REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

ひょっとこ爺さん徒然の記
  曽根原純

2020年5月20日

ひょっとこ爺さん徒然の記

新型コロナに怯えながら

 少し昔の話になるが、十年程前、子供のころからの夢を一つ実現することができた。西武新宿線新井薬師前駅近くの自宅から新宿まで歩いていくこと。距離的には往復で十二キロ程度であろう。十七年前の頸椎症で、東京大学医学部付属病院での手術以降も歩けなくなり、子供のころとは歩行形態は変わってしまったが、電動車いすを使って、歩行と同じペースで往復することができた。いや、以前には、もともとの脳性マヒという障害に加えて、体力的にも歩行可能距離が限定されていたので、電動車いすを使用するようになったからこそできたという面もある。意外に電動車いすでのロングドライブは好きなので、歩行形態が変わってすぐのころに、自宅から母校の都立武蔵丘高校まで、往復九キロ「歩いた」ことはあったが、自宅の二階の窓からずっと見えていた高層ビルの下まで「歩いて」行くことができたことには、特別の思いがあった。
 そして、六十歳で会社を定年退職して七年になる今は、自宅から片道二キロ程度の大型スーパーへ週二回程度電動車いすで行っている。道の途中には公園や鉄道模型メーカーの展示場もあり、また、行き帰りの道端に生えている草花の写真を撮ってSNSに投稿することも楽しみの一つになっている。そのスーパーはちょうど私が退職した年の四月に新規開店したところであるが、品ぞろえが豊富なことに加えて、バリアフリー対応がしっかりしているので、ずっと常連になっている。買うものは、家で利用している生協の宅配で足りないものを新聞の折り込みチラシと相談してという感覚だが、バナナと刺身はほぼ毎回買っている。この辺は、無駄物を買わないことを第一に心がけているので、母親からも買い物がうまいと褒められるようになってきている。最近、そこに入っている魚屋のおばちゃん(おねえちゃん)から「いつもありがとうございます」と声をかけられるようになった。一人前の常連客として認められたということなのであろうか?また、客の中にも、顔なじみになって、ちょっとしたあいさつを交わすような人も何人かいるようになった。
 ただ、このようにときどき電動車いすで外出することで、社会とのかかわりを持つことができ、精神的にもリフレッシュされることは確かであるが、身体的な運動にはならないし、カロリーも消費されないということには気を付けなければならないと思っている。だからこそ、私は、手すりにつかまりながらの足踏み運動などで体を動かすことを心掛けているし、食事にも気を使っている。したがって、自宅内を手すりに頼りながら動き回ることは、階段も含めて何とか可能である。そして、そのような状態であるので,私は、介護判定は要介護3であるが、ヘルパーを利用していない。
 最近まで、日本障害者協議会でのJD仮訳のプロジェクト(これは英文の原文や翻訳した原稿などをメールでやり取りするテレワークである)にボランティアとして参加しながら、表向き、このような生活を続けてきたのであるが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、私の生活も少なからず変化を余儀なくされている。
 まず、頸椎の手術後、トイレが近くなっていることもあって、寒い冬の間は、行ったときにはほぼ毎回だったスーパー内の多目的トイレの利用を、三月の上旬の段階で避けるようにした。私は、普段はそれほど神経質な人間ではないが、感染拡大が様々に報じられるようになっていた時期でもあり、手すりや引き手に触ることが怖く感じられたからである。それは、季節的に少し暖かくなりつつある時期だったからこそ、できたことなのかもしれない。
 その後も、スーパーへ行くことは続けていたが、新型コロナをめぐる世間の状況は深刻さを増していった。特に、三月二十九日に志村けんさんがお亡くなりになったことには、年齢が近いこともあって、大きなショックを受けた。そして、緊急事態宣言が出される直前の四月上旬、私は、同居している九十二才の母親とともに徹底的な家籠りに入ることを決意し、それを実行に移した。それは、誰に言われたのでもなく、ただ怖いという理由からの私自身の判断であった。母親と私のどちらかが感染すれば、共倒れとなることは確実であり、二人とも命の危険にさらされることになる。
 私は、母親に,週一回一時間の家事援助ヘルパーの利用をやめることを提案した。母親は、衛生面など私以上に神経質なので、その辺はすぐに納得してくれた。そして、私は、それまで行っていたスーパーが開いているネットスーパーを利用することにした。利用してみると、行き慣れた店の商品を買うことができるので、ちょっとした安心感がある。これで家籠りの準備はとりあえず完了した。それでも郵便、新聞、宅配など心配な面はあることは確かであるが。
 そして、五月十八日現在、私は、日差しの強い時間を見計らって、玄関先で日光浴をする以外では、徹底的な家籠りを続けることができている。このことは、将来的に東京都の緊急事態宣言が解除されたとしても、それ以降、少なくとも一カ月程度は続けなければならないだろうと思っている。
 世の中には、コロナ後の社会がどうなるかを熱く語ろうとする人もいるようであるが、私の現状では、生き延びることを考えるだけで精いっぱいである。

