はじめに
2020東京オリンピック(2021年7月23日~8月8日)に引き続いて8月24日から9月5日までの12日間にわたって2020東京パラリンピック(以下
、2020パラ)が開催された。本大会は、コロナ禍にかかる緊急事態宣言への対応として無観客で行われたことから、私ももっぱら自宅でテレビなどを通して大会の様子を垣間見ただけである。
一方、1964東京オリンピック(10月10日~24日)に引き続いて11月8日から12日までの5日間にわたって開催された1964東京パラリンピック(以下、1964パラ)(注1)の際には、同年5月に神奈川県座間市(当時は、神奈川県高座郡座間町)に開設された社会福祉法人日本キリスト教奉仕団アガペ身体障害者収容授産施設(定員:当初30名、その後50名)に生活指導員として勤務していたことから、そこに入所していた身体障害のある方々と一緒に、最寄り駅の小田急線南林間駅から大会会場・代々木公園陸上競技場の最寄り駅である代々木八幡までは電車で、そして、そこからは(まだ車いすでの利用が可能な低床バスなどはなかったため)徒歩で観戦に行った。当時は、駅にはエレベーターなどは整備されていなかったことから、南林間駅および代々木八幡駅に事前に連絡し、車いす利用者の電車の乗り降りは、駅員の方々に手助けしていただいた
以下では、2つの大会でわたし自身が見聞したことや、マスコミの報道で知ったことなどを通して、その間(57年ばかり)障害者をめぐって日本の社会がどのように変化してきたのかについて考えてみたい。
1.1964東京パラリンピック
(1)1964オリ・パラ実施主体間の関係
1964パラは、1964東京オリンピックと一部は同じ会場で開催されたものの、1964東京オリンピック組織委員会と1964パラの実施主体となった東京パラリンピック大会組織委員会は全く別組織であった。つまり、両大会の企画・運営・広報などおよび関連予算執行はほとんど無関係に行われた(注2)。1964パラには国(所管は「福祉」行政を担う当時の厚生省)や東京都などから補助金が交付されたものの、それだけでは全体の経費を賄うことはできず、不足分は民間からの寄付などに頼らざるをえなかった。また、同大会予算が限られていたことから、海外からの参加者などのための通訳も大学生等、156人のボランティアにより行われた。このことにも象徴されるように、同大会の企画・運営は、専門業者に委託することなく、多くの民間の有志を含む、関係者による手作りに近い形で行われたといえる。
(2)日本選手の状況
同大会に参加した選手数は、22か国・地域からの375人で、そのうち日本の選手は53人で全員脊髄損傷による両下肢まひ者であった。同大会は別名「第13回国際ストーク・マンデビル車いす競技大会」と呼称されることからもわかるように、もともとは1948年に英国ストーク・マンデビル病院に設置された国立総合脊髄損傷センターに入院していた脊髄損傷者のリハビリテーション・プログラムの一環として開始されたものだからである1。
1964パラに参加した日本選手のほとんどは、国立箱根療養所(現・国立病院機構箱根病院)等の国立病院や療養所の入院患者や訓練生だった。彼らの大部分はスポーツの経験もなく、短い練習期間で同大会に間に合わせたというのが実情といわれる2。それに加え、日本選手にとって不利だったのは、当時の日本製の車いすで競技に臨まざるを得なかったことである。欧米各国の選手が使っていたのは、個々人に合わせて作られたオーダーメイドの使いやすい、軽量の車いすだったのに対して、日本選手が使っていたのは、病院や施設用の既成のかなり重いもので、それを自由に使いこなすことは、誰にとってもきわめて困難だった。
同大会では9競技144種目で競技が行われたが、日本のメダル獲得数は10個(金1、銀5、銅4)で、13位だった
同大会の目的が、メダル数を競うオリンピックとは異なり、「勝つことではなく、参加すること」、「海外の身体障害者との交流を深め、国際親善に努めること」とされたのは、同大会に選手として参加した日本の身体障害者がおかれている現実を配慮したものともいえよう。
(3)身体障害者の福祉事情
施設や病院で隔離されるような生活を強いられていた多くの日本選手の状況は、当時の日本の身体障害者福祉事情を端的に示すものである。
当時わたしが勤務していた施設は、「身体障害者収容授産施設」(現・就労継続支援A・B型事業所に相当するもの)とされていたことからもわかるように、こうした施設は全国的にまだきわめて限られていたことから、自宅から通所で利用することは想定されておらず、施設を利用するには、住み慣れた地域を離れ、施設に併設されている寮に入り、そこで生活しながら、日中は作業に従事したり、作業訓練をうけることが求められていた(注3)。
また、とくに両下肢障害のある人たちにとっては、地域にアクセシブルな住まいを確保することが困難なため、入所施設を利用せざるを得なかったという事情もある。
