東大TVに星加良司先生が2016年6月25日に東京大学で行った、「『無駄』とされる人々」という講義があがっている。拝聴したところ、非常に勉強になり、教えられた。「障害者」とは、近代国家の行政上の必要から生み出された概念、だという。大量生産による生産活動に高い価値が置かれるようになった社会のなかで、その目的に貢献しえない、「労働力」になり得ない人を「障害者」として選別した、つまり「障害者」とは、社会目的にてらすと「無駄」となる人・・・。しかしそれはマジョリティにとっての利害にすぎず、社会は本来もっと多層的なものではないのか? そして目的合理的に「無駄」を排除する方向に進もうとする今の社会は、危険性を孕んではいないか・・・。
そんな内容の講義を聴いて、私はもう何十年も昔、東大の経済学部でアルバイトを始めたばかりのころ、たまたま資料の中に見出した「エコノミック・バッド」という語を、その語に出会ったときの心のざわめきを、思い出した。その経済学用語(?)は確か、「ゴミ」のように持てば持つほど、あればあるほど損になる、マイナスになる、という存在を表す言葉として説明されていた。経済的「悪」。あればあるほど害なもの、それが「ない」ほど人が幸せになる存在。
難しい用語や式、知らない記号が並ぶ資料のなかで、私はその明解な説明と率直な呼び名に、惹きつけられた。
それはなにか素敵な「詩」に出会ったときと似た感覚、その語は少し哀しく、だけれどどこか魅力的な匂いを放ち、静かに、たくましく、まるで宝石のように光っていた。
以来私はこの語を、宝物として、ずうっと大事に抱え持っている。
私は詩を書く人間で、その頃、とあるミニコミを発行していた。それはそれまで友人たちと作っていた文芸同人誌の平衡感覚に物足りなさを感じて始めたものだ。複数人で作る同人誌は、話し合えば話し合うほど極端な意見が削り取られ、全員がよしとする無難でつまらないものになってしまう。わがままな私は、自分ひとりの感覚・嗜好を「絶対」とする、独裁政権のようなミニコミ誌を作ったのだ。
独断を書き散らし好き勝手に作ったその雑誌は、1990年代前後ごく一部の人の間で少しだけ評判となり、たまにメディアで紹介されたりもしたが、その内容はおおかた次のようにかなり失礼なものだった。
「自意識だけを読まされているのかもしれませんが、その自意識が余りに天才的。塔島嬢の偏執的言語世界が延々と誌面を埋め尽くすミニコミを、全ページ読み通せば精も根も尽き果てます。膨大な文字量で書かれている内容は全くの無意味。日常から日常を日常的に逸脱させ日常的に再構成して日常に還元するエレガントなギミック具合は、現代の日本文学にはとうてい望めない稀有なものです。 嶽本野ばら(文筆家、乙女研究家)」(『じゃむち』1998年2月号)
「『車掌』(誌名)はなんの役にも立ちませんが、作っている人はそれがわかっています。世の中にはなんかの役に立つと思ってものを作ってる人間が多すぎます。そういうのに限ってケツを拭く紙にもならないものですが。『車掌』には、世の中の役に立たないものすべてが発散する色気があります。できるだけ世の中の役に立たない人間になろうと思っているぼくにとって、『車掌』はバイブルともいうべき存在です。 柳下毅一郎(翻訳家)」(『ガロ』1994年7月号)
誌面を埋め尽くす私の文章は、無意味で役に立たない「エコノミック・バッド」だったのだ。
自分としては大まじめに書いているためこんな言われ方をされるのは、不本意ではある。けれど、意味なくても、役立たなくても、在っていいものがある。と、これらの評から逆に教えられたのも事実だった。
「エコノミック」には「バッド」でも、大多数には「バッド」でも、「エコノミック」でないところで、誰かしらには「グッド」かもしれない。「ゴミ」も。稼ぎのない亭主も。私の雑誌も。
