1994年の5月、北九州市立穴生公民館の一室で、1つの教室が始まった。その名は「青春学校」、在日コリアンのハルモニたちが日本語のよみかきを学ぶ場だ。ハルモニとは、「おばあさん」という意味の韓国語である。「青春学校」という名は「私には青春がなかった」「学校に行きたかった」と言うあるハルモニのことばから「青春を取り戻す学校」という意味で名付けられた。
木曜の夜7時になると、公民館には在日コリアンの女性たちが集ってくる。在日一世のハルモニには、自分の名前すら書けない人が多く、日本で生まれた二世は、小学校に入学しても貧しさや家庭の事情で卒業できなかったという人がほとんどだった。
私は開校時から、有志とともに青春学校の運営に携わり、この間に数十人のハルモニたちと同じ時を過ごしてきた。以下、ハルモニたちとのエピソードを自分の体験も含めて紹介したい。
〇李さん、当時80代
「わたしは八十すぎて がっこうにくるとは おもいもしませんでした。ここにきて いっしょに べんきょうすることは ゆめみたいです。ほんとうに たのしみです。ながいきしたかいが ありました」(※)
これは、在日一世である李さんの作文だ。植民地下の朝鮮半島で生まれた李さんは、韓国から出稼ぎに来ていた夫との結婚を機に渡日し、8人の子どもを産み育てた。子どもたちは皆、日本の学校を卒業している。
全くの非識字者が多い一世のハルモニの中で、当時80代の女性にはめずらしく、李さんは韓国語のよみかきが堪能だった。しかし、日本語のよみかきは、ほとんどできなかった。会話はできるが、「韓国語なまり」と言おうか、すこし話をすると日本人ではないことが分かる。
ある日、李さんの家を訪ねた時のことだ。李さんがこう言った。「このあいだ娘から言われたんよ。かあさん、私の働く店には絶対に来んでねって」。李さんは、娘さんがパートで働いている店へ買い物に行こうと思ったらしいが、来ないでと言われて寂しかったと言う。娘さんは、韓国人であることを周囲に隠して仕事をしている。李さんが母親だとわかると、韓国人であることが周囲に知られてしまう。李さんの娘さんは、それを嫌がっていたのだ。
60年ちかく日本で生活している李さんだが、大人になって覚えた日本語の発音は容易ではない。一方、日本で生まれた在日二世の娘さんは、自分から韓国人だと言わない限り、周囲の人は彼女を日本人だと思うだろう。彼女が韓国人であることを隠すことはたやすいことなのだ。
1923年の関東大震災時に、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」などの流言飛語により、多くの朝鮮人が自警団から殺された。震災後の混乱時に、外見は日本人とほぼ変わらない朝鮮人を見分ける方法として「15円50銭」と言わせて識別した話は有名だ。一世の朝鮮人は15円50銭を、「ちゅうこえん、こちゅっせん」と発語する。なぜなら、朝鮮語の語頭には濁音がないからだ。
李さんから娘さんの話を聞いたとき、私はすでに亡くなった自分の祖母(ハルモニ)のことを思い出していた。私には李さんの娘さんの気持ちが痛いほど分かる。なぜなら、私もかつて、同じようなことばを私の祖母に言っていたからだ。
学生時代の私は、自分が在日コリアンであることを周囲に隠していた。「朝鮮人」だといって差別を受けることを恐れたからだ。
私の祖母は近くの街に住んでいたが、外出する時には、よそ行きのチマチョゴリを着ることがあった。髪を結って、チマチョゴリを着て歩く姿は、まさに朝鮮の女性であった。50年近く日本で暮らしていても日本語は片言しか話せない。そのような祖母の来訪は私にとって、ちょっとした恐怖だった。友人が家に来たとき、私は祖母に「出てこないでね」と言った。人目が無いときは大好きな祖母だが、日本人の目を気にしたときは嫌いな存在に変わる。韓国なまりの祖母(ハルモニ)のことばを、当時の私はどれほど疎ましく思ったことか。孫に冷たくされて寂しそうな祖母の顔を、私は今も覚えている。