   ふと思う コロナ後語るは 強い人

2020年7月1日

ひょっとこ爺さん徒然の記

テレワーク

 前回、タイトルの中で私のことを「ひょっとこ爺さん」と表現しようとしたとき、担当のNさんからメールをいただき、「爺さんという感じではないですよ」とお世辞を言われた。私としては、六十七という年齢と併せて、昨年から白いヒゲを蓄えるようになったので、風貌としては、れっきとした「爺さん」という感覚になっているのではないかと思っている。あと「ひょっとこ」のもともとのモデルが脳性マヒ者だったという説があることは承知している。

 最近、新型コロナウィルスへの感染拡大に伴って、テレワーク(在宅雇用)が「新しい生活スタイル」としての新しい勤務形態として話題とされることが多くなっている。実は、私は七年前に六十歳で定年退職するまで、三十年以上、金融機関の在宅嘱託としてテレワークに従事していた。ある意味ではパイオニアであったと言っても構わないであろう。
 仕事の内容は、勤務先から送られてくる英文資料の和訳。分野としては、時事系、石油関係、船舶関係、留学資料などであった。私は、大学時代から語学をメシの種にできればという思いを持っていたので、経済学関係の英文を読むことは可能であったが。勤務を始めたころには手書きや簡易和文タイプライターで文字としてアウトプットしたものを郵送したり原則週一回の出勤日に持参したりする形だったが、その後、文章の入力にはワープロ専用機、パソコンを利用できるようになった。そして、インターネットに接続して、作成した原稿等をメール添付でやり取りすることができるようになったのは、退職の十五年ほど前のことであった。
 私の経験した在宅雇用であるが、勤務先としては、障害者雇用率との絡みで、いろいろな面倒な負担を避けて、安直に事を済ませたいという思惑があったことは確かであろう。給与面でも大卒の初任給のレベルでほぼ固定されていた。個人的にそれなりの交渉をした時期もあったが、勤務先としては、仕事という面で私に無理をさせるつもりはなかったようである。また、仕事場での飲み会などに誘われることもなかった。
 その辺、在職中はぬるま湯のように感じられ、不満にも思っていたが、そのおかげで、退職後も結構体力や気力の面で余力が残っていて、生活を楽しむことができている。それでも、三十年以上勤務したので、一日の仕事の量は少なかったにしても、四百字詰め原稿用紙三万枚以上の翻訳をした計算になる。あと、障害ということを抜きにしても、翻訳という仕事は、大きな辞書や専門的な事典を何冊も参考にしなければならないことがあるので、テレワークにした方がやり易い面があることも確かであるが。私の自宅の部屋の机の回りには、今も五十冊ほどの辞書や事典が置かれてある。もちろん、最近では、電子辞書やオンライン辞書が利用できるので、事情は違っているし、機械翻訳に荒訳を任せることさえ可能になっているのであるが。
 「それだけではさぞつまらなかったであろう」というご指摘があるかもしれない。私もそのことはかなりの部分肯定せざるを得ない。そのような中で、私は、裏の仕事として、障害者関係の翻訳にも手を染めていた。むしろ、この「裏」の方が生きがいになっていたのかもしれない。勤務先でもそのことはある程度承知してくれていた。
 しかし、勤務先から離れて、「裏」を「表」にする勇気は私にはなかった。なぜなら、私としては「表」も「裏」もぬるま湯としては快適なものであったし、「表」の一般的な「労働者」としての立場は、非正規であっても法律によって結構強力に保護されていることを悟ったからであった。このような「裏」の仕事も基本的にはテレワークであったが、書籍化を目指す場合には、編集のための会議に参加しなければならなくなることもあり、また、それが終わった後の飲み会に参加することもあった。
 現在、私がボランティアとしてかかわりを持っている日本障害者協議会の「JD仮訳」プロジェクトの作業も、新型コロナの感染拡大以前の数年前からずっと、今で言うテレワークで行われてきているのであるが、私は今の年齢になってもテレワークでの英文和訳の作業に参加することができていることに、運命的なものを強く感じ、「裏」の人脈に感謝している。

