緩やかな勾配の長いスロープを、左手で杖を突きながら歩いていた。
スロープの先では蕎麦屋の店員がドアを開けて待ってくれている。
右半身を妻に介助してもらいながらじりじりと進む。
焦れば焦るほど歩行スピードは落ちる。
妻が何か言った。焦らなくていい、といった意味の言葉だろう。店員の女性にも何か言っている。感謝の言葉のようだ。店員は「お気遣いなく」といっているようだ。苦手なシチュエイション。当事者はひたすら懸命に歩く。それが正解。
車椅子を使うべきだった、とは考えない。私の体重とスロープの距離と勾配、妻の腰の状態を考えれば、車いすは避けた方が無難だったろう。
「合理的配慮」の状況は続く。気遣う妻を気遣う店員さんの対応が、様式化されていないことに救われる。おそらく、パートで働く四十代の彼女にとって、四点杖をついてスロープをのぼってくる初老の夫婦のために店のドアを大きくきく開けて待つのは日常化した動作の一部にすぎないのだろう。
経験のもたらすゆとりが、内面的な心の動きを見事に覆い隠し、洗練された対応をしている。その適切な振る舞いは、当事者に不満を感じさせることもなければ、心理的負担を感じさせることもない。私が余念なく懸命に進むことだけを期待しているようだ。
たまたま立ち寄った蕎麦屋のスロープを、ルーティンワークのリハビリをしているよそおいで平常心のまま歩きつづけなければならない。切迫感を感じさせることのないように。
やがてスロープは終わり、入り口から最も近い席に誘導され、メニューを示される。和やかな雰囲気は1ミリの亀裂も入らず、注文が済む。滞りなく処理される手順にかかわった人々が例外なく安堵し、喜ぶ。
蕎麦を待つ間、昨夜、ネットで拾ったエピソードが意味もなく蘇る。日々、仕事もせずリハビリをするだけの老人の暇つぶしなのだが。
バーク氏は1943年頃、ソロモン海域で駆逐戦隊司令官として日本軍と死闘を繰り返していた。その後、マーク・ミッチャー中将率いる高速機動部隊の参謀長としてレイテ沖海戦、沖縄をめぐる戦いを経験している。沖縄では、日本軍の特攻によって乗艦していた空母バンカー・ヒルが大破、移乗した空母エンタープライズも特攻機によって大破した。日本人を心の底から憎み、「黄色いサル」「ジャップ」と公言してはばからなかった。戦後、GHQに勤務する際も、定宿の帝国ホテルの日本人ボーイに自分の荷物を触らせなかった。日本人を嫌悪し軽蔑しきっていた。
そんなある日、毎日の慰めに買ってきた花をコップに挿した。翌日、仕事から戻ると花が花瓶に移し替えられていた。不審に思ったバーク大佐はホテルに「勝手なことをするな」と怒鳴り込んだ。担当者は知らぬ存ぜぬで埒があかない。
にもかかわらず、部屋の花が枯れると、新しい花が補充された。奇妙に思ったバーク大佐が本気で犯人捜しをしたところ、一連の出来事は客室係の女性が密かにやっていたことが判明した。何と彼女は少ない給料から花瓶を買い、花を買っていたのだ。理由を聞かれて、彼女は「お花がお好きなのだとおもいまして」とこたえた。
バーク大佐は、彼女の気持ちを理解し、納得して対価を支払おうとした。ところが彼女はどうしても受け取らない。純粋なまごころにお金で対応できないことをバーク大佐はあらためて知る。
さらに驚くべきことを知る。彼女の亡夫は元帝国海軍の駆逐艦艦長で、バーク大佐と闘った戦場で亡くなっていた。動揺したバーク大佐は「私が殺したかもしれない」
と謝罪した。しかし、彼女は凛としてバーク大佐に告げた。状況によっては亡夫がバーク大佐を殺していたかもしれない、誰も悪くない、と。バーク大佐は深く自分を恥じた。「自分は心底日本人を憎んでいる。ところが、この女性は、立場を越えて自分をもてなそうとしている。」
こうして、日本人の心意気と礼儀、立場を離れて物事を公平に見る資質に触れて次第に反日感情が薄れ、親日家へとバーク大佐はかわっていった。
「海の友情」阿川尚之による
これは、海上自衛隊の草創期を語る方たちが、崇敬の念を込めて語る挿話のひとつ。歴史ではない。しかし「合理的配慮」によって静かに語り継がれていく。
ぼーっとした老人のとりとめもない想念は、運ばれてきた蕎麦によって中断された。
福山でこれほどの蕎麦は食べたことがない。付き合わせの天麩羅もいい。嬉しい驚きに顔がほころぶ。箸の使えない手に持ったフォークが躍る。
食後、満ち足りた気分でゆっくりと出口へ向かう。店員さんはドアを開けたまま待っていてくれる。短い謝辞を残して、私たちは静かに店を出る。再び長いスロープを妻に支えられながら歩く。
「また来ようね」と妻が明るく言う。「そうだね」と私も頷く。
