REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

「難病と私」大関智也

2019年1月30日

難病と私

第1回

正体不明の病気にかかる

私が初めて異変に気がついたのは1999年4月の始め、大学院博士後期課程に進学し、新たな研究室で実験を始めたばかりの頃であった。今は東大の経済学の研究室で働いているが、当時は化学の研究をしていたのだ。実験の後に先輩と話をしながらフラスコを洗っていた時、流しに落として割ってしまい、その時右手にしびれを感じたのであるが、これが1日たっても2日たってもおさまらない。今度は足にも異変が起きてくる。右足が上がりにくくなり、引きずるように歩き何度もつまずいてしまうのである。
私は自律神経失調症のような、ストレスからくる神経症状のようなものではないかと思っていた。思い当たる節はたくさんある。学会発表のために連日研究室に泊まって準備していたし、普段あまり飲まない私が大学そばの酒店で6缶パックの発泡酒を2つ買い、3日後には研究室で全てカラにしていたし、その忙しいときに葬儀の受付までやらされていたからである。

そういうことで、私は近所の病院で診てもらったのであるが、何の病気かわからないので別のもう少し大きな病院で診てもらうことになった。そこでもわからず、しばらく様子を見ましょうということになった。当然症状が良くなることはなく、さらに目までおかしくなってくる。あらゆるものが二重に見えてしまう。ものがよく見えないので、目つきまでおかしくなってきて、周りからはそれをとがめられる。
利き手はしびれ、目はまともに見ることができず、歩くこともおぼつかない。こんな状況では実験なんてできそうにもないはずなのだが、実験ノートを読むと、週に何度かやっていたようだ。毎週土曜日のゼミで一週間分の研究内容を1〜2分で報告しなくてはいけないので、なんとかごまかしていたのだろう。
ただ、それ以上に困っていたことは、右手がまともに使えなくなってしまったので箸で食事ができないことと字が書けないことであった。幸い母と兄と妹が左利きであるためなのか、箸は1週間後には左手で使えるようになった。しかし字を左手で書くことはできず、筆圧がなくても書ける油性マジックをしばらく使っていたのであるが、研究室では有機溶剤を大量に使うため、ノートにこぼすと何が書いてあるかわからなくなってしまう。これは芯の柔らかい鉛筆を使うことで解決した。
しかし症状はよくなることはなく、このままでは死ぬまで様子を見られるだけになるに違いないと思い、別の神経外科の病院で診てもらうことにした。後になってわかることであるが、私の病気は神経内科の領域なのだが、当時の私は「神経内科」という診療科があることを知らなかったのだ。当然ここでもすぐにはわからなかったが、父の古くからの知り合いでもあるこの病院の先生は何かが引っ掛かったのだろう。MRIを撮ろうということになった。そこで別の大きな病院で脳のMRIを撮影してもらったところ、一つの病名が浮かび上がる。多発性硬化症の疑いと。

さて、私には一つの病気の疑いがかかったのであるが、難病というのはやっかいなものであり、「○○という症状が出たので、あなたはこの病気です」とすぐに示されるわけではない。特徴的な症状だけではなく、別の似たような病気と区別できなくてはいけない。様々な検査の結果、幸か不幸か、私の場合は比較的早く診断がついた。やはり多発性硬化症ということであった。おかしいと気づいてから2ヶ月半、その直後に兄のところに子どもが生まれた。両親にとっては初孫、私にとっては初めての甥っこである。初めて孫を抱いた時の父の喜んでいる顔が忘れられない。
こうして、私のわけのわからない症状について「多発性硬化症」という病名がついたのであるが、病名以外は何もわからなかったのでインターネットで調べたところ、とりあえず最初にわかったことは、「現在は治療法が確立されていて、完治することはないが、この病気そのもので亡くなることは少ない」ということであった。どうやらすぐ死ぬことだけはなさそうなので、私も家族も何故か安心したのである。

2019年4月3日

難病と私

第2回

難病とは? 多発性硬化症とは?

