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最近私は人の助けなしでは生きていけない状況になった。いままでも多少はその傾向はあったものの、なんとかひとりで生きている実感はあった。
明らかに、生活弱者になってから私は一日何回「ありがとうございます」を口にするだろう。家から一歩出ると人々は私を優先してくれる。それは時にはありがたくもあり、ユウツで迷惑であったりもする。人々は優しさのひとつを私にくれる。私は「ありがとうございます」を当り前にお返しする。「ありがとう」の大安売りである。二束三文になってしまった「ありがとう」は私が今後生きていく上で忘れてはいけない言葉として刻み込まれた。
一方でこんな私になんの見返りも期待せず優しく協力をしてくれる人達がいる。「ありがとう」だけでは返しきれない程の誠意だ。でも私は「ありがとう」しか返す言葉を持っていない。なんともどかしいことか。感情を込めてとか笑顔でとかいう人もいる。そんなことは分っているし、やっているのである。二束三文の「ありがとう」にだって笑顔を忘れない。
「ありがとう」の最上級は「ありがとうございます」感謝の気持ちを伝える敬語表現だという。感謝の対象や「いつも」などの言葉を前につけることで、より相手に対する感謝の気持ちが伝わるというが、私にはまだ足りない。私に向けてくれた行為は言葉だけでは応える事ができないのだろうか。言葉の限界なのだろうか。見知らぬ人に言う「ありがとう」と区別したい。二束三文になってしまった「ありがとう」をどうにか、最高級にしたい。私が生きていく上で決して忘れてはいけない言葉のひとつとしての「ありがとう」を伝えたい。と思うが未だ見つからないもどかしさを抱えて生きている。
1960年生まれ。
生まれ育ちも宮城県
大好きだった夫は生まれも育ちも東京都。結婚と同時に仙台市の住民になりました。そんな夫も二年前に旅立ってしまいました。
趣味 食べること
私は脳性まひの障害者である。年齢は71。50歳のときの頸椎症で歩けなくなり、電動車いすを利用するようになったが、手足はそれなりに動かすことができている。この原稿も、最近、指の動きが悪くなり、キーボードの誤打がやたらと多くなったが、パソコンを使って自分で書いている。
現状では、障害の中で私が最も困難を感じているのは言語障害である。私の言語障害は脳性まひに伴う構音障害であるが、その厄介なところは、自分では正しく発音しているつもりであり、自分の耳には正しく聞こえていることである。子供のころには口からわからない発音の言葉を無意識に垂れ流しにしていた。初めてオープンリールのテープレコーダーで自分の声を聴いたときには、普通の発音よりもゆっくりで、メロディーが理解の助けになる歌以外では、言っていることがほとんどわからなかった。そのことをきっかけとして、自分の発音がおかしいということを意識するようになった。それでも、どこかに私の言葉を理解してくれる人はいるもので、小学校のクラスの中にも、教員や他の友達に通訳をしてくれた人が、幼いころから一緒に遊んでいた人を中心として何人かいた。それでも一番理解してくれていたのは母親であった。
中学生になると筆談を併用するようになったが、その中で私は心の交流ができるようにユーモアを最大限意識するようにしていた。そして、筆談を併用することは、高校、大学を経て、60歳で会社を定年退職するまで、店での買い物などの生活に不可欠な部分や趣味関係のグループでの活動なども含めて続いていた。ただ、話題が共通している人や商売関係の人には、筆談の必要はそれほどなかったように思う。書く文字については、それほど読みにくくはなかったと思っている。筆記具の持ち方は、一般人と異なっていた。単純に握っているように見えるらしいが、実際には、掌と指の間に筆記具を挟んで、細かい調整ができるようにしていた。仲の良かった従兄は、その持ち方で書いてみて、結構書きやすいと言ってくれていた。それでも、疲れやすく、きちんとした長文を書くことは苦手であった。JISキーボードのワープロには1983年ごろのかなり早い時期に飛びついた(シャープのWD-500)。使い勝手は、私のゆっくりの発音と、文字を打つことのできる速さがほぼ同じで、快適に感じられ、また推敲した長文がきちんと印字されることもありがたかった。
