REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

介助・介護の時間
  瀬山紀子

2020年10月7日

介助・介護の時間

第1回

ささやかな「介助者学」のこころみを思い起こしながら

 2013年に「介助者学」という言葉を銘打つ本(『障害者介助の現場から考える生活と労働 ささやかな「介助者学」のこころみ』明石書店、2013)の出版に編著者の一人として関わった。そのとき、本のはじめに編者一同の言葉としてこんな言葉を記した。

「ケアの社会化や自立の支援ということは、ケアというこれまで家族内で女性が役割としてきた営みが社会に拡散していくことであり、介助・介護・ケア・支援の経験はこれからまた新たに蓄積されていくであろう。「自立」の内容もこれから更新されていくであろう。(中略)今この時代のなかで、わたしたちも介助・介護・ケア・支援に従事し、ケアの社会化を担う者として、みずからの生き方や介助・介護・ケア・支援へのかかわりを振り返りながら、また時代や社会の状況も見ながら、自分たちの経験を語りだしてみたい。/確かに、介助者、介護者がみずからの経験を言葉にすることにはさまざまな困難がつきまとう。まず自分たちのことを語るよりも、優先すべきことがらが目の前にあるからかもしれない。あるいは、自分たちが安易には語れない事態を目の前にしているからかもしれない。また、みずからの当事者性をもちにくい立場に置かれているからかもしれない。それでも、そうした課題も含めて、何らかの言葉・かたちにしていってみたいと思う。/わたしたちの経験は、まだ十分に社会化されていない。(杉田・瀬山・渡邉[2013:8-9])」

 いま、あらためてこの言葉を読み返し、ケアの経験は、家族内で主に女性が役割として担っていた時には、それが当然のこととされ、対象化されたり、言語化されたりは必ずしもしてこなかった、ただ、そこにはたくさんのケアの経験が積み重なってきたということをまずは感じる。ケアは、それが社会に拡散されていくことで、その経験を説明する言葉が必要とされるようになる。それは、ケアをする側が、自分の中に生じる思い、特に戸惑いや居心地の悪さのようなものへの対し方を考えるプロセスだとも言えるのだと思う。家族内で主に女性が役割としてそれを担っていた時には、そこにある思いや戸惑いのようなものは、ある意味では封じ込められていたと言えるのかも知れない。そうした思いをいったん取り出して、考えてみるという作業が、ケアの社会化という流れの中で行われるようになったのだとも感じる。
 この間、介助・介護に関する経験の言語化は、少しずつ蓄積されてきた。ただ、まだまだ、言葉にされ、かたちにできるとよいと思う。同時に、介助・介護をめぐる状況はさらに切迫し、介助・介護について語ることよりも、優先すべきことがら、そもそも必要な、生きるための、介助や介護を、必要なだけ受けることができる制度や、仕事としての介助や介護を安定的に安心して続けられる制度が、今すぐにも必要だという状況が、より緊急性をもった課題になっている。
 ただ、そうした中で、介助・介護の制度的充実が必要だということを伝えていくためにも、介助・介護についての経験を言葉にしていくことは、大切なことだと感じる。これまで、私自身も介助に関わる経験を言語化する作業を行ってきたi。それでも、まだ、介助・介護の経験を言語化し、社会化していく作業は道半ばだと感じる。
 いま、わたしたちは、「人と人との密接な関係」を作ることが難しくなってしまった新たな社会状況の中を生きている。そうした中で、身体接触をともなう人との関わりが基礎となる介助・介護の経験を、必要なものとして、どう位置づけていけるのか。それを考えていくためにも、これまでの自分自身の介助・介護の経験を振り返り、言葉にしていく作業を続けていければと思う。
 介助・介護の経験は、自分とは異なる時間を生きる他者と関わり、異なる時間を生きる中で見える別な世界を、一緒に歩かせてもらう経験だ。自分のなかには、介助を通して経験してきたそうした新しい経験が、これまでに蓄積されてきたと感じる。
 ここでは、そんな経験について、少しずつ、振り返る作業をしていきたいと思う。

引用文献
杉田俊介・瀬山紀子・渡邉琢2013『障害者介助の現場から考える生活と労働 ささやかな「介助者学」のこころみ』明石書店

関連記事
瀬山紀子「介助者という関わり」(READエッセイ)
 http://www.rease.e.u-tokyo.ac.jp/read/jp/archive/essay/ss03.html#080601

  1. 瀬山が書いてきた介助にまつわる文章に次のものがある。「<生きる>を支える仕事 : 非正規労働の現場から 」(『月刊社会教育』 63(3)、国土社、2019、pp19-25)、「障害のある女性たちとの関わりから」(『現代思想』45(8)、青土社、2017、pp166-170)、「介助とジェンダー」(『障害者介助の現場から考える生活と労働』明石書店、2013、pp123-149)、「介助者から見た「障害」と「生理」」(『生理 性差を考える』ロゴス社、1999、pp89-99)