 さて、前回は私の病気に至るいきさつを話したのであるが、今回は難病と多発性硬化症(MS)について説明したいと思う。

【難病とは?】
昔は「不治の病」ということで「難病」という言葉が使われていたが、2015年1月に施行された「難病の患者に対する医療等に関する法律(いわゆる難病法)」で定義されている。
・原因が不明である(発病のメカニズムが明らかでない)
・治療方法が確立していない(ほぼ治ることはない)
・希少である(患者の数が少ない)
・長期間の療養が必要である(重症であることが多い)
・客観的な診断基準がある(特徴的な症状があり、他の病気と区別ができる)
これらの条件を満たした病気は「指定難病」として扱われ、医療費の助成などが受けられる。

 その前の制度として「特定疾患」というものがあり、1972年に始まった国の特定疾患治療研究事業で指定された病気であり、多発性硬化症は1973年に指定されている。
特定疾患として指定されていた病気は約60であったが、難病法施行により、現在では331の病気が指定されている。

【多発性硬化症(MS)とは?】
多発性硬化症は上に示した条件を満たしている病気であり、指定難病として扱われているがその起源は古く、19世紀半ばには存在が知られている。病名の由来も、脳やせき髄などに固くなった病巣部がいくつもできるということからであり、1871年にW. A. Hammondによって「multiple sclerosis」と名付けられ1)、現在も使われている。「多発性硬化症」という病名は「multiple sclerosis」の和訳であり、「MS」と略される。

 多発性硬化症は自己免疫疾患の一種とされ、脳や脊髄などの神経線維の周りにある髄鞘(ミエリン)を自分自身の免疫で破壊してしまう病気である。これにより神経の信号伝達がうまくいかなくなり、それが原因で様々な症状が起きる。高校の生物の授業で、髄鞘があることで神経間での命令伝達が速くなるということを習った記憶がある。

 前回書いた私に起きた症状、手のしびれや足が上がらなくなること(運動機能障害)や目の症状(物が二重に見える:複視)というのは典型的な症状である。
それ以外にも疲れやすい、排尿・排便障害、ものが飲み込みにくい(嚥下障害)、精神的に不安定になるなど、様々な症状が出ることがある。
あとは首を曲げたときにしびれのような痛みのような症状(レルミット徴候と呼ばれる)が出たり、体温が上がることで症状が一時的に悪化する(ウートフ現象と呼ばれる)ことがある。
私も一時期このウートフ現象に悩まされたことがあり、入浴後にぐったりしたり、37度の熱で動けなくなってしまったことがある。

 またこの病気は20〜30代で発症することが多く、男性よりも女性にかかりやすく、黒人よりも白人にかかりやすく、低緯度地方より高緯度地方に住む人のほうがかかりやすいとされる。日本では類似疾患である視神経脊髄炎と合わせて患者数は約2万人いる。

 多発性硬化症の診断基準や治療方法について(というよりも、難病全般についての診断基準や治療方法)は厚生労働省や難病情報センターのWebページを参照していただきたいが、私がこの病気にかかった20年前には治療法は今より少なく、効果のあるものはステロイドの投与とインターフェロン注射ぐらいであった。
しかもインターフェロンは認可されていなかったため保険適用外であり、医療費助成の対象外であった。そのため非常に高価であり、インターフェロンを使う人はほとんどいなかったが、現在は2種類のインターフェロン製剤が認可されており、治療方法の一つとして使われている。

 また現在では様々な薬が開発され、その一つに「フィンゴリモド」というものがある。
私の大学院生時代の研究室の先輩がこの薬の研究・開発に関わっていたのでOB会で会うと話をするのだが、私自身は現在の治療法でうまくいっているためこの薬を使っていない。
一番身近な患者が使っていないことに申し訳ないと思うこともあるが、私自身はインターフェロンで悪化した少数派の患者なので、新しい治療法については前向きではない。

 前回の最後に書いたことであるが、現在ではこの病気で亡くなることは少ないが、劇症化したり、病巣の発生部位によっては短期間で亡くなることもあるらしい。
アルプスで見つかった氷漬けのミイラ「アイスマン」の調査をしていた考古学者が多発性硬化症の影響で亡くなっており、「アイスマンの呪い」として知られている。

参考文献
1) 高橋昭. 多発性硬化症の歴史. 月刊臨床神経科学. 2004, vol. 22, no. 7, p. 756-761.

