2023年6月30日(金)から2023年7月5日(水)の旅程で、カナダ・モントリオールへ渡航した。
今回の渡航理由は、ICN(International Council of Nurses)という日本では「国際看護師協会」という職能団体が企画する大会(学術集会)にてポスター発表を行うためであった。
諸般の事情により、大会期間の全日程参加は叶わなかったものの、この場をお借りして報告させていただくこととなった。
続けて、筆者の相応部分の土台となっている看護学生時代から四半世紀にわたるICN大会との関わりと、協働してきたメンバーらとの経験を「次世代への襷」とみなしてまとめる。さらに、モントリオール市内のバリアフリー環境や今回のポスター発表内容についても触れたい。
世界の看護は「すごい」と思う面も多い、けれど、日本の看護も同程度の取り組みや実践を積み重ねてきたということを説明していく。
ICNについて
ICNは前述の通り、International Council of Nursesの略で、日本国内では「国際看護師協会」と称されている。1899年、国際女性評議会(International Council of
Woman)に参加した看護職達が立ち上げ、現在まで脈々と続く、世界最古の職能団体である。わが国の日本看護協会も加盟しており、位置づけとしては同協会の国際組織の扱いとなる。オリンピックのように4年毎に大会が催され、国際的な課題の共有と対応の検討、同時に学術集会が開かれる。1999年のICN設立100周年記念大会時より、2年毎となり、2017年から2019年にかけ、正式に隔年となった。日本は1977年に東京、2007年に横浜における開催を経験している。このエッセイをご覧になっている看護職のうちには、参加やボランティア経験を有されている方もあるように思われる。その経験は大変、貴重なものであり、是非、記録として残しておくことをおすすめしたい。ちなみに、ICN会長と理事らは4年に1度改選され、日本からは1960年代以降、理事や副会長、会長が選出されている。ICNでは各期毎にキーワードが設定され、現在は「Influence」(2021-2025年)である。
今回の大会期間中には、ICNの歴史を集約した電子書籍 1)が刊行され、簡潔明瞭にこれまでの経緯がまとめられている。
The Global Voice
of Nursing, A history of the International Council of Nurses 1899-2022 1)
ICN第29回大会と開会式
今回のICN大会は29回目で、開催期間は現地の2023年7月1日(土)から2023年7月5日(水)、テーマは「Nurses together:a force for global
health」であった。開会式にて「参加した国は145,6,200名超の看護職らが集った」と報告された。今回は2021年(前回)の完全ヴァーチャル開催方法を引き継ぎ、LIVE配信の「Spotlight on
Congress」参加も可能となり、学会期間中に報告された以上の参加者数になることが見込まれる。なお、今回はソーシャルネットワーキングサービス(Social Networking
Service:以下、SNS)も最大限活用されており、プレナリーの概要は、開催とほぼ同時に投稿・配信された。会場内のエキシビジョンでは、Twitterのハッシュタグ機能でまとめられた複数の投稿が、特大サイズの画面で次々と表示されていた。SNSからは、大会へ参加していない看護職らの発言も可能となっていた。これは、現在のICNのキーワードである「Influence」に基づく面もあると思われた。ちなみに、ICNの公用語は、英語、フランス語、スペイン語で、開催時間や会場内の案内も全て3カ国語で表示されていた(図1)。参考として、今回の大会参加登録料は、世界銀行から発出されている各国の国内総生産(Gross
Domestic Product:GDP)に応じて額が決定される仕組みとなっていた。
図1 開催時間を知らせるパネル
会場の受付に並んだデスクトップのパソコン(図2)で受付を行うと、名札と各種引換券が印刷された。印刷物を分離し、組み立てた(図3)。名札は大会毎にサイズやデザインは異なり(過去の大会分は記念として保管している)、今回は両面に印刷された部分を貼り合わせてネックストラップを通す形であった。今回の大会バッグは、薄いチョコレートとグレーの混じり合ったような落ち着いた色で、記念品としてエコボトルをいただいた(図4)。
ICN大会の見どころは開会式であろう。会長らの挨拶から始まり、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)のパンデミックに立ち向かった方々へのメッセージと動画、会場起立で灯が捧げられた。その際、様々な感情がこみ上げ、自身も当事者であることが思い起こされた。また、長年、看護職への支援を継続されておられるムナ・アル・フセイン王女のご臨席と暖かなメッセージにも、大変、励まされた。
続けて、オリンピック同様、各国代表者の入場となる。今回はアルファベット順(大会毎に異なる)であり、日本(Japan)の前後はジャマイカ(Jamaica)とヨルダン(Jordan)であった。なお、代表者と参加者の多くは民族衣装で参加しており、一層、煌びやかな空間となる。今回、事前に周知された開会式の案内にはナショナルコスチュームの記載無であったためか、着物の日本人は限られた。
筆者は開催国への敬意と日本との益々の交流を願い、両国の国樹や国花、看護協会章に草花が用いられている場合は、それらを盛り込むようにしている。今回はカナダの国樹である楓と赤系の帯、日本看護協会の撫子と日本の国花である菊の模様を含む着物とした(図5)。渡航先の基本情報を調べると同時に着物を選ぶことはICN大会参加前の楽しみの1つとなっている。
図5 開会式会場入口にて筆者
開会式で一丸となり席を確保された国は、代表入場とともに起立、拍手や掛け声、国をイメージしたお揃いのグッズを振る等され、一層の盛り上がりをみせた。今回、日本は事前に連絡を取り合っていた有志各位と当日「日本としてまとまった方がいいですよね」とお声かけをいただいた方々とは可能な限り、近くの席へ座せるよう試みた。日本代表の入場時、立ち上がって手を振る方々の集団を複数個所で眼にしたこと、終了後に「他席で開会式へ参加した」との情報も寄せられたことより、会場内では乱離していたと判明した。しかしながら、日本としてまとまることのできた参加者、特に若い世代とともに座せたことは光栄であった(図6)。ICNは、看護職資格取得前の看護基礎教育課程に在籍する学生を「Future Nurse」と称し、積極的に支援している。近年、資格取得後年数の浅い、経験を積んでいる途上の世代に該当する看護職らも、経済的背景を含めた様々な支援の対象となりつつあり、喜ばしく感じている。
図6 日本から参加した各位
新たな繋がりと学び
参加者の行き交うエキシビジョン会場