在日三世の私は、日本社会に漂う朝鮮人に対する偏見を空気のように吸い込んで育った。私が在日コリアンとしての自尊感情を持つことができたのは、青春学校で学ぶハルモニたちのことばから、彼女たちの人生にふれ、在日コリアンの歴史を学んだからだ。ハルモニたちは、なぜ日本に来たのか。植民地下の朝鮮、そして終のすみかとなるであろう日本で、どのようにして生きてきたのか。
文字もことばも分からない国で必死に子どもを育ててきたハルモニたち。異国での生活は並大抵の事ではない。命がけで家族を守り、差別のなかで歯を食いしばって生きてきた。
ハルモニたちの歴史を知れば知るほど、そこには尊敬と感謝しか生まれてこなかった。過去の自分を思うとき、無知であることがいかに不幸なことかを思い知らされた。そして、亡くなった祖母に対する自分の行動を私は心から詫びた。
青春学校で学ぶハルモニたちのことばは、時折私の胸をかきむしった。ハルモニたちのことばの裏から、社会の矛盾や差別の現実、さらには在日としての自分の立ち位置を思い知らされるからだ。「なぜ、ハルモニたちは学べなかったのか」そして、「なぜ、私は自分の祖母を疎ましく思ったのか、その原因はいったい何なのか」さらに「自分はいったい何者なのか」・・・。
ハルモニたちの多くは、すでに鬼籍に入った。彼女たちから多くを学んだ私にできる恩返しは、ハルモニたちのことを伝えつづけることなのかもしれない。
(続)
「こんなもん、なんの値打ちがあるかね。うちは全部捨ててしまうよ」「だめだめ、1冊も捨てたらいけんよ。私がみんなもらうから、絶対に捨てたらいけんよ」これは、ノートをめぐる私と禹順南さんのやりとりだ。このノートは、禹さんが生まれて初めて自分の名前を記したものだ。何日も何日も、名前だけを書き綴り、すき間なく埋めつくされた数冊のノート。「こんなもん、なんの値打ちがあるかね」という禹さんだが、私にとってこれらは、宝石のようなノートだった。
禹さんが、初めて鉛筆を握ったのは、1994年春、青春学校開設前にスタッフと共に大阪の夜間中学を訪問して北九州に戻った夜だった。
「大阪の学校で、うちより歳の多い人が、鉛筆もって勉強しよるやろ。その人が、うち見て鉛筆貸してあげるって言ったけど、断ったんよ」「そんとき、うちは鉛筆一回も握ったことがなかったから、恥ずかしかったね」「大阪から帰って、初めて鉛筆をにぎってみたよ。持ち方がわからんけ、しっかりにぎってね。病院でもらった薬の袋に、うちの名前があることは知っとたけ、その袋みて、まねして書いてみたんよ」
翌日孫から鉛筆の握り方を教わった禹さんは、毎日のように自分の名前をノートに綴った。73歳で初めて握った鉛筆。禹さんが生まれて初めて書いた自身の名前、それだけで埋められた数冊のノートを見た時の驚きと衝撃を私は今も忘れられない。
同年5月、北九州市立穴生公民館の一室にハルモニ(おばあさん)たちの識字学級「青春学校」が開校した。週一回、1時間半だけの教室だが、禹さんは休むことなく通った。最初は全く読み書きができなかった禹さんだったが、青春学校に通うことで、少しずつ文字が書けるようになっていった。
在日コリアンの禹さんは当時、区役所で外国人登録の切り替えをしなければならなかった。1995年に5年ぶりの登録切り替えに行った時のことを、後にこう語っている。
「いっつも登録行く時、自分のサインせえいうてもできんやろ。だから、うちの横に座って嫁さんが書くか、孫が書くのに、去年はね、ばあちゃんついていこうか言うたらね、こんでええばい、て言うたんよ」「ばあちゃん、書ききるって言うから、さあ、どうかね、いってみるわいってね」