人との交わりが苦手で友達の少ない私は、このミニコミを通じてちょっぴり、知り合い(決して友人ではない)を増やした。その一人が小川てつオ君で、部分的には彼も、「エコノミック・バッド」に愛着を覚えた私と、価値観を共有していたんだと思う。なぜなら彼は知り合って数年後、『燃えるゴミ』と称する作品(商品)を発売したのだ。それは彼の部屋にあるメモやチラシやレシートなどの大量の「燃えるゴミ」を大判ゴミ袋に詰め込んでしばった、文字通りの燃えるゴミだった。確か500円だったと思う。そしてそれは完売した。
その「ゴミ」を買った人は、その大量のごみの中に彼の生活・日常の「におい」を嗅いだはずだ。オフィスから出るシュレッダーごみにはない特別の、秘密の「におい」。500円の価値のにおいは、どんなにおいだったのだろう。
冒頭の講演で星加先生がお話しされた「障害者」=「無駄」とする、「生産活動に高い価値を置く社会」。その社会の中で私たちは日々を暮らす。
生産活動に貢献しないものが「無駄」なら、その社会の成員である私たち一人ひとりも、いくつもの「無駄」を持っている。一人ひとりが、この社会にとって不要な自分だけのさまざまな「におい」を、内側に隠しながら生きている。そして時に隠しおおせず放出してしまうが、放たれたそれが、他の成員の琴線をふるわすことが、あったりもする。他の何にも代えがたい「価値」を持つことが、あったりもする。
私たちの社会にはまだ、「障害者」という概念が必要でない世界、AIロボットには放出できない、70数億の「ヒト」たちが放つ多種多様な「ごみの匂い」が充満した、豊かな世界が残っている。そしてそれは決して消滅することはないだろうと、私は思う。
『応用生態工学』という学術誌に発表された「海岸生態系研究におけるアマチュアリズムと保全活動―希少貝類を例として―」と題する論文の冒頭部に、次のような記述がある。
保全生物学の基本的な思想のひとつである「生物の多様性は「善」である(Soule1985)」という考え方は、実は科学のみならず哲学的にも革命的なものであり、人類の思想史・人類の思考の発展段階における大きな事件と考えねばならない。なぜなら、その思想は人類にとって「害」をなすかもしれない生物の生存権も明かに保証するものだからである。人類は自然との戦い、科学の発展という道程を経て、「汝の敵を愛せよ」という境地へ理論的にやっとたどり着いたのである。それは究極的には「敵」というものが実は存在しないのだということであるのだが、生物多様性の意味を知る者には、その理解は容易なはずである。・・・(中略)・・・生物多様性という言葉は、人間が生物であることを思い出させるものに他ならない。
この文章を読んだとき、いろいろな事柄が私の頭(文系)を巡った。戦争、ホロコースト、出生前診断、ヘイトデモ・・・
生態系について言われていることが、私たち人間社会にもそのままあてはまるような気がした。
人はいつも線ばかり引いている。「男」と「女」、「障害者」と「健常者」、「日本人」と「外国人」、「一市民」と「犯罪者」…。自分のいる「私たち」側と、いない「あの人たち」側の間に、線を引く。そして自分にないものを持つ異質な「あの人たち」の数が増え、自分たちの領域が侵されるのを、恐れ、嫌う。
だけれどもしそんな「あの人たち」がいなくなって、「私たち」が「私たち」だけになったとき、果たして私たちは生き続けることができるのか・・・? そんなことを思ったのだ。
この論文を書いた山下博由さんは、物言わぬ貝の、細かいひとつひとつを徹底して調べ、環境の変化が生態系に及ぼす影響について警鐘を鳴らす、貝の代弁者のような研究者だ。「山下由」という名でとても美しい詩を書き、ギターを弾き、歌う、アーティストでもある。
冒頭の論文は、干潟の開発で絶滅傾向にある海棲貝類の保全に、アマチュア研究者や地域住民との連携が重要だと訴える内容なのだけれど、とりわけ次の一文に目を引かれた。
「希少種のいる貴重な生態系を守ろう」と言っているのであって「希少種だけを守ろう」と言っているのではない。
