REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

生活するトランスジェンダー
  吉野靫

2021年5月26日

生活するトランスジェンダー

第一回

「トイレに行ってもいいですか?」

 今月からしばらく連載をすることになった。私は制度や規範から確信的に逸脱する立場をとる「クィア」で、男女二元論に馴染まない「ノンバイナリー」系のトランスジェンダーとして生きている。そんな人に出会ったことがないと思うかもしれないが、私もただの生活者にすぎない。米を炊いて納豆を食う日があり、食後には必ずコーヒーを飲む。週に一度ヨガを習い、美容院は3、4ヶ月に1回。野菜は安い日にまとめ買いし、飼い猫の糞を粛々と片付ける。
 日本にはトランスジェンダーのロールモデルが少ない。おそらく職業的な異性装者との混同もあるし、女性・男性どちらの気持ちもわかると誤解されたり、優秀とされる人、美しいとされる人だけがクローズアップされたりする。この連載では、とりたてて特別な存在でなく、富や名声を持たず、「LGBT」ブームにも乗っていない野良のトランスの私が、それでも歩んできたカムアウト後の20年を振り返ってみる。たたかいがあり、わずかな歓びもある。その中の何かが、特に若いトランスの役に立てば嬉しい(とはいえ回想は大学に入ったところからスタートする。経験を共有しない人は、大学で起こる出来事について見物するつもりで読んでほしい)。

 今回のタイトルは、2002年に書いたコラムから取った。大学に入った私は、とにかく自由にトイレに行けないことに悩んでいた。カムアウトしていたとはいえ人の目が気になり、男女どちらのトイレを使うことにも抵抗があった。身体障害者用トイレも、邪魔になるのではないかと思って堂々と使えない。仕方なく、キャンパスの中で人が少ないトイレを把握するよう努めていた。これは多くのトランスが経験することだろう。一年ほど我慢して過ごしたが、同じ学費を払っていながら不都合を感じることに嫌気がさし、大学の環境を変えることに決めた。当時、立命館大学の学生自治会は、おそらく何度目かの再興期にあった。学生運動を経て構築された自治のシステムが生きていて、様々な課題について大学(「当局」と呼んでいた)と交渉することができたのだ。
 私は文学部自治会を訪ね、トイレの悩みについて相談した。文学部自治会ではちょうどセクシュアル・ハラスメントへの取り組みを始めたところで、せっかくだからジェンダーに関わる課題を当局への要求として位置付けよう、それを担当してみないかと「オルグ」された(これを読むひとの年齢層はどのくらいだろう。オルグとは社会運動用語で、組織に勧誘することである。自治会には60〜70年代の言葉が残っていて、独特の雰囲気があった)。オルグに応じた私はほどなく自治会ボックスの住人となり、先輩たちと新たな課題への取り組みを始めた。それが Gender Sexuality Project である。今でこそジェンダーセンターを擁する大学があり、「LGBT」のサークルも多い。しかしあの頃は、自治会が学費や施設の問題を扱うならわかるが、ジェンダーなんて個人的な話……という冷淡な反応からのスタートだった。役員には圧倒的に男子が多く、個人的な話は政治的な話だ! というスローガンも通じなかったのである。ジェンダーの視点から意見を言うと「うるさがた」として敬遠され、私は卒業まで「なんかジェンダーのひと」として認識されていたはずだ。
 Gender Sexuality Project のニュースレター第一号では、トイレ問題についてのコラムを書いた。スマホもツイッターもない時代の話である。「拡散」も「炎上」もなく、せいぜい物好きな学生が読むくらいだった。だがトランスジェンダー当事者がカムアウトするのは初めてのことで、大学側にはそれなりのインパクトをもたらしたように思う。その証拠に、7月の「五者懇談会」(大学を構成する五者が、学生大会で決議された要求について話し合う場。とにかく様々な会議体がある)を経て、早くも夏休み明けにはキャンパス内の障害者用トイレにプレートが設置された。「このトイレは、本来の使用者に支障のない範囲ですべての人が利用できます」。過渡期的な措置ではあったが、気持ちは幾分楽になった。その後2006年にバリアフリー法が施行され、キャンパス内のトイレ整備は進んでいく。

 確かに変わるではないか、と私は味をしめた。トイレはきっかけにすぎない。集団健診に書類の性別表記、トランス向きでない決め事は他にもある。「ジェンダー課題」の担当者になった私には他にもビジョンがあった。セクシュアル・ハラスメントガイドラインの改訂、託児所設置、セーファーセックスやデートDVの啓発、ジェンダーフリーバッシングへの対抗、情報誌の発行……。自分の問題さえ片付けたら後は手を引こう、とは微塵も思っていなかった。生来の性格か、社会変革に携わることへのマイナスイメージを持っていなかったし、どのみち衝突を避けては生きられないだろうという諦念もあった。世界はイラク戦争を目前とした状況で、反戦デモに出かけるようにもなった。大学生活の過ごし方としては圧倒的な少数派ではあったし、路上に出れば罵声を浴びることもある。だが大きな流れを肌で感じながら、自治会の仲間と共に行動することは、カウンセリングよりも自助グループよりもトランスの悩みを忘れさせるものだった。身体はままならずとも、私自身が尊重される場で過ごす時間は一番の救いだったのだ。こうして私は、「活動家」になった。〈続〉

2021年6月23日

生活するトランスジェンダー

第二回

パンクにやろう

 20歳頃からパンクファッションを好むようになった。今でこそノンバイナリーを自認しているが、当時はまだ「男性として通用したい」という思いが強かった。しかし顔立ちや体型を考えると、それは難しいこともわかっていた。そこへいくとパンクファッションは、性別はさておいて「奇抜な格好をしている!」という印象を抱かせるので、都合が良かった。いまいち想像がつかないひとは、「70 年代 パンクファッション」で画像検索してみてほしい。不条理に破れたシャツに、安全ピンやチェーン。両足をベルトで繋いだボンテージパンツ。「DESTROY」のペイント。カネはないので古着を買ったり、自分でリメイクしたりしていた。DIY精神にあふれてはいたが、絵の具で書き殴ったペイントやハサミで切っただけの加工は、今思えばかなりめちゃくちゃな出来だった。なお、セックス・ピストルズやパティ・スミスに傾倒していたというようなエピソードはない。文学部自治会の仲間とはよくカラオケに行ったが、中島みゆきの「ファイト!」で素朴に盛り上がっていたものだ。
 2003年4月、この春は快活に過ごした。通称名使用の権利を得た私は、学生証の名前を書き換えた。これで証明書類や成績表に悩まされることもない。特に親の許可が必要ということも、誓約書を書かされることもなかった。前年度、トイレ環境の改善だけでなく集団健診に関する要求も提出しており、それに対しては「申し出があれば個別健診も可能」、「大学から案内するとき事情がある人のために一文を付け加える」という回答を引き出していた。のちに健康診断を受けないと履修登録ができないというシステムが導入されたため、大切な変化だった。1月からは大阪医大のジェンダークリニックにも通い始めており、人生は割と順調にいっているように感じていた。

