中学卒業後、私は実家に帰り、通信制の高校に入学させてもらった。
一般の高校を受験する学力は私にはなかった。義務教育の期間、私は本当に怠けてしまったから。高校が障がいのある私を受け入れてくれるかどうかということ以前に、本当に勉強する気はなかったし、学力もなかった。そして施設で生活している間、一生生活環境が変わらなくてもいいと考えていたと思う。親に「家に帰っておいで」と言われなければ、自分で何かをしようとしたのか、施設を出ようと努力したのか、疑問だ。
学力が追いつかないので、実家に戻って数ヶ月、公文式の数学のプリントをひたすら解いていた記憶がある。
高校はテレビやラジオで学習できるところだった。今はその高校はバリアフリーだが、私が高校生になった時はエレベーターも何もなく、親が介助を引き受けないと学校は何もしないところだった。月一回ペースのスクーリングに両親は4年間付き合ってくれた。中身がどれぐらいわかっていたかは不明だったけれど、どうにか4年(通信制のため4年間)で卒業できた。
高校の卒業が決まった当時、放送大学が開校したばかりで、親から進学しないのか聞かれた。が、その頃の私は、親に付き添ってもらって大学に通っても、自分に社会性は身につかないと感じていた(生意気だった)。勉強だけしてもそのような状態ではあまり意味がないような気がして、その時点では行かないと決めた。
その時期は勉強がしたくなかったわけではなかった。できれば親頼みにならないで、自分で通いたかっただけだった。
数年後その夢を叶えてみようと思い立った。親からの誘いで親と一緒に自営業を始めて5年ほど経ち、少し貯金もできていた。通信制の大学ならば、自分のお金でいけそうだった。文章が好きだったので、日本文学を学びたいと思っていた。
学校の選び方は失敗した。当時一年ほどお付き合いした人の母校を見てみたいなどと、非現実的な、不純な動機で選んでしまった。おかげで英語がえらく難しく、8年後挫折する羽目になる。
この大学の通信教育部は、リポートも試験も手書きでないと受け付けてくれなかった。整った文字が書けない私は、手書きのリポートに印字した活字のリポートと手紙を添えて提出したりしていた。試験は手書きで受けなくてはいけなかったと思う。リポート受け付けの事務のかたが厳しくて、交渉しては負けていた記憶がある。
勉強は難しかったけれど楽しかった。結局、日本文学よりも哲学の方が面白くて、最初学びたいと思っていた目的と変わってしまった。それよりも基礎科目を理解することが私には困難だった。政治学も経済学も論理学も、思った以上に難しかった。でもなんだか初めてちゃんと自分で勉強したという実感を持てた。
スクーリングは、同じ大学の通学生のボランティアサークルにノートテイクと教室移動を頼むことができた。スクーリングは夏季に受けたので、その期間夏休み中の彼らはローテーションを組んで必ず来てくれた。だからスクーリングは1日も休まなかった。
スクーリング中の試験は、担当教授の考え次第でパソコン持ち込みOKになったり、リポートにしてもらったりできた。代筆してもらったこともあったように思う。
印象に残っているスクーリングは、生物学の実験授業だ。2週間あったと思う。実験棟は階段しかなく、毎回ボランティアの人たちに階段を上げてもらった。ほぼ毎回顕微鏡をのぞいて、見えたものをスケッチしていた。私の人生で一番多く顕微鏡に触れた時間だった。
楽しい日々だったけれど、学校選びはやはり間違っていたと思う。とても難しいと感じる内容が多く、手書きで書かなくてはいけない科目ごとの4000字のリポートはしんどく、何よりも英語力のなさで、丸8年在籍した後に中退を決めた。8年間で取った単位は60単位。基礎科目が多かった。
中退してから10年以上経過した頃までずっと、大学はもう諦めたつもりだった。仕事が忙しくなった時期に中退したので、自分なりに納得していると思っていた。
思うところがあって仕事と所属を辞める決断をした40代前半の時期に、再就職を考えて真剣に職探しをしてみたけれど全滅になり、ふと放送大学のホームページを閲覧していたら思わず手続きをしてしまった。ネットで簡単に入学申請できる時代になっていた。いまがやりどきなのかもと、どこかで思ったのだと思う。