とある漁村の湾部の開発時、希少種保全のためにとられた「移植」措置に対する、山下さんの主張・・・。
すごく、感動してしまった。
「多様性」という言葉をとてもあちこちで耳にする。
「多様性を進める」「多様性に取り組む」「多様性のある人材確保」…、そんなフレーズを、毎日のように耳にする。
だけれども、多様性は、「進める」とか「採り入れる」もの、いろんな人を集めて作り上げるものではないことを、この、山下さんの文章は教えてくれる。
自然環境同様、人間社会も本来は、多様だ、ということ。
もし多様でなければ、人為的に、ある特定の集団だけが生きやすい社会、ある特定の「あの人たち」が生きにくい社会に、「私たち」が社会を改変した結果だと、気づかせてくれる。
「希少種のいる貴重な生態系を守ろう」
線を引くこと、ある「あの人たち」を、排除すること、隔離すること、抹殺すること、そして「優良」な種を特定し、それだけを生かし、再生産すること。同一の「私たち」ばかりをコピー&ペーストすること。それは、きっとその社会自身を危うくすることになるのではないか、と、この貝の論文を読んで思うのだ。
REASEプロジェクト時にインタビューを行った車いす区議の村松勝康さんは、秋田の小村での子供時代、歩けないため四つん這いで他の子に混じって遊んでいた。それが学齢期、小学校入学を許可してもらえず、一年遅れでやっと入学できたそうだ。
お母さんの奮闘でバリアフリー設備の整っていない小学校に苦労して通い、なんとか卒業した経験を、村松さんは著書『80センチに咲く花』に綴っているが、その学校でのエピソードからは、「村松君」という歩けない子の存在が、同級生たちを確実に成長させている様子が、伝わってくる。
就学前の自然な友人関係を「入学拒否」という余計な差配で引き割いた当時の教育行政が、「村松君」から教育を受ける権利を奪っただけでなく、歩ける子たちが「村松君」と接する権利、歩けない「村松君」と接することでたくさんの大事なことを学ぶ権利をも奪っていたのだ、ということが、伝わってくる。
「富山型」と呼ばれる共生型デイサービスの生みの親である惣万佳代子さんは、著書『笑顔の大家族 このゆびとーまれ』でこんなことを語っている。
「むかしは老人学などなかった。学問で老人のことを教えなくとも、いつも老人がそばにいたから肌でわかっていたのだ。年を取れば歯が抜け、頭が禿げ、腰が曲っていくことを。今はそれを文字で学習しなければわからない。」
去年の春、山下さんにこのサイトへの寄稿をお願いした。
第1回:生物学の視点からの「多様性」
第2回:貝類の多様性、生息環境の多様性
第3回:貝類と人間
第4回:人間社会の多様性
こんな感じに書いてもらうことになっていた。
だけれど彼はそのあと抱えていた病気が重くなり、直らないまま、執筆に取りかかる前に、亡くなってしまった。
実はその寄稿をお願いした折に、私は山下さんに、「大江健三郎氏に原稿を頼むことを考えている」と、当時密かに思っていた計画を打ち明けたところ、こんな風に言われた。
「大江さんはすでにいろいろなところに文を書いて、たくさんの人が大江さんの考えを知っている。もっと、その人が普通に感じ知っているけど誰にも話していないこと、その人が死んでしまったら誰も知らなくなってしまうこと、そういう話を聞くのが大事なんじゃないか」
また一つ、大切なことを教えてもらった。
山下さんの詩をひとつだけ、紹介したい。
美しいもの
僕が出会った美しいもの
地球の全ての花々
季節は一時に流れ
昔はいつまでも優しかった
今夜もホーボーが歌う
僕が出会った美しいもの
地上の全ての動物たちが
お話を作った
僕は君を探して旅をした
今も旅をしてる
僕が出会った美しいもの
全てのものは美しく
完全だった
僕は火を呼吸して歩き
丸まって眠る獣
血の虹がかかる日
未来は波打ち際で
泡のように笑っている
僕は僕の貝殻を
拾うことができるかしら
1 March, 2002
*ホーボー(Hobo)は,アメリカ大陸を旅する自由生活者.