 この年、立命館大学では10月に「公開全学協」が予定されていた。学生・院生・教職員・理事会の代表者が参加する会議を、4年に1度、全構成員に公開して行うものだ。2000人以上が体育館に詰めかけ、野次や怒号も飛び交う白熱の現場だ……と先輩に聞かされた。ここ何回かは理事会が強行退席する形で学費議論が打ち切られており、今回も争点になるのは、毎年自動的に学費が上がる算定式についてだと見られた。私は既にジェンダー・セクシュアリティ課題の担当者だったが、行き掛かり上、学費課題も引き受けることになった。学費が半額になる奨学金をとることで大学にいられる私にとって、これも大いに当事者性のある話だったのだ。
 なんか、もっとかっこよくやりてぇ、と安全ピンだらけのシャツで思った。それまでの自治会の見せ方は、有り体に言ってパッとしなかった。ビラ一枚とっても、wordに備え付けの意味不明なイラストに「創英角ポップ体」というフォントが添えられており、視認性も高くない。広報物の方向性を変えることにはすぐ取り組んだ。ただでさえジェンダー論やフェミニズムはモテない女がやるものだという雰囲気があり、企画のビラが破られることもあった。他学部の自治会も——特に男子学生は非協力的で、Gender Sexuality Projectを陰でフェミナチと呼ぶ者もいたし、明らかに冷笑的な気配があった。全方位にカムアウトしているトランスジェンダーと対決すれば「不利」になる、という考えはあったのか、面罵されることはなかった。だが口に出していないだけだ。そんなお情けにすがって運動をやりたくなかった。舐められてたまるか、舐められないためには、ダサくない方がいい。もっとかっこいい打ち出しをして、多くの学生に訴求するように努め、きちんと要求を通していくことだ。2003年には文学部の学生大会で、500枚の学生アンケートを基に、ハラスメントガイドラインの改訂・ジェンダー系講義の拡充・教職員の意識啓発などの要求を議案としてまとめた。6月には恋愛や就職の場で直面するジェンダーをテーマに講演会を開催し、100名が参加した。
 10月の「公開全学協」に向けて、学費問題への取り組みにも熱が入った。学費算定式を解明するビラや、世界の高等教育無償化を紹介するビラを作り、毎晩のように掲示してまわった。小便器の前に貼ったときは、さすがに事務室からクレームがついた。また学費値上げ反対署名を集めることを提案し、広場や学食に署名ブースを出したり、講義後の大教室に入ったりして呼びかけた。この動きは全学に広がり、一週間で5000筆を達成した。署名の束は山と積まれ、当日の会場にも持ち込まれた。決戦の日、23時を過ぎるまで議論は続き、理事会はやはり退席した。獲得したものは、老朽化した施設の改修や奨学金枠の拡大。本気で取り組んだだけあって落胆もしたが、諦めずに続けるぞという決意の方が勝った。成果がわかりやすく目に見えることは、なんて面白いのだろう。

 より速く、より高く、より強く——といったところか。運動の成功の基準に、見映えと数とが加わった。理想を追うほど私の姿勢は厳格で強硬になり、他者にも自分と同じ働きを求めた。連日22時過ぎまで自治会ボックスにいて、講義に出て、何の苦痛も感じない。たまたま障害のない身体を持ち、無理のきく精神状態にあり、その特権に思いを馳せることは稀だった。一方で宿泊を伴うイベントでは深夜にビクビクしながら大浴場を使い、部屋割りに「配慮」を求め、個別対応の範疇でしか問題が解消されないことに自尊心が削られてもいた。激しい苛立ち、矜持と裏返しの能力主義と完璧主義、黒いエンジニアブーツの足元はおぼつかない。パンクにやる、とは何だったのか? 自問自答する暇もない。次の目標は、全新入生8000人に向けて、ジェンダーとセクシュアリティに関するパンフレットを配布することだった。〈続〉

2021年7月28日

生活するトランスジェンダー

第三回

激情と歩め

 立命館大学の学生自治会は「独立採算制」である。全ての学生から一律に学友会費を徴収していて、そこから学園祭をはじめとした行事など、自治会活動に関わる費用を賄う。当然、学友会費を使いたいときはしっかりと企画書を書き、様々な部署の代表が集まる会議に出席して承認を得る必要がある。全新入生に対してジェンダーとセクシュアリティについての新歓パンフレットを配るという目標を達成するためには、業者発注の費用をもぎ取らねばならなかった。が、始動から1年半足らず、しかも文学部のみの活動にとどまるGender Sexuality Projectに、そう簡単に予算はおりない。B5サイズ16ページのパンフレットに対して、承認されたのは紙代のみだった。つまり印刷と製本は自力でやるということだ。
 パンフレットの内容は、「ジェンダー」、「ジェンダーフリー」、「セクシュアル・ハラスメント」、「セーファーセックス」、「多様な生/多様な性」。これに学内相談場所の一覧を加えた。メンバーで分担して執筆し、原稿は問題なく仕上がったものの、印刷と製本は長い道のりだった。印刷には自治会ボックスに設置されている輪転機を使用するが、これはサークルも利用するため占領するわけにはいかない。ほとんどの学生が帰った頃から刷り始め、日付が変わる頃まで黙々と作業をした。一人で残って10000枚ほど刷った日は、帰宅しても輪転機の音が耳から離れなかった。手分けして他学部の輪転機も借り、ようやく刷り上がった後は、それを折って製本する。文学部の仲間はもちろん手伝ってくれたが、全く反りが合わないと思っていた某学部の委員長も加わってくれた。こうして仕上がった8000部のパンフレットは、2004年4月、オリター(クラスごとに新入生の補助に入る学生)の手を通して全新入生に配布された。わずかながら感想も届き、アンケートの結果、7割の新入生が読んだことがわかった。

 この頃になると、学生から相談が寄せられるようになった。解決のために動くとなると、勢い事務室や学生部の職員と話をする機会が増える。「ある講義で教員が性体験の有無を訊いた」という相談が来たときは、事務長と懇談をしてセクハラ対策の位置付けを高めるよう要請した。ところが職員が頼りにならなかったり、職員自身が問題だったりするケースも少なくなかった。「デートレイプの被害に遭ったので加害者に指導してほしい」という相談に対して、「相手を部屋にあげたのも悪い」などとコメントされては、こちらも「それはセカンドレイプだろうが!」と激昂せざるを得ない(幸い職員の発言は、被害者の耳に入らずに済んだ)。「学内の相談窓口を訪ねたら、職員に『大したことない』とあしらわれた」という相談があったときは、学生部で数時間粘った。——ちょっといいですか。対応した職員は誰? なぜカウンセラーに繋ぐ前に「選別」した? そもそも相談を受けるに足るトレーニングは積んでいるのか? 本を数冊読んだだけでできる仕事だと思っているのか? 何の本を読んだ? そこに「大したことない」と言ってよいとでも書いてあったか?
 私の怒りは脊髄反射の速度だ、と仲間から言われていた。しかも時間が経っても冷めない。このような怒り方を自治会界隈では「ド詰め」と呼んでいた。語源はわからない。調べると会社の営業部でよく使われるとか、「激詰め」という類語も出てくる。ともかく強烈にマチズモ的な行動様式であることに違いはない。学生部での「ド詰め」を重ねるうちに、しまいには、別件で訪ねても職員が用事を聞きに来てくれなくなった。君子は危うきに近寄らず。もちろん、理由もなく「詰める」、根拠のないことで「詰める」ということはしなかったが、男性性と距離を置いたようでいて、私が最後まで捨てなかったのは威圧的・好戦的な表現であったように思う。身振り手振りの大きさ、声の調子、声量などの一式を、すっかり身体に落とし込んでいたのだ。とは言え、自らの瑕疵を認めることなく「そんなに怒らずもう少しソフトに言ったらいいのに」と「助言」するような職員もまた、不誠実のそしりを免れるものではない。