2020年12月2日

介助・介護の時間

第2回

はじまりの頃の話

 介助・介護の時間。今回は、その手始めに、私自身が、その後、介助・介護に関わることになる、はじまりの頃の経験について書いてみたい。
 90年代半ば、私が大学生だった時の春休みに、ボランティアとして関わった旅行の経験。幸い、「フィールドノート」と称したメモと、そのときの経験についても一部触れた大学の卒業論文iが残っており、読むと当時の記憶をある程度クリアに思い起こすことができる。
 私は、大学のゼミの先生だった春日キスヨさんの紹介でその旅行を知り、卒業論文を書くための一環ということで、フィールドワークを兼ねてそこに参加させてもらった。
 旅行は、広島県の熊野町という、人口2万5千人ほどの町の、在宅の要介護高齢者と障害のある人と、その介助者、ボランティアなどの支援者、総勢180人ほどが参加する一大旅行だった。旅の目的は、記録によると、「町の高齢者及び障害者が一同に会し、家族やボランティア等とともに旅行をすることにより、外出の機会を図るとともに、相互の交流を図り、地域社会の中に高齢者や障害者の存在を明確に位置づけていくことを通じ、社会参加と福祉の促進を図ることを目的とする」とある。町では、日ごろから、リハビリ友の会というグループが作られ、在宅の要介護高齢者と障害者が共に日中活動を重ねていた。
 当時、この町の福祉保健課に所属する理学療法士として働き、この活動を支えていた一人が、70年代の関西での「青い芝運動」iiに介助者として関わった古井透さんだった。透さんは、元関西青い芝の活動の中心メンバーだった古井(鎌谷)正代さんと、3人の子どもと、この町で暮らしており、私は、旅行前後にその家に寝泊まりをさせてもらっていた。私は、そこではじめて、関西での青い芝運動について聞かせてもらう機会を得、それが、その後、自分が障害者自立生活運動史の編纂に関わったり、地域で自立生活をしている障害がある人たちの活動や、介助に関わったりするきっかけになった。
 旅行は1泊2日のバスの旅で、行き先は四国の琴平町の温泉旅館。二日目には、金刀比羅宮に行くという目的があった。人数は大勢なので、グループに分かれ、何台ものバスを連ねて行く、大がかりなものだった。家族で参加されている人もいたが、あえて、家族ではない人同士が一緒になるようなグループ編成をしていたのも記憶に残っている。
 私が介助にあたったグループは、高齢者とボランティアあわせて10名ほどのグループで、参加者同士はそれほど見知った間柄ではなく、その旅行ではじめて顔を合わせたという人もいた。
 1日目の温泉旅館の大宴会場で、一同が席についたときに、私のグループにいた高齢女性が、「ここにいる人は、みな、熊野町の人かね。おどろいたね。すごいたくさんいるんじゃね」と、驚きの声を上げていたのが印象的だったとノートにある。同じ町のなかに、たくさんの高齢者や障害のある人、ストレッチャーや車いすを利用して暮らしている人がいる、ということが、その存在を目の当たりにして実感された瞬間だった。「地域社会の中に高齢者や障害者の存在を明確に位置づける」という旅の趣旨は、旅行参加者にも一定の意味をもっていたのだと感じたのを覚えている。
 そして2日目。金毘羅参り。「こんぴらさん」というのは、山のなかにある神社で、長い石段で有名なことでも知られている。ただ、旅行を計画した人が、どこまでそれを把握していたのかは不明と当時のメモにも書かれている。記録には、当日は特別に許可されてバスで中腹まで登り、そこからはバスを降りたが、どう見ても階段が急で、その場でお参りをして帰るほかないかのように見えた、とある。
 しかし、車いすとストレッチャーの人が、ボランティアの人たちと共に階段を上った。
 いまでも、あの急な階段を、車いすを支えて上ったときの、どきどきした気持ちがよみがえってくる。全ての人が、奥の神社まで行ったというわけではなかったのだろう。ただ、長い階段を、何人もの車いすの人と共に上った記憶が、確かに、自分の中に残っている。たくさんの高齢者と障害のある人が、たくさんのボランティアと共に、あの、「こんぴらさん」をお参りした。それは、なかなかに圧巻の出来事だった。
 旅行から帰ってきてから、なぜ、介助者の手を借りなければならない車いすの人が旅行などするのか、まして、階段で有名な神社のお参りなど、なぜするのかと、当時、周囲の人から聞かれ、自分自身でも、自問自答をしたように思う。車いすの人の旅行は、マスコミなどでも取り上げられ、すごいと言われる。そうしたことへの違和感がある。そんな声も聞いた。
 その答えは、その後も、自分のなかで、必ずしも明確に出ているとは言えないようには思う。ただ、あのときの旅行で味わったなんとも愉快な気持ちは、今も私のなかに確かな気持ちとしてあるなと感じる。はじめて出会った、どこの誰ともわからない一ボランティアの自分も含め、その旅行に参加した人たちが、それぞれに、関係を築き、一つの時間を共にしたということ。そして車いすで金毘羅参りのための階段を上るという、考えれば危険が伴うことを、それでもやった、やってみた、やってしまった、ということ。そこにあった高揚感のようなもの。それは忘れられない出来事の一つとして自分の中に記憶されている。
 私は、そこでもった感覚やそのときの問いを、今も、折に触れて思い出しながら、介助を続けている。

  1. 卒業論文は、『京都精華大学人文学部 卒業論文記録集 No.5』(1997 年 3 月発行)に、収められている。タイトルは、「自立障害者女性の生活世界と介助者」。
  2. 1972 年に行われた映画「さよなら CP」上映運動をきっかけに、その後、関西の各地で活動した脳性麻痺の人たちを中心とした運動。運動の流れについては次のサイトに詳しい。http://www.arsvi.com/o/a01-27.htm

2021年2月10日

介助・介護の時間

第3回

介助者のいる空間

 介助・介護というと、まず、介助を受ける人と介助をする人の二者関係が思い浮かぶのではないかと思う。食事介助やお風呂介助で、介助を必要とする人を、直接的にサポートする行為。介助・介護の基盤には、介助を受ける人と介助をする人の二者関係がある。
 ただ、同時に、介助を入れた人の暮らしに、介助者として関わるときには、当然のことながら、そこには介助を入れた人が介助を入れた状態で関わる、介助者以外の人や、社会との関わりがある。介助という行為は、介助を必要としている人が、介助を受けながら、介助者以外の他の人と関わっていくことを含めた「生活」を支えるためにあるものだ。介助者は、介助をいれて生活している人が、人や社会と関わることを側面的にサポートしている。
 そんなわけで、今回は、私自身が介助者として立ち会ってきた、「介助者を入れた人と介助者以外の人との関係」をテーマに、これまでの経験を振り返ってみたい。中でも、今回取り上げたいのは、介助者として関わった、介助をいれた人と、その家族や親族との関わりに居合わせるという場面だ。
 過去の介助の経験を思い起こすと、そこには、親と暮らしていた人のもとに介助者として関わるという場面もあったし、夫婦の一方、または双方に障害がある人のもとに、介助者として関わるということもあった。また、子どもと暮らす障害のある人のもとに、介助者として居合わせることもあった。親族ということでは、一人暮らしをしている障害のある人が、お正月に、介助者を連れて、親戚を訪ねる場面に介助者として居合わせたという場面、また、親族を訪ねる旅行に、介助者として付き添ったということもあった。
 介助者である自分は、その時々、介助を必要としている人の介助者という立ち位置にある自分を意識しながら、介助を必要としている人と家族との“関係”や、親戚との“関係”を、側面的にサポートしてきたという思いでいる。
 この“関係”のなかには、日常的な会話のある生活場面も含まれるし、一定の距離を取りたい関係や、時には、喧嘩や言い争いの関係ということも含まれる。介助者がいることで、介助を必要としている人が、家族や親戚と、介助をする/される関係ではないからこそつくれる、一定の、対等な、関係を作ることができる。それをサポートするのが介助者という存在だと、そうした場面を経験するなかで感じてきた。
 24時間介助を必要とする人の介助を、家族が全面的にやっていたらどうだろう。そこでは、やはり、対等な関係はつくり難いだろうと思う。そこでは、安心して喧嘩をすることも難しいだろう。介助をする側は、家族だからという理由で、介助を担い続ける努力を強いられ、自分の体調や気持ちを抑え込むことになるのではないか。そしてこうした気持ちが抑え込めなくなれば、介助放棄も含む虐待なども生じかねない。そこに追い込まれるのは、母親や妻などの女性親族である場合も多い。
 介助を受ける側にとっても、家族による介助は、慣れや安心もあるとは思われるが、それ以外の選択肢がなければ、自由がなく、気持ちの抑え込みや行動抑制にもつながることが想像できる。そして家族が介助を担えなくなれば、施設に行くという、それ以外の選択肢がないように見えることも、家族による介助の苦しさをもたらしているように思える。
 介助者という存在は、そうした家族による介助や、施設での生活とは異なる暮らしを望んだ障害のある人たちの要求によって、勝ち取られてきたポジションだ。家族のなかに介助者がいるという場面は、そうした選択肢と、そうした暮らしを望む、介助を必要とする人たちの運動によって実現し、積み上げられてきた。介助者である自分は、こうした人たちのこれまでの活動によって、その場面に居合わせる機会を得ている。
 ただ、それは、まだ、まだ、時にぎこちなく、不思議な感覚をもたらすものだとも感じる。
 家族という関係のなかに、介助者として、一人の人がいる。そこには、独特な空間が生じている。例えば、そこで、親子の言い争いが行われている場面。そこに障害のある親の介助者として自分が存在しているというようなことを想像してみてほしい。その時の自分の立ち位置、どこに視線を落とすかというようなこと。親子の関係の成り行きを見守りながら、介助者として、ひとまず、その場に居合わせるという経験。言い争いの最中、鼻の頭がかゆくなったので、かいてほしいと言われて、はい、といって鼻の頭をかく自分。暑くなってきてしまったので、セーターを脱がしてほしいと言われて、はい、といってセーターを脱がす自分。そこに自分がいたことで、親子がぶつかっている場面に立ち会っているという不思議な感覚。実際、介助者というポジションで、何度か、こうした場面に立ち会ってきた。そこに介助者がいて、つくられていた関係。
 介助を必要とする人が親の立場の人だったこともあれば、介助を必要とする人と、その人の親、または夫との間に、自分が介助者として居合わせたということもあった。
 介助をいれて生活をしている人が、介助者をいれた状態で家族と関わるという場面は、それまでは家族構成員のなかで担われてきた介助・介護が、社会化することによって生じた新たな関係だと言える。そして、そうした新たな関係のなかで、介助者と、介助を入れている人と、介助をいれている人の家族は、それぞれが、それぞれとの関係性をどう作るかを考えながら、まだ、まだ、そしてその時々の、試行錯誤を続けている。

