イラスト:小林エリコ©
2年前、埼玉県社会福祉協議会から講演依頼が来ました。
「救護施設の職員向けに話をして欲しい」とお願いされたのですが『救護施設』という初めて聞く単語に戸惑ってしまいました。私は障害当事者で、福祉制度を利用しながら生活しているので、ある程度のことは知っているつもりでした。
こちらからどんな施設なのか尋ねると「他の施設では受け入れが難しい方が入所されています。身体障害者や知的障害者、重複障害者の方がいますが、精神障害者の方が一番多いです」という答えでした。
依頼を受けた後、救護施設についての本を読もうと思い調べたところ、すぐに手に入りそうなものは二冊しかありませんでした。
電話で講演依頼を受けた時「救護施設はあまり有名ではないので」と小さな声で話していたのを思い出しました。
講演はコロナ禍ということもあり、オンラインでの開催になり、職員の方のお話を聞くことができないまま、パソコンの前で行いました。
講演は無事に済んだものの、心の中で救護施設のことが、ずっと引っかかっていました。
東京大学の松井研究室に呼ばれ、研究テーマを決める際、精神科医療で問題とされている身体拘束や精神障害者の就労問題について案を出しましたが、救護施設も入れました。
松井教授は私が書いたテーマを見て「救護施設は初めて知った」と言い、研究するなら人があまりやっていないものが良いので、救護施設が研究テーマに決まりました。
方法は入所者に来歴についてインタビューをして、それを私が読みやすくまとめるという形になりました。
世の中には様々な福祉施設と福祉法がありますが、それらを駆使しても受け止めきれない人が出てきます。
その受け皿が救護施設になります。身体障害者や知的障害者の方の施設はあるものの、精神障害者の施設はあまりないため、救護施設に精神障害者の方が多いと見受けられます。
施設の方は特に依存症の方が多いとお話しされていました。
研究には東京の東村山にある村山苑さんにご協力いただけることになりました。
ただ、心配だったのは、利用者さんがどこまで話してくれるかということです。
施設の方も利用者さんの過去を全て知っているわけではなく、利用者さんも人に話したくない経験があります。
研究に協力してくれる方を探すために、村山苑で小さな講演会を開催しました。
十数名の参加者の前で、私は自分の経験を話しました。
父親がアル中で、家で暴力を振るっていたこと、兄からの暴力、学校でのいじめ、卒業後は過重労働で自殺未遂をし、精神病院に入院したこと、そして生活保護受給。話しながら私は不安でした。なんだかんだ言っても、現在私は働いており、施設では暮らしていない。
その予感は的中し、1人の女性が「なんだかんだ言っても、今はいいじゃないか!」と大きな声で言いました。全くその通りでした。泣きそうになりながら私は答えました。
「確かに、私は皆さんからみたら恵まれていると思います。でも、私もどん底だった時は、一生生活保護だと信じていたので、今、こんな未来が来るとは当時、全く予想していませんでした。それに、確かに働けてはいますが、今後も働き続けられる保証はないです」
私は頭を下げながら、彼ら、彼女らの声を聞くことの難しさを知りました。
それでも、私に共感してくれた方が数名いて、研究に協力してくれることになりました。
研究のための書類を書き、審査が通り、やっとインタビューを始めることができました。
現在、男性三名へのインタビューが終わりましたが、彼らの口から語られる言葉は実に豊かであり、この社会の残酷さを教えてくれました。
この体験を自分の筆で書き記し、たくさんの人に伝えることが、今の自分にできる最良の仕事だと信じています。
小林エリコ
幼少期から学生時代
「なまいき言うんじゃねえ! 婿のくせに!」
じいちゃんのしゃがれ声が家中に響く。
「うるせえ! 文句があるならいつだって出て行ってやる!」
それに対抗して父ちゃんも声を張り上げる。
僕は恐ろしくて二階の子供部屋に逃げ込み一人で震えていた。
大人の怒鳴り声を聞くと、体の緊張感が強くなり、筋肉は石のように固くなる。
床下から聞こえてくる罵声は自分に向けられたものではないけれど、まるで僕が怒られているみたいだ。
小一時間ほどすると声は収まり、しばらく経ってから二階に母ちゃんがやってきた。
枕もとで絵本を読んでくれる母ちゃんの声を聴いていると瞼が重くなり、次第に眠ってしまった。
僕の家は八人と大家族だ。
母方の曾祖母と祖母と祖父。母と婿入りした父。兄と姉、そして僕。
「昨日はよく眠れたかい」
ばあちゃんはとても優しい。いつも僕を気にかけてくれる。
「うん、眠れたよ」
朝の時間帯はせわしない。
ご飯に目玉焼きを載せて醤油をかけたあと、黄身をつぶして口にかっこみ、みそ汁で胃に流し込む。
「いってきます!」
バタバタとランドセルを背負って玄関を開けると、登校班にはいつもの顔ぶれが並んでいる。
「なあなあ、カブトムシ捕まえた?」
登校班の男子が声をかけてくる。
「うん! 昨日は二匹捕まえたよ」
僕は父ちゃんと一緒に毎晩、街灯の下へ、カブトムシを捕まえに行っているのだ。
女子たちは僕らの話に興味はないらしく、二つ並んだ赤いランドセルは昨日見たテレビの話で盛り上がっていた。
「光GENJIのかー君、本当にかっこいいよね~!」
「新曲、また一位だよ!」
そんなことをしているうちに学校に着いた。
今日も楽しい一日が始まると思うと、興奮と期待で胸がいっぱいで、自分の内側にキラキラしたものがたくさん溢れてくる。
休み時間は友達とドッジボールをして、給食の時間はおしゃべりしながらコッペパンをちぎって食べた。
授業が終わると、野球クラブに向かい、グラブをはめてチームメイトとキャッチボールをする。
スパーンといい球が手のど真ん中にくると、ピリピリして気持ち良い。
そのあとは練習試合をして、クタクタになって帰路に着く。
「ただいまー」
家について、ランドセルを置き、居間に行くと、母ちゃんは台所で夕飯の支度をしていて、じいちゃんは大相撲を見ていた。
僕は二階へ行って、ゴロゴロしながら漫画本を読んで時間をつぶした。そのうちに他の家族も帰ってきた。
「ごはんができたわよー」
母ちゃんに呼ばれて一階に降りる。今日は大好物のカレーライスで思わず笑みがこぼれる。
「またカレーかい。前の週もカレーじゃなかったか。誰かさんの給料が少ないせいかね」
じいちゃんが意地悪な愚痴をこぼし始めた。
「カレー、美味しいけどね。文句を言うのは洋子に失礼だろ」
洋子というのは僕の母ちゃんだ。
「ああ?ここは誰の家だと思ってんだ! 文句があるならお前こそ出ていけ!」
男二人の口げんかに僕の心臓はギューッと縮こまる。
早く終わってくれればいいのにと願いながら、スプーンを動かしてカレーを口に運び、水を一気飲みすると急いで二階に避難した。
このころから、人と接するときに過剰に緊張するようになり、それと同時にテレビでは刺激の強いものを好んで見るようになった。
プロレスのデスマッチが始まるので、テレビのチャンネルを合わせる。
画面の中ではレスラーたちが有刺鉄線に囲まれたリングに打ち付けられ、肉体から血が飛び散る。
五寸釘を打ち付けたバットがうなりを上げて相手の顔に命中する。
F1のレースもお気に入りで良く見ていた。
レーサー達は、スピードを追求するため事故が度々起こり車体は大破し炎に包まれる。
そうやって過激で過剰なものに触れている時は、じいちゃんと父ちゃんの喧嘩の恐怖や人と接するときに起こる緊張がいくらか気にならなくなった。
中学生になった。真新しい学ランに腕を通し、金ボタンを閉める。
中学に入ると学校の雰囲気ががらりと変わった。
先輩後輩の上下関係が生まれ、廊下ですれ違う時には挨拶をしなければならない。
女の子たちは急に色めき立ち、教室の隅っこでこそこそ内緒話をしているかと思えば、急にキャーキャー騒ぎ出す。
人見知りが激しい僕は新しい環境に馴染めないでいた。
自分が周りの人にどういう風に見えているのかと気になってしょうがない。
クラスメイトに話しかける勇気もなく、休み時間は黙って自分の机で過ごした。
給食の時間になり、箸を手にするが震えてうまく口に運べない。
しかし、食べないのはもっと変なので、むりやりご飯の塊を口に押し込む。
自分の咀嚼音が隣の人に聞こえていないだろうか、飲み込むときはどうすればいいのか。
食べることに関する自分の動作一つ一つが周りの人に監視されているみたいだ。
しかし、もっと嫌だったのは、国語の時間の朗読だった。
先生に指されて席を立つとクラスメイトの視線が突き刺さる。
心臓が早鐘のように鳴り、震える手で教科書を持ち、口を開くがその声はみっともなく震えていた。
僕の声を聴いて教室のあちこちから笑い声が聞こえる。
もうこんな思いはしたくない。その後、お腹が痛いとか熱があると言ってずる休みをして、家でぼんやりとテレビを見ていた。
僕はまるでカタツムリのように体を巻貝の奥に引っ込めてそこから出ないことに決めた。
そして、この頃から僕に性的コンプレックスが芽生え始めた。
恥ずかしくて誰にも相談できず、一人で抱えて悶々とするだけだった。
他人からしたら小さな悩みだが、思春期を迎えたばかりの僕には大きな悩みだった。
あまり中学校へ行かなかったので、成績は芳しくなかったが、高校には進学できた。
しかし、その高校は信じられないくらい荒れていた。
授業の時間になっても席に着かず、ほかのクラスへ行ってしまう者もあれば、教師に野次を飛ばす奴もいた。
驚いたのはクラス内で堂々と煙草を吸いだし、誰も注意しなかった時だ。
午前の授業が終わり、話ができるクラスメイト数名でお弁当を広げる。
少し緊張しながら箸で卵焼きをつまみ口に入れた。
何回か咀嚼してごくりと飲み込む。環境が変化した影響なのか、緊張しないで普通に食べることができた。
しかし、朗読恐怖症はまだ続いていたので、授業で朗読の順番が回ってきそうなときは、仮病で学校を休んだ。
タバコの煙と下品な噂話、誰かが誰かを殴ったとか、盗んだとか、先生の車をパンクさせたとか、そんな荒れ果てた高校で僕は三年間を過ごし、卒業後は上京してマルチメディア系の専門学校に進学することにした。
初めての上京
目を覚ましてカーテンを開ける。
進学のために吉祥寺のアパートを契約し、両親に手伝ってもらって家具や家電を揃え、食器は実家から少し持ってきて、足りないものは駅前で購入した。
自分で選んだマグカップにお湯を注ぎ、ティーバッグを入れて、コンビニで買ってきたパンを食べながら自由をかみしめていた。
もう、じいちゃんと父ちゃんの争いの声を聴くことはない。
そう思うと体の内側からエネルギーが湧き出てくる。
明日からいよいよ授業が始まる。
春の日差しはまぶしく、目を細めてベランダから空を見上げる。青い空に白い雲がたなびいていて、どこからか、チチチと鳥のさえずりが聞こえる。
空にしたカップをテーブルに置き、両手を上げて伸びをした。
学校が始まると、中学時代の対人恐怖に襲われた。
友達をうまく作れない上に、人前での緊張も強く、授業中に回答を求められて席を立つが、頭が真っ白になって何の言葉も出てこない。
教師は呆れた顔をして、着席を促す。
学費は親に出してもらっていたが、一人暮らしの生活費は自分で稼ぐことにしたので、夜は警備員のバイトをした。
基本的に立ちっぱなしだが、突然上司に呼ばれて椅子や重いものを運ぶことがあり体力的にきつい。
男ばかりの現場のせいか、性格がきつい人や会話しにくい人も多く、なかなか馴染めない。
一晩明けて、鉛のような体を引きずって学校に行くものの、人からどう見られているかが気になるし、疲れもあって授業に集中できない。
たまの休みは一日中寝て過ごし、学校への足は次第に遠のいた。
なんとなく、自分はもうダメだと分かり、誰にも相談しないまま、専門学校は三か月で自主退学した。
学校を辞めたことを親に話す気持ちにならず、僕は東京での生活を続け、お金のために警備員のバイトを継続した。
暑い夏の日も、長袖長ズボンの着用が義務付けられているので、体は汗でじっとりと濡れていた。
シフトは不規則で夜勤もあれば早番の時もあり、生活リズムは完全に狂ってしまった。
そうやって稼いだバイト代も家賃と光熱費を払うと少しも残らない。
自分はなぜ東京にいるのだろう、この先何がしたいのだろう、一生この生活を続けていくのだろうか。不安は後から後から波のように押し寄せる。
自分の人生で良かったのは小学生の時だけだった。
あの頃は遊ぶのが大好きで『遊びの王様』と友達に呼ばれていた。
なのに、中学に入ってからは一気に落ちた。
人の目が気になり、まともに話せず、ものを食べることもできない。人が怖いのに、一人でいることが寂しくて耐えられない。
憂鬱な時はデスメタルやブラックメタルをよく聞いた。
耳をつんざくギターとボーカルのデスボイスを聞いていると、今の自分の状況とリンクして気持ちが落ち着いた。
そうやって、孤独な日々をやり過ごしていたが、長くは続かず、一年半後には逃げるようにして仕事を辞めた。
職を失ってから、四畳半一間のアパートで引きこもる日々が始まった。
いくばくかの貯金もあっという間に底をつき、お腹が減るとコンビニの弁当を万引きして食いつないだ。
うつが酷いせいでゴミを捨てることができず、弁当箱からはウジ虫が湧いていた。
寂しさに耐えられず、救いを求めるようにダイヤルQ2に電話をし、見知らぬ人との刹那的な会話で孤独を癒すようになった。
しかし、利用料金がまたたく間に膨れ上がり、家の中にあるものを売ってお金に換えていたが、売るものがなくなり、仕方なく街金に手を出した。
そんなとき、スポーツ新聞で高収入を謳う仕事を見つけた。
そこの番号にダイヤルし、仕事の説明を聞きに新宿歌舞伎町の二丁目に行く。
雑居ビルに店舗を構えるその店はゲイ専門の風俗店だった。
少し悩んだがこの仕事をやることにした。
なぜなら、異性愛者の僕が男性に体を売ることは最高の自傷行為であり過剰で過激な行為によって自分の過緊張をごまかすことができると考えたのだ。
瞼の裏には血しぶきを上げるプロレスラーと目の前を光のように駆け抜けるF1カーが浮かんだ。
店長に写真を撮られて、源氏名をつけてもらい、研修を受けた後、店のボーイとして働き始めた。
新人とあって、客がたくさんつき一日で五人の相手をした。ただ、この仕事は客を取っても一回のプレイはたった一万円で、店の取り分は四千円のため、たいした儲けにならない。
客が付かない日は待機部屋で男娼仲間と雑談し、タバコを吸って過ごした。
ボーイ達はゲイの人もいたが、僕のようにノンケも多かった。
働き始めてからアパートに帰るのがめんどくさくなり、使っていないプレイルームで同僚と雑魚寝した。
タバコを吸いながら横になっていると、同僚がニヤニヤしながらしゃべりかけてきた。
「ねえ、お前ってさ、覚せい剤やったことある?」
急な質問にドキリとした。
「えー、ないかな」
正直に答えた。
「今、持ってんだけどさ、やってみない?」
びっくりしたが、好奇心のほうが勝ってしまった。
「一回くらいならいいかな」
すると同僚は慣れた手つきで注射器を僕の左腕にプスリと刺し、押子を少しだけ引いたあとクスリをゆっくりと注入し、すっと針を抜く。
しばらくすると、もやがかかっていた意識がクリアになり、気持ちがスッキリした。
同僚にビリヤードに行こうと誘われて、クスリをキメたまま街を歩くとふわふわして宙を歩いているようだった。
歌舞伎町にあるプールバーに行き、カクテルを片手に台へ移動する。
「ビリヤードってやるの初めてなんだよね。ルールを簡単に教えてよ」
キューの握り心地を確かめている同僚に尋ねる。
「ナインボールが簡単だからそれを教えるよ。その名の通り9番のボールをポケットに落とした方が勝ち。ポケットって台の隅に空いてる穴のことね。まず、俺がブレイクショットを打つから、転がった球の中で一番小さい数字を手玉にして打つ。他の数字のボールがポケットに入ったらもう一度打てる。どこにも入らなかったら自分の番は終わりってとこかな」
一息で説明を終えるとキューを片手に上半身をかがめてブレイクショットを打つ。
カン、カン、カン、と高い音が響き、ひし形に並べられた球がバラバラになった。
「ほら、やってみ」
同僚のフォームを真似してキューを握り球に狙いをつける。
意識を集中すると、周りの雑音がフッと消え、球とポケットしか見えなくなった。
シンとした静寂が体を包み込んだ瞬間、稲妻が体を走り抜け、体が勝手に球を鋭く突いた。
カン! カン! カン! カン! カン! カン! カカカカーン!