定年退職の少し前、私は虫歯を何本か抜いた。抜いた部分はインプラントにする腹積もりであったが、担当の歯科技工士から「インプラントは不具合が生じたときに根元から取り換えなければならなくなるので、やめたほうがいい」と言われた。その代わり、入れ歯を作ったが.つけているのが苦しく、外したままになってしまった。
そうなると、従来よりも格段に話がしにくくなり、発音も不明瞭になった。そこで、私は話をするために発音することをあきらめ、ほとんどを筆談によるコミュニケーションに頼ることにした。そのように割り切ってしまうと、緊張して発音するときの顔のゆがみがなくなり、表情が自然になり、また、精神的にも余裕ができ、筆談でのユーモアにも磨きがかかったように思う。そして、このことは、定年退職後の翻訳家・文筆家としてのカネにならない仕事にも大いに役立っていると思う。
3年前、私は、筋力の低下と痛みで、手すりさえ使えずに自宅の廊下に倒れ込み、2か月半入院した。便秘がひどく、体重も60キロ台から20キロ程度激減していたので、悪性疾患を覚悟したが、精密検査では内臓関係に異常はなかった。しかし、入院中のリハビリによっても筋力は回復せず、以前にできていたつかまり歩きができないことは同じであった。また、悪化した機能もあり、手を動かすときに痛みが伴うようになり、字が書きにくくなった。どうしたものかと思っていると、主治医が、おそらく言語療法士と相談して、「あいうえお」の文字盤を作ってくださった。はじめのうちは、漢字を交えることができないので、少し幼稚に感じられ、使うことに抵抗があったが、思ったことを即座に伝えることができるので、意外なほど実用性が高く、退院してからも、自宅を訪問していただいている医療関係者、介護者、そして耳の遠くなった96歳の母親とのコミュニケーションに便利に使っている。それでも将来的には、キーボードの誤打がもう少し少なくなれば、パソコンの画面の文字を特大にして、私からの一方的なチャットのような形式で、多少複雑なコミュニケーションのために使うことができるのではないかと思っている。
母親も含めて、電話が使えないことは、いろいろと不便ではあるが、すべてメールでの連絡対応をお願いしている。どうしても緊急で困ったときには、パソコンの読み上げソフトで何とかしたいと思っている。
近年、新型コロナへの感染を避けるために、私は外出を極端に減らしてきている。最近は少しずつ増やしているが、それでも、3年前の退院以来での外出は10回程度にとどまっている。また、コロナ以前には年何回か行っていた一泊程度の旅行は、身体的な状況という面からも、まだ難しいと思っている。
外出のとき、私はできるだけ介護者を付けないようにしている。電動車いすの操作は上手いつもりである。今のところ、ほとんどが金銭がらみの用事での外出なので、あまり内容を知られたくないということも理由に含まれるが、それ以上に大きな理由として、金融機関等の担当者が私ではなく、介護者のほうにまず声をかけがちなことがある。私としては、車いすに乗っている私の文字通り頭越しに話をされるので、あまり気持ちの良いものではない。相手としては、「ひょっとこ爺さん」に見える私に言語障害ばかりでなく、知的障害もあるのではないかという不安もあるのであろう。まあ、その後、私が、ペンを取り出して筆談を始め、初対面の印象とは異なる「立派な」顧客に変身することでの担当者の態度の変化を観察することも、私の密かで意地悪な楽しみであると言えないこともない。ただ、調子に乗って、わかってもらえることをうれしく思いすぎると、相手に悪意があった場合に詐欺などに引っかかる恐れがあるので、少しの用心は欠かせないと思っている。結局のところ、脳性まひという障害は、容姿、風貌、見かけによる異質性が大きな部分を占めていると私は思っている。このことに関連して、私は興味深い体験をしたことがある。ある障害者福祉関係の集会で視覚障害の人と初対面であったにもかかわらず、全く普通の形で完璧なコミュニケーションができたことである。私としては、筆談ができないので、そのとき言葉を発したのはあきらめ半分で、アセトーゼ型脳性まひ特有の緊張が少なかったこともあるが、それ以上に、相手の人が私の容姿、風貌を知ることがなく、また視覚障害ゆえの研ぎ澄まされた聴覚を有していたということが理由であろうと思っている。
