小学1、2年生の時に担任だったのは、A先生だった。
髪はショートカットで緩くパーマをかけていて、少し茶色がかっていたと思う。子どもから見ると少し年配の方のように見えた。
小学校に入学と同時に、私は埼玉県北部にある肢体不自由児施設に入園した。実家のある埼玉県のあるまちでは、「就学猶予」という言葉のもとに地元の小学校へ進むことを阻まれてしまった。義務教育を受けるためには、施設入所が必要だった。両親は学齢期に義務教育を私に受けさせたかった。
親と離れるのは初めてではなかった。保育と訓練を受けるという名目で、3歳すぎぐらいから1年間ずつ計2回、東京北区の北療育園(現在の東京都北療育医療センター)に入園していたから。でもできれば、いや絶対、実家から離れたくはなかった。このころは本当に親が大好きだった。
新しい生活は、施設という小さな場所で、時間に沿って流れるように始まった。私は毎日8時15分には朝ごはんを食べ終わり、施設の敷地内にある、鉄筋コンクリートで平屋の校舎に通った。車椅子だと5分ぐらいだろうか。そんなにかからなかったかも知れない。
その学校は、施設がある町の町立小学校の「分教場」だった。この時代、埼玉県には養護学校(現在の特別支援学校)は数少なく、実家から通える可能性のあった養護学校の場所は熊谷だった。熊谷市は実家から車で片道1時間かかるところだ。しかも私は世間的には重度障がいと判断されていたので、通学には親の付き添いが必要とされた。このように書くと、今は親御さんの付き添いなく送迎バスで通学できるようになっただろうし、地域の学校に行けるお子さんもいらっしゃると思うから、本当にいい意味で昔話になってしまった。
A先生とどのように打ち解けて行ったのか、もう覚えていない。気がついたら学校は私の生活の一部で、担任のA先生も毎日会う大人の1人になっていた。
A先生は、障がいのある私たちの文字を、いつも的確に読んだ。よほど手が動かなくて鉛筆が持てない子は別だと思うが、私たちはクラス全員(6人のクラスだった。1年生と2年生が一緒に学んでいた。)どうにか字が書けた。一人一人が書く文字を「なんて書いてあるの」と聞かれることはどの子に対してもなかったと記憶している。
なのでA先生にとって、受け持った学童はみんな「字が書ける」という認識だったのだと思う。私でさえ自分の字は読めないことがあったのに。
低学年の私が書くようにと渡されたノートは3冊。「日記」、「ことば集めノート」「親切ノート」。日記はもちろん毎日。「言葉集めノート」は、「あ」なら「あ」のつく言葉をどんどん書いていくノート。これは思いついた時だけ書けばいいと言われていた気がする。「親切ノート」は、誰かに親切にした時に書くノートだった。
どんなに歪んだ文字でも先生は読んでくれた。そして字の間違いは的確に指摘してくださった。先生はお説教したり叱ったりする人ではなかったが、とにかく情報、知識を与えるかただったように思う。だから私はサボることができなかった。施設内の時間帯で毎晩必ず訪れる「自習の時間」になると、思いつくままによく書いていたと思う。もちろん3冊のノートの他に宿題もあった。
その頃の毎日が、もううる覚えでしかないことが残念だ。
教室ではじゅうしまつを飼っていた。世話をしていたのはA先生だったと思う。時折観察日記を書かされたような気がするが、覚えていない。
習字は毎回先生がその子の作品で一番出来のいいものを習字協会に提出して下さっていた。級こそ上がらなかったが、自分の作品が協会の冊子に載るのは楽しみだった。
暑さ寒さも彼岸まで、など、季節の移り変わりの言葉を教わったのもA先生だった。施設内では普段はほぼ外出することはなかったが、学校にいる時間内では結構施設の敷地外に出かけられていたように記憶している。教員が付き添うことで外出が許されていたのかもしれない。近くの小川に出かけてザリガニを撮って教室で飼い、共食いのため翌朝1匹になってしまった様子を観察したり、周辺を探索して貼り絵の地図を作ったりもした。お彼岸に和菓子を他の先生に内緒で買ってきて下さってクラスのみんなで食べた。今でも思い出せることがところどころある。
当たり前のように学期休みの宿題はたくさんあったように思う。
小学校3年になってA先生の担任が終わると、習字の世界も学校の面白さも消えた。新しく私の担任になったベテラン先生は、習字協会に作品を提出しなかったし、宿題もあまり出なくなった。
私が怠け者だったから悪かったのだと今は思う。その環境に乗じてその後は勉強を怠ってしまったのだった。よわっちい子どもだったなあと思う。
A先生は担任でなくなっても、一年ほど分教場に残っていたが、その後本校に異動された。
担任が違えばあまりお会いする機会がなくなってしまうが、一度呼び止められた記憶がある。
「習字、提出しなくなっちゃったの?」
習字を協会に出さなくなってしまったのは、新しい担任になった先生の意向だと今なら思うが、当時の私は、習字の時間はちゃんと授業であったので、深く感じてはいなかった。
ただ、A先生の声がとても寂しそうだったのは、よく覚えている。
追記が少しある。
A先生とは今も一年に1,2回電話で話す機会がある。90代後半になったA先生は、自分が教えた子どもたちのことは障がいのあるなしなど関係なくほとんど覚えていて、すぐに私の知らない先輩や後輩の話で盛り上がる。
私もずっとお付き合いがあったわけではなく、年賀状のやり取りだけの年月の方が多かった。
ある年、年賀状を出すことが遅くなってしまった年明けに、
「Aだよ」
と電話がかかってきた。
「みわちゃんからの年賀状がまだ届かないよ」
というのだ。まだこれから出すと謝ると、
「しょうがない、今回は私が先に出すよ」
と言われたように思う。そうだった。先生はいつも私の年賀状に返信を書くように書いてくださっていた。
仕事を辞めた40代前半のある日、先生に会いに行った。すごく喜んでくれて、私たちの担任だった時に私が書いた書き初めの写真を見せてくださった。こうして受け持った子どもたちの作品を、今でも大切に全て持っていてくださるかたなのだと、あの時わかった。
年賀状が遅れそうだと、私は、元日に先生に電話をかけることにしている。
A先生からの年賀状はいつも元日に届いている。
夏生まれ。現在板橋区民。肩書きはありません。マイペースで自分にできる活動をしています。
脳性まひの障害があります。肢体不自由児施設で9年過ごし、その後、家庭で13年過ごしました。自立生活を始めて30年を超えました。
食べることと街を歩くこと、動画や映画を見ることが最近は好きです。
尊敬する人物は「アンリ・サンソン」。好きな小説は「十二国記」、アニメもよくみます。好きなアニメは「葬送のフリーレン」「薬屋のひとりごと」etc
詩のサイト 詩的せいかつ https://ameblo.jp/sakuranoichiyou/
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※よろしかったらのぞいていただけると幸いです。
エッセイに登場する、習い事のサロンや、介助をお願いしている団体の、ホームページURLの掲載許可をいただいたので載せさせていただきます。
障がいあるからだと私 第3回・第10回関連
学校の思い出と、忘れられない記憶を拾ってみた 第3回関連
介助派遣を主にお願いしている団体