ICN大会にはエキシビジョン会場が設けられ、その中心にはICNのブースが配置されていた(図7)。そこでは、ICNから刊行されている出版物や報告書、次回の大会等の周知に加え、お土産としてオリジナルグッズの販売も行われていた。
図7 ICNのブース外観
ICNのブースを取り巻くように出版社や教育機関、シュミレーター等のブースが並び、E-Poster用の大きな画面や喫茶、さらには昼食の配布とテーブル席も配置されていた。図8は、エキシビジョン会場の案内図である。
図8 エキシビジョン会場の案内図
世界各国と並び日本の新生児看護について記載されている英語文献が、出版社ブースの目立つ場所に配置されていた(図9)。当文献は、筆者が看護学生時代に実習を経験した聖隷浜松病院の新生児特定集中治療室(Neonatal Intensive Care Unit:NICU)の事例をも掲載しており、事前に拝読していた。そこで、執筆者らへ現状を伝えるべく、ブースのご担当者様に写真撮影の可否を確認したところ、ご快諾いただいた。日本の看護職も、世界レベルの実践を行っているということが、手に取るように伝わってくる一冊である。
図9 出版社のブースに配置された文献
SPRINGER LINK Neonatal Nursing: A Global
Perspective 2)
エキシビジョン会場は、常に多数の参加者が行き交い、展示の場としてのみならず、参加者と参加者を磁石のようにつなぎ、関係しあう者同志を紹介しあえる在処としても機能していた。筆者も、同会場内にて多くの方へご挨拶をさせていただき、さらに、ご紹介いただいた。ご紹介いただいた方が、実は旧知の友人と親しかった等、思いがけないところで関係していた場面もあり、「It’s a small world!!!」とのコメントも頂戴した。
各国の取り組みからの学び
今回は、参加日数が限られていたため、主にプレナリーへ参加した。
最も印象に残ったのは「From Woman‘s Oppression to Opportunity for All」のEnda Adan
Ismail氏による講演(図10)であった。ソマリア内戦後の荒廃した母国の女性と子供への抑圧(不十分な医療環境)を眼にされ、「自らがやらないと!」との一心で、産科病院と大学を創設された。強い意思と使命から生じていると見受けられた力強い発言に圧倒されたものの、ふと「似たような取り組みを、日本できいたことがある」と思った。それは、静岡県浜松市にある聖隷三方原病院(看護学生時代の実習病院)の設立経緯であった。同病院は、第2次世界大戦前後の大きく揺れ動いた世の中で、不治の病とされていた結核を患い、地上へ身を置くことを許されなくなった方々を隣人として護り、ささえることを掲げ、幾多の差別や弾圧を受けつつも、数回の移転を経て創られた。「やらまいか」という浜松の方言は、そのままEnda
Adan Ismail氏の言葉へと重なり、「人として人のために生きることを決めた方々の覚悟」は国を問わず通底し、それらを必要とする人から人へと広まっていくように思われた。
図10 Enda Adan Ismail氏による講演
第2回は、看護学生時代から四半世紀にわたるICN大会との関わりと、協働してきたメンバーらとの経験を次世代への襷とみなしてまとめる。
参考ウェブサイト
第1回はICN第29回カナダ・モントリオール大会について報告した。第2回は、時計の針を四半世紀前の1990年代へ戻し、看護学生時代に2回のICN大会参加を成しえた経緯等を詳らかにしていく。次世代の看護学生が参加を申し出た際、「先例がない」という理由で退けられそうになった時はこの1例を活用いただきたい。また、参加決定の際は持ち物等についての情報を、さらに、事前に日本国内から参加する看護学生等とのネットワークを構築する方法を参照願いたい。
中高生の頃からの願いと拓かれてゆきつつある未来
筆者は中高生の頃から「看護職資格を得て働くこと」に加え、「海外へ行きたい」と願いつつも、叶えられなかった。高校の進路指導室にひっそりと置かれていた米国留学案内を入手し、看護学部の情報を集めたりもした。しかし、学費と自らの聴覚障害(将来の聴力低下の可能性が指摘されていた)から、厳しいと判断した。今思うと、修学支援の面では格段の差があったかもしれないと思う。
受験時、看護職資格を得た後の専門として希望していた領域は「緩和ケア」であり、日本で初めて院内独立型のホスピスを創設した聖隷三方原病院に隣接する聖隷クリストファー看護大学(現聖隷クリストファー大学)へ進学した。当時の学長であられた吉田時子先生(筆者は最後の教え子)は、入学式における学長挨拶の際、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと…(以下略):ヨハネによる福音書15章16節」1)という聖書の部分を引用された。その時は、意味をほぼ理解できない状態に等しかったが、これから述べることを通じて、卒業時までにその意味を知り、その後の未来へとつなげていけたように思われる。
当時、出身大学の母体はインドやブラジルで福祉施設を運営し、歴史的背景としてドイツのディアコニッセ(プロテスタントの献身女性)等の奉職も大きく関わり、さらに、伊藤邦幸2)医師をはじめとするJOCS(公益社団法人日本キリスト教海外医療協力会)3)のワーカーを複数輩出していた。しかし、母校の海外姉妹校や交換留学制度は皆無であった。学内に欧米出身のネイティブの教員は複数おられたものの、国際交流の基盤は乏しかった。その頃は、単科かつ1学年の定員は100名の小規模な地方の大学であったことも影響していたのかもしれない。とにかく、自ら情報を調べ、自ら手にしていくことが求められる環境であったともいえようか。
はじめてのICN大会参加まで
そのような中、筆者は学部1年次に1997年のICN第21回カナダ・バンクーバー大会へ参加した同学の先輩より、「1999年に英国ロンドンでICN100周年記念大会が開催される」と情報を得て、その場で「行きます!」と即断・即決した。若気の至りゆえか、参加費用や公休取得の可否等、全く考慮せずであったものの、それらは参加までに全て揃えられ、同じ大学から3名で参加することとなった。公休の条件は、帰国後に学生主体の開催報告会を主催することであったと記憶している。
さらに、同学の先輩より、日本看護協会国際部のご担当者様や1997年のICN第21回カナダ・バンクーバー大会へ参加され、1999年も続けて参加される他大学の看護学生達をご紹介いただいた。その大学からは複数の教員も参加され、筆者等は教え子ではなかったにも関わらず、大変、お世話になった。そのうちのお1方は、後に第47回フローレンス・ナイチンゲール記章をご受章された竹下(浦田)喜久子先生であった。筆者も当時の先生方の世代へ近づくことで「その際、充分なお礼をすることができただろうか」と思うようになり、この場をお借りし、改めて、お礼を申し上げたい。