一九五三年二月生。都立武蔵丘高等学校から一浪後、早稲田大学政治経済学部経済学科入学・卒業。金融機関の在宅嘱託として三十四年間実務系の翻訳に携わる。退職後、フリー研究者(バリアフリー旅行、障害学)。翻訳家。
→エッセイ ひょっとこ爺さん徒然の記
交通事故に遭った。
左脳の陥没骨折、失語症との診断である。
〝ことば〟の障害――話せないだけではない。聴覚理解や読み書き能力も失われた。
失語症の完全治癒は困難という。
この先どうなる?知る由もない大学3年時の別れ道。
言語聴覚士による言語リハビリが始まり、これでは困ると必死に取り組んだ日々。
大学に復学すると「ことば」への強烈な現実を科せられた。
講義も専門書も解らない。会話が成り立たず、友人との輪にも加われなかった。
孤立した感覚、惨めだった。
卒後の就活は惨敗続き。
〝何を試みてもダメ〟と自己嫌悪に陥るばかり。
東京での一人暮らし――誰とも会いたくない。
扉を叩く訪問者には、立ち去るまでジッと潜む。
電話には出ず、通院以外は部屋に閉じこもった。
適当に本を読み、音楽を聴き、勉強のまね事をするなど、ごまかすように時間を潰した
「ダメ人間!」と自己否定するばかりで、解決のメドはつきそうもなかった。
“無能さ”に悲痛な思いを抱きながら、“恥辱”に苛まれていた。
身体の障害と違い,外見上失語症はわかりづらい。
ことばをうまく使えないのは恥であり、無能さを広めることとなる。
ならば黙っていた方がいい。その場を無言で切抜け、適当に相槌を打つ。
緩やかに引きこもっていった。
失語症から派生する辛さは様々。
伝えられない、受け取れない、楽しめない、思い切れないなど多岐にわたる。
一々挙げていたら際限がない。
失語症者の辛さは“閉ざされた心”そこに限る。
煩わしいからと、他人との関わりを全て拒否したら、心は閉ざされたままだ。
紆余曲折があり4年後、言語聴覚士として勤めはじめた。
収入を得て自活するようになり、経済的、社会的に多少落ち着けた。
だが、課せられ果たさねばならぬ任務に対しては、穏やかではなかった。
現に読解力は低下したままで、新聞記事は十分に内容把握できない。
専門書は自ずからお手上げ状態だった。
失語症当事者であることを、職場では公言しなかった。
障害は浸透されておらず、誤解を生みやすい。
黙っていた方が良い――その引いた思いから余計な制限が生じた。
仕事の電話連絡による不備、会議でのぎごちない答弁など、不適切な対応ばかり。
それまで以上に失われたことばに追い込まれるような日々――自己卑下に陥るばかり。
その場を取り繕いながら凌ぐのに精一杯。
仕事を十分にこなす満足度には至らなかった。
失語症者は好きで黙っているのではない。
伝えたいが言えない、心にあるものを出せないでいる苦しみであり、痛みでもある。
言いたいことは山ほどあるのだ。
それをじっくり聴いてもらうことは癒しであり、心的外傷の克服に繋がるのだろう。
勤めた病院は1年で辞め、大阪の大学研究室へ行くことにした。
仕事や人間関係など慌ただしい日々に、かなりストレスを感じていた。
表向きは「学ぶ」だが、心の休憩所を求めていた。
実際、学生生活に戻れたことで不安が減少し、学ぶ中で自信も生じていった。
学びながら失語症ケアにおいて、最も大切なのは何かを思い描いた。
病院を退院した後の生活期リハビリ――自らの経験からそこへ辿り着いた。
そして、その実践に適した山形県の病院に就職した。
当時山形県には十分なリハビリテーション施設が少なかった。
リハビリスタッフも少なく、特に言語聴覚士は目新しい職種だった。
脳卒中多発地域であり、「ことば」で悩む患者も多い。
未知の土地での生活に不安を抱いていたが、職場は家族的な雰囲気。
県外から来た私をすぐに包んでくれた。
仕事上うまくいかない時も、失敗をなじらず、成功だけを認めてくれた。
