REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

フェミニズムとディスアビリティの交差点
  飯野由里子

2020年2月5日

フェミニズムとディスアビリティの交差点

第1回

 「ジェンダー論」の授業から

 大学でジェンダー論を教え始めてから早いもので14年が経つ。最初の頃は学生の反応を確かめるため、また自分自身の勉強のため、毎年テーマを変えていたが、10年ほどが経ったころから、私の中で「外せない定番テーマ」のようなものが固まってきた。このエッセイでは、それらのうち経済とも深く関わる「家庭内分業」を入り口に、フェミニズムの運動や理論がわたしたちの日常生活や日常実践に与えてきた影響、そして障害をめぐる問題との接点について考えてみたい。
 家庭内分業とは、家庭とそこで暮らす人びとの生活を維持するのに必要な責任と仕事を、家族の構成メンバーで配分することをいう。配分のあり方は、個々の家族の状況により多様でありうるし、むしろその方が「自然」に思える。にもかかわらず、そこには一定のパターンが見出せる。とりわけ経済の高度成長期においては、男性は世帯の家計維持に主たる責任を負い、女性は家事労働とケア労働に主たる責任を負うという性別分業(「ジェンダー化された」分業ともいう)が、強い規範として働いてきた。そしてこの規範は、その後の世代の生き方や考え方にも影響を与え、いまでも男女間の格差を生み出す要因のひとつであり続けている。おそらく、このことは、すでに多くの人が知っていることだろう。
 しかし、家庭内分業にアカデミアの目が向けられるようになったのは、それほど昔のことではなく、1970年代だといわれている。そこで大きな役割を果たしたのがマルクス主義フェミニストだ。彼女たちはマルクス主義理論を援用しつつ、女性によって家庭内で担われている労働を、男性が行う賃労働と同じような生産活動のひとつとしてとらえた上で、それが無償で行われていることを指摘した。
 実際この時期、「家事や育児も労働である」という考えのもと、イタリアではロッタ・フェミニスタが「家事労働に賃金を!」と訴える運動を展開している。彼女たちは、1971年に次のように述べている。

「はっきりと言おう。家の掃除、洗濯、アイロンがけ、裁縫、料理、子どもの世話、年寄りと病人の介護、これら女性によって今まで行われてきたすべての労働は、他と同様の労働であると。これらは男性によっても女性によっても等しく担われうるし、家庭というゲットーに結びつけられる必然性はない。」(山森(2007)から引用)

 ここで注目すべきは、家事労働が「家庭内で行われる必要はない」とされている点だ。この点に関連して、彼女たちは次のように主張する。

「私達の闘いの当面の目標は以下の通りである。(a) 家々の掃除すべては、やりたいと思う男女によって担われるべきである。そしてそれは地方自治体あるいは国によって支払われなくてはならない。… (b)男女とも洗濯とアイロンがけのできる、完全無料のランドリー・サービスがあるコミュニティ・センターを、すべての地域につくること」(山森(2007)から引用)

 「家事労働に賃金を!」というスローガンは、「主婦に賃金を!」という主張として受け取られることがある。しかし、先ほどの引用からは、ロッタ・フェミニスタの主張の核がそれとは別のところにあったことがわかる。むしろ、彼女たちは、たとえば無料のランドリー・サービスのあるコミュニティ・センターをつくるなどすることで、これまで家庭内で行われていた労働を、家庭の外に出すこと、つまり家事労働の「外部化」を求めていたのだ。
 現代社会では、家事代行サービスや託児サービス等、家事労働の一部は「外部化」されている。しかし、そこでの「外部化」は、多くの場合、利用者がサービスの提供者にお金を支払うことで成立している。この意味で、いま起きているのは家事労働の「市場化(有料化)」だといえる。他方、70年代のロッタ・フェミニスタは、家事労働の「外部化」にあたって必要なコスト(お金や人手)を国や地方自治体が支払う(したがって、サービスを無料で利用できる)という仕組みを構想していた。その根底には、私たちの生存と生活を維持するために必要なものは、個々の経済状況にかかわらず、誰にでもアクセス可能でなければならないという理念がある。ここに、フェミニズム運動と障害者の生存権を求めて闘ってきた障害者運動の接点を見出すとともに、その後この接点がどう深められたのか、あるいは、もし深められなかったのだとしたらそれはなぜなのかが問われなければならないだろう。

