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3月8日土曜日、立川市の国文学研究資料館大会議室で「言葉にできない空気をぶっとばせ!」というシンポジウムが開催された。加島正浩著『終わっていない、逃れられない<当事者たち>の震災俳句と短歌を読む』(文学通信)の出版記念シンポジウムで、登壇者は歴史学者の西村慎太郎、美術家の金原寿浩、社会学者の石川洋行、文学研究者の加島正浩の各氏と私、三原由起子の5名によるもので、当日は会場参加者のほか、YouTubeライブ配信での参加者も受け付けた。
復興と言われてしまえば本当の心を言葉にできない空気/三原由起子『土地に呼ばれる』
今回のシンポジウムのテーマを考えたときに、この自作の一首が思い浮かんだ。「復興」と言えば何でもアリの風潮に、福島では本当の心を言葉にできない空気になっていると感じているからだ。私自身、一時はふるさとから目を背け、心が離れていきそうになったこともあった。今もなお「復興」という言葉が免罪符のように使われていると思う。その中で、「復興」の名のもとに原発事故がなかったことにされて、美化されていく空気感を打ち破りたい気持ちが蠢いていたのだった。
私は加島氏の著書の中で取り上げられていた浪江町の歌人・東海正史氏と大熊町の歌人・佐藤祐禎氏の作品を中心に「地元の先輩・東海正史氏と佐藤祐禎氏の短歌から学ぶこと」というタイトルで発表をした。
東海正史第三歌集『原発稼働の陰に』(2004年・短歌新聞社)、佐藤祐禎第一歌集『青白き光』(2004年・短歌新聞社)には二つの共通点がある。一つ目は老舗の短歌専門出版社だった短歌新聞社(現在は閉業)の出版物であるということ、二つ目はどちらも2004年に出版された歌集であるということ。そこで私が注目したのは2004年という時期である。私は、2004年の前に何か大きな事件があったのではないかと想像した。歌集を出版するにあたっては、ほとんどが自費出版なので、私財を擲っても訴えたいと思えるくらいの出来事があったのではないかと思ったからである。(私自身、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故後の2013年に第一歌集『ふるさとは赤』を出版した。)
すると、2002年に「東京電力の原発トラブル隠しが発覚」という出来事にたどり着いた。「東電、原発トラブル隠す 80〜90年代に29件、点検記録に虚偽」(2002年8月30日「朝日新聞」朝刊)という記事があった。この原発トラブルに対する「危機感」が二人の歌人の心を歌集出版へと動かしたのではないか。と、私は推測したのだ。
次回、東海正史氏と佐藤祐禎氏の作品やあとがきを歌集から紹介したいと思う。2011年東京電力福島第一原発事故以前に、私の地元の先輩歌人はどのように原発と向き合ってきたのか。少しでも多くの方々にお伝えできればと思う。ひとつ、書いておきたいことは決して、反原発運動としてのスローガンではない。その土地で暮らす生活者としての「心」を詠んだものである。
1994年の5月、北九州市立穴生公民館の一室で、1つの教室が始まった。その名は「青春学校」、在日コリアンのハルモニたちが日本語のよみかきを学ぶ場だ。ハルモニとは、「おばあさん」という意味の韓国語である。「青春学校」という名は「私には青春がなかった」「学校に行きたかった」と言うあるハルモニのことばから「青春を取り戻す学校」という意味で名付けられた。
木曜の夜7時になると、公民館には在日コリアンの女性たちが集ってくる。在日一世のハルモニには、自分の名前すら書けない人が多く、日本で生まれた二世は、小学校に入学しても貧しさや家庭の事情で卒業できなかったという人がほとんどだった。
私は開校時から、有志とともに青春学校の運営に携わり、この間に数十人のハルモニたちと同じ時を過ごしてきた。以下、ハルモニたちとのエピソードを自分の体験も含めて紹介したい。
〇李さん、当時80代
「わたしは八十すぎて がっこうにくるとは おもいもしませんでした。ここにきて いっしょに べんきょうすることは ゆめみたいです。ほんとうに たのしみです。ながいきしたかいが ありました」(※)
これは、在日一世である李さんの作文だ。植民地下の朝鮮半島で生まれた李さんは、韓国から出稼ぎに来ていた夫との結婚を機に渡日し、8人の子どもを産み育てた。子どもたちは皆、日本の学校を卒業している。
全くの非識字者が多い一世のハルモニの中で、当時80代の女性にはめずらしく、李さんは韓国語のよみかきが堪能だった。しかし、日本語のよみかきは、ほとんどできなかった。会話はできるが、「韓国語なまり」と言おうか、すこし話をすると日本人ではないことが分かる。
ある日、李さんの家を訪ねた時のことだ。李さんがこう言った。「このあいだ娘から言われたんよ。かあさん、私の働く店には絶対に来んでねって」。李さんは、娘さんがパートで働いている店へ買い物に行こうと思ったらしいが、来ないでと言われて寂しかったと言う。娘さんは、韓国人であることを周囲に隠して仕事をしている。李さんが母親だとわかると、韓国人であることが周囲に知られてしまう。李さんの娘さんは、それを嫌がっていたのだ。
60年ちかく日本で生活している李さんだが、大人になって覚えた日本語の発音は容易ではない。一方、日本で生まれた在日二世の娘さんは、自分から韓国人だと言わない限り、周囲の人は彼女を日本人だと思うだろう。彼女が韓国人であることを隠すことはたやすいことなのだ。
1923年の関東大震災時に、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語により、多くの朝鮮人が自警団から殺された。震災後の混乱時に、外見は日本人とほぼ変わらない朝鮮人を見分ける方法として「15円50銭」と言わせて識別した話は有名だ。一世の朝鮮人は15円50銭を、「ちゅうこえん、こちゅっせん」と発語する。なぜなら、朝鮮語の語頭には濁音がないからだ。
李さんから娘さんの話を聞いたとき、私はすでに亡くなった自分の祖母(ハルモニ)のことを思い出していた。私には李さんの娘さんの気持ちが痛いほど分かる。なぜなら、私もかつて、同じようなことばを私の祖母に言っていたからだ。
学生時代の私は、自分が在日コリアンであることを周囲に隠していた。「朝鮮人」だといって差別を受けることを恐れたからだ。
