友人達、子どもらに送りまくった。家は「なんちゃって鮮魚店」さながらと化していた。手伝いから帰宅すると夕方まで魚の処理に明け暮れる。で、晩ごはんもおれが作る。当然だろう。彼女のためにだ。おれは自分を見せたかったのだ。
 また親戚から好きなように使っていいと畑を借りていた。大根やじゃが芋、茄子トマトと簡単なものを見様見まねで作っていた。つまり食費が浮いた。びっくりする程かからない。もう無職のままでいい。勤めに出る必要などなかったのだ。
 ある日の晩ごはんはこんな感じだ。
 ゼイタクはしないと決めていた。いつも質素な晩ごはんでいい。ゆうべは漁師さんから貰ったものばかりだった。岩ガキと茹でたタコ。タイの刺身とそのアラで作った潮汁。ごちそうさまでした。
 今日もまた岩ガキだ。ゆうべ作っておいたカレイの煮つけもある。今日貰ったヒラメは刺身にするかムニエルにするか迷うところだ。そういえば同僚達からの魚を送ったお返しのハムの詰合せと牛肉もあったのだ。ハムは今が旬のアスパラとバター炒めだ。牛肉は早く食べなくちゃ。久しぶりにすきやきにでもするか。
 ま、毎日がこんな感じで貰ったものばかり。仕方がない、ゼイタクはしない。ガマン我慢の連続だ。何が我慢なのかと自分でも分からなくなる。
 おれは飲むことと食べることしか頭にないようだ。出来上がった料理をテーブル一杯に並べてほくそ笑む。無職なんだしゼイタクはするな。これでいい。今日も質素な晩ごはんだ。
 あとは飲むだけだ。目の前の肴で飲むだけなのだ。一日の終わりは飲むしかない。飲まないと一日が台無しになったような気がする。飲むために一日があるのだ。
 飲めば辛いことも苦しかったこともみんな忘れさせてくれる。明日への活力、天国への階段だ。
 でも酒に飲まれてはいけない。酒には勝てない。規則正しく飲む。よく食べて飲む。出来るだけ楽しく。おれは飲むために生まれて来たのだ。これまでの人生がそうだった。よし、飲んでやる。さぁ、始めよう。
 漁師さんに心よりの感謝とお礼を込めて。今日も乾杯だ。

2022年10月26日

酒田から

第2回

中央線車掌のユーウツ

 JR東日本が今年7月に管内を走る地方路線の収支を公表した。ここ庄内地方では2路線中3区間が赤字だった。
 2年前から陸羽西線(余目、新庄間)が線路脇道路工事のためバス代行輸送に代わり運休となっている。JR東日本はこのまま廃線にしてしまうのではないかと地元住民は危惧している。
 前年だったかJR西日本でもローカル線の維持は困難というニュースがあった。廃線を視野に見直しをすると言っている。
 ただでさえ赤字なのにコロナが追い討ちをかけている。赤字ローカル線の廃止には特に地元住民の反対は根強い。切実な問題であり納得は難しい。でもおれは仕方がないことだと思っている。
 お叱りを受けることを承知で言うが、だいたい困ると言っている人達が乗っていない。そもそもこれは国鉄を民間JRにした時点(87年)で分かっていたことだ。今更言っても始まらないが、民営化すなわち弱者の切り捨てだと国鉄労働組合は散々訴え反対してきたことだ。
 赤字前提で事業を継続する企業などどこにもない。採算が合わなければ切り捨てる。企業として困っている人達に耳を傾け寄り添うのは当然のモラルだとしても、止めたからといって責任はない。どうしても存続させたいのであれば自治体が買い取るとか、後は国や行政がやることだ。国論を二分したにも関わらず国の施策で強行した民営化だ。最後は国が支援して責任を取るのは当然のことだ。
 歴史あるものが失くなってしまう。文化や娯楽まで奪われる。誰しも感傷的になって当たり前だ。だがこれは時代の流れとして受け止めるしかないのだと思う。
 国鉄は全国津々浦々にまで鉄路を張り巡らせた。国民の足として活躍したやさしい時代はとうに過ぎた。今年で鉄道開業150年になる。ある一つの鉄道の使命は十分に果たしたと思う。厳しい時代に突入しているのは間違いない。
 しけた話は止めよう。明るいことを書こうじゃないか。
 JRの車掌時代はそれこそ勤務が不規則だった。このことでとんでもない事態に陥ることになる。
 まず一日目の勤務だ。早朝に出勤する。で、昼過ぎに帰宅する。おれのことを知らない人からは休みだと思われる。
 二日目は午後からの遅い出勤だ。午前中は家にいるからまた休みだと思われる。
 三日目は夜勤で夕方からの出勤だ。午前午後共家にいるので完全に休みだと思われる。いいね、休みがいっぱいあってと羨望の眼差しを向けられているかもしれない。
 四日目は夜勤明けで朝方に帰宅する。再三1日中家にいる。ここら辺りでオカシイと気付き始める。そんなに休みばかりの会社はあるはずがない。あの人は仕事をしていないのではないかと疑念を抱かれる。
 そして五、六日目は公休特休で2日間正規の休みだ。もう6日家にいる。もはや疑念どころか絶対に働いていないという動かぬ確信に変わるのだ。
 若いのに仕事をしていない。いつも家でゴロゴロしている。遊んでばかりいると白い目で見られる。まるで裁判の判決のような決定的なレッテルを貼られてしまう。これでおれは万事休すだ。ボロボロで立ち直れない。上告する気は失せてしまう。もう逃げ場はどこにもない。
 おれはまた夜勤が嫌いだった。寝る時間が違う。人間は機械ではない。寝付けない。枕が違う。パジャマも違う。いつも抱っこして寝る、ん!?ぬいぐるみなわけないな。何を言わせるんだ、まったく!!
 外の音が気になる。電車の音で目が覚める。寝不足になる。夜勤明けの乗務は睡魔との戦いだ。コックリコックリしそうになる。早く終わってくれとそればかり考えていた。
 それでも仕事が終われば一日が休みのような得した気分になった。一日中遊び回っていた。それは40代半ば位までだったか。ドドッと疲れるようになった。これでは体に良くない。寿命が縮むと考えるようになった。何もない日はまっすぐ帰宅した。ちゃんと布団を敷いて1~2時間は必ず寝た。
 もう1つ嫌だったのは夜勤明けで会議などがある時だ。会社のお勉強会、組合の会議や集会などだ。もう眠くて全然頭に入らない。皆は本当によくやっている。
 会議ならまだしも、慰安旅行や運動会などの行事だ。殆ど全て夜勤明けで設定される。おれはダメ。辛くて本当に応えた。いったいどこがリフレッシュなんだ。
 だがおれはやって来た。やる時はやるのだ。懇親会などで酒が出るなら大歓迎だったのだ。だめだこりゃ。
 車掌の仕事はお客様が相手だ。緊張の連続でもあった。体調がよくない時はお客様どころではなくなる。
 尾籠な話で恐縮だが、中央線の電車にはトイレがない。国鉄時代に大先輩から言われたことを思い出す。乗務員室でバクダンを落としてこそ一人前だと。
 しかしこれ程惨めなことはあるまい。乗務員室の目の前には大勢のお客様がいる。大の大人が大の方をだなんて。あぁお洩らししないで乗り切れた。無事に終わった。このような話は読者のご想像にお任せするしかない。

