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1万年生きたこども 〜統合失調症の母を持って〜
  ナガノハル

この連載と現代書館note「一万年生きたこども」続編「一万年生きた子ども 統合失調症の母をもって」の単行本『一万年生きた子ども』(現代書館、2021)第70回日本エッセイスト・クラブ賞最終候補6作品に残りました

2020年1月22日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第一回

黄金の体と一万年の心が目覚めるとき

 過ぎて行ってしまう時間が惜しいという悲しみがずっとあります。ああ、私もこうやって、いつの間にか年老いて死ぬのだなと感じ、切なくなるのです。
 「死にたくない。永遠に生きていたい。」
 かつて、自殺未遂をしたこともある私が最近はそう思うようになりました。
 しかし、私はかつて永遠に生きていけるような黄金の体と1万年生きている心を持っていると感じていたことがありました。神にも近い存在の意識を持って生きていたのです。それは、それくらい万能じゃないと生きていけないという状況で生み出された命の爆発力でした。
 私の母は統合失調症です。
 私がまだ小学校2年生の頃、発病しました。当時はまだ、「精神分裂病」という名前で呼ばれて、差別が酷かった頃です。我が家では「キチガイ」という言葉は禁句でした。それは、外に出ればたくさん聞こえてくる言葉だからです。  

     ※

 「ママ、お姉ちゃん、駅だよ降りなきゃ!」
 「うるさい!」
 母は起こそうと必死な私の頬をひっぱたいて、電車の床に大の字になってしまいました。火がついたように熱い頬。普段は決して手を上げない母でした。偶然ぶつかってしまったのかもしれません。眠って起きない姉。「何、あの母親子供がかわいそう」という囁き声。哀れみと奇異の視線。
 それは、杉見クリニックの帰り道でした。
 薬の影響で眠気がひどく、呂律もまわらず、寝込んでしまうと起きない母。股をおっぴろげて、今にも椅子から落ちそうです。私はそれがとても恥ずかしいのですが、どうしようもできません。わずか、8歳とはいえ、周りから見て、恥ずかしいこと、世間でやっていたらおかしいことの区別はつきます。病気の母にはもう、そういう意識はまったくありません。脛毛がぼうぼうの足を出したままです。そんな母のために乗り換えの必要がないよう、いつも電車は鈍行を乗りました。家の駅で降りなければいけないと私は常に緊張して電車に乗っていました。姉も鬱病にかかっており、二人とも正体をなくすほど寝込んでいるのです。
 頬を叩かれたとき、電車の床に大の字になられたとき、私は意識が変容するのを感じていました。この惨状を目にしても周りの大人は誰一人として助けてくれません。皆、遠巻きにして見て見ぬふりです。私がなんとかしなくてはいけない。30秒あまりの停車時間の内になんとか二人を降ろさなければ。
 その時、私の体は黄金に変化したように強くなりました。心は偉大なる人々と連なる時間へと繋がり、1万年生きている大人のように落ち着いたものになりました。
 「早く降りなきゃ、」
 私は母をなんとか起こし、姉を引き連れて、転がり落ちるように駅のホームにへたりこみました。
 私はその時から、本当の大人になってしまうまで、黄金の体と1万年生きる大人として生きていたのです。誰よりも自分を大人だと思っていました。大人たちが幼くてかわいいと思っていました。私は8歳あまりの歳で完璧な神にも近い存在の意識となったのです。それが私の生きたいという命の爆発でした。統合失調症の母、鬱病の姉、スーパーの店長をしていてほとんど家にいない父。そんな環境で生き抜くためにはそうする他にはなかったのです。私は子供時代を捨てて生きる生存戦略を図りました。
 母は日本画家を目指していました。ベイブリッジの建設が大黒ふ頭で始まり、母はその建設の様子や鳶の人々にいたく感動し、それを絵の題材としようとしていました。私と姉を正面から描き、背景に建設中のベイブリッジ、そして、海のうねりがあるという構図です。
 母は学校が終わった私と姉を連れて、毎日のように大黒ふ頭に通いました。母が絵を描く間、私と姉は近くの公園で遊び、母から時々モデルになってほしいと言われると、しぶしぶベイブリッジを背景に立ちました。
 母は自分の食事を取るのも惜しみ絵を描きました。いつもバックにはカロリーメイトが入っていて、私は時々おやつとして貰うのが楽しみでした。
 母は専業主婦でした。ぬか床にきゅうりやナスを漬け、味噌汁の鰹節はわざわざ毎日削り出していました。生活に一切手を抜かないのです。そんな中で、二人の娘を育て、なおかつ日本画にも精力的に取り組んでいました。父は仕事が忙しく、母の家事をあまり手伝っている様子はありませんでした。母はいつもヒステリックに怒っていました。思えば、統合失調症になる以前から精神の調子はよくなかったのかもしれません。
 そんな母が本格的に病気となったのは、家を購入し、そのリフォームとベイブリッジの絵の本画の仕上げが重なった時でした。母は小さな頃に両親を亡くし、歳の離れた兄妹たちに育てられ、17歳で父と結婚しました。家事を教えてくれる人は誰もいなく、家事雑誌を買って、それの通りに家事をしていました。特にお正月は盛大でした。クリスマスが終わると、黒豆を石油ストーブで煮る作業が始まります。皺のない黒豆を作るのはとても難しいと母はいつも出来上がったしわしわの黒豆を見て残念がっていました。栗きんとん、田作り、伊達巻き、梅の甘煮、富士山蒲鉾、日の出みかんなど、手のこんだ料理たちでした。それを一週間くらいかけて作るのです。今にして思えば、そんなに主婦業に手を抜かず、子育てもしながら、本格的な日本画を描くというのは無理なことでした。
 日本画家としての最高峰である院展の入選を目指していました。
 家事が片付いた夜中が母の絵を描く時間です。母は睡眠時間を削って絵を描きました。その頃、絵が少しずつ認められはじめられ、えらいお坊さんに肖像画を描いてほしいという依頼も舞い込んできていました。母は意気込んでいたのだと思います。
 東田病院の入院のきっかけを私はほとんど覚えていません。あまりに苛烈な体験は忘れてしまうのでしょう。いつか、思い出す時がくるかもしれません。それより以前、母が目の痛みと頭痛を訴えていることはおぼえています。今回、原稿を書くにあたり、改めて確認したところ、幻聴がきっかけで、父が探してきた東田病院に入院させられたということでした。それは強制入院に近いものだったと思います。病院は鉄格子がついていました。一度お見舞いに姉と行ったとき、母はトレードマークの長髪をざんばらなショートカットに切られていました。そして、似合わないスウェットの上下を着て、ものすごくゆっくりの動作になっていました。薬の副作用だと思います。私は母の自慢の黒髪が切り落とされていることに非常にショックを受けました。今なら考えられないことですが、当時はお風呂に入れるのが楽だとかそういう理由で髪を切られていたのです。大量の薬を飲まされ、薬を拒否すると隔離室に入れられてしまう。母は一刻も早く従順で大人しい患者を演じ、病院から脱出することを考えていたと言います。
 母はおそらく3週間ほどで退院しました。食事が取れなくなり、ガリガリに痩せていました。私や姉は母のために飲み込みやすいゼリーやヨーグルトを買ってきて、母に渡しました。母の痩せ衰えた姿が悲しかったです。そして、それから母の精神病院探しが始まるのです。東田病院でうけたひどい仕打ちのことを母は忘れません。東田病院では治らないことをわかっていたのです。小学校から帰ると母は色んなところに電話をかけていました。インターネットのない時代です。病院探しは苦労しました。区の保健所などに聞いていたかと思います。
 そして、とうとう見つけたのが杉見クリニックでした。家からバスで最寄り駅まで20分乗り、鈍行の電車に揺られて40分、そこからものすごく急な坂を登って30分。杉見クリニックはとても不便なところにありました。そこにはたくさんの精神病患者が来ていました。坂を登っていると、患者たちが途中休憩をしています。私や母もその道行に連なりました。患者たちは健康な人と違うので、すぐ見分けが付きます。私はそこで、精神を病んでいる人の独特の振る舞いを学びました。眉の下がった不安な目、口で呼吸しながら震える唇、なかなか用件を言い出せないどもりと呂律の不自然、お腹だけがつきでた奇妙に太った体、引きずる足、財布と診察券を握りしめて震える手。
 杉見先生は「あの坂を登るのはたいへんだろう。健康な人の何倍もかかるだろう。あの坂を軽く登れるようになったら、きっと病気はよくなる」と言って、患者たちを励ましました。
 私は1万年生きる大人の意識を持った子どもだったので、その患者たちすべてを愛おしく感じていました。杉見クリニックでは精神病者として差別されることはありません。皆、同士なのです。私はなるべく患者たちに親切にしようと思いました。この患者たちも外の世界ではたくさん差別を受けているのです。
 だから、杉見クリニックの帰り道の電車で頬を撃たれたときも、母に憎しみはわきませんでした。ただ、黄金の体があること、一万年生きている意識であることに気がついたのです。私は何よりも差別を憎みました。人の目ばかりを気にしました。母に普通であってほしいと無理な願いをしていました。
 でも、母を憎みはしなかったのです。

※本稿に登場する医師・病院名はすべて仮名です

2020年2月26日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第二回

墓で息をする

 杉見クリニックに通い初めて、母はやっとご飯が食べられるようになりました。
 その食欲は爆発的で、1リットルのアイスクリームを一度に食べたり、バターをまるごとかじったりというものでした。それはおそらく向精神薬の副作用だと思います。けれども痩せ衰えてしまっているよりはましでした。杉見クリニックに来ている呂律の回らない患者たちはほとんど太っていて、お腹だけ突き出ています。母もそのような体型になっていきました。
 私はその母の体型を恥ずかしく思って、痩せてほしいなどと無理な願いを言っていたと思います。同級生に母を見られるのが怖かったのです。
 母はよく家から勝手にいなくなりました。
 小学校から家に帰るとまず、母がいるのかどうかでドキドキとします。
 二階の万年床で寝ていれば、安心ですが、いなければ私は母を探しにでかけました。行くところはだいたいわかっているのです。母は聡明寺のお墓によく行きました。空気が澄んでいて、息がよく吸えるというのです。
 聡明寺はその宗派の大本山です。たくさんのお坊さんが各地の寺を継ぐために修行に来ていました。私の町ではお坊さんをよく見かけるのが当たり前の光景です。本屋やスーパーなどで若い僧が修行から離れて一時の買い物を楽しんでいたりします。他にも高僧が薄紫のセミの羽のように透ける美しい着物を着て、付添の僧にかばんをもたせ、電車などに乗っている様子を見かけていました。母はお坊さんが大好きでしきりに「きれいだ。きれいだ。」と元気な頃から言っていました。
 「ハルちゃん、紫は高貴な色とされているから、位の高いお坊さんしかまとってはいけないんだよ」
 母はそう教えてくれました。
 その聡明寺で母がスケッチしていたところ高僧から声をかけられて、その自画像を描くことになったのは母にとって初めての大きな仕事でした。絵は50万ほどで売れたと思います。いや、100万だったかも。記憶が曖昧ですがとにかく高額で売れました。私は聡明寺に絵を受け渡しに行くのに姉とついていきました。絵は一畳ほどの大きさです。紺の布に包んで大事に母が運びました。私達が聡明寺の大会館に行くと特別な客のように扱われました。靴を脱ぐように促されます。私は汚い運動靴と真っ黒な靴下で入っていいものかどうか迷いました。6畳ほどに仕切られた小さな部屋がたくさん並んでおりその一室に通され、黄土色の和服に身を包んだ年老いた高僧と対面しました。私は不思議と誇らしく、母がとても大事な仕事をしているのだと思ったものです。夢心地でした。
 そんな体験をした聡明寺は母にとって特別でした。
 病気になってからも聡明寺に行きたがり、
 「ハルちゃん、ご覧よ。天女が飛んでる」と何もない大会館の屋根の青空を指して嬉しそうにしていました。
 私はその頃にはもう、1万年生きたこどもだったので、無言でその空を見上げて、否定したりはしませんでした。ただ、母の純粋さが愛おしくて、それが差別されてしまうことが悲しかったのです。母には母の世界がある。1万年生きた私はその母の世界の理解者でありたいと思いました。でも、世の中の大人たちから奇異の目で見られることを恥ずかしがる自分を恥じていました。大人たちはそれを理解するには幼すぎるのです。私は大人たちの無知もまたわかっていたのでした。
 母が幻覚を見ていることは、自然と私にはわかりました。誰からも説明されたわけではありません。母は私には見えないもの、聞こえないものを感じ、そして苦しんでいました。
 その苦しみがなぜ起こるのかはわかりません。
 学校から帰って母がいないとわかったとき、姉と連れ立って聡明寺のお墓に行きます。
 そして、いつも休んでいる木陰で母を見つけ安心しました。
 母はほんと純真にこどものようになってしまっているのです。
 頭が痛い、目が見えない、息が苦しい、便秘がひどい。母の訴えはいつも身体症状として出てきました。だから、母は精神の調子が悪くなってそういう症状が出ると、ありとあらゆる病院に行って、検査してもらうのです。もちろん、検査してもどこも悪くはありません。病院はただ検査だけして、「悪いところはありませんでした」と母を追い返します。高額な治療費。頭が痛いということでCTスキャンを受けたこともありました。私にはたぶん、母の病気は脳外科では治らないことはわかっていました。けれども、母の気が済む方法がそれしかなかったのです。賢明な医者は母に「あなたの病気は私では治せませんよ」といって精神科に行くように促してくれました。でも、そんな医者はごくまれでした。
  