私の祖母は近くの街に住んでいたが、外出する時には、よそ行きのチマチョゴリを着ることがあった。髪を結って、チマチョゴリを着て歩く姿は、まさに朝鮮の女性であった。50年近く日本で暮らしていても日本語は片言しか話せない。そのような祖母の来訪は私にとって、ちょっとした恐怖だった。友人が家に来たとき、私は祖母に「出てこないでね」と言った。人目が無いときは大好きな祖母だが、日本人の目を気にしたときは嫌いな存在に変わる。韓国なまりの祖母(ハルモニ)のことばを、当時の私はどれほど疎ましく思ったことか。孫に冷たくされて寂しそうな祖母の顔を、私は今も覚えている。
在日三世の私は、日本社会に漂う朝鮮人に対する偏見を空気のように吸い込んで育った。私が在日コリアンとしての自尊感情を持つことができたのは、青春学校で学ぶハルモニたちのことばから、彼女たちの人生にふれ、在日コリアンの歴史を学んだからだ。ハルモニたちは、なぜ日本に来たのか。植民地下の朝鮮、そして終のすみかとなるであろう日本で、どのようにして生きてきたのか。
文字もことばも分からない国で必死に子どもを育ててきたハルモニたち。異国での生活は並大抵の事ではない。命がけで家族を守り、差別のなかで歯を食いしばって生きてきた。
ハルモニたちの歴史を知れば知るほど、そこには尊敬と感謝しか生まれてこなかった。過去の自分を思うとき、無知であることがいかに不幸なことかを思い知らされた。そして、亡くなった祖母に対する自分の行動を私は心から詫びた。
青春学校で学ぶハルモニたちのことばは、時折私の胸をかきむしった。ハルモニたちのことばの裏から、社会の矛盾や差別の現実、さらには在日としての自分の立ち位置を思い知らされるからだ。「なぜ、ハルモニたちは学べなかったのか」そして、「なぜ、私は自分の祖母を疎ましく思ったのか、その原因はいったい何なのか」さらに「自分はいったい何者なのか」・・・。
ハルモニたちの多くは、すでに鬼籍に入った。彼女たちから多くを学んだ私にできる恩返しは、ハルモニたちのことを伝えつづけることなのかもしれない。
(続)
現在、自主夜間中学 穴生中学校夜間学級スタッフ
(公社)福岡県人権研究所特命研究員
北九州市立大学非常勤講師
自主夜間中学校「青春学校」「穴生・中学校夜間学級」の開設、運営に関わる。
北九州市在住の在日コリアン三世
著書『多文化共生のまちづくり』(共著)他
iPad片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤 /三原由起子『ふるさとは赤』
私の実家は福島県双葉郡浪江町の新町通り商店街にあった、おもちゃ屋と自転車屋だった。「だった」というのは、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により、閉店を余儀なくされたからだ。うちのお店は曾祖父母の代から商いをしており、たくさんのプラモデルやラジコン、Nゲージなども売られていて、いわゆるマニア受けするお店だった。母屋よりも、祖父母や父母が店番をするお店の中で過ごすことが長かった私は、人見知りすることなく、幅広い世代の人と話すのが楽しみだった。今思えば、原発関係で働いていたと思われる外国人が時々、お客さんとしてお店にやってきた。そんなときはなぜかうれしくなって、ドキドキして、その国の言語を話せないのに話したいという気持ちでいっぱいになった。父に簡単な英語を教えてもらって、緊張しながら話しかけたことを今でもおぼえている。そんな私の性格は45歳になった今も変わらないままだ。
2018年10月29日、私は日本語教師養成講座を受講するために、新宿のとあるスクールに入学をした。と、いうのも、2015年秋に夫が大病にかかり、私の生活はあまりにも夫に依存しすぎていたことを思い知らされたため、何か自身で資格のようなものを持っていないとこれから先の人生は生きていけないのではないか。と、いう危機感を強くおぼえたからだ。その時、頭に一番先に浮かんだのが日本語教師だった。「外国語は苦手だけど、外国人とコミュニケーションをとるのが好き」というシンプルかつ浅はかな理由だった。初めの授業で自己紹介をしたときは「授業は休まず出席して、とにかく養成講座の修了資格を取れればいいです」というような挨拶をし、担当の先生に苦笑いされた。他の方々が高い目標を掲げている中で、あまりの志の低さに呆れていたと思う。
私は夫と小さな出版社を営んでいる。日々の仕事もこなさなくてはならないのだが、夫の理解を得て、通学することになった。基本的には午前中に通学し、午後は会社で仕事をするという日々が約一年二ヶ月続くことになった。
新宿に通学するようになって、さまざまな言語が飛び交っていることを目の当たりにした。今までは通り抜けていった外国語が耳に入ってくるようになったのだろう。なんだか自分が少し成長したような気持ちになって、うれしかった。
さまざまな言語飛び交う新宿を歩けば口元やさしくなりぬ /三原由起子『土地に呼ばれる』
また、日々の授業で学んでいくうちに「母語」「母語話者」という言葉に強くひかれた。私の視野が狭かったことを思い知らされたからだ。人種や民族、国籍などが違っても、生まれ育った国や地域の言語を話すということが、私の中で抜け落ちていた部分だったのだ。よく考えればわかることだが、日本で生まれ育ち、日本でしか生活をしたことがない私にとって想像しにくいことだったと思う。
母語という言葉は母性を呼び起こすほどに大きくやさしき言葉
奪いたる母語思うときかなしみを問い続けるべし日本語教育
民族や国籍越えて母語話者と呼ぶ言葉は国境を越えてきたから /三原由起子『土地に呼ばれる』
そして、私自身も刺激を受けて、頻繁に台湾や韓国を訪れるようになった。訪れるたびに、現地の人々に親切にしてもらい、私も日本で同じように外国人に恩返しがしたいと思うようになった。日本で困っている外国人がいたら、(話せないけど)積極的にコミュニケーションをとりたいと強く思ったのだ。
きみがわたしかもしれないから道迷う人に声かけることを恐れず /三原由起子『土地に呼ばれる』
私が日本語教師養成講座を修了したのは、2020年1月の終りだった。そう、あの新型コロナウイルスが世界で流行り始めた頃である。修了した勢いで経験を積みたいと思い、日本語学校の説明会にも参加していたのだが、その後の世の中の空気感で、タイミングをすっかり逃してしまった。それからあっという間に5年が経ち、その間に日本語教師は国家資格となってしまった。
