私の父親は開業医で近所でも評判の小児科医だ。母は父の病院を手伝いながら私たち姉妹を育てた。
夏になると父は病院を休業して、家族を旅行に連れて行った。
北は北海道、南は沖縄まで。
クラスでも私のように色々なところへ旅行に行く人は珍しく、みんなに羨ましがられた。
「恵子ちゃんのお父さんってお医者さんなんだよね。いいなぁ」
クラスメイトからそう言われると、まるで自分の事のように誇らしかった。
学校が終わると急いで家に帰り玄関のドアを開ける。両親はまだ仕事中なので、家には誰もいない。
子供部屋にランドセルを置くと、昨日準備しておいた塾のバッグを肩にかける。
私と姉は小学校高学年から塾に通い始めた。
医者である父は年がら年中「もっと勉強しろ」と私たち姉妹に言う。
しかし、いくらいい点を取っても父は決して喜ばない。
「次は百点を取れ」
そう言って九十八点のテストを突っ返された。
悔しかったけど「きっと、次こそは百点を取ってやる」と、心の中で呟いた。
中学は地元で有名な中高一貫の私立校に入学した。
制服は一流デザイナーが手掛けたもので、制服目当てに入学を希望する人もいた。
学校帰りに駅前を歩いていると、通行人が振り返る。
羨望の視線を浴びながら肩で風を切って歩いた。
学校が終わるとすぐに学習塾へ向かい、授業を終えて帰る頃には、辺りは真っ暗。重いカバンを肩にかけて、家路につく。街灯が私を照らすと、長い影が道路にできる。
「いち、にい、さん、しい」
帰り道で、すれ違う電信柱の数を数えるのが、この当時の癖だった。
「ごお、ろく、しち、はち」
九個目の電信柱がゴールの合図だ。家の中にはすでに明かりが付いていて、夕食の匂いが鼻をくすぐる。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、父が母に嫌みを言っている真っ最中だった。
「おい、クリーニングに出しておけって言ったスーツ、まだ出してないのか? 今度の学会に着ていくって言っただろ?」
最初の頃は「病院の事務をしているのに、育児も家事も私に任せきりなのは不公平だ」と、言い返していた母も、今は何の反応もせず、無表情のまま台所に立って皿を洗う。
私の姿をとらえた母が、お帰りも言わずぶっきらぼうに、
「恵子、テーブルの上のおかず、自分でチンして」
と、言った。
私は言われた通り、電子レンジに鶏肉と大根の煮物が盛られた食器を入れてボタンを押す。
ターンテーブルの上で回るおかずを見ながら、
「お姉ちゃんは?」
と、尋ねた。
「さっき帰ってきたけど、自分の部屋で食べるって。もうすぐ試験だから集中したいんじゃない?」
と、母が答える。
「優子には俺の病院を継いでもらいたいからな。頑張ってもらわないとこっちが困る」
私は深くため息をつき母に視線を送るが、母は父の声が聞こえないふりをして食器を戸棚に仕舞っている。
この二人はなぜ、結婚生活を続けているのだろう。
横暴にふるまう父と下女のような母。
その子供である私たち姉妹も彼らに従属することでしか生きられない。
ここはまるで牢獄のようだ。
中高一貫の私立高というと、品行方正な生徒が多いイメージがあるが、ほかの学校と同じようにいじめがあった。
運動が苦手な私は体育の時間に行われたバレーボールでミスを繰り返したら「ノロマ」と呼ばれるようになり、次は「ドジ子」になり、様々なあだ名を経て最終的に「バイキン」になった。
私の隣の席になった人は私の机に自分の机を決してくっつけない。
何かの拍子で机がぶつかると「バイキンがうつる!」と、ギャーギャー騒ぎ出す。
休み時間になると、いじめっ子たちが机の周りに集まってくる。
「バイキンなのに、良く生きていられるよね」
「人間じゃないから生きるとか死ぬとかないんじゃない」
「あ! そっかー。ごめんね、バイキンちゃん」
私の周りでクラスメイトは爆笑した。
バイキンにだって心はあるし、嫌なことを言われたら傷つく。
下駄箱の上履きが無くなったり、教科書にいたずら書きをされたりするうちに、私は次第に学校を仮病で休むようになった。
完全な登校拒否ではなく、ちょこちょこ休んでいるだけなので、大きな問題にはならずにすんだ。
塾にも通い続け、テスト前は必死に勉強した。
真っ黒になる教科書とドリルの山。
それに比例して、私の精神状態はどんどん悪化していった。
中高一貫だったので、高校へは問題なく進学できた。
外からの生徒が増え、環境が変わったせいか、いじめはなくなった。
しかし、学校に対する苦手意識が拭えず、私は相変わらず仮病を使って休んだ。
「恵子、前から言っていた家庭教師の先生だけど、東大の学生さんだぞ。これで成績も上がるだろう」