義務教育で、A先生ら一握りの先生以外の、やる気を感じない先生から私が受けた教育は何に基づいていたのか、障がい児教育とはどんなものなのか、学問として知っておきたいという欲求があった(実際はもちろん、勉強してみたが、私の受けた義務教育と結びつく箇所はなかったけれども)。ピアカウンセリングを仕事として十数年活動していたので、心理学にも漠然とした興味があった。そんな気持ちが吹き出してしまって、若い時さんざん経験した「通信教育」なら、落ち着いて勉強できるのではないかと飛び込んでしまった。
その大学は障がい学生へのサポートが充実していたこともあり、私は本当に何も苦労することなくリポートや試験をこなすことができた。前の大学で中退手続きをして残しておいた60単位は全て認められ、私は自分が学びたい専門科目だけ履修すればよかった。
大学の資格にこだわっていたわけではないと思っていたが、今考えるとすこしこだわりがあったかも知れない。なんとなく、この資格までが私自身に与えられる学校教育のような気がしていた。
子どもの頃、生活態度や怠惰にことに釘を指してくれる大人はいなかった。私はそれをいいように考えて思い切り怠けてしまった。環境にかまけて、努力を何もしなかった。自分にやる気があればすこしはマシになったはずなのに、その機会を自分に与えなかった。そのことがとてもひっかかっていた。
私にとって大学卒業は、子どもの私への罪滅ぼしであると同時に、私が私に与えられる「基礎知識」「土台」を作り終わったという感触だった。
卒業証書を受け取った日、明日からは「応用問題」を勉強できると、本気で思った。
夏生まれ。現在板橋区民。肩書きはありません。マイペースで自分にできる活動をしています。
脳性まひの障害があります。肢体不自由児施設で9年過ごし、その後、家庭で13年過ごしました。自立生活を始めて30年を超えました。
食べることと街を歩くこと、動画や映画を見ることが最近は好きです。
尊敬する人物は「アンリ・サンソン」。好きな小説は「十二国記」、アニメもよくみます。好きなアニメは「葬送のフリーレン」「薬屋のひとりごと」etc
詩のサイト 詩的せいかつ https://ameblo.jp/sakuranoichiyou/
ホームページ http://littleelephant.cute.coocan.jp/index/top.html
※よろしかったらのぞいていただけると幸いです。
エッセイに登場する、習い事のサロンや、介助をお願いしている団体の、ホームページURLの掲載許可をいただいたので載せさせていただきます。
障がいあるからだと私 第3回・第10回関連
学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第3回関連
介助派遣を主にお願いしている団体
1982年、中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私は、日本で半年過ごした後、生まれ育った中国の故郷に戻った。すぐにそこの中学校に編入したら、そこはもはや「帰るべき場所」ではなく、私は歓迎されない「よそ者」になっていた。よそ者は「みんな」がしていたお下げではなくおかっぱ頭をしていた。「みんな」が履いていたズボンではなくスカートを履いていた。勉強が遅れているはずなのに姑息にもよい成績を取った。何よりも侵略者日本と縁があった……周りの同年代にとって何から何まで気に食わなかったらしい。だから、仲間外れにしようという訳だ。そんな肩身が狭い環境ではあったが、親友が1人から2人に増え、高校進学という夢に向かって一緒に勉強に励んだ。ある日突然日本への移住を家族に告げられるまでは。
最初の一時帰国から2年後、新しい中学校の教室に私は座っていた。そこはもう「侵略者日本の子、中国から出て行け!」と追いかけてくる人もいない。だって、そこは日本なのだから。
中国帰国者定着促進センター(埼玉県)で4ヵ月の日本語特訓を受けたあと、家族が定住する東北の町の中学校2年に編入した私は、教室で勇気を出して日本語を口にした。すると、斜め右前に座っていた男の子が振返ってキッと睨み「バーカ!バカはしゃべるな!」と罵った。その暴言はその後もつづき、私は担任に止めさせてくれないかと相談した。すると担任は「お前のこと、好きだからじゃない?」とニヤついた。ふだん何かと気にかけてくれていた日本の担任にも、私の期待が裏切られた。
