REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

特集エッセイ 
学校

2025年10月15日

昔の話をしようか 第1回

風来坊

忘れえぬ人々

学校ははじめからつまらなかった。3年までは我慢できた。4年で我慢の緒が切れた。担任の女性教師がヒステリックに叫び散らす毎日が嫌で、体調不調を理由に学校をさぼった。鷹揚な両親は、家でおとなしく本を読んでいる私を無理に学校へ行かせようとはしなかった。自由に本を読んで過ごせる家での生活は快適だった。ところが、学校がほっておいてくれなかった。近所の同級生を動員して、私を学校へ誘うよう仕向けた。細かい記憶はないが、私はしぶしぶ学校へ行くことになった。嫌々行った学校では体育の授業で縄跳びの新しい跳び方を習っていた。運のよいことに私は縄跳びに夢中になった。跳んだ回数を友達のハヤセ君と競った。学校をさぼっていては、ハヤセ君に後れを取ってしまう。私の不登校は子どもらしい負けず嫌いから自然消滅した。担任は相変わらず金槌で教卓を叩き、喉を枯らして金切り声をあげていた。もう気にならなくなった。教科書の片隅にパラパラ漫画を描いて時間をつぶした。
ぶん、この時期だったと思う。学校の図書室で不思議な出会いがあった。家の近所に小児麻痺の後遺症が少し残っているぽっちゃり体形の少年がいた。ミト君といった。いつも穏やかに微笑んでいる二つ年上の彼とそれまで一緒に遊んだ記憶はなかった。空き地でソフトボールをしたり、山の斜面で草滑りをしたことはなかった。だから、放課後、ミト君から図書室で突然話しかけられた時は、どぎまぎした。本を探していた私に、藪から棒に「面白い本、あるよ」と謎めいた微笑みを浮かべて、話しかけてきた。すくんでいる私にお構いなく、ミト君は一冊の本を紹介してくれた。エーリッヒ・ケストナーの「エーミールと探偵たち」だった。半信半疑で読んでみると無茶苦茶面白かった。ケストナーに夢中になった。「飛ぶ教室」「二人のロッテ」どれも少年探偵団やアルセーヌ・ルパンよりおもしろかった。リンドグレーンのカッレ君シリーズも教えてもらった。「ワクワクするよ」それだけ言って、ミト君はチェシャ猫のように消えた。ミト君との図書館での交流は数カ月のことで終わった。彼は卒業し、交流は途絶えた。小学校4年のほんの刹那の付き合いだったが、思い出深い。
うひとり、印象的な出会いをした人がいる。高校2年の秋、天気の良い日、私は退屈な物理の授業を抜け出して学校の外をふらふら歩いていた。坂道を登りきったところで、自転車に乗ってやって来るマツムラ先生にばったり出くわした。マツムラ先生は国語の先生で、俳句の授業はすこぶる面白く、切れ味の鋭い言葉が礫のように飛んできた。声が大きく迫力があり、授業を越えたスリリングな知的体験が味わえる先生だった。唯一尊敬できる人だった。その先生に「何しとるん?」と心配そうにきかれた。観念して、学校を抜け出してきたことを正直に話した。「戻った方がええで」と諭され、先生と一緒にもどった。昼休み、指示通り先生の所へ行くと、坂口安吾の随筆集を貸してくださった。「これは、戦後すぐに出版されたもので、カストリ雑誌いうんじゃ、おもしれぇけ読んでみぃ」分厚い眼鏡から、ぎょろりとした目をむきだしておっしゃった。渡された本は、粗末なつくりで、旧仮名遣い、旧字体の漢字、とても読む気がしなかった。すぐに全面降伏して読むのをあきらめた。返却する際、「読めませんでした」というと、先生は「ほうね」と大笑いされた。先生はその後山口に引っ越された。一年間授業を受けただけだが、受けた御恩は深く大きい。
生において、学校でどんな教育を受けたかということは大切だ。でも誰と出会ったかの方がもっと重要に思える。組織や制度になじめなくても、出会う人々に癒されたり、励まされたりすることは多かったように思う。

風来坊:プロフィール

1959年生まれ。早稲田大学中退、都内で塾講師を10年務めたあと、福山で独立開業。昨年、脳卒中で半年間入院。塾をたたむ。
右半身に麻痺を抱え、妻の介護なしには生活できない。
にもかかわらず、その自覚は乏しく、傲慢不遜な性格は、おそらく死ぬまで治らない。 →エッセイ『愚昧妄言』

著者の他エッセイ

エッセイ『愚昧妄言』

2025年10月01日

教員と非暴力

前川直哉

※本稿にはDV、暴力についての記述があります。

いこと「教員」と呼ばれる仕事をしています。中高一貫校や大学など教える場所は変わりましたが、学生時代の塾講師アルバイトから数えれば教員生活はもう30年近くになります。ある時期から私には、一種の自信がありました。多少騒がしいクラスでも、静かにさせることができる。時々怖い表情を見せたり、ぎろりと睨みつけたりすれば、「あ、ヤバい」と生徒は私語をやめて教科書を見る。必要な時には大声で怒鳴りつけることもできる。10年間勤めていた中高一貫校は男子ばかり1クラス55人という大所帯でしたが、思いのままにとはいかなくとも、50分間は授業に集中させられる。自分はわりと「指導力」のある教員だ――そんな風に感じていました。
同時に、何だか自分の中から「これ、ちょっとおかしいぞ」という声が聞こえてくるような気もしました。エネルギーにあふれた(というと紋切り型の表現になってしまいますが、三十路四十路の私から見ると段違いに気力体力を持て余している)男子高校生が55人、狭い空間に閉じ込められて、黙々と黒板の文字を写している。あれ? 何かこれ、気持ち悪い空間じゃないか?
理的な一斉教授の教室、異様に「揃っている」クラスへの違和感を抱いたことがある人は多いでしょう。その教室の支配者のようにふるまっている、教員である私自身がモヤモヤしているのだから、生徒からしたらいい迷惑です。「全体主義的で嫌だけど、でも授業を成立させるためには仕方ない」と自分に言い聞かせたり、グループワーク形式の時間を時々挟んでお茶を濁したりして、それなりに折り合いをつけてきたわけです。
分が抱えるモヤモヤの正体に気づくことができたのは、DV(ドメスティック・バイオレンス)に関する本を読んでいた時です。殴る蹴るなどの身体的な暴力がなくても、配偶者や恋人を睨みつけたり怒鳴ったりして恐怖を感じさせるのは、精神的な暴力である。DV研究などが明らかにしてきたこの知見は、教員と生徒の関係にも言えるのではないか。生徒をじろりと睨みつけて静かにさせる、怒鳴って言うことを聞かせるといった、学校にありふれた教員の行為は、恐怖心によって生徒を支配しコントロールしようとする精神的な暴力なのではないか。つまり「自分はわりと指導力がある教員だ」とうぬぼれていた私が実際に行使していたのは、「指導力」ではなく「暴力」なのではないか。
らに調べていくと、こうした教員の「暴力」を「指導力」と読み替えることで、学校における男性支配が維持されている構造が明らかになってきました。女性差別が根強く残る日本社会において、学校は比較的男女平等な場だと考えられがちですが、実際には管理職の大半を男性が占めているなど、男性優位な空間です。この背景の一つに暴力をはじめとする男性性の問題があり、「暴力」を「指導力」と呼び変えることで生徒や他の教員の合意を取り付けながら、学校における男性支配が維持されてきたと私は考えています(この辺りの論理は少し込み入っているので、関心のある方は今夏に刊行した共編著『学校の「男性性」を問う:教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』旬報社をぜひお読みください)。
づけて良かったな、と思います。気づいていなかったら、私は生徒を睨み、怒鳴り、様々な暴力をふるいながら、「これは指導だ、生徒の成長のためには仕方ないのだ」と自分を納得させるだけの教員で終わってしまっていたでしょう。とはいえ講義形式の授業で、私語を続ける学生がいると周囲が迷惑するでしょうから、教員は何らかの対応をしなくてはいけません。暴力的な手段を用いず、全ての学生や生徒が心理的安全性を保ったまま、学びの最大化をどのように行うか、工夫が必要です。骨が折れますしまだまだ手探りではありますが、暴力的な手段をできる限り排除した一斉授業をどう創造していくかは、頭の使いどころでもあり、やりがいがあります。
員がコントロールすべきなのは、目の前の生徒や学生ではなく、「生徒や学生を思いのままに動かしたい」という自分自身の欲望である。そんな風に今の私は考えています。