【難病医療助成制度とは?】
もし、あなたや身の回りの人が何らかの難病と診断されたら、「難病医療助成制度」を申請することをお勧めします。
申請には、必要事項を書いた申請書、医師の診断書(書式が決まっている)、保険証のコピー、住民票、住民税課税(または非課税)証明書などが必要です。
認定には数か月かかりますが、申請した月までさかのぼって適用されるので、この間にかかった医療費の還付を受けられることがあります。
申請の方法や制度の内容については、ソーシャルワーカーに相談してみるとよいと思います。

 詳しい内容については「難病情報センター」のwebページ等を見ていただきたいのですが、毎月一定額以上は病院や薬局で支払う必要がなくなります。
難病に対する診察、薬代、入院費用など、保険適用のものについては自己負担が2割になり、さらに毎月一定額以上の負担をしなくて済むようになります。
(上限額は世帯年収で変わりますが、1か月あたり2,500〜30,000円です。ここでいう「世帯」とは保険証単位でのもので、私のように両親と同居していても、国民健康保険の両親と社会保険の私では別世帯の扱いになります。なお人工呼吸器等を使用している場合、年収にかかわらず上限は1,000円になり、生活保護世帯は負担がありません。)

 難病とは無関係の症状(例えばインフルエンザとか虫歯とか)については一般の人と同じように病院で支払うことになりますが、難病の直接の症状でなくても関係があれば(例えば、難病の薬の副作用でじんましんが出た、難病の影響で脚が悪く、転んでけがをした)医療費助成の対象になる場合があります。

2019年6月12日

難病と私

第3回

難病とともに20年

さて、4月で私が病気を自覚してから20年になりました。まだ病気になっていない時期のほうが長いので「半生」と書くことはできませんが、20年間どのように過ごしてきたか書こうと思います。

【学生の頃】
私がこの病気、多発性硬化症を発症したときは学生であった。学生といっても博士課程であるから、とにかく研究で成果を出さないと意味がない。難病でも体調が悪くても体が動かなくても、求められるのは結果のみである。私は「優秀な学生」などというカテゴリーの人間ではないので、結構怒られたりすることが多かった。苦しいのに何でオレばかり?と思う時期もあったわけだが、今思えばこの時期が一番気楽だったのかもしれない。病気も障害も人種も性別も年齢も関係ない、そんな世界なので。

私は極めて不真面目な学生であったが、それでも朝9時半から夜9時ぐらいまでは研究室にいたのでアルバイトをするような余裕はない。その中で貴重な収入源として、学生実験の指導というものがあった。私はここで毎月の小遣いを得るだけでなく、奇跡的な出会いもすることになる。
指導員としての仕事は器具や試薬の準備、成果物の機器測定、学生への助言、レポートの採点などであるが、時として実験中にケガをすることがあるため、世話をすることもある。その日もケガをした学生がいたので保健室に連れて行ったのであるが、責任者(校医)の名前を見て驚いてしまった。多発性硬化症の専門医で見た記憶があるからだ。

その日は保健室にいなかったが、校医の先生の勤務先を聞いたところ、やはりそうだった。東京大学の学生であれば、もし何かの難病にかかっても東大病院に行けば専門医がいるのではないかと考えるのは不思議ではない。しかし、私の通っていた大学には医学部も病院もないので、やはりどう考えても奇跡としか言いようがない。
後日、MRIの写真を持って保健室に行き、大学病院への紹介状を書いてもらった。今は退職したため担当医は変わっているが、10年以上主治医として診察してもらっていた。

研究生活は体調のこともありなかなか進まない時期もあったが、それでも論文をまとめて卒業のめどは立った。しかし病気が進行して歩くことがつらくなってきた。駅から3分の距離を休憩しないといけなくなった。大通りの信号が青になった瞬間に渡り始めても、赤になるまでに渡り切れなくなった。ちょうどその頃障害者手帳を取得し、タクシー券の補助も出たので、最後は校舎の入り口までタクシーで乗り付けて通っていた。

