大学生の時、同級生の多くは教職科目を履修していた。教育に対する高い志を持った人、就活時の選択肢の一つと捉えていた人、取れる資格なら取っておけば損はないという人……、動機はさまざまのようだった。そういう空気の中で私も教職科目を履修するものだと思い、1年次にいくつかの単位を取得した。しかし、進級する時にふと「私は本当に教員になりたいのか」という疑問が湧いた。答えは「ノー!」だった。
私は学校という空間もそこにいる人間集団も大嫌いなのを思い出した。譬え生徒から教員に立場が変わろうとも、その空間と集団に戻るのは耐えられないだろう。そう思い始めると、教職科目の履修を止めることに躊躇はいらなかった。
小学校2年の時だったか、遠い土地から一つの家族が引っ越してきた。その家には私と同じ年頃の女の子「スズちゃん」がいて、同じ小学校に通うことになった。「いっしょに登校しよう」と誘いに行き、以来、仲良く通学するようになった。慣れない土地、知らない人ばかりの中で心細かろうと思ったからだ。スズちゃんの家に行くと、ご両親と祖父母はとても喜んで、いろいろ話しかけてくれた。でも、ひどく訛っていて、私にはほとんど理解できなかった。土地の人とぜんぜん違う方言を話していたのである。
スズちゃんは前の学校でも「標準語」を習っていたのか、私のためにご両親や祖父母のことばを「通訳」してくれた。しかし、スズちゃんの「標準語」にも母方言の干渉を受けていて、当地の子どもたちの嘲笑う対象となり、苛めの的になるにはそう時間がかからなかった。当地の子どもたち自身が話しているのも一つの方言に過ぎず、「標準語」話者からすれば同様に「訛っている」ということも知らずに。
そんな苛められっ子で親友のスズちゃんと楽しく小学校に通っていた10歳の私は、ある日突然「お前のお母さんは日本人戦争孤児だよ」と聞かされた。今まで祖父母と思っていた人たちは実は母の養父母で、実の父親が日本で見つかったという。何が何だか訳が分からなかった。
20世紀80年代前半の中国では、私の住んでいた片田舎でさえ日中友好ムードに湧き、日中友好の歌まで流行った。誰がどこから持って来たのか、日本語の教科書というものを我が家で見るようになった。それを使って五十音図とやらを暗記せよと親に言いつけられた。くねくねした文字に単純に興味を覚えた。
12歳半ばに私は中国の小学校を卒業した。そして、中学受験の結果を待たずに母に連れられて日本にやってきた。ここは母の母国で、目の前にいる老人は日中戦争のせいで母と37年間も生き別れになった実の父親(私の祖父)で、母の実の母親(私の祖母)は満蒙開拓団の入植地である満州(現在の中国の東北地域)で命を落としたと言う。自分の回りで起きていたことは急転直下すぎて、まるでおとぎ話のよう。それが自身のその後の人生にとってどんな意味を持つのかも、当時の母の心情も、考え及ぶ余裕は私にはなかった。
中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私。日本で13歳の誕生日を祝ってもらい、祖父の家に半年滞在した。祖父は私を学校に通わせず、知人に預けて日本語の勉強をさせた。片言の日本語が話せるようになった頃、母の一時帰国の期限が迫り、再び中国に戻った。村の小学校時代の親友であったスズちゃんは町の中学校に進学していた。私もそこに受かっていて半年の休学を経て編入生となった。スズちゃんと同じクラスになり、かつての編入生スズちゃんと私の関係は逆転し、よそ者の選手交代となった。
編入したクラスでは、スズちゃん以外に私と口を利こうとする生徒は誰もいなかった。女子生徒たちは離れたところでひそひそ話をし、よそのクラスの男子生徒たちまで教室の外から私に日本語の「バカヤロウ」をもじった中国語「八嘎牙路」を投げかけてきた。