「トイレにいきたいんだけど」 なるべく感情的な成分が混じらないように事務的に言った。
六月には珍しく、からりと晴れた午後(カリフォルニアみたいねと妻は言った)ぼくたちは公園の駐車場にいた。病院で1時間の定例リハビリを受け、帰宅する前にちょっと散歩しようと寄ったところだった。
外出時の「行く前トイレ」は、万難を排して遂行しなければならない僕の義務だ。家ならひとりでできる。外だとそれは難しい。介助してくれる妻と一緒に入れるトイレが少ないからだ。「トイレは家で」は常識だ。病院は例外的な場所だ。利用できるトイレがいくつもある。透徹した洞察力があれば、病院を出る前にトイレは済ませておくだろう。公園に着いて、車から降りたとたん、「トイレにいきたい」とは言いださないはずだ。
「前もってどうして予見できなかったのか、公園に来る前ならスーパーのトイレだって利用できただろう」 誰だって難詰したくなる。言っても仕方ないとわかっていてもひとこと言わずにはいられない。
ところが、僕のリクエストを耳にすると一瞬諦念の表情を浮かべたが、妻は何も言わず善後策を練る。逆巻く感情を押し殺し、ため息もつかず、最適解を探す。一番近い多目的トイレはどこか考えているのだろう。
僕は以前から温めておいた秘策を提案する。「一般用トイレでも立ったままできると思うんだ」 なるべくあたり障りのない事実を述べるように告げる。杖から手を離して足だけで立ち、歯を磨き、髭を剃り、髪を調える、20分前後かかる「護顔工事」を僕は一人でやっている。確かに病院では車椅子に座っていなければ許されない行為だったし、退院してからも初めのうちは必ず妻に椅子を用意してもらっていた。それがいつしかわずらわしくなり、気ままに行動したい僕は、好きな時に「護顔工事」をするようになった。
一般用トイレの「立ちション」は、まさにこのような状況で試してみるべき事例だとおもっていた。もし、今回うまくいけば外出時のストレスは激減する。しかし、慎重な妻は違った。体重をかけられる洗面台がある「護顔工事」は黙認できても、そうでない一般用トイレの「立ちション」は許容範囲外だった。一言でいえば「リスクが大きすぎる」 僕の諦めの悪い態度に辟易した妻は、猛烈な勢いで、発想のまずさ、僕の自己認識力のなさを雄弁に語った。まっとうな慎重論に反論する気はなかった。
とりあえず、アリーナには、体の不自由なひと用のトイレがあるだろう、そこに行ってみようということになった。その場から直線距離で80mぐらいだろうか。切迫した状況下でも歩けない距離ではなかった、ただ、その日のリハビリ中から普段よりも重く感じていた右足が、いつにも増して一層重い。
入院中、理学療法士から習った歩行の基本動作は、「杖、1,2」だった。「杖」で左手の杖を前に出す。「1」で右足を前に出す。「2」で左足を右足にそろえる。その反復で前進する。調子のよい時はリズミカルにすすむ。しかし、痺れが強く、右足が思うように出ないときは、歩みがのろい。その時、右足の機嫌は中の下だった。
さらに、大きな障害があった。アリーナ前面には四段の階段がある。右手端っこにはスロープもあって。車椅子なら無条件でスロープに向かうが、時間の制約がある今悠長なことはしていられない。正面階段強行突破。
80mを口を真一文字に結び一気に歩いた。怒涛の勢いだったが、三歳児の全力疾走ほどもなかったろう。
妻に介助してもらい四段の階段を慎重に、しかし強気に登った。出来は一段目から90点、95点、90点、55点。初めの三段はスムーズにいった。介助なしでもいけたかもしれない。四段目はダメ。妻がいなければ転倒していただろう。右足の引き上げに失敗しバランスが大きく崩れた。その瞬間、妻が支えてくれた。
「もっと丁寧に右足をあげろ」学校の教師なら言うだろう。しかし、三段上手に登れたなら、四段目で無様な恰好になっても上出来だ。ありがたいことに、妻も「いいんじゃない」という顔をしている。階段は思ったほど脅威ではなかった。
ドアにたどりつく。自動ドアが開く。泥除けマットが待ち換えている。無造作に足をだすと、マットの端に足をとられる。恐る恐る右足を出す。大丈夫、躓かずに行ける。
一般用トイレはアリーナに入ってすぐのところにある。車椅子マークのトイレは20m先にある。「最大多数の最大幸福」。ため息をついて「杖、1,2」のリズムを刻む。右足はいよいよ重い。だが、膀胱はもうこれ以上膨らむ余地がない。急げ。
トイレはキレイだった。安堵の喜びに包まれて心ゆくまで用を足した。解放感いっぱいで出た後、ロビーのベンチでたっぷり休憩し、外へ出た。ちょっと散歩した。妻は、夕暮れの西の空に美しい彩雲を見つけ、すこぶるご機嫌になった。「いいことがあるわよ」と弾む声で言った。