   解除後も 便利さ気付く テレワーク

2020年7月29日

ひょっとこ爺さん徒然の記

小説世界の疑似体験の旅

 新型コロナによる肺炎が、まだ中国でくすぶりかかっていたという程度の話題にしかなっていなかった頃の二〇一九年十二月二十日、私は、埼玉県飯能市のホテルに一泊してきた。少し日常の生活から離れて、いつもと違う環境で、いつもと違うものでも食べたいということの他に、今回は、その少し前に読んだある小説の舞台を訪れ、その世界を疑似体験したいという目的があった。その小説には、次のようなくだりがあった。残念ながら、そのくだりに書かれてあるように同伴していただける女性は、私にはいないのであるが。ちなみに、小説上での男女の行きつくところは心中である。

 「タクシーを降りた二人は、おおよその到着時間とコース・予算を事前に電話で伝えて予約しておいた飯能駅ビルの最上階にあるレストランに入っていった。夕食には少し早い時間であるためか、レストランには数人の客しかいなかった。二人は案内された素晴らしい景色を一望できる窓側の予約席に向かい合って座り、フランス料理のシーフードを中心とするフルコースと赤と白二種類のワインをメニューを確認しながら注文した。二人は食事中、その席からの東京方面の展望を感慨深げにずっと眺めながらも、ほとんど言葉を交わさなかった。これまでの生活の場であった大都会の喧噪に思いをはせていたのかもしれなかった。そこからは、晴れていれば関東平野全体を一望することさえ可能であり、夜景の美しさもまた格別なものであろうと容易に想像がつくが、この日はあいにくどんよりとした曇り空であったために視界が悪く、新宿や池袋の高層ビルなどの建物や東京タワーはおろか、最近都市化の著しい所沢のビル群をみることさえできなかった。」

 十二月二十日の一週間前、私は週間天気予報を確認してから、ホテル・ヘリテイジ飯能staにネットで宿泊予約を入れた。朝食付きシングルで一万円ちょっと。安くはないが、部屋が広いことを考えれば、まあ妥当な値段であろう。このホテルは、以前には飯能プリンスホテルとして営業していたところで、西武池袋線飯能駅の駅ビルの中にある。そして、上に示した小説の引用部分に書かれてあるレストランというのは、このホテルの最上階の十階にあるレストランのことである。
 私は、十七年前に歩けなくなる以前には、気分転換のために年一回程度飯能へ日帰りで行っていた。駅から街中を通って、ちょっとしたハイキング気分で飯能河原まで歩き、そこから川の流れや山の緑を見ることで精神的に癒されていた。しかし、当時は、自宅から比較的簡単に日帰りのできるところにあえてカネをかけてまで宿泊しようという気にはならなかった。最近、飯能駅から少し北へ行ったところにムーミンバレーパークがオープンしたが、そのような自然との調和を目指しているとは言うものの、人工的、商業的な雰囲気のあるところへは私はあまり行きたいと思わない。

 当日は、午前九時に自宅を出発して、都営地下鉄大江戸線から練馬で西武池袋線に乗り換えて飯能に向かった。いつも通りの電動車椅子での一人旅である。天気は今にも降り出しそうな曇り空であった。
 飯能には十一時少し前に到着した。早めの昼食をエキナカの中華屋で摂ってから駅ビルのショッピングセンターの中の本屋に入り、御当地本などを物色したが、目ぼしいものは見当たらなかった。まあ、そのことが主な目的であれば、図書館を訪れるべきであろう。それでも私が読んだあの小説は目立つところに何冊か置かれてあった。
 それから一時過ぎに駅の外に出て、街中を散策しようかと思ったが、濡れることはないと思われる程度の小雨が降っていたので、駅ビルにあるホテルに入り、少し早すぎることを承知でチェックインの手続きをお願いした。部屋で一時間程度休んでから、その時間に喫茶として営業していた五階の和食処でジュースを注文した。客は私ひとりだけ。窓から見えるのは、まさにあの小説に書かれてあるようなどんよりとした曇り空。視界も悪く、下に見える通りを行き交う車は、昼間であるにもかかわらず、ライトをつけて走っていた。
 当日は平日であったので、最上階のレストランは夜にはレストランとしての営業をせず、バーとして営業しているとの情報がネットにあった。和食処のスタッフに確認したところ、当日はバーとしての営業もしていないとのこと。残念だったが、仕方なく、六時前に駅ビルの中の居酒屋に一番で入って食事をした。そのまま移動せずに和食処で食べることも考えたが、居酒屋の方が気楽な雰囲気でたっぷりと食べられるという判断であった。カンパチの握りが意外においしかった。その後、ホテルの最上階へ行って、レストランが営業していないことを確認してから、八時過ぎに部屋に戻った。部屋では、窓のカーテンを開けて、持参したあの小説を読み返しながら、少し早めの眠りに入っていった。なお、私は、ホテルでの夜間の小用では、簡易式のビニールトイレを持参して利用している。
 翌日の朝食の会場は最上階のレストランであった。そこでは夜と朝で時間帯は違うとはいうものの、天気も良く、和食処からよりも素晴らしい窓からの景色を一望することができた。ちなみに、そのレストランの名前は「銀河鉄道」。昨晩入ることができれば、下を走っている鉄道を含めた夜景はすばらしかったはずである。
 朝食後は、部屋で少しゆっくりしてから、ホテルをチェックアウトして、そのまま自宅に戻った。近いうちにまた来ようと強く思いながらであったが、そのことは新型コロナの感染拡大に伴う諸般の事情のために未だに実現できていない。