2022年11月16日

酒田から

第3回

呪われた酒田と超一流の食

 風の棲む町とも言われたりする酒田。とにかく風が強い。一年中と言っても過言ではない。
 特に冬は凄まじい。びゅんびゅんなんてものではない。ゴ、ゴ、ゴーと風が泣いているのだ。雪が降れば地吹雪となる。積もった雪が足元から舞い上がる。視界は完全にゼロ。ホワイトアウトだ。酒田の冬は本当に厳しい。
 忘れもしない酒田の大火事。76年10月29日。あれからもう40数年が経つ。戦後4番目といわれた歴史的大火ということだった。
 その日も風だった。折りからの強風により町の中心部をそっくり焼失してしまった。死者は一名、消防長が殉職した。
 この大火により酒田は激変した。住宅は田んぼや畑だった郊外に移った。中心部は当時のように復興はしたものの、あまりにも閑散としていて以前のような活気は全く感じられない。復活した商店もシャッターを下ろしている所が多い。
 96年には直木賞作家のねじめ正一さんがこの酒田大火を題材にした小説「風の棲む町」(日本放送出版協会刊)を上梓している。参考まで。
 大火の時おれは国鉄新宿駅の駅員として働いていた。勤務中に何度電話しても繋らず翌朝夜勤明けでそのまま列車に乗り酒田へ向かった。
 酒田駅が近づくにつれ閉め切った窓の車内にまで焼け焦げた臭いが漂ってきた。焼け跡は戦争映画さながらでショックのあまり言葉を失った。それは今でも鮮明に覚えている。
 幸いにも実家は難を逃れていたが家の中は空っぽだった。家財道具が全て運び出されていた。母親が一人暮らしだったので親戚や知人が運んでくれたという。
 もう一つ忘れられないことがある。05年のクリスマスの夜だった。風速40メートルの突風にあおられて列車が脱線転覆した。酒田駅を発車した数分後、JR羽越線の特急いなほの大惨事だ。車両は大破して乗客5人の命が奪われてしまった。40トン以上の車両がひっくり返るとは前代未聞だった。
 当時おれは母親の認知症のことで毎週この列車で帰省していたのだ。あぁ恐ろしい。
 現在の日本は災害列島になっている。大地震然り、近年の豪雨災害といったらない。自然はいったい、どれだけの試練を与えれば気が済むのか。もう勘弁してほしい。
 こうした暗いことばかりでは勿論ない。
 酒田は食に関しては宝庫と言ってよい。天国にまで到達している。山あり川あり海ありで、この大自然が恵みの幸をもたらしている。日本有数の米どころの庄内平野もあり、旨い日本酒も数多い。
 雪解けの田んぼの畦道や河川敷など至る所に顔を出すふきのとう。ほろ苦い味が待ち焦がれた春を呼ぶ。これに続いて山菜ラッシュだ。ワラビ、タラノメ、コシアブラや竹の子などなど。春の魚もサクラマスや口細カレイはお祭りやお祝い事には欠かせない。
 夏といえば岩ガキだ。カキは冬というイメージが強いが、酒田は夏ガキなのだ。大粒の天然岩ガキを求めて観光客の行列が出来る。1ケ1000円を一口でペロリ。旅の醍醐味だろう。それに庄内砂丘一面に広がる果物畑。メロンは夏の贈答品の定番となっている。
 秋になればびっくりする程甘くて瑞々しい刈屋の梨。そして実りの秋、晩秋の宝石、庄内柿。今や有名ブランドとなっている。
 寒い冬には寒ダラ汁だ。真冬の荒れた日本海で獲れる真ダラ。身も骨もぶつ切りにしてワタも一緒にみそと酒粕で煮込む。白子を入れて岩のりを添えれば絶品となる。超一流の田舎と言えるだろう。
 また日本海の酒田、庄内沖。日本で一番小さな漁場なのだ。地図をご覧いただければ一目瞭然。山形県の海岸線は本当に短い。
 ここで獲れる魚が抜群に旨いのは山形と秋田の県境にそびえ立つ鳥海山(2236メートル)からの伏流水だと言われている。伏流水は海面下の砂地や岩場から湧き出す。そこの海藻などにプランクトンや小魚が棲みつく。それを餌とする魚たちが集まって来るという仕組みだ。
 良い環境の中で育った魚は旨い。山と海、山と川、川と海は一体だ。自然は繋がっている。海、山、川の健全化を図るには環境保全が重要だ。日本一小さな漁場でも日本一の海づくりを目指してもらいたい。
 最後に、日本海にトロトロと沈む夕陽は絶景だ。あまりの美しさに吸い込まれそうになる。感動する。勿論これは食べられないから、美味しい空気を吸ってほしい。
 酒田に遊びに来て下さい。心よりお待ちしております。酒田の風にぜひ吹かれてみて下さい。
 蛇足だが、酒田ではお母さんのことを方言で「ガガ」と呼ぶ。「レディ・ガガ」のような美女揃いだ。♪天国よいとこ一度はおいで、酒はうまいし、ねぇちゃんはきれいだ、ワーワー、ワッワー。