僕が突いた球がほかの球を弾くと、それに呼応するようにすべての球に当たり、一瞬にしてすべてのボールがポケットに落ちた。
「うわ! マジウケる! キマリまくりでしょ!」
同僚は腹を抱えてゲラゲラ笑っている。僕も覚せい剤のヤバさに大爆笑した。
僕の店は店舗でのプレイもあるが、客の要望によってはホテルに行くこともある。
店外は怖いのであまり行きたくない。
どんな人が出てくるか分からないし、密室で恐ろしい目に遭う可能性もある。
今日の客はホテルを指定したので、店から車を出してもらい現地に向かう。
いい客だといいけれど、と考えながらドアを開けたら、テレビでよく見る超有名芸能人が出てきて心臓が止まりそうになった。
驚きと同時に「ほらみろ」と心で声がした。みんな、カッコつけて、清潔ぶっているけど、本当はこんなに汚いんだ。
生活をなんとかしなくてはと考えつつ、今の状況を好転させる術が見つからない。
精神的に苦しくなった時、同僚にクスリを売ってもらおうとしたが高額のため諦めた。
親からは時々電話がかかってきた。
さすがに二丁目で体を売っているなどと言えず「元気にやっている」と答えた。
しかし、電話料金を滞納し続けたことで、連絡がいってしまい、田舎から両親が上京してきた。
四畳半の部屋は荒れ果てて異臭が漂い、流しには大量のカップ麺やお弁当の空箱が山積みになっていた。
ただ事ではないことを察知した両親に説き伏せられ、半ば強制的に田舎に帰ることになった。
帰省、処方薬依存への始まり
まだ二十二歳なのに、僕の人生は終焉を迎えていた。
うつが酷く、体中がギシギシと痛み、寝返りを打つのもしんどい。
最後にお風呂に入ったのはいつだっただろう。
でも、誰にも会わないんだから入らなくてもいいんじゃないか。キレイだって汚くたって同じだ。
東京のアパートは両親が引き払ってしまい、積み重なった借金も全て返済してくれた。
僕は結局大人になれなかった。
自分の人生の責任すら取れないのだから。
家にあるパソコンを立ち上げてインターネットを閲覧して時間をつぶす。
この頃はテキストサイト全盛期で、個人が自分のサイトを立ち上げて文章を載せていた。
南条あやのように自傷行為や精神科病院入院の体験をアップしている人がちらほらおり、それに自分も感化されて手探りでサイトを作り、細々と運営を始めた。
いつも、コメントを残しているサイトに自分のURLを貼って宣伝をしたら、少しづつアクセスが増え、その数に一喜一憂した。
まめに日記を更新し、読者との交流にどっぷりと浸るようになった。
そして、この頃、僕は精神科でもらった処方薬をため込んで一気飲みするようになった。
なくなったらサイトで知り合った友達から譲ってもらった。
サイトでやり取りしているうちに仲の良い女性ができた。
何回かデートを重ねてホテルにも行った。ただ、その女性は結婚していたので、僕との関係は不倫ということになる。
ある日、都内の喫茶店でいつものようにデートをしている時「ねえ、テレビで『人妻不倫特集』の出演者募集をしているんだけど、一緒に出ない?」と、彼女からとんでもない提案が出された。
「もし、旦那さんにばれたらどうするの?」
誰もが心配する疑問を口にする。
「顔には二人ともモザイクが入るから大丈夫。あたし、一回でいいからテレビに出てみたいんだよね。ねえ、出ようよ~」
猫なで声で要求されると断るに断れない。しかたなく、承諾すると、彼女から採用されたとの連絡が来た。
収録当日、テレビ局のクルーと渋谷駅で落ち合う。
「こちらから特に指示は出しません。いつも通りのデートをお二人でしてください。我々はそのあとを追う形で撮影します」
彼女と手をつなぎ、お茶をしてデパートを何軒か巡り、居酒屋に入った後、ホテル街に向かう。
いつもと違うのは、自分たちの後ろにカメラがあることだ。
後日、撮影した映像の編集が終わり、放送日が確定した。ホテルの部屋で酒と彼女が持ってきた処方薬を飲みながら番組を見る。
自分たちの顔にはモザイクがかけられているが、知っている人が見れば分かるかもしれない。
とんでもないことをしているのに、あまり現実感がない。
薬が効いてきて気持ちよくなると彼女とベッドにもぐりこむ。
快楽は自分の苦痛を紛らわすのに一番よい薬だった。
ブロンへの依存、そしてダルクへ
いつものようにサイトを巡回している時、咳止め薬ブロンの存在を知った。
薬局で売られている市販薬だが、モルヒネと同じ成分が入っており、大量に摂取するとトリップできるらしい。
さっそく薬局に行き購入し、瓶に入っている全ての錠剤を一気飲みしてベッドの上で横になる。
しばらくすると、体がフワフワし現実世界から切り離される。まるで、春の海に漂っているようだ。
瓶が空になると、薬局に行って三つ購入した。
ブロンの効き目が切れると、酷いうつになるので、切れそうになると錠剤を口に放り込む。
元気になりたくてブロンを飲んでいるのに、僕はどんどんやせ衰え、顔色が悪くなった。
そんな姿を見かねた両親が、僕を精神科へ連れて行くと、あっという間に入院が決まった。
病棟でクスリの離脱症状に苦しみながら、頭の中では次はどうやってクスリを使うかばかり考えていた。
一か月後に退院できたが、家に戻るとすぐにまたブロンに手を出した。
そうやって何回も入退院を繰り返すうちに、主治医から退院の条件として「ダルクへの入所」が提示された。
「わかりました。ダルクに行きます」
言葉ではそう言っていたが、ダルクで断薬に励むつもりは毛頭なかった。
僕が連れてこられたのは茨城県結城市にある茨城ダルク今日一日ハウスだ。
名前の由来は「(明日のことはわからないけど)今日だけ薬を使わずに過ごそう」という意味で、施設長は元暴力団員で薬の売人をやっていた岩井喜代仁さん。
そのせいか、入寮者も刑務所から出てきたばかりの人など訳ありの人が多い。
しかし、どうせすぐ出ていくのだから関係ない。
行われているミーティングに参加したが、ほかの人の語りを聞いても心に響いてこず、自分の番になったら適当なことを言って終わりにした。
茨城ダルクは平屋の一軒家で部屋が四、五個あり、庭にはプレハブが立っていた。
秋も深まり木々の葉は茶色く染まり、空気も冷たいなか、イベントで使用する焼き鳥の仕込みを任された。
鶏もも肉を竹串に刺しながら、いつ逃げ出そうか頃合いを見計らっていた。
近くに人がいなくなった隙に、表の通りに出て走り出した。
クスリのせいだろうか、走るとすぐに疲れてしまって、息切れが酷い。
口の中はカラカラに乾き、舌が上あごにくっつきそうだ。
走り疲れて振り向くと、さっきまでいた平屋がとても小さくなっていた。
ここまでくれば大丈夫だろうと、僕はのろのろ歩き出す。
ガソリンスタンドがあったので道を聞き、一時間近くかけて駅までたどり着いた。
薬局を見つけてブロンと酒を買い、ごくりと飲み干す。
心地よい虚脱感に襲われて、真綿のような幸福感に包まれる。
そのあと、実家に帰り、また引きこもりの生活を始めた。
茨城ダルクにいたのはたった三日間だけだった。
シングルマザーのユウコ
その後は、自分のサイトで知り合った人の家を転々とした。
一番長くいたのは神奈川に住んでいるユウコの家だ。
彼女はシングルマザーで幼い子供がいた。僕たちは子供のいる前でリタリンを砕き、鼻から吸い込んだ。このほうが粘膜にすぐに吸収されて効きやすいのだ。
僕は生活費を稼ぐため仕事を見つけガラス工場で働き始めた。
工場内は高温のガラスを扱っているため蒸し暑く、その中で二十キロ近いガラス製品を運搬する。
休み時間になるとトイレの個室でリタリンを鼻から吸った。
仕事が終わると彼女の子供を幼稚園に迎えに行く。
小さな頼りない手を握っていると心が痛んだ。
僕は子供の父親でもなく、子供の見本になるような良い大人でもない。
「ただいま」と声に出すがユウコはキャバクラに出勤した後で、僕の声は空しく部屋にこだました。
彼女の子供と一緒に粗末なテーブルを前に食事をとろうとするが、食欲がわかない。
薬切れと疲労で頭の中が真っ白になり、生きるのに限界を感じ、ユウコの薬箱をひっくり返してありったけの薬をかき集めた。
通称赤玉と言われている最強の睡眠薬ベゲタミンA錠と、ヒルナミンやレボトミンなどの向精神薬を酒と一緒に飲み干す。
三百錠ほど飲んでから横になった。
これで確実に死ねる。
安心して目を閉じると漆黒の闇が広がり、その奥にはチカチカと星が瞬いていた。
ふと、子供の時の記憶がよみがえる。
父ちゃんと取ったカブトムシ。
寝る前に母ちゃんに読み聞かせてもらった絵本。
たしか、何回死んでも死なない猫のお話があった。
そうそう、あれは「100万回生きたねこ」と言ったっけ。
あの猫は結局死ねたのだろうか。お話の結末が思い出せないまま僕は意識をなくした。
気が付いたら病院のベッドにいた。
体中管だらけで、腕には点滴の針が刺さっていた。
着ていた服はいつの間にか病衣に代わっていて、下半身には大人用おむつとバルーンがつけられている。
頭の横にある医療機器がピコンピコンと正確なリズムを刻んでいた。
痰が絡むと看護師が無造作に吸入器を喉の奥に突っ込むので、思わずえづいてしまう。
長時間ベッドに寝かせられているのに、体の位置を変えてくれないので、床ずれができ皮膚が赤くただれた。
二週間後、体が回復してから依存症を専門に治療している病院に転院したが、一か月後に脱走して神奈川のユウコの家に向かった。
アパートのドアを開けると、しんと静まり返っている。
「ユウコ! 僕だよ! 帰ってきたよ」
彼女の右手にはカッターが握られていて、両腕が上腕から手首までズタズタに切り刻まれていた。
もう切れるところがない彼女の腕を見て、やっと自分がとんでもないことをしたと気が付いた。
磐梯ダルクへ
その後、僕は実家に戻った。
ユウコと彼女の子供に酷いことをしてしまったという罪悪感から自分の腕をカッターで切り裂いた。
切り裂かれた柔らかい皮膚からはとめどなく血が溢れ生暖かい液体が床に落ちる。
その光景を見ているとなぜだか心が安らぎ、うつが酷い時やイライラした時はリストカットに頼るようになった。
そして、以前のようにブロンにもまた手を出した。この頃の僕は常にクスリが入っている状態だった。
そんな状態の息子を親が放っておくわけもなく、僕は福島県にある磐梯ダルクリカバリーハウスに連れていかれた。
なんで、愛すべき子供である自分をこんな場所に置いていくのかと両親に怒りが沸く。
レンガ色の古びたビルの入り口を開けるとスタッフが施設の説明をしてくれるが、イライラして座っているのがやっとだ。
両親が帰ってしまうと、ポケットからクシャクシャになったタバコを取り出して火をつけた。
どうして自由にクスリを使わせてくれないんだ、あの二人は僕のことが嫌いなんだ。
あいつらなんか親じゃない。
夕方になり、ミーティングの時間になった。
依存症の施設ではミーティングが一番重要なプログラムで、これをなくして回復はありえないと言われている。
薬物依存症のミーティングは全員でハンドブックを読んだ後に司会者からテーマが出され、言いっぱなし聞きっぱなしというルールのもとでミーティングは進んでいく。仲間が話したことに意見したり反論したりしない。
畳の上にメンバーが車座になり、クスリで苦労した体験を話し出す。
呼び水のように自分の体験が思い出され、ここでなら自分の本当の気持ちを言えるはずだと口を開くが、喉の奥に小石が詰まったようになり、声がうまく出ない。
忘れかけていた朗読恐怖がこんなところで出ると思わなかった。
みんな無表情でパンフレットに視線を落としているが、きっと、心の中では笑っているに違いない。
それから僕はミーティングにも出ず、部屋に閉じこもるようになり、何回か精神科への入退院を繰り返した。
ある日、荷物をまとめて、勝手に夜行バスに乗り、東京へ向かった。たった一つのリュックサックに全てがしまえるくらい僕の人生は何もなかった。
自ら助けを求めて東京ダルクに
早朝の新宿は閑散としていてどこか寂しい。
中央線に乗り込んで昔住んでいた吉祥寺に向かう。
駅に着くとコンビニでおにぎりを二つとお茶を買って井之頭公園に向かった。
ドカッと椅子に腰を下ろして、フィルムを破り口いっぱいにおにぎりをほおばる。
犬の散歩をしている人や、さっそうとジョギングをして汗を流している人、遠くの方では漫才の練習をしている人がいる。
ここにはこんなにたくさん人がいるのに、僕はこの社会のどこにも所属していない。
仕事もないし、頼れる家族もいない。
泣きたいけどその元気すらない。
薬局の開店時間になると、ブロンを買いに走り、その足でネットカフェに向かう。
個室に入ると錠剤を口に放り込み、クスリが効くのを待った。
夜になるとサウナ付きのカプセルホテルに泊まり無為に時間を過ごす。
そうやっているうちに、三週間が過ぎ、お金が無くなり困り果てた僕は自分からダルクに助けを求めた。
僕が連絡をした東京ダルクは日暮里にある。
住むところがないと伝えたら、南千住にある簡易宿泊所、いわゆる山谷のドヤ街を紹介された。
お金がないと伝えたら宿泊費は出してくれると言う。
常磐線に乗り南千住に降りて改札を出ると、背の低い建物が立ち並び小売の店が軒を連ねている。
酒屋はあちこちにあり、昼間なのに酔っ払いが公道を歩いていた。
簡易宿泊所は三畳ほどの部屋にベッドが一つ備え付けられており、値段は一泊八百円。行く当てのない僕を東京ダルクは「よく来たな」と温かく迎えてくれた。
次の日からミーティングに参加するため、東京ダルクに向かう。
カーペット敷きの部屋に十数人で車座になり「12のステップ」を読み上げる。
本名は使わなくてよく、みんな呼んでほしいニックネームを名乗った。
僕も「りお」という名前で呼んでほしいとみんなに伝えた。
参加者たちの飾り気のない告白を聞いて、僕も自分の話を始めた。
初めてクスリを使った時のこと、ブロンにハマり精神科病院の入退院を繰り返したこと、ダルクからの脱走、話し始めると言葉がどんどん溢れてきて止まらない。
そして、昨日も使ってしまったことを告白した。
そんな僕のことを仲間は決して怒らなかった。それどころか「正直に言えて偉い」と褒めてハグしてくれた。
しかし、仲間の力があっても、クスリをすぐに止めることはできず、スリップ(薬の再使用)してしまったが、やはり仲間は怒らなかった。
ミーティングを繰り返し、クスリを使ってしまったことを正直に告白することで、自分の中に気づきが生まれた。
あの時、使ってしまったのは寂しかったから、体の強い緊張を取りたかったから。
そうやって自分を観察することができるようになると、次第にクスリを使う回数は減っていった。
「りおの回復には時間がかかる。俺はとことん付き合うから」
仲間にそうやって受け入れられると、ダルクの居心地が良くなってきた。
それを仲間に伝えると「そうだよ、ここがお前の家なんだよ」と、言われて目頭が熱くなった。
親に見捨てられ、日本各地のダルクや精神科病院を転々とし、僕はこの世界のどこにも居場所がなかった。でも、やっと家ができた。そこには仲間という家族もいる。
そして、この時、中学生の頃から抱えている性的コンプレックスについて話し始めた。
あの時、僕は仲間にではなく、目に見えない大きな力に向かって話していた。
僕が決死の覚悟でした告白を仲間は軽く笑い飛ばした。
その瞬間、僕の中で育った劣等感というモンスターは消滅した。
毎日、東京ダルクに仲間と一緒に通うようになった。
クスリを使う回数が減り、簡易宿泊所から東京ダルクに居住を移し、ミーティングにも慣れたころ、ホテルでベッドメイクの仕事に就いた。
しかし、久しぶりの仕事なのと、自分に合わなくてあっという間に辞めてしまった。
東京ダルクに来て一年半が経っていて、ここでの暮らしに行き詰まりを感じ、大阪ダルクに行ったのだが、肌に合わず、すぐに群馬のアパリ藤岡(藤岡ダルク)に入所した。
薬物乱用者が続出する施設
アパリ藤岡(藤岡ダルク)の施設は山頂付近にあり、周囲には畑と小さな商店がいくつかある、のどかな場所だった。
