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下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事
 アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~

2021年8月18日

下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

第1回

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
第1回 エチオピア難民急増とNPO発足

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Nati Tad, Wikimedia Commons

NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事のアベベと申します。エチオピア人です。1996年に来日しました。

<名前の由来>
協会の名前ですが、「アデイアベバ」というのはエチオピアの国の花の名前なんです。正月、日本では年賀状送るじゃないですか。「あけましておめでとうございます」と年賀状送る風習がありますが、エチオピアでは9月11日に、子供たちが近くの山に行きます。エチオピアの正月は9月11日、うるう年のときは9月12日です。そのとき山はすごい黄色。デイジーみたいなお花が満開で自然に黄色っぽくなっています、それをカットして、正月の朝早く、5時から6時の間に、近所とか親戚などの家に行き、ドアをノックして歌を歌いながら「あけましておめでとうございます」って出すんですよ。それでお小遣いちょっともらって、すごい子供たちも好きな行事なんです。
前、もともとは、「エチオピアコミュニティ・イン・ジャパン」という任意団体がありまして、年1回ぐらい集まって、エチオピアの正月料理作って食べたり、エチオピアのダンスをしたり、歌を歌ったり、そんなことをしていたんですが、ある年の9月、その任意団体で正月のお祝いをするとき、パーティーの前、56人ぐらい集まってちゃんとしたNPO法人設立しましょうと決めたんです。その日が正月だったので、じゃあ正月の贈り物ですから、アデイアベバにしましょうと、それが名前の由来です。

<協会設立>
NPO法人を設立したきっかけですが、任意団体の活動をしている途中で、在日エチオピア人が増えてきました。留学生、日本で生まれた子供たち、難民申請も増加、牛久の入管に収容される人、交通事故にあった女性もいました。文化的障壁もあり、いろいろに大変な問題がありましたが、その人たちを支援する組織がなにもなく、その任意団体で助けるしかなかった。でも法人じゃないので信頼性がない。弁護士と話すとき、政府機関と話すときとか、また、エチオピアの方々を支援したい団体があっても信頼性があまりない。そのためには、より信頼性がある組織が必要という認識をして、2009年9月22日にNPO法人を設立しました。それから、定款作ったり、葛飾区役所に行って市民活動支援センターというところに相談し、いろいろ手伝ってもらって、法人認定の申込書を東京都に提出し、2010年5月25日に認定されました。
それからちゃんとしたNPO法人となり、事務所もこちら葛飾区東四つ木に開いて、活動が始まりました。

<協会の目的>
法人の目的を幅広く言うと、3つの柱があります。
ひとつは、在日エチオピア人や留学生に対して、日本の社会に融合し、自立するための知識や情報を与え、生活や就労の支援をする。
それから、幅広く一般市民を対象として、日本とエチオピアの交流を深める、という目的。
それから、エチオピアの国に対しての、貧困層支援。よって、国際交流、協力を深める。

<協会の組織>
協会には、いま役員5人。監事ひとり。
会費は会員資格にふたつタイプがありまして、正会員だと6千円。賛助会員は5千円です。
組織の中には、日本の方々、ボランティアもいるし、役員もひとりいる。会員もいます。
役員はすべて無報酬で活動しています。

<日本に住むエチオピアの人々について>
今日本に住んでいるエチオピアの方々は女性171人、男性266人。それは大使館の人々を含まない一般の人たちです。女性40.2%。男性59.78%。年齢は20歳から50歳までが多く、ちょっと不思議なことに0歳から9歳までの人が増加しています。
それからエチオピア人が一番多く住んでいるのは東京都で168人。2番目は埼玉で44人。3番目千葉で30人。あとは鳥取29人、大阪21人、神奈川20人と続きます。東京都に住んでいる中で、今、大体5割以上の80人ぐらいが、葛飾区にいます。難民申請している人たち、サポートが必要な人がほとんど葛飾区に住んでいたので、ここに事務所を開いたんです。

<難民となった人々>
私(注1)が来日したときは学生以外はいませんでした。政権は当時もすでに変わっているんですけど、独裁政権だったので、いろんな人が迫害を受けたり、国から逃げたりが増えていき、特に2005年の総選挙後、野党のサポーターの人たちが大勢迫害され、アディスアベバだけで200人ぐらいも殺されたりしたので、逃げていく人が増え(注2)、もちろんアメリカとかヨーロッパとかに行く人がほとんどで、日本はそれほど多くはないですが、でも私が来たときはゼロだった難民、今100人ぐらいいると思います。その中には、子どもたちを残してきている人たちも、エチオピアで親をサポートしていた人たちが迫害受けてこっち逃げてきて、その親をこちらからサポートしている人たちとか、いろんな人がいる。特に難民申請者は国内に必要な措置があんまりできていません(注3)。言葉もわからない。就労許可下りるまで1年2年3年も待ってる人たちがいる。すっごい苦労している人たちなんです。社会の下の下の階層です。そういう人たちだから、サポートすることが大切です。
我々がサポートしている、就労許可が下りていない人たちが19人いましたが、就労許可を得たり、RHQ(注4)という機関から支援を受けたりする人たちがいて、現在は誰も支援していない11人だけに、週一回野菜などを支援しています。

(聞き書き:塔島ひろみ)