前川直哉:プロフィール

1977年、兵庫県生まれ。灘高校3年在学時に阪神・淡路大震災で被災。
灘中学校・高等学校教諭(地歴・公民科)在職時に起こった東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故の後、勤務校の生徒とともに福島・宮城の被災地域を訪れる「東北訪問合宿」をくりかえし実施。2014年3月に担任学年の卒業にあわせ同校を退職し、4月より福島県福島市に転居。
東京大学大学院特任研究員となるとともに、非営利の学習支援団体「一般社団法人ふくしま学びのネットワーク」を立ち上げ、理事・事務局長を務める。2018年4月より福島大学教員。
研究上の専門は、教育学・社会学(ジェンダー/セクシュアリティ)。
著書に『〈男性同性愛者〉の社会史:アイデンティティの受容/クローゼットへの解放』(作品社)、『男の絆:明治の学生からボーイズラブまで』(筑摩書房)、『基礎ゼミ ジェンダースタディーズ』(共編著、世界思想社)、『学校の「男性性」を問う:教室の「あたりまえ」をほぐす理論と実践』(共編著、旬報社)などがある。

著者の他エッセイ

ジェンダーとセクシュアリティの交差点から

2025年09月10日

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~ 第4回(最終回)

長江春子

好むと好まざるかに関わらず、私は日本と中国のダブルルーツを持って生まれた。しかしその事実を初めて知らされたのは10歳の時だった。そして大人たちの都合で12歳を起点に中国から日本へ(半年滞在)、日本から中国へ(2年間滞在)、再び日本へと行ったり来たりした。その間私は一方の人々から「ここから出ていけ!」、もう一方の人々から「来た場所に帰れ!」と言われ、20歳までの約8年間、居場所も帰るべき場所もなくし、気が付いたら根無し草と化していた。

それでも、「捨てる神あれば拾う神あり」とはよく謂ったもので、溺れないように無我夢中でもがいていたら、目の前に学校からも社会からも助けの手が伸びてきた。おかげで私はどうにか大学に進学することができ、多様性に満ちた大学で初めて手に入れた自由に浸った。「それから醜いアヒルは、白鳥となって幸せに暮らした。めでたし、めでたし」とは簡単にはいかなかった。

「異化」のバロメーター再び作動

私の大学在学中に還暦を迎えた父は、再就職難、不適応、孤独、持病苦……複雑な要因が絡み合ってついにひどく心を病んでしまった。追い打ちをかけるように日本経済のバブルが崩壊し、家計を支えていた母も真っ先にリストラされ、再就職難を抱えながら父の看病に追われた。元々両親からの仕送りがゼロだったので、私への直接的な影響はないが、苦しむ両親を見ていられなかった。極力欠席したくない大学の授業をしばらく休んで、緊急を要する父の入院先探しに奔走した。その足で母を連れて市の福祉課に相談に行ったら、担当職員から思いっきりヘイト的言説を食らった。
「あなたたち中国人は〇×△……云々!」
ああ、学校と社会は鏡の表と裏で、たまたま私は別世界の大学に身を置いているだけなのだ。排除の本質は何も変わっていないと悟った。

悪気がなくとも

日本の大学卒業後、中国の大学に赴いて、青年海外協力隊(現在の「JICA海外協力隊」)の日本語教師隊員を2年間務めたあと、今の仕事に就いた。主に「ことば」と「文化」と「交流」を絡め合わせたプログラムの企画と運営に長年携ってきた。ターゲットの中心は学校で学ぶ十代の若者であったが、彼らに影響を与える教師をはじめ周りの大人たちにアプローチすることも多かった。

そうした仕事の一環として、日本の高校生を中国に派遣する交流プログラムを数年間担当したことがある。高校生への事前連絡、オリエンテーションなどはもちろんすべて日本語で行う。高校生たちに違和感を持たれることはない。しかし、私が高校生たちを引率して現地に着き、日本語モードから中国語モードに切り替えた途端、必ずと言っていいほど「長江先生は何人ですか⁈」という質問を浴びせられる。

アイデンティティ的にはなかなか厄介で答えにくい質問であるが、「今は国籍が日本で、ダブルルーツだよ」と伝えてもなお私を「中国人」のカテゴリーに分けようとする子がいる。「日本人」はネイティブ並みの中国語を話すはずがないとでも思っているのか、自分たちの理解しやすい枠に私を嵌めて安心したいのかは分からないが、こちらとしてはまた一瞬にして異化された気分になる。これも一つのマイクロアグレッション。悪意はなくても、相手を傷つけたり、不快にさせたりする無意識の言動なのだ。

無意識の分断を意識する

近年私は、芸術表現の可能性に着目し、多様性と多文化を共在させた共創プログラムの企画・運営に携わっている。そして、日本を含む様々なバックグラウンドを持つ中高生年代の参加者に伝えることばがある。「ここにはガイコクジンはいない。みんな日本社会で共に生きる仲間だ。たまたまいろいろな言語や文化を持っている」ということばだ。しかし、その直後に参加者から語られるのは「いろいろな外国人と仲良くなりたいです」という抱負だったりする。ため息を禁じ得ない。

外国につながりをもつ参加者のなかには、日本で生まれ育った子や、私よりもずっと幼い時に日本に移り住んだ子も少なくない。親の言語よりも日本語が第一言語になっていたりするし、今いるこの日本が「帰る場所」だというアイデンティティのほうが強い子もいる。ましてや私のように育ったダブルルーツはどちらも「帰る場所」でありたいと願っている。そのような子たちを「外国人」と呼ぶことは、自ら作る壁の外側に彼らを追いやる言動であると、中高生たちに気づいてほしい。

共創プログラムを共に運営する主力であるアーティストのお一人が言う。
「自分は障害者との創作活動やお年寄りの介護もしている。日頃、障害者のAさん、認知症のBさんではなく、一人の人格としてのAさん、Bさんと見るように心がけている。Aさんという人がたまたま障害を持っている、Bさんという人がたまたま認知症であるというふうに捉えたい。同じ理屈で、このプログラムでは何々人のCさんではなく、Cさんという存在が先で、たまたまどこか日本以外の言語や文化とつながりがある、と思って接していきたい。」

これは、どんなバックグラウンドを持っていても対等な一人の人間としてリスペクトを払う姿勢であり、多様性を包み込むマインドである。そうした姿勢とマインドを持つ大人の背中を中高生たちも見ているはずで、その背中からも大切なことを感じ取ってほしいと願う。このことは時に、上手にダンスが踊れたりうまく演技ができたりする以上に価値のある学びである、と私は思っている。

多様性が創造性に変わる!

