5年ほど間欠的に続けてきたこの連載は、今回で最後のつもりである。初回を読み返すと、ためらいがそうとう伺える。REEDYという大学に基盤を持つブログに書くことに対して、やさぐれているようで気負ってもいる。下駄をはかされたような少し得意な気持ちと、自分にとって鬼門にしか思えない学校(大学)との間で、どうにも座りが悪くなっているのだ。
高卒の自分にとって大学に触れたのは、吉田寮(京大)や駒場寮(東大)での経験だった。遊びに行ったり、居候したりと楽しかったけど、それは大学というより自主管理空間の面白さだった。そして、大学当局からは潰される対象であった。
それ以外は、イベントやその他でぼちぼち大学と関わったが、いずれも表面的に自由な感じはあっても、力関係に基づいた地金が剥き出しになる場面があって、気持ち悪かった。その度に、あらためて学校空間への嫌悪というものが累積されたものだ。
ひさしぶりに塔島さんから原稿依頼をうけ、最近、自分が路上でやっている「何やさん」というお店についての文章を提出しかかったのだけど、そのことをテントで暮らす友人に伝えたところ、「なんで路上の話を東大のブログに書くの?」みたいなことを言われた。その人は軽い揶揄のつもりだったのだろうが、ぼくは、そうだ!と思って恥ずかしくなった。
最近、香港の人と話した。もともと香港では路上販売が法的に難しいが、旧正月だけは町中に屋台があふれていたそうだ。しかし、当局がそれも禁止したため、2016年に魚ボール革命という屋台を守るための暴動が起こり、その後、彼は焼きそばパンの屋台をやっていたという(ちなみに、焼きそばパンは香港にはなかったそうだ)。
2020年以来、国家安全維持法などで、2つの政府によって強権的に統治されている香港について、彼はこう言っていた。つまらなくなったとされているがそうではない、あらゆる文化がアンダーグランド化しているため、すごく面白い。
もちろん香港と日本の状況は全く異なっている。日本で政治的・法的な意味でアンダーグランドと言えるものは限られている。それでも、マジョリティや権威からは簡単に手の届かない場所でこそ文化が育まれるということは同じだろう。なぜなら、文化には独自なコミュニティが必要であり、コミュニティは、ある一定、閉ざされることで生まれるから。
ぼくは、楽天的な傾向と自分では思い、優位な立場だからと他人には見えていたかもしれないこととして、開かれていることを先験的に良いと考えてきた。「みんなの公園」と言い、公園はだれが住んでもいい、と言ってきた。押しつけられた線引きに対しては有効だし、それが間違いという訳ではない。ただ、みんな、といい、だれでも、といい、開かれている、という中では、立場のちがいに鈍感になる。主体的に線引きすることが大切な場合は多くある。一方で、表現とは拡散し伝播するものだから、それは線引きを超えてしまう。線引きの更新の揺れ動きの中で文化は発展する。
ぼくは、ホームレスというコミュニティに属していて、そのことを文章として発表してきた。それは何のためなのだろうか?
近年、野宿者に身をやつして潜入取材をするルポライターや、テント村をうろつくユーチューバーもいる。ホームレスは、身近な異世界として表象され、消費されるものになっている。それらについて様々な問題があると思うが、本質的な問題は一般世間の欲望に立脚した光の当て方によって、コミュニティやホームレスのあり方が損なわれていることだ。
ぼくの文章は、ホームレスになろう、という呼びかけではないものの、一般世間とはちがう文化やコミュニティを作ろうとしている人たちを促すものでありたいとは思っている。ぼくは、そういう人に向けて書いている。
REEDYのエッセイという場は、塔島さんの個性を反映した、かなり多様で自由なものである。でも、その背後には大学や教養の世界が連なっている。ユーチューバーのような扇情的なものとは異なるものの、別の形で消費されうる世界である。
そう考えると、最初のころの違和感やひっかかりは、あまり変わっていないし、ぼくの浮つきがちな気持ちをもってしても、今後もそれは変わらないだろうと思える。
1970年生まれ。幼いころは多摩川の川原にあるセメント工場の寮に住んでいて、敷地に土管がたくさん転がっていて、多摩川は泡をたてて流れていた。2003年から都内公園のテント村に住んでいる。
ホームレス文化 https://yukuri.exblog.jp
〈編著〉松井彰彦・塔島ひろみ
〈著者〉小林エリコ/西倉実季/吉野靫/加納土/ナガノハル/村山美和/田中恵美子/小川てつオ/丹羽太一/アベベ・サレシラシェ・アマレ/石川浩司/前川直哉
兄の性暴力で子ども時代を失った人、突然に難病に襲われ死の淵を見た人、アングラミュージシャンの夫と離婚しシングルマザーとなった人、トランスジェンダーゆえに説明し続けなければならない人、精神障害のある母親に育てられた人、幼年時代に親と離れて施設で暮らした身体障害のある人、顔に生まれつき変形がある人、元たまの人、テント村で暮らす人……。「フツウから外れた」とされる人々がつづるライフストーリー14編を収載。社会の不平等や偏見、家族のトラブルや無理解などに悩み、抗い、時にやりすごして今、それぞれ何を思うのか――。
発行:ヘウレーカ
価格 1,800円+税
ISBN978-4-909753-14-4
詳細は ヘウレーカのページへ
2つの東京パラリンピック―それらから見えてくること― 法政大学名誉教授 松井亮輔
新型コロナと空想科学 大関智也
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〈エッセイ 著者リスト〉
〈エッセイ目次〉
~ NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
各エッセイは筆者個人の意見であり、REDDYの見解とは必ずしも一致しません