緩やかな勾配の長いスロープを、左手で杖を突きながら歩いていた。
スロープの先では蕎麦屋の店員がドアを開けて待ってくれている。
右半身を妻に介助してもらいながらじりじりと進む。
焦れば焦るほど歩行スピードは落ちる。
妻が何か言った。焦らなくていい、といった意味の言葉だろう。店員の女性にも何か言っている。感謝の言葉のようだ。店員は「お気遣いなく」といっているようだ。苦手なシチュエイション。当事者はひたすら懸命に歩く。それが正解。
車椅子を使うべきだった、とは考えない。私の体重とスロープの距離と勾配、妻の腰の状態を考えれば、車いすは避けた方が無難だったろう。
「合理的配慮」の状況は続く。気遣う妻を気遣う店員さんの対応が、様式化されていないことに救われる。おそらく、パートで働く四十代の彼女にとって、四点杖をついてスロープをのぼってくる初老の夫婦のために店のドアを大きくきく開けて待つのは日常化した動作の一部にすぎないのだろう。
経験のもたらすゆとりが、内面的な心の動きを見事に覆い隠し、洗練された対応をしている。その適切な振る舞いは、当事者に不満を感じさせることもなければ、心理的負担を感じさせることもない。私が余念なく懸命に進むことだけを期待しているようだ。
たまたま立ち寄った蕎麦屋のスロープを、ルーティンワークのリハビリをしているよそおいで平常心のまま歩きつづけなければならない。切迫感を感じさせることのないように。
やがてスロープは終わり、入り口から最も近い席に誘導され、メニューを示される。和やかな雰囲気は1ミリの亀裂も入らず、注文が済む。滞りなく処理される手順にかかわった人々が例外なく安堵し、喜ぶ。
蕎麦を待つ間、昨夜、ネットで拾ったエピソードが意味もなく蘇る。日々、仕事もせずリハビリをするだけの老人の暇つぶしなのだが。
バーク氏は1943年頃、ソロモン海域で駆逐戦隊司令官として日本軍と死闘を繰り返していた。その後、マーク・ミッチャー中将率いる高速機動部隊の参謀長としてレイテ沖海戦、沖縄をめぐる戦いを経験している。沖縄では、日本軍の特攻によって乗艦していた空母バンカー・ヒルが大破、移乗した空母エンタープライズも特攻機によって大破した。日本人を心の底から憎み、「黄色いサル」「ジャップ」と公言してはばからなかった。戦後、GHQに勤務する際も、定宿の帝国ホテルの日本人ボーイに自分の荷物を触らせなかった。日本人を嫌悪し軽蔑しきっていた。
そんなある日、毎日の慰めに買ってきた花をコップに挿した。翌日、仕事から戻ると花が花瓶に移し替えられていた。不審に思ったバーク大佐はホテルに「勝手なことをするな」と怒鳴り込んだ。担当者は知らぬ存ぜぬで埒があかない。
にもかかわらず、部屋の花が枯れると、新しい花が補充された。奇妙に思ったバーク大佐が本気で犯人捜しをしたところ、一連の出来事は客室係の女性が密かにやっていたことが判明した。何と彼女は少ない給料から花瓶を買い、花を買っていたのだ。理由を聞かれて、彼女は「お花がお好きなのだとおもいまして」とこたえた。
バーク大佐は、彼女の気持ちを理解し、納得して対価を支払おうとした。ところが彼女はどうしても受け取らない。純粋なまごころにお金で対応できないことをバーク大佐はあらためて知る。
さらに驚くべきことを知る。彼女の亡夫は元帝国海軍の駆逐艦艦長で、バーク大佐と闘った戦場で亡くなっていた。動揺したバーク大佐は「私が殺したかもしれない」
と謝罪した。しかし、彼女は凛としてバーク大佐に告げた。状況によっては亡夫がバーク大佐を殺していたかもしれない、誰も悪くない、と。バーク大佐は深く自分を恥じた。「自分は心底日本人を憎んでいる。ところが、この女性は、立場を越えて自分をもてなそうとしている。」