脳卒中で倒れるまでは、野球観戦はきわめて日常的な次元で提案され、実行されていた。新幹線で30分、マツダスタジアムは近い。しかし、右半身不随の後遺症が事情を変えた。
スタジアムのチケットは車椅子専用シートでなければならない。一般の席には座れない。そこまでたどり着けない。そもそも今の僕には広島駅からマツダスタジアムまでのカープロードすら歩きとおせない。
新幹線の予約にしても面倒だ。携帯電話であっさり簡単にはできない。スタジアム同様、車椅子専用の座席を予約しなければならないし、乗降に介助者もお願いしなければならない。ホームと車両の間の隙間に渡すスロープもお願いする必要がある。ホテルの予約まで入れると倒れる前の何倍もの手間がかかる。
今回は、電話をかけて妻が全部してくれた。ありがたかった。ただ「してもらっている」という意識にさいなまれる。滑舌が恐ろしく劣化した僕が電話するより、妻が電話する方が手っ取り早い。合理的だ。だが、妻に申し訳なく思う気持ちはつきまとう。入浴の介助とは異なり、カープの試合は娯楽だ。TVで見ても結果は変わらない。僕の道楽だ。そのために妻はあちこち電話をかけ、色々手配を進めている。
車椅子用スペースは、コンコースから内野席に降りていくところにあったような気がする。というより、コンコースの一部を車椅子用座席に使っていたように思う。以前は、「見づらいところでかわいそうだな、でもしかたないか」と思っていた。座席がコンコースの一部である利点は、段差を気にせず、トイレにも「カープうどん」の売店にも車椅子を押していけるということだ。
しかも絶対に雨に濡れない。グラウンドから遠いという欠点はどうしようもないが、雨具で雨をしのぎながら試合を観戦する必要はない。その優位性は小さくない。
TVには映らない、その場にいた者でなければわからないことがある。
2016年、6月14日、マツダスタジアム。相手は西武ライオンズ。九回裏2-2、一死、一、二塁。僕たちは一塁側内野席にいて、ドキドキしながらサヨナラの瞬間をまっていた。バッターは赤松。打球はセンター前へ抜ける。センター秋山が素早く捕球、矢のようなバックホーム。猛然と突っ込んできた二塁ランナー菊池はしなやかな身のこなしで捕手のタッチをかいくぐり、ホームイン。「やったー」と僕たちは、大歓声を上げ勝利を喜ぼうとしたその瞬間、審判の右手が上がった。すぐさま緒方監督が飛び出し、ホームベース上で審判に猛烈抗議。身振り手振りのオーバーアクションで、捕手が走者の進路を妨害してはならないコリジョンルールを主張。審判団がグラウンドから消え、ビデオ検証がはじまった。長い、長い協議が10分も続いた。
審判団が出てくる。静まり返るスタジアム。固唾を飲んで見守る観客。やがてチーフアンパイアがおもむろに両手を広げる。湧きあがる大歓声、ベンチを飛び出すカープの選手たち。誰よりも速く、先頭を切って二塁付近まで全力疾走したのは赤松だった。仲間のペットボトルの祝福を浴び、満面の笑みを浮かべている。
もうひとつ思い出す。
2018年、7月4日、マツダスタジアム。相手はヤクルト・スワローズ。カープの先発はクリス・ジョンソン。その日、ジョンソンの調子はよかった。試合後のヒーローインタビューで、先頭打者ホームランをはなった田中広輔が「ジョンソンが味方でよかった」というほど、キレのある投球だった。
途中で雨が降ってきた。スタジアムで購入した赤いカープ合羽に身を包み、そぼ降る雨のなか声を枯らして応援を続けた。ジョンソンは失点を許さず強気でビシビシ投げていた。後年、「雨に弱い」と揶揄された彼はいなかった。
9回一死、完封目前。点差は4点あった。代打にヒットを打たれた。嫌な雰囲気になった。あっという間に2点とられた。打った山田哲人を褒めるべきだった。一塁ベンチからコーチが出てくる。
ジョンソンがまだ投げたいと思っていることは見てとれた。とそのとき僕たちの近くにいた年配の男性が大声で叫ぶ。「投げさしちゃれえやぁ!!」 どっと観衆が沸く。続投を望むカープファンは少なからずいた。しかし、監督はピッチャー交代を告げた。僕はジョンソンに同情しつつも監督は正しいとおもった。
ジョンソンはクールにマウンドを去り、あとを継いだ中崎が、波乱もなく試合をしめた。帰り道、カープロードを歩く僕たちの足どりは軽かった。
近々、カープの試合を見に行く。どんなドラマが演じられるのか。楽しみ、楽しみ。
妻の運転免許証更新に同伴した。