*このエッセイで書かれてあることは、山森亮の議論に多くを負っている。文中にリンクがあるサイトの他、山森亮「基本所得:多なる者たちの第二の要求によせて」(『現代思想』vol.31-2、青土社、2003)や『ベーシック・インカム入門−−無条件給付の基本所得を考える』(光文社新書、2009)からも私は多くを学ばせてもらった。その成果のひとつとして Proceeding of the forum “Disability and Economy: Creating a Society for All” (Akihiko Matsui eds., Disability Press, 2012) に掲載された拙稿 'Separating Income from Work: Lotta Feminista and Aoi Shiba no Kai' があるので、こちらも併せて読んでもらいたい。

2020年3月18日

フェミニズムとディスアビリティの交差点

第2回

家事労働と資本主義

 本エッセイの第1回では、1970年代にイタリアのロッタ・フェミニスタが始めた「家事労働に賃金を!」運動を紹介した。そして、家事労働の「外部化」を求める彼女たちの運動の根底に、生存権の保障という、障害者運動が長年にわたり要求してきた主張が読み取れることを指摘した。第2回では、「家事労働に賃金を!」運動の理論的支柱を提供したとされるマリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムスの議論(*1)を取り上げたい。
 女性の家事労働は「生産的」だ。ダラ・コスタとジェイムスは、こう主張する。確かに、家事労働は、私たちの生存や生活を支える重要な労働で、その意味で「有用」なものだ。多くの人はそう考えるだろう。だが、彼女たちは違う。むしろ、女性の家事労働は「剰余価値」(*2)を生み出すという意味で「生産的」だという。このように、マルクス主義の基本概念を用いることで、家事労働を議論した点に特徴がある。
 考えてみれば、市場労働(賃金労働)に参加している人びとが、日々の労働力を再生産するにあたり、さらには、将来の労働力を準備するにあたり、家事労働は欠かせない。つまり、家事労働は市場労働の必要条件であり、その意味で剰余価値の生産に寄与している。このように考えると、資本主義の歯車を回しているのは、労働者の労働力を再生産する家事労働だといえる。
 彼女たちはこう続ける。多くの女性は、家事労働を通してすでに生産的労働に参加している。むしろ、賃金労働に参加していて、かつ家事労働もしている女性は、資本主義によって二重に働かされている。それにもかかわらず、資本家は後者の労働に対する対価を支払っていない。それは「搾取」ではないか、と。
 家事労働に賃金を求めるという解決策は、こうした理論を背景に提案された。もちろん、この解決策に対しては、マルクス主義の立場をとるフェミニストからも批判がなされた。この点については、次回のエッセイで紹介したい。ただ、ダラ・コスタとジェイムスの議論は、それまで労働とみなされていなかった家事を、市場で行われる生産労働にとって必要な再生産労働を担うものとして捉えた上で、それが市場の中で無償の労働(アンペイドワーク)として不可視化されていることを指摘した点で重要だ。
 その後、無償労働を問題視する視点は、世界各国に広まっていった。たとえば、1995年9月の第4回世界女性会議(北京会議)で採択された「北京宣言及び行動綱領」には次のように記されている(*3)。

「女性の労働と、無償労働部門及び家事部門における寄与を含む、国民経済に対する彼らのあらゆる寄与を余すところなく認識し、明らかにするため、適切な統計的手段を考案し、女性の無償労働と女性の貧困発生率及び貧困への陥りやすさとの関係を調べること。」