いつもは不機嫌な父が嬉しそうに私に話しかける。
「そうなんだ。ありがとう」
嬉しくないのに、私はそう答えた。
「予備校の夏期コースの申し込み、お母さんに頼んでおいたぞ。いい大学に行かないと将来ロクな人間にならないからな。これからは国際化の時代だから英会話くらいできないと。行くなら英文学科だな」
父はまるで自分の事のように私の将来を勝手に決めて話し続ける。
その横で娘の私は父が願う人生のコースを完走できるか不安に苛まれていた。
なにしろ、学校を休み過ぎて先生から「このままでは進級できない」と、先日、釘を刺されてしまった。
留年だけは避けたいので、重い足を引きずって登校し、教室で小さくなって授業を受けた。
予備校のおかげで学力は上がったが、父が希望する大学へ進学するのは無理そうだ。
テストの点数と偏差値の数字を眺めて深くため息をつく。
父が学歴の低い人間を馬鹿にするとき、私はとても怖かった。
偏差値の低い人間には価値がないという、父の信念は、私の中にも深く刻み込まれていた。
「あー、痩せたーい」
クラスの女子たちは雑誌のモデルと自分を比べては悲痛な声を上げる。
「ねえ、見てみて、ダイエット特集だって」
「リンゴしか食べちゃダメなの? そんなの絶対無理!」
楽しそうにダイエットの話題をする女子たちは、美しくなることに夢中だった。
授業中にこっそり爪を磨いたり、色が付いたリップクリームを自慢し合ったりしている。
私は自分の体形をあまり気にしていなかったが、家で姉から「子ブタちゃん」と呼ばれてから体重が気になり始めた。
ある日、洋服屋さんでジーンズを試着した時、ウエストがきつくて入らなかったことにショックを受け、ダイエットを決意した。
「ウエストは絶対に六十センチ以下じゃなきゃダメ」
それから私はお昼ご飯をおにぎり一個で済ませ、晩御飯を抜き、家の周りをジョギングした。
すると、次の日に体重がストンと、一キロ減った。
頑張ってもうまくいかない勉強と違い、ダイエットは食べなければその分だけきちんと数字で表れることに喜びを感じた。
自分の人生はコントロールできないけれど、体重は自分の意志で操作できる。
私はあっという間にダイエットにのめり込んだ。
半年後、私の体重は三十五キロになっていた。
鏡の前に立ち、自分の体を眺める。
余分な肉が何一つなくあばら骨が浮き出ていて、美しかった。
そんな私と対照的に、家族は私の体を心配しだした。
「恵子、ご飯食べないと体に悪いわよ」
母が不安そうに言うので、少しなら大丈夫だろうと、パンをちぎって口に入れたが吐いてしまう。
「こんなに痩せているのに吐いてしまうなんて、何かの病気よ。お医者さんに診てもらいましょう」
母に連れられて内科へ行くと、
「こちらでは手に負えないので精神科で診てもらってください」
と、無下に断られた。
私は精神疾患なのだろうか。
ただ、ダイエットをしているだけなのに。
ある日、父は親戚の精神科医に私のことを相談した。
「多分、摂食障害だろう。この病気を侮ってはいけない。放っておけば命を落とすこともある恐ろしい病気だ」
その言葉を聞いて、父は急に焦り出し、精神科を受診するよう私を説得し始めた。
医学部に進学した姉も私の体を心配して「精神科医に診てもらった方がいい」と言うので、おとなしく受診することにした。
家から通える範囲にあるメンタルクリニックで診てもらうと、大量の抗うつ薬と睡眠薬を処方された。
毎食後十錠近くを飲むのは骨が折れたが、薬を飲み始めてから調子が良くなり、食欲も戻り、睡眠が取れるようになった。
心配していた体重も徐々に増え始めた。
メンタルクリニックへ二週間に一度通院し、服薬をしながら学校生活を送り、放課後は受験のため予備校へ行く。それ以外の時は自宅で家庭教師に勉強を教えてもらっていた。
私が摂食障害を経験した後も、父の学歴信仰は相変わらずで、姉もストレスを感じているようだった。
「実はさ、私も恵子とおんなじ薬飲んでるの」
ある日、ふと、姉が私に漏らした。
「え! 本当に? いつから?」
目をまん丸くして姉の顔を見た。
「一年くらい前から。夜になっても眠れなくて。眠剤と軽い抗うつ薬もらってる」
姉は目を伏せてそう告白した。
「そうなんだ……。全然知らなかった」
家族の中で、自分だけが苦しんでいると思っていたので、なんだか恥ずかしかった。
「お父さん、うちの病院を継いでくれってずっと言ってるでしょ。私が医者にならないと恵子に負担がかかりそうで。でも、医者になるって簡単なことじゃないからね。実習も多いし、試験も難しいし、卒業できても医師免許がすぐに取れるものでもない。仮に免許が取れても研修医は激務で薄給って聞くし」