2022年12月7日

酒田から

第4回

秋鮭到来

 秋鮭の季節だ。
 酒田沖にも秋になると1年振りに銀鱗の勇姿が現われる。胸が高鳴る。感動を覚えずにはいられない。
 鮭は数年経つとふるさとに戻ってくる習性がある。生まれたばかりの稚魚が、荒波に揉まれて厳しい海を乗り越えて80センチもの成魚になり、生まれた川に帰ってくるのだ。あぁ、なんて健気で律儀なヤツなんだ。人間ですらふるさとに帰るのは難しい。先行き不透明なコロナのせいだ。
 爽やかな秋晴れの下での漁は本当に気持がいい。何事にも替え難い。これが一年中なら申し分なしだ。今日も感謝する。鮭に、そして海に。何よりもおれの漁師さんに感謝する。
 海の男の中の男、漁師さん。「板子一枚下は地獄」という諺がある。危険とは常に紙一重だ。酒田でもここ数年で4人の漁師さんが亡くなっている。海に投げ出された。ロープに足でも取られたのだろうか。皆大ベテランだったのに。まさに命懸けだ。本当に気をつけなければならない。
 そんなこともあり体力的にもかなりキツイはずだ。だからおれも少しでも力になればとガムシャラに手伝っている。
 漁師さんは日本の豊かな食文化を支えている。鮭は魚好きには秋の味覚の代表格だと云ってよい。鮭を知らない人はいない。お店には鮭のおにぎり、鮭弁当はどこにでもある。日本人の1番人気でソウルフードだ。
 また日本には初物四天王がある。初鰹、初鮭、初茄子、初茸を言う。俗説だろうが、初物を食べると長生きするんだとか。そんなことは別に気にしてないけど。
 それにしても、鮭やサンマなどの漁獲量が年々減っているという。温暖化により海が変わりつつあるのだろうか。新聞には「漁師困惑」「商売成り立たず」などの泣きたくなる文字が躍っている。これは深刻な問題だ。が、これが自然でもある。
 また「何万トンの水揚げ」とよく聞く。何万トンとはどれ位の量なのか。おれにはトンと分からない。想像もつかない。酒田の船は小型船が殆どで、鮭は1日に50本、多くて100本いくかの水揚げだ。キロにしたら何百キロといったところだ。トンとキロではトンでもない差だというのは分かるが。
 酒田でも近年は鮭が獲れなくなっている。1日に多くて20本。あぁ、なんてさみしいんだ。それでもそれなりに獲れている。いいではないか。楽あれば苦ありだろう。
 あぁ、夏は終わった。完全に終わった。過ぎてしまえば短い夏だった。
 今年も盆踊り、花火大会はなかった。浴衣姿も見なかった。そういえばかき氷も冷し中華も食べなかった。スイカもだ。連日の猛暑も参ったが、もうすっかり涼しくなった。日が落ちるのも早くなり、コオロギも毎晩鳴き止まない。
 照りつける陽射し、うだるような暑さ、もんもんもこもこの入道雲、風鈴すら鳴らずの無風状態、鳴き止まないのは蝉しぐれ。もうみんなどこかへ消えてしまった。コロナも一緒に連れて行ってくれればよかったのに。
 ビールに枝豆、岩ガキペロリ。つるつる素麵にトコロテン。夏を惜しむかのように食べていた。真っ赤なトマトにとうもろこし。茄子やきゅうりの夏野菜。あぁ、食べた。よく食べた。
 夏の日の思い出。真夏の果実、ミスターサマータイム、時間よ止まれ。一年の中でもトクベツと言える夏。振り返ってみればあっという間だった。
 さぁ、本格的な秋の到来だ。鮭を食べよう。切り身はゴーカイに厚切りにする。塩焼きが定番だ。大根おろしはたっぷりと。朝晩でも食べる。毎日でも飽きることはない。
 時にはクリーム煮もいい。ちょっとオシャレにフランスパンを浸す。ムニエル、フライも旨い。パスタ、みそ汁にも相性がいい。寒くなれば鍋に、石狩鍋だ。イクラはしょうゆ漬けに。白子は一口大に切ってしょうがで煮付ける。ごはんが進む。酒が進んでしょうがない。
 イクラを作るにはちょっと根気がいる。ボウルに塩とお湯を入れる。イクラをやさしくほぐしながら膜を取り除いていく。取り終えたら、今度は水を弱く流しながらやっぱりやさしくかき交ぜる。すると余計なものがどんどん浮いてくる。ボウルからイクラが零れ落ちないように、細心の注意を払いながら浮いた余計なものを水と一緒に捨てていく。これを何度も何度も繰り返す。気になるものを取り除く。イクラがキレイになったら完了となる。
 次にしょうゆと酒を同量、みりんを少し混ぜ合わせ容器に入れる。冷蔵庫で一晩寝かせる。これでイクラのしょうゆ漬けが出来上がる。
 キラキラと輝くイクラ。海の宝石だ。口の中でぷちぷちと甘くとろける。極上の旨みだ。買わなくても家で作れる。イクラかって?タダだよ。貰ったんだもの、漁師さんに。