新しい私になりたい朝に見る「NEWoMan」(ニューマン)の文字ただ白くあり /三原由起子『土地に呼ばれる』
僕は話をするのは苦手だけど、話を聞くのは好きだ。映画やテレビのディレクターをしていて、主にドキュメンタリーを作っている。撮影をしながら、いろんな土地に行きたくさんの人の声に耳を傾けてきた。言葉には人間そのものが映り込むから面白い。先日テレビ番組の取材で、能登半島の山里で70年間ずっと畑を耕してきたばあちゃんと出会った。ばあちゃんは里芋の皮を剥きながら、長細い変わった形の里芋を見つけ「人間って私は思うに誰一人みんな一緒やない。同じものが顔についとるだけでね。不思議やと思っておるわ。」と語った。素敵な言葉だと思った。他の人が同じようなことを言っても心には響かなかったかもしれない。ばあちゃんの人生から滲み出た言葉だから感動したのだ。もう少し正確にいうと言葉ではなく、ばあちゃんという人間に感動していたのだと思う。
自分自身はどうかというと、なかなか能登のばあちゃんのように自分の言葉で話すことがなかなかできない。映画の上映後の舞台挨拶のときなど、無理をして何か良いことを言おうと話し始め、自分の気持ちよりも“言葉”が先に走ってしまい後悔することがよくある。お客さんに自分の薄っぺらさがバレてしまったようで、すごく恥ずかしい。だから最近は上手く話すことを諦めた。お客さんには申し訳ないが、何を話していいかわからないときは黙ってしまう。消極的に聞こえるかもしれないけれど、その方が言葉が自分から離れていかない気がする。たぶん僕は“言葉”を怖がっている。
ドキュメンタリーの作り方は色々あると思うけれど、インタビューを含め言葉に頼っている部分は大きいと思う。物語には言葉が付いてまわる。言葉は強いし便利だし、伝わりやすい。だけどわかりやすくなり過ぎてしまうのは、いやだ。映画を観ている人が考えたり感じたりする余白がなくなってしまう気がする。個人的にはちょっとわからないくらいの方が面白いし、ちょうどいいと思う。そういう意味で音楽はいい。羨ましい。意味がわからなくても感動する。だからなるべく言葉に頼らず、物語に頼らず、音楽のように映画を作りたいと常々思っているのだけど、なかなか難しい。生きているうちに1本くらいそんな映画が作れたらうれしいです。
映画監督/テレビディレクター。東京都町田市出身。
NHK『新日本風土記』『映像記録 東京
2020 パラリンピック』やBS日テレ『小さな村の物語
イタリア』などのドキュメンタリー番組を制作。2016年頃からアール・ブリュット作家の映像記録を始め、NHKEテレの『ETV特集
人知れず表現し続ける者たち』を制作。現在はEテレで毎週日曜の朝8:55に放送している5分間のアート番組『no
art, no life』を制作している。
2024年4月に映画 初監督作品『日日芸術』公開。同年7月には2作目となる映画『かいじゅう』が公開。全国の映画館にて順次上映中。
2023年夏、大学院で16年世話になった指導教員(1)が急逝し、運悪く助手のポジションにいたため、「偲ぶ会」の企画運営でずいぶん搾取された。会が終わったあとは不明熱と全身の痛みで9日寝込み、総括を求めて気まずい年度末を過ごし、いつのまにか2024年の春になっていた。あの10月7日はそうした気の休まらない日常の中で起こり、人の死に関わるニュースを受け止める余裕があるとは思えなかったので、写真や映像から意識的に目を逸らして過ごしていた。
パレスチナの話だ。
助手の任期が終わり非常勤暮らしに戻った私は、大きな不調の波が戻ってこないよう慎重に低空飛行を続けながら、やっとガザ攻撃の情報にアクセスし始めた。2012年の空爆と2014年の紛争のときは、街頭行動に参加した覚えがある。10月7日のハマスの攻撃はむろん行われない方がよかったし、1200人以上のイスラエル市民が死亡したことは大きな衝撃であった。だが、もし人命と人命とで釣り合いをとるという理屈が通用するならば、パレスチナではすでに4万人以上が軍事行動の犠牲となっており、桁が違う。もうひとつの決定的な違いは、戦火の中にいる市民がSNSで発信し、様々なアカウントにメッセージを送って助けを求めていることだ。検問所の封鎖や物資への攻撃によって、ガザへの国際支援はまったく行き届いていない。ブラウン大学の「戦争コストプロジェクト」から発表された論文によれば、餓死者は6万7000人超の可能性もあるという(2)。そのように、全土が戦争状態にある国から届く声を直接、リアルタイムで知ることができてしまうというのは、人類にとって初めての経験である。
メッセージは私のInstagramにも届いており、しかししばらくは開封をためらっていた。一度関わりを持ったからには中途半端なことはできないし、やりとりを始めた相手が亡くなれば大きなショックを受けるだろう。自分の生活が破綻しないラインを必ず守ることを誓い、そうした支援に取り組んでいる先達に詳細を尋ねてから、ようやく本文を読んだ。
私はガザのディーマ・ナイーム、23歳です。夫と子ども、親族と避難しています。私たちの家はイスラエル軍の攻撃によって破壊され、瓦礫になりました。どうか私たちを助けてください。嘘をついていない証拠に、写真やビデオを何でも送ります。(2024年5月20日)(3)
こうした場合まず必要になるのは本人確認で、憂鬱になるが自撮りやIDカードの写真、周囲の様子を送ってもらわねばならない。支援に携わる人たちが試行錯誤しながら方法を探し、今はGoogleマップの情報でガザにいることを確認することも多い(4)。また、寄付を集めるためのプラットフォーム(GoFundMeやchuffed)をすでに用意できている人も、そうでない人もいる。補償のない送金方法を選ばざるを得ないこともある以上、このプロセスを避けることはできない。あなたは本当にガザの人か、周りは本当に悲惨なことになっているのかと問うことは気が重いが、自己紹介動画を送るよう頼んだ。ほどなくして届いた動画には、自己紹介のほかに散乱した瓦礫とその中を行き来する人々、子どもたち、テント内の様子が映っていた。あなたのために寄付を集めます、と返信し、彼女とのやりとりが始まった。
生活に必要な何もかもが足りていません。清潔で安全な水も、まともな食べ物も。料理のためのガスもないので火をおこして調理しているし、子どものための服もない。この状況から救ってほしい。特に今いるラファは、この国で一番危険な場所なんです。(2024年5月28日)