     ※

 「ママ、大丈夫?」
 母をいち早く見つけた姉が駆け寄ります。
 「お姉ちゃん、ここなら息が吸える」
 「じゃ、しばらくここにいよう」
 私より4歳年上の姉は母のことを何より一番に思い、優しい人でした。
 母の入院中、退院してからもご飯を作る人がいなくなり、姉が作ってくれました。姉はいつでも母の味方でした。
 聡明寺には大物俳優のお墓があって、母はよくそこを見舞っていました。
 お供え物も何も持たずに来るのです。
 そこで私と姉は思いついて、「お供え物をつくろう」ということになりました。
 野の花を摘んできて花束を作ります。ぺんぺん草、貧乏花、つゆくさ、四葉のクローバーいろいろ入れます。姉と競うように集めていきます。しかし、お供え物がお花だけなのは寂しいです。
 「そうだ、お団子をつくろう」
 私は土を集めて泥団子を作り始めました。水はお墓の水道が使いたい放題です。お墓は私にとって怖いものではなく、楽しく安心できる数少ない遊び場でした。まず、人が来ません。人がいるところでは母が人々に奇異の目で見られてしまいます。そして、母はお墓だと息が吸いやすいというので、じっとそこに座っていてくれます。母がどこかにいってしまうのではないか?と心配しソワソワしないで遊べる重要な場所でした。
 私は自分の手の大きさほどの泥団子を丸めて固め、外に砂でまぶしてきなこに見立てました。あの世の大物俳優の好物はわかりません。でも、あの世にはお供え物がそのまま届くのではなく、お供え物の概念みたいなものが届くと思っていたので、泥団子でもあんこにきなこをまぶしたお団子が届くと思っていました。
 姉と二人夢中になって大物俳優のお墓に野に咲く花々の花束、泥団子を供えていきました。
 その時です。お墓の出入り口のほうが騒がしくなりました。わいわいがやがやと5〜6人の女の人たちがやってきます。
 「やばい!隠れなきゃ」
 私にとって、社会で生きている大人というのは実際的に恐怖の対象でもありました。特に母と連れ立っているときは。何を言われるかわかりません。姉も思いは同じでした。二人で休んでいる母の位置を確認します。幸いなことに母はお墓の死角になる木の下に座っていました。これならば、私達二人が隠れれば済むことです。さっと、二人で森の方に息を潜ませます。
 「ああ、こっちね」
 キラキラとカラフルなスーツの中年の女達が大物俳優の墓の前で立ち止まりました。どうやら、有名俳優のファンの女達が墓参りに来たようです。
 「こんなに散らかして、お墓は遊び場じゃないんだから!」
 中年の女達は私と姉のお供え物である野の花や泥団子を蹴散らして、掃除を始めました。ガヤガヤとほうきで履いたり、桶から水をかけたりして念入りです。そして、一通り掃除し終わると、高そうな花やお菓子を備えました。
 一軍が去っていきます。敵はいなくなりました。大物俳優のお墓を確認すると、私たちのお供え物はきれいさっぱりなくなっていました。きらびやかな花とお菓子。私と姉は黙ったまま何もいいませんでした。二人とも同じ気持ちだったのでしょうか。私はただ、世間の不条理というものを感じていました。自分が1万年生きたこどもとはいえ、まだ、どこか幼さが残っていることを悔しく思いました。あのキラキラとしたスーツをきた女達がこの不条理を知らないことを哀れに思いました。私は母の病気のおかげでこの世には世間でふつうとされているいいことがすべてひっくり返る体験をしているのです。あのスーツの女達は母を蔑むでしょう。でも、わかっているのです、私には。それがどこか間違っているということも。杉見病院の患者たちのことを思うからです。母の病気を唯一理解してくれる杉見先生、先生だけが1万年生きているわたしと同じくらいの大人なのです。本当の大人は杉見先生のような人のことで、町で見かける母に侮蔑の眼差しを送る大人たちは大人ではないのです。私より幼い愚かな人たち。そして、同時に幸せな人たち。
 私の不幸は1万年生きた意識で万全に母をそういう幸福な人たちから隠すことでした。母はもう幸福な人たちの前で、自分もその一員だというふりをやめてしまったのです。そもそも、幸福な人たちもふりをしているだけかもしれません。幸福なふりはできるのです。社会で爪弾きにされないこと。奇異の目で見られないこと。そのふりをやめてしまった母を日中は私と姉で守っていました。
 女達が去って、母のもとに戻ります。もう、夕暮れも近くなってきました。
 「ママ、私が作ったお供え物が全部、蹴散らされたよ」
 1万年生きた意識はなくても、私と同じ、杉見先生と同じ世界を生きているはずの母。
 「ハルちゃんのお供え物のほうがきっと喜んでくれたよ」
 母は優しく返してくれました。母は病気になって、どんどん世間の認知が歪んでいきましたが、大切なことはわかっているのです。母はどんなに病状が重くなっても、姉や私に辛く当たることはしませんでした。いつも愛してくれました。それは母なりのやりかたでしたが、私にはそれがよくわかっていたのです。

※本稿に登場する寺院・医師・病院名はすべて仮名です

2020年4月8日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第三回

誰も来ない運動会

 1万年生きる子どもである私に、純粋な子ども時代がなかったかというとそうではありません。家では母が中心でまわっていましたが、小学校ではただの子どもとして存分に過ごしていました。
 小学校は楽しく、母のことを気にせず、過ごせる貴重な場所でした。
 私は勉強が良くでき、リーダー的存在で、積極性もあり、先生にかわいがられる生徒でした。それも、あざとくそうしているわけではなく、天性としてそういう子どもだったのです。毎学期、まとめてもらう新品の教科書が楽しみで、国語や社会はその日のうちに読み終わり、算数は勝手に自習し、1ヶ月で自力でやり終えていました。ですから、授業は全部復習みたいなもので、成績が良かったのも当たり前と言えるかもしれません。4歳年上の姉が参考書で勉強しているのにとても憧れていました。小学校1年生のときから参考書をねだり、父に「まだ、1年生は参考書がないんだって」と言われたのをよく覚えています。2年生からは買ってもらいました。また、父は勉強のできる人でわからないことがあると喜んで教えてくれました。父は休みの日はすべて数学の勉強に当てているような人で、特に数学の話を喜んでしてくれました。「ハルちゃん、1+1が2であると認識できるのはすごいことなんだよ。人間は数を数えられるんだ。0という数字もインドの人が発見したんだよ」ととても楽しそうにわかりやすく話してくれます。私は父と勉強の話をするのが大好きでした。家には毎月ニュートンという科学雑誌が置いてあり、宇宙の秘密、ブラックホール、多次元宇宙、相対性理論、量子力学などに思いをはせていました。ニュートンという雑誌はそういう理論をカラーの色付きで小学生にもイメージしやすくしてくれるのです。いずれは自分もそういう難しい偉大な知識がわかるようになるのだと思い、毎日の勉強をしていました。
 病む母を持つ私にとって学校は唯一の救いだったのです。
 学校の先生には母が精神病であるとは言っていませんでした。父も事情を話そうとしなかったし、私も先生には何も言いませんでした。ただ、一人の小学生として生活できるのが何よりの恵みだったのです。
 家に帰ってくると1万年の子どもになるしかないのです。しかし、それもときに子どもらしいアイディアで日常が冒険になることがありました。
 母は夕食を作れません。父も帰りが遅く、私と姉はどうにかして夕食を調達していました。歩いて3分のところにスーパーがあるので食材の調達には困りません。
 ある日、私と姉は玄関先の石段でバーベキューをしたらどうだろうと話し込みました。当時、2人で料理ごっこが流行っていました。互いがシェフになり、近所の草木を調達する材料探し、調理、そして互いに料理の説明と披露、食べ合う真似をするのです。それが、実際に食べれたらどんなに楽しいでしょうか。夜ご飯がバーベキュー!なんとわくわくする響き。さっそく、スーパーであじを買ってきます。そして、割り箸を薪にしてもうもうと火を起こし、竹串で串刺しにしたあじを焼きました。夕暮れ迫ってくる中の玄関先での調理。日常生活が遊びでいっぱいになります。私と姉は玄関先であじを食べ、夕食を済ませました。
 あとから聞くと、母は、なんとなく私達の様子を察知していたようで「何か危ないことをしているけれど、止めるために起き上がることができない」と思っていたようです。おとながいれば、火を子どもだけで起こすなんて危ないし、絶対止められていたでしょう。事実、火遊びは危ないです。でも、子どもだけの世界で、生活も遊びになるのはとても楽しい思い出でした。
 そんな風に楽しく過ごせるときはいいのですが、私が子どもでいられないときは来ます。

 運動会の開催をつげる空砲が小学校一帯に響きました。
 体育の日の空は快晴ではありませんでした。薄いみずいろの空にレースのような雲がかかっています。私は体操着を着て、赤白帽をかぶりました。もう、姉が中学生になっていたので、小学校4.5年生頃の話だと思います。体育の日は祝日なので、姉と母は2階で寝たままです。父はスーパーの雇われ店長なので祝日も関係なく働きます。今朝も早くに自転車で出勤した後でした。私は万年床で眠る母を揺り起こしました。けれども、強い薬で眠る母はなかなか起きません。小さな頃、夜中に目を覚まし、暗闇が恐ろしくなったり、トイレに行きたくなると、隣で眠る母に本当に小さな声で「ママ」と呼ぶと、母はすっかり目を覚まして、「どうしたの?」と答えてくれました。私は泥のように眠る母に昔の母とはすっかり別人なんだと思いました。
 「今日は、運動会なんだ。給食でないから、お弁当持ってきて」
 「ああ、そおなんだぁ」
 母は呂律の回らない声で答えるとまた寝てしまいます。
 私は不安でした。なんで、運動会は給食がないんだろう。他の子どもたちはお父さんやお母さんが来て、シートを広げて、豪華なお弁当をみんなで仲良く食べるのでしょう。でも、今の母にそれは期待できません。どうにか、弁当だけでも持ってきてくれればと思いました。
 玉入れ、ダンス、大縄跳び、と午前中の種目は次々終わります。
 私の心配は弁当のことだけでした。
 競技の様子を見守るみんなのお母さん、お父さん、おばあちゃん、おじいさん。ぐるっと見回しても当然、母の姿はありません。
 「それでは、お昼の時間になります。競技は1時間後からです」
というアナウンスが響き、とうとうお弁当の時間がきました。
 私は皆がそれぞれの弁当を食べるシートをひとつひとつ確認してまわりました。どこかに母や姉が来てないものだろうかと。もう、3回も巡った頃でしょうか。それほど、親しくない磯辺さんの前で声をかけられました。
 「ハルちゃん、お母さんいないの?ここで一緒にお弁当食べていきなよ」
 磯辺さんは家の近所にありましたから、もちろん母の病気のことも知っています。近所では有名なのです。私はそのことが恥ずかしくなりました。
 「いい、待ってる」
 それだけ言い残すと、さっと走っていきました。
 もう、学校内を探すのはやめよう。いないことはわかっているのだから。
 家から近い学校の門の前で待っていることにしました。じっと目を凝らして立ちんぼします。来るはずがない、でも、もしかしたら・・・。淡い期待と絶望的な気持ち、孤独感。みんな、家族があり、お弁当を食べている時間に自分は一人です。
 人の流れは多くあっても母の姿はありません。虚しく時間が過ぎていきます。
 校門にある桜の花が6月と10月になると決まって、毛虫を大量発生させているので油断なりません。今も毛虫がたくさんいます。大抵、何もしらない年少の生徒が数人犠牲になり、首から背中にかけて真っ赤に腫れ上がり、早退しました。毛虫にやられた色白の少年のぐったりした姿は痛々しくも美しいものがあり私は見とれていました。首筋に毛虫が滑り込んで泣く男の子を保健室に連れて行ったこともあります。危険に鈍い彼らの白い肌がぶつぶつと赤くなって、震えて泣くのをなぜか私は残酷にも美しいという気持ちがしていました。
 昼の残りが15分を切ると私は諦めて、教室に一人戻りました。校庭にいては、また礒辺家のような家族に弁当を食べていないことが見つかると思ったからです。誰もいない3階の教室から校庭を眺めます。一陣の風が弁当を広げる家族たちのシートを翻しました。校庭にある小学校の象徴とも言えるアスレチックツリーの天辺を銀杏の黄色い葉が飛んで舞います。それはどこか非現実的のような光景でした。私だけがこの小学校で唯一の完璧な意識のような気持ちがしました。また、1万年の心が立ち上がります。不思議とお腹はすきません。私には黄金の体があるのです。1食抜いたくらいなんでもないことです。担任の先生に弁当がないということを言おうという気は全くありませんでした。言えば、母が精神病であることもバレでしまいます。学校は私が唯一、子どもらしくあれる貴重な場所なのです。私はそれを失いたくありませんでした。私は教室にひっそり隠れ、人間界に舞い降りた神に近い気持ちで、おとなやこどもが弁当を食べる様子を見守りました。私はあの一群には入れない。でも、それは1万年生きる子どもだからなのです。
 そして、私は弁当なしで、午後のリレーのアンカーをつとめました。もちろん、1番にゴールしました。私は生まれもって足が早いのです。弁当がなくても走れるものだなと思いました。同級生たちには弁当を食べていないことを隠しました。誰も何も知りません。ひもじい気持ちもしません。それどころか少し安心しました。
 精神を病んだ母が小学校に来て、好気の目にさらされるよりはきっとましなのです。弁当を一緒に食べようと言っていた磯辺さんとて、油断なりません。彼らの目は二重ガラスのようになっていて、表面の眼球はシャボン玉のように光を反射して真意を悟られないようなしくみになっているのです。どんな親切なおとなも油断ならないのです。
 ふいに空が重苦しい黄色い雲で覆われて、大きな雨粒が落ちてきました。
 運動会は教室の椅子を校庭に並べて見学します。教師たちが「雨が降ってきたので、先に椅子を持って教室で終わりの会をしましょう」と生徒に声をかけます。
 その時、椅子をつかんだ私の目の前に小さな竜巻が現れて、あっという間に校舎と同じくらいになりました。周りの子どもたちはなぜか竜巻に気が付きません。くすだまの花吹雪を巻き込んで、私は巨大な竜巻に目を奪われました。ゴミ袋、枯れ葉、テープ、いろんなものが空に巻き上げられていきます。
 その年、近くの小学校で、校庭で練習中のブラスバンド部の前に大きな竜巻とかまいたちが表れて、子どもが一人死んだという噂を思い出しました。隊列の練習で「前に進め」という教師の指示に従順すぎる子どもがその指示に従い、竜巻とかまいたちの中に入ってしまったというのです。
 従順すぎる子どもたちを不憫に思いました。私ならきっと、教師の指示を無視して竜巻から逃げることができたでしょう。
 誰も気がつかない竜巻。それは、私が見た幻想だったのでしょうか?