2023年1月4日

酒田から

第5回

おれの叔父たち

 おれはおかしい。相当変だ。自分でもそう思っている。が、叔父たちはもっとおかしい。おれ以上だ。
 長い間疎遠にしていた叔父のことだ。
 「酒をしこたま飲ませてやるから家に来い」としょっちゅう呼ぶ。おれが酒田に戻ったことをいいことに何でも頼む。子どもがいないからさみしいのかもしれない。
 「弟に何かあったら頼むぞ」というのが口癖だ。おれは二つ返事で応える。どうせまだずっと先のことだと思っているからだ。
 その弟とは、千葉で一人暮らしをしている叔父のことだ。おれに言わせればどうしようもない程ヤクザな叔父なのだ。
 兄である叔父はおれがまだ東京にいた時に「羽田まで迎えに来てくれ」と電話で頼まれたことがあった。大学時代の親友が亡くなり、何かあると困るから目黒の家まで連れて行ってくれという。
 叔父はケータイがないので、飛行機から降りたら動かないようにと言っておいた。出口でいくら待っても叔父の姿がない。どうしたんだろう。暫くすると職員二人に連れられてやって来た。「タラップを下りた所で頑として動かなかったものですから」と。まったくもう。
 奥さんが10日程入院すると言うので、施設のショートステイにお願いした時のことだ。「もう出て行ってもらいますからね」と施設の人がいきなりおれを怒るのだった。聞けばメシがまずくて食えないから町の料亭に行ったと。しかも車は施設から見えない所に昔の部下に隠しておいてもらったと。ふざけるなだ。
 叔父は一人では何も出来ない。腕時計もハンカチもくつ下もどこにあるかも分からない。何から何まで全て奥さん任せで生きてきた。頑固一徹、やりたい放題、まさに我が道を行くという人だった。もう挙げれば切りがない。おれはただただ途方に暮れていた。
 そんな叔父も4年前に亡くなった。何もなかったような安らかな顔だった。合掌。
 今度は時を置かずに千葉の叔父が倒れた。おれはすぐに千葉まで駆けつけた。倒れた経緯などは全て記憶にない状態だった。「一ヶ月の入院が必要。自立は困難で要介護になる」とドクターはおっしゃった。退院してもどこかのどうでもいいような施設にほうり込まれるのだろうと思った。何よりおれには母親がいる。何度もこうして千葉まで来ている場合ではない。思い悩んだ末、酒田に連れて帰るとドクターに告げた。
 千葉のアパートをきれいに引き払い、あちこちの手続きをした。転院の許可が下りると車椅子に乗せて酒田に戻った。このことも叔父は何も覚えていない。
 また1ヶ月の再入院となった。この間に酒田の施設を探し回った。特別養護老人ホーム数ヶ所にも申し込みをした。300人待ちで何年後になるか分からないと言われた。施設は在の山の方が空いていてそこに決めた。遠いが仕方がない。千葉に比べれば隣りの部屋に行くようなものだ。
 半年程すると特養からの連絡があった。身元引受人が甥だということが入れる理由だったようだ。運が良かった。これで一件落着か。特養は終のすみかなのだから。
 叔父は20代で離婚していた。子どもも一人いた。奥さんは寺の娘で下の名前だけは覚えていた。その寺は市内ではなく隣町だという。今度は名前だけを頼りに寺を探し回った。親戚からは縁を切ったのだから行くなと止められたがおれは納得出来なかった。子どもだってもう大人だろう。50位にはなっているはずだ。いくら父との確執があったとしてもその子どもが叔父の面倒を看るべきだ。おれが身元引受人なんて冗談じゃない。そうだろう。
 寺が見つかった。おれは住職から今更なんだとどやされることを覚悟していた。住職は言った。自分の妹である奥さんは離婚後間もなく20代で病死したと。子どもは住職夫妻が引きとり育てたのだと。ここでおれを泣かせてどうすんだ。そんなこと知ったことか。
 「斎藤さんのご厚意はよく分かった。でも子どもには何も言わない。もう来ないでくれ。とうの昔に縁は切ってあるのだから」。おれはおとなしく失礼した。言いたいことは伝えたのだからこれでいい。あとは叔父が亡くなった時に来ればいいと。
 叔父には何度も面会に行った。余計なことは何も言わない。叔父は前回来たことも忘れていて「また来いよ」とそればかりだ。
 おれは市役所に行った。遺言状を作成した。後々面倒なことが起きるのではないかと思ったからだ。叔父の財産、つまりおれが管理している預貯金は全部おれが相続するということだ。それくらいは当たり前だろう。誰も異論はないはずだ。叔父が完全に惚ける前に清書してもらわなければならない。
 ところが忌まわしいコロナになってしまった。施設は面会禁止が続いた。書いてもらう機会を失った。結局遺言状のことは叶わなかった。骨折り損のくたびれ儲けで終わってしまった。けど、もう慣れちゃったよ。おれがやることはいつだってこうなんだ。一筋縄ではいかないことが多過ぎる。

