大学生の時、同級生の多くは教職科目を履修していた。教育に対する高い志を持った人、就活時の選択肢の一つと捉えていた人、取れる資格なら取っておけば損はないという人……、動機はさまざまのようだった。そういう空気の中で私も教職科目を履修するものだと思い、1年次にいくつかの単位を取得した。しかし、進級する時にふと「私は本当に教員になりたいのか」という疑問が湧いた。答えは「ノー!」だった。
私は学校という空間もそこにいる人間集団も大嫌いなのを思い出した。譬え生徒から教員に立場が変わろうとも、その空間と集団に戻るのは耐えられないだろう。そう思い始めると、教職科目の履修を止めることに躊躇はいらなかった。
小学校2年の時だったか、遠い土地から一つの家族が引っ越してきた。その家には私と同じ年頃の女の子「スズちゃん」がいて、同じ小学校に通うことになった。「いっしょに登校しよう」と誘いに行き、以来、仲良く通学するようになった。慣れない土地、知らない人ばかりの中で心細かろうと思ったからだ。スズちゃんの家に行くと、ご両親と祖父母はとても喜んで、いろいろ話しかけてくれた。でも、ひどく訛っていて、私にはほとんど理解できなかった。土地の人とぜんぜん違う方言を話していたのである。
スズちゃんは前の学校でも「標準語」を習っていたのか、私のためにご両親や祖父母のことばを「通訳」してくれた。しかし、スズちゃんの「標準語」にも母方言の干渉を受けていて、当地の子どもたちの嘲笑う対象となり、苛めの的になるにはそう時間がかからなかった。当地の子どもたち自身が話しているのも一つの方言に過ぎず、「標準語」話者からすれば同様に「訛っている」ということも知らずに。
そんな苛められっ子で親友のスズちゃんと楽しく小学校に通っていた10歳の私は、ある日突然「お前のお母さんは日本人戦争孤児だよ」と聞かされた。今まで祖父母と思っていた人たちは実は母の養父母で、実の父親が日本で見つかったという。何が何だか訳が分からなかった。
20世紀80年代前半の中国では、私の住んでいた片田舎でさえ日中友好ムードに湧き、日中友好の歌まで流行った。誰がどこから持って来たのか、日本語の教科書というものを我が家で見るようになった。それを使って五十音図とやらを暗記せよと親に言いつけられた。くねくねした文字に単純に興味を覚えた。
12歳半ばに私は中国の小学校を卒業した。そして、中学受験の結果を待たずに母に連れられて日本にやってきた。ここは母の母国で、目の前にいる老人は日中戦争のせいで母と37年間も生き別れになった実の父親(私の祖父)で、母の実の母親(私の祖母)は満蒙開拓団の入植地である満州(現在の中国の東北地域)で命を落としたと言う。自分の回りで起きていたことは急転直下すぎて、まるでおとぎ話のよう。それが自身のその後の人生にとってどんな意味を持つのかも、当時の母の心情も、考え及ぶ余裕は私にはなかった。
中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私。日本で13歳の誕生日を祝ってもらい、祖父の家に半年滞在した。祖父は私を学校に通わせず、知人に預けて日本語の勉強をさせた。片言の日本語が話せるようになった頃、母の一時帰国の期限が迫り、再び中国に戻った。村の小学校時代の親友であったスズちゃんは町の中学校に進学していた。私もそこに受かっていて半年の休学を経て編入生となった。スズちゃんと同じクラスになり、かつての編入生スズちゃんと私の関係は逆転し、よそ者の選手交代となった。
編入したクラスでは、スズちゃん以外に私と口を利こうとする生徒は誰もいなかった。女子生徒たちは離れたところでひそひそ話をし、よそのクラスの男子生徒たちまで教室の外から私に日本語の「バカヤロウ」をもじった中国語「八嘎牙路」を投げかけてきた。
一方で、日本に行っていた半年分の勉強が遅れていたため、最初の定期テストでは散々な結果となり、恰好な笑い者にされたのは言うまでもない。親友スズちゃんの献身的な「補習」のおかげで次の定期テストでは上位に食い込んだ。スズちゃんと喜んでいたら、「あいつ、カンニングしたに違いない」と他のクラスメイトたちから中傷された。
ある日、担任に呼び出され、「お前、スカートを履くのを止めなさい!」と。みんな履いていない中で目立って奇異な目で見られるから、止めておいたほうがいい、と「忠告」された。私が日本から持ち帰ったスカートを履いたからと言って誰に迷惑をかけたというのか。奇異な目で見る側を諫めずに私に「忠告」してくる担任は、私の権利を犠牲にしてマジョリティに迎合していないのか。何かと親切にしてくれていた担任、信頼していただけに裏切られた気がした。
試練は学校の中に留まらなかった。家から学校へは自転車で一時間以上の道のりだった。途中ある村を通る時はいつも悪ガキどもに待ち伏せされた。砂や小石を投げつけられ、追いかけられた。「侵略者日本の子、中国から出て行け!」という罵声とともに‥‥‥。
つづく
TJF では長年隣国である中国、韓国、ロシアの小中高校の日本語教育支援プログラム、これらの国と日本間の生徒・教員・校長及び教育行政者の交流プログラムなどを担当。近年では、外国につながる青少年と同年代が交流する<多言語・多文化交流「パフォーマンス合宿」>(=PCAMP)やワークショップを企画・運営中。「多文化×芸術」のコンセプトを東京、広島、富山など各地に広げている。自身の多文化体験を若い世代に知ってもらうため 2021 年に『小春のあしあと』を自主出版。