 これを受け、日本でも1996年から無償労働の貨幣評価額が出されるようになり、2016年に関しては、無償労働全体の評価額が推計138.5兆円(GDP比率にすると25.7%)にのぼること、男性一人あたりの無償労働の評価額が年間50.8万円なのに対し、女性のそれは193.5万円と、男女間で大きな差があることが明らかになっている(*4)。
 北京宣言から25年が経とうとしている現在、「やりがい搾取」や「サービス残業」といったフレーズに象徴されるように、市場労働の中にある無償の労働については社会問題化され、その不当性が広く認識されるようになっている。その反面、家事労働はいまだ市場の外(あるいは、家庭の中)の問題だとされ、無償であることが当然視されていないだろうか。ダラ・コスタやジェイムスの思想は、家事労働に対し私たちが無自覚的に抱くこうした思い込みを相対化するきっかけを提供してくれるとともに以下のことに気づかせてくれる。家事労働に対し個々人が「感謝」するだけでは足りない。家事労働に与えられるべきは正当な「社会的」評価なのだ。

  1. Mariarosa Dalla Costa & Selma James. ‘The Power of Women and the Subversion of the Community’(1972)。この論文の解説は、伊田久美子(2010)「マリアローザ・ダラ・コスタ『女性の力と社会の変革』」(井上俊・伊藤公雄編『社会学ベーシックス:近代家族とジェンダー』世界思想社)にも掲載されている。その他、女性学・ジェンダー論の領域では、ダラ・コスタの論文集『家事労働に賃金を−−フェミニズムの新たな展望』(伊田久美子・伊藤公雄訳、インパクト出版会、1997年)も重要である。
  2. 労働者が、労働賃金以上の働きをすることで生じる価値のこと。マルクスによると、資本家の目的は、この剰余価値を最大化することにある。
  3. 「北京宣言」の全文は、男女共同参画局の以下のページで確認できる。 http://www.gender.go.jp/international/int_standard/int_4th_beijing/index.html
  4. 無償労働の貨幣評価額の詳細は、内閣府の以下のページで確認できる。 https://www.esri.cao.go.jp/jp/sna/sonota/satellite/roudou/contents/kajikatsudou_181213.html