2023年1月25日

酒田から

第6回

彼女のこと

 バカヤロー。なんでこんなことになるんだ。おれは全てお前のためにやって来たんだ。一緒になったばかりなのに。あまりにも早すぎる。信じられない。
 彼女が死んだよ。あっという間だった。死ぬと分かる闘病って、何なんだ。
 3月になろうとしていた。背中が痛いと言い出した。すぐに整形外科を受診した。筋肉痛ということだった。痛みは酷くなるばかりで他の整形、内科、婦人科とあらゆる所へ行った。が、異常なし。指圧やマッサージにも通った。
 食事が摂れず眠れなくなった。救急車で総合病院へ行ったがまたも筋肉痛だと。なんとかしてくれと藁にもすがる思いで再び行った。
 腫瘍マーカーに異常値が出た。即入院となった。診断は膵臓癌だった。手術は出来ないと言われた。血の気が引いた。おれはドクターに余命は言わせなかった。彼女には癌の告知だけで十分だ。それ以上のことは言わせない。残酷すぎるからだ。
 約2ヶ月入院した。コロナで面会は禁止だった。もどかしいったらない。頼りはケータイだった。一日中電話が来る。「悔しい、悔しいよ」と。抗癌剤の副作用で幻覚や意識障害が起きた。夜中でも電話が来る。「典さん痛い。すぐに来て」と。荷物をまとめて帰ろうとしていたとナースは言った。
 おれはこの間、市役所での介護認定の申請、介護用ベッド、車椅子、ポータブルトイレまで準備した。いつでも帰れるようにと。
 6月。なんとか退院に漕ぎ着けた。今度は2週間に1度の通院による抗癌剤投与だった。ところが具合が悪くて1週間に3度も通院した。栄養剤の点滴、貧血による輸血だった。当然抗癌剤は出来ずに延期になったりした。
 家では薬を飲む以外は殆ど臥床状態だった。食事も小さなスプーンで一口二口がやっとだ。結局彼女は抗癌剤の凄まじい苦しみに耐えることが出来なかった。かわいそうで見ていられない。代われるものなら代わってやりたい。こんなに苦しい思いをさせて、これを乗り越えたとして、いったい何が待っているのか。平癒するとでもいうのか。
 おれはドクターに申し出た。抗癌剤は止める。病院での治療は止めて在宅にすると。勿論彼女も同意だ。ドクターは相当な負担になる。斎藤さん一人では無理だとおっしゃった。何を言っているんだ。そんなことは覚悟の上に決まっているじゃないか。
 7月になり、家ではどうにもならずに再び入院してしまった。おれは面会の許可を得た。毎日毎日病院へ通った。朝から晩まで1ヶ月以上付きっ切りだった。ナニ、おれが一緒にいたかったからだ。おれには一緒にいてやることしか出来ない。また、いくら完全看護といってもナースは薬を持ってきてくれるだけだ。痛い所をさすってくれる時間はない。おれ以外にさすってやる人はいない。薬よりさする事の方が大事なこともあるだろう。
 苦しそうな顔で眠っている。眉間の皺をそっとなでて元に戻す。で、おれは帰る。起きてしまう。 「行かないで」と涙いっぱいになる。今日一日の我慢が溢れるのだ。こんな辛いことはない。
 腹水が溜ってしまった。いよいよダメなのかと思った。奇跡的に腹水は収まり、お盆頃の退院となった。
 鎖骨辺りからの点滴、鼻腔には酸素をつけた病院と同じ状態でストレッチャーに乗せて家に連れて帰った。もう自分では動くことも出来ない。
 容体は日に日に悪化の一途を辿るのみだった。癌は全身、骨にまで回っていた。いいよこのままで。ここにいるだけでいい。おれが全部してやる。死ぬな、死なないでくれ。
 麻薬の量は増えていくばかりだった。1~2時間おきの間隔になった。口から飲む力はない。腹部にも点滴を入れた。貼り薬と座薬だけになった。
 9月6日の深夜、突然大出血をした。救急車を呼び病院へ向かった。彼女は「ここどこ」と言った。救急車の中だと教えてやった。頑張らなくてもいいのに、おれは頑張れよと言っていた。
 病院へ着いた時には意識がなかった。ドクターはもう手の施しようがない。あとは静かに死を待つだけですと言った。「ここどこ」が最期の言葉になってしまった。その時、彼女には天国が見えたのかもしれない。
 彼女はおれと一緒になった2年後に胃癌を患った。2/3を切除した。それは大変だったが、おれはこの時は絶対に治るという強い確信があった。胃癌は今の医療で完治すると。経過は順調だった。5年経ちドクターは胃癌とは卒業だねと太鼓判を押した。彼女の喜びようはなかった。本当にほっとした。
 彼女の1年の命日がやって来る。この2カ月前におれの母親が93歳で亡くなってしまった。1ヶ月後にはおれが身元引受になっている叔父が逝った。あろうことか、その1ヶ月後にはおれの漁師さんが死んだ。漁師さんはおれと彼女が誰よりもお世話になっていた人だった。皆いなくなってしまったよ。
 これが運命だなんて、おれは腹をくくることは出来ない。おれはこれから生きざまを時間をかけても見つけなければならないが、出来そうにない。おれは今の自分がある上で、どんな失敗や失態でも過去は全て必要だった。が、この一年だけはいらない。
 彼女と二人で見た日本海に沈む夕日はもう二度と見られない。おれは彼女をしあわせにしてやれなかった。彼女には感謝こそすれ、さよならはまだ言えない。
 おれは彼女を奪い彼女の未来を、そして命まで奪ってしまったと思っている。好き勝手やりたい放題に生きていたおれに、天罰が下ったのだと思っている。
 もう一度会いたい。二度と会えない。彼女がいる。どこにでもいる。消えて行かない、この悲しみが。生きる希望を見出せない。どうすりゃいいんだ。