中高生のためにアーティストと共に作る「共創の場」では、誰もが押し付けられた「キャラ」を演じる必要はない。素顔の自分を隠したり否定したりする必要もない。一連の芸術的ワークを通じて、一人ひとりが安心して自分を掘り下げ、認め、受け入れていく。そして他者の「本来の自分」に目と耳を向け、理解し、尊重する関係性を作る。そのうえで、協働して「自分たちを表現する」という最終課題に取り組む。

決して簡単な課題ではないが、多様な十代の若者たちは親でも教師でもない大人たちの伴走のもと、異なる個性や視点、多様な経験やアイディアを持ち寄り、対話を重ねながら、毎回見事に達成してくれる。そうやって多様性を創造性に変えていく経験を共有し、互いに信頼しリスペクトできる仲間を得る。このことが今後の人生において、ぶれない自分軸をもって多様性と多文化に寛容な社会をつくることに参画し、自らもその社会で自分らしく生きる土台になると願っている。

結びに替えて

かつて学校とそこにいる集団が大嫌いだった私。今でも「好き」とは言えないが、「学校」と「学び」についての捉え方が変わってきた。年齢や髪型、服装、評価基準、行動規範のすべてにおいて同質性志向の学校では、個性や創造性はなかなか育ちにくいし、窮屈で非寛容になりがちであるのも頷ける。多様性の担保こそが創造的な学びの源であり、寛容性を育む前提条件ではないかと、今は思っている。そういう意味ではもちろん学校に変わってほしい。

しかし、すべての責任と役割を学校に押し付けるのも無理があるように思う。学校を社会に開いて子どもたちを「旅」させ、社会も多様性や多文化に寛容な土壌を作り、懐を深くして学校を包み込んでいったらどうだろう。学校の内側と外側(社会)に境界線を引くのではなく、学校と社会を太いパイプでつなげて、その間を子どもたちが自由に行き来し、学校にない多様な仲間を社会で作り、学校ではできない学びにリーチする。そしてそれらの経験をまた学校に持ち帰って波及させる。それを続けることによって学校は多文化社会となり、社会は多様な学びができる「学校」となる。

そんな愉快な未来を思い描きながら、これからも多様性に拘って子どもたちの「学びと交流と共創」の場づくりに関わっていきたい。それが二つのルーツに跨って育ち、「異質者」を内在化させた私にふさわしい生き方に思えるからだ。

終わり

長江春子(NAGAE Haruko)プロフィール
  • 1969 年中国生まれ、中国人の父と日本人の母を持つ
  • 1984 年より日本に移住し教育を受ける(現在は東京在住)
  • 1990 年筑波大学に入学、日本語教育を専攻
  • 1994 年青年海外協力隊日本語教師として中国湖北省の大学に赴任
  • 1997 年より公益財団法人国際文化フォーラム(TJF)に在職中
  • 2000 年東京学芸大学大学院多文化教育研究科に入学、2002 年修了(教育修士)

TJF では長年隣国である中国、韓国、ロシアの小中高校の日本語教育支援プログラム、これらの国と日本間の生徒・教員・校長及び教育行政者の交流プログラムなどを担当。近年では、外国につながる青少年と同年代が交流する<多言語・多文化交流「パフォーマンス合宿」>(=PCAMP)やワークショップを企画・運営中。「多文化×芸術」のコンセプトを東京、広島、富山など各地に広げている。自身の多文化体験を若い世代に知ってもらうため 2021 年に『小春のあしあと』を自主出版。

2025年09月03日

学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第3回(最終回)

村山美和

40代半ばごろから習い事を始めた。人間力を身につけるような内容のクラスだ。
徒は最初6人ほどの小さなグループで、数年後にはメンバーが入れ替わりながら、12人で習う「私塾」になっていった。
論を学んだ初期の半年間は、公民館でごく普通の座学だった。車椅子ユーザーは私だけだったが、そんなに何も変わりなく参加でき、勉強したという実感が持てた。
践の場が師匠のサロンで始まった時、私の心がざわついた。
考えると、至って普通のクラスだった。資料に基づいて講義を受け、質問があれば質問して、理論に基づいた実習をする。私だけが体に障がいがあり、他の人たちはそれぞれの環境で活躍されている女性たちだった。年齢層も20代から50代の人たちのようだった。それぞれ質問や意見を言い、実践のワークをしていく。
ぜか私はそんな場になんとなく居心地の悪さを感じた。
も私を無視していないのに、無視されているような気持ちになった。意見はちゃんと聞いてもらえているのに、聞いてもらえていないような気持ちが湧いた。
回通ってから気がついたのか、最初に気がついたのか忘れてしまったが、私は自分が注目されていないことに違和感を感じていたらしい。
の世界はいつも、誰かに注目される世界だった。
しかに肢体不自由児施設で生活していた時は、ある意味放任だった。身の回りのことができるようになった頃から、あまり職員の人の目が届かない病棟で生活していたせいもある。でも、少し怪我をしたり、具合が悪くなるととても手厚く処置されたし、なんとなく日常的に大人たちは子どもたちの行動に注目していた。
族と暮らしている時も、家族は私の障がい、できることとできないことに注目していた。
人暮らしを始めた時も障がい者団体は私の行動力や考え方に常に注目し、かまってくれた。思えば私は自分から他人に注目しようと思ったことはなかった。その場で形は違ったとしても、何かしら注目して近寄ってきてくれる人たちとどう話すか、どう付き合うかを考えていれば良かった。
目されないということが、私にとってこんなに寂しく、孤独を感じるものなのだということを初めて体験した。そして、私自身が他人に興味を持っていなかったということも、この場所で初めて自覚した。私自身が他者に注目することがなかったのだ。自分が注目される側の人間なのだと、心のどこかで勝手に思っていた。それは、他者からの注目を待つだけの受け身の姿勢だったということだ。
して、実は世の中の人がこの「注目されない環境」をごく当たり前のこととして過ごしていることを理解した。
塾に通ううちに、居心地の悪さは紛れていった。その場所に慣れていったのだと思う。そして、私も人に注目してみようという気持ちが少しずつだが生まれてきたように思う。なかなかうまくいかなかったけれど、やらないよりはマシだと考えることにした。
塾では、師匠から、
「できないことは他のみんながサポートしてくれるから、やろうと思わなくていい。あなたにできることをやりなさい」
言われていた。師匠が私に求めたことは、全体を観察して状況を把握する努力をすることと、みんなに対し配慮をすることだった。
は、人から「人に配慮するように」と求められたことはなかった。面と向かって言われたのはこの場所が初めてだった。これも私が自分自身を「配慮される側」にあるものだと位置付けて生きてきた結果なのだろう。自分が他者に配慮できるなんて思ってもみなかった。
ができないこと、ものすごく時間がかかったり実用的に動けないことは、本当に全てクラスメイトがサポートしてくれた。私は私にできると思われることに努力すれば良かった。それが本当に難しいことだった。やったことがないことは、下手でもうまくいかなくても訳わからなくてもやってみるしかない。少しずつ少しずつ経験が積み重なっていくのだから。理屈ではわかっていても、観察力も他者への配慮も、なかなか感覚がつかめなかった。その場にいること、話についていくこと、クラスメイトの発言を理解すること、お世話になった時にちゃんとお礼を伝えること、習ったことを実践することで私はいつも一杯一杯だった。
のようなことだから、この習い事に在籍した年月はどのクラスメイトより長かったけれども、実は一番理解力が追いつかない存在だった。でも確実に何か大事なことを教わっているような気がしてやめられなかった。
分が配慮できる側にいることを求められた時、自分の居場所というものは誰かが用意してくれるのではなく、自分が作るものなんだと理解した気がする。本当は誰にとっても、最初から居心地のいい場所などなくて、そこに集う一人一人が自分と一緒にいる誰かのことを理解していくたびにその場所がいい場所になっていくのだろう。特別視もされず、差別も受けず、その場に居られるということは、私自身も周りの人たちをもっと受け入れて理解することを求められている、そんな気持ちがした。
のように誰かから求められたことが私にはなかった。というか、自分では何も気が付かなかった。
は他者の様子を見て、自分を省み、自分に足らないところや気がつけなかったところを気づいていくものなのだという。そういうことを私は一つも考えたことがなかった。私は多分、誰かにいつも配慮されながら、そしていつも配慮してくれる環境を望みながら、自分に受け身の姿勢で生きていたのだと思う。私には他者を配慮などできないと、自分を一番差別しながら。
匠はいつの日も、私塾に出席する私に、周りへの配慮と状況の観察を求めた。10年近くその場所はあったが、私が他者の視点に立てるようになったかどうかは不明だ。でも、やらないよりはやった方がマシになったと、今でも思っている。
近になって、師匠の主催するポットキャストで対談に誘われた。インタビューを受けながら、私塾に通っていた頃の自分のふがいなさを詫びたら、
「みわさんにとって、障がいのない人たちと一緒に学ぶ機会は初めてだったでしょう」
と言われた。そうだった。同じ立ち位置で、障害のない人たちと、濃い時間を共有したのは初めてだった。施設内で受けた教育は障がい児のみのクラス、高校は通信教育でそんなにクラスの人たちと時間を共有しなかった(付き添ってくれた親を通しての交流になった事も事実だった)、大学も通信でほとんど自分との闘いだった。
塾のクラスメイトのことを曲がりなりにも考え、悩んだ時間。貴重だった。本当に。
ラスはなくなってしまったが、習い事は未だに続けている。自分にめげそうになると「やらないよりはマシ」と思い直すことにしている。