時代が時代なのか、実はその担任、持ち物や身だしなみの定例検査をしては、違反した生徒を黒板に面して並ばせ、順番に竹刀でお尻を殴った。そして、違反してない生徒を席に着かせて見物させた。真面目で小心者の私はいつも見物側にいた。担任が校則違反をした生徒を殴る前は「お願いします」、殴った後は「ありがとうございました」と言わせた。自分が顧問を務める野球部に所属する生徒の番になると、わざわざ竹刀をバットに変えた。これが小さい頃からずっと聞かされてきた「軍国主義日本」の教育なのかと驚愕し、恐怖を覚えた。私が中国にいた時は一度もそのような暴力教師に出会わなかったからだ。
それでも最初は友だちができた。初めて異文化からやってきた編入生に興味津々で声をかけてきた子たちだった。しかし、喜んだのも束の間、その子たちは急によそよそしくなった。いつの間にか「あの子と親密にしたら仲間外れにされてしまう」という空気が流れていた。いわゆるスクールカーストの上位にいた子の「制裁」を恐れたようだった。そうして私は、また独りぼっちになった。
そんな人間関係に加え、日本語力不足や日本の学校文化不慣れというハンディキャップに苦しんだ。しかし、五線譜が読めずリコーダーが吹けなくて泣いていても、社会科の時代背景が分からず頭を抱えていても、教員は知らんぷりし、自ら手を差し伸べようとはしなかった。それどころか、学活のシーンにふさわしい言動が取れないでいると、職員室への呼び出しを食らった。「分からないのならなぜ質問もしないで黙っていたのか。不真面目だ!」と延々と説教された。自分に何が分かっていないかすら分からないのに! と訴える術も持ち合わせていなかった。そんな毎日が辛すぎて、1年足らずで私は転校した。
転校先の中学校には2年生の第3学期から卒業まで通った。そこには暴力教師はいなかった。みんな穏やかで、特に親身になってくれる先生は何人もいた。クラスでは相変わらず「よそ者」として浮いた存在だったが、あからさまな苛めに遭うことはなくなった。なぜなら、そこには別のターゲットがいたからだと思う。
その子はなにか先天性の病気を持っていたようで、いつもおしっこみたいな匂いをさせていた。みな彼女の隣に座るのを嫌がり、ばい菌扱いし、罵詈雑言を浴びせる男子も少なからずいた。しかし、その子は怒らず、侮辱されてもへらへらと笑っていた。その態度が余計に痛々しく、じれったかった。今思えば、その子は顔で笑っていても心の中では泣いていなかっただろうか。私とその子はクラスで浮いたもの同士。そのうちなんとなくつるんで登下校し、進んで隣の席に座った。そうやって彼女に同情を寄せることで、自分のみじめさを慰めたかったのかもしれない。
日本に移住して2年が経っても、ついに「帰るべき場所」を見出せなかった。そこで思い切って家族の元を離れ、特待生として一人で県外の高校に進学する道を選んだ。高速バス、新幹線、ローカル線を乗り継ぎ、私の素性を知る者が誰もいない土地に行って仕切り直す……はずだった。
高校3年間は女子寮で暮らした。寮生はみな近隣諸県出身の特待生たちであった。共同生活を行い、朝晩同じ食卓で寮母たちの手料理を食べ、日中は同じ教室で勉強し、夜は一緒に寮の学習室で補習を受けた。謂わば、閉鎖的な空間で四六時中顔を突き合わせる人間関係だった。
男子寮のほうでは、寮生の出入管理用に壁にかけられた名札も、寮生が使う靴箱も、定期試験ごとに成績順に並べ替えられると聞いた。女子寮では極少人数だったため、そのような明示的な序列はなかったが、原則2人部屋の寮に住んでいた寮生は奇数。定期試験の成績上位者だけが一人部屋を獲得することになっていた。思えば私が一人部屋になった頃から、少しずつ異変が起き始めた。
いつも数学の解き方を聞きに来ていた子が来なくなった。別の寮生は私が食堂で「おはよう」とあいさつをしても無視し、席を移動してまで距離をとろうとした。また別の寮生は学校で私と一緒にいるのが恥だと言った。みな登下校時に私から少し離れて歩き、クスクス、ひそひそと聞えよがしに悪口を言っていた。現地集合の校外行事の日、寮生たちは示し合わせて寮からの出発時間を変更し、わざと私を置いてきぼりにした。私のシリーズ物の漫画本がいつの間にか歯抜けになっていたり、メガネに身に覚えのない深い引っ掻き傷がついたりすることもあった。そのうち彼女たちは学校で「あの中国人は汚い、性格が変だ」という噂を流し始めた。そのせいか、ある日私が学校の廊下を歩いていると、男子集団が後ろから「中国人、中国へ帰れ!」と叫んだ。