手際よく、視覚検査、写真撮影、ビデオ講習が行われた。私は車椅子に座って、音楽を聴きながらロビーでずっと待っていた。終わるまで、あまり時間はかからなかった。多くの日本人が、かかわる行政手続きとしては、よくできている制度だと思う。確定申告も免許証の更新並みに簡便になれば内閣支持率もあがるのに、と思った。
昨年、私も更新の通知を受け取った。しかし、外来で、車の運転をシミュレーション装置を使ってリハビリ中だったため、更新を保留したままにしている。脳卒中の後遺症で、右半身に麻痺が残り、車の運転は到底無理だった。
入院の早い段階で、自分が車のハンドルを両手で持てなくなったことを自覚し、いささか、ショックを受けた。車の運転に必要な最低限の滑らかな動きができない。むしろ右手はハンドルを触らない方が無難だ。
ハンドルの左上に球形の補助具を装着し、左手でその球を握ってハンドルの操作を練習することになった。どこまでハンドルをきればいいか、はじめて8か月たつのにまだわからない。ハンドルに角度表示でもあればいいのに、と思う。経験的に会得するのが下手な人間は時間がかかる。
方向指示器も左手でレバーを操作することになった。脳卒中発症時乗っていた車の方向指示器は、ハンドルの左側にあった。だから、まともな左手で方向指示器を操作することになって少しよろこんだ。そうはいっても、ハンドル補助具を握りつつ、方向指示器を上げたり下げたりするのは難儀だった。と思っていたら、乗る予定の車が変わった。方向指示器もハンドルの右側にかわった。やれやれ。右手のリハビリがはじまった。
ブレーキ、アクセルを左足で踏むことになった。左足では踏み込む加減が難しい.微妙な調節を滑らかにするには相当な練習がいる。シミュレーション装置の画面上で、適性位置に停車できるのは稀だ。だいたい早過ぎる。公道上で試せる技量ではない。
不器用を自認する私にとって、この運転リハビリは苦痛以外の何物でもない。
シミュレーション装置のモニターに映る街路を走行すると、次から次へと画面上で事故を引き起こす。
スタートの場面。さあ、始めるぞ、アクセルを踏んで発進だ、と思った瞬間、「発進するときは、右に方向指示器を出してください」 すみません。
再スタートの場面。気を取り直して発進すると、突然、ドシン、後続車に追突される。「ミラーで後方確認してください、この車が接近していました」 すみません。
信号が赤にかわった場面。ブレーキを踏む。くそ、強く踏み過ぎた。前方には意味のない空間。
交差点、車は右折する場面。歩道走行中の自転車が突然、横断歩道へ、避ける間もなくガシャン。そこでまがってくる? 「ゆっくり曲がりましょう、危険予知の余裕が必要です」 すみません。
交差点、車は左折する場面。ハンドルを適切に操作できない、曲がり切れずに、停車中の対向車に正面衝突。ガシャン。すみません。
細めの路地の場面。対向車が来る、左によって安全にすれ違おうとすると目測を誤る。右前部接触、ガシャン。すみません。
運転リハビリ、ああ、面白かった。という日はいまだない、もうやめようか、と思い悩む日は多い。それでも月に一度の運転リハビリを続けている、いや、続けるつもりだ。
歩く方は上達する見込みがない。調子のよい日、悪い日はある。しかし、あと半年やれば、杖を手放せますよ、と言うのではない。右に開き気味の体の向きを矯正できるかどうか、せいぜいその程度だ。
車は違う。まだ全然だめだけど、もし運転できるようになったら、革命的に行動が変わる。ただ横に座って目的地まで連れていってもらうだけの便乗者から、自分の意志で運転する行動者に変身する。生きる姿勢が本質的に異なる存在へと変わる。個人的にはそう思っている。
それに伴うリスクはもちろんある。事故の危険性はいくら強調してもたりない。自分だけではない。他人を巻き込む可能性も0ではない。
入院中の主治医は、私が運転免許証を取りたい、と申し出た時、はっきりと反対された。リハビリを続ければ運転は可能になるかもしれない、しかし、判断力、注意力が劣化しているのは否定できないのだから、乗るべきではない。そうおっしゃった。誠にもっともなご意見で、反論しようがない。免許証は、私にとって悪魔の誘惑なのかしらん。
「寒くなると、血行が悪くなります。すると、あっちこっち痺れたり、痛くなったりします」