いま、本当に泣きそうです。今日初めて、誰かが私たちのことを気遣ってくれているんだと感じることができたから。そして、私たち母親の声を聞いてくれる人がいると感じたから。この気持ちをどうやって表現したらいいかわからない。あなたたちは本当に、すべての愛と感謝、尊敬にふさわしい存在です。寄付してくれた9人に心から感謝しています。(2024年6月2日)
こちらから頻繁にメッセージを送ることはしていない。親しくなると万が一のときが辛いという気持ちも初めはあったが、何より、消耗しきっている23歳に余計な仕事を増やしたくなかった。彼女のメールはいつも抑制がきいていて、状況と年齢の割には驚くほど落ち着いている。しかし子どものことについてはそうもいかない。やりとりを始めたとき彼女の子どもは一歳半だったが、その頬の肉付きは、過去の写真より明らかに乏しくなっていた。
写真を送ります。この間、息子になにか果物を買ってあげてと言っていたでしょう。今日、バナナを買ってあげることができました! この小さいひとははしゃぎ疲れて、バナナを抱いたまま眠ってしまったんです。(…)
気がかりなのは、息子が「お母さんは意地悪をして僕においしいものを食べさせてくれないんだ」と思いはしないか、ということです。このあいだ息子が「お肉ってどんな味がするの?」と言うのを聞いて、胸がつぶれそうでした。あの子はまだ、この世界の素晴らしいものを何も知らないのに。そして、もしも知らないまま終わってしまったらと思うと、本当におそろしい。(2024年7月12日)
このときのメールは本当に堪えた。むろん戦闘の犠牲になるのは子どもだけではないが、現にあどけない子どもがバナナを手に眠っている様子を目にすると胸を衝かれた。運良く手に入る果物がバナナくらいで、それが1本7ドルということにも。このときの物価は牛乳1本が15ドル、コンビーフ1缶が13ドルといった具合だった。
ガザ市民の多くがそうであるように、彼女たち家族も複数回の移動を強いられている。イスラエル軍が移動を指示するのは、しばらく後にその地域を爆撃するためだ。移動の度にテントは傷むし、持ちきれない家財道具は置いていくほかない。新たに買おうとしても物資はどんどん品薄になり、価格も高騰していく。そうして路上に横たわって眠るしかない人たちがおり、そもそも病人や怪我人を抱えて移動を諦めたり、気力が尽きて殉教を覚悟したりという例もある。停戦の期待は裏切られたままパリ五輪が開幕し、彼女は次のような文章を投稿した。
栄誉なきオリンピック、
金メダルも観衆もゴール地点もない爆撃で飛びすさる子どもたちの幅跳び
選択の余地なき女たちのマラソン
海に投下された食料を探す男たちのバタフライ
唐突に体が四散することなく、
ひとつ余分に夜を生きられる勝者を見物する夜のレース一体これは、この世界はなに?
五輪憲章ではスポーツが「政治的中立」であることになっている。だが五輪休戦の決議は形骸化し、パレスチナの選手団も数えるほどしかいない。パリではオリンピックが、ガザでは空爆が。8月上旬にはハンユニスの学校がそれまでと異なる兵器で攻撃され、遺体が溶けて形を留めていないという投稿が広まった。個人を判別できないため、大人ならば70kg、子どもならば20kg前後の肉片を集めたビニール袋が遺族に手渡されたという。言葉を失う、と、これほどの惨状に対してどのような言葉も無意味だと、多くの人が繰り返し思わされただろう。停戦を求めるプラカードの群れ、署名に寄せられたメッセージ、メールやSNSでの抗議、それらは黙殺され、価値がないもののように思わされる。しかし、ガザの人々は休むことなく言葉を紡ぎ続けねばならない。自分たちの現状を世界に知らせるために、新たな寄付を募るために、Wi-Fiが繋がる時間や場所を探して。
そうして届けられる言葉は悲愴なものばかりではない。X(旧Twitter)上にはガザ市民への寄付を募る日本のアカウントが複数あり、工夫を凝らしてそれぞれの物語を伝えている。その中には、子どもたちのために学校を開きたいという希望もあれば、将来の仕事や学業の展望を語る声、地域で使うためのソーラーシステムや水道の計画もある。支援に携わる人の多くに共通しているであろう経験は、爆撃にさらされている相手から気遣われてしまうということだ。もっと送金してほしいという要望のかわりに、元気にしているか、無理をしないで、負担になりたいわけじゃない、プレッシャーを感じてほしくないんだ、と送ってくる。数日食べていないはずの、半袖の服しかないはずの、防水も防寒もないテントで眠っているはずの相手が選ぶ言葉の勁さに、私はしばしば打ちのめされることがある。
『星の王子さま』では、バラが王子さまにとって大切な存在になった理由を、きつねが説明してみせるくだりがある。内藤濯の訳では「あんたが、あんたのバラをとても大切に思っているのはね、そのバラのために、ひまつぶししたからだよ」というせりふになっているが、これは相手と共有した時間がどれだけ積み重なっているかということだ。交わした言葉にも明らかに同様の「効果」があり、知り合わずに済めばよかったガザのひとりひとりとの間にメッセージの量が増えるほど、その存在は重く濃くなっていく。
私たちはすでに痛みに慣れ、笑うことも忘れてしまった。この戦争は永遠に終わらない気がする。死ぬこと以外に道があるんだろうか? あるいは爆撃の炎がこの寒さを和らげ、別の人生へと運んでくれるのかもしれない。あらゆる苦しみの果てに、ついにバラバラの欠片になるのかもしれないし、このぼろ布のテントが最後の家になるのかもしれない。
言っていることが刺々しく聞こえたらごめんなさい。でも心の中はさらに殺伐としていて、どんな言葉でも言い表すことはできない。(2024年10月30日)
こうして国際社会が手をこまねいている間に、ガザは冷たい雨にさらされて2025年を迎えた。停戦交渉はパレスチナ側に留め置かれている人質の解放とイスラエル軍の駐留を巡って振り出しに戻るということを続けているが、現時点のニュースではアメリカのバイデン大統領退任までに区切りをつける見込みとも伝えられている。これ以上、この文章が続いていくことは望んでいない。
追記 :
文中で紹介しているのは、日本の一市民がガザの一市民に(寄付のプラットフォームを通じて、またはペイパルや暗号通貨、国際送金などのあらゆる手段で)集めた寄付を送金するという一切の持続性がない脆弱な方法で、本来は個人が手がけるべきものではない。現に体調を崩す支援者も複数見かける。そのため安易に参加を促すことはできないが、少しでも気にかかったら以下の情報にアクセスしてほしい。