(地下オンさんの許可を得て全文を掲載させていただきました。他にも山下由さんの詩、歌詞の多くが、地下オンさんのサイトで紹介されています)
引用文献:
こどもはみんな絵を描く。
まっさらな紙に一から描く絵は、描く人の気持ちがそのままにじみ出るものだ。
学校の展覧会では全員の絵が展示される。すましてるのや、汚いなりにがんばってるのや、弱弱しいのや、いろんな絵があり、いろんな描いたこどもの気持ちがある。
けれど学校を卒業し、大人になると、絵は「うまい人」だけのものになる。
「うまい人」だけが描くことを、人に見せることを許されるものになる。気持ちではなく「うまさ」を見せるものになる。
本当は、大人になっても、誰もが絵を描くことができるのに。描いていいのに。
『Dear キクチさん、ブルーテント村とチョコレート』という本に、すごくすてきな絵が出てくる。それはこの本の主人公であるホームレス女性「キクチさん」が描く「花」がテーマの連作だ。
「絵を描いてみない? キクチさん」
「エー? んー。やってみようかしら」さっそく、あなたはカラーのペンを持って画用紙に向かいました。そして、ゆっくり描き始められました。私は、嬉しくなりました。そしてまわりで絵を描いている人達に、かつてもそうだった面白みのある理屈をしゃべって、更にペンを進めます。私は、ますます嬉しくなりました。そして、あなたはペンを止め、花をイメージしたというカラフルで透明感のある幾何学的な絵を仕上げました。 私がその絵を手に取ってみると、みんなも集まって横から後ろから見ます。 あなたは、 「まとめすぎない方が、かえってイイと思って」 とおっしゃっていましたね。
(いちむらみさこ『Dear キクチさん、ブルーテント村とチョコレート』)
この本の著者いちむらみさこさんが都立公園内のテント村で始めた、拾った画材による「絵を描く会」。とてもワクワクする試みだ。
あなたはいったん絵を描き始めると、大好きなチョコレートやクッキーをつまみながらも、集中して黙々と紙にむかっていらっしゃいました。サイケデリックな色調の花や、日本髪を結った女性がポップに描かれた絵は、とても好評で、木に下げて展示したその絵を、みんなじっくり見ていきます。
(同前)
いちむらさんの文章は、まるですぐそこにあるように生き生きとキクチさんの絵を伝え、私は見てもいないのにキクチさんの絵がとても好きになった。そして私はこの文を読みながらふと自死した親戚のNちゃんの絵を思い出したのだった。
もう十数年も前のこと。
訃報を聞いて、私は子供を連れてNちゃんが暮らしたマンションの一室を訪れた。
美術の道を志しつつ20歳で死を選んだNちゃんの部屋や仏壇のまわりに、キャンバスに描かれた油彩画が数点、立てかけてあった。
絵の素養のない私は似たような構図の静物画を前に、「上手ですね」とだけ言ってそれ以上の言葉を見つけられず、押し黙ってしまったのだったが、一見平凡なそれらの絵のひとつの隅っこに、まだ就学前の私の娘が「お寿司」を見つけた。
「お寿司がある。」そう言われて、見ると、確かに隅の黒っぽく塗られた箇所に、小さな小さな握りずしが数貫、非常に精緻に、丁寧に、描かれていた。そして静物画の何たるかを知らない娘はこの絵の主題である「果物」でなく、下隅のお寿司の方を指して「おいしそう」「上手だね」と言ったのだ。
サイズや位置の出鱈目さから、その「お寿司」は中央の果物と同じ次元で描かれていないことは明らかだった。そしてNちゃんのご家族もその存在に気付いていなかった。
主題を台無しにしてしまうような、パロディというにもずれているそのヘンテコな絵に私は静かな衝撃を受けた。
写実的には「ウソ」であるはずのそのお寿司が、なんと生き生きとしていたことか。
この絵は何か? 私にわかるわけはないし、Nちゃん自身、生きていても説明ができなかったかもしれない。
それでも、その絵は私に彼女の中の「何か」を伝えた。それは悶々としている「何か」だったが、決して暗くなく、Nちゃんは「生きた」のだと思った。そしてもっと生きるべきだったとも思った。