姉が私のことを考えて勉強を頑張っていたとは夢にも思わなかった。
「お父さんのために無理して医者にならなくてもいいんじゃないかな」
私は姉に元気になってもらいたかった。
「そうだよね。でも、お父さんに子供の時から『将来は医者になるんだぞ』って言われて育ったから、自分が本当は何になりたいのか分からないんだよね」
姉の目は空をさまよっていた。
「その気持ち、なんとなく分かるよ」
子供部屋で私たち姉妹は、初めて会話らしい会話をした。
いつの頃からか、夕食を皆で囲むことはなくなった。
暗く重い生活の中で、家庭教師の先生と会話することが唯一の救いだった。
二人目の先生は学習院に通っている女性で、上品で優しかった。
あんまり素敵だから同じ大学に行こうか悩んだほどだ。
しかし、精神科に通院しながらの受験勉強では望むほどの成果は出せず、進路は都内の四年制大学の社会学部に決まった。
父は最後まで英文学科に行けとうるさかったが、学部は自分の意志で決めた。
春は好きだ。
抜けるような青い空と、暖かい風。道端の雑草ですら光輝いて見える。
私はスーツに身を包み、大学の入学式を無事に終えた。
史跡サークルに入り同年代の仲間たちと京都や奈良へ行った。
友達もたくさんできて、授業が終わった後、喫茶店で長いことおしゃべりして笑いあった。
いいなと思っていたサークルの先輩に告白されたときは夢のようだった。
初デートは緊張したけど楽しかったし、帰り道で先輩と手をつないで歩いていたら、胸が熱くなり体中の血が躍った。
しかし、先輩の就職活動が始まると会う時間が減り、関係は自然消滅した。
私は大学を無事に卒業し、就職先は商社の一般職に決まった。
お茶くみに資料作成、電話対応など、初めての仕事は分からないことばかり。
職場では上司が部下を叱責し、その場にいるのがいたたまれない。
残業も多く、ミスをすると上司にこっぴどく怒られたが、歯を食いしばって耐えた。
仕事を終えて家に帰ると、父が私に向かってこう言った。
「会社を辞めて、医学部に行く気はないか? 姉妹でうちの病院を継いでほしいんだ」
姉は一年浪人して医学部に入学していた。
それでは満足できず、妹の私にも医学部進学を夢見る父に怒りを感じた。
頑張っていい会社に就職したのに、私の仕事を少しも認めてくれない。
それどころか、まだ医学部に行けと言うなんて。私は医者になりたいなんて一度も言ったことがない。
私は父の夢を叶える人形じゃない。
しかし、父に嫌われたくなくて、本当の気持ちは胸に仕舞った。
精神の不調が続き、商社は一年で退職した。
失業手当をもらってブラブラすごしていたが、半年後に支給が切れたので、仕事を探した。
保険会社でアルバイト募集の求人票を見つけ、応募したら合格した。
仕事は一般事務だったので、それほど辛くはなかったが、職場の人間関係が上手くいかない。
過去のいじめや家庭環境のせいか、人の顔色ばかり伺い、嫌な仕事を頼まれても断ることができない。
さらに、気の利いた会話ができず、社内で完全に浮いていた。
給湯室に入ろうとしたとき、中から同僚の話し声が聞こえてきた。
「バイトで新しく入った子、なんか暗いよね。名前なんて言ったっけ?」
「高根恵子さんじゃない?」
「あー、そうそう。高根さんてさ、猫背でオドオドして、見てるとイライラしちゃうんだよね。服装も地味でさ、いっつも黒い服ばっか。ここは葬式会場じゃないっての!」
「あはは! マジウケる! 早紀ちゃん言いすぎだよ~」
早紀ちゃんと呼ばれた子は、髪の毛を茶色に染めて、爪はいつもピカピカで、白や薄いピンクの洋服に身を包み、近くを通ると香水のいい匂いがした。
私は早紀さんに対して特別な感情を抱いてないが、彼女からそんなふうに思われていたことがショックだった。
そして、脳裏に中学時代のいじめの記憶が蘇った。
「バイキン!」
「触ると菌が移るぞ!」
「こっちくんなよ!」
押し込めていたものが喉元まで溢れ、手で口を塞いでトイレに駆け込み、個室に鍵をかけ、便座に腰を下ろした。
「うっ、うっ、うっ……」
流れる涙をトイレットペーパーで拭うが、すぐにちぎれてしまう。
誰にも聞かれたくないので、声を押し殺して泣いた。
職場と実家を往復する生活が数年続いた。
「アルバイトじゃなくて、今の会社で正社員になったらどうだ」
と、父が言ってきた。
「そうだね、考えておく」
私は自分の気持ちとは正反対の答えを返した。
正社員になったら、居心地の悪い職場に一生いなければならないじゃないか。
いつでも辞められるバイトのままの方がいい。
一方、姉は医師免許を取り、その後、実家の病院を継いだ。