   フィクションの 死者への祈り 胸に秘め

2020年9月9日

ひょっとこ爺さん徒然の記

半世紀前の大学受験

 私の経歴に早稲田大学政治経済学部とあるのを見て「脳性マヒ者がどうやって」と不思議に思われる方がいらっしゃるかもしれない。また、その後の人生ではそのことだけで畏れられていたというような面もあったのかもしれない。早稲田大学、それも最難関と言われていた政治経済学部の入試に合格できたことは、私自身は半分以上はまぐれだったと思っているが、これまで若干の謙遜を含めて「まぐれ」と言ってきたことに重要なとんでもない意味があったのではないかと最近になって思うようになった。まぐれで合格したということは、通常の入試を一般の人と同じ条件で受験したからこそ言えることであろう。父親は普通のサラリーマンであったし、私の親戚関係には、政治家、高級官僚、実業家、学者、有名人はいなかった。

 私が大学を受験したおよそ五十年前には、合理的配慮というような考え方はなく、障害者であることを申し出て受験すれば、理科系の一部の学科では、欠格条項との絡みで、それだけで落とされることもあったようである。私自身、理数系のことは、高校での成績は悪かったと言っても、嫌いではなかったが、その方面への進学は諦めていた。また、合格した場合であっても、何か特別の裏工作によって合格したかのような評価をされかねない雰囲気さえあったようである。私の場合、かなり遅いとは言っても、しっかりとした文字を書くことができていたので、択一式が中心であった当時の入試問題では制限時間内での対応は可能であり、障害者としての特別な配慮が必要とは思わなかった。だからこそ健常者の中に紛れ込んで受験することを私は選択することにしたのであるが。それでも、トメ、ハネなどをきちんと書くことを求められる漢字の書き取りでは不利になる面があったのかもしれない。
 私が学んだ高校は、「令和」で大きな話題になった中西進氏が一時在籍していたところではあるが、都立の普通科とはいうものの、偏差値レベルは三流以下であったと言っても過言ではないであろう。そのようなことも意識しながら、私は二年のときから通信添削やラジオ講座などで受験勉強に取り組んでいたので、高校の学業成績は五段階評価でオール三程度で、五という評価をいただいたのは、地学と地理Bだけであったが、アチーブメントテストでは文系で上位の五本の指の中に入っていた。英語については、二年のときまでは、意味はわからなくてもいいからという感覚で、リーダーを丸暗記していた。
 現役のとき、私は東京大学文科二類を受験した。決して合格への見通しや裏付けがあったわけではないが、それまでかなり時間をかけて勉強してきた数学や理科(特に地学)を捨てたくないという思いがあった。結果は、文系の科目すらダメで、当然のことではあるが、一次試験不合格であった。早稲田もそれなりの手ごたえはかすかにあったとは言うものの、不合格であった。それでも、一流進学校からの入学者も結構多いと言われていた東京六大学の一つの某私立大学には何とか合格することができた。ちなみに、その大学への私の高校からの現役での合格者は私だけであったようである。
 その大学には一応納得して入学したが、三カ月で通うことをやめた。通学が意外に困難だったからである。当時は乗り換えのターミナル駅の階段に手すりすらない部分があった時代である。そこでパニック的なことが起きれば、突き飛ばされかねないという不安もあった。そして、意を決して、私は自宅から通いやすい早稲田大学を第一志望として、夏期講習からのスタートで、高田馬場の大学受験予備校に通い始めた。現役のときにも受験したので、早稲田が私にとって難関であるということはわかっていたが、これまで数学の勉強に費やしていた時間を英語に回せば何とかなるはずという思いがあった。実際。予備校のカリキュラムの中では英語が七割程度を占めていた。
 そして、このような予備校での経験が、英語に接するときの頭の基礎体力という面で、私の翻訳という仕事につながったことも確かであろう。
 二回目の早稲田大学の入学試験は、勝手がわかっているので、何も困らずに受験することができた。選択科目は予備校のカリキュラムの中であまり教えられていなかったので不安もあったが、本番直前の模擬試験でなぜか一番をとっていた地理Bとした。現役のときにも選択した日本史を中心として準備していた私としてはギャンブルであった。その辺も私が合格はまぐれだったと思っている一つの理由である。実際、その年の入学試験では地理Bの方が日本史よりも点を取りやすかったという話であった。
 入学後、大学生活に慣れるために重要な時期の五月後半からおよそ一か月間、私は神経性の十二指腸潰瘍とそこから来ていた重度の貧血によって入院を余儀なくされた。
 それは、障害ということ以外に、内科的にもあまり無理はできないと悟らされた出来事であった。
 なお、乙武洋匡氏は私の学部の二十五年後輩である。