クィア、トランスジェンダー。立命館大学先端総合学術研究科修了。
トランスジェンダーにまつわる制度や医療についての研究のほか、講演や研修も行う。単著に『誰かの理想を生きられはしない とり残された者のためのトランスジェンダー史』(青土社)、共著に『マイノリティだと思っていたらマジョリティだった件』(ヘウレーカ)、『10代に届けたい5つの“授業”』(大月書店)、『わたしたちの中絶 38の異なる経験』(明石書店)など。随時ご依頼をお待ちしています。mach50〈アットマーク〉zoho.com
最近私は人の助けなしでは生きていけない状況になった。いままでも多少はその傾向はあったものの、なんとかひとりで生きている実感はあった。
明らかに、生活弱者になってから私は一日何回「ありがとうございます」を口にするだろう。家から一歩出ると人々は私を優先してくれる。それは時にはありがたくもあり、ユウツで迷惑であったりもする。人々は優しさのひとつを私にくれる。私は「ありがとうございます」を当り前にお返しする。「ありがとう」の大安売りである。二束三文になってしまった「ありがとう」は私が今後生きていく上で忘れてはいけない言葉として刻み込まれた。
一方でこんな私になんの見返りも期待せず優しく協力をしてくれる人達がいる。「ありがとう」だけでは返しきれない程の誠意だ。でも私は「ありがとう」しか返す言葉を持っていない。なんともどかしいことか。感情を込めてとか笑顔でとかいう人もいる。そんなことは分っているし、やっているのである。二束三文の「ありがとう」にだって笑顔を忘れない。
「ありがとう」の最上級は「ありがとうございます」感謝の気持ちを伝える敬語表現だという。感謝の対象や「いつも」などの言葉を前につけることで、より相手に対する感謝の気持ちが伝わるというが、私にはまだ足りない。私に向けてくれた行為は言葉だけでは応える事ができないのだろうか。言葉の限界なのだろうか。見知らぬ人に言う「ありがとう」と区別したい。二束三文になってしまった「ありがとう」をどうにか、最高級にしたい。私が生きていく上で決して忘れてはいけない言葉のひとつとしての「ありがとう」を伝えたい。と思うが未だ見つからないもどかしさを抱えて生きている。
1960年生まれ。
生まれ育ちも宮城県
大好きだった夫は生まれも育ちも東京都。結婚と同時に仙台市の住民になりました。そんな夫も二年前に旅立ってしまいました。
趣味 食べること
私は脳性まひの障害者である。年齢は71。50歳のときの頸椎症で歩けなくなり、電動車いすを利用するようになったが、手足はそれなりに動かすことができている。この原稿も、最近、指の動きが悪くなり、キーボードの誤打がやたらと多くなったが、パソコンを使って自分で書いている。
現状では、障害の中で私が最も困難を感じているのは言語障害である。私の言語障害は脳性まひに伴う構音障害であるが、その厄介なところは、自分では正しく発音しているつもりであり、自分の耳には正しく聞こえていることである。子供のころには口からわからない発音の言葉を無意識に垂れ流しにしていた。初めてオープンリールのテープレコーダーで自分の声を聴いたときには、普通の発音よりもゆっくりで、メロディーが理解の助けになる歌以外では、言っていることがほとんどわからなかった。そのことをきっかけとして、自分の発音がおかしいということを意識するようになった。それでも、どこかに私の言葉を理解してくれる人はいるもので、小学校のクラスの中にも、教員や他の友達に通訳をしてくれた人が、幼いころから一緒に遊んでいた人を中心として何人かいた。それでも一番理解してくれていたのは母親であった。
中学生になると筆談を併用するようになったが、その中で私は心の交流ができるようにユーモアを最大限意識するようにしていた。そして、筆談を併用することは、高校、大学を経て、60歳で会社を定年退職するまで、店での買い物などの生活に不可欠な部分や趣味関係のグループでの活動なども含めて続いていた。ただ、話題が共通している人や商売関係の人には、筆談の必要はそれほどなかったように思う。書く文字については、それほど読みにくくはなかったと思っている。筆記具の持ち方は、一般人と異なっていた。単純に握っているように見えるらしいが、実際には、掌と指の間に筆記具を挟んで、細かい調整ができるようにしていた。仲の良かった従兄は、その持ち方で書いてみて、結構書きやすいと言ってくれていた。それでも、疲れやすく、きちんとした長文を書くことは苦手であった。JISキーボードのワープロには1983年ごろのかなり早い時期に飛びついた(シャープのWD-500)。使い勝手は、私のゆっくりの発音と、文字を打つことのできる速さがほぼ同じで、快適に感じられ、また推敲した長文がきちんと印字されることもありがたかった。
定年退職の少し前、私は虫歯を何本か抜いた。抜いた部分はインプラントにする腹積もりであったが、担当の歯科技工士から「インプラントは不具合が生じたときに根元から取り換えなければならなくなるので、やめたほうがいい」と言われた。その代わり、入れ歯を作ったが.つけているのが苦しく、外したままになってしまった。
そうなると、従来よりも格段に話がしにくくなり、発音も不明瞭になった。そこで、私は話をするために発音することをあきらめ、ほとんどを筆談によるコミュニケーションに頼ることにした。そのように割り切ってしまうと、緊張して発音するときの顔のゆがみがなくなり、表情が自然になり、また、精神的にも余裕ができ、筆談でのユーモアにも磨きがかかったように思う。そして、このことは、定年退職後の翻訳家・文筆家としてのカネにならない仕事にも大いに役立っていると思う。