2021年3月31日

介助・介護の時間

第4回

待つことについて

 介助・介護の経験のなかで、待つ時間、待機する時間は、大きなウェイトを占める経験だ。特に、私が行っている「重度訪問介護」という、一人の人の介助に長時間関わるスタイルの介助では、介助時間がスタートして、介助時間が終るまでの間、ずっと何かしら動いているというよりは、見守りも含めじっとしている時間が、介助の一部に必ずあるといってよい。
 介助を入れて一人暮らしをしている人が、介助者を入れている間、夜間はもちろん、昼間でも、寝ることもあるし、ぼーっとしていることもある。また、介助を入れて生活している人が、介助を入れている時間に、介助者以外の人と話をしたり、食事をしたり、何らかの関係をつくっているということはあり、その間、介助者は、少し離れた場所で、または、すぐ脇に座って、待機している場合もある。
 ある時は、クロスワードパズルを眺めながら、介助に入っている方が答えを出すのを、鉛筆を持って待つのが介助だった。時に、考えている相手と目が合って、わかっていても、答えないでください、と言われたり、わかっていたら、教えてくださいと言われたりしながら、基本、じっと、相手が答えをいうのを待つ時間。パズルに目を落として、相手の指示で、鉛筆を動かし、消しゴムを動かす。
 ある時は、テレビのバラエティ番組を見ている方のそばで、一緒にテレビをみたり、または、何かあったら声をかけてくださいといって、近くで別のことをしていたり。介助者に用意された待機部屋で、呼び出しのベルがなるのを待ちながら、自分の時間を過ごしていることもあった。
 また、外出の介助でも、待機時間はつきものだ。一緒に電車に乗る、買い物をする、食事をする、講演会を聞きに行く、はたまた、仕事をする、仕事場での介助をするなど、自分自身の経験を思い出しても、当然のことではあるが、介助の幅は、人の暮らしの幅と同じく、広く、とても多様だ。そしてその時々、介助者は、介助を必要としている人が、介助者以外の人/社会と関わるのを側面的にサポートするため、介助を必要としている人の脇で、必要な動作を行いつつ、介助を必要としている人の指示を待ち、基本、じっとしている。
 最近は変わってきた面もあると思うが、電車に乗る際や買い物をする際、駅員やお店の人が、障害のある当事者ではなく、介助者の側に質問を投げかけてくることをこれまでに何度も経験した。そうした際には、主体は、障害のある当事者だということをわかってもらうため、介助者である自分は、そうした声かけに対して、小さく、「ご本人に聞いてみて下さい」と言って、あとは待機の姿勢を取るようにしたりしてきた。また、そのことに気が付いてもらおうと、駅員や店員の方とは目を合わさず、障害のある当事者の顔を見て、駅員や店員の方に本人とのやりとりをしてもらうことを促そうとすることもやってきた。
それでも、なかなか、うまくいかない時があったり、時間がないと思ってしまう時などは、思わず、あれこれ口を出してしまった経験もあったことを思い出す。そして、障害当事者から、「口は出さないでください」「待っていてください」と、制止された経験も思い出される。待てない自分に気がつき、待つことに注力しようと、自分を振り返ることがしばしばあった。
 また、待つ介助、といえば、お散歩に付き添う介助でも、待つ経験を重ねた。
一時、それなりの頻度で入っていた「知的障害」の人に付き添うお散歩の介助。介助先のその方は、特に、小雨の日に、傘をさして、近くの橋に行き、橋から川をのぞき込むことを好んでいた。かなり長時間。じっと。橋の中央に立ったり、右端に立ったり、左端に立ったりしながら、ともかく、じっと、川を眺めていた。時に、傘の下で、鼻歌を歌いながら。また時には、ただただ真剣に川面を見つめるような感じで。その間、私は、その方の近くで傘を差しながら、待機していた。だいぶ長い時間。小雨の中、橋の上で、長時間にわたって、彼女が帰るという意思を示すまで、じっと待っていた。そんな雨の日のお散歩介助を、だいぶ、何度も経験したことを思い出す。
 人の日常生活は基本、単調で、介助者を入れて自立生活をしている人は、そうしたある意味では単調な日常を、介助者を入れながら、過ごしていくことになる。介助者は、そこで、単調な日常を構成するものの一部として、介助を入れて生活をする人に関わることになる。特に一人暮らしの人の日常に関わる場合は、人にもよるところはあるが、基本、暮らしは単調だと言える。そして、そこに淡々と関わるのが介助だと言える。そして、そこでは、声掛けを待ちながら、特に何もせずに、傍にいることが、大切な介助の一部となっている。
 介助を入れて生活をしている人から、以前、介助者を入れているのだから、何かしないといけないのではないか、特に何もしないのであれば、介助は必要ないと言われ、場合によっては、介助を受けられる時間数を減らされてしまうのではないかと、そんな気持ちを聞いたことがあった。また、介助を入れた自立生活をはじめるまでは、自立生活が、こんなに単調なものだとは思っていなかったという話も聞いたことがあった。そうした声を聞いたとき、そんな不安を抱えさせられていたり、自立生活というものに、大きな期待やイメージを抱かされていたりするということに気が付いた。
 ある意味では単調な、日常生活。とはいえ、介助者を伴う、それだけでも、単調とは言い切れない、日常生活。それを淡々と送っていくことがあたり前に保障されていくことが必要だと、介助をしながら、考えてきた。介助をつけながら生活しているそれぞれの人の、その一部になりながら。