かかりつけの小さな病院に薬の処方箋をもらいに行くと、同じ話から診察が始まる。時候の挨拶と思っている。脳卒中で倒れ、半年間入院した後、リハビリをしている私に医者として寄り添う姿勢を示す言葉としては悪くない。私が「心のふるさと」と尊称するK先生らしい言葉で、ふんふんと頷く。いまさら、右足の痺れが、とか、右手の痛みが、とか言う気はしない。言ったところでどうなるものでもない。たぶん、杖なしで歩けるようにはならないだろうし、右手で箸を使えるようにもならないだろう。失ったものは大きい。だからと言って、たとえ、「心のふるさと」K先生でも同情されるなんて真っ平御免だ。だから、微笑みつつ黙って聞いている。K先生には薬の処方箋を書いていただければよいのだ。
二か月に一回、高血圧の薬をもらいに行っている。以前はひと月に一回だった。さしたる問題もなく、静かに老いていく患者は二か月に一回で十分だ。三か月に一回でも、四か月に一回でもいい。Zoomですませられるのなら、そうしてほしい。病院に不満があるわけではない。待ち時間は短いし、看護婦さんは皆優しい。ただ、薬の処方箋を書いてもらうだけならインタバルはもっと長くてもいいような気がする。
そうもいかないか。薬をもらうだけではなかった。四か月に一回ぐらい採血して血液検査もしていた。ありがたいことに、結果はすこぶる良い。妻の努力のおかげだ。妻が作る料理はバランスよく、おいしい。残さず食べる。退院してから、仕事もしていないから、ストレスが溜まることもない。間食も減った。とりわけチョコレート、カスタードクリームを含むケーキ類は避けて通る。おいしそうにみえても「毒はいらない」と言って、甘いものの好きな妻には不興を買っている。アルコールもほとんどとらない。体重は72キロでほぼ一定だ。だから、今の状態を維持できれば、K先生の診察は不要だ。そう考えたくなる。
こういう素人の断定が傲慢不遜なことは百も承知だ。たまたま都合の良い結果が続いたからといって、鵜呑みにすることはできない。一度、脳の血管が切れたのは確かだ。倒れる前は、ストレスの多い生活をしていたから、あっちこっち、体にひずみが溜まっているのも否定できない。だから、羊のようにおとなしく、二か月に一回薬をもらいに病院へ行く。
しかし、傲慢な性格は隠し通せるものではない。装具をはずしてはならない、と 週に一度通う病院のリハビリ担当の医師(ヤモちゃん)から厳命されていても、それはおかしい、いずれ、装具なしで生活しようと考えるなら、装具なしの歩行にもチャレンジするべきだ、多少のリスクは引き受けてやってみなければならない、と考え、隠れて勝手に実行してしまった。11月中旬のことだ。
装具を外して最も危ないのは、足裏が内側に反り返り、不自然に接地して捻挫、転倒することだ。だから、常に足裏が床に密着してぃることを目視確認することを怠らなければ、感覚の極めて鈍い、右足の足裏反り返り問題も克服できるだろう。
右足のつま先からひざ下まで、がっちりプラスチックのカバーと、四本のマジックテープで固定された装具を外して、歩くのは勇気がいる。傲慢気質だからといって、蛮勇を欲しい儘にできるわけではない。まして、しくじった場合、弁明しようのないお叱りを頂戴することは火を見るより明らかなのだ。息を殺して、そろそろと右足は床を滑らせるように体重移動を試みる。
最初の三分間は、途方もなく長かった。大きな罪悪感を抱えつつも、未知の困難に挑む冒険心が火のように燃え盛り、荒い息を吐きながら、3メートルほどの距離を往復した。すり足移動には限界があった。「歩いている」という実感がない。フローリングの床でしか試せない。汎用性を身につけるには、右足を床から上げ、かかとから着地し、体重移動を行う必要があった。
左手で持つ四本足の杖に、ぐいっと力がはいる。左脚に体重をかける。上体が左に傾く。右足を軽く上げる。足首から先はコントロールされていない。ゆっくり右足裏全体で着地する。右足裏全体で床を踏みしめていることを目視確認して体重移動する。ここで捻挫したら、はりつけの刑だ、と呟く。大丈夫。何とか、一歩進んだ。「小さな一歩だが、偉大な飛躍だ」アポロ11号アームストロング船長の言葉を思い出す。左手の杖を前に出す。右足裏が床から浮いていないことを確認して、左足を前に出す。左手に力が入り過ぎて、ぶるぶる震える。OK。もう一度、右足。そんな感じで30分程度トレーニングをした。達成感はなかった。ただ疲れた。右足首をもっと強力に固定するスキー靴のような特殊な靴がいると痛切に思った。なんのことはない。装具がいるのだ。虚無的な気分でトレーニングを打ち切った。
そこへ、妻が現れた。禁断の装具外しを見て激怒した。「捻挫したら、歩けなくなるよ」と、懇々と諭された。翌週、脳外科の専門病院で週に一度行う、リハビリ前の診察時に、装具を外したトレーニングを試したことを報告すると、いつもは柔和なヤモちゃんからもお叱りを受けた。笑顔で目を据えて「やめてください」と言い渡された。「はい、わかりました」以外に言えない雰囲気だった。以後、装具を外したひとりのトレーニングはしていない。二度とするつもりはない。