3年前、私は、筋力の低下と痛みで、手すりさえ使えずに自宅の廊下に倒れ込み、2か月半入院した。便秘がひどく、体重も60キロ台から20キロ程度激減していたので、悪性疾患を覚悟したが、精密検査では内臓関係に異常はなかった。しかし、入院中のリハビリによっても筋力は回復せず、以前にできていたつかまり歩きができないことは同じであった。また、悪化した機能もあり、手を動かすときに痛みが伴うようになり、字が書きにくくなった。どうしたものかと思っていると、主治医が、おそらく言語療法士と相談して、「あいうえお」の文字盤を作ってくださった。はじめのうちは、漢字を交えることができないので、少し幼稚に感じられ、使うことに抵抗があったが、思ったことを即座に伝えることができるので、意外なほど実用性が高く、退院してからも、自宅を訪問していただいている医療関係者、介護者、そして耳の遠くなった96歳の母親とのコミュニケーションに便利に使っている。それでも将来的には、キーボードの誤打がもう少し少なくなれば、パソコンの画面の文字を特大にして、私からの一方的なチャットのような形式で、多少複雑なコミュニケーションのために使うことができるのではないかと思っている。
母親も含めて、電話が使えないことは、いろいろと不便ではあるが、すべてメールでの連絡対応をお願いしている。どうしても緊急で困ったときには、パソコンの読み上げソフトで何とかしたいと思っている。
近年、新型コロナへの感染を避けるために、私は外出を極端に減らしてきている。最近は少しずつ増やしているが、それでも、3年前の退院以来での外出は10回程度にとどまっている。また、コロナ以前には年何回か行っていた一泊程度の旅行は、身体的な状況という面からも、まだ難しいと思っている。
外出のとき、私はできるだけ介護者を付けないようにしている。電動車いすの操作は上手いつもりである。今のところ、ほとんどが金銭がらみの用事での外出なので、あまり内容を知られたくないということも理由に含まれるが、それ以上に大きな理由として、金融機関等の担当者が私ではなく、介護者のほうにまず声をかけがちなことがある。私としては、車いすに乗っている私の文字通り頭越しに話をされるので、あまり気持ちの良いものではない。相手としては、「ひょっとこ爺さん」に見える私に言語障害ばかりでなく、知的障害もあるのではないかという不安もあるのであろう。まあ、その後、私が、ペンを取り出して筆談を始め、初対面の印象とは異なる「立派な」顧客に変身することでの担当者の態度の変化を観察することも、私の密かで意地悪な楽しみであると言えないこともない。ただ、調子に乗って、わかってもらえることをうれしく思いすぎると、相手に悪意があった場合に詐欺などに引っかかる恐れがあるので、少しの用心は欠かせないと思っている。結局のところ、脳性まひという障害は、容姿、風貌、見かけによる異質性が大きな部分を占めていると私は思っている。このことに関連して、私は興味深い体験をしたことがある。ある障害者福祉関係の集会で視覚障害の人と初対面であったにもかかわらず、全く普通の形で完璧なコミュニケーションができたことである。私としては、筆談ができないので、そのとき言葉を発したのはあきらめ半分で、アセトーゼ型脳性まひ特有の緊張が少なかったこともあるが、それ以上に、相手の人が私の容姿、風貌を知ることがなく、また視覚障害ゆえの研ぎ澄まされた聴覚を有していたということが理由であろうと思っている。
一九五三年二月生。都立武蔵丘高等学校から一浪後、早稲田大学政治経済学部経済学科入学・卒業。金融機関の在宅嘱託として三十四年間実務系の翻訳に携わる。退職後、フリー研究者(バリアフリー旅行、障害学)。翻訳家。
→エッセイ ひょっとこ爺さん徒然の記
交通事故に遭った。
左脳の陥没骨折、失語症との診断である。
〝ことば〟の障害――話せないだけではない。聴覚理解や読み書き能力も失われた。
失語症の完全治癒は困難という。
この先どうなる?知る由もない大学3年時の別れ道。
言語聴覚士による言語リハビリが始まり、これでは困ると必死に取り組んだ日々。
大学に復学すると「ことば」への強烈な現実を科せられた。
講義も専門書も解らない。会話が成り立たず、友人との輪にも加われなかった。
孤立した感覚、惨めだった。
卒後の就活は惨敗続き。
〝何を試みてもダメ〟と自己嫌悪に陥るばかり。
東京での一人暮らし――誰とも会いたくない。
扉を叩く訪問者には、立ち去るまでジッと潜む。
電話には出ず、通院以外は部屋に閉じこもった。
適当に本を読み、音楽を聴き、勉強のまね事をするなど、ごまかすように時間を潰した
「ダメ人間!」と自己否定するばかりで、解決のメドはつきそうもなかった。
“無能さ”に悲痛な思いを抱きながら、“恥辱”に苛まれていた。
身体の障害と違い,外見上失語症はわかりづらい。
ことばをうまく使えないのは恥であり、無能さを広めることとなる。
ならば黙っていた方がいい。その場を無言で切抜け、適当に相槌を打つ。
緩やかに引きこもっていった。
失語症から派生する辛さは様々。
伝えられない、受け取れない、楽しめない、思い切れないなど多岐にわたる。
一々挙げていたら際限がない。
失語症者の辛さは“閉ざされた心”そこに限る。
煩わしいからと、他人との関わりを全て拒否したら、心は閉ざされたままだ。
紆余曲折があり4年後、言語聴覚士として勤めはじめた。
収入を得て自活するようになり、経済的、社会的に多少落ち着けた。
だが、課せられ果たさねばならぬ任務に対しては、穏やかではなかった。
現に読解力は低下したままで、新聞記事は十分に内容把握できない。
専門書は自ずからお手上げ状態だった。
失語症当事者であることを、職場では公言しなかった。
障害は浸透されておらず、誤解を生みやすい。
黙っていた方が良い――その引いた思いから余計な制限が生じた。
仕事の電話連絡による不備、会議でのぎごちない答弁など、不適切な対応ばかり。
それまで以上に失われたことばに追い込まれるような日々――自己卑下に陥るばかり。
その場を取り繕いながら凌ぐのに精一杯。
仕事を十分にこなす満足度には至らなかった。
失語症者は好きで黙っているのではない。
伝えたいが言えない、心にあるものを出せないでいる苦しみであり、痛みでもある。
言いたいことは山ほどあるのだ。
それをじっくり聴いてもらうことは癒しであり、心的外傷の克服に繋がるのだろう。
勤めた病院は1年で辞め、大阪の大学研究室へ行くことにした。
仕事や人間関係など慌ただしい日々に、かなりストレスを感じていた。
表向きは「学ぶ」だが、心の休憩所を求めていた。
実際、学生生活に戻れたことで不安が減少し、学ぶ中で自信も生じていった。
学びながら失語症ケアにおいて、最も大切なのは何かを思い描いた。
病院を退院した後の生活期リハビリ――自らの経験からそこへ辿り着いた。
そして、その実践に適した山形県の病院に就職した。
当時山形県には十分なリハビリテーション施設が少なかった。