 家に帰ると、母と姉は万年床で寝たままでした。
 私は「どうして弁当を持ってきてくれなかったの?」と言ったか言わないか記憶がありません。言ったところでどうにもならなかったでしょう。ただ、家では運動会に弁当なしで挑んだということは特に話題にもならず、終わりました。私は運動会で埃っぽくなった体の感覚ばかり覚えています。あとは、ただ、眠る姉と母。
 私は一人でした。外は雨。
 一階の薄暗い台所に座り、じっとしていました。学校から帰るととたんに重苦しい日常になってしまいます。私にとって、学校が唯一の救いだったのに、運動会というイベントは私の苦しい日常の延長になってしまいました。誰でもが元気な家族がいて、仲が良くて、弁当を持ってきてくれるわけではないのです。そのことが普通の大人たちにはわからないのでしょう。幸福な人たちには精神病の母と生きる私の不幸など思いもつかないのです。そして、わかったとしても精神病というだけで奇異の眼差しを向けるだけです。おとなになった今はそれが差別だとわかります。しかし、当時は、自分が特別な子どもであることをただただ噛み締めました。
 学校でも家での空気感を感じるとはこんなに辛いことなのか、そして、学校でも1万年の子どもになったことをよくよく考えました。
 私はどこまでも無力でした。

※本稿に登場する個人名は仮名です。

2020年5月7日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第四回

初恋と不法侵入

 「わかりました。すぐ行きます」
 私は慎重に受話器に向かって答えました。
 近くの交番の派出所から「不法侵入で母を保護している」と、電話がかかってきたのです。私はすぐに父が店長する店に電話します。
 「ママがまた、交番にいるんだって」
 「パパ忙しいんだ。ハルちゃん、お姉ちゃんと一緒に迎えに行ける?」
 「うん」
 姉はまだ中学校から帰っていません。でも、私は父を困らせると思い、そのことは言いませんでした。私は一人で行く覚悟を固めました。父も仕事で動けないのです。
 一万年生きるの意識が立ち上がります。私は黄金の体に変化しました。
 母が交番に保護されるのは2回目です。1回目は父と一緒に行きました。だから、どうすればよいかはわかっています。けれど、一人となると勇気が必要でした。
 交番は家から歩いて10分ほどの花屋の角にあります。
 私は速足で向かいました。息を整えてから、交番に入ります。
 「すみません、」
 わずか、10歳でしたが、大人のようにふるまいました。私が顔を出すと、大柄な警官は事務的に母を促しました。
 警官とはすっかり顔見知りになりましたが、それほど親切というわけではありませんでした。ただ、黙々と仕事をしているだけです。でも、侮蔑のまなざしを向けたりはしませんでした。
 母は警察が好きでした。それは、「キチガイ」である自分を唯一、人間として対応してくれる人たちだからです。他の人は杉見先生を除いては、ただジロジロと見たり、呂律の回らない発話をいぶかしんだりするだけで、きちんと話の内容を聞こうとしようとはしません。母の妄想を誰よりも理解していると確信していた一万年生きる私は、世間の人々も母の話を全部聞けばそんなにおかしなことを言っているわけではないのにと思いました。母には母の世界があり、それは世間とは一線を画しているだけなのです。でも、妄想で生きる人のことを世間の人々は認めません。自分の世界が唯一絶対正しいと信じ込んでいるのです。それは妄想の世界を恐れているようでもありました。私は、母の妄想の世界を恐れたりしません。
 警察は統合失調症の人の扱いにも慣れていて(おそらく、そういう人をたくさん対応するのでしょう)、表面上は優しく接してくれました。
 私を見たことで帰宅を悟った母はさっさと歩きだします。
 私は無言でその後ろをついていきました。こんな姿を同級生に見られたら恥かしくて死んでしまいたくなります。周りを警戒して、人の目線の行く先に敏感でした。私は自分が誰よりも大人になってしまっているので、世間の常識というものに敏感でした。世間を恐れていました。そして、その恐れを母や姉から責められました。「ハルちゃんは常識人だね」と嫌味を何度も言われました。「常識人のハルちゃんは、人前で怒鳴られるのが一番嫌なんだろう」と母がわざと人前で大声を出したこともあります。
 私は自分が「常識人」であること「人の目を気にすること」を恥じていました。我が家の価値観では、人の目なんて気にせずに好き勝手にふるまうのが一番とされていたからです。
 今から思えば、人前で暴れたり、大声を出したり、怒鳴られたりすることなんて、誰でも嫌だとわかります。しかし、当時の私にはそれがわからず、自分が悪いのだと思っていました。 
 母のひまわりが一面に散っているワンピースは夕闇に目立ちました。私はそれがとてもいやで、黄色が嫌いになりました。
 母はお腹だけ突き出た体形でそのワンピースを着るので妊婦のようなフォルムになりました。けれども、顔を見れば、誰でも妊婦であるとは思いません。変な太り方でした。手や足は細いままなのです。母はワンピースを気に入っているらしく、何枚も同じ形のものを持っていました。

 翌日、小学校から戻るとまた、母の姿がどこにもありません。
 私は不安になりました。
 追い立てられるような焦り。悪さが見つからぬようにびくびくしています。私の毎日は不安と焦りと恥の連続です。それをどう回避できるか知恵を絞らなくてはなりません。
 私は鍵をかけ、確かめると家を飛び出しました。警官に捕まる前に私が保護しなくてはと、心当たりの路地をくまなく探します。
 (またあの家に行ったのだ)
 私は心臓に冷たい砂をサァーっと流し込まれたように体が震えて怖くなりました。母はそのころ久保田さんという見ず知らずの人を自分の初恋の人、父とは別にプロポーズしてくれた人だと思い込み家の中に勝手に入ったりして通報されていました。
 案の定、久保田さんの家のまわりをぐるぐるまわる母を見つけました。
 「帰ろう、久保田さんはいないよ」
 母を強く引っ張ると、思いっきり手を払われました。
 「そんなことはない。久保田さんは私のことが好きなのだ。だって、家に勝手に上がっても、やさしく「だめだよ」というだけだった。」
 それは、「キチガイ」への哀れみなのだと私にはわかっていました。でも、その人は私が母を追って奔走するさまを見て、言葉をかけるでも、不審な目をするでもなく、ただ迷惑で、少し気の毒そうな顔をしていました。
 久保田さんは私から見ても、美貌の男でした。がっしりとした肉体を持ちながら、やわらかい物腰は色気があります。
 私はその頃、誰よりも母の妄想の理解者でありたいと願っていました。一万年生きるこどもである私には母の妄想の世界の話を一緒にできるという自負があったのです。それは、母よりも母の世界を一手先に理解し、母のやってほしいことをやるということです。そして、母の世界と現実の差別の世界の狭間をカミソリの刃の上を歩くように上手くやっていくということなのです。世界は母を異物として扱います。遠慮なく侮蔑のまなざしを向けてくるのです。私はそれがとてもつらいことでした。だから、母の妄想を上手くコンロトールして、妄想がある母でも世間とうまくやれるように調整することが私の役目のように思っていたのです。だから、そのためには何より母の妄想を知っていることが重要でした。私はいつも緊張していたのです、自分が上手く立ち回らなければ、途端にカミソリの刃を歩くぎりぎりの世界から落ちてしまうと。
 母は目の前の久保田さんと初恋の人が別人であることはわかっているようでした。けれども、久保田さんが自分のことを好きだと言って譲らないのです。父のことはどうなっているのだろうとかを私は考えることを当時しませんでした。とにかく、母の妄想に合わせて生きること。そして、社会から母を妄想ごと守ることが私の使命でした。
 母は久保田宅の斜め向かいの塀に立ち尽くしています。
 待っているつもりなんでしょう。
 巨大な枇杷の木と肉厚の葉が母を世間の目から隠しているようで、その場所はちょうどよいと私は思いました。
 (納得するまで待てば帰るだろう。)
 母の妄想を否定して、「久保田さんはママのことなんて好きじゃないよ。迷惑してるし。不法侵入は犯罪だよ」などと言っても無駄なことはわかっています。
 私は母から少し離れた駐車場の車止めにすわり、砂利をもてあそびながら待ちました。
人通りの少ない路地に時々、夕飯の買い物の主婦や豆腐屋が通り過ぎます。そのたび、私は緊張して身構えました。母をじろじろ見る人ならば、警戒しました。久保田さんが帰ってこないことを祈りました。平日なので、いない時間帯です。久保田さんが何をやっているか知りませんが、勤め人であることは確かです。しかし、母はそれを理解できないので、毎日待ち伏せしているのです。久保田宅は古い木製の塀で囲まれた平屋です。外から見える庭らしき部分には濃い緑しかなく、常に日陰を持っています。家全体が重苦しく、暗く、じっとりとした闇を隅に隠しています。幸福の絶頂から没落したような雰囲気が家にも久保田さんにもありました。
 母を待ちながら、私は貧血を起こしていました。
 視界の端々が薄暗く、自分がずっと遠くに行ってしまうようです。脂汗がにじみ、得体の知れない不安でおかしくなりそうでした。背後に私を罵倒する男の気配を感じました。それは、私にとって物心ついたころから付きまとう影です。幻想と幻聴の間の傍若無人な罵声は気がつくとすぐ近くにやってきてしまうのです。
 私は、まずいな、またあの暗黒焼け野原に落ちるのだと思いました。
 「おまえはだめだ!おまえはおかしい!」
 そういう幻聴のような声が頭いっぱいになってしまうことが私には時々ありました。
 けれども、私はそれが幻聴であることを理解していました。
 しかし、私はどんなに胸糞悪くなっても、苦しくとも、立ち続け、泣き叫ばない自信がありました。恐怖で身をすくませても、恥で体が業火に苛まれても、不安にべったりと息を塞がれても、軽蔑のまなざしが矢のように降り注いでも、意地の悪い同情が覆いかぶさっても、意地の悪い視線に心臓が限界まで震えても。私にそなわる冷徹な理性はとっくの昔に私の感情は抹殺しました。それでも残る心は切り捨てておいて行きます。生きるために。一万年生きるこどもであるとはそういうことです。
 路地を抜けて、魚屋の時計を確認します。もう、何度往復したことでしょうか。
 「もう、4時だよ、お腹もすいたし、帰ろう」
 「お腹すいた?」
 「うん、」
 私は母がこどもをかわいがる心だけ残していることを知っていたので、それを利用しました。お腹をすかせたこどもに飯をやることだけは忘れないのが悲しくも愛おしいのです。私はやはり、確かにこの人のこどもであることを納得しました。それだけが、母と私をつなぐ証のようでした。過去と現在を自由に行き来する母は現在のこどもだけは過去にも連れて行っているようです。
 「疲れたから、家に帰ってから、買い物にいこう」
 その日もひまわりの黄色いワンピースでした。すね毛はぼうぼうで、その足を見て笑う中学生男子の前で死ぬほど恥ずかしくなりました。繰り返し、繰り返し、世間のやつらは「キチガイ」の身体を笑います。
 身奇麗で正常な母親を連れたこどもを見るとうらやましくて呆然としました。
 つい先日あった出来事を思い出しました。
 「ハルちゃん、お菓子をあげるね」
 金持ちの友人の美貌の母が差し出したお菓子を両手でもらって帰ろうとしたときです。
 「あの子、卑しい感じがする。だって、普通、お菓子をもらうとき両手いっぱいになんて思わないでしょう」と陰口を叩かれていたのでもう二度とその家には行くまいと思いました。私には予測不能な卑しい心やしつけのなっていない振る舞いがにじみでているのだと思うと悲しくなるのです。自分で自分をしつけているつもりでも、10歳のこどもには限界がありました。
 なので、授業中、校門を見つめながら、美しい母親が私を迎えにくる夢想を繰り返しました。