しかし、その生活は数週間後にやってきた新しい入寮者によってあっという間に壊された。
彼らは元チーマーで、ダルク内で堂々と覚せい剤を打ち、ほかのメンバーにもクスリを勧めたせいで、大半の人たちがスリップしてしまい、クスリを使わないでいるのはごく一部のメンバーのみになってしまった。
僕はクスリを使わなかったが、こんな状況でミーティングをやることなど不可能だった。
チーマーである彼らの多くが、貧困家庭で育ち、仲間とクスリを覚え、暴力を使い、過酷な環境でサバイブしてきたことは想像できる。
だからといって、回復施設であるダルクにクスリを持ち込むのは間違っている。
彼らが施設に来てから一年以上が経過していたが、状況は一向に良くならず、彼らとの殴り合いの喧嘩や、支配とコントロールとパワーゲームで僕の精神はだんだんすさんでいった。
教会でやっているミーティングに参加している最中、突如「この辛い状況から抜け出すためには、職員のアナルを掘らないといけない」という妄想に取りつかれた。
ミーティングから帰る車の中で僕はシャツとパンツに手をかけて素っ裸になった。
仲間が慌てて僕を取り押さえるがそれをはねのけた。「一緒に地球を救おうぜ!」と叫びながら仲間の背中をバンバン叩くが、みんなおびえた目をしている。
よれよれになってダルクに帰還すると、僕は一気に無気力になり、部屋にこもり何も口にせずノイズ音楽を爆音で流し続けた。
脳髄に響き渡る爆音と一緒に僕の存在も消えてなくなればいい。
誰か、僕を壊してくれ。粉々に砕いてこの世から消し去ってくれ。
ふと気が付くと、僕は精神科病院の保護室にいた。
激しいノイズ音楽は消え、管楽器のシンフォニーが聞こえる。鉄格子の窓の隙間から差す月明かりに僕の体が包まれる。
とても神聖な気持ちになり、両の目から涙がとめどなく溢れた。
意識が戻ると、僕は体をベッドに拘束されていた。点滴が腕につけられ、部屋には僕一人きり。
大声で看護師を呼んでも誰もやってこない。
食事の時は拘束を解いてもらい、用を足すときは室内にあるポータブルトイレを使った。数か月で退院できたが、長期間の身体拘束で体力が落ち、歩くのもしんどかった。
荒れ果てていたアパリ藤岡(藤岡ダルク)だが、ダルク創始者の近藤恒夫さんの指示でチーマーが施設からいなくなった。
残った数名のメンバーで、散らかった部屋を片付け、壊れた窓やふすまを修繕した。
いくらか落ち着いてくると、朝夕のミーティングができるようになった。思えば、僕たちは人付き合いが苦手だ。チーマーとはうまくいかなかったが、正反対の人間とのぶつかり合いは必要な経験だった。
回復には仲間が必要だが、仲間は神様のように完ぺきではない。
人は醜い面と美しい面の両方を併せ飲んで、ようやく一人前になれるのだ。
アパリ藤岡(藤岡ダルク)は三年で退寮した。その後、僕は上野の日本ダルクに移った。
日本ダルクはしんどかった。
外出するときは誰かと一緒でないといけないし、金銭管理が厳しく、入所した当初は自分の財布を先に入所しているダルクの仲間に預けることが決まりになっていて、ジュース一本買うのにも仲間が持っている財布から自分のお金をもらって買わなければならない。
しばらくしたら、新しい仲間がやってきて、僕が彼の財布を預かる番になった。
タバコや移動の際にいちいち財布を出してお金を渡すのにほとほと疲れてしまった。
朝はダルクのミーティング、昼は併設されている病院のデイケアでミーティング、夜は外部のミーティングに出席するので、一日に三回もミーティングに出席することになる。
帰宅してほっとしたのもつかの間、入れ墨が入っている強面の男性から「俺のコップが見当たらないんだけど、知らないか?」と聞かれた。
正直に「知らない」と答えたが、どうやら僕が盗んだと思い込んでいるようで、僕の悪口を仲間に言いふらし、すれ違いざまに体をぶつけては睨みつけてくる。
それでも良いことはあった。ここのスタッフの支援で精神障害者手帳と障害者年金を取得することができた。
一人暮らしと危険ドラッグ
毎日ミーティングに参加し真面目に生活をした。
ずっと寮で暮らしていたが、三年後には生活保護を受けながらアパートの一人暮らしができるまでに回復した。
ダルクにいたのは約十年。
根無し草のような生活を続けていたが、ようやく自分の家が持てたことが嬉しくて仕方ない。
自分のアパートにダルクでできた仲間を呼んで一緒に食事をしたり、夜遅くまでおしゃべりした。
仲間の家に遊びに行く途中、スーパーでスナック菓子を二袋購入して、街中を歩いていると、心の中にふくふくと幸せが沸き上がった。
B型作業所が経営している喫茶店とライブハウスで働きながら、自助グループのミーティングに参加した。
この頃の回復のモチベーションは「ダルクに戻りたくないからクスリは使いたくない」というものだった。
しかし、感謝の気持ちや、回復のプログラムから足が遠のいていくと、生活のリズムが乱れ、クスリへの距離も近くなる。
ある日、話し相手が欲しくてスカイプでランダムに知らない人と接続される機能を使って遊んでいた。
そこで知り合った女性と仲良くなり、彼女の家に行くと、危険ドラッグと大麻を勧められた。
危険ドラッグには何種類かあるが彼女が勧めたのは通称「ハーブ」と呼ばれ乾燥植物に大麻に似た作用を持つ薬物を混ぜ込んで作ったものだ。
五年間クスリを使わずに過ごしていたけれど、誘惑に勝てなかった。
ハーブを吸うと視界がグラグラ揺れ、いつもより体の感覚が研ぎ澄まされる。
そして、そのまま女性と性行為に及んだ。
性的快感も増し、僕はどっぷりとハーブと大麻にのめり込んだ。
次第に外に出ることを忘れ、家に出入りするのは売人くらい。
室内にはデリバリーで頼んだピザの空箱が山積みになり、部屋を土足で歩きまわるのでカーペットは土まみれ。
ハーブでおかしくなった僕はフェイスブックに支離滅裂な文章や動画を投稿し、仲間が心配してメッセージを送ってきた。
「止まらないからこそ、正真正銘のアディクトだよ。回復への関心を持ち続けることが大事だよ。自助グループに参加すれば変われるし、仲間がいることを忘れないで」
その言葉に後押しされて、ハーブを使った後、自助グループに参加した。
仲間から良い言葉をたくさんかけてもらって、家に帰ると机の上にハーブと大麻が散乱していた。
使おうかどうか悩み、僕は仲間に電話した。
「使えば何か解決するの?」
その言葉を聞いて我に返った僕は机の上の植物片を全部便器の中に入れて流した。
渦を巻いて流されていくそれらを見て「これで良かった」と思いながら、頭の片隅では「もったいない」ともう一人の僕がつぶやいた。
仲間の助けがありながら、僕はハーブと大麻を手放すことができなかった。
最初に使ってからすでに一年が経過していた。
いつものようにハーブをパイプに詰め、火をつけると深く煙を吸い込んだ。
自分が吐いた煙を眺めながら、いつもより効きが強いことに気が付いた。
パッケージを見て、使う量を間違えたことに気が付いて青くなった。
しかも、これはかなり強烈なやつだ。
僕は座椅子に座って胡坐を組んだまま意識を失った。
しばらくして目を覚ましたが、自分の体が鉛のように重く、脳みそから「立て」という指令を送っても立ち上がることができない。
幸い、近くに携帯があったので、救急車を呼んだ。
遠くから聞こえてくるサイレンの音が僕のいるアパートの前で止まり、水色の救護服を着た救急隊員がドカドカとなだれ込み、僕を担架に乗せる。
矢継ぎ早に質問され、分かっている範囲内で懸命に答えるが、ろれつが回らない。
どうやら僕は十時間近く意識を失っていたらしい。
ICUに入れられ、酸素マスクや点滴などで管だらけになる。
医師から告げられた病名は「横紋筋融解症」。
骨格筋が融解し壊死し、筋体成分が体中に流れ出る病気だそうだ。
激痛と痺れが酷く、バルーンに入っている自分の尿の色を見たら赤褐色に染まっていた。
数週間後、血液が固まり、それが心臓に届くと死亡する可能性があると告げられ、さらに、両足の切断という案まで出された。
まるで誰かから背中を押されて底のない谷に突き落とされた気分だ。
僕は自分の問題から逃げるためにクスリを使って生きてきた。
そして、その体験を仲間に伝えることで生き延びることができ、仲間もそうやって命を繋いできた。
仲間の中でしか生きることができない自分を嫌というほど理解しているのに、僕は自らその手を離した。
両足切断は最後の手段として取っておくことにして、一縷の望みをかけてリハビリに専念することにして、ICUからリハビリ専門施設に移った。
三人の女性リハビリ師がチームを組んで、僕の回復のために惜しみなく尽力してくれた。
毎日、足の曲げ伸ばしを行い、激痛に耐えた。
そうしているうちに、死にかけていた僕の足は次第に血液が巡り、皮膚の色も良くなってきた。
一時はどうなることかと思ったが、ロボットのような装身具を足につけ、両手に松葉づえをついた姿でようやく退院した。
家に帰宅するとSNSに「退院したよ」というコメントと、鋼鉄の装身具をつけた足の写真を投稿した。
仲間たちから喜びのコメントが届く。それらに返信していると一通のDMが届いた。
「私がハーブを教えたせいで、そんな足になってしまったんだね。私は本当にダメな人間だね。りおに何と言って謝ったらいいかわからない。お詫びをしたいので、今度会ってくれないかな」
スカイプで知り合って一緒にハーブと大麻をやった彼女だった。
散々な目にあったけど、謝りたいといっている人を無下にすることもできず、会う約束をした。
駅の改札であった彼女は黒いレースのワンピースを着てほほ笑んでいた。
足に装身具をつけ松葉杖をつく僕を見て少し目を伏せたあと腰に手を回してきた。
「ごめんね、ごめんね」とつぶやきながらかいがいしく僕の横を歩く。
「どこか座れるところに行こう」
そうやって僕が提案した時、彼女の眼は猥雑な店を見つめていた。
黒と蛍光色の派手なステッカーと大麻のポスターが貼られている。
明らかに危険ドラッグを販売している店だ。
正直、僕はもう二度とこんなものをやりたくなかった。
それくらい辛い目に遭ったのに、彼女は蛍光灯の灯に誘われる蛾のように店に吸い込まれてしまった。
「りおの家に行きたいな」
彼女に促され、自分のアパートに向かった。
家について腰を下ろし、少し談笑した後、彼女は僕にキスをした。
彼女の舌が僕の口の奥にねじ込まれる。
そのキスの味は覚えのある味がした。
僕を地の底に叩きつけた危険ドラッグの味だった。
仲間の力
僕の家で、クスリの再使用が始まった。
彼女は生活保護で暮らしていたが、そのほとんどをクスリに使っていた。
最低限の衣食住は保障されているが、僕たちの暮らしは出口の見えない迷宮のようでもある。
クスリの量も増えていき、おかしな発言や言動も出始め、僕は行き詰まりを感じ、仲間に助けを求めた。
夕方、外から激しい車の排気音が聞こえるので、窓から身を乗り出すとピカピカに磨き上げられた真っ黒なベンツがアパートの前に留まった。
そこから出てきたのは、なんとダルクの創始者近藤恒夫さんだった。
近藤さんは、フェリーで調理師として働いていた時に、トラック運転手に「歯が痛いんだよ」と伝えたところ「覚せい剤をやれば痛みが吹っ飛ぶ」と言われ軽い気持ちで手を出した。
効果は劇的で、一週間ほど悩まされた激痛がぴたりとやんだ。
その後は、クスリを使いながら働くが、うまくいかなくなり、借金がかさみ、次第に人生が転落していく。
とうとうクスリで警察に捕まるが、執行猶予がついているのに「また外に出たらクスリを使ってしまうから」と自ら実刑を望むというハードボイルドな人物だ。
当時、日本には薬物依存症者の回復施設がなく、それを問題に思った近藤さんは、何度か面会に来てくれた神父の助けを得て、日本で初めて薬物依存症回復施設「ダルク」を創立した。
薬物依存症の当事者からしたらレジェンドのような存在だ。
その近藤さんに保護されて、僕はベンツに乗り込んだ。
ダルクの創立者だから助けに来たんじゃない。
仲間の一人としてここに来てくれたんだ。
車のハンドルを握る近藤さんを見て僕はそう確信した。
それなのに、クスリが入っているせいか、僕は失礼なことを近藤さんに聞いた。
「近藤さんは海外でクスリを使ってるって本当ですか?」
「ダルクの代表なんだから、そんなわけねーだろ」
口角を少し上げて近藤さんはシブく答えた。
その後、ダルクに一泊し、精神科病院に入院したことでクスリはやっと止まった。
その後はアパリ藤岡(藤岡ダルク)と三重ダルクに行き、生活保護の受給地が東京のため、都内の救護施設に入所することになった。
救護施設、そして未来へ
救護施設に来て五年が経過した。
オンラインで自助グループのミーティングに参加している甲斐あって、スリップはしていない。
思えば、僕の人生はクスリを中心に回っていた。
使うために生き、生きるために使った。
クスリを使っていると、失ったパズルのピースがぴたりとはまるような心地よさがあった。その時だけ、空しさや寂しさを感じないですんだ。
でも、それは長続きせず、クスリを使い続けることで、緩やかに死に向かっていた。
精神科病院に入院した時も、ダルクを脱走した時も、両足切断を迫られるくらい体をダメにした時も、クスリを完全に止める気持ちにはならなかった。
クスリを手放したらあの空虚さに飲み込まれてしまうのが怖かった。
幸いなことに僕は死ななかった。
奇跡だと思う。
ダルクや自助グループではクスリを止められた記念にお祝いをする。
一か月記念、二か月記念、三か月、半年、九か月、一年。祝いの場に仲間がいたからこそ、ここまでやめることができたのだろう。
クスリを手放してからは、クスリに使っていた時間やお金をほかのことに使う余裕が出てきた。
いろいろなことに興味が沸き、絵を描いたり、写真を撮ったり、音楽を作ったりしている。
クスリを手放すと、いろいろなものが手に入ることにやっと気が付いた。
もちろん、今でも囚われや強迫観念、執着などに悩まされることがある。
でも、新しい生き方を続けていけば、いつかそれからも解放されるだろう。
もちろん、簡単にクスリが手放せるわけではない。
クスリを手放した結果、死んだ仲間もいる。
死んでしまうくらいなら手放さなくてもいい。
ただ、うまくクスリを手放して、新しい生活を取り入れることができたなら、それはきっととても豊かで温かい生活になるはずだ。
僕は今、救護施設にいるけれど、早く一人暮らしがしたいし、絵をもっと描きたい。やりたいことは、まだまだたくさんある。
夏休みを前にした子供のように、これから来る未来に胸を膨らませている。
*この記事はインタビューとりおさんの note(https://note.com/rio1977)を参考にして小林エリコが構成して書きました。プライバシー保護のため各人の属性、場所や地域に変更が加えてあります。
参考文献
俺の家族はおじさんとおばさんに、歳の離れたユリ姉さんだ。
東京の郊外に立派な家を持ち、家業は呉服屋だ。
小学校が終わり縁側で寝ころんでいると、近所の人が俺の家にあるテレビを見に三十人ぐらい縁側に集まってくる。
今日は力道山の試合が中継されるのだ。
「そこだ、やれー!」
「でた! 空手チョップ!」
近所の人たちが誰も持っていないテレビが家にあることは俺の誇りだった。
一番いい席で力道山の活躍を見て、俺はいい気分だった。
学校が終わると、メンコがたくさん入っているお菓子の空き缶を持って公園に向かう。
近所の子供たちが集まっていて、すでにメンコの試合が行われていた。
「よし坊が来たぞ!」
俺の姿を見て仲間の一人が声を上げる。
俺はここら一帯のガキ大将で子供たちを牛耳っていた。
「さあ、俺が相手だ!」
持っている中で一番強い鞍馬天狗のメンコを手にし、スナップを聞かせて相手のメンコに打ち付ける。
その衝撃で黄金バットのメンコはパサリとひっくり返った。
そのメンコをいただくと、他の相手にも次々に勝負を仕掛ける。
パアン!