村山美和(むらやま みわ)

夏生まれ。現在板橋区民。肩書きはありません。マイペースで自分にできる活動をしています。
脳性まひの障害があります。肢体不自由児施設で9年過ごし、その後、家庭で13年過ごしました。自立生活を始めて30年を超えました。
食べることと街を歩くこと、動画や映画を見ることが最近は好きです。
尊敬する人物は「アンリ・サンソン」。好きな小説は「十二国記」、アニメもよくみます。好きなアニメは「葬送のフリーレン」「薬屋のひとりごと」etc

過去の出版
あんドーナツ
 
筒井書房 (発行 七七舎) 1995年
誇りを抱きしめて(詩集)
千書房 1997年
ホームページ等

詩のサイト 詩的せいかつ https://ameblo.jp/sakuranoichiyou/
ホームページ http://littleelephant.cute.coocan.jp/index/top.html
※よろしかったらのぞいていただけると幸いです。

お世話になっている方々のサイト

エッセイに登場する、習い事のサロンや、介助をお願いしている団体の、ホームページURLの掲載許可をいただいたので載せさせていただきます。

障がいあるからだと私 第3回・第10回関連
学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第3回関連

介助派遣を主にお願いしている団体 

著者の他エッセイ

障がいあるからだと私(連載終了)

ムジュンと生活と私

2025年08月06日

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~
 第3回

長江春子

異質者として生きる

中国東北部の小さな村に生まれ育った私は、10歳になるまで母が日本人孤児だとは知らなかった。それを知らされた時は唖然としたものの、まるで実感が湧かなかった。12歳の時に母の37年振りの一時帰国に同伴して訪れた日本で、初めて日本人祖父に会った時も現実味が薄かった。自分の身に何か大変なことが起きていると気づき始めたのは、日本滞在後に中国に戻って地元の中学校に編入した時だった。わずか半年で私は故郷の同年代から排除される対象となっていた。母がなぜ我が子にすら自分の出自をひた隠しにしてきたのか、実感を持って理解できた。

2年後、15歳になった私は家族と共に日本に移住し、地方都市の中学2年に編入した。その時から高校卒業するまでの5年間、自分は異質者として生きねばならないと確信するのに十分な試練が与えられた。異質者と見なされるバロメーターはいろいろあった。

■例えば「年齢」

日本の中学校と高校では、よくクラスメイトに「何歳ですか」と質問され、実に煩わしかった。実際、私は同学年より2歳上だった。中国の学年は9月にスタートする。10月に日本に移住した時は中学3年に上がったばかりだった。中国帰国者定着促進センターで4カ月間日本語と日本社会で生きる訓練を受けていた間にも時は刻み、私の年齢だけが日本の高校1年生になっていた。

中国のカリキュラムでは中学2年を修了していたので、日本の中学3年に編入するのが順当だろうと最初は考えた。しかし、当時私の日本語力と日本の学科力では、あと1年で高校受験に対応できそうにないと感じた。中国での中学1年次に日本に滞在していた半年分の未修の穴を埋めた時の辛さが頭をよぎった。今度はカリキュラムが異なる上に日本語というハンディもある。巨大な穴だ。そこで私は合理的に考えた 。人生はマラソンだ。1年や2年の遅れは先の人生でいくらでも詰めていけるだろう。そこで、自ら中学2年に編入することを希望し、それが叶って安堵した。

実際、幼少期に暮らしていた中国の田舎では、小学校に上がる年齢はマチマチだった。6歳から8歳のバッファがあったように思う。年齢が小さい分学習や通学に苦労すると考える親もいたくらいだ。時には留年も飛び級もあったので、同学年での多少の年齢差なんて誰も問題にしなかった。

ところが、1、2歳の差が日本のクラスメイトにとって取り立てるべき大問題だったとは思いも寄らなかった。入れ替わり立ち替わりに私の年齢を聞いてきたのだった。彼らにとって同学年は同年齢という枠からはみ出した人がいると気になってしかたがなかったのだろう。それ故クラスメイトに繰り返される質問に私はいささかの「悪意」を感じた。1年足らずで転校した日、校長先生の運転で転校先に送り届けられる道中、「悪意」の正体を確かめることができた。校長先生が言うには、先生方が私の努力の成果を賞賛すると、「年上だからできて当たり前さ」とクラスメイトたちが反発していたそうだ。彼らにとって勝負の前提はあくまでも「同年齢」でなければならないのだ。

■例えば「ことば」

日本語では自分のことを指して女の子はワタシ、男の子はボク、大人の男性はオレと言うのが正しい、と日本語の個人指導でも促進センターの日本語クラスでも教わった。しかし、実際に移り住んだ土地では女の子も男の子も自分のことを「おれ」や「おら」と言うではないか。まだ日本語の地域性も多様性も知らなかった私は、それは「正しくない!」とめちゃめちゃ抵抗感を覚え、ワタシで通した。

ところが、隣のクラスに自分のことを「ボク」と言う女の子がいた。なぜだろうと興味が湧いた。ある日、勇気を出して聞いてみた。「私は東京からの転校生。女子の身でとてもオレとは言えない。最初はワタシと言っていたけれど、周りから『気取っている』と言われた。それでオレでもワタシでもない『ボク』となったのさ」とのこと。ここまで我を通せるのも清々しい、かっこいい!と思った。ならば「気取っている」と言われようと、私は「ワタシ」だ!