※本稿に登場する医師・個人名は仮名です。

2020年6月17日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第五回

みちこ姉さん

 母は万年床で寝ているか、街を徘徊しているか、電話しているかのどれかでした。
 特に、母の兄弟たちに立て続けに長電話していました。私の知らない母の側面の話が会話の端々から聞こえてきます。
 私が生まれる前、母は17歳の頃に父と出会って結婚したこと。そして、それを母の多くの兄弟が反対したこと。母がいわゆる後妻のこどもであったということ。母は9人の兄弟たちがいて、異母兄弟たちの上4人とは歳がものすごく離れていました。
 小さなころに母は母親を亡くし、棺が焼かれるところを目にしました。だから、母親が業火に包まれて「熱いよ、熱いよ」と言う夢に苦しめられたのです。
 だから、母はこどものようにお化けを怖がっていました。私も母譲りでお化けがおそろしく、中学生になるまで姉に一緒にお風呂に入ってもらっていました。そして、姉と同じお布団で、姉が九の字になったところに同じ格好でぴったりはまるように寝ていたのです。本来、それは母の役割であったかもしれません。でも、母にはそれが期待できないので姉に世話になっていたのです。姉は文句も言わず、私の世話をしてくれました。
 母の父は明治生まれの頑固な人だったといいます。兄弟たちがテレビに夢中になっているのが気に食わず、裁ちばさみでテレビのコードを切って怒ったりしました。
 母の兄たちは勉強がよくでき活発な人で、台風が来るとみんなで鎌倉の海にサーフィンに出かけるような人たちでした。

 「お父さんとお母さんの戒名を教えて欲しい」
 兄弟たちに震える声で電話します。私は母があちこち電話するのが好きではありませんでしたが、その必死な様子に黙っていました。
17歳で家を飛び出して、働きながら定時制高校に行っていた母は、両親の位牌・写真などを持っていなかったのです。
 病気になった母は、自分の子ども時代のことなどを必死にたぐり寄せているようでした。
ある時、父が「ママは子どもの頃、大変だったんだよ」と幻聴のままに惑わされている様子を見て言いました。私は、こどもに戻ってしまっている母を守らねばと思いました。一万年生きるこどもであるとはそういうことなのです。
 戒名を教えてもらうと、母は帰宅した父に「この戒名を筆できれいに書いて」と赤い千代紙を差し出します。母は字を書くのが得意ではありませんでした。学校の勉強が全くできなかったからです。病気になってからは、カタカナもあやしく、「ぎゅうにゅう(牛乳)」のことを「ぎーぬー」と書いておつかいメモを渡してくるような人でした。
 一方、父の字はパソコンで描いたように、美しく整っています。よく父は数学の公式などを方眼用紙に書き写して勉強していましたが、そのできばえは印刷された出版物のようでした。
 父は筆でまっすぐとした楷書で戒名を書きました。
 「仏壇、買うお金ないから」
母は額縁にきらびやかな和柄の布を敷くと、戒名を書いた赤い紙を中央に乗せました。
 「ここが、いいんじゃないの?」
 姉が指示したピアノの横に父が釘を打って飾ります。
 母は満足そうでした。
 母には母がおり、そして、早くに逝ってしまった。そんな事実が私には実感が持てませんでした。ともかく病弱だったらしいその人は母の記憶の中でやさしく美しくあるようでした。大正生まれの女はかすれるように細く、消えてしまいました。写真も映像も文字もなく、ただ、こどもの記憶の中でかすかに。それを思うと、母が幻聴を聞くようになってようやく、自分のこども時代を取り戻そうと寄せ集めている様に涙がでてくるのでした。
 目の前で父母の戒名を並べてみている人がどうしても自分の母親には思えないので、ちいさなこどものように見えるので、私は戒名のかかれた額縁を常に優しい目線で見ました。それを守るような視線を覚えました。「キチガイ」をみるやつらとはまったく真逆のまなざしで包もうと思いました。

 特によく電話していたのは、同じ統合失調症のみちこ姉さんでした。
 みちこ姉さんは異母兄弟で母とはとても歳が離れていました。そして、母はみちこ姉さんにいじめられていたといいます。みちこ姉さんは飛び切り勉強のできる人でしたが、母が思春期にさしかかる頃には病気を発症し、辛くあたってきたというのです。幻聴が出ていましたが、よく勉強のできるみちこ姉さんがそんな風になるわけないと誰も病院に連れていきませんでした。だから、今も治らず、病気を拗らせてしまっているのです。
 母の8人の兄弟たちは皆よく勉強ができました。地域で一番勉強ができる高校にみんな行っていて母だけがまるでできなかったといいます。けれども、母はとびきり絵が上手かったのです。
 なんでいじめられていたみちこ姉さんを母が気遣うのかは私には謎でした。しかし、よく電話していました。
 母がみちこ姉さんに会いたいと言い出しました。父の休日の水曜日に家族で訪ねます。父はスーパーの店長という仕事柄、土日は休めないのです。
 あんなに会いたいといっていたみちこ姉さんの家は家から一時間もかからないところにありました。今の私なら、すぐに会いに行ける距離です。でも、当時の母や私にとっては、父に付き添ってもらわないと行けないとも思えるほどの遠い距離でした。
 みちこ姉さんは当時もみんながでていってしまった実家に一人住んでいました。
 家は廃墟でした。
 平屋の屋根はところどころ雨漏りして、雨を吸った畳がうねるように盛り上がっています。部屋には隙間風がビュービュー入ってきます。その頃は確か冬でしたが、外の気温とさして家の中は変わりませんでした。こんなところでどうして人が生活できるのだろうと私は遠慮がちに家の中に入ります。靴のまま上がってもいいような場所でしたが、私は靴を脱ぎました。障子紙にはネズミがかじった後があり、漆喰の壁はぼろぼろと崩れ落ちてきます。
 みちこ姉さんは雨漏りのしない奥のほうに布団を敷いて、くるまっていました。
 私たちが訪問しても起き上がる様子はなく、母はみちこ姉さんに駆け寄りました。
 「みっちゃん、大丈夫?病院行ってる?」
 自分も病気なのに母はみちこ姉さんを心配しているようでした。
 「病院はもういいの」
 みちこ姉さんは、一人暮らしです。誰も病院に行けとか付き添いをしてくれるわけではありません。お金はどうしていたのか、今となってはそれもわかりません。確か、兄弟たちから送ってもらっていたような気がします。
 今であれば、生活保護などをとって、誰かみちこ姉さんをケアしてくれる存在が必要だとわかります。母は家族があるだけましなのかもしれません。まだ偏見がひどかった統合失調症という病を原因に離婚された人たちがたくさんいました。杉見クリニックで仲良くなった女の人たちは母に「あなたは離婚されないだけ、いいね」と言いました。
 私はゆがんでいない畳の上に座っておとなしくしていました。
 隙間風がぴゅーぴゅーと吹きます。父や姉は土間のほうでそれぞれ立っていました。
 小学生の子どもであれば、待ちきれず「帰ろう」と言ったり、騒いだりはするでしょう。でも、私はそれを決してしませんでした。一万年のこどもである私は、母のしたいようにさせることを自分の使命としていたように思います。そして、それがいわゆる世間の常識から極度に外れないようにコントロールする役目を負っていました。それは、私が安全であるためにそうしなければならないのです。世間の常識から外れた途端、世間の人々というのは一斉に冷たい侮蔑の視線を向けてきます。私はそれが辛く苦しいのです。私は母と世間の常識の板挟みでした。それを自分のコントロール一つで乗り越えて見せる。それが、一万年のこどもである私に課せられたものでした。
 でもそれはあまりに重いもので、できる人など誰もいないことなのです。当時の私はそれに全く気が付いていませんでした。母の幻聴をよく理解し、世間の常識に通じ、一万年生きた自分であればできると思っていました。おそらく、それができるとすれば、神だけでしょう。私は神の領域に踏み出していたのです。一万年生きる子どもであるとはもう人間ではなくなるということなのです。黄金の体を持って、どんな大人より、神に近づくことができる。そうした意識のことでした。
 今、みちこ姉さんと廃墟で会っている母は世間の目からは逃れているので、私も母も安全でした。それに父も姉もいます。私はある種、安心感を持ってこの会合を見届けていました。
 みちこ姉さんは、母と同じように万年床で寝ているようでした。
 布団に寝そべったままのみちこ姉さんに母は何事かを話しかけていますが、こちらまでは聞こえてきません。
 統合失調症に苦しむ母にはやはり統合失調症に苦しむみちこ姉さんの気持ちが一番理解できるのでしょう。母はおそらく「病院に行くように」と説得しているのです。それは、電話を通して今や大人になった兄弟たちもみちこ姉さんに言っていることでした。けれども、みちこ姉さんは頑として病院には行かないのです。
 統合失調症という病には「病識」というものがないとよく言われます。
 幻聴や幻覚を本当のものだと信じ込み、妄想の世界を現実世界として生きているのです。みちこ姉さんも「病識」というものがありませんでした。母は少なくとも病院には通っているので病識がありました。それは、東田病院に強制入院させられ、その劣悪な病院から逃れるために言われるがまま大量の薬を飲み、模範患者として家に帰るという目標から得られたものです。母は自分が病気なのは間違いないけれども、東田病院では治らないことを知ったのです。
 みちこ姉さんは私と姉にお菓子をくれました。
 万年床で寝るみちこ姉さんの心ばかりの歓迎です。私たち、こどものことを思ってくれているのです。
 私はただお菓子をくれたことだけは覚えていますが、その時のみちこ姉さんの様子を思い出そうとしても思い出せません。私の中のみちこ姉さんは、遠くで布団にくるまって、母が必死に話しかけているさまなのでした。
 「ママ、もう、いいでしょ?帰ろう」
 どれくらいたったでしょうか、父がそう切り出します。
 「まだ、帰らない」
 母がゆずりません。こうなってしまうと誰も説得することは無理です。姉も父も私もそのことがよくわかっていました。
 結局、その日はお昼過ぎから夕暮れ近くまでみちこ姉さんの家にいました。
 母が何をもってして満足したのかはわかりませんが、その後もみちこ姉さんが精神病院に行ったという話はしばらく聞きませんでした。

※本稿に登場する医師・病院名はすべて仮名です

2020年7月8日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第六回

 「ハルちゃん、これを食べなさい」
 母がお椀に入ったおかゆを私に持ってきました。
 「嫌だ、食べない」
 私はそのおかゆに母の向精神薬が入っているのがわかっていたので拒否しました。
 「お姉ちゃんは食べたんだよ」
 母は猫なで声でいいます。姉は母の言うことにはほとんど逆らわず、いつも言う通りにしていました。私もだいたいは言う通りにしていましたが、薬入りのおかゆは嫌でした。私は台所から逃げて、二階の畳の部屋に行きました。
 するとまた母が呼ぶ声がします。行ってみるとおかゆは小さな小皿に少しだけ盛られていました。
 「これだけでもいいから食べてごらん」
 母はどうしても私に薬入りのおかゆを食べさせたいようです。
 「嫌だ」
 私は断固として拒否しました。母は自分の病気がよくなった薬は子どもにも効くものだと思って、飲ませようとするのです。それが気持ち悪く、本当に嫌な気分でした。自他の境界がついていないのです。薬とは病気で症状のある人に医者が合うように処方するものです。万人に効く薬などありません。母にはその区別がつかないようでした。私は子どもに自分の薬を飲ませようとするのは母の子どもを思っての心なのだとわかっていました。けれども、それなら、なぜ、おかゆに混ぜてわからないようにするのだろうと嫌な気分がしました。まるで、毒を盛られているようです。
   少しづつ動けるようになった母は、義務感からか食事の準備を始めました。しかし、どれもこれも生煮えでこぶし大ほどの野菜がゆでてあるだけです。私はそれを食べたくありませんでした。すると、母は「ハルちゃんは好き嫌いがひどい」と怒るようになりました。
 私は好き嫌いも何もないと思っていました。人参は確かに好きではありませんでしたが、すべてが生で何の味もしないものを喜んで食べろという方が無理です。
 でも、母は母なりに「母親」として子どもにごはんを作らなければならないという思いにかられての行動でした。責めることができません。
 昼ごはんに毎日のように生煮えの人参とじゃがいも煮がならぶ様子に父は夕食にカレーを作りました。
 「パパの作るごはんには毒がはいってる」
 母は、カレーを指差して怒ります。私と姉に父のカレーを決して食べないようにいいました。
 「また、そんなこといって、毒なんか入ってないよ。食べなさい、ハルちゃんもおねえちゃんも、」
 母は、自分を東田病院に強制入院させた父を憎んでいました。時々、烈火のように怒り、「なんで、あんな病院に入れたのだ!」と父を責めました。そのたび、父は「しかたがなかったんだ。パパも精神病のことがわからなかったんだ」と言い訳しました。父が謝っている姿を見たことはありません。だから、母の世界では父の作るものに毒が入っていると考えるのは当然かもしれません。父に入れられた東田病院で処方された薬はまさに毒でした。母の運動神経を奪い、体重を37㎏まで減らし、思考を奪ったのです。
 結局、姉は母のつくった生煮えの人参とじゃがいも煮を食べて、二階にあがりました。私は生煮えが耐えられなくなって、父と一緒にカレーを食べました。