  • 注1:アベベさんは留学生として来日した。
  • 注2:エチオピアでは1991年、社会主義政権が崩壊し、1995年にメレス首相率いる新政権発足、連邦民主共和国が成立したが、アベベさんによれば「形だけ「民主」政権、実質は「独裁政権」でした。そのため2018年、全国で反政府運動が展開され総理大臣が辞任、政権内のリストラでアビ首相を選び、前政権の指導者らがエチオピアの北部へ逃げ、現在も戦争中となっている」という。
    2005年選挙後の迫害については、「エチオピアで2005年に行われた国政選挙に不満をもった住民が暴動を起こし、政府がこれを鎮圧した際に7万人が逮捕され200人死亡するという事件がおきた」と、「日本の開発協力と平和構築に関する研究会」が2020年7月に行った「法の支配と民主的ガバナンスのためのSDG16+の実現に向けての提言」(2020年7月)のなかでも言及されている。—日本の開発協力と平和構築に関する研究会:法の支配と民主的ガバナンスのためのSDG16+の実現に向けての提言〜国際社会において名誉ある地位を占めるために〜、2020.07 
  • 注3:「最低限の衣(医)・食・住もままならならず、来日直後、時にはホームレス状態になってしまう人がいます。難民申請の結果がでるまでには平均4年以上、長い場合で10年近くかかります。難民申請中は、政府からの支援金を受けられる人もいますが、支援金を得る審査に数ヶ月かかるうえ、受給額も生活保護と比較し、3分の2程度と限られています。」(NPO法人難民支援協会ウェブサイト https://www.refugee.or.jp/refugee/ より)
  • 注4:公益財団法人アジア福祉教育財団難民事業本部。経済的に困っている難民認定申請者への支援を行っている「が、支援が始まるまでにはハードルが高いし、支援を拒否している人たちも多い」(アベベさん)という。

2021年9月22日

下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

第2回

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
第2回 地域の中で活動する

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日本語の授業

<協会の事業>
NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会は次の5つの事業を行っています。
1 在日エチオピア人ネットワークづくり
2 在日エチオピア人の人権、生活、就労支援
3 エチオピアと日本の文化・スポーツ交流事業
4 エチオピア本国の人権、貧困層支援
5 日本とエチオピアの企業紹介事業

<在日エチオピア人ネットワークづくり>
この事業は、日本に住んでいるエチオピア人同士の情報交換や、地震、台風、原発などの災害について、必要な情報を提供する、また日本の文化、エチケットなどを学ぶ機会をそなえる、というものです。

<地域の中で>
我々は葛飾区にいて、チャイナタウンみたいな、コリアンタウンみたいなものを作りたいという気持ちではなく、この地域の社会の一員として、いっしょにどうやって生活していくか、という考えです。できる限り地域の人々といっしょに活動していきたい。なぜなら自分たちのコミュニティを作るとつながらなくなって、油と水みたいになるので、ヨーロッパの問題とか、そういう問題認識しているので、我々はできる限り地元の人と何でもいっしょに活動しようと。
日本のエチケット、文化、わからない人たちですから、それでいろいろぶつかったりしていたので、その人たちに日本の文化やエチケットを教えて、何かあれば地域も警察も連携して、何か問題あったら手伝いますって言って、解決しました。
多文化共生。そういう考えで、今努力しているところです。

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生活困窮者支援として食糧品
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生活困窮者支援として食糧品 (2)

<在日エチオピア人支援の事業>
これは少し幅広い仕事で、就労支援、弁護士紹介、生活サポート、医療支援、難民支援、役所・病院同行、契約・翻訳手伝い、教育支援・・・日本語授業や、大学とか探して奨学金とか、そういう仕事をしております。

<生活サポート>
エチオピアから日本に来ると、100%日本語わからない。英語もつながらなくて、何も言葉わからない人たちです。だから、たとえばアパート探すのも保証人いるじゃないですか? アパート探すのも難しいですから、その人たちみんなこちらへ来るんですよ。みなここへ来て、こういう問題ある、とかいうのを聞いていろんなアドバイスしたり、アパート紹介したり、知ってる大家さんたちもいるので、2万円から4万円までの安いアパート探して、紹介して、入るようにしたり。生活するお金が足りない、という場合は、寄付を集めてサポートしたり、そういうことをやっております。
そちらにある野菜、朝買い物してきたんですが、毎週野菜を配っております。彼らは今、マスク買うお金もないし、女性だったらいろいろ必要なものあるので、今まで支援してきたんですけど、コロナで我々もこういう状況なので、今心配しているところです。3万円か2万円の小さな部屋に3人4人でいっしょに住んで、何とかしている状況です。

<就労支援>
このあたりは、下請け会社とか、鉄鋼会社、油会社、革会社とかあるので、肉体仕事で、あまり知識なくても簡単に仕事ができるから、ほとんど履歴書自分たちで書けない人たちですから、そこで働いているエチオピア人が紹介するから、みんなどんどんここに増えて集まってきたんです。ほとんど若者たちなんですが、大学卒業してきている人たち多いです。仕事も、政府機関とか、会社勤めで働いている人たち。ほとんどエチオピアでは肉体仕事している人たちではない。でも日本にきてはもう言葉もなにもできないので、そういう仕事はできない。
協会設立前、ひとつのきっかけは人権問題でした。ブラック会社。働いているのに給料払わない。残業しているのに計算しない。いろいろな問題あって、ある組合とコラボして、たくさんそういう問題解決してたんですよ。いろいろな問題がありましたけど、日本の法律もよくなってきて、それと手伝ってくれる組合とNPO法人があることを会社側もわかって、よくなってきた。今はあまりそういう問題はない。
交通事故にあった方(注1)は、難民申請している女性だったので、この事務所もなかったから、ちゃんとNPO設立して、ここにベッドを置いて、住むようにしてたんですよ。よくなるまでここで。大体2年間病気して、それからよくなって日本の政府からも難民認定されたので、元気になって、レストラン入って、そこで働いて、すごい優秀な正社員になったよ。それでもうひとり難民申請者だった方いたんですけど、今このあたりに「リトルエチオピア」というお店作って、エチオピア料理を出しているので、すごい人気になって日本の方からも人気になって。そこまでできています。