「行ったらね、名前書きなさいって言うから、下手でもいい、言うて」「はい、どうでもいいから書きなさいって。やっとかいたっちゃ」「書いて、これでいいですかって言って」「うん、いい、いいそれでいいっていうて」「はあ-って思ったよ、やっと自分の名前、こんなとこ来てね、書いてみたなーと思って」。
青春学校開校の翌年、生まれて初めて禹さんは、自身の名前を公の場所で書くことができた。
なぜ、禹さんは73歳になるまで、名前すら書くことができなかったのか。禹さんは、自身の生い立ちを私に語ってくれた。
1921年、朝鮮半島南部の農村で生まれた禹さんは、幼い頃、村の集まりに母親と一緒に参加したことがあるという。「春香伝」など、朝鮮時代の説話を聴くその集まりは、文字の読めない農村の女性たちにとって唯一の娯楽であった。母親たちが大声で笑い、時には涙しながら、物語に聞き入る姿が禹さんには忘れられないという。ある日、読み書きができる村の女性が、禹さんにハングルを教えてくれた。生まれて初めて文字を教わった禹さんは、ハングルの書かれた紙を大切に持ち帰った。「うれしいで、家族にみせたんよ。そしたら、女に字はいらん。嫁に行って、米がないとか、醤油がないとか、そんな手紙を書いたらどうするか、ちうて、おじいさんがその紙を目の前でビリビリ破ってしもたんよ。悲しかったね。そん時から、字なんか、習って何になるかと思ったよ」
16歳で結婚。すぐに夫は日本へ渡っている。禹さんが夫に呼ばれて渡日したのは22歳の時だった。当時夫は、関門トンネルの採掘工事に従事していた。トンネル工事が終わると、ダム工事、道路工事など、日銭を稼ぐ肉体労働を続けるなかで、禹さんが38歳の時、夫は突然の病で亡くなった。当時、長男が中学生、末の子は小学校に入学したばかりだった。突然、夫を失った禹さんは、4人の子どもを育てるために、死にものぐるいで働いた。読み書きのできない禹さんの仕事は、土木工事や廃品回収、野菜売りなどであった。
「お金になることなら何でもしたね。でも、泥棒だけはせんやった」「雨が降って仕事ができん時は、子どもに何も食べさせきらんやった。その時が一番辛かったね」「長屋住まいで隣の家からは、夕飯炊く湯気が出とるのに、うちは何もない。恥ずかしいから、お湯を沸かして湯気だけ出したこともあったよ」
禹さんは友人に誘われて民族学級に足を運んだことがある。「勉強したかったから、一回いったけど、主人が死んで、子どもを育てないけんときに、学校どころじゃなかったね。あした子どもに何たべさせるかと考えてたら、先生から、勉強せんなら、こなくていい、と言われたよ」
結局、禹さんは、その学級にたったの1日しか通うことはできなかった。
「子どもたちは皆、中学だけは行かせたけど、高校にはやれんかった。その代わりに、孫たちには、しっかり勉強せえ、ちうて、みな大学までいったから、うれしかったね」
青春学校に出会うまで、全くの非識字者であった禹さん。学ぶ権利は誰にでも保障されているにも関わらず、彼女が文字を知ったのは、日本に来て50年後のことだった。
「うちの夢はね、自分の生きてきたことを書くこと。自分の苦労したことは誰にも言いたくない。だから自分のことをみんな紙に書いたら、どんだけいいかね」
2016年、禹さんは自分史を書きたいという志の半ばで亡くなった。95年の人生だった。
自分で名前が書けるようになりたい、という思いで書き遺された禹順南さんのノートは、今も私の宝物だ。
2020年の国勢調査によれば、現在でも15歳以上で小学校しか卒業していない人が全国に89万8748人、その内の9万4455人は、小学校すら通うことができなかった人たちだ。禹さんの事例は決して過去の話ではない。