2023年2月15日

酒田から

第7回

ジジィの恋

いつまで経っても奈落の底から這い上がることが出来ない。まるで生けるしかばねだ。
 友人達からの慰めや励ましは、かえっておれを苦しめた。「外へ出ろ」「無心で何かに打ち込め」「漁の手伝いに行け」などなど。どれもよく分かる。でもそれが出来ない。時間という薬も音楽という薬も何も効かなかった。
 落ち着きたい。安心したいからか子どもの頃に夢中になった音楽ばかり聴いている。ビートルズを始め、「サウンド・オブ・サイレンス」「青い影」などなど。高校の時に友人から言われた。「お前にはポリシーがない」と。おれは何でも好きだから、これだというものがないと思われたのかもしれない。また、中学の学芸会ではおれのクラスは「雪の降る町を」を歌った。彼女がピアノの伴奏でおれが指揮者だった。家で一緒に練習したりした。懐かしい思い出だ。
 おれは彼女を本当に愛していたのだろうか。好きな所だけ都合よく愛していただけだったのではないか。彼女はおれが聴かないクラシックが好きだった。おれが最も好きなビートルズをいくら聴かせても染まることはなかった。性格も価値観も全く違っていた。
 それでも一緒になった以上は上手くやって行こうと、折れる所は折れた。折れたことの方が多かったように思う。それは彼女も同じだったに違いない。この10年でおれが全身全霊を傾けたのは最期の半年間だけだったのではなかったか。
 初めの頃、東京からおれの友人達が来るといつも姿をくらますのだった。紹介したくてしょうがないというのに。聞けば、「典さんはお母さんのことで酒田に戻ったというのに、他の女の人と一緒だなんて見せられなかった」と。
 おれは女房とは離婚した。不倫だのやっている場合ではないとケジメをつけたつもりだった。勝手なことを言うが、女房は看護部長にまでなっていたし一人でも大丈夫だと思った。酒田に戻る時は子どもらが送別会をやってくれた。これは女房の計らいだったのだろう。女房には彼女の入院中に聞きたいことが山ほどあり、何度かケータイのダイヤルを押しかけたが、何とか思い止まった。虫が良すぎるとはこのことだ。
 彼女との事の始まりは、母親のことで酒田に頻繁に帰省していた時に何十年振りかで再会したことによる。おれは中学の同級生と会い、その人が「初恋相手が来ているから」と彼女と会わせてくれたのだった。
 もうあの頃の淡い初恋をしていた時の二人ではない。人として最低なこと、大バカなことをやろうとしていたのは重々承知していた。大人として分別に欠ける、世間の常識から外れた自分の行動は痛い程よく分かっていた。
 恋は盲目というが、おれには理性も判断力もあった。暗い闇に引きずり込まれるとは微塵も思わなかった。何もいらない。彼女をおれのものにする。そして彼女と新しく始める。それには今ある彼女のしあわせをもぎ取るしかない。もう逃がさない。心が震えた。が、夢は広がった。ロマンな時だった。
 人の気持ちとはそういうものではないのか。どうしようもないことだってある。どうにもならないことだってある。おれは純粋で真剣だった。もう後戻りは出来なかった。こうするしかなかったのだ。
 おれはこうして御託を並べている。自分を肯定ばかりして言い訳だと思われるかもしれない。しかし、不倫や離婚に理由もへったくれもないだろう。真実が目の前にある。目に見えているではないか。おれは生まじめな先人たちの教えの中で生きてきた。ちっぽけな人間でもいいよ。
 結局は何もかも失敗だった。命は風前の灯の如しであった。前にも言ったが罰が当たったのだ。当たって当然だ。
 外に出ることが出来ない。今でもそうだ。食料を買いに近所のスーパーに行くのと、漁は止めたが港に海を眺めに行くだけだ。どこに行っても彼女と一緒だった所ばかりだ。耐えられない。おれを狂わす。酒田の町は全てが彼女だ。
 彼女の精霊が「私の分までしあわせに生きてね」と、遠い空の上から言っているからと何人かに言われた。そんなの嘘だ。ありっこない。だって、おれには聞こえない。
 もう亡くなって1年が過ぎた。どうか許してほしい。この罰による報いは果たした。十分すぎる程制裁は受けたのだと思う。勘弁してくれないか、頼むから。
 「もしもし」。今から帰る。すごいの貰ったよ。風呂沸かしておいてくれ。「おかえりなさい」。わっ、秋鮭。初物だね。焼いてお母さんに持って行けば。喜ぶわよ。「そうだな」。まず風呂だ。風呂入いる。ひぇ~。水だよ。
 なぁんだ。夢か。
 もしおれと同じような経験をした人が立ち直れるとしたら、そいつは異常だとしか思えない。
 彼女の病は他のガンとは違い、やり残したことだの、友人と会うだの、何一つ出来なかった。助けてやれるのはおれしかいないと狂ったようにやったが、結局何も出来ないのと同じだった。
 どうすればいいのかなど、答は誰にも出せない。いい年をして、人に頼ったりすがったりしたところでどうにもならない。
 自分で乗り越えていくしかないのだ。分かってるよ、そんなこと。