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交流会

<エチオピアと日本の文化・スポーツ交流事業>
日本とエチオピアが交流する機会を用意、ということで毎年3回、エチオピアの正月の9月、日本の正月の1月、あとはゴールデンウィークのあたりに、交流会を開いています。エチオピア料理、コーヒー、民族ダンスなど、80人から100人くらいの人が集まります。始まったときはほとんどエチオピア人だったのですが、我々もいろんな日本の方とつながってきて、人気になって、交流会、もう60%ぐらい日本人になってきました。
その同じ事業でスポーツ大会も実施して、在日エチオピア人たちと日本の高校とのサッカー大会とか、行っております。小学生や大人向けのエチオピア講座も実施しています。エチオピアの文化とか、エチオピアの魅力的な場所、とか、そういう講座もあります。あとは地域文化活動に参加し、コラボかつしかまつり、かつしか国際祭り、ボランティアまつり、絆バザール、立石フェスタなど、参加しております。
また他の団体と横つながりして、任意団体や大学とかとつながって、文化協力活動を実施しております。
いまコロナの問題がよくなってきたら、ちゃんとした公園とかで、野外イベント、いまいろいろなエチオピアのお店あるので、葛飾区、中目黒とか、都立大学とか、赤坂とか、六本木とかにエチオピアのお店増えているので、そのお店と地域の企業及びエチオピアで様々な事業している日本の会社、団体や個人とコラボして、葛飾区のみなさんと大きなイベント作りましょうと、そういう提案もあります。コロナの問題よくなってきたら、そういう企画増やしていきたいです。

<エチオピア本国の人権、貧困層支援>
この事業では、子供用車椅子を海外に送る会、というNPO法人とコラボして、子供たち用車いすをエチオピアに送っています。今、日本の子供たちの車いすが年齢で決まっているので、たとえば3歳の子供だったら、5歳になると大きくなるから使えなくなる。1歳の子供は3歳になると使えなくなる。それで新しいものでもすぐ捨てるので、それを集めて梱包し、エチオピアへ送る。530台ぐらい送りました。
また鉛筆、ノートブック、サッカーボールなど、それぞれ集めて送っています。去年はコロナ対策用の「パルスオキシメートル」という酸素を計る器械を、寄付集めて買って、エチオピアへ送りました。エチオピアの医療大臣からもお礼状送ってもらいました。今現在も、戦争により国内避難民になった人たちへの寄付が集まっています。大体8月までに完成して送りたいと思っています。そういう活動をしているところです。それはエチオピアに対する支援です。

<エチオピアと日本の企業紹介事業>
これは残念ですが企業はあんまりなかったんですけど、エチオピアに行ってNPO法人つくりたいっていう方はいて、現地の情報提供やそこでサポートする人を探したり紹介したりなど、やりました。日本の方々でエチオピア行ってNPO法人やNGOを作りたいという方々をサポートしています。それでエチオピアには今そういう活動をしている日本人たちがいます。これから平和になったらそれをもっと力を入れてやりたいと思っているところなんです。

(聞き書き:塔島ひろみ)

写真提供:NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会

2021年11月2日

下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

第3回

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
第3回 エチオピアはどんな国か

「新しい花」
エチオピアは「アフリカの角」と言われる場所に位置している国です。北側エリトリア、西側スーダン、南側ケニア、東側ジブチとソマリア。日本からは約1万キロぐらい離れています。人口は約1億240万人。面積は日本の3倍ぐらい、110万平方キロ。首都はアディスアベバと言います。
アディスアベバはアフリカの政治と経済の中心地となっています。アフリカ連合の事務所は、アディスアベバにあります。他にも、国連の事務所とか、EUのアフリカの事務所とかも設置されているので、政治の中心、”Diplomatic City” と言われています。工事、道路とかどんどん増えてきて、この20年間ぐらいですごい変わってきています。他の地域からアディスアベバにいろんな会社が入ってきて、すごい経済力です。
「アベバ」というのは「お花」ですから、アディスアベバは「新しい花」という意味。我々の名「アデイアベバ」も「アデイというお花」という意味なんです。
通貨は「ブル」と言います。今大体1ドル50ブルぐらい。私が日本にきたときは1ドル5ブルぐらいだったんですけどすごく安くなって、10倍安くなっています。

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青ナイルの滝
Armin Hamm
Wikimedia Commons

「水のタンク」
エチオピアは結構古い国なんです。ルーシーという320~390万年前の化石が発見された国ですから、人類の発祥国とも言われています。文明も昔からありました。ナイル川はエチオピアから始まっているんです。
ナイル川というとみんなエジプトって言うんですが、エジプトは水出してないんです。ナイル川はエチオピアのタナ湖という湖から流れていくんです。タナ湖は、3600平方キロメートルくらい、そこから流れていく。それでいろいろの山からいろいろな川でつながって、エジプトまで流れてます。エチオピアからの水は「青ナイル」と言って、86%の水。ウガンダのヴィクトリア湖からの「白ナイル」は14%ですから、ほとんどの水はエチオピアからいってるんです。ソマリア、ケニア、スダン、エジプトや南スダンは下流地域で、エチオピアから流れている川の水を利用しているから、エチオピアは「アフリカの水タンク」と呼ばれているんです。