2020年5月27日

フェミニズムとディスアビリティの交差点

第3回

 軽視される女性労働

 本エッセイの第2回では、「家事労働に賃金を!」運動の理論的支柱を提供したマリアローザ・ダラ・コスタとセルマ・ジェイムスの議論をもとに、彼女たちの目的が、資本主義下における家事労働の搾取を明らかにし、そうした搾取を止めることにあったことを述べた。しかし、彼女たちが主張した「家事労働に賃金を!」という戦略には、同じマルクス主義の立場をとるフェミニストから即座に批判がなされた。第3回では、これらの批判を取り上げる。
 第一の批判は、たとえ国家が家事労働に賃金を払うことにしたとしても、国家は自身の存続を脅かすような方法はとらないはずなので、社会変革(女性解放)にはつながらない、という点に関わっている。マルクス主義フェミニストたちの中には次のように考える者がいた(*1)。もし、家事労働に賃金を支払うことになったら、国はおそらく既婚男性の所得に特別税を課し、集めた税金を既婚女性に分配するという方法をとるだろう。しかし、その際、ものすごく重い税金をかけるとは考えにくい。このため、既婚女性に分配される賃金は、家事労働に対する正当な対価として十分なものではなく、むしろ、彼女たちの家庭内での地位をほんの少し高める程度にとどまってしまう可能性の方が高い。これでは、社会変革(女性解放)にはつながらない。
 もちろん、国がすべての人に、つまり既婚女性が家事労働を提供する世帯に暮らしていない人も含むすべての人に税金を課せば、家事労働を担う既婚女性に対し、正当な対価を支払うことが可能になるかもしれない。しかし、こうした方法をとった場合、片働き世帯よりも平均的な所得がすでに低い単身者や共働き世帯に過度の負担をかけることになり、「片働き(夫が市場労働を担い、妻は家事労働を担う)の方が得」ということになってしまう。そうなると、女性の専業主婦化を促進してしまうことになり、やはり社会変革(女性解放)にはつながらない。
 ここからもわかるように、マルクス主義フェミニストたちは、家事労働への賃金が、すでにジェンダー化されている家庭内分業をより一層固定化させ、女性がさまざまな機会から遠ざけられたまま、家の中で孤立する状況を招いてしまうのではないか、と危惧した。つまり、「家事労働に賃金!」という戦略は、ジェンダー分業の変革というマルクス主義フェミニストの目標にとって有効でないばかりか、有害なものとして映ってしまったのだ。
 第二の批判は、ダラ・コスタやジェイムスの議論が、女性の間に存在する階級差を十分にふまえていない、という点に関わっている(*2)。女性は特定の階級(たとえば「主婦」や「既婚女性」という階級)を構成しているのではなく、実際にはあらゆる階級に存在している。たとえすべての女性が「女性」として抑圧されているのだとしても、そのことは、すべての女性が同じように(同程度に)抑圧されていることを意味しない。実際、労働者階級の女性の抑圧のされ方と、中・上流階級の女性の抑圧のされ方の間には大きな違いがある。労働者階級の女性は、賃金労働においてひどい搾取を受けるだけでなく、家事労働でも搾取されている。中絶や避妊、保育サービスにアクセスしにくいという点で、また、職場や街で性的被害・性的暴力を経験しやすいという点で、中・上流階級の女性以上に、性差別に苦しんでいたりする。つまり、第二の批判のポイントは、ダラ・コスタやジェイムスの議論が、こうした違いをふまえたものになっていない、という点にある。
 また、この点と関連し、彼女たちの議論は、家事労働が資本主義の利益に資すること、またそれを担う「主婦」の存在に焦点をあてるあまり、資本主義が家事労働同様に必要としている労働力としての「女性」の存在を軽視している、という批判もある。資本主義は、男性の労働力と同程度の対価を支払わなくても済む女性の安価な労働力をつねに必要とし、またあてにしてきた。この点をふまえると、以下のような可能性が指摘できる。実は、資本主義のもと、正当な社会的評価が与えられてこなかったのは家事労働だけではない。市場であれ家庭であれ、女性が行う労働に対して、資本主義は非常に低い評価しか与えてこなかったのだ。もしそうだとしたら、女性たちは、家事労働に対してだけでなく、女性労働に対して正当な賃金が支払われるよう要求していかなければならない。こうした気づきから登場してきたのが、コンパラブルワース(comparable worth)の考え方(日本では「同一価値労働同一賃金」という表現で知られる)だ。
 さて、以上のような批判に対してダラ・コスタは、もし家事労働に対して正当な社会的評価が与えられたならば、女性が市場で担っている労働の評価も高くなり、おのずと賃金も上がるはずだ、と考えていた。もちろん、現代の視点から見ると、これはやや楽観的に過ぎる。だが、家事労働に必要なスキルが低く評価されていること自体に問題を見出す発想は、1980年代に、女性労働の「デバリュエーション(devaluation)」として知られるようになった問題へとつながっている。次回以降のエッセイでは、この問題を入り口にしつつ、ケア労働をフェミニズムの視点からだけでなくディスアビリティの視点から捉え直していきたい。