拾ったカラーペンでキクチさんが描いたサイケな花。真面目な静物画の片隅に描かれたNちゃんのお寿司。この2つの絵は、美術の教科書に載っている絵よりも、国立西洋美術館に展示されている絵よりも、私に強い印象を与え、心に深く刻まれている。
世の中にさまざまな人がいて、それぞれが自分だけの「何か」を思い、感じながら生きている。
言葉では語れないもの、整理できない自分だけの気もちを、絵があらわすことができることもあるのだと思うとき、限られた上手な人だけしか絵を描かない、絵を見せない、今の世の中はなんてもったいないのかしらと思う。
最近ガタロさん、という方の絵に出会った。
それは新聞に紹介されていた「雑巾」の素描6点。
絞った形の雑巾の小さな(それぞれ証明写真程度のサイズでしかない)絵が、胸に迫った。
描いたガタロさんは清掃員で、日々使う雑巾を、日課のように丁寧に描いているという。
6枚の雑巾たちは、まるで今にも動き出しそうにそこにあった。
気になって仕方なく、調べて2冊の本を図書館から借りる。そのうちの1冊、NHKの方がガタロさんを取材した『ガタロ 捨てられしものを描き続けて』という本をひもとくと、
「雑巾は生きている」
とガタロさんが語っていた。
今もこれ、雑巾絞って、ほどけてきますよ。生きとるから呼吸しているわけですよ。
(ガタロ・中間英敏『ガタロ 捨てられしものを描き続けて』)
私が見たのは、呼吸する、生きている雑巾の姿を描いた絵だったのだ。
もう1冊のガタロさんが自費出版した『素描集 清掃の具』には、雑巾のほか、トイレが詰まったときに使う「スッポン」や床をみがく「棒ずり」、「大五郎」と名付けられた手作り(全て廃材)の清掃台車、ガタロさんの暮らす広島の川や橋、そして「S氏」というホームレスの何枚もの肖像、そんな絵の数々が載っていた。川も、橋も、茶碗を掻っ込むS氏も、S氏の持つ箸も、生きている。
ガタロさんの絵は身近なものたちへの愛情に満ち、その絵もまた、生きていた。
1970年 画廊、美術館で展示。その後公園などで野晒し展、街頭展をやる。各種公募展で落選すれば、その都度落選展開催。
(ガタロ『素描集 清掃の具』)
素描集に載るガタロさんの展示歴。「各種公募展で落選すれば・・・」美術の世界では多くの公募展が「審査」方式を採っている。たとえば「都展」は「本会の審査員が審査し入選作品のみ陳列」としていた(都展ホームページより)。この「審査」で、「入選」「落選」を分ける基準は、何だろうか?
そう考えるとき、以前このサイトの「エッセイページについて」に書いた「みんな」と「あの子たち」の間にひかれた謎の境界線に思いが及ぶ。一人一人が持てる力を出し切った公立小学校の運動会。「みんな」で団結したけれど、その「みんな」に「あの子たち」は入っていなかった・・・。私たちが多様性に満ちた「みんな」と思っている集合は、美術評論家や著名人が不明確な基準で選んだ、ガタロさんの絵を欠いた公募展入選作群と同じなのではないだろうか。
それは実にもったいない、うわべだけの「多様性」だ。
ガタロさんの絵を排し、上手で品のある絵ばかり展示する公募展に、私は魅力を感じない。そして町や社会もまた、公募展のようなきれいさを求めている気がする。ゴミがなくてきれいだけれど、便利で何もかも十分整ってはいるけれど、大きな声を出せず、失敗が許されず、ルールを守るいい人ばかりが整然と行き交い同じ挨拶をするような、公募展のように息苦しい場所が、少しずつ広がっている気がする。
みんな個性がすごくある。欠点みたいなところが非常に面白い。なんか人がこう、嫌な奴じゃ、あいつは悪いやっちゃあ、という人がボクは好きなんですよね。だけどそういう人を見とると、その人はどうしようもなく一生懸命生きてるわけでしょ。裸で生きてますよ。建前じゃなくてね。そういうところが好きですね。大声出す人も好き。時々聞こえるんですよ、大声が。懐かしい感じですね。とにかくボクは雑多に、いろんな人がいてほしい。でこぼこがいいと思う。
