私は5歳のときに筋ジストロフィーと診断された。先天性の遺伝子の欠損により、筋肉が壊死・変質する難病である。時間が経つにつれ運動機能に障害が現れる。症状が進行すると歩行が困難になり、やがて寝たきり、気管切開で呼吸器導入、胃ろうを余儀なくされる。病気との付き合いは34年になる。
現在はREDDYの在宅勤務スタッフとして勤務している。サイト制作、事務補佐、雑務が主な業務である。日常生活の多くで介助が必要で、家族やヘルパーの力を借りながら暮らしている。
一般の小学校に通い、卒業後は養護学校(中学部、高等部)に通い卒業。受験を経て大学に進学した。親の仕事の都合で2回の転校を経験した。小学2年生のときに北九州市から名古屋市に、中学3年の夏に名古屋市から神奈川県伊勢原市に転居を余儀なくされた。中学1年〜3年の夏まで愛知県、中学3年秋〜高卒まで神奈川県の県立養護学校に通った。
大学では障害を持った学生を受け入れるケースが少なかった。よって教員も学生も手探り状態だった。幸いなことに、学部・学科による聞き取り調査と、可能な限りの配慮があり、在学中の学習環境を整えることができた。
特別支援学校とは、様々な障害を持った児童・生徒が必要な支援を受けながら学校生活を送る場である。2007年度改正の教育基本法第71条に規定されている。
「特別支援学校の目的として、「視覚障害者、聴覚障害者、知的障害者、肢体不自由者又は病弱者(身体虚弱者を含む。)に対して、幼稚園、小学校、中学校又は高等学校に準ずる教育を施すとともに、障害による学習上又は生活上の困難を克服し自立を図るために必要な知識技能を授けること」と規定した。(第71条)」
通っていた当時は養護学校という名称だったが、上記の法改正により現在は特別支援学校と呼ばれている。
中学・高校は名古屋市内、平塚市内と 2校の県立養護学校に通ってきた。どちらも 3つの学部があった(小学部、中学部、高等部)。校内はバリアフリーに対応。エレベーター、スロープ、手すり、身障者トイレが完備されていた。通学は指定の停留所でスクールバス運行される。車椅子で搭乗可能な電動リフト付きのバスで、専属の添乗員(学校によっては教員も同乗する)が生徒の乗降を手伝う。
特別支援学校に通う児童・生徒には身体障害者、知的障害者、重度重複障害が在籍している。学年を担当する教員は生活指導、教科の授業の他に、生徒の補助や介助も行う。例えば、車椅子の乗降り、教室の移動、食事の手伝い、トイレ介助、薬の投与など多岐にわたる。
これまでの養護学校、大学での学校生活を踏まえ、障害を持った当事者から見た教育環境と課題について紹介していく。
幼少期は福岡県北九州市で過ごしていた。病気を知るきっかけは幼稚園だった。当時の担任から、発達が遅れている可能性を遠回しに伝えられた。言葉のおうむ返しがみられる、ハサミがうまく使えないなど、手先の不器用さを挙げられ、夏休みを利用して最寄りの総合療育センター受診を勧められた。
総合療育センターとは、様々な障害を持った子供が医療、療育、リハビリテーションを受ける医療機関である。外来診療、手術、入院が利用できる病院としての機能がある。また、医療ケアの必要な幼児、成人が入所して生活を送る福祉施設の役割もある。治療、機能維持、育児など、さまざまな相談や支援を受けることができる施設である。
最初に小児科を受診した。問診で担当の医師から「発達の遅れは病気が原因の可能性もあるからね」「血縁者に歩けていたのに、途中から歩けなくなった人がいませんか」と言われた。母は「変なことを聞く先生だなぁ」と思ったそうだ。念のため血液検査を受けた。
結果は血液中のCPKの値が異常に高かった。CPK(クレアチンフォスフォキナーゼ)とは筋肉の代謝に欠かせない酵素である。筋肉細胞に異常があると血液の中にCPKが大量に流れ出るため、数値が非常に大きくなる。血液検査の内容を踏まえて、数週間後に筋生検を受けることになった。筋生検は体内の神経、筋肉の一部を切り取り、組織を詳しく分析する検査である。筋生検によって筋肉組織内のジストロフィン蛋白の欠損が確認できた。こうして私は進行性筋ジストロフィー(以後「筋ジス」と省略)と診断された。この疾患は遺伝子上の欠損が原因で発症する。血縁者に筋ジス患者がいる場合は血液検査のみで筋ジスと判断される。一方で、筋ジス患者が血縁者にいない場合、筋生検が診断の決め手となる。医師から血縁者に関する問診があったのは、このためである。