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ダロル火山
A.Savin
Wikimedia Commons

マイナス125メートルの火山
エチオピアはマイナス125メートルから4,550メートルぐらいまで、変化ある場所ですから、いろんな植物、いろんな動物、いろんな自然があり、すごく豊かな国と言われています。
マイナス125メートルと、世界で一番低いダロルという火山地域は、人間は住まないけど、すごいお塩といろんなミネラル混ざって、不思議な色になる。すごいびっくりするところなんです。
ほとんどの人は1,500メートルから3,000メートルのところに暮らしています(注1)。
田舎では、ほとんど家は丸い形で、屋根は藁、横は木で作って中身は土。近所の人同士協力して手作りしていました。今もまだこういう家もあるんですけど、現代っぽい四角のおうちに変わってきているところです。現在は町は、アディスアベバも、他のいろいろな地方の都市も、日本と同じような建物になってきています。

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アクスムのオベリスク
Benutzer:Pzbinden7
Wikimedia Commons

オベリスク
北エチオピアのアクスンというところに、1つ岩から築いて建てられたオベリスクがあります。重さ160トンぐらい、高さ23m(注2)。紀元後1世紀から4世紀の間ぐらいまでに建てられたんですけど、1600トンというもの30キロぐらい離れたところに横に作ったんです。岩から築いて作ったのを運んで、それから立てたんです。
1600~2000年以上前なんですけど、10階建てを想像し、フォールスドーア(偽扉)もついている。まるで未来の高層ビルの可能性を心に描いて建てたような建築作品。これ一つ目の不思議なことです。
二つ目。30キロもどうやって運んだか。そのとき車もなにもない。
三番目の不思議はどうやって立てられたのか? このときクレーン車も何もない。それ一番不思議。
この下に王様の墓があります。これは世界遺産です。

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ラリベラの
セントジョージズ教会上部
Bernard Gagnon
Wikimedia Commons

「新たなエルサレム」
エチオピアは大体95%から98%ぐらい宗教を持つ人々なんです。キリストかイスラム教、今は少ないですけどユダヤ教もいました。
エチオピアはイスラエルをキリスト教にしていった国、と言われています。43年ぐらいに、エチオピアから行った外交官がキリスト教を布教したと。聖書にも45個所にエチオピアの名が記載されています。
ラリベラという、12世紀につくられた岩窟教会群があるんです。オスマン帝国がエルサレムを植民地にしていたんですよ。それでキリスト教の人たちがエルサレムに行かなくなってきたから、エチオピアのラリベラという王様が、キリスト教だったので、新たなエルサレムこちらに作りましょうといって、11の教会作ったんです。すごい不思議なんですけど、すべて岩を掘って、築いた。特に、セントジョージズという教会の上面は十字架の形なんです。これも世界遺産です(注3)。

今は2014年
日本は今2021年なんですけど、エチオピアは今(今年の9月11日から)2014年なんです。大体7年半くらい違ってます。 聖書によると、神はアダムとイブに、5500年後に彼らを罪から解放することを約束しました。イエスキリストの誕生日と暦は、この考えから始まります。
525年、ディオニシウス・エキシグース(ローマの神学者)が、アダムとイブがエデンの園から追放された時点から5500年を計算し、それを起点にイエス・キリストの誕生日と紀元を決めました。でも、エチオピアの教会の学者は、エデンの園に居住した7年間を追加して計算したので、紀元が7年遅れました。
また1582年、グレゴリー13世(ローマ教皇)は、毎年を365日と6時間の長さで計算しなおし、イエスの誕生以来10日間の未使用日を追加しました。その結果、彼は1582年10月4日木曜日の翌日に1582年10月15日になると宣言しました。
世界の国々は再調整されたカレンダーを受け入れましたが、エチオピアはローマカトリック教会の影響を受けていない独立国なので、元のカレンダーを保持しているんです。

9月が正月
あと正月も9月11日なんです。うるう年のときは9月12日になります。その考えは、イエス様生まれる時、牧場の中だったじゃないですか。1月は結構寒いときなので、どうやって牧場で生まれるの? 生まれたのは9月です、9月は天気がよいので、外で生まれても問題ない。そう信じるエチオピア人たちがいましたので、エチオピアでは9月11日が新年。日本の9月11日はエチオピアの1月1日になります。
それで1年は13ヶ月なんですよ。12ヶ月は30日ずつで、残り5日、うるう年のときは残り6日が、13か月目になります。わかりやすいじゃないですか。それも名前あります。マスカラム、テクムト、フダル、タフサス、トルウ、ヤカテイト、マガビット、ミヤズヤ、グンボット、サネ、ハムレ、ナハセ、パグメ、と言います。

夜明けが0時
あとは時間も違います。エチオピアは朝から夕方までと、夕方から朝まで、12時間ずつなんです。
1日は例えば、朝、日本の6時にエチオピアは0時としてスタートして、日本の午後6時がエチオピアの12時になります。昼間は0から12、夜また0から12、そういう区別になってます。
昔時計なかったので、時間は日影測ってわかるんです。日影ゼロになると昼間で6時。日本はちょっと北の方にあるから、ちょっと地球曲がって回るから、それで季節によって長いとか短いとか、違ってますけど、エチオピアは赤道に近いので昼間と夜が同じくらいで、夜明けと夕暮れが一年通して決まっているので、朝から夕まで、夕から朝まで、そう作ったんです。