 2004年11月、Gender Sexuality Projectは学園祭企画を行うことにした。1日のうちに講演会とパネルディスカッション、レインボーパレードをやってしまおうという無茶な試みである。予算を諮る会議ではいくつかの慎重論も出る中、いつもポーカーフェイスな財務担当の女性が「予算を出す意義はあるでしょう」とはっきり言い、承認へと動いた。活動への眼差しも変わりつつあった。講演は、女性とゲイカップルを描いた『ハッシュ!』(2002)の橋口亮輔監督に依頼した(近年、橋口監督が排外主義的な意見を表明していることについては苦い思いでいる。講演の際は日程や料金含め、監督にも配給会社シグロにも大変親切に対応してもらったのだ……)。パネルには他大学からの教員と学生も招いて、若者をとりまくジェンダー・セクシュアリティの諸問題について討論する場とした。レインボーパレードは「性に関して幅広いアピールをする」という緩やかな一致点を決め、短い距離ながら公道を歩くことにした。学生団体としては全国初の取り組みである。まだ認知度は低く、「ニューハーフの人たちのパレード」と言われたり、警察に道路使用許可申請に行ったときは「セクハラ反対とかやるの?」と訊かれたりもした。パレードの趣旨に、性的マイノリティの当事者性を強く打ち出すことはしなかった。マジョリティこそが参加して変わるべきだと考えていたからでもあるし、パレードで触れた問題意識について「自分は当事者ではないから」という線引きをせず日常に持ち帰ってほしいという思いがあった。これが「みんな」のパレード、お祭り一辺倒となると政治的な意義は失われてしまうのだが、誰もが傍観者のままではいられないという主催側の必死さは、ある程度伝わったのではなかろうか。
 準備期間は目の回るような忙しさで(そして横断幕に書いた「セーファーセックス」の語について、またぞろ学生部が「近隣住民に配慮せよ」と意味不明なクレームをつけ、「隠せ」「断わる」という攻防もあり)、徹夜のまま当日を迎えた。パレードには100名ほどが参加した。ゴールした頃には日も暮れかけ、コラボしてくれたサークル「和太鼓ドン」が山車の上で演奏した。どこからか楽器を持つ学生も合流し、陽気な三線が鳴る。数十人が輪になって踊っていた。知らない人と手を繋いで踊ったのは、これが最初で最後のこと。反響するさざめきと足音、空がすっかり暗くなるまで音楽がやむことはなかった。 〈続〉

2021年9月1日

生活するトランスジェンダー

第四回

ひとつのおわり

 卒業論文をどうにか片付けた2005年の年明け、新歓期の準備に余念がなかった。早いうちに大学院への進学を決めていた私は新生活の準備もなく、年度終わりの3月31日まで作業をするつもりだった。新入生向けのパンフレットは業者発注の予算をもぎ取り、表紙はフルカラーで発注することになった。一年前は地道に輪転機を回していたのに、急遽データ入稿しなければいけない。後輩たちと共に専用ソフトの習得に四苦八苦していた。加えてこの年から、オリター/エンター(新入生の補助に入る学生)向けにジェンダーとセクシュアリティに関する講習を始めた。前年には、早稲田大学のイベントサークルが起こした集団レイプ事件が報じられたばかり。新入生からトラブルの相談を受けたとき適切に対応できるよう学習してもらったり、新入生の性的指向や性自認を決めつけたりしないよう注意を促したりした。この講習のために、キャンパスをまたいで複数の学部に出張した。最初は抵抗を示していた者も、私の当事者性の前には譲るしかない、といった様子だった。心中で葛藤しながらも、私もその「価値」を利用した。本当は、各学部で独自の講習をやってくれればそれに越したことはない。

 ある日、事務室から連絡が来た。卒業式で、文学部の総代として卒業証書を受け取ってほしいというのだ。厳密にはわからないが、おそらく成績上位者の奨学金を複数回とったり、部活やサークルで顕著な成果をあげたりしていると打診されるようだった。式に出る気など毛頭なかった上、トランスジェンダーならではの問題もある。私は2003年から通称名を使用していたが、卒業証書だけは本名と通称名が並んで記載される。壇上で本名を読み上げられでもしたら堪らない。公開全学協(連載第二回参照)を退席するような総長は信用していない。服装も困りものだ。ある程度フォーマルな格好というのはジェンダーがはっきりしている。同じジャケットでも女性用はウェストがシェイプされているし、男性用では肩幅が合わない。いつもの珍妙な服装で参加することもやぶさかではないが、場を侮辱する意図はない。ひとまずその辺りを職員に伝えた。特に名前については、読み間違えようものなら大騒ぎになること必至であると。すぐ候補から外れるだろうと思っていたが、意外なことに再び連絡が来た。卒業証書は本名の部分に紙を貼って見えないようにするので、それでどうかと言う。なぜリスキーな人選をするのかと訝しんだが、はたから見てわかりやすい位置にトランスが食い込んでおくことも必要かと、最終的には受けることにした。
 総代になるとパーティーまであるのだ。卒業式の何週間か前に、各学部の総代と理事とで会食をするという案内があった。タダ飯が食えると思いフラリと訪れると、全員がスーツを着ている(この「自分以外は全員スーツ」という局面は、その後もしばしば訪れる。収入やポストに関わる面接ではジャケットだけ着てしのいできたが、いいかげん違う選択肢が欲しい)。なぜか映画でしか見たことのない蝶ネクタイ姿の給仕さんもいて、これまた映画でしか見たことのない「氷の入った銀色のバケツのようなもので冷やされているワイン」があった。給仕さんは「N総長がお好きなのでワインを用意しました」と言う。財源が気になって仕方ない。一人ずつ挨拶しなければならなかったので「トランスジェンダーとして自治会で色々やってきました。学費議論には納得していません。院生協議会でも頑張ります!」と述べると、歓談タイムには遠巻きにされてしまった。N総長が寄ってきて「君があんなスピーチするから誰も隣に来ないね」と楽しそうにしていた。気の毒だと思ったのか、給仕さんは傍に来てあれこれと料理を勧めてくれた。J理事には「トランスジェンダーのことは最近も話題にする機会があったけれど、公表している学生に会うのは初めてだ。勇気があるね」と言われた。面白みのない感想だが、そういう学生もいると現実感を持たせることが重要なのだ。私がしてきたのはそういう仕事だ。料理が残るともったいないので、後輩のために幾つかプリンをくすねて帰ってきた。

 結局、卒業式当日には、二十歳のとき買っておいた男性用のスーツを着た。忙しくて服装のことなど考えている暇もなかったし、明らかな「異性装」の雰囲気を出した人間がいてもよいかと思ったのだ。壇上では心なしか緊張が走ったが、卒業証書の本名の部分には、たしかに紙が貼られていた。式が終わるとすぐに自治会ボックスに戻って、作業を再開した。GenderSexualityProjectは2005年4月から全学自治会へと移動し、その取り組みの範囲を拡大することになった。学生としての挑戦はここでおしまい。
 私の顔立ち、体型、声のすべては女性という記号と結びついており、そのような人物と毎日接しながら、ほぼミスジェンダリングしなかった仲間たちの思いやりは本当に偉大だった。3年間、誰ひとりとして私の女性的特徴をあげつらうことなく、トランスジェンダーとしての真贋を問うことなく、文学部自治会ボックスを安全な場所のまま保ち続けてくれた。夜、学生たちが帰った後も、あの部屋だけは灯りがついていた。がらんとした建物に反響する輪転機の音、壊れかけた椅子、散乱したビラ。学生生活のすべてが、そこに詰まっていた。 〈続〉