リハビリスタッフも少なく、特に言語聴覚士は目新しい職種だった。
脳卒中多発地域であり、「ことば」で悩む患者も多い。
未知の土地での生活に不安を抱いていたが、職場は家族的な雰囲気。
県外から来た私をすぐに包んでくれた。
仕事上うまくいかない時も、失敗をなじらず、成功だけを認めてくれた。
初体験のスキーは毎晩のようにナイターに誘われ、何とか滑れるようになった。
山歩きの会にも誘われ、県内外の名峰に連れていってもらった。
海釣りの体験では、釣りあげたばかりの魚を刺身で頂くこともできた。
おいしい食べ物と旨い酒、庄内弁に囲まれ、楽しい時間を過ごすことができた。
失った「ことば」のみならず、私は生きていく自信を取り戻すことができた。
心的外傷の核心は孤立と無力化という。
回復の基礎は他者とのつながりを取り戻し、自立性の感覚を新たに取り戻すこと。
新たな土地で心地よい仲間と巡り合い、臨んだ道を奔走できた。
私自身の失語症体験で感じ取れるのは、「ことば」だけでなく「こころ」の問題。
――心的外傷を如何に緩和していくかということ。
引き起こされるデメリットの中で、苦痛を感じるのは「誰にも解かってもらえない」という心ではなかろうか。
そして、その解決策は理解してくれる仲間の存在だろう。
「あなたは一人ではありませんよ」というメッセージは、新たな自身を見出す勇気となろう。
認めてくれる仲間の中で、多くの時間を過ごすことで、苦しみや悲しみ、そして絶望感は自然と解消されていくのではないか。
そんな仲間づくりを、「ことばをこえて」目指していけたらと考える。
山梨県出身。1983年大学在学中に交通事故に遭い、失語症になる。1985年 青山学院大学教育学科卒業。1988-1989年 大阪教育大学言語治療コースで学ぶ。1987-2002年山形、山梨のリハビリテーション病院に勤務。1999年第1回言語聴覚士国家試験に合格し、言語聴覚士免許取得。2002-現在 在宅言語聴覚士として訪問ケアを展開しながら、山梨市立牧丘病院、上條内科クリニック、デイサービスセンター「けやき横丁」、韮崎東ケ丘病院、県立育精福祉センター、障害者支援施設「そだち園」などに非常勤で勤務。NPO法人失語症デイ振興会理事、東山地区失語症友の会を事務局として主宰。
主な著書:
「失語症者、言語聴覚士になる」(雲母書房2003/12)
「失語症の在宅訪問ケア」(雲母書房2005/10)
「この道のりが楽しみ」《訪問》言語聴覚士の仕事(協同医書出版社2013/12)
一昨年の正月に姉がこの世を去った。七二歳であった。七二歳とは死んでもそう同情されないし、もちろん驚きもされない年である。それでいて、私は呆然とした。父が死んだあとも、母が死んだあとも一度も泣くことはなかったが、姉が死んだあとはしばらくは子供のように泣き止まなかった。
もし精神科医にかかったら何らかの病名を与えられていたのではないかと思われるほど姉は異様に依存心が強く、周りの人間は振り回された。妹の私も昔からさんざん振り回された。そんな迷惑な存在が突然消えてしまったのである。
文学とは自分の「気持を整理」するために書くものではない。だが私はそのとき文芸誌に連載していた小説を放り投げ、「気持を整理」するために姉について書きたかった――あんな姉を抱えていかに苦労したかと、姉の死を一応は悼みながらも、抑えていた思いをダラダラと記したかった。
そのころから私は折々、書庫の奥深く、大きなプラスティック製の箱にしまわれた昔の家族の手紙を引っ張り出して読むようになった。連載が終わり次第、姉について書こうと決めたが、自分の記憶に穴があるので、その穴埋めの手がかりにしようと軽く考えたのである。さらに小説家として残された命のこともあった。与えられた時間がいよいよ限られてきているうえに、体力精神力の限界も押し寄せてきている。姉が死のうと死ぬまいと、この先は虚構世界を描かず思い出話だけを綴ろうと前々から考えており、それらの手紙はいづれにせよいつかはざっと目を通すつもりであった。
ただ、きっちりと読むにはいかにせん量が多すぎた。
最初手にした束は父が沖縄に出稼ぎに行ったときに父と母が交わした手紙で私は生後半年。「美苗がエンコができるようになりました」。そんなつまらないことから始まって、二年半にわたって二人は手紙を書き合っている。そのあとしばらくして私達家族の外国生活が始まり、そのうちによく離ればなれに暮らすようになり、父をのぞいた女たち三人は頻繁に書き合うようになった。ことに母は書き魔であった。
全部で優に数千通はある。
「パンドラの箱」を開けてしまったのに気がついたのはしばらくしてからである。初めのうちは、適当に手紙を一通、二通と抜き出しあちこち斜め読みするつもりだったのが、いつのまにかとっぷりと日が暮れるまで一枚一枚丁寧に読んでしまっていた。何と自分は多くを忘れ、多くを都合良く曲解していたことか。姉の異様な依存心の強さは記憶していた以上に呆れ果てたものであった。ただ、自分の馬鹿さ加減もこれまた予想していた以上に瞠目に値するものであった。穴があったら入りたいと幾度も思った。自分は記憶力が良いほうだなどといったい何を根拠にうぬぼれていたのだろう。
姉について書きたいという気持はいまだに残っているが、今はこのような書簡の山を前に、姉が死んだとき以上に呆然としている。残された命で思い出話だけを書こうと考えていたこの後に及んで、新しい様相をまとった過去、いや、これぞ真実だと目の前に立ち上がった過去と向き合わねばならなくなった。これらの手紙を丁寧に読み、ノートを取り、年代順に整理していくとすると、いったい、この先、どれほどの時間と根気を要するか見当もつかない。もちろん、これらの手紙を無視して記憶だけを頼りに書くのは可能は可能だろうが、やはり思い出話となれば、なるべく真実に近づけたい。目の前にある手紙を無視して書くのは、何とも大げさな比喩だが、地動説を知りながら天動説を説くのとどこか似ているような気がするのである。
ただ、私にとって慰めが一つある。
小説家として保守的な私は、新しいことを試みるよりも、自分の作品が過去の「書き言葉」の伝統と繋がっているのを喜びとする。その「書き言葉」の伝統が今や亡びつつあるものであったら、なおさらである。自分が歴史の中の時間を生きているのを肌でひしひしと感じられるからである。
手紙とは今や亡びつつある「書き言葉」の伝統である。