小児科の先生は、以前勤務していた病院で筋肉系の疾患を専門としていた。適切な検査と診断を受けたことで、比較的早い時期に病気を知ることができた。診断を受けてから、リハビリのために月に一回通院し、数か月に一度小児科と整形外科の診察を受けた。歩行訓練など軽い運動をすることが多かった。主治医から「心肺機能の維持、背骨の変形を防ぐために、なるべく立位、歩行を長い期間続けてください」と強く勧められた。また、「他の子供と比べないこと。時間がかかっても急かさず、自分でできることは自分でやらせること」をアドバイスされた。筋ジストロフィーは進行するにつれ、背骨の変形(側弯)、心肺機能の低下、歩行の困難の症状が現れる。機能低下を少しでも遅らせる対処療法の一環として、立位・歩行の継続が推奨されていた。
難病との付き合いはここから始まった。運動機能の低下と、進学の難しさを目の当たりにするのは、小学生の高学年になってからだった。
6歳のときに北九州市の小学校に入学した。歩く、走ることは遅かったものの、普通に徒歩で通学できていた。筋ジストロフィーという病気であるが、他の園児と同じ活動をしている旨を、入学前に幼稚園の先生から小学校へ伝えられた。具体的な配慮を求めなかったが、本来なら2年生の教室は2階になる予定を、1階のままにする配慮があった。
父の転勤で8歳のときに名古屋市の小学校へ転校した。病気の旨は、母が転校前に学校を訪問した折に校長先生と教頭先生へ説明した。小学4年生の頃から運動機能の低下が徐々にあらわれた。歩行が遅い、転びやすい、階段の上り下りに時間がかかる、支え無しで立ち上がりづらくなる、などの症状が目立つようになる。5年生、6年生になると、さらに症状が進行したため、学校生活を送るうえで必要な援助を学校側から相談された。
結果として学校から、いくつかの配慮がなされた。運動機能の低下をふまえて体育の授業は見学が認められた。歩行が遅く、集団登校が難しいため、最短距離での徒歩通学、6年生になると、自家用車で自宅から学校の裏口までの送迎が可能になった。北九州市の小学校同様に、教室のあるフロアを下のフロアに替える案もあった。当時の私は「まだ歩行できる」という意地もあって、「そこまでする必要はないです」と固辞した。
5年生のクラスでは経験豊富なベテラン教師が担当になった。病気についての周知や、「ハンディキャップを負った人を補助する意義」を朝の学活のテーマにするなど、児童の理解を深める工夫があった。担任がハンデを抱える生徒のケアに逐一対応する傍らで、「えこひいきしている」と感じている児童もいたらしい。
小学校6年生に進級すると年配の教師がクラスを受け持ったが、児童だけでなく保護者からも頼りなく思われていた。いじめほど悪質なものはなかったが、教師の指導力不足からか、クラス児童数人から悪口を言われた。「女子より力がない」「さぼっている」「歩き方が変」などと言われていた。
付け入る隙を与えた私にも問題があったかもしれない。学校嫌い、勉強が苦手、人づきあいが不得意。休み時間に教室の隅でぼうっとしている児童だった。それでも、自力ではどうしようもない身体的な問題を突かれるのは歯がゆかった。
2学期半ばに登校したくない、と私から親に伝えると「学校に行かなくていい」と承諾してくれた。父が担任に抗議したのだが、私が病気である旨の説明を担任に依頼すると「説明をするなんて荷が重いです」と固辞した。それなら、父がクラス児童に説明する、といえば「親御さんに説明をさせるわけには」と言われた。この話を20数年後に親から聞いたときにはあ然とさせられた。
抗議を受けて担任はクラス児童全員に手紙を書かせた。私たちが求めていたのは病気である旨の周知だった。担任はクラス児童の連帯責任をとらせるという認識で、私たちの要求とはズレがあった。悪口を言っていない生徒にまで手紙を書かせてしまった申し訳なさから、やむなく再登校するに至った。しかし、一部の児童からの陰口は卒業するまでなくならなかった。
11月末頃に、母が教務主任に呼び出されて二者面談を行った。二つの点で中学進学が難しいのではないかという話があった。身体面の不安と、中学校の環境面の課題である。6年生の学校生活で、教室、図画工作室、体育館、校庭などの教室移動に時間を要していた。中学に進学すれば教室移動がさらに多くなると懸念された。進学先の中学生は名古屋市内でも屈指のマンモス校であった。校舎は敷地が広く、階段や段差が多く、教室間の移動距離も長く、生活上の困難が予想された。中学では教科担任制になるため、小学校のように担任が教室にいて生徒を見るのが難しくなる。歩行に不安のある生徒をケアする見通しが立ちにくいのではないか、という話をされた。
進学先として養護学校への進学を提案された。養護学校では障害を持った生徒が支援を受けながら、学校生活を送ることができる。進路の検討も兼ねて、養護学校の見学へ行くことになった。