しかし、数年後、姉は勝手に医者を辞めて、一般企業に就職したと母が教えてくれた。
「え! そうなの? 頑張って医師免許を取ったのに、どうして?」
母は私から視線をそらし、そわそわとしている。
「そうね、本当に不思議よね。でも、お医者さんをやめた理由は、お姉ちゃんに聞かないでちょうだい。絶対よ」
都合が悪そうにしている母の姿を見ていると、それ以上追及できなくて、口をつぐんだ。
私は相変わらず保険会社のバイトを続けていた。
いつの間にか三十歳を過ぎ、大学時代の友人から結婚式の招待状が届くようになったが、体調不良を理由にして断った。
精神科でもらった薬を飲んでも、不安や悩みは消えなかった。
頭の中には過去の苦しかった思い出や、悔しかったことが何度も思い出されて、永遠にループし続ける。
ある朝、通勤電車に乗った時、急に心臓がバクバクして、呼吸が荒くなり、何度も息を吸う。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
目の前が真っ暗になり、私はその場に倒れこんだ。
異常事態に気が付いた乗客が声を掛けてくれて、電車が止まった時にホームに下ろしてくれた。
駅員さんが私を抱きかかえ、休憩室に連れて行く。
結局、その日は仕事を休んでしまった。
メンタルクリニックの診察時に、電車内で倒れたことを伝えると、
「過呼吸発作ですね。きっと、パニック障害でしょう。閉鎖的な空間でたくさんの人と一緒にいる時になるんですよ。お薬、少し変えてみましょう。量も少し増やしましょう」
と、主治医に言われた。
会計を済ませ、薬局で大量の薬をもらい、帰途に着く。
しかし、通勤途中で度々、過呼吸発作に襲われた。
自分の体が会社を拒否しているのだと思い、三十代半ばで、親に内緒で退職した。
家にいると仕事を辞めたことが親にばれるので、急いで次の仕事を見つけた。
しかし、長続きせず、数か月で辞めてしまった。
その後、実家で寝てばかりいたら、父親に「暇ならうちの病院の仕事でも手伝え」と言われ、受付の仕事をしたが、次第に家族と衝突することが増えた。私はもう四十歳を過ぎていた。
仕事もあり、実家で暮らしている私は、世間から見たら幸せな方かもしれない。だが、精神疾患は全くよくならず、むしろ悪化していた。
ある日、ネットで区役所が行っている『こころの相談室』というお知らせを見つけて電話した。
「はい『こころの相談室』です。何かお困りですか?」
「何を話しても大丈夫でしょうか?」
「はい、秘密は守りますので、ご安心してお話しください」
その言葉を聞いて、私は堰を切ったように話し出した。
開業医の父から医学部進学を求められていたこと、中学でいじめに遭い、そのあと摂食障害になったこと、大学卒業後、就職した会社で嫌がらせに遭ったこと。
一時間以上、私の話を聞いた相談員が質問してきた。
「お話を伺うと、今現在もご家族と一緒に暮らしているということで間違いないですか?」
「はい。実家を出たことは一度もありません。今も家族と暮らしています」
「高根さん、よく聞いてください。高根さんは大学も出て、会社勤めも経験されて、とても立派な方です。でも、ご家族と一緒にいることが、高根さんにとって大きなストレスになっていると考えられます。ご家族と離れることが病気を良くする一歩になります。ご実家を出るお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「家を出るんですか? この私が? そんなことできるんでしょうか?」
「私たちに任せていただければ可能です」
「本当に、出ることができるのなら、家を出たいです。お願いします」
それからはあっという間だった。
区役所の職員やソーシャルワーカー、様々な人が連携し、世帯分離が行われ、生活保護を受けることが決定し、救護施設に入所することになった。
その後、医者の勧めで精神科病院の閉鎖病棟に入院した。
最初は早く退院したいと思っていたが、数週間経つと仲の良い患者さんができ、皆んなとおしゃべりしているうちに徐々に心が癒されていった。
ある日、母と姉がお見舞いに来てくれた。母が買ってきてくれたシュークリームを面会室で食べながら、たわいもない話をした。
入院生活も四年目になり、閉鎖病棟から開放病棟へ移った。看護師さんに伝えれば、外にあるコンビニで買い物ができ、ずいぶん楽になった。病院内で行われている作業療法やセラピーに参加して、日々を過ごしていた。
ある日、母に電話したら、
「実はね……お父さんが二年前に亡くなったの。お葬式も納骨も済んでるわ」
と、告げられた。お父さんが死んだ? 私の知らない間に?