パアン!
土煙と共に次々にメンコはひっくり返る。
弱いやつだからって手抜きはしない。
真剣に戦わないと相手に失礼じゃないか。
そうやっているうちに、仲間のメンコを全て俺が手に入れてしまった。
「よし坊~! もうご飯の時間だよ」
ユリ姉さんが、水色のワンピースをはためかせながら、俺を探しにやってきた。
「あんた! お友達のメンコ全部とっちゃったの!? 駄目よ、そんなことしちゃ。返してあげなさい」
しぶしぶと今奪い取ったばかりのメンコを皆に返した。
ユリ姉さんに手を引かれて夕暮れの商店街を歩く。
ユリ姉さんは二十一歳と大人のせいか、子供の俺がかわいいみたいで、いつもかまってくれる。
家に着くと、ちゃぶ台の上に今夜の夕食が並んでいた。
カレイの煮つけ、キュウリの酢の物、おみそ汁にご飯。
箸をせわしなく動かし、お腹いっぱいになると、こっそり家を出て、歓楽街に向かう。
ここは近くに赤線があり、そこで働く女の人たちに俺はかわいがってもらっていた。
「あら、よし坊が来たよ」
顔に白粉をはたき、いい匂いをさせているお姉さんが俺の姿を見て声を上げた。
「ちょっと、お使い頼まれておくれよ。タバコを切らしてしまってね。いつものやつを買ってきておくれ」
白くてきめの細かい手が、俺の小さな手に小銭を握らす。
手を固く握って横丁のタバコ屋までかけていく。
タバコ屋では婆さんが座って新聞を読んでいた。
「ホープを一箱ください」
言葉と同時に掌の小銭をつり銭受けに置く。
婆さんが腰を上げてホープを差し出し、お釣りをよこす。
それらをしっかりと握りしめて今来た道を駆け足で戻る。
「買ってきたよ!」
元気よく差し出すと、お姉さんはニコニコしながら受け取り、
「お釣りはとっておきな。あとこれはお駄賃」
そういって大きな飴玉をくれた。
俺がすぐさまそれをほおばると、その様子を見てお姉さんはケラケラ笑った。
周りにいる商売仲間の女の人たちも俺を見てクスクス笑った。
穏やかな暮らしが続いていたが、俺が六歳の時、おじさんが亡くなった。
数日前から体調を崩していたが、ある朝、急に苦しみだし、医者を呼んだが間に合わなかった。
お寺で葬式を上げ、しばらくは家の中がバタバタしていたが、数日たつと急に静かになった。人が一人いなくなった家は空気が変わり、他人の家の感じがした。
日曜日、おばさんから一緒に出掛けようと誘われた。
支度をして玄関を出て駅に向かう。
「どこに行くの? デパート?」
おばさんの服の裾をつかみながら尋ねるが、おばさんの顔はいつもより暗い。
「用事があるんだ。電車に乗るよ」
その言葉を聞いて思わず小躍りした。
「電車乗れるの! やったー!」
改札をくぐり、ホームに着くと鉄製の四角い車体が目の前に現れた。
イスに座ると俺は靴を脱いで窓の外を見る。
電車が走り出すと、風景がものすごいスピードで流れていく。
畑の一帯を抜けると民家が立ち並び、また畑が続く。
ホームを何個か通過した後、知らない駅に降りた。
駅前にはデパートもなく、キレイとは言えない小さな商店が並び、電車に乗ってわざわざ来るところとは思えない。
「おばさん、どこに行くの?」
俺が尋ねてもおばさんは何も言わないので、仕方なく黙ってついていった。
裏路地を抜け、古ぼけた長屋にたどり着く。
「よし坊。良くお聞き。お前はこの家の子供なんだ」
おばさんが指をさした長屋には知らない苗字の札が下がっていた。
「これがお前さんの本当の苗字だ。私はお前の母さんのいとこおばだ。いとこおばって言っても難しいね。お前のおじいさんの兄弟が私のおじいさんなんだ。まあ、本当に遠い親戚だよ。その遠い親戚である、お前の母さんに赤ん坊が生まれたばかりで子供が育てられないから助けてくれと相談されたんだ。その時に一歳だったお前を一時的にうちで引き取って育てることになったんだ」
突然告げられる真実に理解が追い付かない。
おばさんが長屋の引き戸をドンドン叩くと、おばさんより若い女性が現れた。
「さと子、ちょっと話がある」
さと子と呼ばれた俺の本当のお母さんは俺に一瞥をくれた後、おばさんの方に向き直った。
「なんだい、藪から棒に」
「私の旦那が少し前に亡くなった。そして、娘のユリ子が今度、婿を取ることになったんだ。そうなると、もうよし坊をうちで預かるのは無理だから、引き取って欲しい」
「そんなの無理だよ! うちは子供が三人もいて、下の子はまだ小さいんだ。面倒見ておくれよ」
おばさんは大声を出して懇願する俺の母親に背を向けて、すたすたと駅に向かって歩き出した。
「おばさん、待ってよ!」
急いで追いかけたが、おばさんの姿はどこにもない。
道端では酔っ払いが寝っ転がっていて、時折喧嘩の声が聞こえた。
居酒屋にかかった暖簾はボロボロでちぎった紙切れみたいだ。
本当なら俺はここで生まれて育っていた。
それと同時に、俺は親に捨てられたのだと分かって涙が込み上げてきた。
目元をぬぐって、記憶を頼りに元の駅までたどり着き、持っていた小銭で電車に乗った。そして、一緒に暮らしていたおばさんの家に自力で帰り着く。
俺はずっとおじさんとおばさんに育ててもらっていて、この家の子供だと思い込んでいたけど、本当はそうじゃなかった。
ユリ姉さんも俺の姉さんじゃなくて、又従姉(またいとこ)だった。
着物を着る人が減り、呉服屋をやっているおばさんの店は経営が悪化し、仕方なく豆腐屋に転向した。
朝早くからおばさんは豆腐の仕込みをするようになり、家の中の様子も変化した。
ご飯は毎日、豆腐かおから。
それでも、俺はこの家が好きだった。
ユリ姉さんに縁談が来て、この家にお婿さんが来ることになった。
良く晴れた秋晴れの日、近くの神社で結婚式を挙げた。
ユリ姉さんは白無垢を着て、顔に白粉を塗り、朱色の紅を唇にのせていた。
新郎と一緒に三々九度の盃をあげて、しゃなりしゃなりと境内を歩く。
枯葉の舞う神社で式に臨むユリ姉さんはこの世の人とは思えないくらい美しかった。
お婿さんは真面目な人でおばさんの仕事を一生懸命手伝った。
俺は最初、少し気を使ってしまったが、お婿さんは嫌みのない人で、俺もすぐに好きになった。
ある朝、おばさんから荷物をまとめるように言われた。
「すまないが、お前をもうここに置いておくことはできない。明日から本当のお父さんとお母さんの家で暮らしておくれ」
何かを言おうとしたが、何も言葉が出てこない。
それに、口を開いたら泣き出してしまいそうだった。
ただ、頷いて自分の部屋に行き、教科書や筆記用具をカバンに入れ、気に入っていた洋服をたたんでまとめた。
宝物のメンコが入った空き缶を手にした。
振るとカサカサと音がする。
みんなのメンコを取ったままにしなくてよかった。
ユリ姉さんのおかげだ。
玄関を出ると近所の子供たちが集まっていた。
「よし坊! そんな大荷物でどこ行くんだよ」
この家を出ていくと言いたくなかった。
「ちょっと、旅行に行ってくらあ」
無理やり明るい声を出した。
「そっか、お土産買ってきてくれよ!」
仲間たちの声に送られて、俺は住み慣れた家を後にした。
新しい家での生活は最悪だった。
やっと生家に戻ってきた俺に向かって母は開口一番「なんで帰ってきたの?」と言い放った。新しい家も学校にもなじめず、近所で悪さをすると、母は「あんたみたいな悪ガキ、とっとと出ていっちまえ!」と怒鳴った。
母は仕事が休みの日は、朝から酒を飲み、大声で怒鳴り散らす。
「兄ちゃんも姉ちゃんも末っ子のトモもいい子なのに、よし坊は本当に出来が悪い。誰に似たんだか」
厭味ったらしい言葉を吐き出して、俺に財布を投げてよこす。
「酒が切れたから買ってこい。いつもの店で二級酒を一升瓶でだよ」
財布を右手に握り、玄関の靴をつっかけて、近所の酒屋に向かう。
一升瓶はとても大きい。
両腕で抱えると他に何も持てない。
帰宅して酒を渡すと、母は待ってましたとばかりに飲み始める。
つまみもロクに食べずにゴブゴブと喉を鳴らす。
顔が赤くなり酔っぱらってくると、大声で怒鳴り散らす。
「お前は誰のおかげで飯が食えると思ってるんだ!」
そういって食卓を蹴っ飛ばし、吠えたてた。
母の酒癖について祖父はこう言っていた。
「あいつは寅年の女だからな。酒を飲むと大寅になるのさ」
しかし、罵詈雑言をまくしたてる母はずっと手元に置いていた兄と姉と末っ子に対しては一切、罵声を浴びせなかった。
母の怒りの矛先は常に俺に向かっていた。
母は夜になると終電後の電車を清掃する仕事に行き、帰ってくるのは明け方。
俺が布団で眠っていると「いつまで寝てんだい。朝寝坊しやがって」と不機嫌そうにつぶやく。
父は自営業で家具や建具を作る職人だった。良い品物を作るので周囲からの信頼は厚いが、よい材質のものを使うので、利益にならないどころか常に赤字だった。
けれど、父が働く姿を見るのは好きだった。
ただの木片が父の手にかかると立派な家具に変身する。
「父ちゃん、何作ってるの?」
俺が尋ねると、こちらも見ずに答えた。
「卓球台。俺が国体の選手だったの知ってるだろ。家で卓球ができたらいいと思ってな」
釘を口にくわえたまま俺を見てにやりと笑う。
数か月後、卓球台は無事に完成し、俺は父と卓球に興じた。
夕方になると台所から米を研ぐシャッシャという軽快な音が聞こえてくる。
両親が働きずくめのため、家事は父方の祖父がやっていた。
俺は自転車を三角乗りして商店街に向かい、一個五円のカレーコロッケを六個買う。
自転車の前かごに紙に包まれたコロッケの袋を入れて、来た道を戻る。
日が長くなってきたので、夕日がまだ西の空に昇っている。
夕暮れとはいえ夏のせいか少し蒸す。
ハンドルを握りペダルを半回転させながら進んでいると、急に前の家が恋しくなった。俺だって前の家の子供のほうが良かった。
貧乏で子供を育てられないから親戚に預けたのはそっちじゃないか。
親の都合で二つの家を行ったり来たりする俺の気持ちはどうなるのだ。
早く大人になりたい。
自分の力でお金を稼いで生きていきたい。
心からそう願った。
「よし坊、バイトに興味ある?」
そう声をかけてきたのはクラスメイトの武田だった。
武田の家はスナックをやっており、大人の知り合いがたくさんいた。
「俺でも働けるの? どんな仕事だよ?」
前のめりになって武田の顔を見る。
「ちょっと行ったとこに米軍基地があるだろ。そこの食堂の前で新聞を売る人を探してるんだよ」
新聞売りくらいなら俺でもできる。
「その仕事、俺にやらせてくれよ。何時に行けばいい?」
武田から職場への行き方と、支配人の名前を聞き、次の日から働きに出た。
当たり前だが米軍基地にはアメリカ人がたくさんいる。
体が大きく、肌の色は白く、髪の色も茶色や金色。
黒人の姿もちらほら見えた。
新聞を抱えた俺にアメリカ人が話しかけてくる。
「ニューズペーパー、プリーズ」
初めて聞く生の英語に緊張してしまうが、新聞をサッと取り出しお金を受け取る。
「サンキューベリーマッチ!」
日本語訛りの英語で必死に答えた。
すると、次から次へお客が来るので、せっせと新聞を売った。
学校が終わると毎日のように米軍基地へ行き働いた。
家にいるよりも仕事をしているほうが楽しかった。
給料はひと月で五千円もらえた。
給料袋から四千円取り出して母に渡すと無言で受け取り金を財布にしまった。
新聞売りは中学を卒業するまで続けた。
高校に進学するという選択肢は貧乏な家の俺にはない。
卒業後は大工見習として工務店に住み込みで働くことになった。
仕事を得て、家を出られたことは嬉しかった。
仕事は朝六時からで、昨日の仕事で出たおがくずを燃やすところから始まる。
朝食の支度をし、食事が済むと、兄弟子たちが仕事で使う道具の手入れをする。
ノミや金づちをきれいに磨き、ノコギリは丁寧に砥石で研ぐ。
大工の仕事道具は刃物を中心として金物が多いので、毎日手入れをしないとすぐにダメになってしまう。
まだ、下っ端の俺は大事な仕事は任せてもらえず、はき掃除をしたり片付けをすることが多かったが、しばらくするとカンナで柱を削らせてもらえるようになった。
兄弟子たちは厳しいが、親方は優しくめったに怒らない仏のような人だった。
しかし、それは仕事中だけで、夜になって酒を飲み始めると鬼の形相になって弟子たちを叱り、仕事の愚痴を言い続け、けなすことがなくなると俺の米のとぎ方にまで文句をつけた。
それでも、俺は大工の仕事が好きだった。
少しづつ仕事を覚え、図った寸法や目印を材木に記す墨付けもできるようになった。
ノコギリやノミ、カンナを使って設計図通りに木を切りだしすぐに組み立てられるようにそろえていく。
主に作業所で材木の加工をしていたが、数年たつと組み立ての方にも回してもらえるようになり、親方たちと一緒に農家の建築に携わった。
木造の家は基礎部分や構造体部分に雨水が染み込んでしまうと家がダメになってしまうので、最低でも二日で終わらせなければならない。
現場で木を組んでみると資材の寸法が合わないことも度々あり、その時は再度調整する。
施工主の農家の人も家の出来具合を見に時々訪れた。
「お疲れ様です」と言って甘いものを差し入れてくれる。
半年ほどかけて、家が出来上がり、農家の人は出来栄えを褒めてくれて、頭を下げて何度も「ありがとうございます」と礼を言った。
いつも母に怒鳴られていた俺は褒められるのに慣れてなくて、頭をかいた。
そして、赤字を出しながら最高の家具を作る父の気持ちが分かった。
その日の夜は親方も鬼にならず、機嫌よく酒を飲んでいた。
月日がたち、兄弟子が卒業し、新人が入ってきた。
自分が教える立場になり、掃除や道具の手入れを説明した。
そのあと、小型トラックに乗って今日の現場に向かう。
夕方まで仕事をして工務店に帰ってくると、みんなが不安そうな顔をして話し込んでいる。
「なんかあったのか」
その言葉を聞いて、やっと俺の存在に気づき、同僚が事故の話をした。
「新人の哲也が、勝手に電ノコ使っちまって、指を切っちまったんだよ。骨は無事だったけど、指の周りの肉が削げちまって、ありゃあもう使い物にならねえ」
哲也はそのまま工務店を辞め、親方はそれ以来、一切弟子を取るのを止めた。