初体験のスキーは毎晩のようにナイターに誘われ、何とか滑れるようになった。
山歩きの会にも誘われ、県内外の名峰に連れていってもらった。
海釣りの体験では、釣りあげたばかりの魚を刺身で頂くこともできた。
おいしい食べ物と旨い酒、庄内弁に囲まれ、楽しい時間を過ごすことができた。
失った「ことば」のみならず、私は生きていく自信を取り戻すことができた。
心的外傷の核心は孤立と無力化という。
回復の基礎は他者とのつながりを取り戻し、自立性の感覚を新たに取り戻すこと。
新たな土地で心地よい仲間と巡り合い、臨んだ道を奔走できた。
私自身の失語症体験で感じ取れるのは、「ことば」だけでなく「こころ」の問題。
――心的外傷を如何に緩和していくかということ。
引き起こされるデメリットの中で、苦痛を感じるのは「誰にも解かってもらえない」という心ではなかろうか。
そして、その解決策は理解してくれる仲間の存在だろう。
「あなたは一人ではありませんよ」というメッセージは、新たな自身を見出す勇気となろう。
認めてくれる仲間の中で、多くの時間を過ごすことで、苦しみや悲しみ、そして絶望感は自然と解消されていくのではないか。
そんな仲間づくりを、「ことばをこえて」目指していけたらと考える。
山梨県出身。1983年大学在学中に交通事故に遭い、失語症になる。1985年 青山学院大学教育学科卒業。1988-1989年 大阪教育大学言語治療コースで学ぶ。1987-2002年山形、山梨のリハビリテーション病院に勤務。1999年第1回言語聴覚士国家試験に合格し、言語聴覚士免許取得。2002-現在 在宅言語聴覚士として訪問ケアを展開しながら、山梨市立牧丘病院、上條内科クリニック、デイサービスセンター「けやき横丁」、韮崎東ケ丘病院、県立育精福祉センター、障害者支援施設「そだち園」などに非常勤で勤務。NPO法人失語症デイ振興会理事、東山地区失語症友の会を事務局として主宰。
主な著書:
「失語症者、言語聴覚士になる」(雲母書房2003/12)
「失語症の在宅訪問ケア」(雲母書房2005/10)
「この道のりが楽しみ」《訪問》言語聴覚士の仕事(協同医書出版社2013/12)
一昨年の正月に姉がこの世を去った。七二歳であった。七二歳とは死んでもそう同情されないし、もちろん驚きもされない年である。それでいて、私は呆然とした。父が死んだあとも、母が死んだあとも一度も泣くことはなかったが、姉が死んだあとはしばらくは子供のように泣き止まなかった。
もし精神科医にかかったら何らかの病名を与えられていたのではないかと思われるほど姉は異様に依存心が強く、周りの人間は振り回された。妹の私も昔からさんざん振り回された。そんな迷惑な存在が突然消えてしまったのである。
文学とは自分の「気持を整理」するために書くものではない。だが私はそのとき文芸誌に連載していた小説を放り投げ、「気持を整理」するために姉について書きたかった――あんな姉を抱えていかに苦労したかと、姉の死を一応は悼みながらも、抑えていた思いをダラダラと記したかった。
そのころから私は折々、書庫の奥深く、大きなプラスティック製の箱にしまわれた昔の家族の手紙を引っ張り出して読むようになった。連載が終わり次第、姉について書こうと決めたが、自分の記憶に穴があるので、その穴埋めの手がかりにしようと軽く考えたのである。さらに小説家として残された命のこともあった。与えられた時間がいよいよ限られてきているうえに、体力精神力の限界も押し寄せてきている。姉が死のうと死ぬまいと、この先は虚構世界を描かず思い出話だけを綴ろうと前々から考えており、それらの手紙はいづれにせよいつかはざっと目を通すつもりであった。
ただ、きっちりと読むにはいかにせん量が多すぎた。
最初手にした束は父が沖縄に出稼ぎに行ったときに父と母が交わした手紙で私は生後半年。「美苗がエンコができるようになりました」。そんなつまらないことから始まって、二年半にわたって二人は手紙を書き合っている。そのあとしばらくして私達家族の外国生活が始まり、そのうちによく離ればなれに暮らすようになり、父をのぞいた女たち三人は頻繁に書き合うようになった。ことに母は書き魔であった。
全部で優に数千通はある。