2021年10月6日

生活するトランスジェンダー

第五回

21世紀のフランケンシュタイン

 大学院に入学した2005年4月、最初にやったのは「ナベシャツ」を買うことだった。ナベシャツの「ナベ」は、女性から男性への性別移行者や、職業的男装者を示す「オナベ」のそれである。胸の膨らみを目立たなくするためのナベシャツは強力な伸縮性を持つ素材でできた下着で、1970年代に誕生したとされる。大学入学時には1枚1万円前後であり、洗い替えも含めて複数枚となると貧乏学生には厳しい。それが2000年代半ばに入ると、男装コスプレなどで市場が広がったのか、デザインが多様化し、値段も下がってきた(現在は輸入品ならば1000円代から買える!)。それで購入に踏み切ったのである。
 大学4年間はどうしていたのかというと、ひたすら腰痛ベルトを胸に巻き続けていた。サイズによっては和装用の下着やスポーツブラで済むこともあるが、残念ながらそういうタイプではなかった。腰痛ベルトの中でも幅広く頑丈で、マジックテープでしっかり固定でき、コイルボーンが入ったものを愛用していた。真夏の炎天下ではいつも汗だくで湿疹ができたし、気分が悪くなった。肺が圧迫されるので走るのにも向いていない。使用も4年目になると生地が擦り切れてきて、ある日気づくと片方のボーンがなくなっていた。破れ目から抜け出てしまったようである。シャツの中から突然金属片を落とした瞬間があったわけで、見ていた人がいたらずいぶん怪訝に思っただろう。ある冬に帰省したときは、きょうだいの受験のためインフルエンザの予防接種をすることになった。腕を出して打つだけだと思っていたら聴診器の過程があり、腰痛ベルトを見た医者が「何で……?」と戸惑うので決まりの悪い思いをしたものだ。胸を潰すだけで男性として「パス」(望む性別として通用すること)することは滅多にないが、老姉妹(おそらく)が店員をしている定食屋で、一人には「おねえちゃん」、もう一人には「おにいちゃん」と呼びかけられ可笑しかったことがある。こういうときは大体、本人より周りの友人たちの方がいたたまれない顔をしている。
 出生時が女性のトランスジェンダーにとって、生理も大きなハードルである。私はPMS(月経前症候群)が酷く、頭痛と吐き気が頻繁に起こり、出血量も多かったので苦労した。利便性からタンポンを使っていたが、何か挿入することを絶対に受けつけないという人もいるし、男性用トイレを使用する人は汚物入れがないので流せるナプキンを選ぶ場合もある。当時、低用量ピルにはジェネリックがなく、費用面から現実的な選択肢ではなかった(今ではその恩恵を最大に受けていて、医師と相談して3ヶ月飲んで休むというサイクルを続けている。もう何年もナプキンを買っていない。男性ホルモンは打てない/打たないが生理を減らしたいという人にはお勧めする。月に1度苦しむよりは婦人科に行く方が遥かにマシである。体質に合わないこともあるのだが……)。自らの身体であっても、コントロールできるのはほんの一部分に過ぎない。金銭的余裕と生活環境によって出来ることも違う。トランスジェンダーは生存を維持するために、身体のどこかを押さえつけ、あるいは拡張し、生活の工夫を重ねている。特に医療にアクセスする前であれば、将来に僅かな望みを繋ぎつつ、日常は妥協と諦め、羨望の連続である。
 この頃、自分の身体を変えることを「カスタム」と呼ぶようになった。胸を取ることは決意していたが、ペニスへの気持ちは10代でなくなっていた。いわゆる「男性並み」の見た目や、性交渉が可能な状態のためには、自分の皮膚や肋骨を移植しなければならない。そこまでのリスクを負うことに現実味がなかった。望む身体の着地点が「男性」ではない以上、「女性から男性への性別移行」という表現は当てはまらない。パーツを自分好みに調整する「カスタム」の感覚がしっくりきた。  

 3年通っているジェンダークリニックから知らせが届いたのは、2006年3月のことだった。当時、SNSで付けていた日記から引用する。
 「ついに担当医から連絡が来た。判定委員会が終わり、第二段階以上(ホルモン投与や手術)に進む許可がおりた。正直いろいろ不安はある。委員会は急ごしらえだから、医師ひとりひとりのジェンダー観などもちろん置いてきぼりだ。だから、『ベタ』なGID(性同一性障害)をデフォルトにしてる人が多く、そこを基準に問診されても、私にはさっぱり当てはまらない部分が多い。(…) 結局、GIDを診てる医師でも、ヘテロ全開の人は多いし(Female To MaleはMだからFが好きなはずとか)、下も手術した方がいいよとか。現行の特例法(戸籍性別変更の)に合わせるために手術するなんて馬鹿馬鹿しい話だ(もとより戸籍制度も馬鹿馬鹿しい)。つまり、なんで『男女』の二分法やヘテロセクシズムに埋没/同化する道を勧められてしまうのか、それが不愉快だということ」。
 手術の日程は5月半ばになった。自らのアイデンティティが正確に伝わらないという不安を抱きながらも、初めてのカスタムに期待は高まっていた。自らの意志で、自らにとって快適な「胸が平らな身体」を手に入れるのだ。「2006年3月30日(…)10代の頃は、『相応の対価』を払って望む身体を手に入れるんだという漠然としたイメージを持っていたが、考えてみたら、一体何に対しての『対価』なんだろう。『男女二元論とヘテロセクシズムを軸にした安定的な規律、それに拠って立つ社会構造から著しく乖離してごめんなさい。生殖腺を取って子孫を絶つことを約束しますから、貴方たちの社会の一員として認めてください』とでも? 実際、現行の特例法の内容はこういうことだ。いったい私は、何のために、誰に対して請願し、許可を求める必要があるのか」。 〈続〉

2021年11月10日

生活するトランスジェンダー

第六回

良心のありか

 「目の前が真っ暗になる」という比喩がある。2006年6月12日、身体カスタムのための手術から3週間後、診察室のベッドでそれを体験した。この話を繰り返したくはない。「失敗は想定しなくてよい」という医師の説明は現実を裏切り、手が届くはずだった「快適な身体」は喪われた。
 患部の状態を記録している。「2006年06月12日02:43 右側/右上部の陥没、中は白色、僅かに黄味を帯びる。 滲出液の量は微減。茶色、粘性あり。陥没部拡大。6月4日の段階で1㎝弱のものが、一週間で長さ3cm弱、幅2cm。縫合が離れた部分の外側の皮膚が隆起。陥没部以外は変化なし。感覚徐々に戻る。左側/一度剥がれて中から白っぽい皮膚が出てきたが、再び茶色へと変色。 10日、右下部に5mm大の陥没。11日、1cm強に拡大。内部は茶色。粘性あり。皮膚全体が茶味を帯びる、中心部は術直後と変わらず。出血微減。縫合部のすぐ外側が赤くなっておりそこから出血の模様。皮膚のたるみあり、感覚鈍い。メンタル/患部悪化による若干の抑鬱、ガーゼ交換時のストレス(吐き気、軽い呼吸困難)、 左胸に残った脂肪による強迫観念(再び膨らんでくるのではないか) 、右腕の痺れ(10日)」。 
 この日を境に、ただ患部が壊死しきるのを漫然と待つだけの生活が始まった。緊張を強いられて喉は詰まり、夜明けまでまんじりともせずに座っていた。記録には繰り返し、「奇跡は起こらない」「現実を受け入れろ」と書かれている。17日、何故そうしようと思ったのか今でもわからないが、大学で上映される映画を観に行った。少し前に会った知り合いとすれ違い、短期間で急激に痩せたと驚かれた。確かに足もとには常に浮遊感があったが、会場まで慎重に歩いて『白バラの祈り ゾフィー・ショル、最期の日々』を観た。前年に制作されたドイツ映画で、反ナチ運動のメンバーが逮捕・処刑されるまでの5日間を描く。21歳のゾフィー・ショル(ちょうど今年が生誕100年だったようだ)は過酷な取り調べに耐え、不正な裁判にも動じず、誇りを貫いて断頭台の露と消えた。ゲシュタポの尋問官に「何のために戦うのか」と問われたゾフィーは、「良心のため」と即答する。減刑のための助け舟を拒む姿は頑なにも見えるが、信念の重みが強烈に突き刺さった。暗がりをよいことに好きなだけ涙を流し、どれだけ不当でも理不尽でもやるしかないのだと思った。このまま医師が曖昧な説明しかできないのならば、壊死の原因がわからないのならば、「皮膚移植すればいいから深刻にならなくてよい」という言葉を撤回しないのならば、私も法廷に立つのだ。どれだけ無茶をしても、ゾフィーのように命を取られることはないのだから。