一方で、日本に行っていた半年分の勉強が遅れていたため、最初の定期テストでは散々な結果となり、恰好な笑い者にされたのは言うまでもない。親友スズちゃんの献身的な「補習」のおかげで次の定期テストでは上位に食い込んだ。スズちゃんと喜んでいたら、「あいつ、カンニングしたに違いない」と他のクラスメイトたちから中傷された。
ある日、担任に呼び出され、「お前、スカートを履くのを止めなさい!」と。みんな履いていない中で目立って奇異な目で見られるから、止めておいたほうがいい、と「忠告」された。私が日本から持ち帰ったスカートを履いたからと言って誰に迷惑をかけたというのか。奇異な目で見る側を諫めずに私に「忠告」してくる担任は、私の権利を犠牲にしてマジョリティに迎合していないのか。何かと親切にしてくれていた担任、信頼していただけに裏切られた気がした。
試練は学校の中に留まらなかった。家から学校へは自転車で一時間以上の道のりだった。途中ある村を通る時はいつも悪ガキどもに待ち伏せされた。砂や小石を投げつけられ、追いかけられた。「侵略者日本の子、中国から出て行け!」という罵声とともに‥‥‥。
つづく
1982年、中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私は、日本で半年過ごした後、生まれ育った中国の故郷に戻った。すぐにそこの中学校に編入したら、そこはもはや「帰るべき場所」ではなく、私は歓迎されない「よそ者」になっていた。よそ者は「みんな」がしていたお下げではなくおかっぱ頭をしていた。「みんな」が履いていたズボンではなくスカートを履いていた。勉強が遅れているはずなのに姑息にもよい成績を取った。何よりも侵略者日本と縁があった……周りの同年代にとって何から何まで気に食わなかったらしい。だから、仲間外れにしようという訳だ。そんな肩身が狭い環境ではあったが、親友が1人から2人に増え、高校進学という夢に向かって一緒に勉強に励んだ。ある日突然日本への移住を家族に告げられるまでは。
最初の一時帰国から2年後、新しい中学校の教室に私は座っていた。そこはもう「侵略者日本の子、中国から出て行け!」と追いかけてくる人もいない。だって、そこは日本なのだから。
中国帰国者定着促進センター(埼玉県)で4ヵ月の日本語特訓を受けたあと、家族が定住する東北の町の中学校2年に編入した私は、教室で勇気を出して日本語を口にした。すると、斜め右前に座っていた男の子が振返ってキッと睨み「バーカ!バカはしゃべるな!」と罵った。その暴言はその後もつづき、私は担任に止めさせてくれないかと相談した。すると担任は「お前のこと、好きだからじゃない?」とニヤついた。ふだん何かと気にかけてくれていた日本の担任にも、私の期待が裏切られた。
時代が時代なのか、実はその担任、持ち物や身だしなみの定例検査をしては、違反した生徒を黒板に面して並ばせ、順番に竹刀でお尻を殴った。そして、違反してない生徒を席に着かせて見物させた。真面目で小心者の私はいつも見物側にいた。担任が校則違反をした生徒を殴る前は「お願いします」、殴った後は「ありがとうございました」と言わせた。自分が顧問を務める野球部に所属する生徒の番になると、わざわざ竹刀をバットに変えた。これが小さい頃からずっと聞かされてきた「軍国主義日本」の教育なのかと驚愕し、恐怖を覚えた。私が中国にいた時は一度もそのような暴力教師に出会わなかったからだ。
それでも最初は友だちができた。初めて異文化からやってきた編入生に興味津々で声をかけてきた子たちだった。しかし、喜んだのも束の間、その子たちは急によそよそしくなった。いつの間にか「あの子と親密にしたら仲間外れにされてしまう」という空気が流れていた。いわゆるスクールカーストの上位にいた子の「制裁」を恐れたようだった。そうして私は、また独りぼっちになった。