   ※

 私が小学校3〜4年生の頃、母は近所の人とトラブルになっていました。
 私の家は車も入れぬ細い路地の真ん中あたりにある一軒家です。右側に行くとすずらん荘という長い風呂なしアパートがあります。そのアパートには幼馴染が住んでいて、毎日のように遊んでいました。時々、遊びの終わりに幼馴染にくっついて銭湯にいったりしていました。そして、左側に行くと大きな道路にでて、その角に小さなクリーニング屋があります。
 母はそこのおばあさんとトラブルになっていました。
 はじまりはおばあさんの布団を叩く音です。
 パンパンパンパンと響く音、母はそれを自分への当てつけだと思ったのです。
 「クリーニング屋のばばあがまた、パンパンパンパン布団叩いている。ママへのいやがらせだ!」
 母はクリーニング屋の見える窓の雨戸を締めっぱなしにして、決して開けようとしませんでした。他にも悪口を言っているなどと言っていた記憶があります。
 母は近所の人を皆、敵だと思っていました。
 我が家の後ろの家の男の子が受験勉強中だと聞くと、部屋を全部あけ放って大音量でクラシックをかけて、邪魔をしました。
 私はあまりにうるさいのでやめてくれと母に頼みましたがやめてはくれませんでした。
 そんな母の行動があったので、私は近所から白い目で見られていました。精神障害という差別もあったかと思います。特に緊張するのが近所の人とすれ違う時です。近所の人は私に決して挨拶はしません。私は敵意がないことを示したいので、挨拶したいのですが、無視されたらどうしようと思い怖く、無言で通りすぎます。
 そんな母の噂は近所の路地の人だけではなく、大通りの人まで広がっていました。だから、私はもう、誰にも挨拶しようとは思いませんでした。近所に住む幼馴染たちだけは私の母のことは問わず、遊んでくれていたのが救いでした。
 ある日、母はクリーニング屋のおばあさんに布団の音がうるさいと文句を言いに行ったようでした。布団の音は私からしたら、別にそんなにうるさくはありませんでしたが、それが自分に敵意をもって発せられた音であると確信している母には大変大きく聞こえていたでしょう。
 それから、もっと大きなトラブルに発展していきました。
 今まで、顔を見ても無視する程度だったのが、言い合いに発展してしまったのです。
 私はそのことが本当に恐ろしかったです。私は母が普通の人と違うことをよく知っていて、その社会の軋轢をコントロールするのが自分の役目だと思っていました。今となってはそんなことは誰にもできない領域だとわかっています。けれど、一万年の子どもであるとはそんな誰にもできない神の領域の世界に足を踏み入れることなのです。軋轢が起きないように母を誘導したり、言い聞かせたり、母の妄想の世界をより理解しようとしていました。母の妄想の世界を理解していれば、社会との軋轢を防ぐためのほんの小さな隙間が見出せるような気がしていたからです。
 それが今、壊れようとしている。とうとう社会と妄想が正面からいがみあいを始めてしまったのです。
 そういう言い合いが何回か続きました。最初は母がクリーニング店のおばあさんの家に行って文句を言 う。出会ったときに喧嘩をするだったのが、ある日とうとう我が家の前で大喧嘩になりました。
 「ここからはうちの土地だから入ってくるな!」
 母は路地に引かれた石畳の一軒家側のスペースで線を引くように怒鳴りました。
 クリーニング屋のおばあさんが何と言っていたかは覚えていません。ただ、それは夜でした。父もいたと思います。ひとしきり怒鳴りあいが続いている中、私は家に引きこもっていました。
 怖くて、戸を締めて、その戸を手でぐっと抑えて人が入ってこないようにしていました。私は一万年のこどもとして、無力でした。社会と妄想をコントロールすることでどうにか生きようとしてきたのです。それが今、崩れてしまった。それにはどうにも対処できないのです。自分ひとりが辛いだけならなんとでも我慢できる。でも、それが人との諍いまでに発展して、その間に入って止めに入ることなどできませんでした。私の世界はそのとき壊れてしまったのです。
 しばらくして、姉が戸を開けようとドアノブをひねりました。ぐっと抑えていた私はその手を緩めます。
 「何やってんの?」
 姉は私が怖くて怯えていることなんて何も気にしていない風に言い放ちました。
 私は自分が怖がっていることを恥じました。姉は妄想と社会がぶつかり合ってトラブルになっても怖くないようです。姉は私が妄想と社会両方に足を置いてコントロールしようとする様を「ハルちゃんは常識人だね」と笑っていました。姉にとって、妄想側、いえ母側がいつも正義なのかもしれません。生煮えのにんじんやじゃがいもを食べ、母が父のカレーに毒が入っているといえば食べず、母の薬入りのおかゆも食べる。私にはできないことでした。
 怒鳴りあいはやんでいました。
 私はほっと人心地をついて、眠りにつきました。

    ※

 事件が起きたのは、それから数日後です。
 朝、外にでると家の前の花壇から異臭がします。クレゾールのような薬品臭が鼻を突きます。どうやら、花壇に何か薬品がまかれたようでした。
 母は朝起きるのが遅いので気が付いていません。父はそんなこと気づいたのか気がつかないのかいつも通り出勤していきました。私と姉もいつも通り学校に向かいます。
 そして、帰宅した頃、母はパニックになっていました。
 「家に毒がまかれた。ハルちゃん、おねえちゃん、もう、家は危ない逃げなければだめだ!」
 母は洋服などをカバンに詰め込んでいました。
 私は当惑しました。確かに家の花壇からは薬品臭がします。父もいない今、妄想の世界で生きる母の判断が絶対になっています。私はもう、どれが妄想なのかわからなくなっていました。ただでさえ、母と一緒にいると妄想じゃない世界がなくなってしまいます。こどもにとってやはり母は絶対なのです。毒がまかれて逃げなければならない緊急事態なのかそうではないのか、もう、自分ではわかりませんでした。
 「ほら、行くよ」
 母は家の前をすばやく通り過ぎて、姉と私をつれてバスに乗り込みました。駅に向かうバスです。どうするつもりなのかもよくわからず、ついていきました。 
 最寄り駅までは10分ほど、大して距離はありません。
 母は駅に着くと、ビジネスホテルを探し始め、街をうろうろしました。荷物は大して持っていません。私はなんだか心細くなってきました。父に連絡したほうがよいのではないのだろうか?この妄想の逃避行を続けていいのだろうか?
 母はほどなくして一軒のさびれたビジネスホテルを見つけました。平日だったので、部屋にはすぐ入れました。
 母は安心した様子で、椅子に座ってくつろいでいます。
 私はそのビジネスホテルの壁の茶色い染みが恐ろしく、電気も全体的に暗く、陰鬱な雰囲気に早く家に帰りたいと思いました。姉は黙って母に従っています。
 そういえば、母は今の一軒家に引っ越してきたころ、アパートから連れてきた犬が向かいの家で死んでいた時も、毒をもられて死んだのだと言っていました。昨日までは元気だったのに突然死ぬなんてありえないということなのです。その頃から母の近所の人たちへの不信は始まっていたのでしょう。
 母にとって「毒」とはある種、キーワードでした。統合失調症の人の妄想にはその人個人の独特の思想があります。電波によって操られているというような「電波」がキーワードの人もいます。母は自分にとってよくないことが起こるとそれは「毒」のせいだと思い込むことが多いのです。
 ほどなくして、どうして知ったのか父が迎えに来ました。おそらく、母が連絡したのでしょう。息せき切って来た父の両手はこぶしで握られていました。それは父の癖なのです。父は少し焦った様子でした。まさか、近所トラブルで母が娘たちを連れて逃げ出すとは思っていなかったようです。
 「ママ、帰ろう、毒なんかないから」
 父はいつも母の妄想には付き合いませんでした。でも、それが統合失調症の人と生きていく上でやらなければならないことなのかもしれません。父はいつも社会的な常識を尺度に生きている人でした。常識といっても、「女の子は女の子らしく」とか「人前では礼儀ただしく挨拶しなさい」とかそういったこととは無縁でした。私はそういう教育を一切されませんでした。父は会社でも出世より数学の勉強をとったある種変わり者です。会社の飲み会などには一切参加せず、ひたすら休日は数学の勉強に打ち込んでいました。そんな父の常識とは「事実」そのものでしょう。妄想に相対するには事実が必要です。そこからずれてはいけないのです。妄想する相手に「あなたはそう見える/聞こえるんだね。私にはわからないけど」と相手の感じていることを否定せず、けれども、自分にはそれが見えないことを伝えるのが大切です。それは、私が大人になってから統合失調症への取り組みなどで知った事実でした。一万年のこども時代の私は母の妄想をよりよく理解しようと、妄想に巻き込まれ事実がなんであるかわからなくなりました。けれども、こどもとしては当然のことで、当時の私は精いっぱいやったと思っています。
 父に説得された母は家に戻る準備を始めました。
 家族四人で夜の街を歩きます。家に戻ってもいいことなど何一つありません。また、妄想と社会とのコントロールをする毎日が待っているだけです。
 私は明日も学校に行けるのだけが、救いでした。そこでは妄想と社会の狭間で苦しむことはないのですから。

