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小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~
 長江春子

2025年06月04日

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~

第1回

記憶を手繰り寄せて

大学生の時、同級生の多くは教職科目を履修していた。教育に対する高い志を持った人、就活時の選択肢の一つと捉えていた人、取れる資格なら取っておけば損はないという人……、動機はさまざまのようだった。そういう空気の中で私も教職科目を履修するものだと思い、1年次にいくつかの単位を取得した。しかし、進級する時にふと「私は本当に教員になりたいのか」という疑問が湧いた。答えは「ノー!」だった。

私は学校という空間もそこにいる人間集団も大嫌いなのを思い出した。譬え生徒から教員に立場が変わろうとも、その空間と集団に戻るのは耐えられないだろう。そう思い始めると、教職科目の履修を止めることに躊躇はいらなかった。

■転校生

小学校2年の時だったか、遠い土地から一つの家族が引っ越してきた。その家には私と同じ年頃の女の子「スズちゃん」がいて、同じ小学校に通うことになった。「いっしょに登校しよう」と誘いに行き、以来、仲良く通学するようになった。慣れない土地、知らない人ばかりの中で心細かろうと思ったからだ。スズちゃんの家に行くと、ご両親と祖父母はとても喜んで、いろいろ話しかけてくれた。でも、ひどく訛っていて、私にはほとんど理解できなかった。土地の人とぜんぜん違う方言を話していたのである。

スズちゃんは前の学校でも「標準語」を習っていたのか、私のためにご両親や祖父母のことばを「通訳」してくれた。しかし、スズちゃんの「標準語」にも母方言の干渉を受けていて、当地の子どもたちの嘲笑う対象となり、苛めの的になるにはそう時間がかからなかった。当地の子どもたち自身が話しているのも一つの方言に過ぎず、「標準語」話者からすれば同様に「訛っている」ということも知らずに。

■寝耳に水

そんな苛められっ子で親友のスズちゃんと楽しく小学校に通っていた10歳の私は、ある日突然「お前のお母さんは日本人戦争孤児だよ」と聞かされた。今まで祖父母と思っていた人たちは実は母の養父母で、実の父親が日本で見つかったという。何が何だか訳が分からなかった。

20世紀80年代前半の中国では、私の住んでいた片田舎でさえ日中友好ムードに湧き、日中友好の歌まで流行った。誰がどこから持って来たのか、日本語の教科書というものを我が家で見るようになった。それを使って五十音図とやらを暗記せよと親に言いつけられた。くねくねした文字に単純に興味を覚えた。

12歳半ばに私は中国の小学校を卒業した。そして、中学受験の結果を待たずに母に連れられて日本にやってきた。ここは母の母国で、目の前にいる老人は日中戦争のせいで母と37年間も生き別れになった実の父親(私の祖父)で、母の実の母親(私の祖母)は満蒙開拓団の入植地である満州(現在の中国の東北地域)で命を落としたと言う。自分の回りで起きていたことは急転直下すぎて、まるでおとぎ話のよう。それが自身のその後の人生にとってどんな意味を持つのかも、当時の母の心情も、考え及ぶ余裕は私にはなかった。

■選手交代

中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私。日本で13歳の誕生日を祝ってもらい、祖父の家に半年滞在した。祖父は私を学校に通わせず、知人に預けて日本語の勉強をさせた。片言の日本語が話せるようになった頃、母の一時帰国の期限が迫り、再び中国に戻った。村の小学校時代の親友であったスズちゃんは町の中学校に進学していた。私もそこに受かっていて半年の休学を経て編入生となった。スズちゃんと同じクラスになり、かつての編入生スズちゃんと私の関係は逆転し、よそ者の選手交代となった。

編入したクラスでは、スズちゃん以外に私と口を利こうとする生徒は誰もいなかった。女子生徒たちは離れたところでひそひそ話をし、よそのクラスの男子生徒たちまで教室の外から私に日本語の「バカヤロウ」をもじった中国語「八嘎牙路」を投げかけてきた。

一方で、日本に行っていた半年分の勉強が遅れていたため、最初の定期テストでは散々な結果となり、恰好な笑い者にされたのは言うまでもない。親友スズちゃんの献身的な「補習」のおかげで次の定期テストでは上位に食い込んだ。スズちゃんと喜んでいたら、「あいつ、カンニングしたに違いない」と他のクラスメイトたちから中傷された。