私が通っていた学校は当時男女が別クラスだった。全員女子のクラスではいくつかのグループができていた。私も幸い一つの仲良しグループの一員になれた。気の合う者同士が仲良くするのは自然なことだ、と思っていた。しかし、ある時、AグループのメンバーがBグループのメンバーに、BグループのメンバーがCグループのメンバーに、自分の仲間の悪口を言っているのに気づいた。ああ、本当は嫌いなのにさも仲良さそうにつるんでいるだけなのか。ただ独りになりたくないから、どこかの集団に属していないと不安だから、そして一旦集団に入るとそこから抜けるのも怖いから、惰性で仲間の振りをし続けているのか、と悟った。なぜかその時、孤独を感じているのは自分だけではないような気がした。
つづく
TJF では長年隣国である中国、韓国、ロシアの小中高校の日本語教育支援プログラム、これらの国と日本間の生徒・教員・校長及び教育行政者の交流プログラムなどを担当。近年では、外国につながる青少年と同年代が交流する<多言語・多文化交流「パフォーマンス合宿」>(=PCAMP)やワークショップを企画・運営中。「多文化×芸術」のコンセプトを東京、広島、富山など各地に広げている。自身の多文化体験を若い世代に知ってもらうため 2021 年に『小春のあしあと』を自主出版。
小学1、2年生の時に担任だったのは、A先生だった。
髪はショートカットで緩くパーマをかけていて、少し茶色がかっていたと思う。子どもから見ると少し年配の方のように見えた。
小学校に入学と同時に、私は埼玉県北部にある肢体不自由児施設に入園した。実家のある埼玉県のあるまちでは、「就学猶予」という言葉のもとに地元の小学校へ進むことを阻まれてしまった。義務教育を受けるためには、施設入所が必要だった。両親は学齢期に義務教育を私に受けさせたかった。
親と離れるのは初めてではなかった。保育と訓練を受けるという名目で、3歳すぎぐらいから1年間ずつ計2回、東京北区の北療育園(現在の東京都北療育医療センター)に入園していたから。でもできれば、いや絶対、実家から離れたくはなかった。このころは本当に親が大好きだった。
新しい生活は、施設という小さな場所で、時間に沿って流れるように始まった。私は毎日8時15分には朝ごはんを食べ終わり、施設の敷地内にある、鉄筋コンクリートで平屋の校舎に通った。車椅子だと5分ぐらいだろうか。そんなにかからなかったかも知れない。
その学校は、施設がある町の町立小学校の「分教場」だった。この時代、埼玉県には養護学校(現在の特別支援学校)は数少なく、実家から通える可能性のあった養護学校の場所は熊谷だった。熊谷市は実家から車で片道1時間かかるところだ。しかも私は世間的には重度障がいと判断されていたので、通学には親の付き添いが必要とされた。このように書くと、今は親御さんの付き添いなく送迎バスで通学できるようになっただろうし、地域の学校に行けるお子さんもいらっしゃると思うから、本当にいい意味で昔話になってしまった。
A先生とどのように打ち解けて行ったのか、もう覚えていない。気がついたら学校は私の生活の一部で、担任のA先生も毎日会う大人の1人になっていた。
A先生は、障がいのある私たちの文字を、いつも的確に読んだ。よほど手が動かなくて鉛筆が持てない子は別だと思うが、私たちはクラス全員(6人のクラスだった。1年生と2年生が一緒に学んでいた。)どうにか字が書けた。一人一人が書く文字を「なんて書いてあるの」と聞かれることはどの子に対してもなかったと記憶している。
なのでA先生にとって、受け持った学童はみんな「字が書ける」という認識だったのだと思う。私でさえ自分の字は読めないことがあったのに。
低学年の私が書くようにと渡されたノートは3冊。「日記」、「ことば集めノート」「親切ノート」。日記はもちろん毎日。「言葉集めノート」は、「あ」なら「あ」のつく言葉をどんどん書いていくノート。これは思いついた時だけ書けばいいと言われていた気がする。「親切ノート」は、誰かに親切にした時に書くノートだった。