   潰瘍で 大酒飲んだと 誤解され

2020年9月30日

ひょっとこ爺さん徒然の記

十五年前 買った時計に 惚れ直す

 六十歳代後半、たまにではあるが人生の終わりということを意識するときがある。そして、そのときには、私は何か一つ、それなりに高級なものを身に着けていたいと思っている。それには、そのときにそれが特別にお世話になった人へのお礼の一部になればというような意味も含まれている。
 そのようなことも意識しながら、私は昨年あたりから腕時計を購入したいと思いはじめ、新聞やネットの広告に関心を持つようになった。狙いをつけたのは国産の実用クラスの最高級品。価格的には三十万円から五十万円前後であろうか。舶来であれば、それ以上の価格のものはいくらでもあるが、恐らく私の細めの腕には似合わないであろう。
 候補を三種類程度に絞ることができたので、私は今年(二〇二〇年)に入って、少し暖かくなったら、新宿の量販店に行って現物を確かめて購入することを予定していた。しかし、三月ごろから新型コロナの感染拡大が報じられるようになって、私としては電車を利用することが怖く感じられるようになった。十年前のように電動車いすを使って歩いていく気力はもはや私にはない。ネットで購入することもできないこともないが、ベルトのサイズ合わせのために一度は新宿へ行くことが必要になる。以前であれば、小学校(普通校)の同級生が近くの駅前で時計屋を営んでいたので頼むこともできたのであろうが,だいぶ前に店を畳んでしまっている。

 「電車に乗ったり、公衆トイレを利用することが怖いので、新宿へは当分行かれないだろう」と思い、考え込んでいると、近いうちに高いものを購入するからということで、日常的にある意味無造作に身に着けるようになっていた腕時計のことに気づいた。
 その腕時計は、十七年前の頸椎の手術の二年後、電動車いすで一人でどこにでも行くことができるようになり、勤務先への週一回程度の出勤にもメドがついたので、自分としての全快祝いという意味も含めて購入したものであった。
 その腕時計(シチズン エクシード H110)は、ビジネスにもフォーマルにも使うことができるとされている国産メーカーの上位実用クラスの機種シリーズの中でも比較的高価格のものであり、量販店でのそのシリーズのショーケースの中では一番上に置かれてあった。標準小売価格は十五万円。それをその店では,ポイント分を割引に含めて計算すると十万円弱で販売していた。ムーブメントはソーラー電波式なので、光に当てることを多少意識すれば、電池交換や時間合わせは不要である。また、文字盤には白蝶貝があしらわれているので、真珠のようにキラキラと輝き、それなりの高級感がある。私は即決の現金払いでそれを購入した。
 その後八年、勤務先を定年退職するまでは、私は出勤などで外出するときには必ずその腕時計を身に着けるようにしていた。退職後には時間を気にしなければならないような外出が減り,ソーラーということを忘れて光の入らない引き出しに一年間以上しまい込んでしまったために全く動かなくなったこともあった。
 その腕時計を再度日常的に使用しようと思ったときに意識したことは傷の状態であった。その辺を虫メガネを通して確認すると、腕時計本体の金属部分には多少の擦り跡があったが、幸いなことに、中古市場ではほぼゼロ査定となると言われているガラス部分の擦り跡や傷はなかった。ネットの中古専門店ではその程度のものを三万円前後で売りに出していた。その値段であれば、高級とは言えないまでも、まともな機能のしっかりとした腕時計を新品で購入することができるであろう。私は、客観的な価格評価にも納得して、現在その腕時計をいつも身に着けることを心掛けている。
 そして、私は、新型コロナの感染が終息してからも、ずっとその腕時計を身に着けていたいと思うようになってきている。もちろん、生き延びることができればの話ではあるが。