こうして、日本人の心意気と礼儀、立場を離れて物事を公平に見る資質に触れて次第に反日感情が薄れ、親日家へとバーク大佐はかわっていった。
「海の友情」阿川尚之による
これは、海上自衛隊の草創期を語る方たちが、崇敬の念を込めて語る挿話のひとつ。歴史ではない。しかし「合理的配慮」によって静かに語り継がれていく。
ぼーっとした老人のとりとめもない想念は、運ばれてきた蕎麦によって中断された。
福山でこれほどの蕎麦は食べたことがない。付き合わせの天麩羅もいい。嬉しい驚きに顔がほころぶ。箸の使えない手に持ったフォークが躍る。
食後、満ち足りた気分でゆっくりと出口へ向かう。店員さんはドアを開けたまま待っていてくれる。短い謝辞を残して、私たちは静かに店を出る。再び長いスロープを妻に支えられながら歩く。
「また来ようね」と妻が明るく言う。「そうだね」と私も頷く。
「トイレにいきたいんだけど」 なるべく感情的な成分が混じらないように事務的に言った。
六月には珍しく、からりと晴れた午後(カリフォルニアみたいねと妻は言った)ぼくたちは公園の駐車場にいた。病院で1時間の定例リハビリを受け、帰宅する前にちょっと散歩しようと寄ったところだった。
外出時の「行く前トイレ」は、万難を排して遂行しなければならない僕の義務だ。家ならひとりでできる。外だとそれは難しい。介助してくれる妻と一緒に入れるトイレが少ないからだ。「トイレは家で」は常識だ。病院は例外的な場所だ。利用できるトイレがいくつもある。透徹した洞察力があれば、病院を出る前にトイレは済ませておくだろう。公園に着いて、車から降りたとたん、「トイレにいきたい」とは言いださないはずだ。
「前もってどうして予見できなかったのか、公園に来る前ならスーパーのトイレだって利用できただろう」 誰だって難詰したくなる。言っても仕方ないとわかっていてもひとこと言わずにはいられない。
ところが、僕のリクエストを耳にすると一瞬諦念の表情を浮かべたが、妻は何も言わず善後策を練る。逆巻く感情を押し殺し、ため息もつかず、最適解を探す。一番近い多目的トイレはどこか考えているのだろう。
僕は以前から温めておいた秘策を提案する。「一般用トイレでも立ったままできると思うんだ」 なるべくあたり障りのない事実を述べるように告げる。杖から手を離して足だけで立ち、歯を磨き、髭を剃り、髪を調える、20分前後かかる「護顔工事」を僕は一人でやっている。確かに病院では車椅子に座っていなければ許されない行為だったし、退院してからも初めのうちは必ず妻に椅子を用意してもらっていた。それがいつしかわずらわしくなり、気ままに行動したい僕は、好きな時に「護顔工事」をするようになった。
一般用トイレの「立ちション」は、まさにこのような状況で試してみるべき事例だとおもっていた。もし、今回うまくいけば外出時のストレスは激減する。しかし、慎重な妻は違った。体重をかけられる洗面台がある「護顔工事」は黙認できても、そうでない一般用トイレの「立ちション」は許容範囲外だった。一言でいえば「リスクが大きすぎる」 僕の諦めの悪い態度に辟易した妻は、猛烈な勢いで、発想のまずさ、僕の自己認識力のなさを雄弁に語った。まっとうな慎重論に反論する気はなかった。
とりあえず、アリーナには、体の不自由なひと用のトイレがあるだろう、そこに行ってみようということになった。その場から直線距離で80mぐらいだろうか。切迫した状況下でも歩けない距離ではなかった、ただ、その日のリハビリ中から普段よりも重く感じていた右足が、いつにも増して一層重い。