2021年6月9日

介助・介護の時間

第5回

ついてゆく、という感覚

 ある介助先でのこと。
 その日、介助先の方は、外出の準備をして、日中の介助者である私が来るのを待っていた。介助先につくと、では、これから外出しますのでついてきてください、ということになった。電動車いすをつかっている人の外出介助は、基本、移動中は付き添いで、特に何か問題がおきたりしない限りは、介助者が何かをする必要はない。ただ、電動車いすの脇か、後ろをついてゆく。それが移動中の介助の基本になる。
 そして、その日は、外出するという目的以外、目的地がどこで、何をしにいくのかも、聞かないまま、ひたすら、電動車いすの後ろを、ついていくことになった。
 この“旅”の目的はどこなのだろうか、と、少し、考えながら、でも、特に聞き出さなくてもよいのかなと思ったりしながら、ともかく電動車いすについていった。
 いま思えば、介助先の方が、外出の目的を言わなかったのは、特に理由があったわけではないのだろうとも思うし、もしかすると、目的を言っていないことに、気が付いていなかったのかも知れないとも思い返す。いや、でも、やはり、あの毅然とした態度は、自分一人で外出するのに、いちいち、目的を告げなくてもいいだろうという、彼女の強い意志の表れだったのだとも受け取れる。はたまた、むしゃくしゃしていて、人と話したくない気分のなか、目的に向かって、ひたすら、電動を走らせていたのかも知れないとも思う。
 そして、行き先は、池袋のサンシャインシティの地下街だった。
 サンシャインシティの入り口で、ああ、ここが今日の行き先だったのかと思い、走る電動車いすについて、エレベーターに乗り地下に降りた。そうか、買い物に来たのか、と思う。
 もちろん、介助先で、予定を聞いて、その後行動に移る、というのもあってよいと思う。そのほうが、介助者として、安心だし、先のことが見通せる分、介助しやすい、ともいえる。外出などの際には、行動をはじめる前に、一日のスケジュールの確認をして、介助がはじまることももちろんある。ただ、必ず、それがなければならないとも思わない。たぶん、言わないとできないことや、介助者が困りそうなことであれば、介助先の人も、何かを先に告げてくれるだろう、という感覚はある。ひとまず、そのような、言ってみれば、「信頼感」といえるような感覚を、介助をするなかで重ねてきた、と。
 サンシャインでのことの顛末はこんな感じだった。
 サンシャインシティについたその方は、サンシャインシティの地下の商店街を、ぶらぶらすることはなく、まっすぐに目的地に進んでいった。そして、ついた先は、・・・オムライスのお店だった。
 そう、その日、彼女は、このお店のオムライスを食べようと、まっすぐに、家から、そこにやってきたのだった。そして、お目当てのオムライスを注文し、特に、何をいうでもなく、一人で、食べた。
 私は彼女の指示に従って、スプーンで、オムライスを、彼女の口に運んだ。そして、オムライスを食べ終わり、彼女の指示で、紙ナプキンで、彼女の口元を拭いた。
 そうして、ようやく、落ち着いた感じがした。
目的を達成した感のある彼女と、目的がわかって、それを達成して満足そうにしている彼女の脇にいる私の、二人ともが、ほっと一息ついた。
 介助先の人に関わるとき、基本は、その人が誰かと暮らしている人であっても、一人で暮らしている人であっても、介助者は、介助をする相手が、“一人でいること”、“一人であること”をサポートする人だということを忘れずにいようと思ってきた。
 その、一人でいる人、一人である人に、ついていく、という感覚。それが私自身の介助の基本にあるように思う。それは、相手が、いわゆる知的障害とされる人であっても、もちろん変わらない。相手をどこかに導くのではなく、相手が、どこかに行くのに、ついていく、という感覚。手をひく、のではなく、どちらかといえば、手をひかれる存在。基本、できれば、ひっそりと、 “一人でいる”ことをサポートする。
 そのため、介助先の人がどこに行くにも、何を食べるにも、特に、事前に決めて伝えてもらわなければならないとは思わずにきた。時には、直前まで、どこに行くかも、何を食べるかも決めていなかったり、突然、どこかに行きたくなったり、何かを食べたくなったりすることもある。そんな、当たり前な、不確定な日常を、私も生きている。そうした、些細で、不確定な日常を生きる、一人の人に、介助者としてついていく、ということ。
 そして、その人についていくことで、いつもとは違った景色を見せてもらう経験も重ねてきた。
 それは、車いすであれば、道路のでこぼこや、お店の入り口や、カウンターの高さが気になったり、すれ違う人の空気がいつもとは異なることに気がついたりすることでもあった。加えて、単純に、人の後ろについていくことで、同じ町の景色が、いつもとは少し異なってみえてくるということでもあった。
 ただ、時には、それは、単に、 “異なる”というフラットな言い方では足りない、町のなかの、また、町を行き交う人々のなかの、大きな溝や壁に気が付くという経験でもある。自分が、一人で歩いているときには、気にすることなく、行き過ぎていた、町の問題や人々のまなざしのキツさが、介助を通して見えてくることはたびたびあった。
 そして、そんなときは、介助者という立場で立ち会うことで見えてきた問題を、介助者としてではなく、一人の問題を知った一人として、障害がある人と一緒に、訴えることもしてきた。
 介助という経験を重ねながら、自分のなかに、確かに、それまでとは異なる視座や時間感覚が育ってきたことを感じる。