中国での小学校時代に転校してきたスズちゃんも、土地の子と違うアクセントを笑われていたし、私が話していた片言の日本語が耳障りだったから「バーカ、バカはしゃべるな!」と最初の編入校で罵倒された訳だ。言語や言葉遣いは仲間か異質者かを分ける明確なバロメーターと言えよう。もっとも、「ワタシ」を貫き通したのは私の意志だったけれど、土地の人と異なるアクセントや「耳障りな」日本語は本人たちの思い通りにならない事柄であった。

■例えば「らしさ」

学校もそこにいる集団も大嫌いと思っていた私は、気づいたら、中高生ばかりを相手にする仕事に長年携わってきた。ただし、あくまでも学校の「外側」からの関わりである。「学校を飛び出そう!」がキャッチフレーズの高校生海外派遣プログラムや、近年では多様な言語・文化・特性的バックグラウンドを持つ十代に着目した共創プログラムを企画・運営している。多くの十代と関わる中で、学校という集団にとっての「異質者」たちに出会うことがある。そして、その子たちの身に作用しているバロメーターも気になってしまう。

共創プログラムで出会った高校生ルリ(仮名)のケースはこうである。ルリは高校に進学して早々苛めに遭うようになった。「日本人らしくない」ことが理由だと言う。両親とも日本人で、生まれも育ちも日本であるルリ。家庭の方針で中学校までは個性重視の教育環境で伸び伸びと育った。ところが高校に進学すると、その豊かな個性が仇となった。考え方や振る舞いが「日本人らしくない」と周りから指摘されるようになった。変な日本人だ。言われてみれば容姿も外国人っぽいじゃないか。日本人と偽っているのかもしれない、……などなど。それらの印象、違和感、憶測がルリを排除する力となって働いた。ルリにしてみれば謂れもないことばかりで、それこそ余計なお世話だった。

ルリは多様な同世代が参加する共創プログラムを経験して自分を取り戻した。「いろんな子がいて、みんな輝いている。だから私も私のままでいいのだ。変じゃないのだ。周りに合わせて自分を変える必要がないのだ」と悟ったルリ。学校に戻るとそれまでの人間関係を清算し、ありのままの自分を理解する人とだけ関わるようにし、国際交流のリーダーを自ら引き受けた。押し付けられた「日本人らしさ」から自分を解放し、本来の自分らしさを大切にしたら、とても楽になったと言う。

■例えば「キャラ」

ルリに限らず、共創プログラムで出会った多くの子がこのように言う。
「学校では『キャラ』を演じている。このプログラムでは『キャラ』を演じる必要がなくて、ありのままの自分でいられるので、とても楽!」

そしてこうも教えてくれた。
「自分たちの『キャラ』は一つではない。朝学校に行く時、その日に想定されるシーンに合わせてどういう『キャラ』で登校するのかを決める。周りに期待されている『キャラ』になり切ることで波風を立てずに過ごせる。でもそれがとても疲れる。そしてコロコロと『キャラ』を変えていくうちに、どれが自分の本当の姿なのか分からなくなってしまう。」

ここにAIによる定義がある。
「『キャラ』とは、主に若者文化において使われる言葉で、キャラクター(character)の略。ある人物の性格や役割、またはコミュニティ内での位置づけを表す言葉です。具体的には、集団における特定の行動パターンや、その人が持つ特徴、イメージを指します。」

「キャラ」はその人の性格や内面よりも集団の中での役割、立ち位置に重きが置かれていると言う。そのため子どもたちは集団にとって様々な意味で都合のいい「キャラ」を強いられている。

海外在住経験の長いミコ(仮名)も、素の自分を出さないように気を張る日々に疲れているそうだ。「自分は学校でなるべく静かにしている。帰国子女はこうだと決めつけられているから、なるべく目立たないように、常に周りの子を観察して、同じように振る舞う努力をしている」と。

病気や障害、家庭環境などなど、学校集団にとって「異質者」と見なされるバロメーターは他にもいろいろある。同質であろうとする集団の排除の力が働き、「異質者」には居心地が悪く、時には居場所そのものを失う。

■そして「異質者」がいなくなる!

日本に移住して5年後、20歳でどうにか大学に進学できた私は、ある異変に気付いた。大学の中で、私の年齢やルーツ、言語的特性などを特別視する人がいなくなっている!なんて自由なのだ、でもなぜだろうと思った。検証の結果、私なりの答えに辿りついた。それは小中高校と違って、私が入った大学は多様性に満ちた集団で、謂わば「異質者」だらけだったからだ。

日本各地から来た学生は、お国言葉の特徴を隠しようがないし、隠そうとすらしない強者もいた。各国からの留学生たちもまた多様な日本語話者だった。浪人経験者、単位を落として留年した人、留学や結婚による休学経験者も同学年にいた。当然年齢がバラバラであったし、上級生と下級生、学部生と院生が同じゼミや研究会で学んでいた。目や耳の不自由な学生もキャンパスや教室にいた。

中高生時代に場の「空気」を乱しがちな異質的な発言が、大学では「二つの文化を知っているからこその興味深い視点ですね」と教員から賞賛されることもあった。そこには同質をよしとする「空気」ではなく、異質性を多様性の一つとしてポジティブに捉える「空気」が流れているように感じた。

そんな多様性に満ち満ちた大学にいる間、「異質者」としての私がいなくなり、初めて自由な自分になれた。もう私は大丈夫、社会は大学以上に多様性に満ちているはずだ、と希望の光が見えた気がした。