「パンドラの箱」を開けてしまったのに気がついたのはしばらくしてからである。初めのうちは、適当に手紙を一通、二通と抜き出しあちこち斜め読みするつもりだったのが、いつのまにかとっぷりと日が暮れるまで一枚一枚丁寧に読んでしまっていた。何と自分は多くを忘れ、多くを都合良く曲解していたことか。姉の異様な依存心の強さは記憶していた以上に呆れ果てたものであった。ただ、自分の馬鹿さ加減もこれまた予想していた以上に瞠目に値するものであった。穴があったら入りたいと幾度も思った。自分は記憶力が良いほうだなどといったい何を根拠にうぬぼれていたのだろう。
姉について書きたいという気持はいまだに残っているが、今はこのような書簡の山を前に、姉が死んだとき以上に呆然としている。残された命で思い出話だけを書こうと考えていたこの後に及んで、新しい様相をまとった過去、いや、これぞ真実だと目の前に立ち上がった過去と向き合わねばならなくなった。これらの手紙を丁寧に読み、ノートを取り、年代順に整理していくとすると、いったい、この先、どれほどの時間と根気を要するか見当もつかない。もちろん、これらの手紙を無視して記憶だけを頼りに書くのは可能は可能だろうが、やはり思い出話となれば、なるべく真実に近づけたい。目の前にある手紙を無視して書くのは、何とも大げさな比喩だが、地動説を知りながら天動説を説くのとどこか似ているような気がするのである。
ただ、私にとって慰めが一つある。
小説家として保守的な私は、新しいことを試みるよりも、自分の作品が過去の「書き言葉」の伝統と繋がっているのを喜びとする。その「書き言葉」の伝統が今や亡びつつあるものであったら、なおさらである。自分が歴史の中の時間を生きているのを肌でひしひしと感じられるからである。
手紙とは今や亡びつつある「書き言葉」の伝統である。
人が誰かに向かって何かを「書き言葉」で伝えるという人間の営み――その昔ながらの営みは、いくら音声と動画が世に氾濫しようと、この先もいろいろな形で残り続けるであろう。だが、少なくともその営みが手紙という独特な形を取っていた時代は終わりを告げつつある。書き終えたばかりの手紙を片手に知らない町でうろうろとポストを探すことももうない。郵便配達が来る音に耳を澄ませることももうない。手紙が行き違ってしまって絶望することももうない。
手紙というものが当たり前だった時代を私は生きた。手紙というものが亡びつつある時代を私は今生きている。そういう時代の証人として、手紙という「書き言葉」を自分の作品の中で小説家とした果たして生かせるだろうか・・・・・・。
最近そういうことばかり考えている私は、いつのまにか姉の死を悼むところからずいぶんと遠く離れた場所に立っていた。
小説家。父親の仕事の関係で12歳で渡米。イェール大学および大学院で仏文学を専攻。
創作の傍らしばらくプリンストン大学やミシガン大学などで近代日本文学を教える。
著書に『續明暗』、『私小説 from left to right』、『本格小説』、『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』等。
近作『大使とその妻』を新潮社から9月に出版予定。
『ことばを伝える役割』は、私にとって、ときに楽しく、ときに複雑な感情を生起させるものだった。
わが家は、ろう者の父と、聴者の母、私、弟の4人家族だった。私や弟のような、きこえない親をもつきこえる子どものことをコーダ(CODA:Children of Deaf Adults)という。両親ともきこえない場合でも、私や弟のようにどちらか一方の親がきこえない場合でも、きこえる子どもは皆コーダと定義される。(親がろう者であるか、難聴者であるかにも関わらない。)
かつてのわが家では、父はまったく声を出さず手話のみで会話をしていた。母と弟は手話が不得手で、父との会話は、家族の間でしか通じないホームサインや身振り、筆談など、あらゆる視覚情報を用いて成立させていた(のちに母は手話を習得した)。私はといえば、家族の期待を一身に背負い、幼少期から手話を覚えた。そうはいっても、今振り返れば、幼い頃の私の手話など拙いものであったのだが。