ちなみにICN大会は、所謂、国際学会ではあるものの、看護学生の参加も可能となっている。その理由として、1977年のICN第16回東京大会以降、看護学生専用のプログラム(学生大会、学生ネットワーク)が設けられているためである。さらに国家資格取得前のため、ICN大会への登録費用は有資格者の半額となっている。ICNは、看護学生に対し、看護を学び始めた時点で未来に生きる、未来を創る看護職の一員とみなして、敬意をもち「Future Nurse」と称する。日本では「看護職の卵」等といわれることも多いが、ICN は看護学生を自立した未来の看護職としてみなすのである。
はじめてのICN大会参加 大会テーマ:Celebrating Nursing‘s Past : Claiming the Future
英国到着後、開会式前に催される学生大会へ参加した。海外の学生は社会人経験者(当日の自己紹介の際にも、社会人経験を経て進学した旨を述べた者や学生の平均年齢も示された。当時、英国の看護学生の平均年齢は20歳代後半から30歳代前半であったと記憶している)も多かったためか、運営は非常にスマートであった。英国らしく、TeaとCoffeeの時間もあった。手元に残っている学生大会のレジメをみると、看護学生に求められる疾患の勉強、HIVや結核の看護の現状、看護の未来に備えること、各国の看護学生事情(カントリーレポート)についてであった。
図11 学生大会の模様(1999)
開会式はロイヤル・アルバートホールで催され、関係諸氏の挨拶に始まり、看護の未来を予想した2つの寸劇やバッグパイプ演奏、タップダンスやビートルズのレプリカバンド等、英国の芸能を鑑賞し、最後は会場総立ちで踊った。開会式は、ナショナルコスチューム(民族衣装)の装用が励行されており、会場内には色とりどりの民族衣装をまとった看護職と看護学生の姿が見受けられた。筆者は浴衣で参加したが、これは、甲種・乙種看護婦と産婆(昭和23年の保健師助産師看護師法施行時に免許移行しなかったときく)免許を有し、さらに和裁師範でもあった祖母の遺作。彼女が現役で働いていた頃、既に日本はICNへ加盟していたことを思うと感慨深いものがある。
当時のICN会長講演と同時に演じられた寸劇は、四半世紀を経た今、実現しかけている。1つはテクノロジーを駆使して看護師は画面の数字を追うばかりで患者さんへは触れないようになり、人としての関心を失っていく。もう1方は、看護師はテクノロジーとうまく共存して、テレナーシングやビデオ通話を活用して患者さんのケアへ活かしていくことの未来が示された。当時のICN会長は参加者個々に「どちらの世界を選び取りたいか」を尋ね、続けて、ICNのビジョンを示したが、それはもちろん、後者であった。ここで、当時の模様を記録した記事4)を見直したものの、内容は筆者の記憶と相違なかった。それほど、記憶に残る講演と寸劇であった。興味のある方は、当時の記録を参照されたい。開会式後、学生大会へ参加した看護学生らは再びインペリアルカレッジのパブへと集い、改めて交流を深めた。
図12 開会式のチケットとプログラム等(1999)
図13 開会式後の看護学生向けのレセプションのチケット(1999)
初めてのICN大会参加の際、最も記憶に残った経験は、閉会式におけるアン王女のご講演であった。ご講演開始前から、会場には多数の参加者が集っており、筆者は会場後方で立ち見となった。しかし、筆者のネームプレートから看護学生であることが伝わり、「あなた看護学生よね?前でききなさい。前できくべき。」といわれ、あれよあれよという間に、前方へ案内された。これは、鮮烈な記憶として残り、次世代の看護学生や若手看護職等への支援を続けていく糧の1つとなった。今でも、アン王女のご臨席されている催事をテレビ越しに拝見するのみでも、当時のことをありありと思い出す。
図14 看護学生であることを示すネームプレート(1999)
ICN大会へ参加して気付いた日本国内の課題
学生大会への参加を通じ、各国の看護協会内に設けられた看護学生組織や看護学生が自主的に運営している組織の現状を垣間見、「日本国内の看護学生の学校間のつながりがないこと」を痛感した。学生大会は1977年から、それも筆者の生まれ育った日本で初めて開催されていた。しかし、前の大会の参加者から直接、次またはそれ以降のICN大会へ参加する看護学生等へ引き継がれてきた情報(例えば、持ち物、学生大会で質疑応答されやすい内容、学生大会後に学生同志で市内観光や学校見学等が企画される)は、ほぼ皆無に等しい状態であった。英国のように過去の学生大会へ参加した経験を有する有資格者会員からの経験知の継承もなかった。
過去、ICN大会へ参加した日本人看護学生等は帰国後、学生組織や団体を立ち上げたものの、国内学生の交流を主としており、ICN大会参加のノウハウを伝えていく場ではなかった。さらに、現在まで実動しているものは皆無である。端的に表現すると、ICN大会毎にリセットされていたように思われてならない。看護雑誌に寄稿された参加体験記事から、状況を想像するしか方法はなかったといえようか(そもそも、ICN大会参加の記事が掲載されていることを知っていたなら、の話である)。当時(1990年代)、高速のインターネットをはじめ、様々なウェブコンテンツの提供や文献のダウンロードはなく、もちろん、SNSもなく、筆者は記事1つを探すにも、大学の図書館へ籠り、ICN大会開催年前後を総ざらい、または参考文献から過去の文献を辿る方法で情報を得ていた。
前のICN大会へ参加した看護学生からの継承皆無の状況を呈した要因として、当時の看護基礎教育課程の修行年限は3年制が主で、ICN大会開催は当時4年毎のため、参加機会は在学中に1度あればよく、また、国内での看護学生組織の運営や看護協会の学生会員制度がなかったためと思われた。筆者の初参加時は、前の1997年に参加経験を有する看護学生等との情報共有や交流を行っていたこともあり、「ICN大会に参加した、すごかった!」という感動と同時に、日本国内の課題にも気付くことができたように思われた。いい意味で、その場の雰囲気に呑まれたままではなく、自らの立ち位置を自覚しながら、そこに足を付けて、世界の現状を見ることができた。
日本国内の課題は、前述したICN大会へ参加した日本人看護学生の次世代への継承や交流に加え、国内教育機関の横のつながりに乏しいことから、看護学生の置かれている現状や対応方法の情報共有すらままならず、自らの置かれた環境を客観視することすら困難で、結果、慣習的、時には非人道的な修学環境が放置されやすく、眼に見える改善はなされ難いのではないかと感じた。
ちなみに、看護学生組織の歴史は鮫島5)、木村6)の文献に詳しい。
また、このエッセイをご覧になった方のうちに、看護学生時代、ICN第21回カナダ・バンクーバー大会以前のICN大会へ参加された方がおられた際は、ご一報願いたい。
2回目のICN大会参加までの道程