そんな人間関係に加え、日本語力不足や日本の学校文化不慣れというハンディキャップに苦しんだ。しかし、五線譜が読めずリコーダーが吹けなくて泣いていても、社会科の時代背景が分からず頭を抱えていても、教員は知らんぷりし、自ら手を差し伸べようとはしなかった。それどころか、学活のシーンにふさわしい言動が取れないでいると、職員室への呼び出しを食らった。「分からないのならなぜ質問もしないで黙っていたのか。不真面目だ!」と延々と説教された。自分に何が分かっていないかすら分からないのに! と訴える術も持ち合わせていなかった。そんな毎日が辛すぎて、1年足らずで私は転校した。
転校先の中学校には2年生の第3学期から卒業まで通った。そこには暴力教師はいなかった。みんな穏やかで、特に親身になってくれる先生は何人もいた。クラスでは相変わらず「よそ者」として浮いた存在だったが、あからさまな苛めに遭うことはなくなった。なぜなら、そこには別のターゲットがいたからだと思う。
その子はなにか先天性の病気を持っていたようで、いつもおしっこみたいな匂いをさせていた。みな彼女の隣に座るのを嫌がり、ばい菌扱いし、罵詈雑言を浴びせる男子も少なからずいた。しかし、その子は怒らず、侮辱されてもへらへらと笑っていた。その態度が余計に痛々しく、じれったかった。今思えば、その子は顔で笑っていても心の中では泣いていなかっただろうか。私とその子はクラスで浮いたもの同士。そのうちなんとなくつるんで登下校し、進んで隣の席に座った。そうやって彼女に同情を寄せることで、自分のみじめさを慰めたかったのかもしれない。
日本に移住して2年が経っても、ついに「帰るべき場所」を見出せなかった。そこで思い切って家族の元を離れ、特待生として一人で県外の高校に進学する道を選んだ。高速バス、新幹線、ローカル線を乗り継ぎ、私の素性を知る者が誰もいない土地に行って仕切り直す……はずだった。
高校3年間は女子寮で暮らした。寮生はみな近隣諸県出身の特待生たちであった。共同生活を行い、朝晩同じ食卓で寮母たちの手料理を食べ、日中は同じ教室で勉強し、夜は一緒に寮の学習室で補習を受けた。謂わば、閉鎖的な空間で四六時中顔を突き合わせる人間関係だった。
男子寮のほうでは、寮生の出入管理用に壁にかけられた名札も、寮生が使う靴箱も、定期試験ごとに成績順に並べ替えられると聞いた。女子寮では極少人数だったため、そのような明示的な序列はなかったが、原則2人部屋の寮に住んでいた寮生は奇数。定期試験の成績上位者だけが一人部屋を獲得することになっていた。思えば私が一人部屋になった頃から、少しずつ異変が起き始めた。
いつも数学の解き方を聞きに来ていた子が来なくなった。別の寮生は私が食堂で「おはよう」とあいさつをしても無視し、席を移動してまで距離をとろうとした。また別の寮生は学校で私と一緒にいるのが恥だと言った。みな登下校時に私から少し離れて歩き、クスクス、ひそひそと聞えよがしに悪口を言っていた。現地集合の校外行事の日、寮生たちは示し合わせて寮からの出発時間を変更し、わざと私を置いてきぼりにした。私のシリーズ物の漫画本がいつの間にか歯抜けになっていたり、メガネに身に覚えのない深い引っ掻き傷がついたりすることもあった。そのうち彼女たちは学校で「あの中国人は汚い、性格が変だ」という噂を流し始めた。そのせいか、ある日私が学校の廊下を歩いていると、男子集団が後ろから「中国人、中国へ帰れ!」と叫んだ。
私が通っていた学校は当時男女が別クラスだった。全員女子のクラスではいくつかのグループができていた。私も幸い一つの仲良しグループの一員になれた。気の合う者同士が仲良くするのは自然なことだ、と思っていた。しかし、ある時、AグループのメンバーがBグループのメンバーに、BグループのメンバーがCグループのメンバーに、自分の仲間の悪口を言っているのに気づいた。ああ、本当は嫌いなのにさも仲良さそうにつるんでいるだけなのか。ただ独りになりたくないから、どこかの集団に属していないと不安だから、そして一旦集団に入るとそこから抜けるのも怖いから、惰性で仲間の振りをし続けているのか、と悟った。なぜかその時、孤独を感じているのは自分だけではないような気がした。