 少し社会的なことになるが、十五年前の説明書には、「時計の文字板や針には、放射性物質などの有害物質を一切含まない、人体や環境に安全な物質を使用した蓄光塗料が使用されています」と書かれてあった。今の時代であれば、放射性物質について、ここまでストレートに「有害」と記述することは憚られるのかもしれないと私は思っている。

2020年10月21日

ひょっとこ爺さん徒然の記

コロナ川柳 107   生活エピソードを中心に

   肺炎で 中国止まって インフレか

   スーパーで マスクした人 ごくわずか

   スーパーで 増えたぞマスク ほぼ半数

   快晴も 肺炎警戒 街支配

   患者数 少なく見せたい 五輪まで

   スーパーで マスク買えずに お買い物

   プロ野球 五輪できずと 見込んだか?

   花見にて 酔ってからむは 危険なり

   五輪延期 コロナ対策 堂々と

   映画館 いまだ謎なり 閉鎖なし

   春の雪 敵か味方か 東京都

   雪降って 自粛せずとも 外に出ず

   新型で だいじょぶだーとは 行かずなり

   見習いたい 女を泣かせた コメディアン

   有名人 訃報で怖さ 実感す

   人避けよ 弁解不要 法事・会議

   自粛なら 補償は不要 予防線

   真剣に 生きられるかと 我に問う

   マスクなど これまで健康 用意なし

   雨風で すべてが流れる 夢を見る

   歌舞伎町 濃厚接触 自粛なり

   隠そうと したツケ早晩 顕在化

   最近まで ウィルス対策 IT枠

   有名人 続々感染 不気味なり

   不要不急 言える人生 幸せなり

   歌舞伎町 裏口あるぞ 怖い店

   飲むならば 星空屋台の ディスタンス

   昨年の 写真で眺める ツツジかな

   スポーツ界 元気の象徴 罹患あり

   聞き違え 肺がん逝去を 肺炎と

   家籠り 当分ゼロなり 交通費

   知り合いいる 公園危険 話し込む

   犬に顔 舐められ慌てて ディスタンス

   アベノマスク 不要不急の 防御力

   発表数 減らせば気緩み 感染増

   ネットスーパー 深夜零時に お買い物

   アベノマスク 行き渡るまで 不足偽装

   臆病と 笑わば笑え 家籠り

   新型に 俳優感染 トレンディー

   一般病棟 戻れた体力 元監督

   給付金 もらって呑もう 休業店

   十万円 もらってからでは 店はなし

   自慢する 俺は在宅 優等生

   家籠り 剃らぬと決めた 白いヒゲ

   獏さんと 連想ゲーム 思い出す

   今ならば ひたすら孤独 追い求め

   怖いだけ 俺が外出 せぬ理由

   久しぶり 玄関先出て 日光浴

   禿げ頭 日光反射し 輝けり

   日光浴 タンポポ綿毛 風に舞い

   旅行なら 鉄道展望 ユーチューブ

   このご時世 ネットで送金 御霊前

   コロナかと 死因先ず見る 訃報欄

   家籠り だんだん精神 引き籠る

   丑三つ時 外出て郵便 ポストまで

   暑くなり トランプ放言 思い出す

   解除へと 怖さ否定の フェイク増え

   死んだとでも 行けぬスーパー 顔なじみ

   車いす 予約可能も 旅自粛

   根拠なき 終息ムード ちと怖い

   外出ぬは 今日の母への プレゼント

   人みたら コロナと思え ちと悲し

   日光浴 門出て近所を 一回り

   効果なくも 日光浴は 健康的

   冷静に 怖がりながらも 家籠り

   稼げぬなら 何とかするのが 社会保障

   蚊がわんさか 早々退散 日光浴

   ネットスーパー 混雑多少は 緩和され

   コロナでは 乗るのは嫌だ 0948

   マスク外し 歩ける終息 いつのこと

   嘆かわし 経済配慮が 大人とは

   戦えと 煽った挙句 withコロナ

   蚊を避けて トイレの窓開け 日光浴

   有名人 最近コロナ死 音沙汰なし

   筆談も 生活スタイル 認知され

   久しぶり どうしてもの用 マスクして

   コメディーは 上映控えろ 大笑い

   生落語 マスク外して 笑いたい

   若者に 軽症伝説 蔓延す

   母親は ついに自分で 髪を切り

   岩手県 喜べないが ホッとする

   ネットスーパー 例年お盆は 利用減るが

   猛暑なら コロナ退散 儚き夢

   ズボンの穴 暑い時期には 通気よし

   無為無策 経済学なら 意味はあり

   猛暑日に 感じる手摺りの 暖かさ

   この温度 体温なら即 PCR

   猛暑なら 裸でうなる 長トイレ

   用事あり 解除後外出 二度目なり

   重症化 真っ先あの世へ 障害者

   感染数 不気味に増える 高齢者

   野球帽 かぶれば髪の毛 ダルビッシュ

   ただの風邪と 呑気でいられぬ 寒候期

   朝寒く 掛け布団引く 秋はじめ

   ただの風邪 言説極めて 無責任

   日に焼けず 腕時計の跡 今年はなし

   タイガース 感染拡大 先導か

   ついでの用 あらば外出 彼岸花

   国勢調査 ネットでスーパー 家事とする

   トランプ氏 レムデシビルだけ 頼れずに

   根拠なく 強きを装う 人弱し

   トランプ氏 咳すりゃ負けだ 選挙戦

   不快感 一瞬コロナか 身構えり

   

   生きていれば 人それぞれに 苦労あり

   いつ死ぬか わからぬこの世は 不確実

   安心せよ 死ぬときまでは 生きられる

   反骨の 長生きへの思い より強く

2020年11月25日

ひょっとこ爺さん徒然の記

気分は文豪

 七年前の六十歳での定年退職後、私は再就職を希望しなかった。そうしてまで仕事を続けることは私のライフデザインでは想定されていなかったし、体力的にも気力の面でも難しいと判断していたからであった。しかしながら、それ以降の私のリタイアード(退職者)としての生活は決してつまらないものではなかった。