「悪いけど、剛志のところあるガスボンベを持ってきてくれないか」
剛志とは親方の次男だ。お使いを頼まれ、工務店の車を出す。剛志さんは大学生で、少し離れたところで一人暮らしをしていた。
剛志さんのアパートに一時停車し、ガスボンベを持ってきてもらい、そのまま一緒に親方の待つ家に向かう。
「今日は親戚で集まってすき焼きやるんだってな。いやー、楽しみだわ」
剛志さんは上機嫌だ。ラジオをかけながら車道を走り、踏切が下りているので停止した。その時、車が横から突っ込んできて衝突音と共に車体が横転する。
「うわあああ!」
男二人で恐怖の声を上げた。
急いでドアを開けようとするが、歪んでしまって開かない。
ええい、ままよと窓ガラスを力いっぱい蹴り飛ばす。
火事場の馬鹿力でガラスを割ると、体を滑らせ車から脱出した。
近くに親方の長男が住んでいるのを思い出し、救急車を呼んでもらおうと、自転車を借りて走った。
長男に事故を告げるが、普通に立っている俺の姿を見て「病院に行かないでも大丈夫じゃないか。まだ、若いんだし」と言われた。
興奮しきった俺は冷静な長男の言葉を聞いて「そんなもんなのか」と考え直し、病院に行くのをやめた。
剛志さんも打撲だけで他は無事だった。
しかし、半年後、病院で診てもらうと、脳挫傷と言われ、脳の半分が損傷していたことが判明した。
二十歳になり、大工見習が終わり、晴れて大工として働きだした。
朝早くから木材を運び、仕事が終わった後は、毎日のように飲みに行った。
スナックで焼酎の水割りやハイボールを浴びるように飲み、気が付けば深夜十二時を過ぎ、電車がない時はタクシーで帰宅した。
休日になると仕事の憂さを晴らすためにパチンコに行き、タバコを咥えたまま朝から晩まで台の前に座った。
朝起きると、頭痛がして体が怠い上に、耳鳴りが酷い。
重い体を引きずって現場に向かうが、簡単なミスを繰り返してしまう。
脳挫傷の影響が考えられるが、事故が起こった直後に何もしなかったので、どうしようもできない。
次第に現場への足が遠のくが、スナックへは通い続けた。
代金が払えないときはツケにしてもらった。
ツケが効くうちは良かったが、金払いが悪いせいか、しだいにツケにしてもらえなくなった。
仕方がないので、飲み食いした後、会計をせず店を出た。
店員が追いかけてこないので、しめしめと思い、次の日はまた別の店で無銭飲食をした。
ばれないように店を次々に変えて無銭飲食を繰り返していたが、ある日、俺は店員に捕まり、警察にしょっ引かれ、拘置所に送られた。
その後、裁判が開かれ、被害に遭った店が多数あったことから、一年二か月の刑が下り、執行猶予が三年ついた。
しかし、酒を飲むことがやめられず、いつものようにスナックへ行き、散々酒を飲んだ後、そのまま店を出たが、店員が俺の腕をむんずと掴んだ。
執行猶予中に新たな罪を犯したので、実刑を受けることになったが、初犯なので川越の分類センターに送られた。
そこで、どんな仕事ができるかの適性検査を受けた。
まだ、二十三歳と若いこともあり、川越少年刑務所に入所が決まった。
刑務所の生活は規則が厳しく、全く自由がなかった。
しかも、刑務所では長くいる人間が偉いというルールがあり、新人だとイジメに遭う。
朝六時四十分に起きると、布団をたたみ、正座して点呼を待つ。点呼が終わると配膳係が部屋の入口にある食器孔を開けてやり取りをする。
食事は麦飯にみそ汁、マグロフレーク、味付け海苔。
おかずをほかの受刑者にあげるのは禁止されているのだが、先に入っている囚人が「お前の味付け海苔よこせよ」と凄んできたので恐ろしくなり、看守の目を盗んでサッと渡す。
見つかったら懲罰房行きだ。
「空さげ~」
ガラガラとワゴンがやってきて、空になった食器を集めていく。
食事が済むと流しで歯を磨くが、二人しか磨けないので、後の者は後ろに正座して歯を磨きながら空くのを待つ。
それが終わると、各自、座布団を片付け、シーツの乱れを直し、水道の蛇口を揃え、トイレのドアを開ける。
受刑者たちは畳の上に横一列になり、胡坐をかいた状態でジッと待機する。
『出寮開始~。洗濯~。外掃~。クリーニング~』
古びたスピーカーからアナウンスが流れると、看守がやってきた。
「304号室! 起立! 出寮!」
一列になって廊下に出ると、壁を向いて一列に並ぶ。
全部の房の受刑者が出るのを確認して、看守が号令をかける。
「整列!」
受刑者たちはビッと背筋を伸ばし、廊下の中央に一列に並ぶ。
「気をつけ~! 連続呼称! 前へ進め!」
「左! 右! 左! 右!……」
看守の掛け声と同時に受刑者たちが腿を高く上げ足踏みをしながら号令を始める。
足元ではゴムサンダルが、ベタン! ベタン! ベタン!と、間抜けな音を立てる。
軍隊式の行進をしながら受刑者たちは工場へ向かう。
俺は元大工だった経歴が買われ、官舎の修理をすることになった。
壊れている窓を修理している最中に、汗が流れたのでタオルで拭いたら看守に酷く怒鳴られた。
刑務作業中に勝手な行動をとるのはルール違反で懲罰の対象になる。
「願いまーす!」
受刑者たちはトイレに行きたいときや、工具が欲しい時はいちいち看守に許可を取らなければならない。
そこいらじゅうで聞こえる「願いまーす!」の声とまっすぐに伸びた右手。
俺も「願いまーす!」と右手を上げ、修理が終わった窓ガラスの確認をしてもらう。
一日中、刑務所内の壊れたドアや窓を直し、夕方に雑居房に戻る。
食事をしながら雑談をし、腹が膨れてもぺちゃくちゃと俺たちはしゃべり続ける。
退屈な刑務所の生活では、人と話すことが唯一のストレス解消だ。
「あ~、外に出たら甘いもん腹いっぱい食べたい」
「生クリームとイチゴが乗ったケーキを一個丸ごと食いてえな」
「俺は羊羹を一本端からそのまま食うね」
刑務所では甘いものがめったに食べられないので、皆、そんな話ばかりする。
そして、早く塀の外に出たいと愚痴り合う。
「出所まで一年三か月と十一日だ。でも、真面目にやってれば仮釈もらえて半年くらい早く出られるかな」
「俺は三十日後だ」
「羨ましいなあ、おい。もうすぐじゃねえか」
と、俺も会話に混じる。
「でもよお、出所した後、仕事が見つかるか不安なんだよな。俺、会社の金盗んだはいいけど、それがバレそうになって、社長のこと刺しちまったんだよな」
無銭飲食で捕まった俺は言葉が見つからない。
「まあ、まだ若いんだし何とかなるよ」
ありきたりな言葉で励ました。
俺はここを出た後はどうなるのだろうか。
身元引受人は家族がなってくれたが、手紙を出しても両親からは返事がなく、返事を書いてくれたのは弟と学校の先生だけだった。
塀の中での生活を黙々とこなし、刑期を終えた春の日、俺はとうとう出所した。
刑務作業で得た賃金数千円を握りしめタバコ屋に向かう。
マイルドセブンとライターを買い、フィルターを咥えて火をつける。
タバコの煙を肺まで深く吸い込みゆっくり吐き出すと、頭の奥がジンジン痺れてくる。
ふと顔を上げると、抜けるような青空には雲一つなく、この世の喜びを謳うようにひばりのさえずりが時折聞こえる。
やっと自由になれたという喜びと、この先どうすればいいのかという不安が入り交じり、俺は自分の吐いた煙が空気に溶けるさまをずっと眺めていた。
続く
参考文献
少年刑務所を出て、実家に帰ったが、家族は歓迎してくれなかった。
仕事を探すが大工の道具は現場で盗まれてしまったし、前科者を雇ってくれる職場はどこにもない。
元受刑者の支援をしている更生保護会を通じて運送業や土木作業員として働くが、仕事が終わると以前のようにスナックやバーに行き、酒を飲んだ。
月曜の朝、布団から出て仕事に行こうとするが、体は鉛のように重く、頭痛や耳鳴りが酷いので、ちょくちょく休むようになった。
実家に居づらくなり、更生保護会の支援者から勧められて生活保護を受給することにしたが、最低限度の暮らしは想像以上に厳しく、外で飲むと半月もしないうちに金が無くなる。
仕事もなく、昼間からブラブラしているのが苦痛で仕方ない。
思い返すと俺は幼い時からずっと働いてきた。
子供の頃にした米軍基地での新聞売り、大工の見習い、一人前になって建てた数々の家。
自分の手をじっと見つめた。
まだ二十歳そこそこなのに、皮膚は厚くゴツゴツしていた。
働きたい、そう、俺の手が言った。もっと、もっと稼ぎたい。
その衝動を押さえつけるように右手首を握りしめる。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう」
小さな声で絞り出すように呟いた。
手持ちがなくなると当たり前のように金を払わずに店を出た。
いつものように無銭飲食をして店を出たら、後ろから何者かが俺の手首をぐいと握った。
振り返ると警官が俺のことを睨みつけ、
「無銭飲食の現行犯で逮捕する」
と言い放った。
そのまま警察署で取り調べを受け事情聴取を受けた後、留置所に入れられて検察の取り調べが始まった。
検察官から浴びせられる罵詈雑言に耐えられず、犯した罪を全て白状した。
起訴されて裁判を受け、実刑判決が下った。
俺は東京拘置所に送られ、独居房に入れられた。
刑務所に移送されるまでの間、居室内で紙袋を作らされることになり、『内服薬』と印刷された紙の束を渡される。
底の部分に折り目をつけて、糊付けした後、砂袋で重しをする。
黙々と紙袋を作り、製品が出来上がると報知器ボタンを押して作業担当の受刑者に知らせる。
そうやっているうちに夕食の時間になり、あっという間に一日が終わる。
風呂に入るため看守と移動している時、遠くの方で女性が看守に連れられて移動する姿が見えた。
「あれ、永田洋子だ。散々世間様を騒がせて、やっと捕まったよ。内ゲバで人殺ししちまうんだから恐ろしい女だよな」
世間を騒がせている極悪人が身近にいることにゾッとした。
東京拘置所に数週間、拘留された後、俺は府中刑務所に収監される事になった。
初めて入ったのは少年刑務所だったが、今度は本当の意味での刑務所になる。
府中刑務所は日本最大の刑務所だ。
収容棟は東一舎から東六舎、西一舎から西四舎、病舎に誠心寮の計十一棟。
工場も三十以上あり、体育館や講堂、運動場もある。
なぜ、俺がこんなに詳しいかというと、大工の仕事ができる俺は、ここでの刑務作業で舎房の修繕を与えられたからだ。
壊れた窓やドアを直し、明かりのつかない蛍光灯を取り換え、水が出ない水道管の修理をやった。
土日は刑務作業が休みなのに、看守に「やってくれ」と言われると断れない。
俺がやっている刑務所の修繕を外部の業者に頼めばそれなりの金額になるはずだが、受刑者にやらせればタダみたいなものだ。
俺は房の中ではあまり目立たないようにしていたが、自慢ばかりするやつがいた。
「俺はさ、親が地主やってて、大学を出た後は自分で会社を経営してさ、かなり儲けたよ。車はベンツだよ。やっぱ外車は広くて、本当に乗り心地がいいのよ」
などと、べらべらまくしたてる。ここに来ているやつなんて、どいつもこいつも似たような経歴の人間が多いはずだが。
後日、やはり自慢が全て嘘だったことがバレて、そいつは房のやつらに村八分にされ、便所の横が定位置になった。ムショの外でも中でも自慢をする奴は嫌われる。
出所するには身元引受人がいないとならないが、両親はあてにできないので、更生保護会という元受刑者の社会復帰を支援する団体に依頼した。真面目に刑務作業に励み、単調で苦しい刑務所からやっと出られることになった。
刑務所に入ったことにより、生活保護が切られ、お世話になっている更生保護会を訪れた。
そこの宿舎で寝泊りをさせてもらうが二か月までしかいられないので、お金をためて早く出なければならない。
更生保護会を通じて仕事を紹介してもらうが、二回刑務所に入ったせいか、どこにも採用されない。
「社会に出て真面目に働きたいって言っても、その社会の側が受け入れてくれないんじゃ、更生もクソもねえよ」
新宿の職安通りをとぼとぼと歩く。
「金もない、家もない、仕事もない、家族もない。あるのは犯罪歴だけ」
背中を丸めてポケットに手を突っ込み、自嘲気味につぶやく。
「けど、寄せ場なら仕事はあるかもしれないな」
大工の仕事をやっていたので、寄せ場の存在は知っていた。
短期間や日雇いの土木作業員が欲しい建築会社が手配師を通じて人を集めているのだ。
早朝四時ごろに寄せ場にいけば、それらしい奴らはたくさんいる。
一旦、帰宅してから次の日の早朝、高田馬場の寄せ場に向かった。
まだ日が出ていない早朝の高田馬場にある西戸山公園は男たちで賑わっていた。
新大久保のコリアンタウンが近いせいか、韓国語らしき言葉も聞こえてくる。
「あんちゃん、仕事探してるんだったら、いいのあるよ。土木は経験ある?」
振り返ると四十代くらいの作業着の男性が声をかけてきた。
「十代の頃から大工で働いてきた」
俺がそう答えると、相手の顔色が明るくなった。
「そうか~! それならうちの建設会社はどうだ? 道具がなくても大丈夫。給料を前貸しするから。日当は五千円。現場は都内の成城。寮もあるよ」
少し悩んだが悪くない条件なので、俺が作業着の男性の後をのこのことついていくと、木造の寮らしき建物に着いた。
「昼飯まだだったら、食堂に行けばいいから。その前に書類書いてくれる? 書けるとこまででいいよ。ここは訳ありの人が多いから、そんな細かく書く必要ないから」
差し出された書類に、住所と名前を適当に書き、前借りした給料から宿代を支払う。
案内された部屋は三畳しかなく、布団が畳まれて置かれているほかは、小さいテレビがあるのみ。
荷物を置いて布団に横になり、いつの間にか眠ってしまったが、猛烈な痒さで目が覚めた。
「ひいいい! 痒くてたまらねえ!」
ボリボリと全身を掻きむしると、赤い斑点が足や腕にできている。
こりゃあ南京虫がいるんじゃなかろうか。
階段を駆け下りて、帳場に行き文句をつけると殺虫剤を撒くと約束してくれたが、代金を取られた。
イライラしながら共同の風呂に入り、食堂に行き飯を食べて、その日はすぐに寝た。