「大学を出た先生たちはいつも『大学語』を使うから、分からん言葉が多いよ。先生たちが使う言葉は、ほんとに難しいね」
これは、青春学校で読み書きを学んだ後、定時制高校に入学した張守祚(チャンスジョ)さんのことばである。張さんは、漢字の熟語を「大学語」と呼ぶ。張さんの造語だ。「需要と供給」、「上昇、下降」「拘束、釈放」などなど。張さんが指摘する「大学語」は日常にあふれている。
義務教育を終えていない張さんが、中学校卒業程度認定試験に合格して念願の定時制高校に入学したのは、64歳の春だった。中学校卒業程度認定試験とは、文部科学省が義務教育の未修了者に対して中学校卒業程度の資格を与える試験で、年に1度実施している。
中学校卒業程度認定試験に合格して、高校に入学したといっても、張さんは小学校には3年までしか通っていないため、漢字の読み書き能力は十分ではなかった。定時制高校の教員は、張さんのため黒板の漢字にルビを振ってくれた。張さんはルビを振ってくれる先生たちに感謝していた。しかし、彼女はたとえルビが振られていても、その漢字の意味が理解できないことも多々あった。時には意味を尋ねる張さんだったが、徐々に尋ねることを止めたという。「自分の為に貴重な時間を割いてくれることが申し訳ないから」と、張さんは語った。
勉強についていけなくなっていった張さんは、授業での疑問を家族にぶつけるようになっていく。昼間は自宅の隣に店を構える息子に、夜は仕事から帰ってきた娘に、張さんは毎日「勉強を教えて!」と迫った。ある日、娘が張さんに言った。「おかあさん、毎日学校に通っているのに、なんで先生に質問しないの?」と。すると、「先生には質問してるよ。でも大学語ばかり使うからわからんのよ。それに2回くらい聞いて、それ以上は聞けないよ。いくら私でも『わからない』って言いきらんよ。でも、あんたになら3回でも4回でも聞けるやろ」と応えた。
張さんにとって憧れの高校生活だったが、授業のハードルは高かった。しかし、彼女は楽観的であった。「勉強はゲームだと思ってるよ、なにか1つでも分かると心がわくわくしておもしろいやろ」と言って、雨の日も風の日も休むことなく学校に通った。
膝のわるい張さんが階段をあがっていると、男子学生が張さんの手を引いてくれる。「私にも高校生の孫がいるから、みんな孫みたいでかわいかったよ」と語る張さん。教室のなかでの張さんは母親のような、祖母のような存在だった。遠足、スピーチコンテストなどの行事にも積極的に参加した。「私は世界一の幸せものだよ」。定時制高校に通うようになった張さんは「幸せ」という言葉をよく使うようになった。
1934年に現在の北九州市で生まれた在日コリアン二世の張さん。小学校に入学したころに太平洋戦争が始まり、終戦時は5年生のはずだが、すでに3年生の頃から学校にはほとんど通えなかった。張さんの父親は出稼ぎに行ったまま音信不通で、母親は足が不自由だった。張さんは、お腹をすかして待っている幼い弟や妹の為に、小学生の頃から石炭を拾っては町で売り歩いたという。
「学校に行きたかった」「隣の美代ちゃんが中学校に通う姿を見て、うらやましくてたまらなかった」「私には青春がなかった」と張さんは当時のことを語った。
19歳で在日コリアンの男性と結婚し2男1女をもうけた。夫も学校には1日も行っていない非識字者だった。
「子どもが小学校に行くようになってね、おかあさん勉強おしえて、といわれた時が一番辛かったね。足し算、引き算までは分かっても、割り算からもうわからんかったからね。主人も学校にいってないやろ、それでも2人で一生懸命働いたよ。子どもたちには不自由させたくなかったから」
