REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

我が家の現代版「生類憐みの令」
  土屋健

2020年3月4日

我が家の現代版「生類憐みの令」

第1回

車椅子と老犬とホームエレベーター

私は2000年の年末に馬から落ちて首を骨折しました。その時に中枢神経の脊髄が切れ、車椅子生活となりました。「切れたなら繋げはいいんでしょ?」と思いながら、早20年が経とうとしています。「世の中そんなに甘くない…。」と思いながらも「まあ、そのうち何とかなるかも?」と相変わらず甘い考えで生きています。

車椅子生活になったお陰か、健常者の頃には見えなかった物が良く見える様になりました。多くの面白い方にも影響を受けました。特に影響を受けたのが、入院当時に隣のベッドだったおっちゃんです。糖尿病で両目の視力を失っていたのに、やけに明るいおっちゃんでした。外で歩行訓練をしていた時にたまたま見かけて「今日、外で歩いていましたね。」と言うと「支援員さん美人でしょ?エヘへ!」と返して来ました。「オイ、おっちゃん!アンタ見えてないから。」と突っ込んでおきましたが、どこ吹く風って感じでした。この頃の私は、退院してからの生活を想像出来ませんでした。地方の病院でもう何年かリハビリを…なんて話しもありました。塞ぎ込む程ではなかったのですが、このおっちゃんを見ていると「まあ、どうにかなるか。」と思えて来ました。この「どうにかなるか」の緩い考えは、今の相談支援にも役立っています。どうにかしようと思えば、完璧ではないのですが希望に近い形になる事が多々あります。

1年半ほどの入院とリハビリの生活をして、今の家には2002年の夏に引っ越して来ました。運良く、高校時代の親友が建築関係の仕事をしていたお陰で、設計士さんからハウスメーカーまで紹介してくれて、バリアフリーの一軒家に住める事になりました。二世帯住宅で、私の両親は1Fに、私達夫婦は2Fに住み、ホームエレベーターを設置しました。このホームエレベーターが意外な展開になりました。

何とか生活にも慣れてきて、妻が犬を飼いたい…云々と言い出したのが翌年の始め頃でした。私も動物が好きだったので、特に異論も無くGWに保護犬を引き取る事になりました。名前を岳(ガク)と付けたのですが、この岳が妙に頭が良いと言うか、ずる賢いと言うか…。エレベーターの使い方を分かっているのか、1Fで私が乗ろうとすると狭い車椅子の横の隙間に潜り込み、2Fに着くと当たり前の様に先に降りて行く始末でした。結果として、老犬になり足腰が衰え階段が登れなくなった頃には、逆にこの性格が助かったのですか…。

この辺りから「どうにかなるか」の楽観主義が、家族間では「どうにもならない」事に気付き始めました。五代徳川将軍の綱吉公は犬将軍なんて揶揄されたとか…まさにウチのお犬様も特別待遇の始まりです。自分の気が乗った時には普通に階段を行き来するのに、気が乗らない時はエレベーターの前で扉を見て待っています。仕方無くエレベーターのボタンを押してドアを開けると、自分からスタスタと乗って行きました。そして2Fに着くと何の違和感も無く当然の様に降りて来ます。家族も最初は渋々だったのが徐々に当たり前となって行き、いつの間にか当然の権利となって行く…習慣とは怖ろしいものです。

綱吉公の生類憐みの令は元々日本初の福祉政策(=車椅子の私のための我が家のバリアフリー)だったとか?それが徐々に暴走してしまったとか?我が家にもお犬様の特別待遇が暴走して行きます。

2013年の1月に長男が誕生しました。ここから「生類憐みの令」の暴走の始まりです。お犬様は「長男>自分>私達」…特にお犬様は長男優遇の姿勢が露骨です。お犬様が寝ている所に長男が行っても仲良く甘えているのですが、妻が同じ事をすると牙を剥き出しにして威嚇して来ます。まさに「切り捨て御免!」。そして、10歳を超えた老犬に、家族は今更しつけだ何だと求める事も無いまま、この関係は当然となって行く…自然と上下関係は定着して行きます。この露骨な身分制度は、お犬様が亡くなる2019年まで続きました。

綱吉公の「生類憐みの令」は人にも生き物にも優しい社会作りがスタートでしたが、我が家は「生類甘やかしの悪例」でした。次に犬を飼う事があれば、人にも優しい「共生社会」になって欲しいと思っている、今でも甘い考えの私です。

この連載では、頸椎損傷で車椅子生活を送る私が、老若男女のさまざまな 「生類」と共生する(した)中で経験したこと、感じたことを綴っていきたいと思います。皆さんも『あるある!』と共感して頂ければ嬉しいです。

土屋健
土屋健

障害者相談支援専門員

2000年12月に受傷。
大井競馬場で競走馬のウォーミングアップ中に落馬し頸椎を脱臼骨折、頸髄損傷で車椅子生活となりました。
1年半ほどの入院生活を経て、2002年8月に退院し、町田市で生活を始めました。
5〜6年ほど家族介護で生活していましたが、友人よりヘルパーサービスの利用を薦められ利用を開始しました。
これに合わせて訪問看護も利用を開始し、家族介護主体から医療・福祉サービス主体の生活になって行きました。
2008年7月に受傷後初めて仕事に就きました。
内容は主にデータ入力と電話対応で、週2日の出勤と在宅ワークで作業を行っていました。
2012年9月に現在の仕事に就きました。
業務は、役所が福祉サービス支給の判断基準にする資料、サービス等利用計画の作成です。
当時は障害者自立支援法から障害者総合支援法への移行時期でもあり、福祉サービスの変化も多々ありましたが、日常生活では比較的安定して重度訪問介護のサービスを利用出来ています。
2013年1月に長男が誕生しました。
現在小学校1年生で、学校の運動会や授業参観、休日にはサッカーの試合に付き添うなど、行事には出来る限り参加しています。

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