※本稿に登場する病院名はすべて仮名です

2020年8月26日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第七回

李典教と幽霊

 母は私が小学校5〜6年頃、新興宗教に通っていました。
 きっかけは、杉見先生が勧めたことからでした。
 「日本で一番大きな病院が李典教にはあるから、行ってみると社会勉強になるよ」と言われたのです。
 母はその通りにしました。今にして考えると、精神科医が新興宗教を勧めるとは何事かと思います。なぜ、杉見先生がそんな事を言ったのかも今となってはわかりません。
 ほどなくして母は近所の李典教の道場に通うようになりました。道場は住宅街にあって、突如として立派で大きな門構えの瓦屋根の建物が現れます。地域からは浮いていました。でも、家から歩いて通える距離にあったので、私と母と姉は学校が終わると毎日のように行きました。
 お布施は月1万円ほどであったと思います。
 李典教は開祖が女の人でその人も精神病だったと言われています。だからなのか、母は李典教内ではとても丁寧に扱われました。社会で居場所を失っていた母を唯一受け入れてくれた場所なのでした。
 その頃の母はもう、妄想状態になることも幻聴のままにいろんなところに行ってしまうこともありませんでした。それでもおそらく幻聴は聞こえているようでした。母は幻聴と私の目の前で会話すると言ったことはしません。ただ、幻聴のいう通りに行動してしまうのです。長い統合失調症の陰性症状である鬱状態に悩まされていました。一日中、家で寝ていました。幻聴は何か言ってきたのかもしれませんが、母が動ける状態ではなかったのでしょう。薬の副作用で太り、唇は震え、呂律が回わりませんでした。外見から「健康な人じゃないな」とわかる様子だったので、社会に溶け込むのは無理だったのです。
 李典教の道場には子供たちもたくさんいて、私はどこか遠慮がちに遊んでいた記憶があります。そこの子供たちも決して母を差別したりしませんでした。しかし、私は別部屋にいる母の様子をいつも気にかけていました。母は道場の2階で横になっていることが多かったように思います。
 何か得体の知れない恐怖があるのです。何か悪いことが起こるに違いないという確信でした。安全な場にいてもなお、社会で差別され、近所で冷たくあしらわれてきた記憶が私を安心させてくれません。
 何か起きたらすぐ対応できるように準備しておかなくては。
 常に最悪の事態を想定しなくては。
 1万年生きたこどもの意識とはそういうものです。常に万全に対処することが自分にはできると信じています。それは神の領域まで自分のコントロールを効かせるというある種、傲慢なことでした。人間は最悪の事態に備えて準備しておくなんてことはできません。そして、常に最悪の事態を想定して生きることはできません。例えば、外出するとき「交通事故に遭うかもしれない」と思って、交通事故を避けようと思って、外出を取りやめてばかりいたら、社会生活は送れないのです。社会は根拠のない楽観視でできています。私は1万年のこどもであることでその楽観視を失ってしまいました。常に社会と母の精神病がぶつからないようにコントロールしなければならないと思っていたのです。
 実際、こんなエピソードがあります。
 母に沖縄旅行に行くと大学一年生の時に伝えた時でした。
 「飛行機が落ちたら危ないから行くのをやめなさい」と母は説得してきました。
 また、私がアルバイトから正社員の仕事探しをしたいと言った時
 「今の仕事があるのだから、正社員なんかならなくていい、今のままでいなさい」と言いました。
 母もまた「最悪な事態」を想定することでしか生きられない1万年生きたこどもだったのです。母は幼少期に母親を亡くし、異母兄弟の中でサバイバルしてきたのでした。
 それに、今まで最悪な事態ばかりが起こりました。警察に保護され、近所では嫌がらせを受け、社会からは白い目で見られ、母は居場所をなくしていったのです。病院と家庭とほんの少しの親戚、これが母の世界の全てでした。私には学校と母しかありませんでした。
 だから、私は李典教でも油断はしませんでした。
 しかし、李典教の人は母を全く差別せず、受け入れてくれるのでやっと息が吸えた思いがしました。私は李典教では母の精神病と社会の間に入ってうまく行くようにコントロールしなくてよかったのです。母のことは母のことで李典教の大人たちに任せておけば大丈夫でした。
 そんな李典教の道場通いの中、一生に一回、教祖の着ていたという布を御守りとしてもらえるという行事がある事を知りました。そのためには年に一度開かれる行事に遠出しなくてはなりません。それは旅行を意味します。
 今の私たちには旅行する事なんて出来ませんでした。
 病気の母に新幹線のチケットを取ったり、宿を予約することなんて到底出来ません。
 一年に一回の行事には李典教の人が団体を組んで、一緒に連れていってくれることになりました。母が病気になってからした2回目の旅行です。1回目は母の病気が激しい中、父が会社の福利厚生でもらった旅行券で熱海に行きました。母はとてもはしゃぎました。父と恋人同士のように振る舞って、楽しそうでした。父に寄り添って手を繋いだりしていました。でも、私は自分の服装やリュックサックが宿の豪華さと合わないことに恥ずかしい気持ちがしていました。私は家族を人から見て恥ずかしいものだという意識に常に悩まされていました。人の目ばかり気にしていました。誕生日に奮発して買ってもらった、自転車の後ろの荷台が錆びてしまっているのを人に見られるのが恥ずかしくてたまらないように。何でも気にしていたのです。私は1万年生きるこどもとして、母を社会から守ろうと、その意識を立ち上げました。しかし、今や、母の細かな仕草や何から何までも社会の枠から出ないようにがんじがらめにしようとしていました。
 「普通であって欲しい」
 私の願いはこの一つにつきました。社会が母を差別してくることが悪いのに、私は逆転を起こしていました。母に罪など何もないのに。
 李典教では母は「普通」でなくても誰も気にしませんでしたし、ケアしてくれました。だから、私は呼吸できたのです。
 旅行は順調に進みました。李典教の施設に泊めてもらえることになり、御守りの布ももらえることになりました。それは5000円でした。法外な値段を取らない良心的な新興宗教であったのだと思います。
 私は本殿の磨かれた木の床を歩いて、何重にも閉じられた小さな部屋に通されました。そこは6畳ほどしかなく、奥には御簾が引かれていて、その先に御守りを渡す人がいました。
 何度かお辞儀をして、両手で受け取りました。それは3センチ四方の小さな赤い布でした。この布は教祖が身に付けていたありがたいもので、私は渡された大人から「怖いことがあったら、この御守りに祈るように」と言われました。
 小さな布を豪華な御守りに入れて、その上からビニールで首から下げれるようなストラップをもらい、それを常に首から下げていました。
 私は1万年生きるこどもとして唯一の頼りができました。体にぴったりと安心が寄り添ってくれているように思います。
 李典教はお化けも退治してくれると教えられ、怖くなると「李典様、お化けを追い払ってください」とお祈りしていました。心の拠り所にしていたのです。祈る時、私はただのこどもに戻りました。自分が神だと勘違いするような傲慢さからは遠のきました。ただの、宇宙の中の一つの小さな小さな無力な人間にすぎないということがわかるのです。自分より偉大な力があると思うことは人間を自由にします。特に一万年のこどもであった私には必要なことでした。
 神ではないこと。私にはそのことがもう、ずっとわからなかったのです。神の子として生まれてしまった。だから、私は神になるのだ。神と同等の黄金の体は何度でも蘇る。私の意識は1万年の宇宙と接続し、誰よりも大人である。全ての差別してくる大人たちはかわいそうな愚かな小さなこどもである。そうすることで私は苛烈なこども時代を生き抜くことにしたのです。自分が無力でどうしようもなくかわいそうな一人のこどもである事を捨てたのです。実際、わずか8歳のこどもに何ができたというのでしょう。何もできないのが本来なのです。でも、命の爆発力は私を誰よりも神に近しいものにしました。
 李典教という宗教に出会ったのは10歳の時でした。
 そこで私は神ではない時間を持つことができたのです。本当は恐ろしくてたまらない多くのこと、近所の冷遇、社会の差別、常識とはかけ離れている家族、病気の母、それらと直面しました。でも、だからといって、1万年のこどもである事をやめたわけではありません。私は御守りをお化けが恐ろしい時によく使いました。暗闇に包まれた寝床でどうしようもなく、闇から何かが出てくるのではと思えるのです。それは私の社会に対する不安だったのかもしれません。または万が一の事態に備える悪影響だったのかも。私は特にトイレを恐れていました。トイレの穴から手が出てくるんじゃないかというイメージに悩まされていたのです。だから、トイレに夜行くことは恐怖でした。座って用を足している間、「万が一、手が出てきたらどうしよう」と苦しいのです。そして、渾身の思いで穴を見ると手はありません。それの繰り返しでした。トイレの穴から手は出てこないのです。そんなことは起こらないのに、頭の中は手が出てくるイメージが去りません。私の生活を苦しめるお化けへの恐怖。それは本当にリアルに感じられるものでした。そもそも生活に安心感があったことなどあったでしょうか?いつもギリギリで、事件が起こって、それに対処するために自分を神と思い込む。そうして、無力さから逃げているのです。無力であった事を認めたら私はおそらく生き残ることはできなかったでしょう。
 私は李典教の道場通いを友達には誰にも言いませんでした。
 学校では「普通」のこどもでいたかったのです。
 でも、当時、恋人のように仲良くしていた萩原さんには打ち明けました。萩原さんと私はニコイチの関係でした。常に一緒にいて、二人の間で秘密は一切なしでした。私は小学校に上がってから、この恋人関係のような友情をいつも育んできました。人はその度に変わります。私の初恋は実際、女の子でした。小学校一年の時にオカッパ頭で色白の物静かな彼女に恋をして、仲良くなったのです。何でもしてあげたいと思い、彼女が苦戦している自転車の練習に付き合ったりしました。彼女を守ろうと本気で思っていました。小学校5年からは萩原さんがその対象でした。私と萩原さんには秘密がありました。それは、隣の倉庫となっている空き教室の段ボールで作られたポストの中でお互いに持ってきたおやつを休み時間に食べるという事です。萩原さんの持ってくるおやつは洒落ていました。サンリオのキャラクターのマシュマロの中に苺のゼリーが仕込んであるものとか、ミント風味のメレンゲとか。
 私たちは秘密を分け合い一心同体のように学校では生きていました。
 「誰にも秘密なんだけど、こんな御守りを持ってるんだ」
 私は洋服の中から出した豪奢な布に包まれた御守りを取り出します。
 「怖いことがあったら、何でもお祈りすると大丈夫になるんだよ。でも、これは絶対に秘密。萩原さんにだけ教えてあげる」
 萩原さんは神妙に聞いていました。御守りのことは萩原さん以外誰にもばれませんでした。彼女は約束を守ったのです。
 李典教の道場通いはおそらく二年ほど続いたと思います。私が中学生に上がる頃にはもう、御守りもどこかに行ってしまいました。あんなに頼った神様はいなくなってしまいました。でも、確かにあの頃、私の母の居場所になり、私をお化けから助けてくれたのでした。

※本稿に登場する宗教名、個人名は仮名です

2020年9月23日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第八回

震える唇

 牛歩の歩みでも母は外出ができるようになりました。幻聴の通りに行動することもほとんどありません。
 本当にゆっくりとしか歩けないので、一目で普通でないことがわかります。私はそれが嫌でした。
 母も自分の体や様子が他と違って見えることが自覚できるようになりました。
 唇が震えてしまう母に向かって、「唇が震えているよ」と何度も注意します。そのたび、母は冷や水を浴びせかけられたように怯えた顔をして、ぎゅっと唇を結びなおすのです。
 「ハルちゃん、これで、震えてない?」
 「うん、大丈夫だよ」
 けれども、意識している内は震えが止まっていても、数分立てばまた震えだします。私はその唇を見るのが嫌でたまりませんでした。
 でも、それはすごく残酷な指摘です。今思い返すと本当に申し訳ないことをしたという気持ちでいっぱいになります。唇が震えてしまうのは恐らく薬の副作用なのです。でも、私は何度も注意しました。
 私は「健全で清く正しい普通の人」の目線の防波堤のような気持ちでいっぱいでした。私は「狂った」といわれる世界に住んでいました。「狂った」世界を断罪しようとする「普通の人」たちのふりをして、「狂った」世界を隠そうと必死でした。複雑でした。体は常に恥に引き裂かれていました。恥ずかしくて、恥ずかしくて、息を吸うたびに恥ずかしくて。
 私は母が統合失調症であることを差別する人かそれ以外で人を分けていました。自分が安心してそこに存在できるかに関わっているし、母を差別する人たちが許せませんでした。母が統合失調症であることを差別しないのは病院の医者くらいしかいませんでした。それ以外の大人は総て敵でした。
 私は今でもその癖が抜けません。この人が統合失調症の母に会ったらどんな反応をするのだろうと考えてしまうのです。今も友達やパートナーはその基準で選んでいます。母が友達やパートナーにあって、友達たちが馬鹿にしたり、普通と違うことを笑ったりしないこと、それが重要なのです。精神病者たちを差別し、笑う人には悪気というものが一切ありません。それが当然のことのようにやるのです。普通と違うことは嘲笑の対象なのです。
 私も1万年のこどもでありながら、その意識を内面化しました。それは世間が恐ろしくてならないからでもありました。私は精神病の母を持って、世間から助けてもらった経験は一度もありません。これはきっぱりいえます。事実です。
 そして、私は懸命に敵たちから母を隠すために、母に普通に見える方法を教えるのです。早く歩くこと、唇が震えないようにすること、痩せること。それは母にとってはどれもどうしようもなくできないことでした。でも、母を敵から守るためには仕方ないのです。そして、自分を守るためにも。
 「頭のおかしい人」とか「異質な人」という視線をたくさんうける側にいながら、振る舞いは普通でなければいけません。普通の人を演じるのはしょうがないことです。そうしないと、生きておれるような世界ではありません。でも、自分のいる「おかしい」世界と「普通の」世界を行ったりきたりするのは、とっても疲れます。それに何か、攻撃されるべきエイリアンなのに、人間のふりをしているようで、いつも恐ろしい思いをしていました。
 母から「もう、普通に見えるよね?」って確認されることほど、苦しいことはありませんでした。
 私は「あなたは普通に見えないから、普通に見えるようにしてよ!」っていつも怒っていました。「あなたが普通に見えないと、私も普通に見えないんだから!」って。なんて、ひどい。母が「オカシイ人」に見えないように、「普通の人」のふるまいを強要するなど。でも、それはできないことなのに。しかし、「普通の人」のふりをする私にとっては生存にかかわる問題です。

 その頃から私は同じ夢を見ました。
 周りは全員ゾンビで、腐った姿をしているのですが、自分だけが唯一人間なのです。ゾンビたちは人間を食べるのが好きです。私は食われないようにはらはらしながら、ゾンビのふりをします。ゾンビが「人間の臓物のおいしい部分」の話題で盛り上がると、私はあわせて、「わたしは、心臓などが好きだ」と言ってみます。「心臓?そんなに、うまくはない。筋ばかりではないか、一番よいのは肝臓だ」とゾンビたちは不審がります。「いや、私はちょっと好みが変わっているから」と必死に話をあわせるのです。「そうだ、君、どうして靴などはいているのだ」と隣のゾンビが言い出します。ゾンビの道には蛆虫があえぐ池ばかりで、私は蛆虫を踏み潰す感触だけは我慢ならず、赤い運動靴を履いているのです。「いや、足がいたくてね」「そんな、人間みたいなものはやめたほうがよいよ、何しろ、足が熱くてたまらないじゃないか」そして、最後はゾンビたちに気づかれないように少しずつ歩調をゆるめて脱走するのです。
 愉快な夢ではありませんでした。
 夢は血の赤、深い緑、黄色の光、だけがじとじととした闇に際立つものばかりでした。逃げている内に私はゾンビでないことがバレて襲われて殺されるのです。
 目を覚ますと、ゾンビの中で必死に取りつくろう気苦労ばかりが体に残っています。
 目が覚めても、その気苦労は変わりませんでした。
 ただ、母にゾンビのまねをするように強要すること以外は。
 人間はゾンビで、正常で健康はゾンビで、ゾンビは人間が好物で、好物は人間をバカにすることで。でも、私は自分に人間の資格があるとは思いませんでした。学校も、スーパーも、バスも、電車も、道という道、空間という空間とは、ごまかしつづけなければならない場所でした。「キチガイ」をごまかしつづけなければならない場所です。
 背中も足の裏もつむじも、小指も空間にふれるとびりびりと怯えています。体の中心は体温をなくして、氷柱にうずめられた胃が縮こまります。