愚かな老人は、二つ学んだ。リハビリに冒険はいらない。協力してくれる人びとの信頼を裏切ってはならない。65歳になって、リハビリが老害の別名になるところだった。
右半身が不自由になって、「発展途上」という言葉を使わなくなった。五十代は、自分の愚かさを弁解する時によく使っていた。年を取れば誰でも成熟すると思っていた。とんでもない思い込みだった。劣化する自分と否応なく向き合う毎日が待っていた。
まして脳卒中で倒れてからは、体の機能低下が確実に進む。歩行トレーニングを継続的に行っていれば、ある一定の水準で歩けるけれど、ちょっとサボると歩けなくなる。まず、右足が前に出なくなる。歩幅が恐ろしく狭くなる。足元ばかり見て歩くから、歩行姿勢がいっそう悪くなる。ひどくなると、右足を前に出したつもりで、実は一ミリも動いていないのに、左足を前に出そうとするから、転倒しそぅになる。歩くには不断の努力がいる。
歩行機能の低下は、トイレ問題に直結する。尿意を催してからトイレまでの到達時間が長くなる。調子のよい時の倍は時間がかかる。焦れば焦るほど、尿意を我慢できなくなる。さらに歩行機能が低下した時は、運動不足による血圧上昇を水分補給で少しでも抑えようと、大量に麦茶を飲む。すると、真夜中に、二時間おきに目覚める。ボーっとした状態だと、尿意を止められない。漏らすつもりぜんぜんないのに漏れる。止められない。コントロールできない。「情けない」を通り越して恐ろしい。便器に座ったまま朝が来るのを待とうか,とさえ思う。
頻繁に間に合わないため、尿パッドを装着することにした。初めは、そのままつけていた。何回か横漏れした。深夜に、二回横漏れし、下着とパジャマを二度履き替えた時は、さすがに辛かった。見かねた妻がパッドを折りたたんで、ポケットをつくり、そこにおちんちんを入れて、尿が絶対に横漏れしない方法を教えてくれた。効果があった。のちに、折りたたみ方にひと工夫を加えてポケットを深くし、おしっこが大量に出ても溢れないようにした。こうして尿漏れ問題は激減した。
昨年末、マイナンバー申請で市役所を訪れた。事前にトイレは済ませておいた。申請フロアでパイプ椅子に座る多くの人々とともに、車椅子に座って、スクリーンに自分の番号が表示されるのを待っていた。時計を見ていると、所要時間は一人十五分程度、もう四人済んだ。あとひとり、今にも私の番が来るかもしれない。そういう時に限って、突然トイレに行きたくなる。この期に及んで、「障がい者用トイレへ連れて行ってくれ」と妻には頼めない。さりとて、我慢には限界がある。覚悟を決めた。確かこのパッドは二回分の排尿を吸収できるとうたっていた。上手にやれば、うまくいく。人知れず、おしっこをパンツの中にしてしまおう。決心して、全神経を集中した。石像のように微動だにせず、歯を食いしばって車椅子に座ったまま、少しずつおしっこをパッドの中へ出す。温かい液体が出るのがわかる。
と、その時、なんてこった。スクリーンに私の番号だ。おしっこは終わりかけている。動いても大丈夫か。漏れてはいないか。すこぶる緊張しつつ、呼ばれた窓口へ車椅子で移動する。隣りにいた妻にすら気づかれず、排尿は無事終了、手続きもすべて終わり、マイナンバーカードは受領した。ありがたいことに誰にも迷惑をかけずに済んだ。どっと疲れた。
機能低下は加齢とともに残酷に進む、時にゆっくりと、時に我慢ならないほどに。
脳卒中で倒れて以来、勃起する気配が消えた。六か月間の入院中はもとより、自宅にもどってからも全く兆候がなかった。「どうやらダメになったみたい」と、私は妙に淋しそうに妻に言ったそうだ。確かに一抹の喪失感はあった。生殖機能が失われたことを大騒ぎする年齢ではないものの、六十四歳という年齢は早い気がした。潔く受け入れようと思いつつ、くやしさが心の片隅に、澱のように沈殿した。
脳卒中の入院初期のリハビリは、機能回復が目に見えて進む。まったく歩けない状態から、杖を使えば歩けるようになる。努力次第でできることがどんどん増えていく。だから、まじめに取り組む。しかし、勃起不全はそうした漸進的回復とは無縁の異変だった。
退院時期が迫ったある日、主治医が、「もう少し病院にいたほうがよくないですか」とやんわり言った。いつもなら、「なるほど、まだ日常生活を妻と二人だけで送るには不安があるということか」と言外の意味を先読みして、入院延長要請を素直に受け入れただろう。しかし、その時は「嫌です」と頑なに拒み、振り切るように退院した。妻との何気ない生活が恋しかった。自由を制限された集団生活が嫌になっていた。