つづく

2025年7月30日

学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第2回

村山美和

通信制大学 自ら与えた教育時間

学卒業後、私は実家に帰り、通信制の高校に入学させてもらった。
般の高校を受験する学力は私にはなかった。義務教育の期間、私は本当に怠けてしまったから。高校が障がいのある私を受け入れてくれるかどうかということ以前に、本当に勉強する気はなかったし、学力もなかった。そして施設で生活している間、一生生活環境が変わらなくてもいいと考えていたと思う。親に「家に帰っておいで」と言われなければ、自分で何かをしようとしたのか、施設を出ようと努力したのか、疑問だ。
力が追いつかないので、実家に戻って数ヶ月、公文式の数学のプリントをひたすら解いていた記憶がある。
校はテレビやラジオで学習できるところだった。今はその高校はバリアフリーだが、私が高校生になった時はエレベーターも何もなく、親が介助を引き受けないと学校は何もしないところだった。月一回ペースのスクーリングに両親は4年間付き合ってくれた。中身がどれぐらいわかっていたかは不明だったけれど、どうにか4年(通信制のため4年間)で卒業できた。
校の卒業が決まった当時、放送大学が開校したばかりで、親から進学しないのか聞かれた。が、その頃の私は、親に付き添ってもらって大学に通っても、自分に社会性は身につかないと感じていた(生意気だった)。勉強だけしてもそのような状態ではあまり意味がないような気がして、その時点では行かないと決めた。
の時期は勉強がしたくなかったわけではなかった。できれば親頼みにならないで、自分で通いたかっただけだった。
年後その夢を叶えてみようと思い立った。親からの誘いで親と一緒に自営業を始めて5年ほど経ち、少し貯金もできていた。通信制の大学ならば、自分のお金でいけそうだった。文章が好きだったので、日本文学を学びたいと思っていた。
校の選び方は失敗した。当時一年ほどお付き合いした人の母校を見てみたいなどと、非現実的な、不純な動機で選んでしまった。おかげで英語がえらく難しく、8年後挫折する羽目になる。
の大学の通信教育部は、リポートも試験も手書きでないと受け付けてくれなかった。整った文字が書けない私は、手書きのリポートに印字した活字のリポートと手紙を添えて提出したりしていた。試験は手書きで受けなくてはいけなかったと思う。リポート受け付けの事務のかたが厳しくて、交渉しては負けていた記憶がある。
強は難しかったけれど楽しかった。結局、日本文学よりも哲学の方が面白くて、最初学びたいと思っていた目的と変わってしまった。それよりも基礎科目を理解することが私には困難だった。政治学も経済学も論理学も、思った以上に難しかった。でもなんだか初めてちゃんと自分で勉強したという実感を持てた。
クーリングは、同じ大学の通学生のボランティアサークルにノートテイクと教室移動を頼むことができた。スクーリングは夏季に受けたので、その期間夏休み中の彼らはローテーションを組んで必ず来てくれた。だからスクーリングは1日も休まなかった。
クーリング中の試験は、担当教授の考え次第でパソコン持ち込みOKになったり、リポートにしてもらったりできた。代筆してもらったこともあったように思う。
象に残っているスクーリングは、生物学の実験授業だ。2週間あったと思う。実験棟は階段しかなく、毎回ボランティアの人たちに階段を上げてもらった。ほぼ毎回顕微鏡をのぞいて、見えたものをスケッチしていた。私の人生で一番多く顕微鏡に触れた時間だった。
しい日々だったけれど、学校選びはやはり間違っていたと思う。とても難しいと感じる内容が多く、手書きで書かなくてはいけない科目ごとの4000字のリポートはしんどく、何よりも英語力のなさで、丸8年在籍した後に中退を決めた。8年間で取った単位は60単位。基礎科目が多かった。
退してから10年以上経過した頃までずっと、大学はもう諦めたつもりだった。仕事が忙しくなった時期に中退したので、自分なりに納得していると思っていた。
うところがあって仕事と所属を辞める決断をした40代前半の時期に、再就職を考えて真剣に職探しをしてみたけれど全滅になり、ふと放送大学のホームページを閲覧していたら思わず手続きをしてしまった。ネットで簡単に入学申請できる時代になっていた。いまがやりどきなのかもと、どこかで思ったのだと思う。
務教育で、A先生ら一握りの先生以外の、やる気を感じない先生から私が受けた教育は何に基づいていたのか、障がい児教育とはどんなものなのか、学問として知っておきたいという欲求があった(実際はもちろん、勉強してみたが、私の受けた義務教育と結びつく箇所はなかったけれども)。ピアカウンセリングを仕事として十数年活動していたので、心理学にも漠然とした興味があった。そんな気持ちが吹き出してしまって、若い時さんざん経験した「通信教育」なら、落ち着いて勉強できるのではないかと飛び込んでしまった。
の大学は障がい学生へのサポートが充実していたこともあり、私は本当に何も苦労することなくリポートや試験をこなすことができた。前の大学で中退手続きをして残しておいた60単位は全て認められ、私は自分が学びたい専門科目だけ履修すればよかった。
学の資格にこだわっていたわけではないと思っていたが、今考えるとすこしこだわりがあったかも知れない。なんとなく、この資格までが私自身に与えられる学校教育のような気がしていた。
どもの頃、生活態度や怠惰にことに釘を指してくれる大人はいなかった。私はそれをいいように考えて思い切り怠けてしまった。環境にかまけて、努力を何もしなかった。自分にやる気があればすこしはマシになったはずなのに、その機会を自分に与えなかった。そのことがとてもひっかかっていた。
にとって大学卒業は、子どもの私への罪滅ぼしであると同時に、私が私に与えられる「基礎知識」「土台」を作り終わったという感触だった。
業証書を受け取った日、明日からは「応用問題」を勉強できると、本気で思った。

2025年7月9日

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~ 第2回

長江春子

帰るべき場所

1982年、中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私は、日本で半年過ごした後、生まれ育った中国の故郷に戻った。すぐにそこの中学校に編入したら、そこはもはや「帰るべき場所」ではなく、私は歓迎されない「よそ者」になっていた。よそ者は「みんな」がしていたお下げではなくおかっぱ頭をしていた。「みんな」が履いていたズボンではなくスカートを履いていた。勉強が遅れているはずなのに姑息にもよい成績を取った。何よりも侵略者日本と縁があった……周りの同年代にとって何から何まで気に食わなかったらしい。だから、仲間外れにしようという訳だ。そんな肩身が狭い環境ではあったが、親友が1人から2人に増え、高校進学という夢に向かって一緒に勉強に励んだ。ある日突然日本への移住を家族に告げられるまでは。

■新天地

最初の一時帰国から2年後、新しい中学校の教室に私は座っていた。そこはもう「侵略者日本の子、中国から出て行け!」と追いかけてくる人もいない。だって、そこは日本なのだから。

中国帰国者定着促進センター(埼玉県)で4ヵ月の日本語特訓を受けたあと、家族が定住する東北の町の中学校2年に編入した私は、教室で勇気を出して日本語を口にした。すると、斜め右前に座っていた男の子が振返ってキッと睨み「バーカ!バカはしゃべるな!」と罵った。その暴言はその後もつづき、私は担任に止めさせてくれないかと相談した。すると担任は「お前のこと、好きだからじゃない?」とニヤついた。ふだん何かと気にかけてくれていた日本の担任にも、私の期待が裏切られた。

時代が時代なのか、実はその担任、持ち物や身だしなみの定例検査をしては、違反した生徒を黒板に面して並ばせ、順番に竹刀でお尻を殴った。そして、違反してない生徒を席に着かせて見物させた。真面目で小心者の私はいつも見物側にいた。担任が校則違反をした生徒を殴る前は「お願いします」、殴った後は「ありがとうございました」と言わせた。自分が顧問を務める野球部に所属する生徒の番になると、わざわざ竹刀をバットに変えた。これが小さい頃からずっと聞かされてきた「軍国主義日本」の教育なのかと驚愕し、恐怖を覚えた。私が中国にいた時は一度もそのような暴力教師に出会わなかったからだ。

それでも最初は友だちができた。初めて異文化からやってきた編入生に興味津々で声をかけてきた子たちだった。しかし、喜んだのも束の間、その子たちは急によそよそしくなった。いつの間にか「あの子と親密にしたら仲間外れにされてしまう」という空気が流れていた。いわゆるスクールカーストの上位にいた子の「制裁」を恐れたようだった。そうして私は、また独りぼっちになった。

そんな人間関係に加え、日本語力不足や日本の学校文化不慣れというハンディキャップに苦しんだ。しかし、五線譜が読めずリコーダーが吹けなくて泣いていても、社会科の時代背景が分からず頭を抱えていても、教員は知らんぷりし、自ら手を差し伸べようとはしなかった。それどころか、学活のシーンにふさわしい言動が取れないでいると、職員室への呼び出しを食らった。「分からないのならなぜ質問もしないで黙っていたのか。不真面目だ!」と延々と説教された。自分に何が分かっていないかすら分からないのに! と訴える術も持ち合わせていなかった。そんな毎日が辛すぎて、1年足らずで私は転校した。

■笑顔の向こうに

転校先の中学校には2年生の第3学期から卒業まで通った。そこには暴力教師はいなかった。みんな穏やかで、特に親身になってくれる先生は何人もいた。クラスでは相変わらず「よそ者」として浮いた存在だったが、あからさまな苛めに遭うことはなくなった。なぜなら、そこには別のターゲットがいたからだと思う。

