娘が小学校低学年だったとき、国語の宿題でよく次の詩を音読していた。
わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。
わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。
すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。
あらゆる存在を肯定し、共生のすばらしさを謳いあげた、金子みすゞのこの「わたしと小鳥とすずと」を聞くたび、私は(なんて素敵な詩なんだろう!)と感動しつつ、少しもやもやとした気持ちになった。「みんなちがって、みんないい」--この「みんな」の中に入っていない子どもたちがいたからだ。
「みんな」と違うと判断され、何かしらの病名(障害名)をつけられた子どもたちは、「特別」の学校や学級で学んでいて、学校行事でも交流することはめったになかった。運動会では、そのクラス「みんな」で、美しく均整の取れた人間ピラミッドを作り上げ、私たち「普通の親」たちを、感動させた。
クラスにはそれでもいろんな、「わたし」がいた。違う顔、違う心、違う体でそれぞれにさまざまな弱点を抱えながらも、いつか花開く自分だけのつぼみをどこかにしっかりと隠し持つ子どもたちが、ぶつかり合い、補い合いながら、てんでに奏でる雑音は「みんなちがって、みんないい」、そのものだった。その「みんな」と、「あの子たち」との間に、どんな物差しで境界線が引かれていたのだろうか?
このページでは、さまざまな「わたし」(その多くは社会的に「マイノリティ」に分類されるみなさんです)に登場していただき、「わたし」の視点で、「わたし」や「社会」について語っていただき、それを掲載してまいります。合わせて、私どもREDDYの多様なメンバー(メンバープロフィールご覧ください)が各自取り組んでいる研究についても、エッセイの形で紹介してまいりたいと思います。
このサイトをご覧いただいた皆様と一緒に、本プロジェクトの研究目的である、真の「多様性を許容する社会」とは何かという問いへの答えを探ってまいりたいと思います。
2018年11月12日
REDDY事務局 スタッフ 塔島ひろみ
(エッセイページ編集担当)