退院後は、主治医の懸念していた事故もなく平凡に過ごしている。妻が血相を変えて飛んでくるヒヤリ・ハットも滅多にない。体の機能低下に応じた行動能力をもっと身につけてから退院すべきであったとは思わない。
退院後の週に一度の外来リハビリは、体の機能回復から機能の現状維持へと移った。「変わったことが何もない」ことが最良の報告になった。喜びの少ない、諦念に支配されたリハビリになって数か月、思いもしないできごとが私の身におこった。
その日、私はソファに座り、インターネット上の広島カープの記事を読んでいた。ふと気づくと、「あれ!」と思うくらいおちんちんが元気だった。絶えて久しい張りがある。妻は買い物に出かけていた。パジャマのズボンを降ろした。忘れていた懐かしいおちんちんの元気な姿。健常な左手でしっかり握ると、熱く生命力がみなぎっている。左手で久しぶりにしごくと、最後まで何の問題もなく進んで果てた。
嬉しいような、面映ゆいような気分だった。工夫した取り組みをして、意図的に達成したのであれば感慨もひとしおだったろう。今回は単なる偶然、僥倖だった。
身体障がい者2級、要支援2の体で、性行為を欲する気はさらさらない。ただ、「出来ない」と「しない」の間には大きな隔たりがある。日々崩れ落ちることの多い自尊心が、ちょっぴり踏みとどまるきっかけにはなる。
帰宅した妻に話すと「よかったじゃない。そんなこともあるのね」と言った。リハビリとは、全く無縁なこの滑稽な出来事は、たぶん、神様の悪戯だったのだろう。
三人掛けのソファーに座ってほぼ一日を過ごす。ソファーから立ち上がるのに、初めは苦労した。座っている目の前に、毎回キャスター付きのラックを体の前に滑らせて、ラックに左手をついて立ち上った。その動作が嫌で仕方なかった。面倒だった。
前方に体重を預けずに、すっと立ち上がる方法を、通院していた病院の理学療法士に相談した。「立ち上がる際、左手は体の左側で体重を支えるようにして、あくまで両脚で立ち上がるようにしたらどうでしょう」とアドバイスをくれた。
一発解答だった。今までの苦労が何だったのか、と思ってしまうほど、無駄な動作ひとつなく立ち上がることができた。体の横に左手を置く発想は、あとで生きた。
必要があって、健常者のみを想定したホテルに宿泊した際、トイレ問題に直面した。介助用の手すりも支持棒もないところで、どうやって一人で立ち上がるか、問題だった。数カ月前、同じシチュエーションで、夜中に寝ている妻を何度も起こして、トイレに行った。妻にかけた負担の大きさを考えると、今回それはしたくない。トイレ自立問題は私にとって重大な懸案事項だった。問題の切実さとは裏腹に、私は楽天的に「なんとかなるさ、現場に行けば知恵も湧く」と考えていた。
ホテルについた。トイレをみた。便座に座る。左側はドアが開いている。前方は80センチの空間があって、壁。右側は空間があって洗面所。体が便座から浮き、前かがみになりさえすれば、前の壁に重心を預けて何とかなりそうなことは推察できた。どうやって、左足一本で便座から体を浮かせるか、できそうなことを色々試すが,徒労に終わった。
開き直って、毎回、妻を頼るしかないか、半分、そう思っていたとき、閃いた。ソファー問題の応用だと思えばいいのだ。左手を左太腿の下に潜り込ませ、手の平で便座をしっかり押せば、何とかなる気がした。試しにやってみた。巨大芋虫が身をよじるように、便座の上で左右に体をくねらせ、左手の位置を最適位置まで推し進めた。体を押し上げようと左手にぐっと力を入れるけれど、足は岩盤のように動かない。額に汗がにじむ。力を入れやすいようにかかとをひいた。唐突にふわっと体が浮いた。「しめた!」と思った。両足に力を入れ、ぐっと踏ん張った。上体が前傾しながら壁に向かって伸びる。必死の思いで左前方のドア枠に手を伸ばす。左手の親指と人差し指で体を固定する。体のバランスをとる。静止する。その隙にパンツとズボンを引っ張り上げる。一呼吸おいて身づくろいをする。
部屋に戻り、妻に何食わぬ顔をして、「なんとかなったよ」とだけ言った。「へぇー、すごいじゃない」と妻は驚いていた。
今回、たまたま運よくなんとかなった。自宅に戻ってからも、便座から介助用具を利用せず立ち上がるトレーニングを続けている。左手を尻の下から、太腿の下に滑り込ませるところは毎回難儀する。が、時間さえかければかならず自力で立てる。それで十分だ。