村山美和「障がいあるからだと私」第3回 介助を受ける日々からもらったもの
2021年8月11日

介助・介護の時間

第6回

ゆったり、かつ慎重を期すお風呂

 もう少し強く、はい、もう少し下、右も、はい、それくらいで。もういいです。あとは、石鹸を手につけてください。はい。いいです。ここは自分で洗います。はい。ありがとうございます。じゃあ、流してください。あ、シャワーで。最初、冷たいかもしれないから。気をつけてください。はい。そのくらいでいいです。手にもかけてください。はい。あと、全体にかけてください。はい。いいです。では、湯船にはいります。リフトお願いします。はい。今日は湯船に簡単に浸かってあがります。合図しますので、入ったら、一旦、外で待っていてください。
 入浴介助の一場面。
 てきぱきと、自身の流儀にそって、指示が出されるのに従い、着替えをし、浴室に入り、身体を洗い、リフトを使って湯船につかり、出て、着替えをして、自室に戻る。その後、やはり受けた指示に従い、風呂場の片づけを行う。毎回、ほぼ同じ順序で、その方の流儀にならい、一人暮らしの方の入浴に介助者として関わる。介助者が一人で入るときもあれば、二人で一人の人の介助に当たるときもある。
 思い起こすと、たくさんの、お風呂介助の時間を思い出すことができる。暑い夏の夜のお風呂介助の場面や、寒い冬の日の、日中のお風呂介助の場面。また、旅行に付き添い、温泉で入浴介助をしたことも何度か。
 一時は、毎週、定期的に風呂介助に通っていた。
 行くと、待ってました、では、お願いします、と、早速、風呂介助の準備がはじまる。タオルと着替えを用意し、風呂場に向かう。着替えをしながら、あれこれ、身の回りのことや、身体におきた変化などについて話しをされることもあれば、最小限の指示を出してくれ、こちらも指示に従って、最小限の確認をしながら、服を脱ぎ、浴室に向かうこともあった。あくまでも、一人暮らしの方の、入浴、という、日常生活の一場面に、介助者として関わっているということを意識しながら。
 風呂介助では、浴室内でのやりとりも、人によって、また、時によって、さまざまある。身体をすみずみまで、ゆっくり、丁寧に洗う方。指の間までしっかり洗ってください、耳の後ろはやわらかめにこすってください、ひだひだの中のほうも洗ってください、ちょっと強い、もう少しやわらかくこすって、もう少し強めにしてください、といった、都度都度の指示を出される方。それに従って手を動かす。そんな指示が出されるときもあれば、あまり、たくさんは洗いません、おおざっぱにざっと流してくれるだけでいいです、こんなのでいいの、というくらいの感じでいいです、風呂に入るので、大まかに石鹸をつけて、かるくこすってください、はい、もういいです、という時もある。
 介助者に指示出しをして風呂に入る日常を送っている人たちは、自分の身体のすみずみまでを、そして、自分の身体の扱い方や、自分の好みを、よく知っているな、と思う。もちろん、はじめからそうだったわけではないのだろう。それは、何年もかけて、たくさんの介助者を入れた自立生活をする中で、一人ひとりの方が編み出してきた、流儀なのだと思う。介助者である私は、それぞれの介助先で、それぞれの方の流儀に従いながら、介助を進めていく。
 お風呂では、リフトが使われることも多い。それぞれの人が、脱衣所から浴室へのアプローチや、浴室内での浴槽へのアプローチをスムーズに行うために、リフトを入れている。狭い風呂場の空間でもリフトを使うと小回りが利き、身体の位置や向きを、容易に変えることができる。
 介助先では、基本、リフトの使い方についても、介助先の人が細かく指示を出してくれる。それに従い、介助者はリフトを操作していく。
 リフトは、わきの下などに入れて身体を支えるベルトの先についた留め金を、アームについたフックにつけて吊り下げ、身体を吊り上げるもので、留め金がフックにしっかり掛けられる必要がある。注意を要する場面だ。
 毎回、ベルト、しっかり掛けてくださいね、はい、わかりました、かけました、では、吊り上げます、はい、では動かします、位置はここでいいですか、はい、いいです、そのまま、下に降ろしてください、といったやりとりをしながら、慎重に、といっても、あまり緊張した空気で満たさないように、事を進めていく。
 日常生活の中の、どちらかといえば、リラックスできるはずのお風呂の時間。ただ、多くの場合は、介助者は短パンと濡れてもよいTシャツなどを着て、裸になった介助先の方の介助をするという状況で、かつ、リフトの操作など、そこには、一定の緊張感も必要なのがお風呂の時間だ。そのバランスを取りながら、お風呂介助の時間は過ぎていく。
 お風呂を出て、あー、さっぱりした、というときもあれば、あついー、仰いでーーー、扇風機をいれてください、というときもあれば、すぐ寒くなるから、急いで着替えをお願いしますと言われ、急いで、身体を拭いて、着替えをするときもある。そして、着替えをして、一段落。ほっとする場面。それから、介助者は、風呂場の片づけをはじめる。指示に従い、タオルを洗濯機に入れ、浴室の床や壁を拭いたり、リフトのベルトを干したり、浴室の窓を開けたり、換気扇を回したり、リフトの充電をしたりして一連の風呂の時間が終了する。
 介助を入れながら生活をしている人の、日常の一場面。そこに、介助者として、関わる時間を、重ねている。

2021年10月13日

介助・介護の時間

第7回

ぬぐ・きるの介助

 上から二つ目の引き出しを開けて、黄色の長袖をとってください。これですか。違う、それは黄色じゃない、花柄。私のいう黄色は、もっとほんとに黄色のです。これですかね。それも違います。今日は黄色のシャツを着る気分なので。あ、これですね!そうです。はい。次に、三つ目の引き出しから、パンツと、靴下をとってください。あるもの、どれでもいいです。あと、一番下の段から、灰色のズボン。これで。はい。それでいいです。
 一日がはじまる着替えの時間。朝の洋服への着替えは、一日のスタートになる時間だ。パジャマを脱いで、かわりに洋服に着替えてゆく。
 その昔、介助に入っていた方のもとで、洋服を着る介助をしていたとき。袖口から手を差し入れて、相手の手を取ろうとしたら、相手から、「迎えにきてもらわなくて大丈夫です」と言われたことがあったのを思い出す。あ、そうでしたか。失礼しました。待ってますね、といって、急いで手を引っ込めて、袖口で相手が手を出すのを待った。
 介助をしていると、待つことよりも、先に、迎えにいってしまうことがある。そのほうが、早い、と思ってしまったり、自分のペースが勝ってしまったりする時の介助。そう。迎えに来てください、と言われる前に、先回りをして迎えには行かない。それが介助の基本だ。
 朝の着替えも順次指示を受けながら、進めていく。まず、上から。パジャマを半分脱いで、洋服の手を入れて、パジャマを全体に脱ぎながら、洋服を着ていく。ゴロンと身体を回して、洋服の上をすべらせる。反対側の手も入れて、ボタンをしめていく。あまり首がしまらないように、ボタンは上まではしめないでほしい、と言われることもあれば、寒いので、上の方までしっかりしめてください、と言われることもある。
 そして靴下をはいて、パンツとズボンも。パンツはしっかり上まで上げて、ズボンも上げて、もそもそしないように、シャツを入れて。ベッドに近いほうの洋服がごわごわにならないように。でも、上げすぎて、身体にくい込まないように、よい具合に上げて、入れて、整えて、よし、と。
 日常を過ごす、洋服の着脱は、気持ちよく生活をするための重要な動作だ。特に、パンツの上げ下げ。そこには、生理用パッドやら、タンポンや、おむつや、尿取りパッドといったものも関わってくる場合がある。それらの装着が気持ちよくできるかは、日常生活を快適に送れるかどうかに関わる、重大なもんだいだ。
 生理用のパッドが、車いすで生活する人にとって、結構なストレスになるという話はこれまでに何度か聞いてきた。座っている時間が長いのでむれる、とか、微妙な動きでずれてしまったり、丸まってしまって使えない、とか、うまく位置があわない、とか、ずれたりするのがこわいので、大きいパッドを使っているとか。タンポンが快適だとか、タンポンは入れたことがないとか、トライしてみたいとか。ともかく、日常のなかで、必要にせまられて、生理用パッドについて、タンポンについて、おむつについて、口にし、介助先の人の、快適な日常を送るための試行錯誤に、伴走させてもらってきた。
 指示はとても的確だ。
 パンツの上の縫い代から3センチ下に、パッドのひらひらした箇所がくるように貼り付けて、貼り付けたら、動かないように、パンツの外側から、ごしごし、パッドがパンツにしっかり貼り付くようにしてください。パンツをあげるときは、パッドがちゃんと広がっているか、丸まってしまったりしていないか確認して、上まで上げて、でも、上げすぎないようにしてください、といった具合。
 パンツ一枚の履き心地、パッド一枚の着け心地、タンポンの入り方は、その人の生活を大きく左右する、とても重要なものだ。
 そう、自分でも、パンツが少しきつかったり、パッドが少しずれていたり、いつもとはちがうものだったりすると、それだけで、気持ちが落ち着かない。
 ただ、これまでに関わってきた介助では、こんな風に、的確な、言葉による指示だしをする人ばかりとの関わりではなく、ほぼ言葉による指示だしはない人の介助にも入ってきた。そんなときは、想像し、確認しながら、ことを進めていく。衣服の着脱や、パッドの装着といったことが、日常生活のベースになる、その日、その人が、快適に過ごしていけるかを決めるだいじな行いだと感じながら、かといって、こだわり過ぎず、たんたんとことを進める。言葉による指示がない人であっても、基本、待ちの姿勢、聞く姿勢を保ちつつ、かといってそれだけではことが前にすすまないため、なんとか、いろいろ確かめる方法を模索しながら、その人の日常のベースとなる、ぬぎ、き、をしていく。
 介助先では、着たい服を自分で指示してくる人もいれば、はっきりした指示はない場合もある。また、今日は、何を着たいかわからない、決めてください、なんでもいいです、はじめに目についた洋服を出してくれたらいいです、と言われたこともあった。夜のうちに、翌日着る洋服を用意して、準備万端で朝を迎える人もいた。それでも、朝になって、気持ちが変わったと、もう一度洋服を用意しなおして、着る服を選んで、着替えにすすむということもあった。介助者に、これとこれを着ようと思いますが、どう思いますか、季節の変わり目だから、もうこの洋服はおかしいでしょうか、と、聞いてくる人もいた。介助者が、あれこれの洋服を用意して、本人の意向を確認しながら、ぬぎ、きにすすむこともあった。
 一人で、着て、一人で脱いで、日常を送っている自分と、ぬぐこと/きることに人の手を必要として生活している人の日常の、その間に位置しながら、今日も、また時間が過ぎていく。