寮の居室の最低基準面積は、1人3.3平方メートルで、原則として2人部屋での共同生活。そうした狭いスペースにベッドを2台入れると室内では車いすは使えないといった生活環境であった。また、そのスペースでは室内をカーテンで仕切ることもできず、ほとんどプライバシーのない生活が当たり前の世界であった。同施設開設当初から2年ばかり生活指導員兼(寮に泊り込みの)舎監を務めたが、居室空間の狭さなど生活環境の劣悪さや生活習慣の違いなどによる人間関係上の問題の調整や、次の展望がないことからくる深刻な悩みなどの相談などに追われた日々のことが思い出される。
(4)身体障害者の就業状況
日本選手のうち仕事をしていたのは5人だけで、いずれも自営業(時計修理や印刷など)であった。海外から参加した選手のほとんどが様々な職業に就くなど、社会人として活躍していたのとはまさに対照的であり、このことはマスコミでもかなり大きく取り上げられた3。
当時自営業に従事する身体障害者が少なくなかったのは、公共身体障害者職業訓練校の職業訓練科目が自営業向けのものが多かったこと、そして自営業開業を支援するための、都道府県社会福祉協議会による低利の自営業開業資金融資制度があったことなどによる。
因みに1950年に施行された身体障害者福祉法の解説書によれば、身体障害者の「更生の一方途として極力自営を奨励すること」とされ、その結果そのころ設置された身体障害者職業補導所(注4)における職業訓練職種は、洋服、和洋裁、靴、時計修理、ミシン修理、自転車修理などといった、自営業向けのものに重点が置かれていた4。
1960年には、1955年に国際労働機関(ILO)総会で採択された「障害者の職業リハビリテーションに関する勧告」(第99号勧告)を受けて、日本でも身体障害者の雇用機会を拡大すべく身体障害者雇用促進法が制定された。同法には一定規模以上の民間事業所に対して身体障害者を1.3%以上雇用することを求める雇用率制度が導入されたが、努力義務にとどまっていたことや雇用支援制度が十分整備されていなかったことなどから、身体障害者の雇用拡大にはあまりつながらず、授産施設利用者のうち同制度により民間事業所に採用されたものはごく少数にとどまった。
2. 2020東京パラリンピック
前述したように、1964パラでは、メダル数を競うオリンピックとの違いが強調されていたのが、2020パラではオリンピック同様、メダルの確保が目的とされ、したがってそれに伴って選手の選考や養成方法なども大きく変わった。有名選手であれば、スポンサーの全面的なサポートを得ることができるなど、パラがもうひとつのオリンピックとされる意味はそこにもあるといえるが、100%それでよいのかという疑問は残る(注5)。
(1)選手の障害部位や種別の広がり
同大会には、162か国・地域から約4,400人の選手が参加し、22競技・540種目にわたり競技が行われた。1964パラでは、選手は脊髄損傷による両下肢まひ者に限定されており、競技種目もそれらの選手にあわせたものに限られていたのが、2020パラでは、身体障害の部位や種別が肢体不自由(上肢・下肢および欠損・まひ)、脳性まひおよび視覚障害に広がるとともに知的障害も対象となる。それにあわせ、競技種目も増えるとともに多様化された。
日本の選手270人(注6)は、51のメダル(金13、銀15、銅23)を獲得し、第12位を占めたことからも明らかなように、日本はいまやパラでも世界的水準を超えるに至っている。そのことを象徴的に示すのが、車いすバスケットボール、車いすラクビーや車いすマラソンなどで日本選手が使った車いすである。1964パラ当時とはまったく異なり、競技種目に応じて一人ひとりの選手がフルにその力を発揮して競技に参加できるだけの機能を備えた車いすを駆使できたことが、これらの競技で日本選手が好成績を上げ得た要因のひとつであろう。
(2)2020オリ・パラ実施主体間の関係
2020パラは、1964パラと異なり、東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会(通称東京2020組織委員会)が、予算も含め、両大会を企画・運営。したがって、2020パラの開閉会式などの大会の企画・運営、競技場・選手村の運営、選手のユニフォームや同大会の運営に携わる職員やボランティアなどの調整や配置なども一体的に実施されたことが、1964パラとの大きな違いである。
オリ・パラを一体的に実施するためのアクセシビリティに配慮した大会会場、競技場、選手村、それらへのアクセスを確保するための交通機関や情報などのアクセシビリティの整備など、1964パラ当時と比べ格段の進歩・改善が見られたことは、高く評価できる。