その子はなにか先天性の病気を持っていたようで、いつもおしっこみたいな匂いをさせていた。みな彼女の隣に座るのを嫌がり、ばい菌扱いし、罵詈雑言を浴びせる男子も少なからずいた。しかし、その子は怒らず、侮辱されてもへらへらと笑っていた。その態度が余計に痛々しく、じれったかった。今思えば、その子は顔で笑っていても心の中では泣いていなかっただろうか。私とその子はクラスで浮いたもの同士。そのうちなんとなくつるんで登下校し、進んで隣の席に座った。そうやって彼女に同情を寄せることで、自分のみじめさを慰めたかったのかもしれない。

■仕切り直し

日本に移住して2年が経っても、ついに「帰るべき場所」を見出せなかった。そこで思い切って家族の元を離れ、特待生として一人で県外の高校に進学する道を選んだ。高速バス、新幹線、ローカル線を乗り継ぎ、私の素性を知る者が誰もいない土地に行って仕切り直す……はずだった。

高校3年間は女子寮で暮らした。寮生はみな近隣諸県出身の特待生たちであった。共同生活を行い、朝晩同じ食卓で寮母たちの手料理を食べ、日中は同じ教室で勉強し、夜は一緒に寮の学習室で補習を受けた。謂わば、閉鎖的な空間で四六時中顔を突き合わせる人間関係だった。

男子寮のほうでは、寮生の出入管理用に壁にかけられた名札も、寮生が使う靴箱も、定期試験ごとに成績順に並べ替えられると聞いた。女子寮では極少人数だったため、そのような明示的な序列はなかったが、原則2人部屋の寮に住んでいた寮生は奇数。定期試験の成績上位者だけが一人部屋を獲得することになっていた。思えば私が一人部屋になった頃から、少しずつ異変が起き始めた。

いつも数学の解き方を聞きに来ていた子が来なくなった。別の寮生は私が食堂で「おはよう」とあいさつをしても無視し、席を移動してまで距離をとろうとした。また別の寮生は学校で私と一緒にいるのが恥だと言った。みな登下校時に私から少し離れて歩き、クスクス、ひそひそと聞えよがしに悪口を言っていた。現地集合の校外行事の日、寮生たちは示し合わせて寮からの出発時間を変更し、わざと私を置いてきぼりにした。私のシリーズ物の漫画本がいつの間にか歯抜けになっていたり、メガネに身に覚えのない深い引っ掻き傷がついたりすることもあった。そのうち彼女たちは学校で「あの中国人は汚い、性格が変だ」という噂を流し始めた。そのせいか、ある日私が学校の廊下を歩いていると、男子集団が後ろから「中国人、中国へ帰れ!」と叫んだ。

■JK世界の裏を垣間見た

私が通っていた学校は当時男女が別クラスだった。全員女子のクラスではいくつかのグループができていた。私も幸い一つの仲良しグループの一員になれた。気の合う者同士が仲良くするのは自然なことだ、と思っていた。しかし、ある時、AグループのメンバーがBグループのメンバーに、BグループのメンバーがCグループのメンバーに、自分の仲間の悪口を言っているのに気づいた。ああ、本当は嫌いなのにさも仲良さそうにつるんでいるだけなのか。ただ独りになりたくないから、どこかの集団に属していないと不安だから、そして一旦集団に入るとそこから抜けるのも怖いから、惰性で仲間の振りをし続けているのか、と悟った。なぜかその時、孤独を感じているのは自分だけではないような気がした。

つづく

2025年7月2日

学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第1回

村山美和

小学校 A先生との2年間

学1、2年生の時に担任だったのは、A先生だった。
はショートカットで緩くパーマをかけていて、少し茶色がかっていたと思う。子どもから見ると少し年配の方のように見えた。
学校に入学と同時に、私は埼玉県北部にある肢体不自由児施設に入園した。実家のある埼玉県のあるまちでは、「就学猶予」という言葉のもとに地元の小学校へ進むことを阻まれてしまった。義務教育を受けるためには、施設入所が必要だった。両親は学齢期に義務教育を私に受けさせたかった。
と離れるのは初めてではなかった。保育と訓練を受けるという名目で、3歳すぎぐらいから1年間ずつ計2回、東京北区の北療育園(現在の東京都北療育医療センター)に入園していたから。でもできれば、いや絶対、実家から離れたくはなかった。このころは本当に親が大好きだった。
しい生活は、施設という小さな場所で、時間に沿って流れるように始まった。私は毎日8時15分には朝ごはんを食べ終わり、施設の敷地内にある、鉄筋コンクリートで平屋の校舎に通った。車椅子だと5分ぐらいだろうか。そんなにかからなかったかも知れない。
の学校は、施設がある町の町立小学校の「分教場」だった。この時代、埼玉県には養護学校(現在の特別支援学校)は数少なく、実家から通える可能性のあった養護学校の場所は熊谷だった。熊谷市は実家から車で片道1時間かかるところだ。しかも私は世間的には重度障がいと判断されていたので、通学には親の付き添いが必要とされた。このように書くと、今は親御さんの付き添いなく送迎バスで通学できるようになっただろうし、地域の学校に行けるお子さんもいらっしゃると思うから、本当にいい意味で昔話になってしまった。
A先生とどのように打ち解けて行ったのか、もう覚えていない。気がついたら学校は私の生活の一部で、担任のA先生も毎日会う大人の1人になっていた。
A先生は、障がいのある私たちの文字を、いつも的確に読んだ。よほど手が動かなくて鉛筆が持てない子は別だと思うが、私たちはクラス全員(6人のクラスだった。1年生と2年生が一緒に学んでいた。)どうにか字が書けた。一人一人が書く文字を「なんて書いてあるの」と聞かれることはどの子に対してもなかったと記憶している。
のでA先生にとって、受け持った学童はみんな「字が書ける」という認識だったのだと思う。私でさえ自分の字は読めないことがあったのに。
学年の私が書くようにと渡されたノートは3冊。「日記」、「ことば集めノート」「親切ノート」。日記はもちろん毎日。「言葉集めノート」は、「あ」なら「あ」のつく言葉をどんどん書いていくノート。これは思いついた時だけ書けばいいと言われていた気がする。「親切ノート」は、誰かに親切にした時に書くノートだった。
んなに歪んだ文字でも先生は読んでくれた。そして字の間違いは的確に指摘してくださった。先生はお説教したり叱ったりする人ではなかったが、とにかく情報、知識を与えるかただったように思う。だから私はサボることができなかった。施設内の時間帯で毎晩必ず訪れる「自習の時間」になると、思いつくままによく書いていたと思う。もちろん3冊のノートの他に宿題もあった。
の頃の毎日が、もううる覚えでしかないことが残念だ。
室ではじゅうしまつを飼っていた。世話をしていたのはA先生だったと思う。時折観察日記を書かされたような気がするが、覚えていない。
字は毎回先生がその子の作品で一番出来のいいものを習字協会に提出して下さっていた。級こそ上がらなかったが、自分の作品が協会の冊子に載るのは楽しみだった。
さ寒さも彼岸まで、など、季節の移り変わりの言葉を教わったのもA先生だった。施設内では普段はほぼ外出することはなかったが、学校にいる時間内では結構施設の敷地外に出かけられていたように記憶している。教員が付き添うことで外出が許されていたのかもしれない。近くの小川に出かけてザリガニを撮って教室で飼い、共食いのため翌朝1匹になってしまった様子を観察したり、周辺を探索して貼り絵の地図を作ったりもした。お彼岸に和菓子を他の先生に内緒で買ってきて下さってクラスのみんなで食べた。今でも思い出せることがところどころある。
たり前のように学期休みの宿題はたくさんあったように思う。
学校3年になってA先生の担任が終わると、習字の世界も学校の面白さも消えた。新しく私の担任になったベテラン先生は、習字協会に作品を提出しなかったし、宿題もあまり出なくなった。
が怠け者だったから悪かったのだと今は思う。その環境に乗じてその後は勉強を怠ってしまったのだった。よわっちい子どもだったなあと思う。
A先生は担任でなくなっても、一年ほど分教場に残っていたが、その後本校に異動された。
任が違えばあまりお会いする機会がなくなってしまうが、一度呼び止められた記憶がある。
習字、提出しなくなっちゃったの?」
字を協会に出さなくなってしまったのは、新しい担任になった先生の意向だと今なら思うが、当時の私は、習字の時間はちゃんと授業であったので、深く感じてはいなかった。
だ、A先生の声がとても寂しそうだったのは、よく覚えている。
記が少しある。
A先生とは今も一年に1,2回電話で話す機会がある。90代後半になったA先生は、自分が教えた子どもたちのことは障がいのあるなしなど関係なくほとんど覚えていて、すぐに私の知らない先輩や後輩の話で盛り上がる。
もずっとお付き合いがあったわけではなく、年賀状のやり取りだけの年月の方が多かった。
る年、年賀状を出すことが遅くなってしまった年明けに、
Aだよ」
電話がかかってきた。
みわちゃんからの年賀状がまだ届かないよ」
いうのだ。まだこれから出すと謝ると、
しょうがない、今回は私が先に出すよ」
言われたように思う。そうだった。先生はいつも私の年賀状に返信を書くように書いてくださっていた。
事を辞めた40代前半のある日、先生に会いに行った。すごく喜んでくれて、私たちの担任だった時に私が書いた書き初めの写真を見せてくださった。こうして受け持った子どもたちの作品を、今でも大切に全て持っていてくださるかたなのだと、あの時わかった。
賀状が遅れそうだと、私は、元日に先生に電話をかけることにしている。
A先生からの年賀状はいつも元日に届いている。