独自文化を守る国
エチオピアは初めて白人との戦争を戦って勝った国なんです。120年前なんですけど、アドワ戦争という世界でも有名な戦争なんですが、イタリアがエチオピアを植民地にしたいとエチオピアに来て、そのとき戦って、勝ったんです。
エチオピアは独立を守って、自分の国の文化を守る国。食事とか、衣装とか、歌とか、楽器とか、全部独自なんです(注4)。周辺の国から国境渡って入ったら、全然違います。周辺の国々は植民地になったから大体ヨーロッパの文化。エチオピアに入ったら、あれ? 全然違う、何ででしょう?、と。服装も言葉も、文字も、主食も、いろいろ違う。
日本も独立国で、技術入っても、着物とか、お墓参りとか、自分たちの文化守ってるじゃないですか。エチオピアもそうなんです。宗教の文化を守ってる。そういう国です(注5)。

(聞き書き:塔島ひろみ)

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ゴンダールの教会の天井のフレスコ画
Unknown
(it is a long time picture).

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マシンコを演奏するアズマリ
Flickr(meg and rahul)
Wikimedia Commons

  • 注1:エチオピアは、1960年ローマオリンピックと1964年東京オリンピックで連続ゴールドメダリストになったアベベ選手の国で、世界でトップレベルの長距離アスリートを多く輩出しているが、高地での暮らしが心肺機能を高めていることが一因と考えられている。
  • 注2:現在残っているオベリスクは23mだが、倒れている最大のオベリスクは33mもの長さ。
  • 注3:このほかにも、4000~5000メートルの高さのセメニア山地、フレスコ画が有名なゴンダールの教会と16世紀の王宮群、などが世界遺産に登録されているという。
  • 注4:食文化については第4回に紹介予定。独自の楽器としては、マシンコという1弦の楽器、教会で使われるハープのようなバゲナ、三味線と似たクラル、などがあり、歌を歌う人はアズマリと言われる。またダンスはお尻や足を使うヨーロッパと異なり、エチオピアでは打ち肩の肩ダンスとのこと。
  • 注5:エチオピアの国旗は緑、黄、赤の3色で、緑は自然と豊かさ、黄色は希望と信仰、赤は愛国心と勇気、をそれぞれ表しているとのこと。

2021年12月1日

下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

第4回

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
第4回 コーヒー文化と支え合い

コーヒー始まりの物語
エチオピアはコーヒーの発祥国です。「カファ」というところがコーヒーの生産地として一番有名で、外国の人たちがここからコーヒーを買っていくので「カフィー」という名前になってそれからどんどん変わって「コーヒー」となった。でもエチオピア語では「ブンナ」と言います。
貿易国だったので、特にアクスン王国のとき、インドとかアラビアとか、特にアラブの人たちが紅海を渡って買って行ったり、それからヨーロッパの人たちも、植民地にしているいろいろなところで作るようになったんです。ブラジルとか、インドネシアとか。
エチオピアでは自然の山でもコーヒーがあります。元々は誰もわかっていなかったんですけど、昔「カリッド」という山羊飼いが、山羊連れてお世話するとき、ひとつの山羊がコーヒーの赤い豆を食べて、はしゃいだり、走りだしたりと、驚くべき行動するのを見て、これなんでしょう?と思って、それを取って、修道院に持ってったんですよ。「山羊がこれ食べて驚くべき行動したんですけど、この果実なんでしょう? この秘密教えてください」、って持ってったんです。修道士はそれ見て、「これは悪魔のものじゃないのか」と言って、火の中に投げたんですよ。そしたら驚くべき香りなので、あれ?これ、何でしょう?って、火の中に入れたコーヒー豆取って、食べてみたんです。そしたら、夜のお祈りが、いつもと全然違って眠らないで朝までよくできたから、じゃあこれからお祈りするためにこれ食べましょう、て、そこから食べ始まったんですよ。それから水かけて飲んだり、沸かして飲んだりとか。そうやってエチオピアのコーヒーの文化というもの、そこから誕生したということなんです。
今日本に「カルディ」というコーヒーショップあるでしょ? その子の名前からなんですよ。カルディになってるんですけど、カーリッドなんです。

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コーヒーセレモニー

コーヒーセレモニー
コーヒーセレモニーと言われまして、道具があります。
ジェベナという容器。これでコーヒー作るんです。お客さん来るとき、まずはコーヒー豆をお客様前に洗う。それから焙煎するんですよ。コーヒーセレモニーの特徴は香りを楽しむから始まる。お客さんのところを回って、香り楽しんで、あとはお香とかやっていい雰囲気を作ってから、黒っぽくなった豆を粉にするんですよ。そのあとこの、ジェベナにお湯沸かしてそれを入れて、ちょっと沸かして、それから滓が下に沈むまで待って、それからこのレケボットというコーヒー台にコップを置いて、そこにコーヒー入れてみなさんに回すんです。
茶道と似てるんです。服装もちゃんとした伝統のものを着て。豆洗う、焙煎する、香り楽しむ、曳いて煎じる、ふるまう。そういうステップでやるんです。そのときおやつも出せる。