1999年の100周年記念大会の次は2001年の4年毎大会であり、看護基礎教育課程に在籍しながら2度(2年次、4年次)の参加も視野に入れられることがわかった(当時、ICN大会開催は4年に1回であり、大学に在籍していても1回のみ)。そこで、1999年の経験と反省点を活かして、次回参加する看護学生達は「ICN大会に参加した、すごかった!」のみならず、世界の看護学生と同レベルの議論や交流を成し、帰国後は国内において次回のICN大会参加に向けた継承や国内看護学生のネットワークを構築できるよう、何らかの形でフォローしたいと2001年のICN第22回デンマーク・コペンハーゲン大会への参加を目標に据えた。
学部2年夏の時点で、2年後を見据え、腹を括ったのである。
なぜ、腹を括らなければならないのか、その理由として、同時期は看護学生最大のイベントともいえる必修の長期実習(当時は、1領域3週間でほぼ1年間)が設定されているためであった。しかし、母校は冬・春・夏の長期休暇とは別に1ヶ月、卒業論文や就職活動のためのインターバルの休暇有との情報を得て(注:長期実習の時期やインターバルの間隔は教育機関毎に異なる)、勉学をはじめ、参加のために必要と考えた行動を全て遂行した。2年次は、論文執筆のための講義(当時は「個人研究セミナー」:必修)があり、疫学・国際保健活動をご専門とされていた華表 宏有先生のもと、「世界の看護学生組織運営と各国間でのネットワーク化について~日本における看護学生組織運営の可能性~」という表題で小さな論文を執筆した。学生大会の歴史と1999年のICN100周年記念大会参加の所感、各国看護学生組織運営の現状については、学生大会参加時に得た情報を活用し、不足分は直接、各国看護学生組織に連絡をとり、集約した。一足先に、大人の世界でいう「根回し」を学びつつ、参加の準備を進めた。
その結果、関係各位からのご高配を賜り、ICN第22回デンマーク・コペンハーゲン大会の開催時期にインターバルの休暇を得た。参加費用も賄うことができた。同じ頃、日本看護協会から、学生大会時のカントリーレポート発表者として2名を選抜するとの情報を得た。さらに同協会国際部より、他大学の看護学生も複数参加するため、看護学生向けのツアーも企画された旨の情報提供、さらには同協会国際部のご配慮により、渡航前から参加する看護学生達と連絡をとることも実現した。初回の連絡はハガキであり、泊まり込みの保健師実習の記録と並行しながら作成した。この頃にはE-mailも普及し、個人でホームページを作成することもでき、掲示板(BBS)作成も可の時代となっていたことは幸いであった。
図15・16渡航前から交流をしていたホームページ(当時、現在は閉鎖)(2001)
ICN第22回デンマーク・コペンハーゲン大会における日本の看護学生達
大会テーマ:Nursing : A New Era for Action
渡航前から連絡をとりあっていた看護学生達の集合場所は、成田空港であった。そこから、話合いがはじまり、行きの機内も貴重な交流時間であった。この時、ICN大会の開催地であったコペンハーゲンのホテルを確保できず、看護学生の宿泊先は隣接するスゥエーデンのマルメとなった。移動は、その前年の7月に開通したばかりのオーレスン・リンク(デンマークとスゥエーデンのエーレスンド海峡を結ぶ鉄道と道路)であり、移動に時間を要したものの、2カ国の滞在を経験できた。
図17オーレスン・リンクの描かれた切手(2001)
渡航後は、学生大会7),8)から始まった。
当日、日本語通訳の方が来られず、急遽、南裕子9)氏(後のICN会長)に、日本語への通訳をいただいた。学生大会では「私の国はこうだけれど、日本はどうなんだ。」との質問が相次ぎ、発表者は対応に窮していた。同様の質問は、学生大会以後の交流時にもなされ、そこで「日本の現状はこうです、とも言えない現状で海外へ行くことは恥ずかしいことなのかもしれない。」と悟った。
開会式7)では、国連高等難民弁務官を務められた故緒方貞子氏が、ICN Health & Human Rights
Awardを初めて受賞され、ビデオメッセージで参加された。日本人の受賞者があるとは思い至らず、しかし、同国民として可能な限りの声援を送った。
滞在期間中、日本看護協会国際部のご高配により、日本から参加した看護学生間で集う場の設定10),11)を頂戴し、参加したことで得られた学びのフィードバックや帰国後の計画について話し合った。ちなみに、日本看護協会から看護学生代表が公式に派遣(費用面も含め)されたのは、2001年、2005年に限られたことを記録しておく。
図18 2001年ICNデンマーク・コペンハーゲン大会時のネームプレート(2001)
図19・20 開会式のパンフレット(2001)
図21 学生大会直後(2001)
同写真は、看護雑誌8)へも掲載いただいた。
次回は、帰国後から現在に至るまで、およそ20年程の時間を凝縮してまとめる。
参考ウェブサイト、文献
第2回は看護学生時代に参加した2度のICN大会の経験をまとめた。第3回(前半)と第4回(後半)は、2001年の帰国後から現在に至るまでのおよそ20年を凝縮してまとめる。凝縮はするものの、その間、全く動きがなかったわけではなく、2023年まで連綿とその歩みは続いていたことを記す。過去、ICN大会参加を契機として看護学生等の立ち上げた組織が現在まで継続に至った例はないが、看護学生組織の枠を超えたつながりを継続している看護職達は存在する。第3回は、2000年代の来歴をまとめる。
日本看護学生会の設立
2001年のICN大会へ参加した看護学生達は、現地(デンマーク・コペンハーゲン)で約束した通り、2001年8月20-22日の日程で長野県看護大学に集った。
その場へは、1997年のカナダ・バンクーバー大会へ参加した看護職の方にもご参加いただいた。期間中の話合いを通じて、「日本看護学生会」(通称:JNSA:Japanese Nursing Student‘s
Association)を立ち上げるに至った。
続けて、国内における看護学生間の交流とICN大会参加の普及を目指した活動を開始した。当時は、E-mailとホームページや掲示板機能が主であり、それらを最大限に活用した。当時、SNSがあったなら、更に拡大できたかもしれないと、確実にいえる程の前向きな勢いもあった。「日本看護学生会」(JNSA)は、看護系雑誌等においても度々、取り上げていただいたため、文献に列挙する。必要時、参照されたい。
