「トイレにいきたいんだけど」 なるべく感情的な成分が混じらないように事務的に言った。
六月には珍しく、からりと晴れた午後(カリフォルニアみたいねと妻は言った)ぼくたちは公園の駐車場にいた。病院で1時間の定例リハビリを受け、帰宅する前にちょっと散歩しようと寄ったところだった。
外出時の「行く前トイレ」は、万難を排して遂行しなければならない僕の義務だ。家ならひとりでできる。外だとそれは難しい。介助してくれる妻と一緒に入れるトイレが少ないからだ。「トイレは家で」は常識だ。病院は例外的な場所だ。利用できるトイレがいくつもある。透徹した洞察力があれば、病院を出る前にトイレは済ませておくだろう。公園に着いて、車から降りたとたん、「トイレにいきたい」とは言いださないはずだ。
「前もってどうして予見できなかったのか、公園に来る前ならスーパーのトイレだって利用できただろう」 誰だって難詰したくなる。言っても仕方ないとわかっていてもひとこと言わずにはいられない。
ところが、僕のリクエストを耳にすると一瞬諦念の表情を浮かべたが、妻は何も言わず善後策を練る。逆巻く感情を押し殺し、ため息もつかず、最適解を探す。一番近い多目的トイレはどこか考えているのだろう。
僕は以前から温めておいた秘策を提案する。「一般用トイレでも立ったままできると思うんだ」 なるべくあたり障りのない事実を述べるように告げる。杖から手を離して足だけで立ち、歯を磨き、髭を剃り、髪を調える、20分前後かかる「護顔工事」を僕は一人でやっている。確かに病院では車椅子に座っていなければ許されない行為だったし、退院してからも初めのうちは必ず妻に椅子を用意してもらっていた。それがいつしかわずらわしくなり、気ままに行動したい僕は、好きな時に「護顔工事」をするようになった。
一般用トイレの「立ちション」は、まさにこのような状況で試してみるべき事例だとおもっていた。もし、今回うまくいけば外出時のストレスは激減する。しかし、慎重な妻は違った。体重をかけられる洗面台がある「護顔工事」は黙認できても、そうでない一般用トイレの「立ちション」は許容範囲外だった。一言でいえば「リスクが大きすぎる」 僕の諦めの悪い態度に辟易した妻は、猛烈な勢いで、発想のまずさ、僕の自己認識力のなさを雄弁に語った。まっとうな慎重論に反論する気はなかった。
とりあえず、アリーナには、体の不自由なひと用のトイレがあるだろう、そこに行ってみようということになった。その場から直線距離で80mぐらいだろうか。切迫した状況下でも歩けない距離ではなかった、ただ、その日のリハビリ中から普段よりも重く感じていた右足が、いつにも増して一層重い。
入院中、理学療法士から習った歩行の基本動作は、「杖、1,2」だった。「杖」で左手の杖を前に出す。「1」で右足を前に出す。「2」で左足を右足にそろえる。その反復で前進する。調子のよい時はリズミカルにすすむ。しかし、痺れが強く、右足が思うように出ないときは、歩みがのろい。その時、右足の機嫌は中の下だった。
さらに、大きな障害があった。アリーナ前面には四段の階段がある。右手端っこにはスロープもあって。車椅子なら無条件でスロープに向かうが、時間の制約がある今悠長なことはしていられない。正面階段強行突破。
80mを口を真一文字に結び一気に歩いた。怒涛の勢いだったが、三歳児の全力疾走ほどもなかったろう。
妻に介助してもらい四段の階段を慎重に、しかし強気に登った。出来は一段目から90点、95点、90点、55点。初めの三段はスムーズにいった。介助なしでもいけたかもしれない。四段目はダメ。妻がいなければ転倒していただろう。右足の引き上げに失敗しバランスが大きく崩れた。その瞬間、妻が支えてくれた。
「もっと丁寧に右足をあげろ」学校の教師なら言うだろう。しかし、三段上手に登れたなら、四段目で無様な恰好になっても上出来だ。ありがたいことに、妻も「いいんじゃない」という顔をしている。階段は思ったほど脅威ではなかった。
ドアにたどりつく。自動ドアが開く。泥除けマットが待ち換えている。無造作に足をだすと、マットの端に足をとられる。恐る恐る右足を出す。大丈夫、躓かずに行ける。
一般用トイレはアリーナに入ってすぐのところにある。車椅子マークのトイレは20m先にある。「最大多数の最大幸福」。ため息をついて「杖、1,2」のリズムを刻む。右足はいよいよ重い。だが、膀胱はもうこれ以上膨らむ余地がない。急げ。
トイレはキレイだった。安堵の喜びに包まれて心ゆくまで用を足した。解放感いっぱいで出た後、ロビーのベンチでたっぷり休憩し、外へ出た。ちょっと散歩した。妻は、夕暮れの西の空に美しい彩雲を見つけ、すこぶるご機嫌になった。「いいことがあるわよ」と弾む声で言った。
1959年生まれ。早稲田大学中退、都内で塾講師を10年務めたあと、福山で独立開業。昨年、脳卒中で半年間入院。塾をたたむ。
右半身に麻痺を抱え、妻の介護なしには生活できない。
にもかかわらず、その自覚は乏しく、傲慢不遜な性格は、おそらく死ぬまで治らない。
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〈編著〉松井彰彦・塔島ひろみ
〈著者〉小林エリコ/西倉実季/吉野靫/加納土/ナガノハル/村山美和/田中恵美子/小川てつオ/丹羽太一/アベベ・サレシラシェ・アマレ/石川浩司/前川直哉
兄の性暴力で子ども時代を失った人、突然に難病に襲われ死の淵を見た人、アングラミュージシャンの夫と離婚しシングルマザーとなった人、トランスジェンダーゆえに説明し続けなければならない人、精神障害のある母親に育てられた人、幼年時代に親と離れて施設で暮らした身体障害のある人、顔に生まれつき変形がある人、元たまの人、テント村で暮らす人……。「フツウから外れた」とされる人々がつづるライフストーリー14編を収載。社会の不平等や偏見、家族のトラブルや無理解などに悩み、抗い、時にやりすごして今、それぞれ何を思うのか――。
発行:ヘウレーカ
価格 1,800円+税
ISBN978-4-909753-14-4
詳細は ヘウレーカのページへ
手紙という「書き言葉」 水村美苗
2つの東京パラリンピック―それらから見えてくること― 法政大学名誉教授 松井亮輔
新型コロナと空想科学 大関智也
〈エッセイ 著者リスト〉
〈エッセイ目次〉
~ NPO法人アデイアベバ・エチオピア協会理事アベベ・サレシラシェ・アマレさんのお話~
各エッセイは筆者個人の意見であり、REDDYの見解とは必ずしも一致しません