両足の筋力強化も欠かせない。何もしなければ立ち枯れて行くのは必定。トイレで立ち上がった後、スクワットを始めた。始めてしばらくして、横向きの位置取りに変えた。前後に壁があると安心感がある。杖なしで30回のスクワットを3セットが限界だ。時に、ふらついて介助ポールに手を伸ばす。焦らず続けていれば、いずれ安定するだろう。
「幸運は用意された心にのみ宿る」とパスツールはいった。何をどう準備すればよいか迷ってばかりいる愚か者は、「なんとかなるさ」と明るい心を失わないように生きてゆこう。
「学生さん?」
と泊まったホテルの売店で尋ねられたとき、私は三十三歳だった。内心「またか」と思いつつ、にこやかに否定した。明らかに私より年下のお店のお姉さんは、驚きつつ、傍らに立つ私の娘に視線を移し、納得したようだった。
当時は、タクシーの運転手さんにもよく言われた。確かに学生らしい恰好はしていた。紺のブレザーにボタンダウンのコットンシャツ、レジメンタルのタイ。ツータックのチャコールグレイのトラウザーズ。黒のローファー。痩身で色白だったし、世間慣れしていなかった。「学生さん?」と言われても仕方なかった。
もうひとつよくかけられた言葉がある。家族で観光地をブラブラしていると、必ず、「写真、お願いできますか?」と見ず知らずの老若男女から頼まれた。結婚して、妻にその回数の多さを指摘されて意識するようになった。人畜無害で人の良さそうな雰囲気を醸し出していたのだろう。アジア系の方から英語で頼まれたこともあった。無国籍でイノセントな善良さを振りまいていたのだと思う。
実際、どうだったのか。「世間を欺く多重人格」と私をよく知る妻は手厳しい。私の見かけの善良さは、上辺だけの薄っぺらなものだという。
状況に合わせてコロコロ態度を変える性格は、誰が考えても小賢しく無節操だ。不誠実な人間に映る。自覚していても、身に着いた性癖はなおらない。四十代、五十代までは「いい人」を演じることを止められなくて、しばしば自己嫌悪に陥った。
還暦を過ぎて変わった。「この世は舞台、人は皆役者」と開き直った。いちいち悩まなくなった。どうでもよくなった。人を欺くつもりはさらさらない。「いい子」を演じるなら、演じ切ってしまえ、と思った。
その頃のことだ。うねうねと丘陵地帯がひろがり、色とりどりの花が絨毯を敷き詰めたように咲き乱れる、有名な観光地の一角に私は立っていた。広がる美しい展望に心奪われていた。
ふと気づくと、5メートルほど先に、酸素ボンベを載せた車椅子をベッドのように倒し、鼻にチューブをつけた小太りの少年が、表情の乏しい顔で横たわっていた。両サイドには素朴なスウィングトップを着た少年の両親と思われる男女がいた。お二人は腰を下ろし、寝ている少年と同じ目線だった。父親と思しき男性は、右手を伸ばし、スマートフォンのカメラで3人の写真を撮ろうとしている。うまく3人をおさめられないらしい。何度もやり直している。行き交う人は多いが、立ち止まる人はいない。スマートフォンを持つ男性に周りの人に助けを求める発想もないようだ。まだ繰り返している。
小走りに近づいて声を掛けた。
「撮りましょうか?」
「えっ、ああ、お願いできますか」
左右の男女は満面の笑みをたたえた。十二、三歳にみえる少年は、口を半開きにしてあらぬ方向を向いている。受けとったスマートフォンを構えた。構図はいい。背景の丘陵は多彩な色彩に覆われて美しい。肩を寄せ合う三人の姿は微笑ましい。
「はい、チーズ!」
撮った写真を手元で確認した。いい写真だった。愛情が溢れる笑顔が真っすぐに飛びこんでくる。スマートフォンを男性に返した。ご両親と思われるお二人は、写真をとても喜んでくださった。ただ、少年は無表情で虚空を見つめていた。私は軽く頭を下げ、足早にその場を去った。少年の虚ろな目が私の背を貫くように感じた。言葉がなかった。
数年後、私は脳出血で倒れた。もう私には、他人はおろか自分のために写真を撮ることすら難しい。思えばあの色彩に溢れた丘で撮った写真が、見ず知らずの人のためにシャッターを押した最後の一枚になった。
時々夢想する。少年が無邪気に笑い、ご両親があたたかく見守る家族団欒の光景を。
1959年生まれ。早稲田大学中退、都内で塾講師を10年務めたあと、福山で独立開業。昨年、脳卒中で半年間入院。塾をたたむ。
右半身に麻痺を抱え、妻の介護なしには生活できない。
にもかかわらず、その自覚は乏しく、傲慢不遜な性格は、おそらく死ぬまで治らない。
→エッセイ『昔の話をしようか』
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