つづく
中国東北部の小さな村に生まれ育った私は、10歳になるまで母が日本人孤児だとは知らなかった。それを知らされた時は唖然としたものの、まるで実感が湧かなかった。12歳の時に母の37年振りの一時帰国に同伴して訪れた日本で、初めて日本人祖父に会った時も現実味が薄かった。自分の身に何か大変なことが起きていると気づき始めたのは、日本滞在後に中国に戻って地元の中学校に編入した時だった。わずか半年で私は故郷の同年代から排除される対象となっていた。母がなぜ我が子にすら自分の出自をひた隠しにしてきたのか、実感を持って理解できた。
2年後、15歳になった私は家族と共に日本に移住し、地方都市の中学2年に編入した。その時から高校卒業するまでの5年間、自分は異質者として生きねばならないと確信するのに十分な試練が与えられた。異質者と見なされるバロメーターはいろいろあった。
日本の中学校と高校では、よくクラスメイトに「何歳ですか」と質問され、実に煩わしかった。実際、私は同学年より2歳上だった。中国の学年は9月にスタートする。10月に日本に移住した時は中学3年に上がったばかりだった。中国帰国者定着促進センターで4カ月間日本語と日本社会で生きる訓練を受けていた間にも時は刻み、私の年齢だけが日本の高校1年生になっていた。
中国のカリキュラムでは中学2年を修了していたので、日本の中学3年に編入するのが順当だろうと最初は考えた。しかし、当時私の日本語力と日本の学科力では、あと1年で高校受験に対応できそうにないと感じた。中国での中学1年次に日本に滞在していた半年分の未修の穴を埋めた時の辛さが頭をよぎった。今度はカリキュラムが異なる上に日本語というハンディもある。巨大な穴だ。そこで私は合理的に考えた 。人生はマラソンだ。1年や2年の遅れは先の人生でいくらでも詰めていけるだろう。そこで、自ら中学2年に編入することを希望し、それが叶って安堵した。
実際、幼少期に暮らしていた中国の田舎では、小学校に上がる年齢はマチマチだった。6歳から8歳のバッファがあったように思う。年齢が小さい分学習や通学に苦労すると考える親もいたくらいだ。時には留年も飛び級もあったので、同学年での多少の年齢差なんて誰も問題にしなかった。
ところが、1、2歳の差が日本のクラスメイトにとって取り立てるべき大問題だったとは思いも寄らなかった。入れ替わり立ち替わりに私の年齢を聞いてきたのだった。彼らにとって同学年は同年齢という枠からはみ出した人がいると気になってしかたがなかったのだろう。それ故クラスメイトに繰り返される質問に私はいささかの「悪意」を感じた。1年足らずで転校した日、校長先生の運転で転校先に送り届けられる道中、「悪意」の正体を確かめることができた。校長先生が言うには、先生方が私の努力の成果を賞賛すると、「年上だからできて当たり前さ」とクラスメイトたちが反発していたそうだ。彼らにとって勝負の前提はあくまでも「同年齢」でなければならないのだ。
日本語では自分のことを指して女の子はワタシ、男の子はボク、大人の男性はオレと言うのが正しい、と日本語の個人指導でも促進センターの日本語クラスでも教わった。しかし、実際に移り住んだ土地では女の子も男の子も自分のことを「おれ」や「おら」と言うではないか。まだ日本語の地域性も多様性も知らなかった私は、それは「正しくない!」とめちゃめちゃ抵抗感を覚え、ワタシで通した。
ところが、隣のクラスに自分のことを「ボク」と言う女の子がいた。なぜだろうと興味が湧いた。ある日、勇気を出して聞いてみた。「私は東京からの転校生。女子の身でとてもオレとは言えない。最初はワタシと言っていたけれど、周りから『気取っている』と言われた。それでオレでもワタシでもない『ボク』となったのさ」とのこと。ここまで我を通せるのも清々しい、かっこいい!と思った。ならば「気取っている」と言われようと、私は「ワタシ」だ!