 ある日、同級生から公文に誘われていったものの、あまり行きたくなくなりました。でも、同級生にどうしてもそれが言い出せず、母に断るように頼んだのです。
 母は私を公文に誘いに来た同級生に何事か応対して追い返してくれました。
 次の日の学校で、同級生はみんなに大きな声で話をしていました。
 「ハルちゃんのお母さんって、すっごい牛みたいなしゃべり方するんだよ。ハールぅはー、もうぅ、行きまーせーんとかって」
 「あたしもみた、すっごい、変なの」
 同級生の揶揄は怒るべきところでしたが、愛想笑いで過ぎました。母親をバカにされた怒りよりも、恥ずかしさが勝ちました。世界に存在するとは恥ずかしいことなのです。生きるとは恥ずかしいことなのです。ただ、びりびりと苦しいことなのです。
 私はその同級生がそもそも好きではありませんでした。けれど、誘われると断れないのです。それは、人からどう思われるかいつも気にするという性質のせいです。1万年生きるこどもをやっているといつの間にかそうした性質が身についてしまいます。それは、いつも母と世間との軋轢を回避するために人の顔色ばかり伺うからです。自分で行動するのではなく、世間と母をコントロールすることが使命となっているのです。そうすると、同級生の誘いも同級生の顔色を伺うようになり、同級生の機嫌を伺って、行きたくもない公文の誘いにのってしまったのです。
 母を嘲った同級生。それはこどもらしい残酷さなのでしょう。私は1万年生きるこどもでしたから、そうされて恥ずかしいという気持ちも本当にありましたが、どこか、こどもの考えなしの行動を超越的に見ている自分もいました。やっぱりという思いとともに。やはり世界とは敵なのだ。少しでも油断したら、ひどい目にあうのだと。
 1万年のこどもである私にこどもらしさは必要ありません。どんな大人よりも大人で、冷静で、論理的に、そして世間を上から観察できる能力があるのです。
 1万年生きるこどもの生き延びる方法は母の妄想や行動を先読みして世間との軋轢を最小限にすることです。私は今回それを見誤りました。
 私は同級生の誰にも母の病気のことは言いませんでした。もちろん、先生にも。それは彼らには統合失調症が理解できないことがわかりきっていたからです。精神病は差別の対象であり、自分は「キチガイ」ではなく「頭がおかしく」なく「気が狂って」いない側の人間であることを証明するためにもそれらは差別しなくてはなりませんでした。そして、彼らはそれらを無意識でやってのけるのです。会話の端々に、「そんなの頭がおかしい人のすることだよ」とか「それは気が狂ってる!」とか「お前はキチガイみたいだ」とか出てくるたび、私は絶望するのです。ああ、この人たちに母の病気のことは決して理解できないのだと。そして1万年のこどもである私は戦う覚悟をします。母の病気を決して悟られてはならないし、理解されようと期待してもいけない。私は世間と母の病気をコントロールして差別の軋轢を避けなくてはと。そんなこと不可能なのに。私は1万年のこどもである頃、ずっと、失敗にしか終わらない試みが成功すると信じてやってきました。母を差別する世間が許せないと同時に屈服していました。世間から差別されることが恐ろしくてたまりませんでした。みな、本当に精神病者には残酷なのです。その残酷さを受けるのが嫌で、私だけは普通のふりをしていました。私だけは差別されたくない。そういう自分勝手な思いがありました。差別されるというのは本当に辛いことなのです。同じ人間だと認めてもらえないことなのですから。目の前にいても、どんな話も聞いてもらえない。モンスターのように言葉が通じないと思われる。そして、嘲笑って良い対象と思われる。白い目で見られる。そこにいないかのように扱われる。差別されたい人間なんていません。でも、私は差別されたくないと自分だけが思うことに罪悪感を感じていました。母は差別されているのに自分だけはされたくないし、自分が差別されないために、母の唇が震えないようにし、速く歩くようにせかし、痩せるように注意する。私のやっていることそのものが差別とどこが違うのでしょう。本当に泣ける思いがします。差別が連鎖しているのです。それも母子の関係で。こんなこと許されていいはずがない。誰か誰でもいい、助けてほしい。そう思っていました。
 でも、誰も助けてはくれません。
 私のこども時代、私たち家族の状況を理解して助けてくれる存在はいませんでした。安心して母を預けられるのは医者と新興宗教の人だけでした。姉は「キチガイ」の世界に安住して、世間に恥ずかしいとかいう思いはあまりないようでした。世間がおかしい。姉の見方は正しいものでした。だから、姉はあまり私の頼りになりませんでした。私はむしろ「常識を気にするおかしな人」という扱いでしたから。常識を気にせずおれたらどんなに楽だったかと思います。
 でも、1万年のこどもであった私にはそれができなかったのです。

2020年10月14日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第九回

霊感といじめと授業参観

 私が小学校5年生の時、先生と親の面談というものが年一回ありました。
 伝えないこともできたのに私は母に伝えました。それがどういう心持ちであったかわかりません。母はまだその頃は病気だと一目でわかる程度には病気が酷かった頃です。
 「先生、うちの子は超能力があるんです」
 面談で母が突然切り出しました。その頃、母は私を特別なこどもだと思っていて、超能力があると信じ込んでいました。私にはもちろんそんな力はありません。
 まさか、先生にそんなことを言い出すと思っていなかった私は唖然としました。
 「ママ、そんなもの私にはないよ」
 私は必死に否定しました。 
 このどうしようもない状況。母の妄想と現実をコントロールする1万年のこどもが怯えます。先生がなんと答えたかは覚えていませんが、先生は私の母が普通ではないということはわかったようでした。そこで、差別的なことは言われなかったと思います。しつこく「超能力がある」という母を先生はのらりくらりとかわしていたと思います。
 熊屋先生は私のことを高く買ってくれている先生でした。「三コ」という童話をモチーフにした絵を描く図画の授業の時、ことさら私の絵を褒めてくれ、みんなの前に掲げてくれたりしました。特に私は出来の良い子として認められていたと思います。みんなからはひいきされていると言われたりもしていました。とにかく、学校では私は「優秀なこども」としてうまくやっていたのです。そこでは1万年のこどもである必要はありませんでした。それは私の安息地だったのです。
 けれども、その安息地も熊屋先生には違うのだとバレてしまいました。私は恐ろしくなりました。優秀なこどもとしての生活が全て終わってしまうのではないかと。けれども、熊谷先生は面談の後も特に「超能力」については言いませんでした。
 しかし、同時に私は当時、少しおかしいことをしていました。超能力はないとわかっていましたが、友達たちに「霊感がある」と嘘をついていたのです。「あの木の下に女の人の気配がする」とか触れ回っていました。「霊感がある」ともう一人言っている子がいて、その子となんとなく話を合わせていました。放課後などは霊感にそった作り話をしていました。
 注目されたかったのだと思います。自分を特別のこどもだと思いたかった。みんなが私の話を興味深く聞いてくれるのがとても誇らしい気持ちでした。
 私はお話を作るのがこども時代得意でした。小学校2年生の頃は、休み時間になるとジャングルジムに2〜3人ほどのこども達を集め、その子達が登場するお話を作って聞かせていました。その「お話会」はどんどん人気になり子供達が10人ほど集まるようにもなりました。
 その時は架空の話としてやっていましたが、小学校5年生の頃は事実として話していました。
 当時はこども達の間で「こっくりさん」が流行っていました。「こっくりさん」とは降霊術の一種です。A4程の用紙にかなを全て書いて、「はい・いいえ」などを書いて、2〜3人で一つの鉛筆を持って「こっくりさん、こっくりさん、おいでください」と唱えるとこっくりさんが鉛筆に宿り、質問になんでも答えてくれるというものです。こっくりさんがうまく帰ってくれなくて狐憑きになり死んでしまった子がいるという噂もある、こども達にとってはスリルのある遊びでした。
 そんなこども達の間で、「霊感がある」とはヒーローだったのです。
 他にも私はこの頃やってはいけないことをしていました。それはいじめです。ゆめちゃんという女の子を3ヶ月ほどにわたって無視し、いじめのリーダーとして君臨していました。グループで遊ぶとはゆめちゃんの悪口を言って団結することでした。他にもそのグループのヒエラルキーの低い植松さんという人を子分として使っていました。私は精神病の差別の被害者でしたが、この頃になると同時にいじめの加害者となっていました。自分が悪いことをしているという意識もありませんでした。私は注目される霊感少女であり、いじめの主犯格でもあったのです。
 そして、それは終わりを迎えます。
 熊屋先生にいじめのことがバレてしまったのです。熊屋先生は私ともう一人の特別に仲の良い女の子を廊下に呼び出しました。
 「ゆめさんをいじめているんですか?」
  私はそう言われて初めて自分がいじめているということが実感できたような気がします。
 「はい」
 「いじめはやってはいけないことだから、きちんと、謝って、やめるように」
 熊屋先生はごく短く注意しました。私は熊屋先生の前では優秀なこどもでありたかったので効果は覿面でした。その後、すぐゆめちゃんに謝りました。ゆめちゃんはなぜか許してくれました。そして、その後、友達に戻りましたが、ゆめちゃんがどこまで心を開いてくれていたかはわかりません。

 ある日、授業参観のお知らせが届きました。
 私は母に告げるかどうか迷いましたが、一応知らせました。そして、「こなくていいよ」とも言いました。
 母は当時、杉見先生の勧めで働いた方がいいと言われ、大きなお菓子工場で働いてクビになったばかりでした。クビの理由は乗ってはいけないワゴンの上に乗ったからです。当時は大らかだったのか、精神病の母でも雇ってくれたのでした。母はしばらく、大人しく勤めていましたが、どうしてもワゴンに乗りたくなってしまい、乗ったのだそうです。クビになった母は私に「ワゴンに乗ったのは楽しかった」と語りました。まるでこどものようです。
 そんな母でしたから、授業参観でも何かやらかすのではないかと私は不安だったのです。でも、なんで、黙っているという選択肢を使わなかったのでしょう。多分、少しは来て欲しいという気持ちもあったのだと思います。母は精神病でしたが、私に辛く当たるということはしませんでした。彼女なりのやり方で確かに愛してくれてはいました。妄想が激しくてもそれは、全部、私や姉を守る方向に動くのです。だから、私は母の愛を疑ったことはありません。それは、とても幸運なことです。母は精神病になっても、母であることはやめなかったのです。その点に関して私は絶大な信頼を置いていました。ただ、その愛し方が問題なのです。
 授業参観の当日、私はドキドキソワソワしていました。
 母が来たらどうしよう。自分から言ったのに私は不安になりました。母は万年床から抜け出ることはできないはず。だから来ない。
 授業が始まるまで、学校中を探しまわります。
 そして、授業参観が始まりました。母は来ていないようで、ほっとした頃、他の教室で何か叫び声がしました。
 嫌な予感がして、私は駆け出すとそこには母がいました。
 母は私を探して、全ての教室を出たり入ったりしていたのです。
 私は顔から火が出るほど恥ずかしくて、母を引きずりました。呂律の回らない声で「ハルちゃん」と言っています。私の教室がわかった後も母は大人しく「参観」はしてくれませんでした。でも、先生達は母を追い出すことはしませんでした。私はいっそ追い出してくれればいいのにと願いました。
 私はとうとう学校で母が病気であることが知れ渡ってしまったのです。一番恐れていた事態でした。家庭では1万年のこどもである私の唯一の居場所がなくなった瞬間でした。同級生達から何か言われた記憶はありません。ただ、みんな一様に異様な沈黙を貫きました。それは、それだけ、母の行いが異常だった証明のようでした。私は同級生達が差別的なことをしてこなくても、充分にダメージを受けました。もう、私は「普通」のこどもじゃいられなくなるのだ。1万年のこどもの逃げ場がなくなりました。でも、それで良かったのかもしれません。私は学校で霊感少女の嘘をついたり、いじめをしたり、もう、1万年のこどもであることに無理が来ていました。今から考えれば、それは1万年のこどもであることのストレスからきたのではないかと思っています。常に世間と母の病気の軋轢を調整すること。無理なこと。ずっとやってきました。
 そして、その頃、本当に私の体に異変が現れました。
 目を開けていたくても、勝手に目が閉じてしまうという症状に見舞われたのです。初め脳神経外科に回され、筋ジストロフィーを疑われました。CTやMRIを撮られ、「先生の手を思いっきり握ってごらん」と言われ、ぎゅーっと握ります。その先生達の優しいことに私は安心していました。同時に自分が死んでしまう病気なのではないかという恐れがありました。筋ジストロフィーは全ての筋力が衰えやがて死ぬ病だと思っていました。けれども、私はどこにも異常はありませんでした。そして、精神の病が疑われました。
 母が当時通っていた杉見先生のところで看てもらうことになりました。
 杉見先生は独特の診察をする先生で患者とあまり話をしません。ただ、一目見てわかってしまうようで、「はい、薬を変えるから、また次!」などと威勢のいい声で言います。患者達がどんよりする待合室にマイクから「はい、次、長野さん!」とはっきりした声で呼ばれます。
 どんな診察がされたかあまり記憶にありません。ただ、「ハルさんは、躁病だから、この薬を飲むように」と言われて終わりました。あと、「ハルさんはわがまま」とも言われました。私は当時、ことさら杉見先生にわがままだと言われることが多く、よくは覚えてはいませんがわがままだったのかもしれません。
 当時、中学生だった姉も鬱で杉見クリニックに通っていて、姉はわがままとは言われませんでした。私はそれが不満でしたが、自我の強いこどもであったとは思います。
 目が勝手に閉じてしまうことと、躁病がどう繋がるのか私には今だにわかりません。そもそも、小学校五年生に躁状態ということがあるのだろうか?と疑問に思います。けれども、その薬を飲むと一ヶ月ほどで良くなりました。
 私の1万年のこどもであることの限界は刻一刻と迫っていました。
 1万年のこどもであるとは、幼くして苛烈な状態に追い込まれた時、爆発する命に備わったプログラムのようなものです。それは、誰でも持っています。生き延びるために神に与えられているのです。けれども、それは長くは続きません。火事場の馬鹿力を出し続けられる人間はいません。
 その力は失われ、代償は大きなものです。
 こども時代をこどもとして生きることを失われ、誰よりも大人として生きることは、永遠にこどもであることなのです。大人として成長できないことなのです。私はその後の人生をずっと、この代償と共に生きることになります。