2学期の終わり頃、私と母は名古屋市内の養護学校を見学することになった。学校は自宅から車で1時間ほどかかる場所にあった。校内はバリアフリー完備。エレベータやスロープがあり、廊下の壁伝いに手すり、各所に身障者用トイレがあった。教員の案内で廊下を歩いていると、何人かの生徒と遭遇した。杖をついて歩く生徒、車椅子を漕いで移動する生徒、教員が付き添う重度障害の生徒、活発なコミュニケーションをとる身体障害と知的障害を併せもった生徒たちがいた。障害を抱えた生徒たちが毎日の学科や日課をこなしている。ここは「普通の学校」とは違うところだと理解した。生徒とすれ違うたび、障害といっても様々な種類があることを知った。ここにいれば、「歩き方が変」だとは言われないだろうし、他人の目を気にせず過ごせるなと、ひと安心した。
学内には小学部、中学部、高等部、3つの学部がある。主に中学部と高等部を見学した。作業に取り組む様子や、学科の授業風景を見ることができた。とりわけ印象に残ったのが、生徒会(中学部)の会議だった。当時の中学2年生(のちの2学年上の先輩)の生徒たちで構成されていた。そこでは活発な議論が繰り広げられていた。メンバーひとりひとりがはっきりと意見を言って、(中学部の)学校行事に関わっていく姿が大人びて見えて、大変驚いた。当時の私は、クラスでの話し合いや会議に関して「僕がいてもいなくても関係ない」「僕が意見を言わなくてもみんなで決めるんだろう」と、投げやりな態度でいた。他者に自分の意見を言う気さえなかった。いま、目の前で議論を進めている生徒会メンバーの姿に大きな差を感じた。彼らは自分の意見を持っている。病気を言い訳に意見すら言わない自分が情けなくなった。見学を終え、ここに進学すれば彼らのような立派な先輩たちと学校生活を送ることになるのかと、進学後の景色を想像していた。
3学期が始まる頃、一般中学か養護学校中学部か、どっちに進学するのかそろそろ決めるようにと母から言われた。見学を経て、養護学校への進学に気持ちが傾いていた。一般中学に進学すれば小学校時代のもどかしさを、また味わうかもしれない。病について母や私が説明したとしても教職員、保護者、生徒から100%の理解が得られるわけではない。小学校6年生の頃には歩行での教室移動が厳しくなっていた。その上、距離が長い、階段が多い中学校の校舎なのでなおさら難しくなる。下手をすれば、毎授業遅刻になりうる。思い浮かぶのは不安ばかり。それなら、障害を持つ生徒が常にいる養護学校なら不安が少ないのではないか。
いまさっき述べた、心の内を言葉にすることはなかった。「養護学校でいいよ」と伝えた。私の出した答えに対して母は「わかった。それでいいんだね?学校には養護学校に行きますと返事しておくね。」と言った。
最近になって母に聞いたところ、親も養護学校へ進学したほうが良いのではないかと考えていた。小学校の教務主任に「養護学校への進学」を聞かされたとき母はショックを受けた。私が普通に中学進学するものだと漠然と思っていた。養護学校という学校があることすら知らなかった。思い返せば、小学校では「普通」の学校生活を送るだけでも、私がいっぱいいっぱいのように母には思えた。勉強や人づきあいが不得意なうえに、身体や学校環境の問題も抱えていたからである。もし中学進学したとしても、「普通」に合わせるのに一苦労な小学校時代と変わらない。勉強や人間関係が絡んでもっと複雑かもしれない。実際に養護学校を見学して母が、ここへの進学は本人が変わる機会になるかもしれないと思った。教師の目が生徒に行き届く環境で、身体上の必要なサポートを受けつつ、自分のペースで成長できる可能性があった。私が病気でできなくなることが増えても、できることや役割を見つけてほしい、そう望んでいた。母は「養護学校へ進学したら?」と子の進路を一方的に決めたくないので、どちらに進学するかは私の意志に委ねられていた。
こうして小学校卒業後、養護学校へと進学することになった。
平成9年4月、私は名古屋市内にある養護学校・中学部に入学した。 小学部、中学部、高等部と合わせて約200人の生徒が在学していた。スクールバスが学校に到着する登校時間。玄関ホールでは慌ただしい朝を迎えていた。多くの生徒、教職員たちが行き交う、賑やかな光景があった。見学で知っているつもりだったが「車いすの生徒がこんなにいるのか」と驚いた。
中学部の時間割は45分1コマ、最大6コマの授業(土曜日は2コマ)が組まれていた。生徒は個人の能力、病状によって
のカリキュラムに振り分けられる。Aスタでは一般中学の教科授業を行う。一般中学に近い内容で、中間試験、期末試験も実施される。在校時Aスタには、私と女子生徒1名の計2名が在籍していた。教室でAスタ生徒2名が各教科担任の授業を受ける形式だった。