朝の四時半に起きて、朝飯を食ってから、一台のバンに乗せられて現場に向かう。
朝日が昇る前の東京は空気が澄んでいて凛としている。
車が止まると、ぞろぞろと土木作業員が降りる。現場監督に今日の仕事の説明を受けると、ラジオ体操の音楽が流れる。
「イッチニイ、サンシ、ゴーロク、シチハチ!」
大工経験者の俺はコンクリートの壁を作る仕事を与えられた。
型枠といってコンクリートを流し込む型を作るのだ。
板と板を合わせてくぎを打ち込み、型枠を作る。
黙々と仕事に熱中していると、額から汗が吹き出してくる。
気が付くと太陽が頭上に上っていた。
「昼休みだから、各自、弁当取りに来て~」
プラスチックの容器に入った弁当の中身は白身魚のフライ、から揚げ、マカロニサラダに山盛りの白米。栄養や健康を無視した高カロリーなそれを平らげながら、現場の仲間とたわいもない話をする。
「ここの現場はそこそこキツいけど、解体の現場はもっと最悪だしな」
「この前行ったとこは、エレベーターなかったから地獄だったぜ」
「俺、こないだ、競馬でけっこう儲かっちまったよ」
ゲラゲラと笑いながら話す内容はあたりさわりのないものばかりで、家族や郷里のことは一切話さない。
それは、みんな過去を捨ててきたからだろう。
午後になり、再び仕事に取り掛かる。
照り付ける日差しの中で、肉体労働をしていると、頭がぼんやりしてくる。
飛び交う男たちの声、激しい重機の音。
木材を運んでいるうちに、疲れて腕がしびれてくる。
午後の休憩時間にソフトドリンクが配られ、缶コーヒーを取ると、タバコに火をつけて、しばらくぼうっとした後、再び仕事に励む。
夕方になり、今日の仕事が終わると、迎えに来たバンに乗って、寮と言う名の飯場に戻る。
疲れ切った俺は、仕事着を脱ぎ、ひとっぷろ浴びた後、夜の街へ出かけ、店構えの良さそうなスナックに入る。
良く冷えたビールを飲み干すと、体が弛緩し、一日の疲れがさらさらと流れていく。
適当につまみを注文し、ママとの会話を楽しみながら、酎ハイやハイボールをガバガバと飲む。
酒に対するこだわりはなく、酔えればなんでもよかった。
しこたま飲んで会計を済ませると、飯場に戻り、テレビと布団しかない三畳の部屋に帰る。
殺虫剤を頼んでおいたおかげで、南京虫はいなくなったようだ。
布団の中でまどろんでいる最中に、頭の奥の方で「ジジジジジジ」というセミの鳴き声のような音が聞こえる。
脳挫傷の後遺症と思われるこの音は、いつまでも鳴りやまない。
どんなに逃げてもついてくる、忌まわしい自分の過去のように。
寄せ場の生活は厳しい。
激しい肉体労働で体はボロボロになり、疲れを取るために酒を飲み、休日はパチンコに行き、憂さを晴らした。
荒くれ者が多いせいか、喧嘩や盗みが多く、俺も犯人にされたことがある。
飯場では親方の嫁さんが炊事洗濯を任されているが、親方の暴力に耐えられず逃げ出した。
「すまねえが、嫁さんの代わりに飯場の仕事やってくれねえか。お前ならうまくやれるだろ」
親方に頼まれると断れない。
日が昇る前から大人数の飯と弁当を作り、それが終わったら掃除に取りかかる。風呂場を磨き上げた後、タバコを一本吸いながら休憩する。
「俺は人から頼まれると、どうしても断れねえんだよな」
と、ひとりごちた。
ある日、飯場の連中が騒いでいるので何事かと尋ねると、
「親方が覚せい剤で捕まったってよ!」
と、言うではないか。
薬物をやっている奴は珍しくないが、親方がパクられたんじゃ話にならない。
ここにいる男たちの末路はたいてい惨めで、寿命は短い人間が多く、現場の仕事で死ぬ奴もいた。
そして俺は脳挫傷の後遺症なのか、ある日、部屋で倒れてしまった。
命は助かったものの、脳に怪我を負ったまま生活をするのは、酷く困難だった。
仕事に出られなくて金が無くなると、無銭飲食をして刑務所に入り、出所したら寄せ場に戻る生活を十年以上送った。
北は網走刑務所から南は広島刑務所まで、合計七カ所の刑務所に入った。
最後の広島刑務所では、俺の体力も随分落ちてきて、刑務作業も大工仕事から針仕事や木工細工に変わった。
木工細工の刑務作業は楽しかったが、木工場の担当に推薦されて炊事場に回された。
料理は子供の頃から作っていたし、飯場の親方に頼まれて大人数の飯を作っていたので慣れていた。
ある日、炊事場の看守が「外の店より美味しい酢豚を作る」と言い切り、負けん気の強い俺は最高に美味い酢豚を作った。
いつものように早朝の炊事場に行くと、看守が俺に近づいてきた。
「昨日の酢豚、美味かったぞ」
俺は自分の耳を疑った。
この看守は受刑者を褒めるどころか、滅多に話しかけないことで有名なのだ。
「あ、ありがとうございます!」
俺は深く頭を下げた。
夕飯の時、同じ舎房の受刑者に話しかけられた。
「お前、あの看守に酢豚が美味いって褒められたんだってな。よっぽど気に入られたんだな」
「そんなことねえよ」
そう答えながら、俺はくすぐったい気持ちだった。
人から最後に褒められたのはいつだったろう。
誰かから自分の働きを認めてもらえるのが、こんなに嬉しいことだなんてずっと忘れていた。
広島刑務所での刑期を終えて、関東に戻った後、更生保護施設に入所した。
そこで、支援者と今後の生活について話し合っている時、アルコールに問題があると指摘された。
精神科を受診した後、都内のアルコール病棟に入院が決まった。
生まれて初めての入院が精神科病院になるとは思わなかった。
閉鎖病棟なので、基本的に外に出られないが、清潔なベッドとシーツがあり、栄養のある食事を食べることができ、キツい労働もない。
俺はここで AA(アルコホーリックス・アノニマス)の出席を義務づけられた。
アルコールを止めたいと願う人たちが集まる自助グループで、教会や公民館で定期的に行われている。
会場に入ると、12 のステップの冊子を渡された。
「呼ばれたいニックネームを名乗ってから、右回りに 12 のステップを読みましょう。まず私から始めます。リーダーのチョビです。1、私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた」
「シロです。2、自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった」
自分の番になった。緊張しながら口を開く。
「ボクです。3、私たちの意志と生きかたを、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした」
今までとは全く違う世界に戸惑いつつ、嫌な気持ちはしなかった。
穏やかで落ち着いた時間の中で、俺は今までの人生を振り返るようになった。
AA に通うようになり、しばらくたつと、その熱心さからグループの運営を任された。
しかし、根が真面目なので、頑張りすぎてアルコールに手を出してしまった。
スリップ(再飲酒)したらそれを AA で話し、仲間の力を借りてアルコールとの距離を取るようにした。
退院した後、病院のケースワーカーに勧められて生活保護を受けて、アパートで独り暮らしを開始した。
久しぶりの自由が嬉しくて、台所に立って料理を熱心に作った。
一番ハマったのは天ぷらで、どうやれば軽くサクッと揚がるか 1 人で研究した。
ぬか漬けも始めて、AAに行くときにはそれを持って行って、仲間と食べた。
「ボクのぬか漬けはいい味だしてるな~」
皆がそうやって俺の料理の腕前を褒めてくれた。
AAのイベントが開かれる時は、油揚げを甘く煮て、お稲荷さんをたくさん作って会場に持って行く。
みんなが美味しい、美味しいと言いながら食べるのを見ていると、胸の中が温かくなった。
安心していられる場所、それがここだ。
しかし、物事はそうすんなりうまく行かない。
アルコールを止めてからパチンコ通いが始まった。
二十歳のころからずっとパチンコに慣れ親しんでいるので、店に入るとホッとする。
AA も毎日あるわけではないので、暇なときはパチンコ屋に足が向いてしまう。
もらったばかりの生活保護費を機械に滑り込ませ、右手でハンドルを握る。
チューリップがパカパカと開き、球が入ると音と光が鳴りたくさんの球が吐き出される。
しばらくすると、目の前のスロットが回りだし、同じ絵柄が三つ揃い、激しいファンファーレが鳴り店員がやってきた。
どうやら大当たりしたらしく、足元にはドル箱がどんどん積みあがっていく。
換金所に行くと、十万円近くの現金を手渡された。
「今日はついているぜ」
ホクホクしながら、金を財布に仕舞った。
朝起きると、喫茶店のモーニングに行き、コンビニで買ってきたパチンコ雑誌を読みながらコーヒーを啜る。
最新機種の説明をざっと眺めてからパチンコ屋へ颯爽と向かう。
一番端っこの台は通りに面しているせいか、よく球が出る。
三十分打っても球が出ないときは店をぐるりと一周し、客を観察する。
やせこけた若い男性がさっきからずっと打っているのに球が出ず、しびれを切らして舌打ちをして席を立つ。
俺は台を眺めてリーチが入っているのを確認して席に座る。
しばらくすると、大当たりが入って、ジャラジャラと威勢のいい音と共に球が後から後から沸いてくる。
ドル箱を積み上げて店のカウンターに行き特殊景品と交換する。
パチンコは表向き遊技場として経営しており、店で直接現金に変えてくれないので、一度、景品に交換してから店の外に出て景品交換所で換金してもらうのだ。
端数の球をカップラーメンとお菓子に交換して、小さな赤札を 7 枚受け取り、店の裏にある景品交換所に行き現金を受け取る。
「ちゃんと稼げてるんだから、俺はパチプロってやつじゃないか」
軽い足取りで店を後にした。
博打というのは当たり続けるものではない。
時には大損し、地団太を踏むほど悔しい時もあるが、次の日には頑張って負けを取り返した。
パチンコの腕は上達していき、毎月黒字が続いた。
ある日、生活保護課から電話がかかってきた。
「ちょっと確認したいことがあるから、これから役所に来てくれる?」
唐突にそう言われたが、生活保護を受けている自分が断れるはずもなく、市役所へ行くと、担当のケースワーカーに個室へ通された。
「これさ、あんただよね?」
A4 の紙にプリントアウトされた写真には、パチンコ台の前に座っている自分の姿と積み上げられたドル箱が写っていた。
思わず冷や汗がどっと出た。
「パチンコ屋の店員から苦情がきてるんだわ。自分の立場を分かってるよね? 生活保護費っていうのは、国民の血税で払ってんの。パチンコで遊ぶために払ってるんじゃないの。こんなことする暇があったら、ハローワークに行くべきじゃないの?」
写真は一枚だけでなく、複数枚あり、ケースワーカーはそれらをひらひらとさせながら呆れたように言う。
「で、いくら儲かったの?」
声を低くして、ケースワーカーが凄む。
恐ろしくてテーブルを無言で見つめていたら、ケースワーカーが拳を机にドカッと叩きつけた。
「いくら儲かったかって聞いてるんだよ!」
怒鳴りつけられて、体が思わず硬直した。
「その時は五万円くらいです……」
蚊の鳴くような声でたどたどしく答えた。
「その他は?」
記憶を辿り、儲けた金額を伝えると、ケースワーカーはイライラしながら口を開いた。
「そのお金、返せる?」
「生活費として使ってしまったので、今すぐには無理です」
ケースワーカーは苦虫を噛みしめたような顔をして考え込んだ。
一つ大きなため息をついて、こう切り出した。
「じゃあさ、儲けたお金は生活保護費から差し引いて返していこうか。パチンコで稼いだお金は収入として扱うから。生活保護で収入を得た場合は、役所に申告して収入認定してもらうのがルールなの。生活保護費よりも多い収入を得たら、国に返さないといけない決まりだから」
俺は何も言えず、ただ頷いた。そして、毎月五千円を生活保護費から返すことになった。
クソ! パチ屋の店員、俺のことをチクりやがって。
俺が儲けているから目の敵にしてやがったんだ。
むしゃくしゃして歓楽街に向かうと、適当な店に入り、浴びるように飲んだ。
久しぶりに飲んだ酒は腹にガツンときて、体中がカーっと熱くなった。
そのあとのことは記憶がなく、目が覚めたらアパートにいた。
財布の中はすっからかんで、ズボンの膝小僧が破けていた。
次の週、AAに行き、パチンコをやっているのが生活保護のワーカーにばれたこと、それで頭にきてスリップしたことを話した。
通院している精神科でも同じことを話したら、ギャンブル依存症の話をされた。
そして、GA(ギャンブラーズ・アノニマス)への参加を勧められた。
アルコール依存症とギャンブル依存症、二つの依存症を患う俺は、アルコールが止まったかと思うとギャンブルが始まり、ギャンブルが止まればアルコールが始まった。
アルコールとギャンブルを行ったり来たりして、あまりにも疲弊した時は、精神科病院に入院して休んだ。
そうやって暮らしているうちに俺も歳を取った。
七十一歳の時、生活保護のケースワーカーが施設入所の話をしてきた。
「今まで一人暮らしを頑張ってきたけれど、少し、施設に入って休むのはどうですか? 救護施設と言って、生活保護を利用している人が入れる施設があるんです」
俺は病気に振り回されて、生活をうまく回すことができず、アパートの家賃を半年間滞納していた。
自分の力ではどうにもならないということを認めることも人生では大事だ。
「今度、見学に行きます」
その後、東京のはずれにある救護施設での暮らしを始めた。
救護施設に来て三年がたつ。
俺はまるで人が変わったようになった。
お金の管理のため、もらったレシートを保存し、出納帳をつけるようになった。
溜まったお金で自分専用の大きいテレビを買って、プロ野球や卓球の国際試合を観戦して楽しんでいる。
施設内で取っている新聞が溜まったら、まとめて紐で縛り、資源ごみの日に出す。
近所のゴミ拾いも始めた。
誰かに言われてやっている訳でなく、自分の意志でやっていて、それが生きがいになっている。
思えば、子供の頃から苦労してきた俺は、全てにおいて頑張りすぎていた。