 映画を観た翌日、にわかに奮起して大学に「休日出勤」した。当時、立命館大学の理事会は「立命館憲章」を作ると言いだしており、学園の方針を示す中期計画の策定も急いでいた。議論の過程では、総長理事長室室長のS氏(この役職自体、私たちは怪しんでいた)が、学友会の代表に「バカ、アホ、何でも学生に訊けと言うのか」と発言し、事態は膠着していた。私は卒業前に宣言した通り院生協議会に所属しており、学友会の後輩と相談した結果、連名立て看を作ることにした。傷痕からは腐臭がし始めていたし、出血はじっとりとガーゼを濡らしていたが、ベニヤ板に模造紙を貼っているうちに心は凪いだ。後輩に頼み、『白バラの祈り』の一場面を描いてもらった。拘留されているゾフィーが窓際の壁に手を置いて、斜め上の光をじっと見つめているシーンだ。いつもならば「理事会は○○せよ」、「○○を批判する」という定番のスローガンを添えるが、このときは違った。

「私たちは理事会の良心を信じている
 大学の役職者が学生代表に対して『アホ』と暴言を吐き、理事会は全構成員に関わる重要な問題を、ほとんど議論なしに策定しようとしている
 今こそ理事会は誇りを取り戻し、真の『立命館民主主義』に立ち返るときだ
 立命館憲章と中期計画についての全学協議会開催を要求する!

立命館大学学友会・院生連合協議会・教職員組合」

 立て看板の写真は京都新聞に載り(理事会は激昂し、記事を書いた記者をしばらく出入り禁止にした)、どこの手の者か、デジタルカメラ片手に偵察に来た職員もいた。はたして全学協議会は開催され、S氏は暴言を謝罪し、撤回した。
 学生時代から慣れ親しんだ「活動」の感覚が生活を繋いだが、微熱は続いており、壊死による感染を防ぐために抗生剤も飲んでいた。執刀医は「原因はわからない」以上のことを言えず、精神科との連携の不備も明らかになったが、患部のケアは委ねるほかない。一日おきに通院し、肉に埋まりかけた縫合糸を抜き、壊死組織をハサミで除去する異様さに耐えた。並行して医療過誤被害の市民団体と会い、先輩の紹介で弁護士事務所を訪ねた。思いつくままに電話をかけ、セカンドオピニオン先も探し当てた(現在でも症例数の多い、大手の美容外科には受付の段階で断わられた。修正手術ならできるが裁判には関われない、と)。
 7月13日、私を支援すると申し出てくれた数人が参加し、裁判に備えた初のミーティングが開かれた。入院中、執刀医は見舞客の多さに驚いていたが、のちにその多くが支援者になるとは思いもしなかったろう。名前と顔を出して裁判をたたかうことに迷いはなかったが、ネットで検索したときに論文などの業績が埋もれてしまうことや、字面を漢字で見たときに地元の知り合いが連想することは煩わしかった。そこで、カタカナ表記を活動名のように使うことにした。「原告・ヨシノユギ」。これが、次の名前だ。 〈続〉

2021年12月15日

生活するトランスジェンダー

第七回

我が心のコマンダンテ

 提訴することが決まると、先輩の手引きで市民運動の現場に出入りするようになった。それまでも個人的にはデモや集会に参加していたが、その運営に携わる人たちに顔を覚えてもらうことが大切だった。運動は持ちつ持たれつで、互いに支援しあうことで成り立っている。こちらの勉強会に来てもらったからそちらの企画にも行くという、まっとうな「仁義」で動いている人がほとんどだった。教育基本法改悪反対の集会で、多民族共生のイベントで、トランスジェンダーの雇い止めに抗議する支援集会で、マイクを握った。もともと、一対一の会話は苦手だが1000人の前でカミングアウトするのは平気という心性なので、喋ること自体は苦痛ではない。戸惑ったのは、私の話に「感動」して話しかけてくる人がいることだった。同じ性的マイノリティならばまだわかる(そういえば秘密を打ち明けてくれるのはゲイ男性がほとんどだった。単純に運動現場に男性が多いからなのか、あるいは私の表象や言動が「男性的」でゲイ男性にとって気安かったのかもしれない)が、「普通の女性/男性」を名乗る人に「本当にいい話でした! 頑張ってください!」と言われるのは、どうにも居心地が悪かった。「トランスジェンダーではないけど男(女)っぽいところは自分の中にもある」などと切り出されると、善意とわかっていてもストレスを感じた。身体を変えなければ解消されないモヤモヤ、性別を判定する眼差しの不快感、診断現場に持ち込まれる苛烈な性別二元論、「普通」との間にそびえる高い壁が見えているのは、こちらだけだ。
 それでも、現場での経験は得難いものだった。社会のあらゆるところに不正がはびこっていることを痛感したし、企業や自治体、国を相手に裁判をたたかっている人たちの姿勢に学ぶところも多かった。短絡的に勝ち負けを考えるのではなく、いかに意義ある判決を導き出すかという視点は、原告として重要な心構えだった。中でもはっきりと記憶しているのは(提訴とは時間が前後するが)、「在日特権を許さない市民の会」が京都で初めてデモを行ったときのことだ。2008年6月だったと思う。デモが予告された時点でカウンター行動が組織され、私も実行委員会に参加した。カウンターの方法は、デモ隊が歩く四条通りの主要な辻に人員を配置し、「ヘイトスピーチ」を無効化するというものだった。私は最も大きな交差点である四条河原町の一角を担当することになり、ビラのデザインや横断幕作成も引き受けた。当日、初めて耳にした「ヘイトスピーチ」の群れは想像を超えるもので、四条通りは怒号と日の丸に埋め尽くされた。デモ隊は「朝鮮人は日本から出て行け」を皮切りに民族差別のシュプレヒコールを繰り返し、カウンターはそれをかき消そうと対抗した。私も拡声器を握って、通行人にデモの説明をし、「差別をやめろ」と叫んだ。準備期間が短かったにもかかわらず、数百人の市民がカウンターに加わった。これ以降、人前で何か話すときは一層、日本に暮らす「国民」以外の人を排除しないよう気をつける習慣ができた。

 2006年の夏以降、日常はすべて提訴の準備のために費やされた。弁護士との打ち合わせ、訴状に必要な知識を学ぶための学習会、ホームページの構築、カンパ集め。壊死は真皮に及んでいたため、用をなさなくなった組織を取り除いた後は、肉が露出している状態だった。フィルムで覆いながら新しい皮膚が張ってくるのを待ったが、夏の間は常に、生臭い匂いがするような気がしていた。それまでの人生経験など役立たない未知の状況で、食事や睡眠を気にかけて暮らしを支えてくれたのは身近な支援者であり、魂が維持できるよう支えてくれたのはチェ・ゲバラだった。Che、いつ何のきっかけで出会ったのかは忘れてしまったが、彼の言葉は本当によく効いた。この頃、支援グループの名称が「ヨシノ支援プロジェクト 救い難き理想主義者ども」に決まったのだが、これもCheの言葉に拠るものだ。