 
2022年1月5日

介助・介護の時間

第8回

予断は禁物の食事介助

 食事介助に予断は禁物だ。
 突然、夜更けに、何かを食べるという人の介助をすることはままあることだし、回転ずしの大きなお寿司のネタを、キッチンバサミで細かく切ることを指示されることもある。もろもろあるおでん種のなかで、“ちくわぶ”ばかりを、繰り返し食べる人がいたりもする。食べる順序も、好みの食べ方も、当たり前ではあるが、人それぞれだ。
 介助者である私は、その都度、相手の指示に耳を傾け、時には、えっ、と思ったり、ん、と思ったりしながらも、その思いは、基本、自分のなかで収め、言われたことを確認し、淡々と介助をすることを心掛けてきた。
 その場面がどういう食事の場面か、そこに誰がいるのか、一人なのか、大勢の人がいる場所での介助なのか、人と会っている場面での介助なのかによっても、食事のペースや食事介助の仕方は変わってくる。
 過去に何度か、人が大勢いる懇親会のような場面での食事介助を経験した。
 懇親会の目的は、食事そのものよりは、食事をしながら、そこに集っている人と懇親することにあったりする。そうなると、介助者は、食事介助をしつつ、介助をしている相手が、介助者である自分以外の人と、懇親することをサポートするのが役目だとも言える。ただ、食事介助を必要としている人が、介助を受けて食事をしながら、さらに、他の人とも交わるというのは簡単ではないことが多い。どうしても、食事介助が必要となると、介助者と介助を受ける人との二者関係で、手一杯になりがちだ。
 大勢の人がいる懇親会のような場面だと、介助者に介助を受けて食事をしている人に話しかけることは、そうした場面に慣れていない人にはハードルが高いことでもあると考えられる。実際、懇親会で、介助をしている自分と、相手とが、他の人たちとは少し離れた場所で、食事をして、それだけで時間が過ぎてしまったという経験もあった。
 ただ、そこに複数の介助者を使っている人がいるような場面であれば、状況はだいぶ違ってくる。
 介助者を使って食事をすることや、そうした人がたくさんいるような場面であれば、皆が、介助者を使いながら、机を行き来したり、自由に懇親したりするような雰囲気ができる。
 介助者は、介助を必要としている人の指示を受け、介助を必要としている人に視線をおきながら、もう少し何かもってきますか、飲み物はこのままでよいですか、といった声をかけ、懇親する人の脇で、指示を受けつつ、介助をするといった場面だ。会場には、私以外にも介助者としてその場にいる人がおり、それぞれの介助者が、それぞれの人の指示を受けながら動いている。介助者同士は、基本、あまり交わることはないけれど、それでも、なんとなく、介助を必要としている人たちが懇親しあう場を、つくっている一人として、互いの存在を感じながら、その場で動いている。
 複数といっても、大人数ではなく、特定の少人数での食事の際の介助も経験してきた。
 いつもは一人暮らしをしている人の、実家での食事介助の場面もあった。家族との久しぶりの対面の場面に、介助者として居合わせる経験だ。家族の視線が自分のところに注がれるのを感じたりもしながら、ひとまず、介助者である自分は、介助を必要としている人に視線をおき、できるだけいつも通り、介助をしていく。
 「ご飯ください」、「はい」、「キャベツにソースかけて」、「はい。このくらいでいいですか」「はい」、「次、キャベツ」「はい」といった具合に、淡々と食事介助をすすめていく。そのうちに、介助者を伴って実家に帰った人と、家族との間で、日々の暮らしのことなどについての会話がはじまる。そんな場面もあった。
 食事介助中、介助者も食事をすることを促されることもある。「食べていいよ」、「あ、はい。では、私も食べさせてもらいますね」という具合に。
 一人暮らしの人の家での介助の際には、自分用の食事を持っていき、相手の人の介助をしながら、自分も持っていった自分の食べ物を食べる。そういうときは、「今日は何を食べるの」と相手から聞かれることもある。さらに、相手から、「いつも、夕飯はどうしているの」とか、「朝食はだいたい何を食べているの」といった質問がされることもあった。
 そう、食事介助をしている自分は、相手の食生活を、介助を通して知る機会を得ている。一方、介助を受けている側は、日々、介助者がどんな食生活を送っているのか、基本は知らないということになる。食事介助をしながら食事をしたり、食事について話したりすることで、そんな、ある種不均衡ともいえる関係が少しほぐれたりもする。
 親しくなりかけの人との、少し緊張感が残る、レストランでの食事の場に、介助者として居合わせる経験もあった。
 メニューを見て、何を頼むかを決めるところからのスタート。
 「ページくって」「はい」、「これ以外のメニューもあるのかな」「飲み物は別のメニューみたいです」、「じゃあ、それも見せて」といった具合にことが進んでいく。
 食べるものが決まり、注文を済ませ、食事が来るのを待つ場面。なんとなく漂う緊張感。おもむろに、「暑いので、一枚上着脱ぎます」、といった具合に、介助者に声がかかることがある。なんとなく間をうめるように介助をするような場面。そんな場面で、同席している人が、介助者である自分に話しかけてくることもあった。「よく〇〇さんの介助に入っているんですか」。こういう場面の受け答えはなかなか難しい。介助に入っている方をみながら、「あ、はい。そうですよね。もう結構長いですよね」などと答えを返したりする。
 自分がいることで生まれる会話。それを起点に、二人の会話がはじまるのを待つ気持ち。そうこうしているうちに食事が運ばれてくれば、食事介助の時間に落ち着く。まずは飲み物。カレーはご飯とあまり混ぜないで、少しずつ、といった具合に。いつもの、それでも、予断は禁物の、食事介助の時間になる。
 食事は人との関係を縮める要素がある。食事介助をすることでも、関係は近くなる。ただ、時には、介助者は、介助を必要とする人が、食事を通して、介助者以外の人と関係を縮めるのをサポートする役でもある。介助者がいることで作られる親密な関係に、介助者として居合わせる経験。食事介助を通して、そんな場面に、何度も立ち会わせてもらってきたなと振り返る。