   自己紹介 リタイアードに 誇りあり

 「ひょっとこ爺さん徒然の記 壱」にも書かせていただいたのであるが、私は、定年退職後すぐの時期に新規開店した自宅から片道二キロ程度の大型スーパーへ週二回程度電動車いすで行っている(最近では新型コロナへの感染を避けるために緊急避難的にネットスーパーを利用するようになっているが)。道の途中には公園や鉄道模型メーカーの展示場もあり、また、多少の社会批判を含めて生活の徒然を描いた川柳や行き帰りの道端の草花の写真をSNSに投稿することも楽しみになっている。それに加えて、三年ほど前から、国連障害者権利条約に関連する「JD仮訳」プロジェクトの翻訳作業にもボランティアとしてかかわってきている。そのプロジェクトで翻訳すべき英文資料は大量であり、また、これからもかなりの多数の国や団体による資料が追加されることが見込まれるので、私としてはとことんライフワークになることを覚悟している。
 それだけでも私の生活は結構充実しているといえるのかもしれないが、私にはもう一つの楽しみがある。それはもう一つのライフワークといえるのかもしれない。私は、二十二年前の四十五歳のときから、それまで読みたいと思うことさえほとんどなかった小説を書くようになった。自分の読みたい小説がなければ自分で書いてしまえというような感覚であった。はじめのうちはちょっとしたものに加筆訂正しながら自作のホームページの中で公開していたが、その小説は加筆に加筆を加えることによって次第に長編になって行った。このようなスタイルの書き方は原稿用紙とペンによる執筆が行われていた時代であれば、ゴミ箱に投げ捨てられる原稿用紙が莫大になるので、簡単にはできなかったことであろう。内容的には、書き始めのころから、売れる本にすることも多少は意識しながら、濃密なエロス、暴力、不倫、殺人の描写が含まれる過激でヤバい小説を目指していたが、一方で、それだけのものにしたくないという思いも強くあり、背景となるストーリーを私自身の経験を投影しながらきちんとした形で細かすぎるほどに書き込むことを心掛けていた。そのような思いや手法の原点となっているのは、大学の教養ゼミで、社会批判の性格を色濃く有しながらも、性描写も激しかった米国黒人文学を読んでいたことであるのかもしれない。
 また、加筆の中では、五十歳のときの頸椎症での入院・治療と入院中に起こした謎の心臓発作に伴う検査・治療の経験が痛みや苦しみの描写の参考になった部分もあった。その発作は病名としては異形狭心症ということになっているが、再発したことはこれまで一度もなく、私としてはそれほど深刻だったとは思っていないが、そのときには死ぬかと思われたほどに結構危なかったと医師からは言われていた。
 それ以降も、仕事の合間を見ながら少しずつ書き加えを続けていたが、定年退職を前に原稿用紙八百枚近い長編になったので、私はその小説を、本名を使うことは内容的にさすがに憚られたこともあり、ペンネームで自費出版することにした。
 出版社からは、表現の問題点やそれまで私があまり意識していなかった表記の揺れなどに関してしっかりとした編集をしていただいた。そして、定年退職したときとほぼ同時期に出版に漕ぎ付けることができた。金銭的には、私としては多額の出費であったが、それに見合うものは十分にあったと思っている。出版した本の出来栄えもさることながら、出版社レベルの編集を経験したことは、その後の「JD仮訳」プロジェクトでの作業にも大いに役立っているはずである。ただ、人それぞれに状況や考え方は異なるので、私は他人には自費出版を奨めようとは思わない。