過去、日本では様々な看護学生組織が運営されてきた。しかしながら、中心となる看護学生の卒業を境として、急速に活動機会が減少し、消滅するという歴史を繰り返してきた。昭和中期の学生運動直前頃まで日本看護協会には学生会員資格があり、国内で様々な学びや交流がなされていたとの記録も残る。学生運動の高まりとともに学生会員資格は廃止され、それ以降、同協会に看護学生を対象とした会員枠は設置されていない。つまり、日本の「Future Nurse」達は、諸外国の看護学生と比較して、教育機関以外での学びや交流の機会、さらには公的機関からの支援は圧倒的に乏しいといわざるを得ない。なお、日本看護学生会設立当時、昭和中期の学生運動を経験していない世代の教員より、「学生運動の再来になるのでは」と度々、警告を受けた。当時は平成、新たな元号となってから既に13年経過していた。今思うと、昭和の残香どころか、超氷河期の真っ只中であり、経済的に厳しい看護学生も増えていたように思う。しかし、上手くやりくりして、各自が「よりよい未来」へと至るための様々な話合いや交流がなされ、支え合える場として機能していた。当時、看護系学校間の交流は乏しく、もちろん、SNSもなかった。看護(学)教育自体、社会一般に広く知られていない領域と申しても差し支えないような状態であったといえようか。大半の看護学生は、現代以上に厳しい場(令和の時代では、ハラスメントと類推されうるような扱いが慣習的にみられた)へ身を置いていたと思われた。しかし、そのような場にあろうと、各々、次回の交流や合宿を励みとして、情報発信および活動を継続した。
ちなみに、当時、出会った方々の多くは2023年現在も連絡をとりあい、Facebookグループを主として交流を継続している。
このエッセイをご覧になった方のうちに、日本看護学生会OB/OGのおられた際は、ご参加いただけると嬉しい。
「日本看護学生会」から「The new project for young nurses!」へ
2001年以降、2年毎にICN大会とCNR(Council of National Nursing Association Representatives)という各国代表者会議と同時に学術集会が開催された。
2003年は初のアフリカ大陸(モロッコ・マラケシュ)における開催であったものの、政情不安のため、ICN本部のあるジュネーブでCNRを主とした最小限の開催となった。筆者の渉猟しえた限りながら、日本人看護学生と若手看護職の参加はなかった。
その後、日本看護学生会OB/OGの窪田 和巳氏(現 東京大学医学部附属病院 企画情報運営部)、多田 恵美子氏、安芸 綾乃氏等をはじめとした複数の有志と筆者等で「CNRわくわくプロジェクト」を発足させ、以後は「The
new project for young nurses!」として、参加を希望する看護学生や若い世代の看護職等を支えてきた。
2005年 ICN第23回 台湾・台北大会
大会テーマ:Nursing on the Move : Knowledge, Innovation and Vitality
当大会は看護学生に加え、2001年のICN第22回デンマーク・コペンハーゲン大会へ参加した若手看護職や日本看護学生会OB/OGも複数参加した。その数は20-30名程度と思われ、現地では、大いに盛り上がった。また、日本看護協会から3名の看護学生代表が派遣され、学生大会で発表した。学生大会への参加は基礎看護教育課程の学生に限られており、筆者は大学院生であったため、参加不可であった。そのため、学生大会の模様は、参加した看護学生達から見聞きした。
台湾には西洋と東洋の医療があり、両者ともに実践と大学レベルの研究が進められ、看護も同様である旨の報告が印象に残っている。瀉血やカッピング等の侵襲的な治療法の説明もあった。
同大会では、南
裕子氏が日本人として初めてICN会長に選出され、前会長より、以後4年間のキーワードに「Harmony」(和)を掲げた。新ICN会長のスピーチをききながら、「この場に居合せた日本人としてできることはなにか」を、自らへいいきかせていたことを覚えている。
図23 ICN第23回台湾大会 会場入口(2005)
図24 会場周辺の街灯や建物にも多くの垂れ幕がみられた(2005)
2007年 CNR横浜
テーマ: Nursing at the forefront : dealing with the unexpected
2007年のCNR横浜は、30年ぶりの日本開催となった。
当時、CNR横浜参加に向け、都内で定期的に勉強会を開催していた。さらに、日本看護協会への協力申出等を行ったものの、開催前の情報は殆ど得られなかった。そのため、学生大会(以後、各大会毎に学生大会または学生ネットワークと称されていたが、学生大会と記載)の運営に関われた日本人学生は、皆無であった。日本で開催されたにも関わらず、先導は諸外国の看護学生達であった。日本人看護学生は、日本看護学生会のメンバーと、開催当日、主に会場ボランティアとして登録していた数名が参加するに留まった。
そこで、日本看護学生会OB/OGは、過去、諸国の看護学生や若手看護職等から受けたおもてなしをおかえししたいと「インターナショナルご飯会」を開催した。学生大会を先導していた看護学生や会場で知り合った看護学生達に声をかけ、下図の招待状を渡した。また、大会期間中に開催されたJNAレセプションでは、美智子皇后陛下(現
上皇后陛下)のご臨席とお言葉を賜った。この際、海外の看護学生とともに参加でき、彼らが神妙な面持ちで感極まっていた姿も忘れられない。
2009年 ICN第24回 南アフリカ・ダーバン大会
大会テーマ:Leading Change : Building Healthier Nations
2009年のICN第24回は、南アフリカ・ダーバンで開催された。日本を発ち、香港で南アフリカ航空へ乗換、一路、ヨハネスバーグへ。途上の機内からみえたマダガスカル島の大きさが、印象に残っている。ヨハネスバーグで、足早にダーバン行きの国内便へ搭乗して、計19時間程度の長旅であった(この時、これまでに経験した中で最高にスリリングな乗換を経験した)。
日本から参加した看護学生は1名。学生大会会場へは入れたため、オブザーバーとして参加した。会場には、2007年のCNR横浜で知り合った看護学生や看護職の参加もあり、まずは再会を喜んだことも懐かしく思い出される。
2009年は、2003年のCNRモロッコ・マラケシュの開催地変更後、初のアフリカ大陸における開催であった。アフリカ圏からの参加者は悲願の達成であったためか、会場内は連日、大きな喜びにあふれていた(文献で見た限りながら、1977年の東京大会の大会も同じような熱を帯びていたように思われた)。会場では「あら、あなた昨日も会ったわね。元気?」と声をかけてくださる現地の方もあり、色々とお話をさせていただいた。この時、「日本」がどこにあるのかを説明しても、ご理解いただけたかどうかわからないという経験もした。この時は、会場のそこかしこで「一緒に写真、撮ってもらえる?」との声が飛び交っており、たくさんの方とのお写真が残っている。
閉会式では、南 裕子氏から次世代のICN会長への交代式が催され、その瞬間を眼に焼きつけながら、2005年から2009年までの取り組みを振り返った。
また、2009年のICN第24回 南アフリカ大会において、多田 恵美子氏と筆者は日本看護学生会の活動履歴をまとめ「The Report of The Japanese Nursing Students’AssociationSince 22th ICN Congress」と題したポスター発表した。筆者は、修士論文の一部「Difficulties and Self-confidence of Japanese Nurses with Hearing Disabilities.」のポスター発表を行った。