 
2022年2月9日

介助・介護の時間

第9回

自立生活をする人たちの傍らで

 介助といえば、日々の日常生活の支援が基本にはなるけれど、これまでの介助経験を思い出すと、日常生活と同時に、介助先の人が、日常を離れて、自分のために楽しみの時間をつくるような、そんな時間に付き添った経験も重ねてきたことを思う。
 例えば、コンサートの付き添い、観劇やスポーツの観戦、映画、旅行の介助に付き添ったこともある。楽しみの時間としての買い物や外食に付き添うこともあった。介助先の人が一人でそうした時間を楽しむのを介助者としてサポートすることもあれば、介助先の人が、友だちと、そうした時間を過ごすのを介助者としてサポートすることもあった。また、途中まで介助者としてついて行き、介助先の人が他の人に会った時点で、いったん役割を終えて、また、呼び出しをもらって、帰り際に迎えにいくという関わりをすることもあった。
 日常生活の延長のような、近場の散歩や小旅行の介助も、だいぶ重ねた。バスに乗って、ひとまず終点まで行き、そこからまた帰ってくるような、小旅行。また、ひたすら、細かい路地裏を歩き回るのについていくような介助。介助先の人が小さな遊園地で乗り物にのっているのを、脇で見上げながら過ごした、待ち時間も思い出す。
 介助をいれながら生活をしている人たちの生活は、多様で、多彩だ。介助の経験を通して、自分もさまざまな場所に行き、さまざまな時間の過ごし方や関わりのあり方を知り、さまざまな経験をさせてもらってきたな、と思う。
 日頃、あまり自分の生活では馴染みがないコンサートホールにも、介助を通して、一時期、だいぶ通った。車いす席がよい場所に設けられており、特に問題なくコンサートが楽しめる会場もあれば、古いホールで、階段が多く、一人の介助者では対応ができず、会場の係員などにも声をかけ、ようやく客席までたどり着くような場所もあった。ライブ会場で、周囲の人が立ち上がってしまうと、車いすだと視線の確保ができないと、交渉をして、2階席の最前列を確保するといったやりとりが必要な場合もあった。
 コンサートなどに行く際は、時には、介助者である自分も、介助先の人の隣で、一緒にコンサートを聞かせてもらうこともあった。非日常の楽しみの時間を、一緒に過ごさせてもらう、ご褒美の時間のようにも感じた。
 また、時には、コンサート会場と座席までの移動の介助をして、コンサート中は外に出て、終了後に、また、会場から自宅までの移動を介助するという関わりもあった。終了後、会場から自宅までの間に、介助先の人があれこれコンサートの話をしてこられることもあったし、特に、何も言わずに、ただ、淡々と介助の指示だけをしてこられることもあった。
 介助者は、あくまで、自分の好きな時間を過ごすために介助を必要とする人の傍らで、その人が好きな時間を過ごすのをサポートすることが役割だ。そうしたことを意識しながら、その時々、介助者として、求められることに応じて、必要な関わりをしてきたというのが自分の関わりの経験だ。
 思い起こすと、介助先の人が、なんらか、好きなことをするための目的地にたどり着くまでに、さまざまな交渉プロセスが必要な場合も少なくなかった。
 少し前までは、階段しかない駅も多く、そうした駅を利用せざるを得ないため、階段下で、通りがかりの人に声をかけ、一緒に、車いすを持ち上げてもらい移動するというようなこともよくあった。そうして、ようやく、コンサート会場にたどり着いたり、ようやく、お目当てのお蕎麦屋さんにたどり着いたり、旅先の温泉にたどり着いたりした。
 それでも、見たいものをみて、聞きたい音楽を聞いて、食べたいものを食べて、自分の生活をつくっていこうという介助先の人に、だいぶ、ちからをもらってきたなと思う。
 ひとまず、やりたいという思いをもつこと。そして、思いをもったら、実際に行動に移してみること。そしてそれをするために、壁があれば、周囲のサポートをえて、実現してゆけばよいという気持ち。実際にそうしてさまざまなことが実現する場面に立ちあってきた。
 そうした日常的な交渉や、やりとりや、多くの人の関わりがあって、日常も、非日常も含めた、一人の人の暮らしが成り立ってきているということを、介助者として、障害のある人の傍らにいながら、実感させてもらってきた。
 ある時、ほぼ段差が解消され、係員の対応も必要がなくなった駅を利用した車いすの人が、「誰にも声をかけずに電車が利用できたのはよかったけれど、なんだか、さびしいものだね」、と言っていたのが心に残っている。そう、車いすを利用するのでもなく、歩行に介助を必要とするのでもない人たちは、黙々と、一人で、階段をあがり、一人で、目的地に向かい、特に誰と会話するでもなく、行き先を聞かれることもなく、一連の出来事を遂行している。その、「難のなさ」は、難なく、公共交通機関が利用できる人たちの特権だということができる。そして、そうした「難のなさ」、つまり「バリアフリー」の状態を、障害のある人たちも求めてきた、ということは言えると思う。
 ただ、同時に、そこには、「なんだか、さびしい」現実があることも、また、事実なのだなと思う。そして、その「なんだか、さびしい」と感じられるような現実に対して、まずは、そうした感じを持てるところまではたどり着いた上で、「なんだか、さびしい」のとも違う、別の関わりのあり様を、模索してみることは可能なのではないだろうか、と考えてみたりする。
 実際、「難なく」感じられる日々の生活場面であっても、そこには、人々が、それを「難なく」できるようにする、多くの人の関わりがあると言える。日々の生活のなかで、あまり意識することはないけれど、そうした人々の関わりが、人の生活を支えているとも言える。介助を必要とする障害のある人と関わるなかで、そうした、人の関わりや、関わりの積み重ねの上に、日常や、非日常を含めた、人々の日々の生活があることを感じることが何度もあった。
 そして、それは、何か、日々の生活のなかでは捉えにくい、人々によって構成されている社会というものへの、ぼわっとした、安心感とでも呼べるような、そんなふんわりとした気持ちを、自分の中に、もたらしてきたと思う。
 「なんだか、さびしい」のとは異なる、移動のスタイルや生活のあり方を、この先、もう少し模索してみてもよいのかもしれない。介助を続けながら、そんなことも考えてみている。