中国での小学校時代に転校してきたスズちゃんも、土地の子と違うアクセントを笑われていたし、私が話していた片言の日本語が耳障りだったから「バーカ、バカはしゃべるな!」と最初の編入校で罵倒された訳だ。言語や言葉遣いは仲間か異質者かを分ける明確なバロメーターと言えよう。もっとも、「ワタシ」を貫き通したのは私の意志だったけれど、土地の人と異なるアクセントや「耳障りな」日本語は本人たちの思い通りにならない事柄であった。
学校もそこにいる集団も大嫌いと思っていた私は、気づいたら、中高生ばかりを相手にする仕事に長年携わってきた。ただし、あくまでも学校の「外側」からの関わりである。「学校を飛び出そう!」がキャッチフレーズの高校生海外派遣プログラムや、近年では多様な言語・文化・特性的バックグラウンドを持つ十代に着目した共創プログラムを企画・運営している。多くの十代と関わる中で、学校という集団にとっての「異質者」たちに出会うことがある。そして、その子たちの身に作用しているバロメーターも気になってしまう。
共創プログラムで出会った高校生ルリ(仮名)のケースはこうである。ルリは高校に進学して早々苛めに遭うようになった。「日本人らしくない」ことが理由だと言う。両親とも日本人で、生まれも育ちも日本であるルリ。家庭の方針で中学校までは個性重視の教育環境で伸び伸びと育った。ところが高校に進学すると、その豊かな個性が仇となった。考え方や振る舞いが「日本人らしくない」と周りから指摘されるようになった。変な日本人だ。言われてみれば容姿も外国人っぽいじゃないか。日本人と偽っているのかもしれない、……などなど。それらの印象、違和感、憶測がルリを排除する力となって働いた。ルリにしてみれば謂れもないことばかりで、それこそ余計なお世話だった。
ルリは多様な同世代が参加する共創プログラムを経験して自分を取り戻した。「いろんな子がいて、みんな輝いている。だから私も私のままでいいのだ。変じゃないのだ。周りに合わせて自分を変える必要がないのだ」と悟ったルリ。学校に戻るとそれまでの人間関係を清算し、ありのままの自分を理解する人とだけ関わるようにし、国際交流のリーダーを自ら引き受けた。押し付けられた「日本人らしさ」から自分を解放し、本来の自分らしさを大切にしたら、とても楽になったと言う。
ルリに限らず、共創プログラムで出会った多くの子がこのように言う。
「学校では『キャラ』を演じている。このプログラムでは『キャラ』を演じる必要がなくて、ありのままの自分でいられるので、とても楽!」
そしてこうも教えてくれた。
「自分たちの『キャラ』は一つではない。朝学校に行く時、その日に想定されるシーンに合わせてどういう『キャラ』で登校するのかを決める。周りに期待されている『キャラ』になり切ることで波風を立てずに過ごせる。でもそれがとても疲れる。そしてコロコロと『キャラ』を変えていくうちに、どれが自分の本当の姿なのか分からなくなってしまう。」
ここにAIによる定義がある。
「『キャラ』とは、主に若者文化において使われる言葉で、キャラクター(character)の略。ある人物の性格や役割、またはコミュニティ内での位置づけを表す言葉です。具体的には、集団における特定の行動パターンや、その人が持つ特徴、イメージを指します。」
「キャラ」はその人の性格や内面よりも集団の中での役割、立ち位置に重きが置かれていると言う。そのため子どもたちは集団にとって様々な意味で都合のいい「キャラ」を強いられている。
海外在住経験の長いミコ(仮名)も、素の自分を出さないように気を張る日々に疲れているそうだ。「自分は学校でなるべく静かにしている。帰国子女はこうだと決めつけられているから、なるべく目立たないように、常に周りの子を観察して、同じように振る舞う努力をしている」と。
病気や障害、家庭環境などなど、学校集団にとって「異質者」と見なされるバロメーターは他にもいろいろある。同質であろうとする集団の排除の力が働き、「異質者」には居心地が悪く、時には居場所そのものを失う。
日本に移住して5年後、20歳でどうにか大学に進学できた私は、ある異変に気付いた。大学の中で、私の年齢やルーツ、言語的特性などを特別視する人がいなくなっている!なんて自由なのだ、でもなぜだろうと思った。検証の結果、私なりの答えに辿りついた。それは小中高校と違って、私が入った大学は多様性に満ちた集団で、謂わば「異質者」だらけだったからだ。