Bスタは知的障害、身体障害向けの教科(数学、国語、音楽)を習う。社会生活を送るのに必要な知識、技能(金銭管理、公共交通機関の利用、買い物の仕方など)も取り扱う。
生徒の区分の中に重複障害がある。「学校教育法施行令第二十二条の三」が規定する障害区分(知的障害者、肢体不自由者、病弱者)を複数持つ生徒のことである。障害の程度にもよるが、体調の変化に対応できるよう、担当教員が付きっきりで見守る必要がある。車椅子移動、車椅子への移乗、食事、おむつ交換など身の周りのケアも行う。また、教員とともに生徒の介助をする「介助員」と呼ばれる職員もいた。誤嚥に注意が必要な生徒、けいれんを起こしやすい生徒など、症状が重い生徒が大半を占めていた。
私の在籍していた学年は男子生徒5名、女子生徒8名、計13名。担任、副担任が組を受け持っていた。2名がAスタ。6名がBスタ。5名が重複に分けられた。
中学部合同で行う授業もあった。Aスタでは図画工作、音楽、が合同授業だった。Aスタ・Bスタ合同で行われる授業もあった。体育、機能訓練の授業である。体育では野外(グラウンドや敷地内の歩道)・屋内(体育館)での障害者競技(車椅子マラソン、ゴロバレー、風船バレーなど)、温水プール水泳を行う。機能訓練は生徒の運動機能の維持・向上を目的とした運動、訓練を行う。校外宿泊、社会見学、修学旅行などの校外学習も行われる。生活面での指導もあった。生徒の問題点、要改善点を見つけ次第指摘された。私の場合、介助を頼むときの気づかい、他者との接し方、自立に向けた心構えなどを教えられた。日頃から「人の話をちゃんと聞け」「周りをよく見てから助けを呼ぶようにしろ」「忘れ物は(親ではなく)お前のミス」と注意された。
自宅から学校まで1時間以上かかる距離のため、最寄りの停留所からスクールバスで通学した。入学直後は教員の補助で辛うじて歩行できていた。この時点では車椅子を持っていなかった。長距離の移動、バスの乗降など、自力でできない場面が増えていた。教員のおんぶ、(キャスター付きの)オフィスチェアに乗って押してもらう、といった方法で対応した。車椅子生活を勧める教員の声もあったが、当時の私は頑なに拒んだ。まだ「車椅子には頼りたくない」「障害者になりたくない」気持ちでいた。 しかし、いつまでも車椅子に乗らず、その場しのぎの学校生活を送るわけにはいかなかった。1学期末に、教員から「そろそろ車椅子を作られてはいかがですか」と強く推された。市の児童相談所に相談したところ、「車椅子を作製するには身障者手帳を申請した方がいい」「車椅子作製費用の補助が受けられるから」と言われた。区役所で手帳を発行してもらい、2学期に入る頃に車椅子ができあがった。私の中では、立位・歩行への未練は依然としてあった。車椅子の生活が始まってみれば、歩けないこと、身体障害者になったことを、徐々に受け入れていった。
教員の適切な指導
名古屋市の養護学校(現:特別支援学校)に在学した当初から、教員による多くの指導を受けた。入学後の生活態度を受け、担任と副担任が私の問題点の改善に取り組んだ。とりわけ、社交性の向上と、勉強への取り組みを指導された。教員の熱量と厳しさがあり、生徒ひとりひとりに目が行き届いていた。
当時の私は投げやりで、自己中心的な言動が多く見受けられた。改善のため現行犯で即刻指導が入った。呼び出されて廊下で諭される。教室に一人残って教員に注意される。説教を受けるたび「どうせまた注意されるんだろ」と開き直っていた。さすがに何度も指導されたくないので、渋々言動を改めるに至った。
勉強する習慣すらなかった。そこで教員に参考書のコピーを渡されて、試験勉強の一環でこなすように言われた。別の教員には予習復習を課された。やらないと授業で指摘されるのが目に見えているのもあって、与えられた勉強だけはやるようになった。
チャレンジ精神
当養護学校には生徒に挑戦を促す校風があった。特に生徒会活動、検定試験(英検、漢検など)、読書感想文コンクール、スポーツ大会などが推奨された。私は(自発的にではないが)教員に促されるまま英検を受験したり、読書感想文に応募したりした。驚いたのは「県の障害者水泳大会にエントリーしないか」という話になったことだ。プールの授業中に何気なく「泳ぐのは好きなほうだ」とつぶやいた。それを聞いた副担任に「せっかく泳げるんだし、やってみたらどうだ」と強く押された。すぐさま親の了承も得て、練習時間も確保、学部の体育教員の支援体制も整えられた。とんとん拍子で大会に参加。学校のプール練習の甲斐あって、大会で背泳25Mを泳ぎ切った。