■忠告

ある日、担任に呼び出され、「お前、スカートを履くのを止めなさい!」と。みんな履いていない中で目立って奇異な目で見られるから、止めておいたほうがいい、と「忠告」された。私が日本から持ち帰ったスカートを履いたからと言って誰に迷惑をかけたというのか。奇異な目で見る側を諫めずに私に「忠告」してくる担任は、私の権利を犠牲にしてマジョリティに迎合していないのか。何かと親切にしてくれていた担任、信頼していただけに裏切られた気がした。

試練は学校の中に留まらなかった。家から学校へは自転車で一時間以上の道のりだった。途中ある村を通る時はいつも悪ガキどもに待ち伏せされた。砂や小石を投げつけられ、追いかけられた。「侵略者日本の子、中国から出て行け!」という罵声とともに‥‥‥。

つづく

2025年07月09日 新着エッセイ

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~

第2回

帰るべき場所

1982年、中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私は、日本で半年過ごした後、生まれ育った中国の故郷に戻った。すぐにそこの中学校に編入したら、そこはもはや「帰るべき場所」ではなく、私は歓迎されない「よそ者」になっていた。よそ者は「みんな」がしていたお下げではなくおかっぱ頭をしていた。「みんな」が履いていたズボンではなくスカートを履いていた。勉強が遅れているはずなのに姑息にもよい成績を取った。何よりも侵略者日本と縁があった……周りの同年代にとって何から何まで気に食わなかったらしい。だから、仲間外れにしようという訳だ。そんな肩身が狭い環境ではあったが、親友が1人から2人に増え、高校進学という夢に向かって一緒に勉強に励んだ。ある日突然日本への移住を家族に告げられるまでは。

■新天地

最初の一時帰国から2年後、新しい中学校の教室に私は座っていた。そこはもう「侵略者日本の子、中国から出て行け!」と追いかけてくる人もいない。だって、そこは日本なのだから。

中国帰国者定着促進センター(埼玉県)で4ヵ月の日本語特訓を受けたあと、家族が定住する東北の町の中学校2年に編入した私は、教室で勇気を出して日本語を口にした。すると、斜め右前に座っていた男の子が振返ってキッと睨み「バーカ!バカはしゃべるな!」と罵った。その暴言はその後もつづき、私は担任に止めさせてくれないかと相談した。すると担任は「お前のこと、好きだからじゃない?」とニヤついた。ふだん何かと気にかけてくれていた日本の担任にも、私の期待が裏切られた。

時代が時代なのか、実はその担任、持ち物や身だしなみの定例検査をしては、違反した生徒を黒板に面して並ばせ、順番に竹刀でお尻を殴った。そして、違反してない生徒を席に着かせて見物させた。真面目で小心者の私はいつも見物側にいた。担任が校則違反をした生徒を殴る前は「お願いします」、殴った後は「ありがとうございました」と言わせた。自分が顧問を務める野球部に所属する生徒の番になると、わざわざ竹刀をバットに変えた。これが小さい頃からずっと聞かされてきた「軍国主義日本」の教育なのかと驚愕し、恐怖を覚えた。私が中国にいた時は一度もそのような暴力教師に出会わなかったからだ。

それでも最初は友だちができた。初めて異文化からやってきた編入生に興味津々で声をかけてきた子たちだった。しかし、喜んだのも束の間、その子たちは急によそよそしくなった。いつの間にか「あの子と親密にしたら仲間外れにされてしまう」という空気が流れていた。いわゆるスクールカーストの上位にいた子の「制裁」を恐れたようだった。そうして私は、また独りぼっちになった。

そんな人間関係に加え、日本語力不足や日本の学校文化不慣れというハンディキャップに苦しんだ。しかし、五線譜が読めずリコーダーが吹けなくて泣いていても、社会科の時代背景が分からず頭を抱えていても、教員は知らんぷりし、自ら手を差し伸べようとはしなかった。それどころか、学活のシーンにふさわしい言動が取れないでいると、職員室への呼び出しを食らった。「分からないのならなぜ質問もしないで黙っていたのか。不真面目だ!」と延々と説教された。自分に何が分かっていないかすら分からないのに! と訴える術も持ち合わせていなかった。そんな毎日が辛すぎて、1年足らずで私は転校した。

■笑顔の向こうに

転校先の中学校には2年生の第3学期から卒業まで通った。そこには暴力教師はいなかった。みんな穏やかで、特に親身になってくれる先生は何人もいた。クラスでは相変わらず「よそ者」として浮いた存在だったが、あからさまな苛めに遭うことはなくなった。なぜなら、そこには別のターゲットがいたからだと思う。