入院中、理学療法士から習った歩行の基本動作は、「杖、1,2」だった。「杖」で左手の杖を前に出す。「1」で右足を前に出す。「2」で左足を右足にそろえる。その反復で前進する。調子のよい時はリズミカルにすすむ。しかし、痺れが強く、右足が思うように出ないときは、歩みがのろい。その時、右足の機嫌は中の下だった。
さらに、大きな障害があった。アリーナ前面には四段の階段がある。右手端っこにはスロープもあって。車椅子なら無条件でスロープに向かうが、時間の制約がある今悠長なことはしていられない。正面階段強行突破。
80mを口を真一文字に結び一気に歩いた。怒涛の勢いだったが、三歳児の全力疾走ほどもなかったろう。
妻に介助してもらい四段の階段を慎重に、しかし強気に登った。出来は一段目から90点、95点、90点、55点。初めの三段はスムーズにいった。介助なしでもいけたかもしれない。四段目はダメ。妻がいなければ転倒していただろう。右足の引き上げに失敗しバランスが大きく崩れた。その瞬間、妻が支えてくれた。
「もっと丁寧に右足をあげろ」学校の教師なら言うだろう。しかし、三段上手に登れたなら、四段目で無様な恰好になっても上出来だ。ありがたいことに、妻も「いいんじゃない」という顔をしている。階段は思ったほど脅威ではなかった。
ドアにたどりつく。自動ドアが開く。泥除けマットが待ち換えている。無造作に足をだすと、マットの端に足をとられる。恐る恐る右足を出す。大丈夫、躓かずに行ける。
一般用トイレはアリーナに入ってすぐのところにある。車椅子マークのトイレは20m先にある。「最大多数の最大幸福」。ため息をついて「杖、1,2」のリズムを刻む。右足はいよいよ重い。だが、膀胱はもうこれ以上膨らむ余地がない。急げ。
トイレはキレイだった。安堵の喜びに包まれて心ゆくまで用を足した。解放感いっぱいで出た後、ロビーのベンチでたっぷり休憩し、外へ出た。ちょっと散歩した。妻は、夕暮れの西の空に美しい彩雲を見つけ、すこぶるご機嫌になった。「いいことがあるわよ」と弾む声で言った。
脳卒中で倒れるまでは、野球観戦はきわめて日常的な次元で提案され、実行されていた。新幹線で30分、マツダスタジアムは近い。しかし、右半身不随の後遺症が事情を変えた。
スタジアムのチケットは車椅子専用シートでなければならない。一般の席には座れない。そこまでたどり着けない。そもそも今の僕には広島駅からマツダスタジアムまでのカープロードすら歩きとおせない。
新幹線の予約にしても面倒だ。携帯電話であっさり簡単にはできない。スタジアム同様、車椅子専用の座席を予約しなければならないし、乗降に介助者もお願いしなければならない。ホームと車両の間の隙間に渡すスロープもお願いする必要がある。ホテルの予約まで入れると倒れる前の何倍もの手間がかかる。
今回は、電話をかけて妻が全部してくれた。ありがたかった。ただ「してもらっている」という意識にさいなまれる。滑舌が恐ろしく劣化した僕が電話するより、妻が電話する方が手っ取り早い。合理的だ。だが、妻に申し訳なく思う気持ちはつきまとう。入浴の介助とは異なり、カープの試合は娯楽だ。TVで見ても結果は変わらない。僕の道楽だ。そのために妻はあちこち電話をかけ、色々手配を進めている。
車椅子用スペースは、コンコースから内野席に降りていくところにあったような気がする。というより、コンコースの一部を車椅子用座席に使っていたように思う。以前は、「見づらいところでかわいそうだな、でもしかたないか」と思っていた。座席がコンコースの一部である利点は、段差を気にせず、トイレにも「カープうどん」の売店にも車椅子を押していけるということだ。
しかも絶対に雨に濡れない。グラウンドから遠いという欠点はどうしようもないが、雨具で雨をしのぎながら試合を観戦する必要はない。その優位性は小さくない。