生徒会はコミュニケーションがとれる上級生(中学2年、3年)に任せられる。主に学部イベントの企画、中学部代表の挨拶を依頼される。
中学2年に進級すると、同学年のAスタ・Bスタ生徒ともに生徒会役員に指名された。その上、私が生徒会長に指名された。生徒会長どころか、生徒会メンバーになる気も全くなかった。「なんで私が?」推薦されたことへの不満しかなかった。担任に「君のほかに任せられる生徒がいないから、断りようがないだろう」と説得された。「正直やりたくないが、ここで教員に丸投げするのは無責任」と思う節があった。仕方なく責務をこなした。
高等部進学、の矢先に
中学3年の1学期に高等部の進路について説明を受けた。高等部には普通科と商業科の2つのカリキュラムがある。普通科は高校教科を中心とした学科である。商業科は教科に加えて実務に必要な技能、資格取得に重点を置く学部である。Word、ExcelなどOffice文書作成を習う授業。簿記、全商ワープロ実務検定(現:全商ビジネス文書実務検定)など資格関係の授業がある。普段から趣味でパソコンを使っていることを踏まえて、商業科への進学を勧められた。
養護学校での環境にも慣れ、高等部進学の展望が見えてきた。そんな平成11年の夏、中学3年1学期の末。父の仕事の都合で転勤を余儀なくされた。私たち家族は神奈川県へ引っ越すことになった。
カルチャーショック
99年の8月に神奈川県に引っ越してきた。名古屋の学校を去るときに、担任教員から「養護学校なら、どこでも同じような環境ですよ」と言われた。それを聞いて私と家族は「転校先の養護学校でも引き続き教科の授業を受けられる」「高校進学は養護学校内の高等部へ進部すれば良い」と、気楽に構えていた。
見学、転校の挨拶、打ち合わせのため、夏休み中に最寄りのA養護学校を訪問した。学校は家から車で15分ほどの距離にあった。前にいた名古屋市の養護学校からの引き継ぎ。手渡された時間割を見て愕然とした。教科授業が無く、運動、音楽、散歩、工作など、ゆったりとした活動の時間ばかりだった。この時点まで「どの養護学校でも普通教科の授業を受けられる」認識でいた。親は「どうしよう、困ったね・・・」と呆然とした。ここでは生徒が勉強をすること自体が珍しい事案だった。教員たちにとっても想定外のことで、互いに気まずい空気が漂っていた。
とはいえ、ここで学習を止める訳にもいかなかった。教科授業の実施を依頼した。新学期までに授業を受けられるよう、打ち合わせは急ピッチで進められた。急きょカリキュラムを組むこととなった。前の学校で使っていた教科書を引き続き使用するなどして、可能な範囲で対応してもらった。国語、数学、英語、理科、公民、技術、美術の授業が実施された。突然の教科学習の依頼で学校側は苦慮したが、とりあえずこの年度の授業は受けられるようになった。特別支援学校の肢体不自由児の教育に関して、文部科学省のサイトでは
「肢体不自由者である幼児児童生徒については、それぞれ小学校、中学校、高等学校の教育課程に準ずる教育を行うこととなっています。(中略)」
と記されている。特別支援学校で肢体不自由児の教育が規定されている以上、当時の両親が学校に学習機会を求めるのも無理もなかった。
特殊のなかの特殊
二学期に転入してからも前学校との違いに戸惑った。肢体不自由者の通う学校ではあるが、教科学習を受けられる肢体不自由者はごく稀だった。生徒の大半は病弱者が占めていた。病弱者を教員たちで見守り、彼等の刺激になる活動・身体運動の手助けをする。名古屋市の養護学校でいうところの「重複障害のクラス」に近かった。「他に行き場のない子が通う場所」と表現する教員もいた。生徒の体調不良時に医療ケアを行うため、保護者が学校に駆けつけることも多かった。医療行為を行えるのが医師、看護師、家族と定められているため、保護者が行う必要があった。クラスに生徒、教員、保護者がいる光景は日常的だった。
生徒は学校所有のスクールバスか、各家庭の自家用車で通学する。また、学区内の福祉型障害児入所施設から通学する生徒たちもいた。施設では18歳までの肢体不自由児たちが共同生活を送っていた。家庭の事情で親元を離れざるを得なくなった児童が多く、肢体不自由児が抱える環境の難しさがあった。施設所有のバスで登下校していた。