そんなボロボロの状態であったが、なんとか博士論文の審査に合格し、卒業することができた。まだ「合理的配慮」など全くない時代、唯一受けた配慮は、30分話した論文発表で椅子を用意してもらったことだった。

今は大学の職員として働いているが、当時の研究が役に立つようなことはない。しかし、師匠にいつも言われていた「徹底的にやれ」ということは、今も資料やデータを作る際に常に心掛けていることである。そんな師匠も、このエッセイの執筆中に天国へ旅立ってしまった。もう少し元気でいてほしかったが、これも順番だと思ってあきらめることにする。

【就職まで】
こうして大学を卒業して念願の博士になることはできたのだが、就職先は決まっていなかった。在学中にも就職活動をしていたが全滅だったし、年齢制限ギリギリで受けた公務員試験も面接で落ちた。
改めて障害者枠での仕事を探すのであるが、今から15年も前の超氷河期である。障害者向けの就職セミナーに行っても、面接にたどり着くことすら一つもなかった。何度か行って分かったことだが、車いすの人と白杖の人(視覚障害者)は始めから相手にされていない。企業が求めていたのは「会話のできる」聴覚障害者だけだった。
ブースに「新卒の聴覚障害者のみ受け付けます」と張り紙をしていたところもあった。今ならSNSで拡散されてあっという間に炎上するだろう。

聴覚障害というのは大変な障害である。最も軽いとされる6級でも、ガード下に立っていて電車が上を通過したときの騒音がかろうじてわかる程度らしい。しかし、病院で「聞こえませーん」と自己申告するだけでよいので、「偽装障害者」が多数いることもまた事実であり、社会問題化したこともあった。
企業としては設備投資も配慮も一切不要の「障害者手帳を持っている人」が一番便利なので、そういう人だけが必要とされるのだと悟った。何度セミナーに行っても無駄だという結論に達し、行くことをやめた。

こうなると人生そのものをあきらめ、あとは抜け殻のような生活を送るだけであるが、数か月たったある日、区の広報で見つけた「IT技術者在宅養成講座」に応募し、採用された。
ここから2年間受講し、コンピュータのことについていろいろ学びながら、初級シスアドと基本情報技術者の試験に合格したが、病状としてはこの時期が最悪であった。支えがなければ立ち上がることも歩くこともできない。少しでも体温が上がれば動くことすらままならない時もあった。原因は当時の最新治療、インターフェロンが私には逆効果であったためだった。

紆余曲折はあったが、2年間の在宅講座を終え、その1年後に紹介されたのが今の職場である。

【就職から現在まで】
こうして東大経済学部の職員になったのであるが、経済学の研究をするわけではない。
普段の仕事をざっくり書いてしまうと、「研究室にかかわるもので、パソコンを使ってできるものは何でもやる」ということである。その中には研究発表や論文で使う資料等の作成もある。在宅業務なので仕事場も遊び場も同じ環境なのだが、いいかげんなものは絶対に作れない。

また、日頃の業務において、健康の管理は非常に重要である。
これも師匠がよく言っていたことであるが、よい仕事をするためには健康が一番である。
難病患者の私が健康であるかどうかは微妙であるのだが、歩行訓練などのリハビリを行い、仕事に支障の出ない程度の健康は維持している。
現在も大学病院への定期通院は欠かせないが、就職してからの9年間は病状も安定し、順調に業務を行うことができている。インフルエンザで急に仕事を休むことはあったが、それ以外で体調を崩していないのは幸いである。

多発性硬化症は進行性の神経難病であるため、この先どうなるかは予測できないが、近年新たな治療法が開発され、発症のメカニズムも解明されつつある。
かつては不治の病とされたものには、現在比較的容易に完治できるものもあり、今でも多くの難病が存在するが、医学の発達により完治するには至らないものの、症状を緩和したり生活の質を向上できるようになったものも少なくない。
近い将来、このような病気を発症しても完治できるようになり、難病ではなくなる時が来ることを願いたい。

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