2025年6月4日

小春のあしあと(学校編)
~日本と中国のミックスルーツを持つが故に~ 第1回

長江春子

記憶を手繰り寄せて

大学生の時、同級生の多くは教職科目を履修していた。教育に対する高い志を持った人、就活時の選択肢の一つと捉えていた人、取れる資格なら取っておけば損はないという人……、動機はさまざまのようだった。そういう空気の中で私も教職科目を履修するものだと思い、1年次にいくつかの単位を取得した。しかし、進級する時にふと「私は本当に教員になりたいのか」という疑問が湧いた。答えは「ノー!」だった。

私は学校という空間もそこにいる人間集団も大嫌いなのを思い出した。譬え生徒から教員に立場が変わろうとも、その空間と集団に戻るのは耐えられないだろう。そう思い始めると、教職科目の履修を止めることに躊躇はいらなかった。

■転校生

小学校2年の時だったか、遠い土地から一つの家族が引っ越してきた。その家には私と同じ年頃の女の子「スズちゃん」がいて、同じ小学校に通うことになった。「いっしょに登校しよう」と誘いに行き、以来、仲良く通学するようになった。慣れない土地、知らない人ばかりの中で心細かろうと思ったからだ。スズちゃんの家に行くと、ご両親と祖父母はとても喜んで、いろいろ話しかけてくれた。でも、ひどく訛っていて、私にはほとんど理解できなかった。土地の人とぜんぜん違う方言を話していたのである。

スズちゃんは前の学校でも「標準語」を習っていたのか、私のためにご両親や祖父母のことばを「通訳」してくれた。しかし、スズちゃんの「標準語」にも母方言の干渉を受けていて、当地の子どもたちの嘲笑う対象となり、苛めの的になるにはそう時間がかからなかった。当地の子どもたち自身が話しているのも一つの方言に過ぎず、「標準語」話者からすれば同様に「訛っている」ということも知らずに。

■寝耳に水

そんな苛められっ子で親友のスズちゃんと楽しく小学校に通っていた10歳の私は、ある日突然「お前のお母さんは日本人戦争孤児だよ」と聞かされた。今まで祖父母と思っていた人たちは実は母の養父母で、実の父親が日本で見つかったという。何が何だか訳が分からなかった。

20世紀80年代前半の中国では、私の住んでいた片田舎でさえ日中友好ムードに湧き、日中友好の歌まで流行った。誰がどこから持って来たのか、日本語の教科書というものを我が家で見るようになった。それを使って五十音図とやらを暗記せよと親に言いつけられた。くねくねした文字に単純に興味を覚えた。

12歳半ばに私は中国の小学校を卒業した。そして、中学受験の結果を待たずに母に連れられて日本にやってきた。ここは母の母国で、目の前にいる老人は日中戦争のせいで母と37年間も生き別れになった実の父親(私の祖父)で、母の実の母親(私の祖母)は満蒙開拓団の入植地である満州(現在の中国の東北地域)で命を落としたと言う。自分の回りで起きていたことは急転直下すぎて、まるでおとぎ話のよう。それが自身のその後の人生にとってどんな意味を持つのかも、当時の母の心情も、考え及ぶ余裕は私にはなかった。

■選手交代

中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私。日本で13歳の誕生日を祝ってもらい、祖父の家に半年滞在した。祖父は私を学校に通わせず、知人に預けて日本語の勉強をさせた。片言の日本語が話せるようになった頃、母の一時帰国の期限が迫り、再び中国に戻った。村の小学校時代の親友であったスズちゃんは町の中学校に進学していた。私もそこに受かっていて半年の休学を経て編入生となった。スズちゃんと同じクラスになり、かつての編入生スズちゃんと私の関係は逆転し、よそ者の選手交代となった。

編入したクラスでは、スズちゃん以外に私と口を利こうとする生徒は誰もいなかった。女子生徒たちは離れたところでひそひそ話をし、よそのクラスの男子生徒たちまで教室の外から私に日本語の「バカヤロウ」をもじった中国語「八嘎牙路」を投げかけてきた。

一方で、日本に行っていた半年分の勉強が遅れていたため、最初の定期テストでは散々な結果となり、恰好な笑い者にされたのは言うまでもない。親友スズちゃんの献身的な「補習」のおかげで次の定期テストでは上位に食い込んだ。スズちゃんと喜んでいたら、「あいつ、カンニングしたに違いない」と他のクラスメイトたちから中傷された。

■忠告

ある日、担任に呼び出され、「お前、スカートを履くのを止めなさい!」と。みんな履いていない中で目立って奇異な目で見られるから、止めておいたほうがいい、と「忠告」された。私が日本から持ち帰ったスカートを履いたからと言って誰に迷惑をかけたというのか。奇異な目で見る側を諫めずに私に「忠告」してくる担任は、私の権利を犠牲にしてマジョリティに迎合していないのか。何かと親切にしてくれていた担任、信頼していただけに裏切られた気がした。

試練は学校の中に留まらなかった。家から学校へは自転車で一時間以上の道のりだった。途中ある村を通る時はいつも悪ガキどもに待ち伏せされた。砂や小石を投げつけられ、追いかけられた。「侵略者日本の子、中国から出て行け!」という罵声とともに‥‥‥。

つづく

エッセイ

 

エッセイ目次

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