2020年8月5日

フェミニズムとディスアビリティの交差点

第4回

ディスアビリティの視点と交差させる

 第3回のエッセイの最後で、女性労働の「デバリュエーション(devaluation)」理論にふれた。これは、男女間の賃金格差が生じる原因を探る中で出てきた考え方で、女性労働の価値が引き下げられる要因を次のように分析する。公私二元論のもと、市場で支配的な位置にいるのはこれまでも、そして現在においても男性(実際には、特定の男性集団)で、彼らは自身の優位性を維持する方向で市場のルールを設定したり書き換えたりできる特権をもつ。このため、より多くの女性が市場活動に参加するようになったとはいえ、市場のルールは女性に対して不利に働きやすい。また、他者のケアを含む家事労働に低い社会的価値しか与えられてこなかったことも相まって、女性が行う労働は、とりわけそれが家事労働に近い要素を持っていればいるほど、市場において低く価値づけられてしまう(*1)。
 したがって、女性労働の価値を適正なものにしていくためには、市場のルールを多様な参加者の存在をふまえた、より公平なものへと変更するとともに、女性が携わってきた労働(家事労働を含む)の価値が社会において適切に認識される必要がある。このように整理すると、ダラ・コスタらによって主張された「家事労働に賃金を!」運動の狙いは、後者に狙いを定めることで、女性労働の価値を、家庭内と市場の両方で高めていこうとしたものだったといえる。第3回のエッセイで記したように、ダラ・コスタの議論は、当時のマルクス主義フェミニストから批判された。しかし、両者の目的はいずれも、家庭内で働こうが市場で働こうが、両方の場で働こうが、資本主義社会のもと、女性が不利な位置に置かれやすくなっている構造を変えていこうという点にあったのだ。
 さて、ここまでダラ・コスタらを擁護する形で議論を進めてきた。だが、ディスアビリティ(障害)の視点を加えると、彼女たちの議論の前提に憂慮すべき危険があることが見えてくる。このエッセイの後半では、主に2点を指摘したい。
 ひとつは、労働力を再生産しない家事労働をどう位置づけるのかという点に関わる。ダラ・コスタとジェイムスの議論は、女性の家事労働が、現在と将来の労働力を生み出すという点で、資本主義にとって不可欠なものだという前提に立っていた(第2回のエッセイを参照)。しかし、家事労働の中でもとりわけケアに関わる労働には、高齢者や病者の介護、障害者の介助など、資本主義が必要とする労働者になることが期待されていない人たちへのケアも含まれる。こうした人たちに対して行うケアは、先の議論のロジックに沿って考えると、労働力を再生産するものではないので「労働」ではなく、したがって対価を支払わなくてもよい、ということになってしまう。このように、ダラ・コスタとジェイムスのロジックのみに依拠して女性労働の価値を高めていこうとすると、資本主義にとってどの程度有用性があるのかを軸に、女性労働の内部に新たな階層秩序が作り出されかねない。さらに危険なことに、そうした階層秩序は、能力主義や優生思想と結びつくことで、特定の人びとの生存を著しく困難にしたり、彼ら/彼女らの存在を否定する傾向に手を貸してしまうことがある。
 ダラ・コスタらの議論に対するもうひとつの違和感は、家事労働(とりわけケア労働)の負担をめぐる議論の仕方に関わる。「家事労働に賃金を!」運動は、女性たちが家庭内での無償労働と市場での低賃金労働によって大きな負担を抱えていること、それにより資本家が利益を得る一方で、女性たちが不利な位置に置かれていることを問題にした。この問題提起の重要性が過小評価されるべきではない。だが、家事労働やケア労働の負担をめぐる議論では、労働を担う側の負担にばかり焦点があてられ、それら労働を直接受けとる側が経験している負担が不可視化されがちだ。その結果、負担をめぐる議論は、他者によるケアなしでは生活・生存の維持が著しく困難な人たちの存在を欠いたままなされる傾向にある。
 ケアする側である女性がそうであるのと同様、ケアされる側も既存の社会構造や社会規範によって不安定かつ脆弱な位置に置かれ、さまざまな負担を抱え、我慢させられている。しかも、ケアされる側は、ケアする側との関係を容易に退出できないという点で、より不利な位置に置かれやすい。この点をふまえると、ケア労働を担う人たちの負担をどう減らすかという課題は、その労働を通して提供されるケアの量や質をどう担保するかという課題とあわせて議論されなければならない。後者の視点を欠いた議論は、誰かの生存の不安定性・脆弱性を加速させる可能性があるのだ。その暴力性に意識を向けること。それは、社会保障制度改革のもと緊縮削減政策が進められている昨今において(*2)、これまで以上に重要なものになってきている。

  1. 女性労働の「デバリュエーション(devaluation)」については、以下の文献を参照してほしい。Reskin, Barbara F. ‘Bringing the men back in: Sex differentiation and the devaluation of women's work,’ Gender & Society, Vol. 2, No. 1, 1988, pp. 58-81.
  2. 生存権に関しては、現在、2013〜15年の生活保護費の引き下げをめぐり、全国で訴訟が起きている。障害の領域でも、2005年10月に成立した障害者自立支援法に対して2008年10月になされた全国一斉提訴において、生存権が主張された。詳細は、障害者自立支援法違憲訴訟弁護団編『障害者自立支援法違憲訴訟−−立ち上がった当事者たち』(生活書院、2011年)等を参照してほしい。

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