女性が作ったコーヒー文化
エチオピアではコーヒーをよくコミュニケーションの道具として使ってます。
コーヒー文化を作ったのは女性たちなんですよ。エチオピアの女性たちはほとんど主婦だったので、昔おうちの仕事をやって、時間あるとき、周りの近所の人たちと時間つぶすためにコーヒー作るんですよ。3回作るんです。第1、エスプレッソのような濃い「アボレ」、第2、ブレンドみたいな普通コーヒー「トナ」、第3、アメリカンコーヒーみたいに薄い「パラカ」。3回なんです。時間あるからしゃべりながら噂話しながら飲むんですよ、女性たち。それでまたそのコップに滓が残るので、占いとかしたり。「教えてください」とか、若い人だったら「あ、誰か男性見てるヨ」とか、「結婚するかもしれない」とか。お金欲しい人だったら「もうお金入る」とか。そういう話題しながら遊ぶんです。
あとはエチオピアはコーヒーに塩入れたり、バター入れたりするのが普通なんです。今は砂糖入れる人もいるんですけど、砂糖はエチオピアの文化じゃなかったので。「塩の国」だったので。おいしいよ、お塩。

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インジャラ
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メソブ・・・
わらから編んだかごで、
食事の時にインジャラを
置くテーブルとして使う

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エチオピアの料理
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エチオピアの料理

インジャラ
エチオピアの主食は「インジャラ」です。イネ科の、すごい細かい「テフ」という穀物がありまして、それを粉にして、発酵させて、そのあと鉄板でクレープ状みたいに薄く焼くと、これができます。
時間かかります。寒いときは10日間ぐらい、暑いときは3日間ぐらい。そうやって作る。我々もこっちで作ってます。エチオピア人は毎日これを食べてます。ここにおかず乗せて、たとえばお肉とか豆とか乗せて、カットしてくるんで食べたりする。手で食べるんです。スプーンは使わない。
テフは重さは0.3グラム。千粒で0.3グラムなんですよ。すごい細かいんですよ。
それですごいミネラル入ってるんです。鉄分高いんですよ。カルシウムもあり、あとグルテンフリーなんです。
だから今世界中でも健康食品として売ってるんです(注1)。
インジャラと一緒に食べるすごい有名なエチオピアの料理は、「ドロワット」というチキンです。いろいろなスパイスとか、手羽元、玉ねぎ、ニンニク、しょうが、トマト、卵、レモン、バルバレ・・・。バルバレというのは元唐辛子なんですけど、10何種類スパイス入ってる、エチオピアの特別なスパイスなんです。
エチオピアは食品の中に砂糖を全然入れない。コーヒー紅茶飲むときに砂糖入れる人たちいるんですけど、食べ物のなかには入れない。文化だから。

「タテマエ」と「グーシャ」
日本の皆さん「タテマエ」じゃないですか。何を見てもはっきり言わない。エチオピアもそうなんです。はっきり言わない。
食べ物でも、違うところ行ってパクパク食べないんですよ。だからそのお客さんに手でこうやって食べさせてあげるんですよ。エチオピアの“グーシャ”という食文化です。
それの意味は、一つはいっぱい食べると「なんだこの人」って思われると思って、恥ずかしがって食べない人がいるので、そういう人に食べさせるために。
2つ目は、愛情を伝える。あなたはすごい大切なお客さんだよ、という愛情を伝えるために。
グーシャは3回。1回だけはダメ。何で3回かはわからない(笑)。
お客さんだけじゃない、旦那さんが自分が食べる前に奥さんに食べさせてあげないとダメなんですよ。私が子供の時、お父さんが自分が食べる前にお母さんにこうやって、食べさせてあげて、それから自分が食べるの見て。「何で自分の食べないでママに包んで食べさせるんですか、我々もまだ食べてないのに」って言ったんですよ、「今あなた食べる私食べる料理はお母さん作ったんだよ。お母さん自分で食べないで、我々なんで食べるの。まずはお母さん食べて、お母さん済んでから我々食べるんですよ」とか言って。「あーーわかりましたーー」って言って。
他の家でもたぶんそうじゃないかと思います。「ありがとう」「作ってくれてありがとう」ということだと思います。
でもたまに、お母さんに食べさせてあげないときもある。その時、今日何か問題あったなーとわかる(笑)。ケンカしてるとき(笑)。仲直りするとまた‥。あーよかったなーと、そういうこともありました。

独りぼっちということがない
もちろんアディスアベバとか東京みたいに変わってるんですけど、でもエチオピアは70%ぐらいはまだ田舎に住んでる人ですから、人と人とのつながりが強い。
エチオピアの教会は精神的なサポートがすごいので、心痛い人、いろんな問題ある人たちが、教会に行って牧師と話す。病院に行ってよくならず、教会行ってちょっと心開くように、よくなった人たちがたくさんいます。
あとはさっき言った通りエチオピアでは近所の人たちもコーヒー会とかでつながっていて、サポートするので、何か問題があったらコーヒーやりましょう、コーヒー会やってますからって教えるので、独りぼっちということがない。日本ではそういう問題増えてきているじゃないですか。親の家で育っていけない人たちとか。エチオピアではそういうことがない、あり得ない。自殺もあんまりない。何故なら、そういう社会関係があるから。いろんなアイデアでいろんな精神的なサポートするから。