 もし、私が、空想家のようだと言われるならば、救い難き理想主義者だと言われるならば、出来もしないことを考えていると言われるならば、何千回でも答えよう、「その通りだ」と。

 先輩たちは恥ずかしがって「ヨシノ支援」としか言ってくれなかったが、後輩たちは略して「スクドモ」と呼んでいた。学生・院生ばかりの素人集団が、大学病院を相手に裁判をしようというのだ。確かに「救い難き理想主義者」でなければ諦めてしまったかもしれない。もちろん、Cheのすべてが正しいわけではない。彼はその発言からして女性を愛してこそ男と思っていた節があるし、同性愛者への理解があったかどうか怪しい(アメリカに亡命したキューバの作家、レイナルド・アレナスはカストロ政権下の同性愛者弾圧について書いている)。革命軍はどう考えてもマチズモに支配されていたろうし、Cheの人生の選択も、ひとつひとつが「男らしい」。現に私も、Cheが好きだなんてマッチョだ、Cheのような人に憧れることは自分を追い込む、と忠告されたことがある。それは承知だったが、そもそも裁判自体がマッチョなのだ。訴える権利は誰にでもあるとは言うものの、膨大な作業に耐えうる気力と体力がなければ続かないし、法廷で折れない心と、判決まで待つ忍耐力も必要になる。もし判決に納得できなければ、「最後までたたかう」と誓う局面もあるだろう。どんな原告も多かれ少なかれ、自分の中にマッチョ性を召喚してやり過ごすのではないだろうか。私にとってはそれがCheで、そのキャラクタをまとうことによってしか切り抜けられない瞬間があった。想像もつかないような状況で絶望している誰かについて思えば、苦しみの沼に浸かりきることも避けられたのだ。

 世界のどこかで誰かが被っている不正を、心の底から深く悲しむことのできる人間になりなさい。それこそが革命家としての、一番美しい資質なのだから。

 眠れない夜には、YouTubeで誰かが歌う「Hasta Siempre」を聴いた。物憂げなメロディーに乗って聞こえる、« Comandante Che Guevara ». 〈続〉

2022年1月26日

生活するトランスジェンダー

第八回

悩みはいばらのように降りそそぐ

 2006年の年末、訴状は完成に近づいていたが、修士論文も仕上げる必要があった。5月の手術以降、体調が万全という日はなくなっていたし、訴状の準備で研究は進んでいない。学生時代は自治会活動が忙しくても勉強を疎かにすることはなかった。しかし傷痕の痛みや引き攣れが日常となり、脳の半分がストレスで占められているような状態になると、以前のような集中力は全く発揮できなくなっていた。年末年始も帰省せず、ひとりアパートにこもって作業を続けた。もともと古代文学に興味があって、京都の大学に進学する道を選んだのだ。古事記と日本書紀から「性」にまつわるエピソードを抜き出し、二つのテクストに現われる語彙の違いや、ストーリーの異同を考察した。
 年末の街には、軽い調子にアレンジされた第九があちこちで流れていた。それを嫌って、PCに入っていたオーケストラの演奏(いま調べたら、小澤征爾指揮、サイトウ・キネン・オーケストラによる2002年の録音だった)を聴きながら論文を書いた。幼い頃に読んだベートーヴェンの伝記の記憶ははっきりとしていて、徐々に聴力を失っていった彼は、タクトをピアノに押し付けて振動を頼りに作曲したのだという。人を遠ざけ、引越しを繰り返し、絶望していたはずの彼は何故「歓喜の歌」なんてものを書いたのか?人もまばらなスーパーで半額の蕎麦を買い、年を越した。

 提出前の1週間はほとんど寝ることもできず、支援者に多大な迷惑をかけながら修士論文を書きあげ、提訴に向けて細々とした調整を続けた。訴状の内容や争点については拙著を読んでほしい。やがて京都新聞に「近く提訴へ」の第一報が出ると、取材依頼が押し寄せた。とても一社ずつ対応している余裕はなく、大学の一室を借り、まとめて質問を受けつけることにした。当時、性的マイノリティに関する報道には多くの問題があったので、記者用の資料も用意した。「性同一性障害」は人格ではないので「性同一性障害の○○さん」ではなく「性同一性障害の診断を受けた○○さん」が妥当であること、「性転換手術」は古い言い方で「性別適合手術」の方が望ましいこと、戸籍上の性別を用いて「性同一性障害の女性/男性」と表現するのは本人の意思に反していることなど(さりとてヨシノは男性と呼ばれたいわけでもないから、匿名の場合は「大学院生」で統一してほしいという要望も)をまとめた。だが資料を配布し、丁寧にレクチャーした後でも「子どもの頃の写真がほしい」という要望があった。テレビ局だったので、おそらく「こんな女の子(七五三や制服の写真)が性転換を!」という演出をしたかったのだろうが、目の前にいる私はただ胸が平らなだけである。ダイエット番組のノリでBefore/Afterをやりたいなら浅はかだし、過去を封印しているタイプの当事者に同じ要求をしたら大変な苦痛を感じさせる。たしかこの時は、「昔の写真があったとして、今と何かギャップあると思います?」と返答したと思う。以降、福祉番組からバラエティーまで出演依頼があったが、多かれ少なかれ「テレビに出られるんだから嬉しいだろう」という態度が鼻についた。テレビに映って喜ぶ人間ばかりだと思うな、とすべて断った。出れば注目は集まったかもしれないが、正確に伝わることの方を優先したのは間違いではなかったと思う。なお2019年には、LGBT 法連合会から「LGBT 報道ガイドライン」が発表されている。共通の資源が増えるのはありがたいことだ。

 2007年3月30日、京都地裁に提訴した。テレビカメラが5、6台ある中で冷静に記者会見を終え、満足度は高かった。4月、私は文学研究を断念し、社会学に転向して博士後期課程に進んだ。研究と裁判闘争を両立するためには「ガクシン」(日本学術振興会特別研究員。採用されると研究奨励金が出る)を獲りなさい、トランスジェンダーがテーマなら可能性が高い、という先輩たちのアドバイスで、当事者研究の事例が多い先端総合学術研究科の教員、立岩真也と面談を済ませていた。進路相談にのってくれた彼は、ボソボソと喋り、目がまったく合わない。髪は無造作に伸びて気取りのない風体で、偉そうではなかったので指導教員になってくれるようお願いした(私が学者を判断する背景には、なんとなく『星の王子さま』のトルコの天文学者の話があるような気がする)。
 新しい環境に身を置いた矢先、急激に体調を崩した。ある日の昼過ぎ、シャワーを浴びていたら立ち上がれなくなってしまった。動悸が酷く、瞬時に大量の汗をかいた。説明しようのない不安が次から次へと襲ってきて、思考がどこにもたどり着かない。すぐに支援者が駆けつけてくれ、精神科にかかった。スルピリドにゾルピデム、漢方などを処方され、当然のようにうつ病を告げられた。なぜ医療事故から10ヶ月も経って症状が出たのか不思議に思ったが、思えば、異常に自己肯定感が低くなったり、食欲不振が続いたりはしていた。あまりに忙しくしていた――忙しくできていたから、体が動くうちは大丈夫だろうと、たかをくくっていた。
 手術後のショックをケアすることなく、続けざまに提訴の準備や修士論文の執筆などでストレスを重ねてしまったことは、おそらくPTSDの引き金にもなったのだろう。「大阪医大」や「性同一性障害」という単語を見るだけで激しい動悸が起こるようになり、生活に制限が増えていった。やがて外出の時間と自宅にいる時間が逆転し、横たわっている時間が増えた。刺激を感じることや人と会うことも疎ましい。弁護士との打ち合わせや口頭弁論に出かけるだけでも、頓服薬を飲む必要がある。頓服を飲み、それまで培ってきた「キャラ」で押し切り、夜は死の気配が迫ってきて眠れない。休日にデモに行くこともなく、新たな取り組みを始めることもできず、繰り返される口頭弁論だけを基準に日々を食い潰している。空虚さにのしかかられ、自分というものが四散し、そして諦めた。もはや、私は活動家ではない。〈続〉