人が誰かに向かって何かを「書き言葉」で伝えるという人間の営み――その昔ながらの営みは、いくら音声と動画が世に氾濫しようと、この先もいろいろな形で残り続けるであろう。だが、少なくともその営みが手紙という独特な形を取っていた時代は終わりを告げつつある。書き終えたばかりの手紙を片手に知らない町でうろうろとポストを探すことももうない。郵便配達が来る音に耳を澄ませることももうない。手紙が行き違ってしまって絶望することももうない。
手紙というものが当たり前だった時代を私は生きた。手紙というものが亡びつつある時代を私は今生きている。そういう時代の証人として、手紙という「書き言葉」を自分の作品の中で小説家とした果たして生かせるだろうか・・・・・・。
最近そういうことばかり考えている私は、いつのまにか姉の死を悼むところからずいぶんと遠く離れた場所に立っていた。
小説家。父親の仕事の関係で12歳で渡米。イェール大学および大学院で仏文学を専攻。
創作の傍らしばらくプリンストン大学やミシガン大学などで近代日本文学を教える。
著書に『續明暗』、『私小説 from left to right』、『本格小説』、『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』等。
近作『大使とその妻』を新潮社から9月に出版予定。
『ことばを伝える役割』は、私にとって、ときに楽しく、ときに複雑な感情を生起させるものだった。
わが家は、ろう者の父と、聴者の母、私、弟の4人家族だった。私や弟のような、きこえない親をもつきこえる子どものことをコーダ(CODA:Children of Deaf Adults)という。両親ともきこえない場合でも、私や弟のようにどちらか一方の親がきこえない場合でも、きこえる子どもは皆コーダと定義される。(親がろう者であるか、難聴者であるかにも関わらない。)
かつてのわが家では、父はまったく声を出さず手話のみで会話をしていた。母と弟は手話が不得手で、父との会話は、家族の間でしか通じないホームサインや身振り、筆談など、あらゆる視覚情報を用いて成立させていた(のちに母は手話を習得した)。私はといえば、家族の期待を一身に背負い、幼少期から手話を覚えた。そうはいっても、今振り返れば、幼い頃の私の手話など拙いものであったのだが。
このような、友達の家族とは一風変わったわが家の会話のやり方は、私が生まれたときからごく当たり前のように家庭の中に存在していた。
一方で、家から一歩外に出れば、そこには音声日本語のみの世界が広がっていた。母や弟よりも手話ができる私は、ときに父と外の世界との間に立ち、互いのことばを伝える役割を期待された。その役割は、一般に「通訳」と呼ばれることを、大人になってから自覚した。
コーダは、幼少期から、きこえない親のために通訳の役割を担うことがある。コーダ104人を対象にした実態調査(中津・廣田, 2020)では、コーダは平均6.48歳の幼少期から頻繁(平均4.52日/週)に親の通訳を担う現状が明らかになった。通訳を担う場面は、電話や来客、親戚の集まりや買い物などの日常会話場面にはじまり、病院での診療や銀行窓口でのやりとり、コーダ自身の学校関係(授業参観や三者面談など)など多岐にわたり、それらは個々のコーダによって大きな違いがあった。通訳の役割に対する気持ちも、当然と受け止めるコーダもいれば、肯定的に捉え、親や周囲の期待に応えることで自信を持つコーダや、面倒で疎ましく思い、葛藤が喚起されるコーダ…と実にさまざまだった。
私といえば、大好きな父の役に立てることが嬉しく、父を守ろうと率先して父と外の世界との仲介役を担った。けれどもその役割は、ときに私の心に影を落とすこともあった。今でも鮮明に思い出すのは、中学2年生のとき。母が危篤状態となり、深夜の病院に私と小学生の弟、きこえない父が並び、主治医から説明を受ける。「お母さんは予断を許さない状況です。確率は半々です。」私の左側には泣きじゃくる弟、右側には「何?何?」と私に尋ねる父。私は、動揺しながらも、主治医の説明を父に伝えた。その様子を見た主治医が、私にこう言った。「お母さんに万が一のことがあったら、小さい弟さんもいるのに、お父さんはきこえないなんて、あなた気の毒に。可哀想に。」
主治医のそのことばは、父に伝えなかった。通訳としては失格だったけれども。
今では、情報保障などの社会資源が整備され、テクノロジーも発展して、ろう者や難聴者を取り巻く環境は格段に進歩した。けれどもまだ、きこえない親が生活を営むうえでは、コーダが通訳の役目を果たさざるを得ない場面がどうしても発生する。幼いコーダのために、たとえば手話通訳者や要約筆記者の派遣制度は、もう少し柔軟な形で利用できるようになればいいと思うし、大きな病院には常に通訳者が配置されていればありがたい。通訳者の職域確立も、もっと進めばいい。そもそも周囲の大人は、きこえない親とぜひ直接、会話をしてみてもらいたい。きこえない親と外の世界とのコミュニケーションのすれ違いを、コーダと親の家族だけが必死に頑張って解消しょうとする世の中は、そろそろ終わりにしたい。
さて、私の話に戻るが、時が過ぎ両親は他界し、幼い頃から担ってきた、私の『ことばを伝える役割』は無くなった。幼い頃から父を守ろうと(勝手に)踏ん張ってきた私は、守る対象が無くなり、心にポッカリ穴が開いてしまった。今さら自分のために生きろと言われても、自分というものがよく分からない、どうしようもない“こじらせコーダ”だ。コーダが(無意識的にも)過度な心身の負担のもと通訳を担う経験は、心にいつまでも痛手を残すこともあると、身をもって知らされた。若いコーダには同じような思いはしてほしくないと、既に人生の折り返し地点を迎えた、こじらせコーダは思っている。
※このあたりのことは、書籍に詳しく記述した。
『コーダ きこえない親の通訳を担う子どもたち』中津真美 金子書房
こうして、かつての私が担った『ことばを伝える役割』は、嬉しい思い出や苦い思い出とともに、今も私の原体験として脳裏に刻まれている。
東京大学多様性包摂共創センター バリアフリー推進オフィス
特任助教。生涯発達科学博士。
障害のある学生・教職員への支援のほか、
全学構成員へのバリアフリーに関する理解促進のための業務に従事している。
ろう者の父と聴者の母をもつコーダであり、コーダの心理社会的発達研究にも取り組む。
J-CODA(コーダの会)所属。
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