2009年のICN第24回 南アフリカ大会は、渡航前から、参加報告会の開催を計画していた。参加報告会は、帰国後すぐが望ましいのではないか、「鉄は熱いうちに打て」ということで、2009年7月6日に帰国し、2009年7月19日に催し、演者を含めて13名が参加した。前日の晩は日本看護学生会OB/OG会を催し、翌日、報告会を催した。日本看護学生会OB/OGには会場設営や食事の準備等、様々なお力添えをいただいた。
2000年代の区切りもあり、ここで、第3回(前半)を終了としたい。次回(第4回)は後半として、2010年代から現在(2023年)に至る迄の履歴をまとめる。
第2回は看護学生時代に参加した2度のICN大会の経験をまとめた。第3回(前半)と第4回(後半)は、2001年の帰国後から現在に至るまでのおよそ20年を凝縮してまとめる。凝縮はするものの、その間、全く動きがなかったわけではなく、2023年まで連綿とその歩みは続いていたことを記す。過去、ICN大会参加を契機として看護学生等の立ち上げた組織が現在まで継続に至った例はないが、看護学生組織の枠を超えたつながりを継続している看護職達は存在する。第4回は、2010年代から現在(2023年)までの来歴をまとめる。
2011年 CNRマルタ・バレッタ
テーマ:Nurses Driving Access, Quality and Health
2011年、シチリア島とアフリカ大陸の間にある小さな島国マルタでCNRが開催された。会場は、世界遺産のバレッタ地区にある「Mediterranean Conference
Centre」で、中世の建造物がそのままCNRの会場となっていた。開会式では、中世の衣装をまとった現地の方々に迎えていただいた。日本からも多くの方が参加し、交流を深めた。マルタは日本と同じく島国であるためか、船の移動もメジャーで、宿泊先から船で会場へ向かった日もあった。さらに、新鮮な魚介類を使った料理とレモンの味に魅せられたことを懐かしく思い出す。
筆者はREDDYの前身であるREADの特任研究員として「The History of Nurses with Disabilities and disqualification clause in Japan.
」のポスター発表を行った。当時発表した内容について、今も取り組みを継続可能となるようご配慮いただいていることに厚く感謝申し上げたい。
日本看護学生会 10周年記念大会
2011年は、日本看護学生会設立から10年の節目であった。同年、CNRマルタが開催され、複数のOB/OGが参加したこともあり、東京有明医療大学の教室をお借りし、10周年記念大会を開催した。当日は、久しぶりに顔を合わせる方もあり、10年の時はあっという間に埋まった感もあった。当日は、日本看護学生会発足の経緯から、同年5月に開催されたCNRマルタ大会参加レポート、さらに、OB/OGのキャリアについて口演とミニポスターの場も設けた。看護を軸として、国境や領域に留まらず、広く活躍している彼らの姿に励まされた。
手弁当でつないできた歴史と謝辞
日本看護学生会OB/OGは、ICN大会やCNRへの参加を希望する看護学生と若手看護職の支援を手弁当で継続してきた。途上、数回、日本看護協会への支援申出等を行ったものの、「看護学生の当事者ではない」ことを理由としてお断りが続いた。しかし、手弁当であろうとも、ICN大会やCNR参加により得られる国境を越えたつながりや、日本からの参加者との関係構築や深化(進化ともいえようか)が、人生における大きな支えとなりうることを知った者達の手により、その経験の襷を時代に応じてアップデートしながら、次世代へ手渡し続けることを願っている。
ちなみに、このエッセイをご覧になっている方が「国際看護」という言葉を見聞きすると、「日本は発展途上国や困難な状況にある方々を支援する」、つまり、「日本は経済的に恵まれない国や人々の支援者である」とイメージされる場合も多いと想像する。確かに、世界では今、この瞬間にも様々な困難が発生しており、看護の支援は欠かせない。しかしながら、筆者は先進国も含め、世界の看護職達との情報共有や交流を第1に考えたい。なぜなら、筆者の眼からみて、日本の看護も世界に誇れる経験知や実践の蓄積、取り組みを複数有し、世界レベルにあると思われてならないことからである。(諸外国の様々な困難を支援する際、日本の看護を活かす場面があることも重々承知しつつ)ICN大会参加期間に留まらず、SNSやオンライン環境を活用し、日本の経験知や実践の蓄積、取り組みを世界へ発信し、諸外国の看護学生や看護職等と切磋琢磨を重ね、よりよい環境の構築へ関われることが大きな望みとしてある。しかし、これらの実現に際し、ICN大会自体、未来を創る看護学生や資格取得後年数の若い看護職達に知られていないと思われること、参加に際する困難(参加費用、長期休暇の取得)、言語等の様々な障壁により、2023年時点も、我が国の多くの看護学生や看護職はその途上にあると思われてならない。
最後に、これまでの取り組みを集約した活動年表を掲載した。2013年はオーストラリア・メルボルン、2015年は韓国・ソウル、2017年はスペイン・バルセロナ、2019年はシンガポール、2021年はウェブ開催(主催はアラブ首長国連邦・アブタビ)と、地道かつ着実、丁寧に連綿とつないでこられた窪田氏をはじめ、多田氏、安芸氏、全ての関係諸氏に深謝する。特に、ICN理事・第1副会長(2009年-2017年)としてご活躍され、世界的なご貢献をされた金井 Pak 雅子先生からは、度々、国内の取り組みに際するご支援を賜った。金井 Pak 雅子先生は「Think globally,Act locally」を体現され、後進として、今も多くの学びを得ている。また、筆者は看護学生時代から計8回の参加を叶えたものの、2011年以降は様々な事情から参加困難となり、結果として10年程度の空白の時間を生じた。その間は国内の勉強会・報告会の手伝いに留まったものの、国内における行動のあり方を学んだ。今後の参加は不明な現状にあるものの、志をともにする者達と、四半世紀に渡る経験知を次世代へつなげていくことの行動は継続したい所存である。
第3回(前半)、第4回(後半)のエッセイ執筆に際し、看護学生時代からともに歩んできた窪田 和巳氏、多田 恵美子氏、安芸 綾乃氏に、お力添えを賜った。さらにたくさんの看護学生や看護職、さらにそれらの方々をご指導くださった教員や研究者等の関係を通じて成立したものであることは明らかであり、関わりを有した全ての方に感謝申し上げる。
第5回は、時計の針を再び2023年へと戻し、ICN 第29回(カナダ・モントリオール)大会について報告する。
活動年表
これまでにも記した内容と重複する部分もあるが、現在に至るまでの活動を以下の年表に集約した。