このような、友達の家族とは一風変わったわが家の会話のやり方は、私が生まれたときからごく当たり前のように家庭の中に存在していた。
一方で、家から一歩外に出れば、そこには音声日本語のみの世界が広がっていた。母や弟よりも手話ができる私は、ときに父と外の世界との間に立ち、互いのことばを伝える役割を期待された。その役割は、一般に「通訳」と呼ばれることを、大人になってから自覚した。
コーダは、幼少期から、きこえない親のために通訳の役割を担うことがある。コーダ104人を対象にした実態調査(中津・廣田, 2020)では、コーダは平均6.48歳の幼少期から頻繁(平均4.52日/週)に親の通訳を担う現状が明らかになった。通訳を担う場面は、電話や来客、親戚の集まりや買い物などの日常会話場面にはじまり、病院での診療や銀行窓口でのやりとり、コーダ自身の学校関係(授業参観や三者面談など)など多岐にわたり、それらは個々のコーダによって大きな違いがあった。通訳の役割に対する気持ちも、当然と受け止めるコーダもいれば、肯定的に捉え、親や周囲の期待に応えることで自信を持つコーダや、面倒で疎ましく思い、葛藤が喚起されるコーダ…と実にさまざまだった。
私といえば、大好きな父の役に立てることが嬉しく、父を守ろうと率先して父と外の世界との仲介役を担った。けれどもその役割は、ときに私の心に影を落とすこともあった。今でも鮮明に思い出すのは、中学2年生のとき。母が危篤状態となり、深夜の病院に私と小学生の弟、きこえない父が並び、主治医から説明を受ける。「お母さんは予断を許さない状況です。確率は半々です。」私の左側には泣きじゃくる弟、右側には「何?何?」と私に尋ねる父。私は、動揺しながらも、主治医の説明を父に伝えた。その様子を見た主治医が、私にこう言った。「お母さんに万が一のことがあったら、小さい弟さんもいるのに、お父さんはきこえないなんて、あなた気の毒に。可哀想に。」
主治医のそのことばは、父に伝えなかった。通訳としては失格だったけれども。
今では、情報保障などの社会資源が整備され、テクノロジーも発展して、ろう者や難聴者を取り巻く環境は格段に進歩した。けれどもまだ、きこえない親が生活を営むうえでは、コーダが通訳の役目を果たさざるを得ない場面がどうしても発生する。幼いコーダのために、たとえば手話通訳者や要約筆記者の派遣制度は、もう少し柔軟な形で利用できるようになればいいと思うし、大きな病院には常に通訳者が配置されていればありがたい。通訳者の職域確立も、もっと進めばいい。そもそも周囲の大人は、きこえない親とぜひ直接、会話をしてみてもらいたい。きこえない親と外の世界とのコミュニケーションのすれ違いを、コーダと親の家族だけが必死に頑張って解消しょうとする世の中は、そろそろ終わりにしたい。
さて、私の話に戻るが、時が過ぎ両親は他界し、幼い頃から担ってきた、私の『ことばを伝える役割』は無くなった。幼い頃から父を守ろうと(勝手に)踏ん張ってきた私は、守る対象が無くなり、心にポッカリ穴が開いてしまった。今さら自分のために生きろと言われても、自分というものがよく分からない、どうしようもない“こじらせコーダ”だ。コーダが(無意識的にも)過度な心身の負担のもと通訳を担う経験は、心にいつまでも痛手を残すこともあると、身をもって知らされた。若いコーダには同じような思いはしてほしくないと、既に人生の折り返し地点を迎えた、こじらせコーダは思っている。
※このあたりのことは、書籍に詳しく記述した。
『コーダ きこえない親の通訳を担う子どもたち』中津真美 金子書房
こうして、かつての私が担った『ことばを伝える役割』は、嬉しい思い出や苦い思い出とともに、今も私の原体験として脳裏に刻まれている。
東京大学多様性包摂共創センター バリアフリー推進オフィス
特任助教。生涯発達科学博士。
障害のある学生・教職員への支援のほか、
全学構成員へのバリアフリーに関する理解促進のための業務に従事している。
ろう者の父と聴者の母をもつコーダであり、コーダの心理社会的発達研究にも取り組む。
J-CODA(コーダの会)所属。
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