2023年3月01日

酒田から

第8回

漁師さんとの思い出

 おれの漁師さんには本当にお世話になった。
 手伝いをするようになりおれの人生は変わった。一緒にやって来た10年間、それこそ楽しくてかけがえのないものとなった。それにしても、あまりにも早い別れだった。
 漁師さんは昨年の初めに奥さんを亡くした。すると癌を患ってしまった。手術した。今年になり転移してまた手術。「余命5年」と宣告されていて、ご子息に漁は止めてと言われたそうだ。が、「死ぬまで遊ばせてくれ。好きなようにやる」と断ったと言う。遊ぶとは漁のことだ。
 本人はやる気だった。夏頃まではいつも番屋に来て秋鮭漁などの準備をやっていたのだ。周りの漁師さん達は無理するなと心配していたが、手術の度に復活するものだから不死身だなどと驚かれていた。
 漁師さんは暫く乗っていなかった船の試運転だと沖に出た。すると、あろうことか他の船にぶつけられてしまった。気を失い、頭蓋骨骨折だった。船は大破した。
 それでも少し回復すると「斎藤さん、死ぬまでやるから頼んだぞ」と言うのだった。9月に脳に血の塊が見つかり入院。帰らぬ人となってしまった。81才、凄絶な最期だった。
 葬儀でご親戚の人が言っていた。「パパ(皆そう呼んでいた)ほど人に尽くした人はいない。獲れた魚は儲け度外視で皆に配っていた」と。全くその通りだった。
 様々なことが蘇る。暴風の日に二人して、誰もいない港で前日に網から外し切れなかった小イワシや木の枝などのゴミを外したこと。手はかじかみ、鼻水を垂らしていた記憶があるから、あれは12月だったか。
 今となっては、こうした思い出を綴ることが少しでも供養になればと思う。
 「ドクがいるから気をつけろ」と漁師さんは必ず言う。このドクとは、20数センチ位の大きさで怪獣のような顔をした奇妙な魚だ。正式名称は「オニオコゼ」という。背ビレに猛毒があり、ちょっとでも触れると手がグローブのように腫れ上がる。痛みは肩まで達するという。すぐに病院だ。こうしたグロテスクな魚ほど旨いと言うが、こいつは本当に旨い。料亭では高級料理として出され、超高級魚なのだそうだ。2~3匹しか獲れないのでいつも貰ってくる。白身でクセがなく、上品で究極の味わいだ。
 サワラはよく獲れる。これは刺身だ。でも皮が柔かいので上手くさばけない。皮が身にくっついてしまう。そこでガスレンジで軽く焼く。サワラの炙り刺身だ。旨くて後を引く。
 ワタリガニは抜群に旨い。タラバやズワイガニのように脚を食べるのではなく、甲羅を開けて身を食べる。カニ特有の味が何とも言えない。濃厚で甘くて涙が出そうになる。網から外すのが厄介で、何度ハサミや脚を折ったことか。これでは売り物にならない。反省を態度で示せと言うなら、横断歩道や橋はカニ歩きでワタリ切る。しませんけど。
 小さいタイの刺身は面倒だ。焼くか煮るかだ。カニクリームコロッケがある。同じ魚介で魚コロッケがあってもいい。まずは焼いて身をほぐす。じゃが芋を茹で、あとはコロッケを作る手順と同じだ。なんだか刺身より面倒なことをやっていると気付くが、もう遅い。出来立てのアツアツ、ホクホクとして素朴な味がする。これだとお店で買う必要がない。魚コロッケ!?そんなの売ってないってか。
 なんと、マグロを貰った。海の王者だ。黒光りしている。この勇姿はコロコロ、パンパン、ガツンと固い。80センチの小さいやつだが、おれにしてみれば十分デカイ。10キロはある。家の秤では計れない。早速柵にした。手と包丁は脂でギトギトになる。なかなか上手くさばけない。これだとヘタクソすぎてお裾分けは出来ない。旨すぎる。お店より断然旨い。脂がこってり、なのにさっぱりしている。もう何がなんだか分からない。ワイルドだぜ。この小さなやつが何年か後には2~300キロの巨体となる。壮大な海のドラマだ。
 カレーライスが無性に食べたくなる時がある。家はいつもシーフードカレーだ。岩ガキやサザエ、イカなどで、肉のカレーは長いこと食べていない。あぁ、肉食いてぇ。でもゼイタクは出来ない。これでいいのだ。バカボンのパパと同じで。
 巨大カジカを貰った。酒田のお店には置かれていない。が、北海道では冬の味覚の代表的な魚だ。これもグロテスクでオニオコゼと似ている。シンクの上でもっそりと動く。これがまた旨いのだ。北海道では「鍋こわし」と呼ばれている。あまりの旨さで、箸で鍋底を突いて壊すからだという。ゴーカイに食べる。日本酒をクピクピ、メチャクチャに旨い。北海道に旅した気分になっている。
 おれの漁師さんはシケで漁が出来ない日が続くと、「奥さんと食え」と底引き網の船長から貰ったからとワラサ(ブリ)などをわざわざ持って来てくれた。
 魚のさばき方、調理法、包丁の研ぎ方まで何でも丁寧に教えてくれた。
 船は壊れたままブルーシートを掛けられて港にまだ置いてある。家の前を通るとひょっこり出て来そうな気がしてしょうがない。あんなに元気だったのに。
 思い出は尽きない。毎日が楽しくて楽しくて、感謝でいっぱいになる。いくら感謝してもしきれない。
 長い間最高の人生を、本当にありがとうございました。

