REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

特集エッセイ 
ことば

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2024年7月3日

手紙という「書き言葉」

水村美苗

一昨年の正月に姉がこの世を去った。七二歳であった。七二歳とは死んでもそう同情されないし、もちろん驚きもされない年である。それでいて、私は呆然とした。父が死んだあとも、母が死んだあとも一度も泣くことはなかったが、姉が死んだあとはしばらくは子供のように泣き止まなかった。 もし精神科医にかかったら何らかの病名を与えられていたのではないかと思われるほど姉は異様に依存心が強く、周りの人間は振り回された。妹の私も昔からさんざん振り回された。そんな迷惑な存在が突然消えてしまったのである。
文学とは自分の「気持を整理」するために書くものではない。だが私はそのとき文芸誌に連載していた小説を放り投げ、「気持を整理」するために姉について書きたかった――あんな姉を抱えていかに苦労したかと、姉の死を一応は悼みながらも、抑えていた思いをダラダラと記したかった。
そのころから私は折々、書庫の奥深く、大きなプラスティック製の箱にしまわれた昔の家族の手紙を引っ張り出して読むようになった。連載が終わり次第、姉について書こうと決めたが、自分の記憶に穴があるので、その穴埋めの手がかりにしようと軽く考えたのである。さらに小説家として残された命のこともあった。与えられた時間がいよいよ限られてきているうえに、体力精神力の限界も押し寄せてきている。姉が死のうと死ぬまいと、この先は虚構世界を描かず思い出話だけを綴ろうと前々から考えており、それらの手紙はいづれにせよいつかはざっと目を通すつもりであった。
ただ、きっちりと読むにはいかにせん量が多すぎた。 最初手にした束は父が沖縄に出稼ぎに行ったときに父と母が交わした手紙で私は生後半年。「美苗がエンコができるようになりました」。そんなつまらないことから始まって、二年半にわたって二人は手紙を書き合っている。そのあとしばらくして私達家族の外国生活が始まり、そのうちによく離ればなれに暮らすようになり、父をのぞいた女たち三人は頻繁に書き合うようになった。ことに母は書き魔であった。
全部で優に数千通はある。 「パンドラの箱」を開けてしまったのに気がついたのはしばらくしてからである。初めのうちは、適当に手紙を一通、二通と抜き出しあちこち斜め読みするつもりだったのが、いつのまにかとっぷりと日が暮れるまで一枚一枚丁寧に読んでしまっていた。何と自分は多くを忘れ、多くを都合良く曲解していたことか。姉の異様な依存心の強さは記憶していた以上に呆れ果てたものであった。ただ、自分の馬鹿さ加減もこれまた予想していた以上に瞠目に値するものであった。穴があったら入りたいと幾度も思った。自分は記憶力が良いほうだなどといったい何を根拠にうぬぼれていたのだろう。
姉について書きたいという気持はいまだに残っているが、今はこのような書簡の山を前に、姉が死んだとき以上に呆然としている。残された命で思い出話だけを書こうと考えていたこの後に及んで、新しい様相をまとった過去、いや、これぞ真実だと目の前に立ち上がった過去と向き合わねばならなくなった。これらの手紙を丁寧に読み、ノートを取り、年代順に整理していくとすると、いったい、この先、どれほどの時間と根気を要するか見当もつかない。もちろん、これらの手紙を無視して記憶だけを頼りに書くのは可能は可能だろうが、やはり思い出話となれば、なるべく真実に近づけたい。目の前にある手紙を無視して書くのは、何とも大げさな比喩だが、地動説を知りながら天動説を説くのとどこか似ているような気がするのである。
ただ、私にとって慰めが一つある。 小説家として保守的な私は、新しいことを試みるよりも、自分の作品が過去の「書き言葉」の伝統と繋がっているのを喜びとする。その「書き言葉」の伝統が今や亡びつつあるものであったら、なおさらである。自分が歴史の中の時間を生きているのを肌でひしひしと感じられるからである。
手紙とは今や亡びつつある「書き言葉」の伝統である。 人が誰かに向かって何かを「書き言葉」で伝えるという人間の営み――その昔ながらの営みは、いくら音声と動画が世に氾濫しようと、この先もいろいろな形で残り続けるであろう。だが、少なくともその営みが手紙という独特な形を取っていた時代は終わりを告げつつある。書き終えたばかりの手紙を片手に知らない町でうろうろとポストを探すことももうない。郵便配達が来る音に耳を澄ませることももうない。手紙が行き違ってしまって絶望することももうない。
手紙というものが当たり前だった時代を私は生きた。手紙というものが亡びつつある時代を私は今生きている。そういう時代の証人として、手紙という「書き言葉」を自分の作品の中で小説家とした果たして生かせるだろうか・・・・・・。
最近そういうことばかり考えている私は、いつのまにか姉の死を悼むところからずいぶんと遠く離れた場所に立っていた。

水村美苗:プロフィール

小説家。父親の仕事の関係で12歳で渡米。イェール大学および大学院で仏文学を専攻。
創作の傍らしばらくプリンストン大学やミシガン大学などで近代日本文学を教える。
著書に『續明暗』、『私小説 from left to right』、『本格小説』、『日本語が亡びるときー英語の世紀の中で』等。
近作『大使とその妻』を新潮社から2024年9月に出版予定。