(ガタロ・中間英敏『ガタロ 捨てられしものを描き続けて』)
掃除を担う「基町アパート」で暮らす人々について、ガタロさんはこんな風に語っていた。
雑多に、いろんな人がいること、でこぼこなこと、それが「生きている」ということ、そして本当は「当たり前のこと」ではないかと私は思う。
参考文献:
引用文献:
隣りに住む高齢の父が先日、茶飲み話の終わりにこんなことを言った。
「なにか力になれること、助けられることがあったら、何でも言ってくれ」
父は認知症を患い、「できる」ことが毎日少しずつ減っていることを自覚している。
「自分で何もできなくなったら、生きている意味がない」。こんなことも、最近よく言う。
そんな父にとても切実な感じでこう言われ、なんだかとても申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
父が私を助けられることはまだいくつもあり、今でもときどき全力を傾けて私のためにいろいろなことをしてくれる。
でも私はそれを大抵の場合、「余計なお世話」と感じてしまう。
なので何かをしてくれようとしても、「自分でできるから大丈夫」と言ってかわすことも多く、「もう年なんだから、こっちが助ける番なんだから」とかも言う。
でも父は本当に切実に、「自分が役に立つこと」を欲していた。
「できなくなること」「役に立てないこと」は、父にとって「生きている意味がなくなる」ことだから。
生きていることへの意味づけのため、自分自身が生きるために、父は私を助けたかったのだ。
干渉する親と逃げる娘。親子関係の「あるある」かもしれない。
父は「でき」、わたしは「できない」。
「できない」私を見ていられなく、教え、助け、子どもの時から父はさまざまな場面で力を貸してくれた。
その一方、助けられる側の私は、助けられるほど、ダメな自分を意識させられ、助けられるほど、父に支配されていくような感覚を持った。「命令を下す人」「決定権を持つ人」として、私の上に君臨する父。その呪縛が煩わしく、私は父が「でき」私が「できない」世界からそっと逃げだし、別の価値観に傾いていったから、結果、父は私にとって「本音を言えない人」となり、頼るべき人でもなくなってしまった。
そして私自身がおばあさんに近い年齢になろうというのに、今でもまだ父の「助力」を「権力」みたいに感じ、とっさに心が拒否反応を起こしてしまうのだ。
せっかく助けているのに。父はなんて損な役回りなんだろう。
自分の時間を削り、娘のためを思い、労を費やし、そのあげく感謝されるどころか逆に怖がられ、避けられてしまったのだから!
「助ける」ってなんなんだろう?
多様性社会には不可欠な、良心や愛情から生まれる優しい行為。
お金がなくて困っている人に、お金がある人が食べ物をあげる。目が見えなくて書いてある説明が読めない人に、目が見える人が読んであげる。
「共生」という言葉と縁の深いその行為は、同時に「できる」「できない」の上下関係を作ってしまう行為でもある。そんな気もする。
妻と子を持つ漫画家が、漫画で食べていけなくなり、石を多摩川の河原で売る「石屋」を始める。石は売れるわけもなく一家は窮乏し、主人公は妻から「虫けら」だの「役立たず」だのと日々罵られる。つげ義春氏の名作漫画『無能の人』。
今から30年ほども前だろうか、この漫画を読んで、私は主人公の無能ぶりに心底感動してしまった。稼ぐこと、働くこと、「できる」こと、ばかりが求められる社会の中でその全部が「できない」男のぶざまな生きざまは、むしろ「かっこいい」ものに思えた。
そして、同様の意味で「かっこいい」夫を持っていることを誇りに感じた。
家事も碌にせず、不器用で世間的には役に立たない夫との貧乏暮らしに、私は当時満足していた。
弱く、みじめで、みっともないこと、役に立たなくて、社会構造の中で下位にいること。
それは果たして「悪い」ことなのだろうか?