頼まれたら断れない性格で、嫌なことでもつい請け負ってしまう俺のことを、都合のいいように使うやつもいた。
自分でも半分くらい、もうダメだと思いながら与えられた仕事を一生懸命やってしまう。
その結果、酒やギャンブルに逃げることで自分を保ってきた。
でも、そのやり方じゃ上手くいかなくて、体を壊し、お金が無くなって無銭飲食をしてしまう。
刑務所だって行きたくないが、何回も出たり入ったりを繰り返しているうちに、だんだんどうでもよくなってしまった。
どこに行ってもうまくいかないし、やってもいないことを俺のせいにされて悪者にされる。
俺は自分の人生を完全に諦めていた。
それが今じゃ、酒もタバコもギャンブルもやめた。
悪い事はいっぱいやってきたし、弁護士の先生に「あんたは病気だよ」と言われたこともある。
正直、酒とギャンブルに依存していた頃の苦しみはもう味わいたくない。
空の上の方で神様が俺のことを見ていて、もうそろそろやめていい、楽になれって、やめさせてくれたのかも知れない。
最近、救護施設の支援者からアパートでの一人暮らしを提案された。
再挑戦してみたい。
昨年、お金を貯めて五段ギアの自転車を買った。
天気のいい日は一時間くらいサイクリングをしている。
新しい自転車は快適で、子供の頃に三角乗りしていた自転車とは段違いだ。
ギアを上げるとペダルが軽くなり、漕いでも全く疲れない。
嬉しくなってもう一段ギアを上げる。
軽くなるペダルを感じながら、颯爽と道路を走っていると、年老いた自分の体から痛みが消え、肉体が若返ったような感覚に陥る。
新緑が眩しい街中を新品の自転車で走り抜ける俺は、一瞬だけ十代の少年になった。
アル中の母、卓球で国体に行った父、きょうだい達、育ててくれたおじさん、おばさん、ユリ姉さん。
刑務所で俺の酢豚を褒めてくれた看守、自助グループの仲間たち。
様々な人の面影と思い出が胸に去来した。
俺の人生は人に誇れるようなものではないかもしれない。
けれど、蔑まれるものでもない。
それは俺が一番良く知っている。
太陽の光を体に浴びながら、不思議と確信していた。
俺の人生には確かに意味があった、と。
参考文献
父は子供の面倒見がよく、休日になると私と妹の正子を車に乗せて、いろんなところへ連れて行ってくれた。
先週は豊島園、今週は船橋ヘルスセンター。
ここは、大規模な温泉施設のほかにプールや遊園地があり、海水をろ過したゴールデンビーチという巨大プールがある。
父はビニールシートの上で荷物の番をしながらプールで泳ぐ私たちを見守っている。
はしゃぎ疲れて正子と一緒に父のところまで戻ると、
「里子、正子、ソフトクリーム食べるか?」
と、笑顔で聞いてきた。
父が指さした先には子供の大きさくらいあるソフトクリームのオブジェがあった。
『食べる!』
私と正子はほぼ同時に声を上げた。
父は会計の列に並び、順番が来るとショルダーバッグから二つ折りの財布を出し、小銭を店員さんに渡す。
ソフトクリームを二つ受け取ると、小走りで私たちのところまで戻ってくる。
父が差し出したソフトクリームに大きな口を開けてかぶりつく。
「美味しいね、おねえちゃん」
正子がニコニコしながら話しかける。
「うん!」
つられて私も笑顔になった。
小学校ではクラスメイトの康子ちゃんと仲良くなった。
学校では金魚のフンみたいに年中くっついてはしゃいだ。
「稲妻落とし!」
「回転レシーブ!」
当時『サインはV』や『アタックNo.1』の影響でバレーボールが大流行していた。
私たちも御多分に漏れず作品に登場する決め台詞を言いながら、おもちゃのビニールボールを打ち合うのが日課だった。
真似するのに飽きた頃、学校でバレーボールクラブの張り紙を見つけ、私たちは早速入部した。
真っ白なボールを投げたり打ち返したりしていると、人気作品の主人公になれたみたいで楽しかった。
中学校に入学し、部活はバレー部に入った。授業が終わると体育館に行き、夢中になって白球を追いかける。
クタクタになって帰ると、母が「疲れて食事の支度ができないから、里子がやってくれない?」と言うので、仕方なく台所に立った。
慣れない手つきで包丁を握り、ネギを切っていると、玄関のドアが開いた。
「ただいまー」
父が仕事を終えて帰ってきた。
そして、料理を作っている私の姿を見て母に怒鳴った。
「お前! なんで里子に食事の支度させてんだ! この子はまだ子供だぞ!」
仕事道具を半ば投げるように床に置き、ドスドスと母に近づく姿を見て、私は恐ろしくなり、
「違うよ! 私が料理したいって言ったの!」
と、父を止めた。
祖母と祖父が不安そうな顔をしてこちらを眺めているのに気が付くと、父はどっかと腰を床に下ろして押し黙った。
父は子供の事を一番に考えていた。
中学を卒業して、高校生になった。
勉強が一気に難しくなり、授業についていけない。
出された宿題を、ほぼ空欄のまま提出したら教師にえらく叱られた。
勉強は嫌いだったが、バレーは好きなので、高校でも続けた。
帰宅してから頭を悩ませるのが大量の宿題だった。
教科書を見ると吐き気がするし、数字や記号の羅列が何を意味しているか理解できない。暗記も苦手なため点数が取れる科目がほとんどない。
教師に叱られ、クラスメイトに馬鹿にされ、親に怒られるうちに、私はどんどん自分に自信がなくなってきた。
憂鬱になることが多くなり、朝起きてすぐに考えるのは『学校に行きたくない』ということだった。
重たい体を引きずって学校へ向かうが、心が悲鳴を上げていた。
部活の帰り道、康子ちゃんに思い切って相談した。
「私、学校辞めようと思う。勉強についていけなくて、毎日しんどい。宿題ができなくて、先生に怒られるのも疲れた」
「そんなの嫌だよ! 私、里子ちゃんと一緒に高校卒業したい! 頑張って三年間通おうよ! 宿題なら私が毎日手伝うよ。里子ちゃんがいない学校なんて楽しくないもん!」
康子ちゃんのまっすぐな瞳に見つめられると何も言えなくなって、もう少し頑張ることにした。
学校が終わってから私の家で一緒に宿題をする。
康子ちゃんは根気強く教えてくれるが、毎日、宿題を手伝ってもらうのは、迷惑をかけている気がして最終的に断ってしまった。
かといって自分一人では手も足も出ない。
頭の中には『高校退学』の四文字しか浮かばなくなった。
家で学校を辞めたいとこぼしたら、父が私を平手打ちした。
パアンという音が静かな住宅街にこだまする。
「せっかく高校に入ったのに辞めるとはなんだ! 高校辞めて、どうするっていうんだ!」
顔を赤く上気させた父が私を見下ろしながら怒鳴る。
「働きに出ようと思ってる」
私はうつむきながらそう答えた。
「働くのだったら、高校を出てからでも遅くはないだろう! 中卒じゃロクな仕事がないぞ!」
「それくらい分かってるよ。ただ、今の私には何の希望もないの。お願いだから好きにさせて!」
最後の言葉は悲鳴に近かった。
父と祖母は反対を続けていたが、自分で退学届けを書き、担任に持って行った。
担任も父と同じく「なんで辞めるんだ!」と、怒鳴ったが何も言えなかった。
私は高校を一年で中退した。
高校を辞めてから、昼間はあてどなく街中をフラフラした。
ゲームセンターを覗いたり、公園でぼんやりして過ごした。
ある時、そんな私に声をかけてきた男がいた。
「ねえ、喫茶店でお茶しない?」
暇だったので、軽い気持ちで付き合った。
男は中肉中背で水色のシャツに洗いざらしのジーンズを履いていた。
名前は山田三郎と言って、年齢は三十歳、運送業をしていると教えてくれた。
十六歳の私からしたら随分年が離れているが、私のことを大人の女扱いしてくれて嬉しかった。
三郎と会う時間が増え、自然に恋仲になり、結婚を申し込まれて素直に受けた。
父親に紹介したところ、激しく反対されてしまい、駆け落ち同然で家を出た。
婚姻届けを出し、新しい生活をスタートさせたが、三郎は私に暴力を振るうようになった。
付き合っていた時は手を上げるどころか、怒鳴ったこともなかったので、信じられなかった。
ある日、心配した父が私たちの住むアパートを探して訪ねてきた。私はシャツをまくり上げて腹や背中にできた青あざを見せた。
「里子、まだ、あいつと暮らしたいか?」
「もうやだ。離婚したい。実家に帰りたい」
ふり絞るように自分の思いを伝えると、父はすぐに行動した。
「里子、外に出るぞ」
父と一緒に役所から離婚届をもらってきて、三郎に突き付けた。
「私は、もうあんたに一ミリも未練はない!」
最初は反発していた三郎も父に凄まれると諦めて離婚届にサインをした。
そのまま役所に行き、離婚届を提出した。
実家に戻ってから、張り詰めていた糸がプツリと切れて、なんにもやる気が起きず、ぼんやりと毎日を過ごしていた。
そんな私を心配して、康子ちゃんが訪ねてきた。
「私の友達が、里子ちゃんに紹介したい男の人がいるっていうんだけど、会ってみない?」
彼女の口からそんな話が飛び出した。
「康子ちゃんが言うなら、会ってみてもいいかな」
私がそう答えると、康子ちゃんは笑顔になった。
「会ったら、感想教えてね! その人、私たちと同じ高校の同学年だし、話が合うと思うよ」
笑顔で手を振る彼女の姿を見ていたら、胸に熱いものが込み上げてきた。
こんな私とずっと友達でいてくれて、気にかけてくれることが堪らなく嬉しかった。
日曜日、康子ちゃんの友達が紹介してくれた男性と喫茶店で会った。
「石井健太っていいます。よろしく。高校ではすれ違ったことあるから初めましてっていうのも変だけど」
柔和な顔立ちをしていて、優しそうな人だった。
高校を卒業した後、親の店を継いで金物屋をやっているらしい。
最初は緊張してお互い敬語だったが、高校時代の話になると打ち解けてきて、教師の話で盛り上がった。
「英語の田辺先生、いっつもジャージだったよな。サッカー部の顧問とはいえ、毎日ジャージっておかしいよな。英語の発音もなんか変だし」
健太さんが田辺先生の声真似までするので、私はケラケラと高い声を出して笑った。
「アハハハハ! あんまり笑わせないでよ。お腹痛くなっちゃった」
そんな私を見て、健太さんもつられて笑った。
私たちは、また会う約束をして別れた。
何回かデートを重ねてから、彼がやっているお店に遊びに行くようになった。
お客さんを相手に商品の説明をしている健太さんを見ると、ぐっと大人に感じる。
「ねえ、私にも少し仕事のやり方教えてよ」
客がいないときに、商品の出し方や、レジの打ち方を教えてもらう。
私たちは自然に結婚へと意識が向き始めた。
今回の結婚は私の両親も大賛成だった。
ウエディングドレスに身を包み、健太さんと教会で式を挙げた。
両家の親戚が押し寄せ、学生時代の友人も来てくれた。
私はとても幸せな花嫁だった。
結婚して数か月後に妊娠した。
健太さんの仕事を手伝いながら、掃除や洗濯、食事の支度をした。
近くに実家があるので、私の両親もちょくちょく顔を見に来てくれた。
次第にお腹が膨らみ始め、赤ん坊が腹の中からお腹を蹴った。
「あ、今、動いた!」
「あら、元気ね。男の子かしら」
母は目を細めて私の腹をさすった。
臨月を迎えて、産婦人科に入院した。
初産だったが、そんなに苦労せずにするりと赤ん坊は生まれた。
「立派な男の子ですよ~!」
ふぎゃあふぎゃあという泣き声が病室に響く。看護師が見せてくれた私の赤ちゃんは真っ赤でしわくちゃで、とても小さかった。
わが子に出会えたことにいたく感動し、これからの人生をこの子に捧げようと決意した。
私は二十歳で出産し、その次の年にもう一人子供を産んだ。
幼い二人の子供の面倒と、家事の両立で目が回りそうなくらい忙しかったが、実家の両親と祖父母が新居に来て、家事を手伝ってくれた。
愛する夫と二人のわが子との暮らしは幸せだった。
しかし、その幸せを壊しに来た男がいた。前夫の三郎である。
三郎の住まいは同じ町内なので、街のどこかですれ違ったのだろう。
子供を連れて歩く私の姿を見つけて、いい気分がしないのは、容易に想像がつく。
ある日、玄関のチャイムが鳴ったのでドアを開けると、そこに立っていたのは三郎だった。三郎は土足のまま家に上がり込む。
「元気そうだなぁ、里子。ああ、子供も生まれたのか」
子供たちが大声を上げて私にしがみつく。
「今更、何の用があってきたのよ!」
恐怖で震えながら、必死で声を上げた。
「前は俺と夫婦をやっていたのに、別の男と子供まで作りやがって」
そう言って、私にまとわりつく子供たちを引きはがす。
三郎は私の腕を力強く引っ張り、暴力を振るった。
恐怖で私の体は力が入らず、悲鳴を上げることもできない。
しばらくして、健太さんが異変に気が付いて母屋にやってきた。
健太さんが実家に電話をすると両親と祖父母が駆け付けた。
我が家の惨劇を知り、父は怒りでわなわなと震え、母と祖母は肩を落としてすすり泣き、祖父は力なくうなだれていた。
しかし、三郎は何度もやってきた。
父が必死に追い返すが、三郎の力の前には歯が立たない。
しかたなく、警察に電話するとすぐに家に来てくれたが「三郎さんを家に入れてはいけない」と、注意するだけだった。
その後、私は子供を四人出産した。
全て年子である。
そして、全て三郎の子供だった。
健太さんはその四人の子供を全て自分の籍に入れた。
それでも、三郎は幾度となく、我が家へ押し入り、私や子供に殴る蹴るの暴力を振るう。
警察がやっと三郎に直接話をしたが「里子さんには近づかないように」の注意のみ。
二十六歳で六人の子供の母親となった私は、実家の両親と祖父母と一緒に支え合いながら子育てをした。
三郎は憎いが、子供は可愛かった。
無邪気に笑い、小さな手をバタバタさせている姿を見て母と笑い合った。
「いい子供を育てていこうね」
母のその言葉を聞いて、熱い涙がとめどなく流れた。
ある夜、店のシャッターをこじ開ける音がした。
私は母屋で健太さんと寝ていた。
その様子を見た三郎が激怒した。
「てめえ、俺の女と寝やがって!」
三郎が手にした大きなバールを振り下ろすと、店のドアガラスが粉々に砕け散る。
「早く逃げないと!」
泊まりに来ていた祖母と両親が子供たちの手を引いて裏口から外に出る。