 
2022年3月9日

介助・介護の時間

第10回

介助の時間の終わりとはじまりと

 コロナ禍がはじまった年、2020年の9月から書き始めたこのエッセイは、今回の10回目でひとまず最終回となる。
 新型コロナウイルスによる感染症の世界的大流行という、予想していなかった出来事が起き、マスク着用が日常となり、人との密接な関係を避けるような暮らしが、もはや日常のものとなり、2年が過ぎようとしている。
 この間、地域で介助者を入れながら自立生活を送っている障害のある人や、そうした人たちのもとに通う介助者、そして介助者を派遣している介助派遣事業所の関係者の人たちから、コロナ感染への不安や、リスク軽減のためにできること、また、実際にコロナ罹患を経験した際の困難など、さまざま話を聞いてきた。最近では、介助者がコロナに罹患してしまったため穴埋めで介助に入ってもらえないかという連絡を受けることや、障害のある人が濃厚接触になってしまった場合の対応方法についても話を聞く機会があった。
 地域で自立生活を送っている障害がある人たちは、コロナ前から、慢性的に介助者が不足した状況の中で暮らしてきていた。そして、現在も、圧倒的にケアの担い手が不足した状況が続いている。そして、コロナ禍で、そうした状況はより深刻化しているとも言える。
 人によっては、一日最長24時間、介助者を必要としながら、地域で暮らしている人たち。このエッセイで書いてきたのは、そうした暮らしを選び、介助者と、ともにある生活をつくってきた人たちのことだ。毎日の暮らしに介助者をいれる暮らしは、そこに至るまでも、そこに至ってからも、平たんではなく、時に、「綱渡り」といった言葉が選ばれるほどの、あやうさを伴ってきた。さらに、そこに、コロナ禍という厄介な事象が加わり、その終わりがまだ見えてこないというのが現在の状況だ。
 そうした中で、今回書いてきた一連のエッセイは、どこか、その切迫したコロナ禍のいまの状況を反映していないように感じられたかもしれない。確かに、コロナ禍の今と、それ以前とでは、介助をめぐる状況に大きな変化があるようにも思う。
 私自身は、介助を主な生業として生活してきた介助労働者ではない。月に数回の泊り介助という、ある意味で気楽な関わりを続けさせてもらってきたゆるい介助者だ。そうしたゆるい関わりを、このエッセイのはじめに書いた熊野町での関わりの頃から現在まで、25年くらい続けてきている。ただ、そんな、ゆるい関わりであっても、コロナ禍がはじまって以降の介助をとりまく厳しい状況や、不安感は、一定、共有してきたと思う。
 ただ、このエッセイでは、あえて、そうした厳しさや不安感が増す中にあっても、なお、私自身が介助を続けてくる中で感じ、自分のなかに貯めてきた、「安心感」と呼べるもののほうを伝えたいと感じてきた。
 私自身は、介助を続けるなかで、介助は不安を増幅させるものではなく、安心感を増幅させるものだと感じてきたからだ。
 泊り介助の夜。こんばんはーと家の中に入る。私にとっては、非日常の泊り介助。でも、介助先では、介助者がこんばんはーと訪ねてくることが毎日の生活なんだなと思う。こうやって、ここには、昨日もその前の日も、その前の前の日も、介助者がやってきた。そのことを思うと不思議な気持ちになる。介助を伴い暮らしている人を通して、人のつらなりを感じる。そのつながりのなかに自分もいるし、自分一人が特別なわけではなく、介助先でつながった人のつながりの端っこに、自分もいるという感覚。その感覚は、私に大きくてふかい安心感をもたらしてきたと思う。
 もちろん、そうやって介助者が毎夜訪ねてくる状態が当たり前ではなかった頃から、それが必要な現実があって、その“当たり前”を勝ちとるために、つくってきた現実(制度などを含めた)がある。そして、今もなお、それは当たり前に実現しているのではなく、当事者や介助派遣事業所をはじめとする人々の不断の努力のもとで実現している。
 それでも、そうして、介助者がくる日常は続いている。
 そして、介助に行くと、自分で布団に入り、自分で寝返りをうって、自分でトイレにいく、私の日常とは別の日常を送っている人がいるという当たり前のことを、毎度、確認する。自分とは異なる時間を生きる他者と関わり、異なる時間を生きる中で見える別な世界を、介助者として、一緒に歩かせてもらっていると思う。
 でも、例えば、24時間介助を必要とする人の介助を、家族が全面的にやっていたらどうだろう。介助者の私の立場を考えると、まず、そこには私は訪ねていくチャンスがないと思う。そのため、私のような立場のものが不思議な気持ちを抱いて、夜ドアを開けることもないだろう。家族は、不思議な気持ちを感じることもなく、私たちがやるほかない、とか、私たち以外の人に“こんなたいへんなこと”を頼むことはできないだろう、とか、家族なんだから仕方がない、といった思いのなかで、毎晩を過ごすかも知れない。家族といっても、多くの場合は、母親の立場にある人がそれを担うことを任されてしまっていたりする。母親は、自分にとっては大切な我が子なのだからという気持ちを持ち続ける努力を強いられるかもしれない。そして、自分の体力の衰えや、自分の体調など、かまっていられないという思いがあるかも知れないし、仕方なく施設に入れるといった選択を選んでしまうかもしれないことにため息をつきながらいるのかも知れない。そこには、ふかい安心感をもたらすような不思議な気持ちの入っていく隙間はあまりないと思う。
 それでも、もしかしたらどこかで何か不思議なものを感じているのかも知れないけれど。それは日常生活に介助を必要とする障害をもつ人が、人とのつながりや、一人でできてしまう自分について、なにごとかを考えさせる存在として、私たちの前に存在しているからなのだと思う。
 圧倒的なケアの不足がある。そのなかで、介助者という立ち位置でケアに関わってきた人たちが、その経験を言葉にしていくことは大切なことのように感じる。
 切迫したコロナ禍のなかでも、介助の時間は、どちらかといえば、ゆるゆると流れていく。そして、介助を終えて、次の介助者との交代の時間が来て、そこから、自分一人時間がはじまる。そして、介助は続いていく。

 

エッセイのご感想がありましたらフォームより送信ください。