「エッドゥル」と「ウッコブ」
それから「エッドゥル」というのがあります。誰か亡くなったら、たとえばこの地域、東四つ木四丁目あるじゃないですか。そこで誰か亡くなったら、知ってる知らないにかかわらず、その家に行って、「ディンクアン」という大きなテントを張って、そこに行ってその家の人と過ごす。たとえば東四つ木四丁目1番の人たち今日、2番の人たち明日、3番の人たち…というように、3日間ぐらい。自分たちの家から食べるもの飲物とか持って行っていっしょに食べ物食べたりするので、親が亡くなっても、子供が亡くなっても、誰が亡くなっても、人と一緒なので、哀しみを癒される。そういうシステムを設置しています。
「ウッコブ」というのもあります。周りの人たちが何人か集まって、毎週、たとえば日曜日だったら毎週日曜日、1万なら1万、入れましょう、と入れて、たとえば100人だったら100万になるじゃないですか。それでそのお金を100人の中で1番困ってる人誰ですか?って探して、初めての集まったお金をその人にあげる。たとえば借金あったら払うように、ビジネス作りたいだったらタクシー買ってビジネスを作るように、翌週もまたもう一人、再来週も・・・と。前もらった人はビジネス始まって収入があるのでそのあと払うんです。1万、1万、毎週払って、それが終わってから独立する。
回るんですよそのお金。今日私一番問題ある。私もらって、次、そちらにもらって、その次は次の人もらって…。そうやってみんなで払うんです。任意の助け合い組織。自殺したり、他の変なことしないように。それが昔からできてる。
たとえば教会だったら、今日の寄付のお金集まったら、あそこにいる難民の人たちにあげましょうとか。教会の前にお金がない人たちが集まるんですよ。そこに行けば1週間分の食べ物もらえる。ホームレスであっても、教会の日にもらえるので。
そういう社会的な任意団体のサポートシステム。日本とは大きく違っています。

(聞き書き:塔島ひろみ)

写真提供:NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会

  • 注1:日本ではTOWA CORPORATION株式会社で研究・商品開発を行っているとのこと。

2022年1月19日

下町に咲くエチオピアの「アデイアベバ」

第5回

~NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
第5回 エチオピアの教育と日本のサービス

アマハラ語
エチオピアには80の言語があり、そこに200ぐらい方言があります。公用語はアマハラ語といいます。
文字はエチオピア独特の文字で、日本のひらがな、カタカナと同じに、母音と子音をいっしょにしてできた文字なんです。ひらがなカタカナには5つ母音がありますがアマハラ語はプラス2つの7個の母音があります。
「ア」は「ä(口をあまり開けない)」と「a(口を大きく開ける)」とあります。「ウ」は「u(口をとがらせる)」と「ǝ(口を少しだけ開ける)」。それで「ä」「u」「İ」「a」「e」「ə」「o」となります。あとは子音は33なんです(注1)

数字も独自の数字。1から10まで、20,30,40から100まで、一つの文字(注2)。漢字でも「十」は一つじゃないですか。エチオピアも一つなんです。21だと「20」と「1」を組み合わせて2つ文字になります(注3)
他のアフリカの言葉は、ローマ字、あるいは北アフリカだったらアラビアの文字を使ってます。フランス植民地、イタリア植民地とイギリス植民地。またベルギーの植民地。植民地になってるのでみんなローマ字なんです。
一番私びっくりしたのは、文章作るとき、日本語とエチオピアのアマハラ語は同じなんです。
たとえば英語だったら、主語、動詞、目的語。でもアマハラ語は日本語と同じ、主語、目的語、動詞の形なんです。だから1万キロ離れている国なんですけど、どうして同じ形なってるの? すごい私びっくりしてます。

イェコロのテマリ
エチオピアの教育は、もともと教会からなんですよ。教会で神様について指導し、いろいろ書くので、そこから教育が始まっているんです。
昔、「イェコロのテマリ」という生徒がありました。
「コロ」というのは、大麦を炒めて食べる美味しい穀食です。それを食べながら勉強している「テマリ」(学生)という意味です。
昔、ほとんどの人は農家ですから、子供たちは親の仕事を手伝う。家畜とかを世話する番として、農家では子供たちが必要なんです。だからなかなか学校へ行けない。
それでちょっと頭早い子供たちは、親から逃げていくんですよ。5歳、6歳、7歳ぐらい。逃げて、違うところの修道院行って、名前変更して、そこに入るんです。親探してもわからないところに行って、犬小屋みたいなわら小屋作って、そこに住むんです。それでまわり、1軒ずつ物乞いして暮らす、ということです。朝学校が始まる前に行って、食べ物ください、とか言って、もらって、勉強する。遊ばない。夜もずっと勉強する。
それは宗教のことなんですけど、スポーツとか遊びはなく、毎日勉強する。暗記するだけなんです。夜もずっと勉強して暗記する。それで何年か勉強して、証明書もらって、どっかの教会行って、務める。とそういうことなんです。
「コロ」食べて、勉強してる「テマリ」、学生、生徒。ということなんです。
その教会の勉強はとても深いので、大体全部終わらした場合40年間ぐらいかかる。分野として4項目あって、大体修道院は一つしか教えないので、ちゃんと勉強してる偉い、有名な先生探して、そこに行って勉強する。それ終わったらまた別の先生、そうやってまわって、大体40年ぐらいかかるということです。まあそれまでいかない人もいるし、そこまでいってる人たちもいる。そのとき自分も先生としてそれからできる。