日本各地から来た学生は、お国言葉の特徴を隠しようがないし、隠そうとすらしない強者もいた。各国からの留学生たちもまた多様な日本語話者だった。浪人経験者、単位を落として留年した人、留学や結婚による休学経験者も同学年にいた。当然年齢がバラバラであったし、上級生と下級生、学部生と院生が同じゼミや研究会で学んでいた。目や耳の不自由な学生もキャンパスや教室にいた。
中高生時代に場の「空気」を乱しがちな異質的な発言が、大学では「二つの文化を知っているからこその興味深い視点ですね」と教員から賞賛されることもあった。そこには同質をよしとする「空気」ではなく、異質性を多様性の一つとしてポジティブに捉える「空気」が流れているように感じた。
そんな多様性に満ち満ちた大学にいる間、「異質者」としての私がいなくなり、初めて自由な自分になれた。もう私は大丈夫、社会は大学以上に多様性に満ちているはずだ、と希望の光が見えた気がした。
つづく
好むと好まざるかに関わらず、私は日本と中国のダブルルーツを持って生まれた。しかしその事実を初めて知らされたのは10歳の時だった。そして大人たちの都合で12歳を起点に中国から日本へ(半年滞在)、日本から中国へ(2年間滞在)、再び日本へと行ったり来たりした。その間私は一方の人々から「ここから出ていけ!」、もう一方の人々から「来た場所に帰れ!」と言われ、20歳までの約8年間、居場所も帰るべき場所もなくし、気が付いたら根無し草と化していた。
それでも、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく謂ったもので、溺れないように無我夢中でもがいていたら、目の前に学校からも社会からも助けの手が伸びてきた。おかげで私はどうにか大学に進学することができ、多様性に満ちた大学で初めて手に入れた自由に浸った。「それから醜いアヒルは、白鳥となって幸せに暮らした。めでたし、めでたし」とは簡単にはいかなかった。
私の大学在学中に還暦を迎えた父は、再就職難、不適応、孤独、持病苦……複雑な要因が絡み合ってついにひどく心を病んでしまった。追い打ちをかけるように日本経済のバブルが崩壊し、家計を支えていた母も真っ先にリストラされ、再就職難を抱えながら父の看病に追われた。元々両親からの仕送りがゼロだったので、私への直接的な影響はないが、苦しむ両親を見ていられなかった。極力欠席したくない大学の授業をしばらく休んで、緊急を要する父の入院先探しに奔走した。その足で母を連れて市の福祉課に相談に行ったら、担当職員から思いっきりヘイト的言説を食らった。
「あなたたち中国人は〇×△……云々!」
ああ、学校と社会は鏡の表と裏で、たまたま私は別世界の大学に身を置いているだけなのだ。排除の本質は何も変わっていないと悟った。
日本の大学卒業後、中国の大学に赴いて、青年海外協力隊(現在の「JICA海外協力隊」)の日本語教師隊員を2年間務めたあと、今の仕事に就いた。主に「ことば」と「文化」と「交流」を絡め合わせたプログラムの企画と運営に長年携ってきた。ターゲットの中心は学校で学ぶ十代の若者であったが、彼らに影響を与える教師をはじめ周りの大人たちにアプローチすることも多かった。
そうした仕事の一環として、日本の高校生を中国に派遣する交流プログラムを数年間担当したことがある。高校生への事前連絡、オリエンテーションなどはもちろんすべて日本語で行う。高校生たちに違和感を持たれることはない。しかし、私が高校生たちを引率して現地に着き、日本語モードから中国語モードに切り替えた途端、必ずと言っていいほど「長江先生は何人ですか⁈」という質問を浴びせられる。
アイデンティティ的にはなかなか厄介で答えにくい質問であるが、「今は国籍が日本で、ダブルルーツだよ」と伝えてもなお私を「中国人」のカテゴリーに分けようとする子がいる。「日本人」はネイティブ並みの中国語を話すはずがないとでも思っているのか、自分たちの理解しやすい枠に私を嵌めて安心したいのかは分からないが、こちらとしてはまた一瞬にして異化された気分になる。これも一つのマイクロアグレッション。悪意はなくても、相手を傷つけたり、不快にさせたりする無意識の言動なのだ。
近年私は、芸術表現の可能性に着目し、多様性と多文化を共在させた共創プログラムの企画・運営に携わっている。そして、日本を含む様々なバックグラウンドを持つ中高生年代の参加者に伝えることばがある。「ここにはガイコクジンはいない。みんな日本社会で共に生きる仲間だ。たまたまいろいろな言語や文化を持っている」ということばだ。しかし、その直後に参加者から語られるのは「いろいろな外国人と仲良くなりたいです」という抱負だったりする。ため息を禁じ得ない。