※本稿に登場する個人名は仮名です。

2020年11月4日

1万年生きたこども〜統合失調症の母を持って〜

第十回(最終回)

一万年のこどもでなくなるとき

 宇宙の歴史は137億年と言われてます。それならば、神の年齢も137億年なのでしょうか?
 137億年という年齢に比べれば、神の子として生まれた1万年のこどもはほんの小さな存在だったのです。ずっと、神として生きてきました。それは神が母親を失ったに等しい私を愛しているが故にくれた能力でした。神は全てのこどもを1万年のこどもにすることができます。特にひどい状況のこどもたちの意識を1年2年単位の時間軸から、1万年という悠久に流れる時の意識に導き守ります。1万年のこどもたちはたった100年ほど生きるだけなのに、1万年生きているつもりで30歳や40歳の大人たちの酷い振る舞いに慈悲を与えることができるようになります。それは神がこどもたちの命を強くするためのものでした。こどもとは守られる大人がいなくては一人で生きていけないように生まれ落ちます。けれども神は全てのこどもに守ってくれる大人がいないことを承知していました。それどころか、守られるはずのこどもが大人を守るようにも力をくれたのです。こどもを守ることができなくなった大人はかつて守られなかったこどもでもありました。そうして数珠のように命を螺旋でつなぐのです。神は大人もこどももろとも守ってくれようとします。けれども、それもやがて終わってしまうのです。爆発的な力はずっと続きはしません。

   ※

 隣の6畳の小さなリビングでは姉と母の楽しそうな声がします。
 私はかつて、リビングだった10畳の部屋でそれを聞いていました。今は私の部屋です。母は100号の大きな絵を描く時、リビングと6畳の部屋を入れ替えていました。そして、絵を描いている最中に幻聴を聞き、精神病院に入院しました。10畳の元リビングはその時のまま何年も放置されていました。我が家は2階建ての一軒家でしたが、個室というものが、1階の6畳と10畳しかありません。家族は2階の2間繋がった和室で布団を並べて寝ていました。私はそれが嫌になり、小学校6年の終わりぐらいから自分で徐々に10畳の部屋を片付け、自分の部屋とするようになったのです。
 私の手にはカッターが握られていました。
 それは中学校1、2年生の頃であったと思います。カッターの刃を手首の甲に薄く滑らせて傷付けてみました。猫に引っ掻かれたみたいな跡がつきます。それを数回繰り返していました。
 寂しい、そういう気持ちだったのだと思います。
 私は当時、家族の中で疎外感を感じていました。姉と母は大変仲が良いのですが、私はそうでもないのです。家族、いや、母と姉と私の関係でのことでした。私は母から愛されてないのではないかと思いはじめていました。1万年の子どもであった頃には疑いもしなかった、母の愛というものを姉を比べて考え込むようになったのです。いや、母の愛は目眩しだったのかもしれません。私には限界が来ていました。
 母はだいぶ良くなり、体重も減って、綺麗な服を着て、化粧品の訪問販売で働くようになりました。気に入りの洋服屋の常連になり、きらびやかなスーツを毎月のように買います。宝石類もたくさん買うようになりました。精神病の母の面影はもうありません。けれども、薬は飲んでいました。いつも、オールバックにお団子を一つ結って、髪飾りをつけていました。
 私は高校生になってから、本格的に精神科通いが始まっていました。どんな症状でかかっていたのかは今となってはよくわかりません。ただ、もう、小学校5年生から向精神薬は欠かしたことがありませんでした。杉見先生が死んでしまい私たち親子は姉も含めて、大原先生という近所の心療内科クリニックに通っていました。その先生は話をよく聞いてくれると評判でした。大原先生はクリスチャンでマザー・テレサを尊敬し、会いに行ったこともあるというとても患者思いな先生でした。普通、心療内科ではカウンセリングは10分もあればいいという感じですが、大原先生は患者の話を1時間でも聞いてしまうので、いつも病院にかかるのにとても時間がかかりました。それでも、いつまでも患者さんは待っていました。
 私はその時を待っていたのだと思います。
 母の病状が落ち着いて、自分が爆発しても、わがままを言っても許される時を。私は杉見先生に「わがまま」と断じられましたが、本当の意味で自分のためには生きていませんでした。だから、高校生の頃の私はめちゃくちゃでした。両手にひどいリストカットをして、大原先生のところに駆け込みます。
 「先生、痛いです」
 本当は母に痛いと言いたかったけれど、言えませんでした。
 本当は社会に痛いと、傷付けられたと言いたかったけれど、言えませんでした。
 リストカットはこれくらい私は傷ついているという唯一の表現方法でした。私の苦しさを可視化しているのです。そうしないと人は気がついてくれません。私は1万年の子どもとしての戦いで大怪我していたのです。よくリストカットなんてやめなさいという人がいますが、それなら、その人の心の苦しさを他で表現できる手段を与えるべきです。もしくは、その人の話を心から聞くべきです。
 「ひどいですね、痛いでしょう」
 大原先生は私の言って欲しいことを言います。プロなのですから当然です。私は当時、大原先生に頼ると同時に敵視をしていました。大原先生は医者だから私をケアしてくれるだけで、医者じゃなかったら見向きもしないということをしつこく言っていたのです。本当に私を愛してくれているのかという確認でした。拙い方法でしたが、先生にはしっかり伝わっていたと思います。自分を見て欲しいという私の叫びが。大原先生は「僕はハルさんをとても心配していますよ」と何度も言ってくれます。でも、私はそれを信用できませんでした。医者だから言ってるんだと反発しているのです。私は医者を医者ではなく一人の人間として自分を愛してくれるのかどうか試していたのです。でも、病院には足繁く通いました。
 ひどいリストカットをした時、看護師さんが「痛いでしょう、かわいそうに」と言って、丁寧に包帯を巻いてくれる時は本当に安心した気持ちでした。自分の心が手当てされているようです。包帯だらけの両手を私は愛しました。それは、ケアされた私の心の象徴だからです。そして、包帯だらけの手になるためにまたリストカットをするのです。
 1万年の子どもであった私は健やかには成長できませんでした。
 子ども時代に火事場の馬鹿力みたいなものを出して生きてきて、途中でもう、力尽きてしまったのです。それから私は、1万年の子ども時代の私の後遺症みたいなものに苦しめられて生きています。
 それは、自分が安全であるために母をコントロールしようとした力の暴走です。コントロールを全ての人にやってしまうのです。例えば、こんなことがありました。友達とカフェに入って、おしゃべりをしていました。隣の席の声も聞こえるから、私の声も多分聞こえているでしょう。最初はそんなに気になりませんでした。けれども、だんだん、焦燥感が募ります。このカフェ全体の人々の機嫌が良くなる話をしなくては。私は一人奮闘します。目の前の友達と話しながら、私の声が聞こえていると妄想する隣の席の人、そして、その隣の人の会話にも耳を澄ませるのです。私はカフェ全体をコントロールしようとしていました。
 私はコントロールをやめなくてはいけません。
 今は必要のないことです。そもそも、1万年の子どもであった時代、私は本当に世間の差別から母をコントロールすることで守れたのでしょうか?そんな力は備わっていたのでしょうか?事実だけ見れば、私はただの気の毒な精神病者の子どもに過ぎませんでした。
 そこで必死に戦っていたのも事実です。
 母から電車の中で殴られ、目覚めたその意識。
 神にも等しくなる感覚。自分の力で全てをコントロールできると思い込む傲慢さ。
 人は誰も誰かをコントロールできることはありません。それが大人になって私が学んだことです。人を変えることはできないのです。それは神の領域で偶然に偶然が重なった奇跡の時にやってくる類のものです。人間の意志でどうにかできるものではありません。けれど、1万年の子どもだった私にはその事実は残酷すぎました。自分にもどうにかする手立てがあると思い込まなければ、生きていけなかったのです。悲しいですが、私は母を上手くコントロールできる日がくるという妄想の世界の住人でした。人間が人間をコントロールできる日など永遠に来てはならないのです。だって、人間は自由意志を持つ存在なのですから。だから、私は子ども時代自分のことを神だと思うことにしたのです。人間が人間をコントロールできなくても、神ならできる。1万年生きた子どもの正体とはそういうものでした。神だと思い込むことで私は生き延びたのです。神ならばこれくらいは耐えるはずだと思って、辛いしうちにも耐えたのです。人間ならば音をあげてしまうようなことでも、神ならば堪えるだろう。だから、私は神なのだ。そう思うことにしたのです。それは誰にもできないことであるし、誰にでもできることです。人間は神に似せて作られているので、その気になればそんなふりをする猶予が与えられているのです。例え、それが思い込みであっても、慈悲の深い本当の神様は神を真似ることを許してくれます。そういう力を与えてくれているのです。生まれて、まだ8年の子どもの親が親をやめてしまった時、どう生き延びればいいのか?こんな話があります。それはマーガレット・F・パワーズという人の「あしあと」という詩です。神様はいつも共に歩んでくれている。だから、足跡が二つつく。でも、あるとき、足跡が一つしかない時があった。神様、あなたは私を見捨てたんですか?神様は答えます。
 「わが子よ。私の大切な子供よ。私はあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試練のときに。あしあとが一つだった時、私はあなたを背負って歩いていた。」
 1万年の子どもであった私はずっと神様におぶわれて生きていたのでしょう。
 8歳から16歳までの8年間、私は一人で地に足をつけて生きていませんでした。私が自分のことを誰よりも大人であり、神にも近い存在だと思っていた時、私は私であることをやめていました。
 人間がそうだと知らず、神の真似をしてしまうと人間の本性は失われてしまいます。人間と仲良くすることができなくなるのです。自分のことを神だと思う人と友達になりたい人はいるのでしょうか?いつも上から目線で、ジャッジしていて、どこか遠くばかり見ている人。それが私でした。そして、私は私を取り戻す旅に出ることになるのです。人をコントロールしないで生きる方法を学ぶ旅です。コントロールではなく、行動すること。人を操作せず、自分が動くこと。人間としてもう一度人と出会い直すために生きていくのです。

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 さて、最近の母は楽しく生きています。
 数年前、大原先生の薬では絵が描けないと大喧嘩して別れました。薬をやめてしまい、統合失調症の陽性症状で幻聴・幻覚の通りに行動し、またもや警察で大暴れした後、その時、緊急入院したところでいい医者に巡り合いました。大原先生の統合失調症の薬は母の絵を描く力を奪っていたようでした。新しい先生の薬を飲んだ母はまた絵を描く力を取り戻しました。毎日、父の顔や草花を描いて穏やかに暮らしています。寛解とまではいきませんが、十分毎日思う通りに生きているようです。
 私はといえば、今、人をコントロールしないで生きていこうと奮闘しています。コントロールしたい、自分の思う通りになって欲しい、そういう願望を自分の病を認め、その無力さを受け入れる努力をしているのです。私の過去や未来は妄想で埋め尽くされています。それを少しずつ現実に戻し、今、現在を生きること。それはまだ途上ですが、私が生きていく限り死ぬまで続きます。

※本稿に登場する個人名は仮名です。

現代書館note「一万年生きたこども」続編
一万年生きた子ども 統合失調症の母をもって

ナガノハル

1979年、神奈川県横浜市生まれ。
統合失調症の母親を持ち、双極性障害Ⅱ型という病を抱えながら、日々の苦労をまんがやエッセイにしている。
著書に「不安さんとわたし《当事者研究的コミックエッセイ・総ルビつき》」山吹書店がある。

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