TVには映らない、その場にいた者でなければわからないことがある。
2016年、6月14日、マツダスタジアム。相手は西武ライオンズ。九回裏2-2、一死、一、二塁。僕たちは一塁側内野席にいて、ドキドキしながらサヨナラの瞬間をまっていた。バッターは赤松。打球はセンター前へ抜ける。センター秋山が素早く捕球、矢のようなバックホーム。猛然と突っ込んできた二塁ランナー菊池はしなやかな身のこなしで捕手のタッチをかいくぐり、ホームイン。「やったー」と僕たちは、大歓声を上げ勝利を喜ぼうとしたその瞬間、審判の右手が上がった。すぐさま緒方監督が飛び出し、ホームベース上で審判に猛烈抗議。身振り手振りのオーバーアクションで、捕手が走者の進路を妨害してはならないコリジョンルールを主張。審判団がグラウンドから消え、ビデオ検証がはじまった。長い、長い協議が10分も続いた。
審判団が出てくる。静まり返るスタジアム。固唾を飲んで見守る観客。やがてチーフアンパイアがおもむろに両手を広げる。湧きあがる大歓声、ベンチを飛び出すカープの選手たち。誰よりも速く、先頭を切って二塁付近まで全力疾走したのは赤松だった。仲間のペットボトルの祝福を浴び、満面の笑みを浮かべている。
もうひとつ思い出す。
2018年、7月4日、マツダスタジアム。相手はヤクルト・スワローズ。カープの先発はクリス・ジョンソン。その日、ジョンソンの調子はよかった。試合後のヒーローインタビューで、先頭打者ホームランをはなった田中広輔が「ジョンソンが味方でよかった」というほど、キレのある投球だった。
途中で雨が降ってきた。スタジアムで購入した赤いカープ合羽に身を包み、そぼ降る雨のなか声を枯らして応援を続けた。ジョンソンは失点を許さず強気でビシビシ投げていた。後年、「雨に弱い」と揶揄された彼はいなかった。
9回一死、完封目前。点差は4点あった。代打にヒットを打たれた。嫌な雰囲気になった。あっという間に2点とられた。打った山田哲人を褒めるべきだった。一塁ベンチからコーチが出てくる。
ジョンソンがまだ投げたいと思っていることは見てとれた。とそのとき僕たちの近くにいた年配の男性が大声で叫ぶ。「投げさしちゃれえやぁ!!」 どっと観衆が沸く。続投を望むカープファンは少なからずいた。しかし、監督はピッチャー交代を告げた。僕はジョンソンに同情しつつも監督は正しいとおもった。
ジョンソンはクールにマウンドを去り、あとを継いだ中崎が、波乱もなく試合をしめた。帰り道、カープロードを歩く僕たちの足どりは軽かった。
近々、カープの試合を見に行く。どんなドラマが演じられるのか。楽しみ、楽しみ。
妻の運転免許証更新に同伴した。
手際よく、視覚検査、写真撮影、ビデオ講習が行われた。私は車椅子に座って、音楽を聴きながらロビーでずっと待っていた。終わるまで、あまり時間はかからなかった。多くの日本人が、かかわる行政手続きとしては、よくできている制度だと思う。確定申告も免許証の更新並みに簡便になれば内閣支持率もあがるのに、と思った。
昨年、私も更新の通知を受け取った。しかし、外来で、車の運転をシミュレーション装置を使ってリハビリ中だったため、更新を保留したままにしている。脳卒中の後遺症で、右半身に麻痺が残り、車の運転は到底無理だった。
入院の早い段階で、自分が車のハンドルを両手で持てなくなったことを自覚し、いささか、ショックを受けた。車の運転に必要な最低限の滑らかな動きができない。むしろ右手はハンドルを触らない方が無難だ。