どんなに歪んだ文字でも先生は読んでくれた。そして字の間違いは的確に指摘してくださった。先生はお説教したり叱ったりする人ではなかったが、とにかく情報、知識を与えるかただったように思う。だから私はサボることができなかった。施設内の時間帯で毎晩必ず訪れる「自習の時間」になると、思いつくままによく書いていたと思う。もちろん3冊のノートの他に宿題もあった。
その頃の毎日が、もううる覚えでしかないことが残念だ。
教室ではじゅうしまつを飼っていた。世話をしていたのはA先生だったと思う。時折観察日記を書かされたような気がするが、覚えていない。
習字は毎回先生がその子の作品で一番出来のいいものを習字協会に提出して下さっていた。級こそ上がらなかったが、自分の作品が協会の冊子に載るのは楽しみだった。
暑さ寒さも彼岸まで、など、季節の移り変わりの言葉を教わったのもA先生だった。施設内では普段はほぼ外出することはなかったが、学校にいる時間内では結構施設の敷地外に出かけられていたように記憶している。教員が付き添うことで外出が許されていたのかもしれない。近くの小川に出かけてザリガニを撮って教室で飼い、共食いのため翌朝1匹になってしまった様子を観察したり、周辺を探索して貼り絵の地図を作ったりもした。お彼岸に和菓子を他の先生に内緒で買ってきて下さってクラスのみんなで食べた。今でも思い出せることがところどころある。
当たり前のように学期休みの宿題はたくさんあったように思う。
小学校3年になってA先生の担任が終わると、習字の世界も学校の面白さも消えた。新しく私の担任になったベテラン先生は、習字協会に作品を提出しなかったし、宿題もあまり出なくなった。
私が怠け者だったから悪かったのだと今は思う。その環境に乗じてその後は勉強を怠ってしまったのだった。よわっちい子どもだったなあと思う。
A先生は担任でなくなっても、一年ほど分教場に残っていたが、その後本校に異動された。
担任が違えばあまりお会いする機会がなくなってしまうが、一度呼び止められた記憶がある。
「習字、提出しなくなっちゃったの?」
習字を協会に出さなくなってしまったのは、新しい担任になった先生の意向だと今なら思うが、当時の私は、習字の時間はちゃんと授業であったので、深く感じてはいなかった。
ただ、A先生の声がとても寂しそうだったのは、よく覚えている。
追記が少しある。
A先生とは今も一年に1,2回電話で話す機会がある。90代後半になったA先生は、自分が教えた子どもたちのことは障がいのあるなしなど関係なくほとんど覚えていて、すぐに私の知らない先輩や後輩の話で盛り上がる。
私もずっとお付き合いがあったわけではなく、年賀状のやり取りだけの年月の方が多かった。
ある年、年賀状を出すことが遅くなってしまった年明けに、
「Aだよ」
と電話がかかってきた。
「みわちゃんからの年賀状がまだ届かないよ」
というのだ。まだこれから出すと謝ると、
「しょうがない、今回は私が先に出すよ」
と言われたように思う。そうだった。先生はいつも私の年賀状に返信を書くように書いてくださっていた。
仕事を辞めた40代前半のある日、先生に会いに行った。すごく喜んでくれて、私たちの担任だった時に私が書いた書き初めの写真を見せてくださった。こうして受け持った子どもたちの作品を、今でも大切に全て持っていてくださるかたなのだと、あの時わかった。
年賀状が遅れそうだと、私は、元日に先生に電話をかけることにしている。
A先生からの年賀状はいつも元日に届いている。
大学生の時、同級生の多くは教職科目を履修していた。教育に対する高い志を持った人、就活時の選択肢の一つと捉えていた人、取れる資格なら取っておけば損はないという人……、動機はさまざまのようだった。そういう空気の中で私も教職科目を履修するものだと思い、1年次にいくつかの単位を取得した。しかし、進級する時にふと「私は本当に教員になりたいのか」という疑問が湧いた。答えは「ノー!」だった。
私は学校という空間もそこにいる人間集団も大嫌いなのを思い出した。譬え生徒から教員に立場が変わろうとも、その空間と集団に戻るのは耐えられないだろう。そう思い始めると、教職科目の履修を止めることに躊躇はいらなかった。