2024年6月12日

ことばを伝える役割:とあるコーダの回顧録

中津真美

 『ことばを伝える役割』は、私にとって、ときに楽しく、ときに複雑な感情を生起させるものだった。

 わが家は、ろう者の父と、聴者の母、私、弟の4人家族だった。私や弟のような、きこえない親をもつきこえる子どものことをコーダ(CODA:Children of Deaf Adults)という。両親ともきこえない場合でも、私や弟のようにどちらか一方の親がきこえない場合でも、きこえる子どもは皆コーダと定義される。(親がろう者であるか、難聴者であるかにも関わらない。) 

 かつてのわが家では、父はまったく声を出さず手話のみで会話をしていた。母と弟は手話が不得手で、父との会話は、家族の間でしか通じないホームサインや身振り、筆談など、あらゆる視覚情報を用いて成立させていた(のちに母は手話を習得した)。私はといえば、家族の期待を一身に背負い、幼少期から手話を覚えた。そうはいっても、今振り返れば、幼い頃の私の手話など拙いものであったのだが。
 このような、友達の家族とは一風変わったわが家の会話のやり方は、私が生まれたときからごく当たり前のように家庭の中に存在していた。

 一方で、家から一歩外に出れば、そこには音声日本語のみの世界が広がっていた。母や弟よりも手話ができる私は、ときに父と外の世界との間に立ち、互いのことばを伝える役割を期待された。その役割は、一般に「通訳」と呼ばれることを、大人になってから自覚した。

 コーダは、幼少期から、きこえない親のために通訳の役割を担うことがある。コーダ104人を対象にした実態調査(中津・廣田, 2020)では、コーダは平均6.48歳の幼少期から頻繁(平均4.52日/週)に親の通訳を担う現状が明らかになった。通訳を担う場面は、電話や来客、親戚の集まりや買い物などの日常会話場面にはじまり、病院での診療や銀行窓口でのやりとり、コーダ自身の学校関係(授業参観や三者面談など)など多岐にわたり、それらは個々のコーダによって大きな違いがあった。通訳の役割に対する気持ちも、当然と受け止めるコーダもいれば、肯定的に捉え、親や周囲の期待に応えることで自信を持つコーダや、面倒で疎ましく思い、葛藤が喚起されるコーダ…と実にさまざまだった。

 私といえば、大好きな父の役に立てることが嬉しく、父を守ろうと率先して父と外の世界との仲介役を担った。けれどもその役割は、ときに私の心に影を落とすこともあった。今でも鮮明に思い出すのは、中学2年生のとき。母が危篤状態となり、深夜の病院に私と小学生の弟、きこえない父が並び、主治医から説明を受ける。「お母さんは予断を許さない状況です。確率は半々です。」私の左側には泣きじゃくる弟、右側には「何?何?」と私に尋ねる父。私は、動揺しながらも、主治医の説明を父に伝えた。その様子を見た主治医が、私にこう言った。「お母さんに万が一のことがあったら、小さい弟さんもいるのに、お父さんはきこえないなんて、あなた気の毒に。可哀想に。」
 主治医のそのことばは、父に伝えなかった。通訳としては失格だったけれども。

 今では、情報保障などの社会資源が整備され、テクノロジーも発展して、ろう者や難聴者を取り巻く環境は格段に進歩した。けれどもまだ、きこえない親が生活を営むうえでは、コーダが通訳の役目を果たさざるを得ない場面がどうしても発生する。幼いコーダのために、たとえば手話通訳者や要約筆記者の派遣制度は、もう少し柔軟な形で利用できるようになればいいと思うし、大きな病院には常に通訳者が配置されていればありがたい。通訳者の職域確立も、もっと進めばいい。そもそも周囲の大人は、きこえない親とぜひ直接、会話をしてみてもらいたい。きこえない親と外の世界とのコミュニケーションのすれ違いを、コーダと親の家族だけが必死に頑張って解消しょうとする世の中は、そろそろ終わりにしたい。

 さて、私の話に戻るが、時が過ぎ両親は他界し、幼い頃から担ってきた、私の『ことばを伝える役割』は無くなった。幼い頃から父を守ろうと(勝手に)踏ん張ってきた私は、守る対象が無くなり、心にポッカリ穴が開いてしまった。今さら自分のために生きろと言われても、自分というものがよく分からない、どうしようもない“こじらせコーダ”だ。コーダが(無意識的にも)過度な心身の負担のもと通訳を担う経験は、心にいつまでも痛手を残すこともあると、身をもって知らされた。若いコーダには同じような思いはしてほしくないと、既に人生の折り返し地点を迎えた、こじらせコーダは思っている。
 ※このあたりのことは、書籍に詳しく記述した。
 『コーダ きこえない親の通訳を担う子どもたち』中津真美 金子書房

 こうして、かつての私が担った『ことばを伝える役割』は、嬉しい思い出や苦い思い出とともに、今も私の原体験として脳裏に刻まれている。

中津真美:プロフィール

東京大学多様性包摂共創センター バリアフリー推進オフィス
特任助教。生涯発達科学博士。
障害のある学生・教職員への支援のほか、
全学構成員へのバリアフリーに関する理解促進のための業務に従事している。
ろう者の父と聴者の母をもつコーダであり、コーダの心理社会的発達研究にも取り組む。
J-CODA(コーダの会)所属。

エッセイ目次

 

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