こうしたアクセシビリティの整備を強力に後押ししてきたのは、2014年に日本も批准した障害者権利条約である。同条約が求める、障害者がスポーツも含め、他の者と平等に様々な活動に参加できるインクルーシブな社会の実現にはまだ多くの課題が残されていることも考慮する必要がある。
(3)2020パラ開催のインパクト
2020パラは、緊急事態宣言期間中に行われたことから、2020東京オリンピック同様、無観客ではあったが、連日かなり長時間にわたってNHKなどで放映されたため、一般市民への周知度は1964パラとは比較にならないほど大きかったといえる。その結果、2021年9月4~5日に行われた共同通信社による全国世論調査では、「東京パラリンピックが開催されてよかったと思う」という回答が69.8%、「東京パラリンピックの開催をきっかけに障害者との共生が深まると思う」という回答が67.1%など、同大会を肯定的に見る市民が7割近くとかなり高い割合を占める5。
(4)日本選手の就業状況
「東京パラ選手の多くは、大会招致をきっかけに競技に専念できる形で企業に採用されるケースが増えた。その一方で、職種についてフルタイム勤務の選手もいるが、経理などを除けば、書類整理やパソコン入力など単純作業を任せられがち。障害のある人のキャリアアップは、日本社会全体の課題。企業には2.3%の障害者雇用が法律で義務付けられている。しかし、パラアスリートと同じように、障害者が就く職種の選択肢は多くはない」6
とされる。
1976年の身体障害者雇用促進法の改正で、それまでは努力義務にとどまっていた一定規模以上の企業に一定割合以上の身体障害者の雇用が義務化された。その義務化の対象となる障害者は、その後知的障害者および(精神障害者保健福祉手帳をもつ)精神障害者にまで拡大。それに伴って企業の法定雇用率が引き上げられたことなどで、近年障害者雇用数は年々増加している。その意味では、1964パラ当時と比べ、障害者雇用状況は、大きく変わったといえる。
にもかかわらず、全体としてみると、労働年齢(18歳~64歳)の障害者約376.4万人(2016年)のうち就労しているのは約128.1万人(一般雇用約81.1万人、自営・家族従業員・内職等約9.5万人、福祉的就労(就労移行支援事業および就労継続支援A・B型事業)約37.5万人で、その就業率は34.0%(ただし、福祉的就労を除くと24.1%)で、一般労働者の78.9%(2018年)と比べ、障害者の就業率はきわめて低い。近年、福祉的就労から一般雇用への移行支援施策が強化されてきたが、その施策の効果はこれまでのところ限られている。
因みに、常用労働者数5人以上の民営事業所で雇用されている障害者のうち、非正社員が占める割合は、身体障害者で5割弱、知的障害者で約8割、そして精神障害者では全体の約4分の3を占める。いずれも非正社員が占める割合は、一般労働者のそれ(37.8%(2018年総務省労働力調査結果))よりははるかに高い7。
おわりに
2020パラ閉会式でのあいさつのなかで橋本聖子2020東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長は「いかなる差別も障壁もない多様性と調和が実現」する社会づくりについて言及された。しかし、このメッセージからはそれを実現するために求められる具体的な取組みは見えてこない。
目指すべきなのは、障害の有無にかかわらず、誰もが人としての尊厳にふさわしい労働条件や労働環境の下で安心して働け、かつ、人たるに値する生活ができるようにすることである。1964パラおよび2020パラの経験がそうした社会の実現に向けての取組の前進に生かされることを期待したい。
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参考文献
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注
1939年兵庫県うまれ
<学歴> 国際基督教大学教養学部社会科学学科卒
米国ノースイースタン大学大学院教育学研究科リハビリテーション・アドミニストレーション専攻修了
<職歴> (社福)日本キリスト教奉仕団アガペ身体障害者収容授産施設生活指導員/施設長
労働大臣認可法人 身体障害者雇用促進協会(現・(独法)高齢・障害・求職者雇用支援機構)
調査役/審議役
国際労働機関(ILO)アジア太平洋地域担当職業リハビリテーションアドバイザー(バンコク)
北星学園大学社会福祉学部臨床福祉学科教授
法政大学現代福祉学部教授などを経て、
現在は、法政大学名誉教授、(公財)日本障害者リハビリテーション協会副会長
<著書> 編集監事、リハビリテーション事典、中央法規、2009
編著、概説障害者権利条約、法律文化社、2010
編著、障害者の福祉的就労の現状と展望ー働く権利と機会の拡大に向けて、中央法規、2011など。
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