名古屋市の養護学校と同じように小中高と3つの学部に分かれているが、生徒の能力・障害に応じたカリキュラムはなかった。中学3年には6人の生徒が在籍していた。内訳は病弱者が3名、肢体不と知的の重複障害者が3名になる。病弱者の3人は教員による、身の回りの介助や、流動食など食事のケアが欠かせなかった。また、保護者による喀痰、胃ろうなどの医療ケアも行われた。肢体不自由の3名は車椅子、歩行器などで活発に校内を動き回っていた。また、会話はできないが、声や身振り手振りで意思疎通がとれた。同学年の生徒たちと学校生活を送ることで、一口に身体障害者といっても実際には多様である、と知った。遠足、散歩、文化祭などで彼らと一緒に活動する機会は多かった。
校内での話し相手は、ほぼ教員だった。名古屋時代と同様、学校行事の挨拶やスピーチは、ほぼ、私に依頼された。これも数少ない「話せる生徒」故の役割なのかと悟った。聴衆の前でしゃべり慣れてきたのもあって、すんなりと引き受けるようになった。
病弱者、肢体不自由者が多数を占める当校では、中学教育を受ける肢体不自由者が異例として扱われている感覚だった。養護学校(特別支援学校)という特殊な学校でも地域差があることを思い知らされた。
進路に立ち往生
転校時の中学3年・2学期は高校進学について考える時期であり、すぐに教員から教育委員会への進路相談をもちかけられた。「勉強ができるし、大学進学を考えているのでしたら、県立高校に行かれてはどうですか?」 当時を振り返れば、勉強環境が十分でないA養護学校にいるより、県立高校の方が学力を活かせる、と教員なりに考慮したと思われる。しかし、当時は想定外続きの養護学校生活で手一杯の状態だった。その上、県立高校進学を考える余裕はなかった。そもそも、要介助の肢体不自由者を受け入れる態勢が県立高校にあるのか。私達がもっとも不安に感じる問題であった。教員からは具体的なアドバイスをもらえなかった。「ここは君みたいな(教科を学ぶ)生徒が来る場所じゃないんだよ」とは言われた。
教育委員会に電話で相談した。「現在、学区内にバリアフリー対応の県立高校は存在しませんので、養護学校に進学されるのが妥当と思われます」と言われた。その折に聞かされたのが「学区の県立B高校のバリアフリー化は2年後までかかる」とのこと。「現在中学2年の障害生徒がおり、B高校を受験希望」という話である。それに合わせたバリアフリー整備という事情だった。また、障害のある生徒を手助けする「介助員」の制度があると知らされた。しかし、「利用を希望する人に皆、必ずしも介助員をつけられるわけではない」と聞かされ、現実を突きつけられた。
母が「教員から養護学校からでは大学進学が難しいと言われたのですが、そうなのですか」と質問したら、「養護学校でも勉強はできますし、大学進学も可能です」との回答だった。県立高校の進学は厳しいので、C市のC養護学校の見学を提案された。アポを取ってC養護学校の見学こそしたものの、通っているA養護学校と大して代わり映えしなかった。通学時間だけが伸びるだけだった。
教育委員会に相談の結果、C養護学校の見学をした旨を担任教員に伝えた。「そういう(他の養護学校へ進学させる)つもりで、相談をもちかけたんじゃないんだけど・・・」と、事の成り行きに納得がいかない様子だった。「県立高校へ進学」を望む現場と、「養護学校へ進学」を勧める教育委員会。両者の意見のズレが見受けられた。
進路についての相談先も乏しく、私達と似た境遇の生徒や保護者もいない。誰を信頼すればよいのか。途方に暮れるまま、自分たちで進路を決めざるを得なかった。私自身、養護学校内の高等部進学をアテにしていたため、高校受験の勉強を全くしていなかった。さらに、人間関係、介助問題、非バリアフリー環境と直面する高校生活。想像するだけで気が滅入った。少なくとも養護学校ならバリアフリー、介助面での心配がない。高等部でも勉強を続けていけば、なんとかなるだろう、と考えた。私はA養護学校の高等部へ進部することに決めた。
参考ホームページ
(4)肢体不自由教育:文部科学省
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/tokubetu/mext_00804.html
高等部1年生
2000年4月にA養護学校の高等部に進学した。不安な気持ちを抱えた高等部への進学だったが、学年の教員たちは、私の大学に進学したい気持ちを理解し、応援してくれた。学年主任は「大学には行ったほうがいいぞ」と熱意をもって背中を押してくれた。
同時期に、肢体不自由児の転校生のA君が加わった。珍しくコミュニケーションがとれる生徒だった。しかし、私とは家庭環境と学習環境が違っていた。福祉型障害児入所施設から通学しているおり、幼いころから施設での集団生活が中心だった。高校までの就学は養護学校のみで、小中学生レベルの教育を受けていた。