2022年2月22日

生活するトランスジェンダー

第九回

原告トランス風雲再起

 2年ほどかけて15回の口頭弁論を繰り返し、和解勧告があった。まだ何も明らかになっていなかったし、絶対に病院関係者に証人尋問をしたかったので、応じなかった。裁判がいつ終わるのか、どうすれば勝てるのかということを考えると頭の中でネジが焼き切れるような感覚があった。口頭弁論には毎回出席していたし、イベントなども主催していたので、傍目には失調しているように見えなかったろう。しかし実際には投げやりな気持ちが募り、破壊衝動が頭をもたげ、しばしば奇行に走らざるを得なかった。真冬の深夜、胸の傷痕をスプレーで黒く塗りつぶし、雨の降る中を半裸で外に飛び出したことがある。濡れたアスファルトが裸足に冷たい。路上には客待ちのタクシーが停まっていて、驚いたらしい運転手が、瞬時にヘッドライトを点灯した。
 2009年の夏、私生活で大きくつまずいたとき、既に証人尋問まで3ヶ月を切っていた。何も考えずに済むよう、気を失い続けていたいという欲望は強く、安定剤や睡眠薬を電気ブランで流し込む日が続いた(この酒は『人間失格』に出てくるそうだが、そういう文脈で選んだわけではない。意識をなくすためには強い酒が必要で、この独特の味ならば比較的耐えて飲むことができた)。いつまでも泥沼に浸かっているわけにもいかず、「どれだけ副作用があってもいいから証人尋問をやりきるまで強い薬にしてほしい」と医者に頼んで、三環系抗うつ薬を処方してもらった。もはや文章を読んでも意味がとれず、スムーズに会話することも難しかったが、寝ているだけの状態からは(無理やりだが)脱することができた。一念発起してシラフの状態を取り戻したのは9月の頭で、その半月後から、1ヶ月で3回の証人尋問に臨んだ。
 半年後、大阪医大側は術前の説明に不備があったことを認め、慰謝料の支払いに応じた(精神的損害による請求の6割強)。加えて、この裁判がジェンダークリニックの今後の手術療法を阻害するものではないと確認すること、私が医療スタッフに対して意見陳述する機会を確保することなどで合意し、和解が成立した。判決までいくと、おそらく説明義務違反のみで賠償金額は少なく、条件をつけることもできない。壊死の原因そのものを解明できないのは無念だったが、医療ミスの疑いを覆す証拠は出ず、病院側の証言は「わからない」「覚えていない」が多かった。そのためか裁判長はこちらに好意的だったし、そもそも医療訴訟において和解条項を公開できること自体が珍しいのだが、外野でうるさい人ほど見どころをわかっていないものだ。

 2010年4月、1000日を超える裁判を終えて「身体」に向き合った。裁判中は証拠として再建せずにいた傷痕は、大きく抉れ、引きつれている。薄い生地のTシャツならば、外から見てわかるほどの陥没だ。三環系の副作用で体重は増加し、好きな服が似合わない。それまで体型が変わることがなかったので気づかなかったが、持っていた「パンク」な服のほとんどは、ワンサイズのメーカーのものだった。S寄りのMサイズといったところで、痩せ型の人間しか着ることができない。「パンク」は特定の体型にのみ開かれたものだったろうか? 横たわって過ごした時間が長かったので体力も落ち、自由の身になったというのに、どこへ出かけたいとも思えない。脳の機能も一部は衰えたままで、以前は速読に近いスピードで読んでいた文章がまったく頭に入ってこない。語彙の選択に時間がかかり、なかなか声にならないので自分でも戸惑ってしまう。ふと、「かっこよくて見栄えがして人が集まる運動」を目指していた二十歳の頃を思い出した。その頃とはまるで異なる身体性のもとに生活してみると、そんな運動には少しも魅力を感じない。陽が当たってキラキラして、心身のエネルギーにあふれていないと近づくのに気後れするような、そんな運動は……。
 身体を休めようとしたが、この4月は膠原病の疑いで血液検査をしたり、鼓膜炎に罹ったり、頭皮と唇を引っ掻くのをやめられなかったり、あらゆる部分に不調が出ていた。平熱が低いのでいつも足が冷え、腰痛もある。なんとか打開しようと、後輩の紹介でヨガを始めた。スポーツに縁のない人生だったので、指示通りに体を動かしているつもりでも意識が上滑りし、どの部分に効いているのか実感できない。強い薬をやめて体重だけは減ってきたが、そういうことではない。根本的に身体を変えるべきときが訪れたのだと悟った。筋肉。まさか自分が、それを欲するようになるとは。
 筋トレを始めてしばらく経つと、太腿があまりに固くなったので驚いた。二の腕やふくらはぎも力を込めると隆起するようになり、たった2、3ヶ月での変わりように拍子抜けするほどだった。筋力がつくとヨガも上達し始めた。もともと関節も柔らかく、向いていたのだろう。色々なアサナ(ポーズ)をとりたいという気持ちが芽生えた。公民館で90分、トランスの話題から離れて無心で呼吸を続けることが、欠かせない習慣となっていった。

 この頃に知り合った友人によって、筋肉への興味は思わぬ方向に拡大した。心の中でマッチョ性をくすぶらせたままの私に、友人は香港ノワールを処方した。派手な銃撃戦と、馬鹿馬鹿しいほどの火薬量。友情や信念のために情熱を燃やし、見返りを求めず、ときに命まで投げ出す「男たち」は、明らかに現実とかけ離れていた。実際の「男」もまた、ありもしない見事な「男」の姿に夢を見ているのだ。日本の任侠映画も同じような動機で作られているのだろうが、濡れ場のイメージが強いため選ぶことはなかった。その点、香港ノワールでは登場人物のキャラ付けのために女性が用いられることが少ない。決めポーズの多いカットや、多用されるスローモーションも癖になった。すっかり「港産片」に魅せられて、自然な流れで辿り着いたのがカンフー映画だ。70年代のショウ・ブラザース作品を夢中になって観た。「新・片腕必殺剣」、「少林寺三十六房」、「五毒拳」、「ブラッド・ブラザース」、「上海ドラゴン英雄拳」、「空飛ぶギロチン」、好きな作品を挙げればきりがない。筋立ては単純で、友人や師匠を殺されるなど悲劇に見舞われた主人公が、鍛錬を重ねて復讐を果たすものが多い。実際に武術を習得している俳優たちの、それぞれ違った肉体は素晴らしかった。現在もてはやされる筋肉とは少し違うのだろうが、得意とするカンフーによって身体が異なる。足技の柔軟性が凄い、棍を扱う上腕が美しい、腹斜筋が細かい……かつて、こんなに身体に注目したことはなかった。リアルなアクションではなく「型」に則ったリズムも心地が良く、鑑賞後は必ず脳の霧が晴れる感じがした。
 ヨガもカンフー映画も、初めて発見した趣味らしい趣味だった。裁判を終え、学生自治会や市民運動からも遠く離れ、身体を動かしてカンフーを観るというルーティーンを続けていれば、やがてそれが日常になっていくような気がしていた。 〈続〉