漫画で妻は、主人公をなじりながらも、実は理解し、頼っているようにも私には思える。
たとえばこんなシーンがある。
無能の人が、石屋の構想を妻に語る。無能の人は正座で、妻の足をもんでいる。妻はうつぶせの姿勢で、タバコを吸いながら、「ふん あんたの石がいつ売れるのよ」などと馬鹿にして聞く耳を持たない。そして「この団地の三千所帯に配って回ったら足が棒になるのよ」と自分の働きをアピールしたあと、「もっとしっかりもんでよ」と、夫に命じる。(※1)
また、こんなシーンもある。
石拾いを兼ねた貧乏旅行のぼろ宿で妻がふと言う。
「これから先 私たちどうなるのかしら」
「なんだか 世の中から孤立して この広い宇宙に三人だけみたい」(※2)
自分は「より働いている」。当時は本当に意識していなかったけれど、私の満足感は、その考えと関係していたような気がする。私の方が稼ぐし、私の方が家事をする。お金にはならないけど価値の高いことを知っている夫の音楽活動を、私が支える。働きのない夫を「許す」。
結婚前父に助けられ、それを嫌がっていた私が、「助ける」側の人になった満足感。安心感。そしてそのために自分の方が少し「上」にいるような優越感。その感じが、心地よかったのではなかったかなと、今思う。
あたかも無能の人の漫画のように、アルバイトから帰ってきて「あー仕事が大変だった、疲れた」と愚痴る。(夫が有能な会社員だったら言えない)
そして誰にも理解されない私たちだけの世界に私たちは生きている、と傲慢にも思う。
許し、感謝され、頼られ、家庭生活を支配する。
当時「愛」だと思っていた感情の片隅に、そういう欲があったのだなあと思うのだ。
その欲のために、夫が「無能」であることは、非常に望ましかった。
2年前聴講した「相模原事件と、向き合う。」という東大内の自主ゼミ(※3)で、講師の熊谷晋一郎先生がこんな内容のことをおっしゃった。
価値の根拠はまず必要性の方にあり、生産性は二次的である。生産性に価値が宿るのは条件付きだが、必要性には無条件に価値が宿る。そして全ての人が、生きていく上で様々な必要性を持っているから、全ての人に無条件に価値が宿ると、自分は思う。
こうおっしゃって、生産性がない=その人に価値がない、とする優生思想を否定された。
価値はすべての人に無条件に宿る。
なんてすてきな言葉なんだろう、と思った。
そして今改めて考えると、私は、稼ぎ、家事もやり、夫より生産性があるから、夫より価値があり、夫の上にあると、だから夫に足をもませてもよいのだと、優生思想に基づき思ってしまった。
でも本当はこのとき夫は、おそらく稼ぐことも、家事も、必要と思っていなかったのだ。
『無能の人』の主人公と同じように。
石を売る主人公に、古本屋が突っ込みを入れる場面がある。
「売れるわけがないのを承知の上でしょう」
そう言われ、主人公はムッとして「ひどいことを言うね 結果はどうあれオレは一生懸命やっている 努力しているんだ」と反論する。が、古本屋は
「ふりをしているだけでしょう」
と図星を突く。(※4)「稼ぐ」ことの無意味さを知り、「稼ぐ」必要性を感じない彼の代わりにいくら妻が稼いでも、夫を助けたことにはならないのだ。
だから同様に、私が稼ぎ、家事をすることにも価値はなかった(少なくとも夫にとっては)。
何も助けていなかった。自己満足だった。それで感謝されないのが不満だったけど、感謝されることを別段私はしていなかったのだ。
その「ずれ」が「破局」の主因だったのかもな、と、今にして思う。
(そしてこれも案外、「夫婦あるある」「離婚あるある」だな、とも思う。)
冒頭の父の言葉を振り返る。
「なにか力になれること、助けられることがあったら、何でも言ってくれ」
「力になりたい」「助けたい」という切実な思いは、今の父にとって「必要性」そのものではないかと感じる。
だから、この思いにはきっと価値がある。
このエッセイページ「にじいろでGO!」のインタビューページに登場する原理子さんの、澄んだまっすぐな目を思い出す。知的障害を持ち支援を受けながら暮らす原さんが、目の不自由な方に勇気を出して話しかけ、助けた。そして「ありがとう」と言われ、「嬉しかった」と話している。
なんの打算もない純粋な、心からの「助けたい」欲望。「助けなければ」という本能的な責任感、優しさ。こんな純粋な「助け」を、いつか私もできる人間になりたいと思う。
まずは父に「助けられ」よう。
引用文献:
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