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?」
感情が昂り、受話器に向かって大声を出した。
「恵子が入院したばかりだったので、具合が悪くなると思って知らせなかったの」
母はそう答えた。
父のことが嫌いだった時もあるが、もうこの世に存在せず、二度と会えないと分かると、足元の大地がガラガラと音を立てて崩れていくようだった。
私にとって父は強大な支配者であったが、優秀な医者であり、私の誇りだった。
そして、世界でたった一人の大切な私の父親だった。
父に認められる立派な娘になりたかった。
商社をやめた後、父に医学部受験を勧められて断ったことを後悔した。
電話口で泣きながら「退院したらお墓参りに行く」と言うと、母は嬉しそうだった。
父が亡くなった後、病院と実家は処分し、遺産は母と姉が相続したそうだ。私にも取り分があったが、もらうと収入になってしまい、生活保護が受けられなくなるので国に返したと保佐人の弁護士が教えてくれた。
母は現在老人ホームで暮らしており、姉は結婚せず一人暮らしをしている。父が作った家族はバラバラになったが、私たちは別に不幸じゃなかった。
精神病院を退院した後、また、救護施設で暮らしている。
ここでの生活も一年が過ぎ、職員さんから一人暮らしを勧められた。
人生で初めての一人暮らしは少し怖いけれど楽しみでもある。
父が敷いたレールでなく、自分で選ぶ人生は何が待ち受けているのだろう。
支援者の人と物件巡りをして、やっと気に入ったアパートが見つかった。
ショッピングモールやリサイクルショップへ行き、食器や家具を選ぶ。新しい家のカーテンの色は散々悩んで薄い水色にした。
自分が生まれる家は選べないけれど、大人になったら自分の家を好きなように作ることができる。
もちろん、家族もだ。
私は自分の人生を自分の足で歩き始めた。
1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。その後、生活保護を受給し、その経験を『この地獄を生きるのだ』(イースト・プレス2017)にて出版。各メディアで話題になる。
その後の作品には『生きながら十代に葬られ』(イースト・プレス2019)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社2019)、『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房2020)、『私がフェミニズムを知らなかった頃』(晶文社2021)『私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに』(幻冬舎2021)がある。
→エッセイ 地獄とのつきあい方
〈編著〉松井彰彦・塔島ひろみ
〈著者〉小林エリコ/西倉実季/吉野靫/加納土/ナガノハル/村山美和/田中恵美子/小川てつオ/丹羽太一/アベベ・サレシラシェ・アマレ/石川浩司/前川直哉
兄の性暴力で子ども時代を失った人、突然に難病に襲われ死の淵を見た人、アングラミュージシャンの夫と離婚しシングルマザーとなった人、トランスジェンダーゆえに説明し続けなければならない人、精神障害のある母親に育てられた人、幼年時代に親と離れて施設で暮らした身体障害のある人、顔に生まれつき変形がある人、元たまの人、テント村で暮らす人……。「フツウから外れた」とされる人々がつづるライフストーリー14編を収載。社会の不平等や偏見、家族のトラブルや無理解などに悩み、抗い、時にやりすごして今、それぞれ何を思うのか――。
発行:ヘウレーカ
価格 1,800円+税
ISBN978-4-909753-14-4
詳細は ヘウレーカのページへ
2つの東京パラリンピック―それらから見えてくること― 法政大学名誉教授 松井亮輔
新型コロナと空想科学 大関智也
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〈エッセイ 著者リスト〉
〈エッセイ目次〉
~ NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
各エッセイは筆者個人の意見であり、REDDYの見解とは必ずしも一致しません