 その本はその後六年間で八百冊ほど売れたようである。それは一般的には売れたという数字ではないが,自費出版の小説としてはかなり売れた部類に入るらしい。また、全国で四十程度の図書館にも入れていただいてあり、そこからの貸し出しも結構多かったようなので、その本は千人以上の方に手に取っていただいた計算になる。私としては、ちょっとした文豪になったような気分である。また、私はインフォーマルな場では「文人」もしくは「エロ文人」と自己紹介させていただくこともある。
 そして、私はその本に原稿用紙四十枚ほどを加筆し、令和改訂版として昨年十二月に再出版した。その加筆には、以下に示した冒頭のように、重度障害者にかかわりのある本であるということを多少意識的に表に出した部分がある。それでも、全体としてヤバい内容の本であることには変わりはないのであるが。

 なお、川柳のことであるが、私がそれを作り始めたのは、三年ほど前に、脳性マヒ者としての人生の大先輩で俳人の花田春兆さんが九十一歳で大往生なさったことが一つのきっかけとなっている。そのときの一句を紹介させていただく。

   生き終えて 春の兆しの 夢歩く

 昭和、平成の時代が過ぎ行き、新しく令和の時代を迎えた。

 私は在宅医療での人工呼吸器をはじめとする濃密な医療的ケアと人的介護支援によって、もうすでに十五年以上ベッドの上での寝たきりの状態で生かされている。東日本大震災のときに東京地方を襲った震度五強の地震では、今度こそすべてが終わったと思ったし、その後の原子力発電所の事故の影響による電力不足によって人工呼吸器が動かなくなることを心配させられた時期もあったが、それでも私はこうして今も何とか生かされているし、生かされている時間をつまらないと思ったこともない。そして、今年の夏に行われた参議院議員選挙では、私のような重度障害者の議員が二人誕生した。それだけでも、これからの時代、結構面白くなるのかもしれない。安楽死や尊厳死なんぞ考えている時間はないし、思うことすら馬鹿らしい。
 そして、私は、極私的ではあるが壮大な目標を持つようになった。寝たきりになった理由が自業自得の自殺未遂であったので、このような目標を語ることには後ろめたい思いもあるが、今、ここにこうして生かされているのは、私でしかないのだから。

   必ずや 令和の時代 生き抜くぞ

 現在の私の年齢は六十九であるので、あり得ないとまでは言えないであろう。
 しかし、既に鬼籍に入ってしまった同級生が何人かいるということは聞いているので、私のところにもいつお迎えが来てもおかしくはないのであるが。

 そして、私は、この新しい令和の時代が平和であることを切に願っている。この物語の中での死者たちの冥福を祈りながら。

(ここでの「私」は私ではない架空の人物である)

 (了)

曽根原 純(そねはら・じゅん)

一九五三年二月生。都立武蔵丘高等学校から一浪後、早稲田大学政治経済学部経済学科入学・卒業。金融機関の在宅嘱託として三十四年間実務系の翻訳に携わる。退職後、フリー研究者(バリアフリー旅行、障害学)。翻訳家。

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