義務教育がない
現代の教育は場所によって違うんですけど、基本的に小学生は日本と同じ、1年から6年生。中学生は1年と2年。高校は1年から4年生です。
あと大学は、私もここ出身なんですが、アディスアベバ国立大学がエチオピアの初めての大学で、サイエンスキャンパス、ソーシャルサイエンスキャンパス、マネージメントキャンパス、テクノロジーキャンパス、メディカルキャンパス、…いろんな分野があります。すごく大きな大学なんです。
町には私立学校が増えてきているけど、エチオピアの学校はほとんど公立です。私も大学までお金1円も払ってない。
基本の教育は全部で12年ですが、義務教育がないので、まだ学校行ってない子供たちもいます。何故なら農業で親が働かせるために。だから我々は大使館とかエチオピアの政府に、「義務にしてください」と言っている。すごい遅いよエチオピア。なんで今まで義務にしなかったのか。教育は一番大切。日本も明治時代の時義務教育にしたから、それで変わったと思います。
サウジアラビアとか中東のいろいろの国たち、アフリカのコンゴという国、ものすごい資源あるんですけど、変わってないんですよあんまり。日本資源ないんですけどなんでこう変わったか。それは、教育なんです。だから今エチオピアの政府に、義務付けないと国が変わらないということ、我々は強くアドバイスしたい。

日本のサービス
日本とエチオピアの違いで一番すごいと思ったのは日本のサービス。日本のサービス、どこの国にもない、すごいよ。役所行ったら。病院行ったら。お店行ったら。どこでも行ったら。サービス、素晴らしいです。エチオピアは特に一般の人のとこ行ったらもちろん大事にするんですけど(注4)、お店行ったら、働いている人たち、日本みたいに「いらっしゃいませー」ってやらない。役所行ったら、自分たち偉いと思って「何してるのお前!」とか。(笑)
日本はすごい。自分の国の人だけじゃなくても、私外国人としても区役所行くとすぐ「なにか手伝いましょうか」と言って来てもらえる。それすごいびっくりした。
日本でも大使館ではいやな思いをしたことがある。パスポート更新するために行ったとき、「何で電話しないで来たの?」と。それで「何仕事してるのあなたたち? 事務所はいつもオープンじゃないですか、何でそういうこと言ってるの?」って、私ももうケンカして。
それから6か月待ってて、全然更新しなかったんですよ。新しいパスポート来なかったんです。何回電話しても「ちょっと待って」と、6か月待って。それで電話で「ちょっと質問ある」って言ったんです。昔区役所からもらえる「エイリアンカード」というのがありました。それを更新するために区役所行くと、大体長くても20分30分で全部終わらして帰るんですけど、私の国の政府は、パスポート更新するために6か月で足りない。だから「日本で30分くらいかからないことを、何で6か月で足りないの? 1人のことが6か月で足りないとすると、1億人のエチオピア人のことはどうやって対応してるんですか? 教えてください」って質問したんです。
日本のエチオピア大使館から、それから3週間で電話来て、「今できてるよ」って。大体7か月かかってたのが。(笑)
それはサービスの問題なんです。日本はみんな、事務所で働いてる人たち、政府でも会社でも、責任もって自分で最後までやってるじゃないですか。エチオピアはその目上の人、またその上の目上の人、そういうチェーン、ハードル作って、それからまた戻ってくるまで待ってて、すごい時間かかる。そのマネジメントシステム、全然だめです。

日本での難民の問題
日本での難民の問題は、働いている人たちのシステムの問題とは思ってないです。働いてる人たちのサービスは同じ。問題は決定力ある人たち。特に政治家の人たち。その人たちの政治的な意思がないから、と思います。ポリティカル・ウィルという、それがないと、たぶん変わらない。世界中が使っている基準から、日本は特別のハードルを作ってるんです。
7,8年ぐらい前なんですけど、5,6年も日本で難民申請しても受け入れてくれないので、メキシコ経由でアメリカに行ったんですよ。10人ぐらいなんですけどみんな受け入れてもらえた。
アメリカは受け入れたのに、なんでできない。他の人も、こっちでだめで、カナダが受けたり、オーストラリアが受け入れた人たちもいる。難民条約(注5)というのがありまして、日本もその基準を使ったら、たぶん10人じゃなくても5人ぐらい受け入れるべきなんですけど。難民条約基準以外の別のハードルができてるんだと思います。そうじゃないとこうはならない。去年ドイツは100万人受け入れたんですけど(注6)、日本は50人にも満たない(注7)
でも一般の日本人の人は、難民の問題よくわかってる。我々難民の人たちのことやるとき、よく手伝いたい気持ちあるんだけど、サポートしたいので、と言われます。 でも政治的な意思がないので、解決するのは難しいです。

(聞き書き:塔島ひろみ)

  1. たとえば次のようになる。
    ä u İ a e ǝ o
    H
    L
    H
    M
    S
  2. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 20 30 100 10000
  3. たとえば「2013」は「20」と「100」と「10」と「3」を組み合わせて、፳ ፻ ፲ ፫となる。
  4. エチオピアには、「お客さんを敬う」という文化があり、コーヒーでもてなす。お客さんにお茶を出す日本と共通する文化だという(アベベさん)。
  5. 1951年7月に開催された国連の外交会議で採択された「難民の地位に関する条約」、および1967年1月に採択された「難民の地位に関する議定書」、通常この二つを合わせて「難民条約」と言う。(https://www.unhcr.org/jp/refugee-treaty
    日本については1982年1月発効し、それに伴い(発効を控えた1981年)国内に難民認定制度「出入国管理及び難民認定法(入管法)」が整備された。
  6. 2020年にドイツが受け入れた難民はおよそ120万人(国連難民高等弁務官事務所(UNHCR:The Office of the United Nations High Commissioner for Refugees)ホームページより)
  7. 令和2年の日本における難民認定申請者数は3,936人,審査請求数は2,573人。難民認定手続の結果,難民と認定した外国人が47人,難民とは認定しなかったものの人道的な配慮を理由に在留を認めた外国人が44人。(出入国在留管理庁ホームページより

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