張さんは夫と共に古鉄商を営んだ。後に車の免許をとって、トラックの運転手になると道路工事などの現場で働きながら3人の子どもを育てた。子どもたちが成長し、生活にゆとりができたころ、夫が他界する。張さんが53歳の時だった。
張さん親子が「夜間中学」の存在を知るのは、張さんが58歳の時だ。映画監督の山田洋次さんが、制作中の映画『学校』の舞台となった「夜間中学」について、テレビ番組で語っていたのだ。
「夜間中学」とは、何歳からでも学ぶことができる義務教育保障機関である。中学校だが、ひらがなやカタカナから学ぶことができる。授業料は不要、様々な国の人が学んでおり、生徒の年齢も10代から80代までと幅広い。
夜間中学の存在を知った張さんは、「私も行きたい」と娘に言った。娘は、母親が通える「夜間中学」を探すが、当時は北九州市どころか、九州に夜間中学は1校も存在しなかった。
「なぜ九州には夜間中学がないのですか?」と、当時大学に通っていた娘は、教授に問いかけた。その後、大学の教員らが発起人となり、地域の公民館で週1回の「青春学校」が開校する。張さんの「私には青春がなかった」という言葉から、「青春を取り戻す学校」という意味が込められた。張さんは、週1回の青春学校で学ぶうちに、毎日学びたいという思いを強くしていった。公立の夜間中学がないため、張さんが毎日通える学校は、定時制の高校だけであった。
しかし、張さんは中学校どころか小学校も卒業していない。高校に入るには中学校の卒業資格が必要である。中学校卒業程度認定試験では、英・数・理・社・国の5科目すべてに合格しなければならない。
青春学校で試験勉強に取り組んだ張さんは、1回目の受験で合格した。合格の知らせを聞いた張さんは、何度もバンザイを叫んだという。そして「当てずっぽうで答えを書いたのに、運が良かった」と家族に語った。
翌年春、張さんは定時制高校に入学。石炭を拾いながら学校に通う友人をうらやましそうにみていた幼い張さんは、50年という時を経て、あこがれの高校生になった。
4年間の高校生活が終わりに近づいていた。教師や学友、家族に見守られて通った定時制高校の卒業が迫ったある日、張さんは娘に言った。「私は女子高校生だから卒業式にはピンクのチマチョゴリをきて出席したい」と。卒業式当日、ピンクのチマチョゴリで身を包んだ張さんは、一列目の中央付近に座って記念写真におさまった。友人や孫たちから花束を受け取った張さんは、「私は世界一の幸せ者だよ」と言って、満面の笑みを浮かべていた。張さんにとってこの日は、生まれて初めての卒業式だった。
15年前、張さんは突然の事故で亡くなったが、生前張さんは自身の思いを赤裸々に語っている。彼女が発することばは、私に多くの問いや気付きを与えてくれた。
「大学をでた先生たちは『大学語』ばかり使うから、意味がわからんよ」「先生には2,3回聞いてもそれ以上は聞ききらん」「分からんことがあっても、教えてくれる人がいるから、心が落ち着くよ」「勉強して明るくなった。昔は下ばかり向いていたけどね」「学校のおかげで今は本当にしあわせだよ」・・・。
教師とはどうあるべきか、読み書き出来ない事がどれほど苦しいことか、学校とは何か、そして、学ぶことで人はどれほど幸せになれるか、などなど。
ハルモニたちの多くは鬼籍に入ったが、彼女たちの遺したことばは、これからも私たちに多くの学びを与えてくれることだろう。
現在、自主夜間中学 穴生中学校夜間学級スタッフ
(公社)福岡県人権研究所特命研究員
北九州市立大学非常勤講師
自主夜間中学校「青春学校」「穴生・中学校夜間学級」の開設、運営に関わる。
北九州市在住の在日コリアン三世
著書『多文化共生のまちづくり』(共著)他
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