高等部には高校教員免許を持つ教員が数人いた。この年度に元県立高校の教員(英語)が転任してきた。授業は国語、英語、地理。さらに理系科目の数1、生物も行っていた。英語、数1以外はA君と授業を受けていた。お互いに受けてきた学習環境が違うため、授業では学習レベル別の内容を個別に行っていた。
養護学校卒業後の障害児は、大半が自治体や民間が運営するデイサービス施設、または保護者が運営する作業所に通うことが多い。これが一部の教員が言う「障害者としての生き方」である。受験とは別に、私も卒業後の集団生活に向けての訓練を課された。その一環として、夏に県内の職業訓練校を見学した。ここは肢体不自由者が通学で技術系、PC技術の技能を学び、就職に結びつけるのを目標としている。体験学習ではエクセルの基本操作を受講した。
2年生・1学期
この年度から元県立高校の教員(国語・進路)が転任。大学受験の事情に詳しく、スケジュール管理や受験勉強の指導に尽力してくれた。当時私は環境問題に関心があった。通学可能な範囲で、環境を学べる総合大学、単科大学が候補に挙がった。
通学時間が決め手でA大学の志望を決めた。以降、志望大学のオープンキャンパスに毎回参加するようになった。
環境問題を扱っている教養学部を見学することになった。夏のオープンキャンパスで担当教授と面談を行ったが、大きな壁に当たった。学部ではフィールドワーク、微物採集、成分分析など、活動が学内外に及ぶ。実験室は狭く、数多くの物品が点在しているため、車椅子の移動が難しいなど、バリアフリーに不安があった。実験に関しては、基本的に自力での解決を求められた。「あなたは自力で電子顕微鏡を扱えますか?」「プレパラートに検体をセットできますか?」と私に尋ねた。反射的に「できます」と答えてしまった。「できません」と口にすれば、その時点で落とされる気がした。学部のハード面、ソフト面の問題を明らかにした上で、教授は「この学部で学ぶのは大変厳しいと思います。他の学部を検討してはいかがでしょうか」と締めくくった。テーマを学ぶ意欲は強かった。しかし、学びたい気持ちと、学べる環境かどうかは別問題。面接の結果、教養学部の志望を断念した。
実習
高等部の生徒は障害の程度に関わらず、高2~高3の年に「実習」の期間が設けられていた。生徒・保護者の希望をもとに、進路指導の教員と担任教員がデイサービス施設・作業所を探す。市内に事業所が数箇所ある程度のため、少ない選択肢だった。教員が施設と交渉して、実習のマッチングを行っていた。生徒・保護者の側は、卒業後に通う予定の施設に1週間ほど通所し、生活や作業に慣れておくのが実習の目的である。一方、施設・作業所の側は、受け入れに向けての準備、課題を明らかにする。生徒に必要なケア、人員確保、通所の対応ができる日数などである。この交渉が難しく、医療ケアが必要な病弱児の扱いや、通所する日数調整が課題になっていた。もし、進路先がなければ当事者家族は卒業後、毎日、自宅で、すべての介助をこなさなければならない状態に陥ってしまう。進路先探しは養護学校の重大な役目である。
受託評価
進学希望の私にも「実習」を課された。受託評価と呼ばれる評価で、自立生活する上での課題、能力を分析する。隣市リハビリ病院で障害児を宿泊させ、コミュニケーション能力、課題への取り組み姿勢、基礎学力を査定する。
食事、介助つきで4泊5日宿泊。毎日6時に起床、日中は院内の訓練室で担当教官と課題を行う。工作課題の銅板製作(名字表札)、パソコン課題でWord文書作成(文書打ち込み、高等部の時間割作成)、漢字の読み書き、簡単な計算問題を出された
見ず知らずの大人しかいない環境に放り込まれたな、と思った。介助の頼み方がつたないながらも、自分の力だけでどうにか乗り切った。とにかく自分から口に出さないと、相手も助けようがない。職員の手が空いているかを伺いながら、適切なタイミングで手助けを求めるようになった。ここでの経験は大いに役立った。ヘルパーを活用する際、ショートステイや入院の生活で、口で頼み事をするのは必要になるからだ。
2学期・秋
環境問題のほかに西洋の歴史に興味があった。教養学部は諦め、文系の史学科を志望した。秋のオープンキャンパスで文学部を見学。文学部棟のいくつかは比較的バリアフリー環境が整っていた。史学科受験に向けて、2年生のカリキュラムは受験に必要な教科だけに絞った。国語、世界史B、英語、養護学校の授業時間では受験3教科を教えるので精一杯だった。基本的に教員とマン・ツー・マン形式の授業になった。この年度から、A君とは別の教室で授業をするようになった。以降、受験勉強中心の学校生活を送った。
3年2学期
担任から推薦入試を狙った計画を告げられた。推薦なら小論文、英語と面接、少ない受験科目で済む上に、11月に試験、12月に合否が決まる。仮に不合格でも一般入試に挑めばよい。受験科目に加えて、小論文、面接英語対策の授業も行った。