小学校2年の時だったか、遠い土地から一つの家族が引っ越してきた。その家には私と同じ年頃の女の子「スズちゃん」がいて、同じ小学校に通うことになった。「いっしょに登校しよう」と誘いに行き、以来、仲良く通学するようになった。慣れない土地、知らない人ばかりの中で心細かろうと思ったからだ。スズちゃんの家に行くと、ご両親と祖父母はとても喜んで、いろいろ話しかけてくれた。でも、ひどく訛っていて、私にはほとんど理解できなかった。土地の人とぜんぜん違う方言を話していたのである。
スズちゃんは前の学校でも「標準語」を習っていたのか、私のためにご両親や祖父母のことばを「通訳」してくれた。しかし、スズちゃんの「標準語」にも母方言の干渉を受けていて、当地の子どもたちの嘲笑う対象となり、苛めの的になるにはそう時間がかからなかった。当地の子どもたち自身が話しているのも一つの方言に過ぎず、「標準語」話者からすれば同様に「訛っている」ということも知らずに。
そんな苛められっ子で親友のスズちゃんと楽しく小学校に通っていた10歳の私は、ある日突然「お前のお母さんは日本人戦争孤児だよ」と聞かされた。今まで祖父母と思っていた人たちは実は母の養父母で、実の父親が日本で見つかったという。何が何だか訳が分からなかった。
20世紀80年代前半の中国では、私の住んでいた片田舎でさえ日中友好ムードに湧き、日中友好の歌まで流行った。誰がどこから持って来たのか、日本語の教科書というものを我が家で見るようになった。それを使って五十音図とやらを暗記せよと親に言いつけられた。くねくねした文字に単純に興味を覚えた。
12歳半ばに私は中国の小学校を卒業した。そして、中学受験の結果を待たずに母に連れられて日本にやってきた。ここは母の母国で、目の前にいる老人は日中戦争のせいで母と37年間も生き別れになった実の父親(私の祖父)で、母の実の母親(私の祖母)は満蒙開拓団の入植地である満州(現在の中国の東北地域)で命を落としたと言う。自分の回りで起きていたことは急転直下すぎて、まるでおとぎ話のよう。それが自身のその後の人生にとってどんな意味を持つのかも、当時の母の心情も、考え及ぶ余裕は私にはなかった。
中国残留日本人孤児である母の一時帰国に同伴した私。日本で13歳の誕生日を祝ってもらい、祖父の家に半年滞在した。祖父は私を学校に通わせず、知人に預けて日本語の勉強をさせた。片言の日本語が話せるようになった頃、母の一時帰国の期限が迫り、再び中国に戻った。村の小学校時代の親友であったスズちゃんは町の中学校に進学していた。私もそこに受かっていて半年の休学を経て編入生となった。スズちゃんと同じクラスになり、かつての編入生スズちゃんと私の関係は逆転し、よそ者の選手交代となった。
編入したクラスでは、スズちゃん以外に私と口を利こうとする生徒は誰もいなかった。女子生徒たちは離れたところでひそひそ話をし、よそのクラスの男子生徒たちまで教室の外から私に日本語の「バカヤロウ」をもじった中国語「八嘎牙路」を投げかけてきた。
一方で、日本に行っていた半年分の勉強が遅れていたため、最初の定期テストでは散々な結果となり、恰好な笑い者にされたのは言うまでもない。親友スズちゃんの献身的な「補習」のおかげで次の定期テストでは上位に食い込んだ。スズちゃんと喜んでいたら、「あいつ、カンニングしたに違いない」と他のクラスメイトたちから中傷された。
ある日、担任に呼び出され、「お前、スカートを履くのを止めなさい!」と。みんな履いていない中で目立って奇異な目で見られるから、止めておいたほうがいい、と「忠告」された。私が日本から持ち帰ったスカートを履いたからと言って誰に迷惑をかけたというのか。奇異な目で見る側を諫めずに私に「忠告」してくる担任は、私の権利を犠牲にしてマジョリティに迎合していないのか。何かと親切にしてくれていた担任、信頼していただけに裏切られた気がした。
試練は学校の中に留まらなかった。家から学校へは自転車で一時間以上の道のりだった。途中ある村を通る時はいつも悪ガキどもに待ち伏せされた。砂や小石を投げつけられ、追いかけられた。「侵略者日本の子、中国から出て行け!」という罵声とともに‥‥‥。
つづく
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