2025年のICN第30回フィンランド・ヘルシンキ大会(2025年6月9日-2025年6月13日)へ参加する看護学生や若手看護職等の基礎的な情報となることを期待している。
参考ウェブサイト、文献(第3回、第4回共通)
第3回文末を参照
第3回と第4回は、2001年以降の活動をまとめた。四半世紀を実際に経験すると、長く感じる一方、ほんの一瞬で過ぎ去ったようにも思われてならない。
最終回となる第5回は、まず、モントリオール市内と会場のバリアフリーについて触れる。続けて、ICN第29回大会の報告と大会開催後にも参加可能なSpotlight On Congress 2023について紹介する。
大会開催期間中のみの経験に留まらず、「その後」も続いている(いく)こと、さらに、2025年のフィンランド・ヘルシンキ大会をも見据えて集約・展望・提言した。
モントリオール市内のバリアフリー
筆者は、諸外国へ出向くとバリアフリー環境の状況を確認することが習慣となっている。
今回も、ICN大会参加の間を縫い、会場近辺を歩いた。
市内の路上では、車椅子や短下肢装具、クラッチを使用して移動される方を複数見受けた。
冬期は厳寒となるためか、市内は地下街が発達しており、地上から地下への移動に際するバリアフリー環境の現状も観察できた。
世界最大と称されるモントリオール地下街は、いくつかの地下街や建物が連結されており、各々を接続するためと思われるスロープや階段のアップダウンも多かった。そのためか、随所にエレベーターが設置されていた。その反面、建築年数の浅いと思われる地下道は、ほぼ平坦であった。
図50 、図51 地下街入口の低エネルギーで開閉可能なドアと地下へ向かうエレベーター(2023)
図52 、図53 地下街内部のエレベーターとエレベーターがあることを示す屋内標識(2023)
図54 建築年数の浅いと思われる地下道(2023)
以下は、地上の建物である。
厳かな雰囲気をまとった建物の入口に車椅子マークが表示されており、詳細を確認したところ、裁判所であった。
図55 、図56 裁判所と入口のスロープ(2023)
ICN第29回大会 会場(モントリオール国際会議場)におけるバリアフリー
今回のICN大会の会場は1980年代の建築とあり、比較的段差や階段を多くみかけた。しかし、モントリオール市内同様、随所にエレベーターが設置され、会場では車椅子に乗った看護職や、白杖を用いて移動する看護職を見受けた。
聴覚障害に関するバリアフリーとして、小会議室の入口にはFM補聴システム(おそらく室内全体で聴取可能)設置有の表示を確認した。
図57 小会議室入口脇の壁にかけられたタブレットの右上に、聴覚障害者マーク(2003年まで使用されていたもの)とFMの周波数が表示されており、FM補聴システム設置有であることが読み取れる(2023)
開会式やプレナリー等が開催された大会場の入口には、表示を確認できなかった。また、磁気ループ(Tコイル)の敷設についても、現地における情報は得るには至らなかった。会場のホームページを確認したところ、以下のアクセシビリティに関する情報を得た。
Palais des congress de Montreal
Universal accessibility
https://congresmtl.com/en/visitors/universal-accessibility/ (2023年11月19日確認)
以下は、会場情報のトップページとなる。
ICN第29回(カナダ・モントリオール)大会会場
Palais des congress de Montreal
https://congresmtl.com/en/ (2023年11月19日確認)
今回のICN大会における聴者向けの同時通訳は、従来の会場配布のレシーバーではなく、各自の所有するモバイル機器にアプリをインストールする形で提供された。同時通訳されたICNの公用語以外の音声言語を外部端子またはBluetooth経由等で音声認識アプリを入れたモバイル機器と接続できた場合、音声認識による文字化と音声言語の通訳を同時に閲覧・聴取可能と推測された(荷物の関係から今回の接続試行は叶わず、次回以降の課題)。これらの実現は聴覚障害者のみならず、ICNの公用語を母語としない聴こえる参加者の福音ともなりえようか。
ちなみに今回、筆者は会場で日本の音声認識アプリを2種試した。その結果、1種は演者から30m以上離れていても、ほぼ正確に音声を認識、かつ翻訳されることを確認した。国際学会ゆえか、演者の発話速度は緩徐かつ発語は明瞭、更にマイクの音量大であったことも、良好な音声認識を得るに至ったと考えられた。当方法による音声認識と通訳精度が高い場合は、前述した同時通訳と音声認識の接続をせずとも(様々な機器類をつなぐ必要なしに)、モバイル機器と音声認識アプリのみで対応可能となる。
ICN 第29回大会におけるポスター発表
今回はE-Posterで、以下について発表した。
Fusae Kurihara:Current Situation of Employment for Nurses with Hearing Disabilities in Japan、ICN(International Council of Nurses)29th Quadrennial Congress、2023.7.1-5、Montreal、Canada
(概要)同意取得と回答を得た24名のうち、就労に関する9項目について完全な回答を得た20名の日本の聴覚障害をもつ看護職の現状について分析した。
統計解析と個別回答結果から、聴力程度が医学的重度となるにつれ、医療機関における就労(雇用)は困難となる傾向が示されたものの、これらは推測の域を出ない。そのような現状にあろうと、回答者は所有する看護職資格を活かし、様々な就労環境で活躍していた。また、国から発出されている看護職の平均年齢、労働時間、給与からの著明な乖離もみられず、所謂、健常の看護職等と同程度の就労を成せているといえた。
しかし、日本国内における全ての聴覚障害をもつ看護職から回答を得られていないという偏りからの限界もあった。
今後、聴覚障害をもつ看護職の就労環境における積極的なダイバーシティとインクルージョンを推進していく。
聴覚障害をもつ看護職の視点を活かしながら就労環境を変えていくには、個別事例に留まらず、「数」としてまとまり、量的データとして蓄積し、政策提言へつなげていく必要があると考えている。各々の積み上げてきた臨床知は「Nothing
About Us Without Us(私達ぬきに私達のことを決めないで)」のマインドで、私達自身の言葉で社会へ宣べ伝え、結果として、既存の枠に留まらず、看護職の世界で認められる当事者独自の専門的なキャリアの確立を期待している。
これらの結果を、よりよい未来を創るために活かし、よりベストな形で次世代へ引き継ぎたいとも考えている。
このエッセイをご覧になった方のうちに聴覚障害をもつ看護職と看護学生のおられた際は、以下の「お問い合わせ」先より、お気軽に、ご連絡願いたい。
お問い合わせ