夏のオープンキャンパスでは史学科の説明会に参加した。受験する旨を史学科の教授陣に伝えた。A大学でも身体障害者の入学希望は稀な事例だった。
秋のオープンキャンパスでは、担任と大学側とで話し合いが行われた。障害のある受験生に大学側が提供できる配慮についての相談だった。混み合った試験会場は車椅子の移動が難しいため、小論文試験会場を一般とは別の個室に変更された。また、試験時間の延長も提供してくれた。これは、私の筆記速度が遅い点を考えた配慮だと思われる。
推薦入試
11月の推薦入試を受験した。前半に小論文、後半に面接試験が待ち構えていた。面接は用意された英文を読み上げて和訳する英語問題と、教授からの質疑応答を受ける試験内容だった。試験を終えて正直なところ、面接と英語は乗り切れたが、小論文の感触がいまひとつだった。「こりゃ一般入試行きだろうな」と肩を落とした。ところが、12月に合格通知が届いた。
大学に合格して数日は、教職員とすれ違うたびに労いの言葉をもらった。生徒が大学進学するのは非常に珍しく、お祝いムードになっていた。受験カリキュラムでは不足している箇所があった。そのため、3年の2学期末から卒業まで教科カリキュラムが続いた。
支援費制度の説明会
平成 15 年(2003 年)に支援費制度が施行されることになり、福祉制度が大きく変わることになった。その内容を保護者に周知させる目的で、3 学期に入って学校全体の保護者説明会が開かれた。
「障害者福祉サービスについては、利用者の立場に立った制度を構築するため、平成12年の法律改正により、これまでの「措置制度」から、新たな利用の仕組み(「支援費制度」)に平成15年度より移行することとされている。支援費制度では、障害者自らがサービスを選択し、事業者との対等な関係に基づき、契約によりサービスを利用することとなる」
支援費制度の概要
障害者(児)が市町村からの支援費支給を受け、利用したい福祉サービス事業所と契約できる制度である。事業所への支払に対しては支援費が支給される。支援費は福祉サービスを利用したい障害当事者にとって欠かせない制度である。また、20歳を超えると障害者年金の受給が可能になる。支援費と年金が障害者の自立、障害当事者と家族の生活を支える型になった。
支援費制度と福祉サービスの利用を見据えて、進路の先生からヘルパー事業所を紹介された。主に外出の支援を行っている事業所で、体験で数回ヘルパーと外出した。家族と先生以外の人からの介助は、私にとって初めての経験だった。この利用体験をきっかけに、私は事業所と契約を結んだ。外出をしたいときにはヘルパーを利用するようになった。
学生生活に向けての打ち合わせ
入学前に在籍先の学科に呼ばれた。学部学科の校舎見学と、学生生活に関する打ち合わせだった。教授から学部で提供できること、できないことを明示された。
「ハード面での配慮は2点提供できます。まず、車いすで利用できる移動式テーブルの手配が可能です。受講する講義が決まったら、事務局で講義の時間・教室番号を伝えて、移動式テーブルの配置を申請してください。次に、車で通学するための入校許可証を発行できます。しかし、学生生活、講義中の介助までカバーするのは難しいです。可能であれば家族を講義に同伴してほしい」と、伝えられた。私自身、親に付き添われる恥ずかしさから、別の方法を探す必要があった。
また、「大学に要望はありますか」と尋ねられたので「身障者トイレのウォシュレット設置」を伝えた。打ち合わせのいきさつを知り、進路の先生から神奈川県障害者自立生活支援センター(通称KILK)を紹介された。障害者の自立に向けての助言、情報収集を行っているNPO法人である。大学生活での介助に関して「学内にあるボランティアサークルに頼るのもよいですよ」と、助言をもらった。
KILKで紹介されたサークルの部長に話をつないでもらい、電話で相談した。「サークルの打ち合わせで、サポートの必要な障害学生がいることを伝えておきます。冨田さんの受ける講義の時間に、手の空いているメンバーがいるか調整します」と前向きな返答をもらった。
卒業
受験科目に強い元高校教諭の教員、入試・社会生活面をサポートする進路の先生、クラス内外の教員たち、様々な励ましの声があって大学受験合格にこぎつけた。大学生活の準備に追われる中、あっという間に卒業を迎えた。無事に神奈川県のA養護学校を卒業した。在学中の私は受験と自立訓練の日々を送った。
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