ハンドルの左上に球形の補助具を装着し、左手でその球を握ってハンドルの操作を練習することになった。どこまでハンドルをきればいいか、はじめて8か月たつのにまだわからない。ハンドルに角度表示でもあればいいのに、と思う。経験的に会得するのが下手な人間は時間がかかる。
方向指示器も左手でレバーを操作することになった。脳卒中発症時乗っていた車の方向指示器は、ハンドルの左側にあった。だから、まともな左手で方向指示器を操作することになって少しよろこんだ。そうはいっても、ハンドル補助具を握りつつ、方向指示器を上げたり下げたりするのは難儀だった。と思っていたら、乗る予定の車が変わった。方向指示器もハンドルの右側にかわった。やれやれ。右手のリハビリがはじまった。
ブレーキ、アクセルを左足で踏むことになった。左足では踏み込む加減が難しい.微妙な調節を滑らかにするには相当な練習がいる。シミュレーション装置の画面上で、適性位置に停車できるのは稀だ。だいたい早過ぎる。公道上で試せる技量ではない。
不器用を自認する私にとって、この運転リハビリは苦痛以外の何物でもない。
シミュレーション装置のモニターに映る街路を走行すると、次から次へと画面上で事故を引き起こす。
スタートの場面。さあ、始めるぞ、アクセルを踏んで発進だ、と思った瞬間、「発進するときは、右に方向指示器を出してください」 すみません。
再スタートの場面。気を取り直して発進すると、突然、ドシン、後続車に追突される。「ミラーで後方確認してください、この車が接近していました」 すみません。
信号が赤にかわった場面。ブレーキを踏む。くそ、強く踏み過ぎた。前方には意味のない空間。
交差点、車は右折する場面。歩道走行中の自転車が突然、横断歩道へ、避ける間もなくガシャン。そこでまがってくる? 「ゆっくり曲がりましょう、危険予知の余裕が必要です」 すみません。
交差点、車は左折する場面。ハンドルを適切に操作できない、曲がり切れずに、停車中の対向車に正面衝突。ガシャン。すみません。
細めの路地の場面。対向車が来る、左によって安全にすれ違おうとすると目測を誤る。右前部接触、ガシャン。すみません。
運転リハビリ、ああ、面白かった。という日はいまだない、もうやめようか、と思い悩む日は多い。それでも月に一度の運転リハビリを続けている、いや、続けるつもりだ。
歩く方は上達する見込みがない。調子のよい日、悪い日はある。しかし、あと半年やれば、杖を手放せますよ、と言うのではない。右に開き気味の体の向きを矯正できるかどうか、せいぜいその程度だ。
車は違う。まだ全然だめだけど、もし運転できるようになったら、革命的に行動が変わる。ただ横に座って目的地まで連れていってもらうだけの便乗者から、自分の意志で運転する行動者に変身する。生きる姿勢が本質的に異なる存在へと変わる。個人的にはそう思っている。
それに伴うリスクはもちろんある。事故の危険性はいくら強調してもたりない。自分だけではない。他人を巻き込む可能性も0ではない。
入院中の主治医は、私が運転免許証を取りたい、と申し出た時、はっきりと反対された。リハビリを続ければ運転は可能になるかもしれない、しかし、判断力、注意力が劣化しているのは否定できないのだから、乗るべきではない。そうおっしゃった。誠にもっともなご意見で、反論しようがない。免許証は、私にとって悪魔の誘惑なのかしらん。
1959年生まれ。早稲田大学中退、都内で塾講師を10年務めたあと、福山で独立開業。昨年、脳卒中で半年間入院。塾をたたむ。
右半身に麻痺を抱え、妻の介護なしには生活できない。
にもかかわらず、その自覚は乏しく、傲慢不遜な性格は、おそらく死ぬまで治らない。
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