フォーム https://ws.formzu.net/fgen/S96559754/情報提供のSNSを運用中
Twitter @fusaek または @jndhhmp2020
Facebook fusae.kuriharaまた、上記の調査・研究の概要は以下にて順次公開しており、必要時、参照されたい。
医療従事関連国家資格を有する聴覚障害者の就労実態に関する研究
http://www.reddy.e.u-tokyo.ac.jp/act/employment_for_hearing_impaired.html (2023年11月19日確認)
Spotlight on Congressのお知らせ等
今回のICN第29回大会の模様(写真・動画)は、大会期間中より、SNSへ投稿されていたが、後日、以下のページに集約して掲載された。
ICN Congress 2023 Montreal
Photo Gallery
https://icncongress2023.org/photo-gallery/ (2023年11月19日確認)
ちなみに、今回(2023年)の参加を通じて最も驚いたことは、オンライン化であった。2009年までは、郵送を用いた連絡が主であったものの、2011年からウェブ上で完結するようになっており、それらは加速度的に進歩していた。
図58 手前から、1999年、2001年、2009年のICN大会前に本部から受け取った封筒(2023)
また、今回のICN大会は2024年2月頃まで「Spotlight on Congress」(主要なセッション、開会式・閉会式、2000を超えるポスター)の形で、引き続き、参加可能となっている(大会参加登録済の者も閲覧可能)。詳細は、以下URLをご覧いただきたい。
ICN Congress 2023 Montreal
Spotlight On Congress 2023
https://register.spotlightoncongress.icncongress2023.org/icn-world-congress-2023 (2023年11月19日確認)
次回以降のICN大会は、オンライン上で対面と同等の経験、または何らかの技術革新により、より対面に近い形の参加も可能となるように思われてならない。
また、現行、ICNの公用語は3つ(英語、フランス語、スペイン語)である。昨今、翻訳技術の革新は目覚ましく、次回以降は、参加者個々の母語からICNの公用語へとスムーズに翻訳され、言語面の障壁はより小さくなった状態の交流も進むと期待される。様々な参加方法の選択肢や高度な翻訳技術等は、国を問わず、多様な背景を有する看護職への配慮・支援にもつながりうるため、大いに歓迎したい。
今後、上記の実現を見る場合は、今まで以上に日本の看護の教育や雇用、歴史的背景をはじめ、世界の看護職等から求められやすい情報を収集・理解し、さらに、国内の看護職等との交流を密に行い、最前線の情報を国の代表として心得ておく必要はあろう。もちろん、多国の現状や世界の潮流を身に付けておくことはいうまでもない。
ICN 第29回大会から第30回大会へ
日本看護協会出版会から発行されている日本看護協会の機関誌「看護」2023年10月号で、日本の参加者は160名と報告された1。過去の経験に照らすと、会場で出会う日本人は少なく、実際に渡航した者は限られていたのかもしれない。
今回の参加経験(当エッセイの第1回を改めてご覧いただきたい)から、次回のICN 第30回大会に向け、日本看護協会の1会員として以下を切望する。
- 個人情報に触れない範囲で事前に参加者数や大まなかな属性(研究者、医療機関勤務、看護学生)等、公開可能な情報を周知
理由:他の教育または医療機関から複数の参加者があることを示すことで、休暇申請の根拠となり得る、看護学生の公休申請にも有効と考えられるため- 渡航前に国内参加者間で情報交換可能なウェブ空間を設置
日本看護協会会員はキャリナース2への登録が求められており、既存の環境を活用理由:キャリナース登録未の同会会員は登録の契機となりえるため
会員となっていない看護職や看護学生はICN大会参加者として同空間を仮IDで提供し、キャリナース登録者と同等の権限を与える
日本看護協会からの個別支援は、経験上、未来の入会につながる可能性が高いと考えられる
そのうち、特に、日本看護協会の看護学生会員枠の設置[再設置・復活]を求めたい)- 渡航前の参加説明会の開催(オンライン・対面)
理由:以前は日本看護協会主催のツアー(大会登録代行を含む)もありつつ、近年の設置はないため
前述した「2.」の環境を実現可能であった場合、参加説明会開催に際する協力者(過去のICN大会参加経験者を想定)を得ることも可と思われる
(日本看護協会国際部ご担当者様の負担軽減へもつながる)- ICN大会開催の広報強化
理由:長年に渡り、ICN大会の開催報告は日本看護協会の機関誌「看護」の特集として取り上げられていたものの、2023年は取り上げられていないため
ちなみに、次回のICN大会は30回目の節目、2025年6月9日-13日 フィンランド ヘルシンキで開催される。
今回のエキシビジョン会場には、次回大会のポスターもあった。
図59 次回(ICN第30回)大会のポスター(2023)
さいごに
12年ぶりのICN大会参加・発表を契機として、この度、貴重な報告(当エッセイ)の場をいただいた。
松井彰彦教授をはじめ、松井研究室各位、看護学生時代から今へと連なる多くの友人達をはじめ、関係する全ての方へ、感謝申し上げる。
今回のエッセイ執筆を通し、改めて、2025年のICNフィンランド・ヘルシンキ大会、それも記念すべき節目となる第30回大会への参加を目指し、看護学生や若手看護職等との参加前からの交流を行いたく、その準備等へ関わることの希望を抱いた。
また、このエッセイは、一看護職の経験をまとめた歴史、さらに、次世代へ引き継いでいく際の「襷」として活用されることを願ってやまない。
閑話休題:今回のICN大会会場はモダンながらも、随所に遊び心を感じた。会場内に、こうしたブランコ形式の席が複数あり、それらに揺られながらランチや議論等、思い思いに過ごされている姿は印象的であった。
図60 会場内の一角(2023)
この場をお借りして、大切な友人へのメッセージを記したい。
過去のICN大会へともに参加し、切磋琢磨した友人のうちには、近況報告をはじめとして今後の相談すら、叶わない方もある。今年(2023年)7月の渡航時、機内の窓から満月直後の月に照らされた幻想的な空と雲を眼にしたとき、「その方は、このような綺麗な空を眺められるところにいるのだろうか。どうか、私たちを見守っていてほしい。」との思いが不意に浮かんできた。報告や相談は叶わずとも、在りし日のその方との交流を通じて志を同じくしていることは、今も変わらないと信じている。
図61 機内の窓から眼にした満月直後の月に照らされた幻想的な空と雲
参考ウェブサイト、文献
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