その子はなにか先天性の病気を持っていたようで、いつもおしっこみたいな匂いをさせていた。みな彼女の隣に座るのを嫌がり、ばい菌扱いし、罵詈雑言を浴びせる男子も少なからずいた。しかし、その子は怒らず、侮辱されてもへらへらと笑っていた。その態度が余計に痛々しく、じれったかった。今思えば、その子は顔で笑っていても心の中では泣いていなかっただろうか。私とその子はクラスで浮いたもの同士。そのうちなんとなくつるんで登下校し、進んで隣の席に座った。そうやって彼女に同情を寄せることで、自分のみじめさを慰めたかったのかもしれない。

■仕切り直し

日本に移住して2年が経っても、ついに「帰るべき場所」を見出せなかった。そこで思い切って家族の元を離れ、特待生として一人で県外の高校に進学する道を選んだ。高速バス、新幹線、ローカル線を乗り継ぎ、私の素性を知る者が誰もいない土地に行って仕切り直す……はずだった。

高校3年間は女子寮で暮らした。寮生はみな近隣諸県出身の特待生たちであった。共同生活を行い、朝晩同じ食卓で寮母たちの手料理を食べ、日中は同じ教室で勉強し、夜は一緒に寮の学習室で補習を受けた。謂わば、閉鎖的な空間で四六時中顔を突き合わせる人間関係だった。

男子寮のほうでは、寮生の出入管理用に壁にかけられた名札も、寮生が使う靴箱も、定期試験ごとに成績順に並べ替えられると聞いた。女子寮では極少人数だったため、そのような明示的な序列はなかったが、原則2人部屋の寮に住んでいた寮生は奇数。定期試験の成績上位者だけが一人部屋を獲得することになっていた。思えば私が一人部屋になった頃から、少しずつ異変が起き始めた。

いつも数学の解き方を聞きに来ていた子が来なくなった。別の寮生は私が食堂で「おはよう」とあいさつをしても無視し、席を移動してまで距離をとろうとした。また別の寮生は学校で私と一緒にいるのが恥だと言った。みな登下校時に私から少し離れて歩き、クスクス、ひそひそと聞えよがしに悪口を言っていた。現地集合の校外行事の日、寮生たちは示し合わせて寮からの出発時間を変更し、わざと私を置いてきぼりにした。私のシリーズ物の漫画本がいつの間にか歯抜けになっていたり、メガネに身に覚えのない深い引っ掻き傷がついたりすることもあった。そのうち彼女たちは学校で「あの中国人は汚い、性格が変だ」という噂を流し始めた。そのせいか、ある日私が学校の廊下を歩いていると、男子集団が後ろから「中国人、中国へ帰れ!」と叫んだ。

■JK世界の裏を垣間見た

私が通っていた学校は当時男女が別クラスだった。全員女子のクラスではいくつかのグループができていた。私も幸い一つの仲良しグループの一員になれた。気の合う者同士が仲良くするのは自然なことだ、と思っていた。しかし、ある時、AグループのメンバーがBグループのメンバーに、BグループのメンバーがCグループのメンバーに、自分の仲間の悪口を言っているのに気づいた。ああ、本当は嫌いなのにさも仲良さそうにつるんでいるだけなのか。ただ独りになりたくないから、どこかの集団に属していないと不安だから、そして一旦集団に入るとそこから抜けるのも怖いから、惰性で仲間の振りをし続けているのか、と悟った。なぜかその時、孤独を感じているのは自分だけではないような気がした。

つづく

長江春子(NAGAE Haruko)プロフィール
  • 1969 年中国生まれ、中国人の父と日本人の母を持つ
  • 1984 年より日本に移住し教育を受ける(現在は東京在住)
  • 1990 年筑波大学に入学、日本語教育を専攻
  • 1994 年青年海外協力隊日本語教師として中国湖北省の大学に赴任
  • 1997 年より公益財団法人国際文化フォーラム(TJF)に在職中
  • 2000 年東京学芸大学大学院多文化教育研究科に入学、2002 年修了(教育修士)

TJF では長年隣国である中国、韓国、ロシアの小中高校の日本語教育支援プログラム、これらの国と日本間の生徒・教員・校長及び教育行政者の交流プログラムなどを担当。近年では、外国につながる青少年と同年代が交流する<多言語・多文化交流「パフォーマンス合宿」>(=PCAMP)やワークショップを企画・運営中。「多文化×芸術」のコンセプトを東京、広島、富山など各地に広げている。自身の多文化体験を若い世代に知ってもらうため 2021 年に『小春のあしあと』を自主出版。