2022年3月23日

生活するトランスジェンダー

第十回

かたちは変わる、自分のままで

 ヨガと香港映画を続けても、体調は一進一退だった。医療事故と裁判、その過程で失ったものの数々は心を苛んでいたし、日常を中断させた。嫌な報せを受け取りすぎたせいで電話が怖くなり、着信音もバイブレーションもオフにするようになった(これは今日に至るまで続いている)。ノックで動悸がするので宅配便の受け取りにも支障があったし、ひとと話すと疲れきって翌日は動くことができない。ストレスを感じると吐き気がするまで走って気を紛らわすこともあり、一時期はいわゆる「モデル体重」を下回る状態になった。XSサイズは売れ残ってセール対象になるので洋服代は浮いたが、しばしば低血糖を起こして胃は痛み、風邪もひきやすかった。
 博士論文を書いたことで、大きな揺り戻しも経験した。それまでの査読論文(博論を提出するためには、審査を通った論文が学術誌に掲載されている必要がある)では、対象と適切な距離をとるために自らの当事者性を伏せていた。狭い「業界」の内部では当然バレていただろうが、色眼鏡でもってフェアに評価してもらえないことを恐れた。ところがこの方針が副査と噛み合わず、口頭試問は大荒れに荒れた。終了後、校舎の裏で泣きながら立岩真也と対策を練り、(立岩は私の生命を危ぶんで止めたが)自棄になってあらゆる当事者性をぶち込むことにした。それを書き込む作業は苦痛すぎた。「性同一性障害」の字面を見ただけで冷や汗をかいているのに、あまりにも無謀だ。終盤は感覚を麻痺させるために、腐敗した患部の写真を見ながら飯を食っていた。結局、なけなしの健康と引き換えに学位を取ったものの、その後の2年間は何ひとつできなかった。
 2015年の春先、6年ぶりにイベントを主催したときには世界の様子が変わっていた。トランスジェンダーと医療に関する海外ドキュメンタリーを上映する地味な企画だったが、大した宣伝もしていないのにそれなりの人数が集まった。特にリタイア後と思しき層の参加は、学生時代の企画では考えられないことだった。メディアには「LGBT」の語が増え、「LGBT当事者」など、意味不明な用法が目立ってきた。大企業も「LGBTの研修をしています」「ダイバーシティを重視」などとアピールし始めた。これは完全に、無邪気な興味・関心を超えて、性的マイノリティが消費される時代がやってきたのだ。日本で最大のパレードである「東京レインボープライド」の参加者数は年々膨れ上がっていったが、企業ブースも増えていった。電通が「あなたもLGBTのアライ(支援者)になれる!」と煽り、レインボーグッズを持つことを称揚する。「パレードではLGBTと関係ない政治的なプラカードを掲げるべきでない」という言い分も定期的に聞こえてきた。キラキラと眩しい、空虚な虹の洪水に飲み込まれたくはない。2004年のパレードで仲間と掲げたレインボーフラッグはどこか奥にしまい込んだまま、やがて紛失してしまった。

 ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!
 無邪気なことばは間がぬける。つややかなひたいは感受性欠乏のしるし。
 わらう者はおそろしい知らせをまだ受けとらない者だけだ。
 (…)
 たしかに、ぼくはまだ食えている。
 でも嘘じゃない、それはただの偶然だ。
 ぼくの仕事はなにひとつ、ぼくに飽食の権利をあたえていない。
 まずは運がよかったのだ。(運がなくなればおしまいだ。)
 (…)
 賢明でありたい、と思わぬこともない。
 むかしの本には書いてある、賢明な生きかたが。
 世俗の争いを離れてみじかい時をなごやかに送ること
 暴力とは縁を結ばずに済ますこと
 悪には善でむくいること
 欲望はみたすのでなく忘れること
 が、賢明なのだとか。
 どれひとつ、ぼくにはできぬ。
 ほんとうに、ぼくの生きる時代は暗い!
 (…)
 ぼくの時代、行くてはいずこも沼だった。
 ことばがぼくに、危ない橋を渡らせた。
 ぼくの能力は限られていた。
 が、支配者どもの尻のすわりごこちを少しは悪くさせたろう。
 こうしてぼくの時が流れた
 ぼくにあたえられた時、地上の時。
 (…)
 とはいえ、ぼくたちは知っている
 憎しみは、下劣なものにたいするそれですら顔をゆがめることを。
 怒りは、不正にたいするそれですら声をきたなくすることを。
 ああ、ぼくたちは
 友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は
 友愛をしめせはしなかった。

 しかしきみたち、いつの日かついに
 ひととひとが手を差し伸べあうときに
 思え、ぼくたちを
 ひろいこころで。

ベルトルト・ブレヒト「あとから生まれるひとびとに」 

 荒廃した精神が、どうやって回復に向かっていったのかはわからない。PTSDを克服するために専門書を読み、カウンセリングにもEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)にも通ったが、全て挫折した。少しでもマシになるためなら何でも試した。絵を描き、音楽を作り、版画を彫り、寝る前に般若心経を唱えた。どれも効果は限定的だった。私にとっての回復は「現状復帰」ではない、と認識したことは重要だったろう。以前のようなスピードで本を読めなくとも、集中して作業をこなすことができなくとも、大勢の前で堂々と演説をぶつことがなくとも、それらを人生の変化のひとつとして受け入れることだ。自分がいかに損なわれていないかを証明するより、損なわれていても生きていける道を模索することだ。劇的な解決が訪れることに期待せず、淡々と日常を積み重ね、生活を続けた。
 2017年、久々に講演依頼を引き受け、身近なイベントに少しずつ出るようになった。夕食には必ず野菜スープを作る。学会発表にエントリーし、歯医者通いを再開し、少しずつ文章を書く。己の拙さによって途切れた人間関係を悔い、はっきりとした夢ばかり見ては落ち込んだが、ヨガ教室は欠かさず、月に一度は琉球空手の型と瞑想にも取り組む。不正義を伝えるニュースを見ると「社会参画」できていないという罪悪感に駆られるが、まずは自らの砦を守れと心に言い聞かせた。2019年の終わりにようやく本の原稿を整理し始め、翌年の秋に出版した。

 時々、本を読んだひとが連絡をくれるようになり、本をきっかけにした原稿依頼も増えた。今までもこれからもトランスジェンダーを代表してものを言うことはないし、トランスの話ばかりするのはしんどい(この「しんどい」というのも本来は関西方言らしく、確かに郷里では多用しなかった。京都で暮らすうちに血の通った語彙として獲得したものだ)。それでも書いたり喋ったりするとしたら、とりたてて特別な存在でなく、富や名声を持たず、「LGBT」ブームにも乗っていない野良のトランスのぼやきが、たくさんの同じような語りに紛れて、目立たないひとつになる時代のためだろう。生き延びよう、というのはいまひとつ実感と合わなくて使ったことがない。生活をしよう。全てを乗り越えられた気がする日も、現在地に納得がいかない日も、選べなかった未来を思って眠れない日も、生活は続く。 〈終〉

参考文献

  • 『世界現代詩文庫31 ブレヒト詩集』野村修(訳)、土曜美術社出版 2000

吉野靫(ヨシノユギ)

 クィア、トランスジェンダー。立命館大学先端総合学術研究科修了。
 2006年、性別移行に関わる手術で医療事故に遭い、大阪医科大学との裁判に発展。これをきっかけに、トランスジェンダーにまつわる制度や医療について論文執筆を開始。著書に『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』(2020年、青土社)。執筆や講演のお仕事を募集中。mach50〈アットマーク〉zoho.com
 猫と暮らす。古いカンフー映画が好き。中島みゆきとザ・クロマニヨンズをよく聴く。ヨガ歴13年。

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