外国につながりをもつ参加者のなかには、日本で生まれ育った子や、私よりもずっと幼い時に日本に移り住んだ子も少なくない。親の言語よりも日本語が第一言語になっていたりするし、今いるこの日本が「帰る場所」だというアイデンティティのほうが強い子もいる。ましてや私のように育ったダブルルーツはどちらも「帰る場所」でありたいと願っている。そのような子たちを「外国人」と呼ぶことは、自ら作る壁の外側に彼らを追いやる言動であると、中高生たちに気づいてほしい。
共創プログラムを共に運営する主力であるアーティストのお一人が言う。
「自分は障害者との創作活動やお年寄りの介護もしている。日頃、障害者のAさん、認知症のBさんではなく、一人の人格としてのAさん、Bさんと見るように心がけている。Aさんという人がたまたま障害を持っている、Bさんという人がたまたま認知症であるというふうに捉えたい。同じ理屈で、このプログラムでは何々人のCさんではなく、Cさんという存在が先で、たまたまどこか日本以外の言語や文化とつながりがある、と思って接していきたい。」
これは、どんなバックグラウンドを持っていても対等な一人の人間としてリスペクトを払う姿勢であり、多様性を包み込むマインドである。そうした姿勢とマインドを持つ大人の背中を中高生たちも見ているはずで、その背中からも大切なことを感じ取ってほしいと願う。このことは時に、上手にダンスが踊れたりうまく演技ができたりする以上に価値のある学びである、と私は思っている。
中高生のためにアーティストと共に作る「共創の場」では、誰もが押し付けられた「キャラ」を演じる必要はない。素顔の自分を隠したり否定したりする必要もない。一連の芸術的ワークを通じて、一人ひとりが安心して自分を掘り下げ、認め、受け入れていく。そして他者の「本来の自分」に目と耳を向け、理解し、尊重する関係性を作る。そのうえで、協働して「自分たちを表現する」という最終課題に取り組む。
決して簡単な課題ではないが、多様な十代の若者たちは親でも教師でもない大人たちの伴走のもと、異なる個性や視点、多様な経験やアイディアを持ち寄り、対話を重ねながら、毎回見事に達成してくれる。そうやって多様性を創造性に変えていく経験を共有し、互いに信頼しリスペクトできる仲間を得る。このことが今後の人生において、ぶれない自分軸をもって多様性と多文化に寛容な社会をつくることに参画し、自らもその社会で自分らしく生きる土台になると願っている。
かつて学校とそこにいる集団が大嫌いだった私。今でも「好き」とは言えないが、「学校」と「学び」についての捉え方が変わってきた。年齢や髪型、服装、評価基準、行動規範のすべてにおいて同質性志向の学校では、個性や創造性はなかなか育ちにくいし、窮屈で非寛容になりがちであるのも頷ける。多様性の担保こそが創造的な学びの源であり、寛容性を育む前提条件ではないかと、今は思っている。そういう意味ではもちろん学校に変わってほしい。
しかし、すべての責任と役割を学校に押し付けるのも無理があるように思う。学校を社会に開いて子どもたちを「旅」させ、社会も多様性や多文化に寛容な土壌を作り、懐を深くして学校を包み込んでいったらどうだろう。学校の内側と外側(社会)に境界線を引くのではなく、学校と社会を太いパイプでつなげて、その間を子どもたちが自由に行き来し、学校にない多様な仲間を社会で作り、学校ではできない学びにリーチする。そしてそれらの経験をまた学校に持ち帰って波及させる。それを続けることによって学校は多文化社会となり、社会は多様な学びができる「学校」となる。
そんな愉快な未来を思い描きながら、これからも多様性に拘って子どもたちの「学びと交流と共創」の場づくりに関わっていきたい。それが二つのルーツに跨って育ち、「異質者」を内在化させた私にふさわしい生き方に思えるからだ。
終わり
TJF では長年隣国である中国、韓国、ロシアの小中高校の日本語教育支援プログラム、これらの国と日本間の生徒・教員・校長及び教育行政者の交流プログラムなどを担当。近年では、外国につながる青少年と同年代が交流する<多言語・多文化交流「パフォーマンス合宿」>(=PCAMP)やワークショップを企画・運営中。「多文化×芸術」のコンセプトを東京、広島、富山など各地に広げている。自身の多文化体験を若い世代に知ってもらうため 2021 年に『小春のあしあと』を自主出版。
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