2023年3月22日

酒田から

第9回

回想

 港には毎日のように行く。
 家から歩いて数分もかからない。なだらかな坂を下りるとすぐそこだ。散歩の2~3人と擦れ違うくらいで、普段は人がいない。休日の晴れた日だけは海のない内陸の人達の釣りで賑わう。家族連れで小アジなどを釣って楽しんでいるのだ。
 誰もいないベンチに腰を下ろす。ただ海を眺めるだけだ。目の前を漁を終えた漁船が通り過ぎて行く。手伝いをしなくなってもう1年以上になる。
 なんでこんなことになるんだ。彼女のことが忘れられない。この思いがいつまで経っても消えていかない。彼女は花が好きで、道端の名もない花も好きだった。ススキが風に揺れている。さみしそうだ。おれは傍若無人なんだ。こんな所で季節を感じてどうするんだ。しおらしくして何になるんだと思う。秋なんてすぐに終わる。鈍色に荒れた、真っ白に凍てつく冬が来るんだ。
 「ここで泣いたらいい」と海が囁いているようだ。「悲しみは風に吹かれればいい」と潮風が言っている。おれは泣かない。涙はとうに枯れたよ。こらえられるようになった。
 人は誰もがそうであるように、すねたおれにも恋はある。波に向かって叫んでも彼女は二度と帰って来ない。おれの気持ちを分かってくれる人はもういない。
 おれよりもっと辛くて悲しい思いでいる人は大勢いるだろう。が、そんなことは何の慰めにもならない。人は今だ。自分の目の前にあることが絶対なのだ。問題の大小などではない。相対化は出来ないと思う。
 おれには昔のような体力はもうない。すぐに息切れしてしまう。それなのに港の長い一本道を駆け出す。誰も見ていない。あと何年生きるのか。そんなシケたことは考えない。
 そういえば、魚が獲れなくなったと漁師さんが言っていた。魚はどこに行ってしまったのか。本当に、いったいどこに。
 海は限りなく広い。道路のように通行止めなどはない。いろんな魚が生息している。弱肉強食の世界だ。仁義も節操もない。離合集散を繰り返している。魚も生きるのに必死だ。
 陸に近づけば刺し網で獲られる。沖へ逃げれば底引き網で一網打尽となる。いったいどこへ行けばいいのか。魚に安息はない。自由への長い旅は続く。終わりはない。そう思うと応援したくなる。がんばれよ。
 鮮魚店に行った時のことだ。「このイクラを東京に送りたいんだけど」とお客さんが言っていた。でも消費期限が今日までだ。「大丈夫です。今貼り替えますから」。一瞬耳を疑った。店員が平気でのたまっているのだ。結局そのお客さんは買わなかったが、酒田を汚(けが)してほしくない。でもこれが酒田だ。
 じゃが芋の種芋を個人商店に買いに行った。お店のおばあさんが「お父さぁん、ここにあった種芋どうしたぁ」。すると奥にいたお父さんが「昨日食べたじゃないか」。これが酒田だ。
 病院の帰りにタクシーに乗った。いつもの運ちゃんだった。「今日は清水屋デパートまで」とおれ。聞きたくもないコロナの話をまくし立てている。着いたのは家だった。これが酒田だ。
 若い頃ならどれも一言物申しただろう。今では失笑で済ます。うなだれながらスルーする。関わりたくないのだ。
 もうおれは張り詰めていた糸が完全に切れていた。皆いなくなってしまった。ここにいる意味がない。ふるさとはもういい。かといって行く所がない。いつまでもうじうじと塞ぎ込んでいる場合ではない。しかし、ダメなものはダメなのだ。
 何かに打ち込んでいる時はいい。無心になれるから。何もないと、悔しくて悲しくて心が張り裂けそうになる。もう何もかも全て失くなってしまえばいいと思う。眠れない夜。このまま一日中暗闇のままでいい。世界が終わってしまえばいい。このやるせない思いは冬が来る前に何とかしなければならない。
 お前がいる遠い遠い青い空の上から何か見えるのか。教えてくれ。何か言ってくれ。お前に賭けたおれの情熱、注いだあの愛情は何だったのか。お前が死んで初めて分かったよ。おれは弱い男だったのだ。
 世の中に人がいらなくなるのか。先日酒田港から自動操縦の無人船が出港していた。海の調査だとニュースで言っていた。遠い未来には漁師さんがいらなくなると思った。家の中でゴロンと寝転んでリモコン一つで出港させる。で、海に網を下ろして上げてと。そんな時代がやって来るのか。
 お前の苦しみや激痛は誰にも分からない。お前ほどかわいそうなやつはいない。お前のことが忘れられないのは当たり前だ。愛するとはそういうことだ。聞こえるのか。
 もう二度と会えない。おれが行く所は地獄だろう。お前が待っている天国ではない。でもおれは、何としてでも踏み出す一歩を見せてやる。感謝している。ありがとう。

斎藤典雄:プロフィール

山形県酒田市生まれ。高校卒業後上京。75年国鉄入社。新宿駅勤務。主に車掌として中央線を完全制覇。母親認知症患いJR退職。酒田へ戻る。いつくたばってもおかしくないジジィだが、漁師の手伝いをしながら現在に至る。
著書
『車掌だけが知っているJRの秘密』(1999、アストラ)
『車掌に裁かれるJR::事故続発の原因と背景を現役車掌がえぐる』(2006、アストラ)
など

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