三郎は鬼の形相をして店を破壊し、私たち夫婦に向かって歩みを進める。
「急げ、逃げるぞ!」
健太さんが私の手を引っ張り、裏口に向かうと、父にこう言われた。
「お父さんの友達の家でかくまってもらおう。俺が先に運転するからついてきてくれ」
父の車と、健太さんの車は家族を全員乗せて、闇を切り裂くように暗い夜道を走り抜けた。
数時間して、見知らぬ街の住宅街に来た。
玄関のドアが開き、父の友人夫婦が出迎えてくれた。
「里子ちゃん、大変だったな。以前からお父さんに話は聞いているよ」
父の友人は心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んだ。
父が今回、急に訪ねてきた理由を話すと、父の友人は神妙な面持ちで頷いた。
「俺も、どうしたらいいか、方々に相談した。警察は民事不介入と言って全く頼りにならない。だけど、このままの暮らしを続けるのも危険だ。調べたのだが、救護施設と言って、困っていればどんな人でも受け入れてくれる施設があるそうだが、そこに入るのはどうだ?」
救護施設の存在をここで初めて知った。
「そこで、家族一緒に暮らせるのか?」
私は父の友人に聞いた。
「残念だが、施設への家族入所は認められていない。悲しいけど、子供たちは児童養護施設に預けるしかない。夫婦での入所も禁止されているから、里子ちゃんと健太さんも別々の施設で暮らすことになる」
家族が離れ離れになると聞かされて、目の前が真っ暗になった。
しかし、父は違った。
「家族が離れ離れになっても、施設に入れば、三郎もさすがに手出しはできないだろう。悔しいけど、それが一番いい気がする。健太さんはどう思う?」
父が健太さんの意見を聞く。
「一番心配なのは子供たちです。三郎は子供たちにも暴力を振るうから、それが可哀そうでなりません。それに、今はまだ平気だけれど、このままでは命も危ないと考えています」
健太さんは子供たちを一瞥して答えた。
「でも、離れ離れで暮らすのは嫌」
すがるように私が言うと、
「一生ってわけじゃない。落ち着いたらまたみんなで暮らせるよ」
健太さんが私の背中を撫でながら言う。
その言葉を信じて、私たち家族はしばらく離れて暮らすことにした。
私は救護施設、健太さんはグループホーム、子供たちはバラバラの児童養護施設に送られた。きょうだいの場合、同じ施設で暮らせないという規則があるそうだ。
施設での暮らしは平和だが、寂しかった。
家族同士での連絡は手紙と電話が主になった。
そうしているうちに、月日は過ぎ、いつのまにか二十年が経った。
一度、私たちの店と家があった場所を見てきたが、知らない病院と駐車場になっていた。
数年前に三郎は死んだが、私たちはたくさん歳を取り、家も仕事も失った。
あんなに心配してくれた両親は亡くなり、妹とは音信不通になったきり連絡が途絶えている。
子供たちは大人になり、それぞれの生活を始めていた。
子供のうち、二人はすでに結婚し、昨年、初孫が生まれた。
「お母さんに子供の名前を付けて欲しい」
そう娘に言われて、受話器越しに涙ぐんだ。
健太さんが暮らすグループホームと私がいる救護施設は日帰りできる距離なので、時々会っている。
来週の日曜日は久しぶりにデートをするので楽しみだ。
左手の薬指に光る指輪をさすりながら、これからのことを考える。
下の子供たちは、まだ結婚していないので、一緒に暮らせないだろうか。
施設への家族入所は認められていないと言うけれど、何とかならないだろうか。
ああ、でも、その前に、健太さんとのデートに何を着ていこう。
いっそ、新しい服を買おうか。
止まってしまった家族の時間は、やっと進み始めた。
私の父親は開業医で近所でも評判の小児科医だ。母は父の病院を手伝いながら私たち姉妹を育てた。
夏になると父は病院を休業して、家族を旅行に連れて行った。
北は北海道、南は沖縄まで。
クラスでも私のように色々なところへ旅行に行く人は珍しく、みんなに羨ましがられた。
「恵子ちゃんのお父さんってお医者さんなんだよね。いいなぁ」
クラスメイトからそう言われると、まるで自分の事のように誇らしかった。
学校が終わると急いで家に帰り玄関のドアを開ける。両親はまだ仕事中なので、家には誰もいない。
子供部屋にランドセルを置くと、昨日準備しておいた塾のバッグを肩にかける。
私と姉は小学校高学年から塾に通い始めた。
医者である父は年がら年中「もっと勉強しろ」と私たち姉妹に言う。
しかし、いくらいい点を取っても父は決して喜ばない。
「次は百点を取れ」
そう言って九十八点のテストを突っ返された。
悔しかったけど「きっと、次こそは百点を取ってやる」と、心の中で呟いた。
中学は地元で有名な中高一貫の私立校に入学した。
制服は一流デザイナーが手掛けたもので、制服目当てに入学を希望する人もいた。
学校帰りに駅前を歩いていると、通行人が振り返る。
羨望の視線を浴びながら肩で風を切って歩いた。
学校が終わるとすぐに学習塾へ向かい、授業を終えて帰る頃には、辺りは真っ暗。重いカバンを肩にかけて、家路につく。街灯が私を照らすと、長い影が道路にできる。
「いち、にい、さん、しい」
帰り道で、すれ違う電信柱の数を数えるのが、この当時の癖だった。
「ごお、ろく、しち、はち」
九個目の電信柱がゴールの合図だ。家の中にはすでに明かりが付いていて、夕食の匂いが鼻をくすぐる。
「ただいまー」
玄関のドアを開けると、父が母に嫌みを言っている真っ最中だった。
「おい、クリーニングに出しておけって言ったスーツ、まだ出してないのか? 今度の学会に着ていくって言っただろ?」
最初の頃は「病院の事務をしているのに、育児も家事も私に任せきりなのは不公平だ」と、言い返していた母も、今は何の反応もせず、無表情のまま台所に立って皿を洗う。
私の姿をとらえた母が、お帰りも言わずぶっきらぼうに、
「恵子、テーブルの上のおかず、自分でチンして」
と、言った。
私は言われた通り、電子レンジに鶏肉と大根の煮物が盛られた食器を入れてボタンを押す。
ターンテーブルの上で回るおかずを見ながら、
「お姉ちゃんは?」
と、尋ねた。
「さっき帰ってきたけど、自分の部屋で食べるって。もうすぐ試験だから集中したいんじゃない?」
と、母が答える。
「優子には俺の病院を継いでもらいたいからな。頑張ってもらわないとこっちが困る」
私は深くため息をつき母に視線を送るが、母は父の声が聞こえないふりをして食器を戸棚に仕舞っている。
この二人はなぜ、結婚生活を続けているのだろう。
横暴にふるまう父と下女のような母。
その子供である私たち姉妹も彼らに従属することでしか生きられない。
ここはまるで牢獄のようだ。
中高一貫の私立高というと、品行方正な生徒が多いイメージがあるが、ほかの学校と同じようにいじめがあった。
運動が苦手な私は体育の時間に行われたバレーボールでミスを繰り返したら「ノロマ」と呼ばれるようになり、次は「ドジ子」になり、様々なあだ名を経て最終的に「バイキン」になった。
私の隣の席になった人は私の机に自分の机を決してくっつけない。
何かの拍子で机がぶつかると「バイキンがうつる!」と、ギャーギャー騒ぎ出す。
休み時間になると、いじめっ子たちが机の周りに集まってくる。
「バイキンなのに、良く生きていられるよね」
「人間じゃないから生きるとか死ぬとかないんじゃない」
「あ! そっかー。ごめんね、バイキンちゃん」
私の周りでクラスメイトは爆笑した。
バイキンにだって心はあるし、嫌なことを言われたら傷つく。
下駄箱の上履きが無くなったり、教科書にいたずら書きをされたりするうちに、私は次第に学校を仮病で休むようになった。
完全な登校拒否ではなく、ちょこちょこ休んでいるだけなので、大きな問題にはならずにすんだ。
塾にも通い続け、テスト前は必死に勉強した。
真っ黒になる教科書とドリルの山。
それに比例して、私の精神状態はどんどん悪化していった。
中高一貫だったので、高校へは問題なく進学できた。
外からの生徒が増え、環境が変わったせいか、いじめはなくなった。
しかし、学校に対する苦手意識が拭えず、私は相変わらず仮病を使って休んだ。
「恵子、前から言っていた家庭教師の先生だけど、東大の学生さんだぞ。これで成績も上がるだろう」
いつもは不機嫌な父が嬉しそうに私に話しかける。
「そうなんだ。ありがとう」
嬉しくないのに、私はそう答えた。
「予備校の夏期コースの申し込み、お母さんに頼んでおいたぞ。いい大学に行かないと将来ロクな人間にならないからな。これからは国際化の時代だから英会話くらいできないと。行くなら英文学科だな」
父はまるで自分の事のように私の将来を勝手に決めて話し続ける。
その横で娘の私は父が願う人生のコースを完走できるか不安に苛まれていた。
なにしろ、学校を休み過ぎて先生から「このままでは進級できない」と、先日、釘を刺されてしまった。
留年だけは避けたいので、重い足を引きずって登校し、教室で小さくなって授業を受けた。
予備校のおかげで学力は上がったが、父が希望する大学へ進学するのは無理そうだ。
テストの点数と偏差値の数字を眺めて深くため息をつく。
父が学歴の低い人間を馬鹿にするとき、私はとても怖かった。
偏差値の低い人間には価値がないという、父の信念は、私の中にも深く刻み込まれていた。
「あー、痩せたーい」
クラスの女子たちは雑誌のモデルと自分を比べては悲痛な声を上げる。
「ねえ、見てみて、ダイエット特集だって」
「リンゴしか食べちゃダメなの? そんなの絶対無理!」
楽しそうにダイエットの話題をする女子たちは、美しくなることに夢中だった。
授業中にこっそり爪を磨いたり、色が付いたリップクリームを自慢し合ったりしている。
私は自分の体形をあまり気にしていなかったが、家で姉から「子ブタちゃん」と呼ばれてから体重が気になり始めた。
ある日、洋服屋さんでジーンズを試着した時、ウエストがきつくて入らなかったことにショックを受け、ダイエットを決意した。
「ウエストは絶対に六十センチ以下じゃなきゃダメ」
それから私はお昼ご飯をおにぎり一個で済ませ、晩御飯を抜き、家の周りをジョギングした。
すると、次の日に体重がストンと、一キロ減った。
頑張ってもうまくいかない勉強と違い、ダイエットは食べなければその分だけきちんと数字で表れることに喜びを感じた。
自分の人生はコントロールできないけれど、体重は自分の意志で操作できる。
私はあっという間にダイエットにのめり込んだ。
半年後、私の体重は三十五キロになっていた。
鏡の前に立ち、自分の体を眺める。
余分な肉が何一つなくあばら骨が浮き出ていて、美しかった。
そんな私と対照的に、家族は私の体を心配しだした。
「恵子、ご飯食べないと体に悪いわよ」
母が不安そうに言うので、少しなら大丈夫だろうと、パンをちぎって口に入れたが吐いてしまう。
「こんなに痩せているのに吐いてしまうなんて、何かの病気よ。お医者さんに診てもらいましょう」
母に連れられて内科へ行くと、
「こちらでは手に負えないので精神科で診てもらってください」
と、無下に断られた。
私は精神疾患なのだろうか。
ただ、ダイエットをしているだけなのに。
ある日、父は親戚の精神科医に私のことを相談した。
「多分、摂食障害だろう。この病気を侮ってはいけない。放っておけば命を落とすこともある恐ろしい病気だ」
その言葉を聞いて、父は急に焦り出し、精神科を受診するよう私を説得し始めた。
医学部に進学した姉も私の体を心配して「精神科医に診てもらった方がいい」と言うので、おとなしく受診することにした。
家から通える範囲にあるメンタルクリニックで診てもらうと、大量の抗うつ薬と睡眠薬を処方された。
毎食後十錠近くを飲むのは骨が折れたが、薬を飲み始めてから調子が良くなり、食欲も戻り、睡眠が取れるようになった。
心配していた体重も徐々に増え始めた。
メンタルクリニックへ二週間に一度通院し、服薬をしながら学校生活を送り、放課後は受験のため予備校へ行く。それ以外の時は自宅で家庭教師に勉強を教えてもらっていた。
私が摂食障害を経験した後も、父の学歴信仰は相変わらずで、姉もストレスを感じているようだった。
「実はさ、私も恵子とおんなじ薬飲んでるの」
ある日、ふと、姉が私に漏らした。
「え! 本当に? いつから?」
目をまん丸くして姉の顔を見た。
「一年くらい前から。夜になっても眠れなくて。眠剤と軽い抗うつ薬もらってる」
姉は目を伏せてそう告白した。
「そうなんだ……。全然知らなかった」
家族の中で、自分だけが苦しんでいると思っていたので、なんだか恥ずかしかった。
「お父さん、うちの病院を継いでくれってずっと言ってるでしょ。私が医者にならないと恵子に負担がかかりそうで。でも、医者になるって簡単なことじゃないからね。実習も多いし、試験も難しいし、卒業できても医師免許がすぐに取れるものでもない。仮に免許が取れても研修医は激務で薄給って聞くし」
姉が私のことを考えて勉強を頑張っていたとは夢にも思わなかった。
「お父さんのために無理して医者にならなくてもいいんじゃないかな」
私は姉に元気になってもらいたかった。
「そうだよね。でも、お父さんに子供の時から『将来は医者になるんだぞ』って言われて育ったから、自分が本当は何になりたいのか分からないんだよね」
姉の目は空をさまよっていた。
「その気持ち、なんとなく分かるよ」
子供部屋で私たち姉妹は、初めて会話らしい会話をした。
いつの頃からか、夕食を皆で囲むことはなくなった。
暗く重い生活の中で、家庭教師の先生と会話することが唯一の救いだった。
二人目の先生は学習院に通っている女性で、上品で優しかった。
あんまり素敵だから同じ大学に行こうか悩んだほどだ。
しかし、精神科に通院しながらの受験勉強では望むほどの成果は出せず、進路は都内の四年制大学の社会学部に決まった。
父は最後まで英文学科に行けとうるさかったが、学部は自分の意志で決めた。
春は好きだ。
抜けるような青い空と、暖かい風。道端の雑草ですら光輝いて見える。
私はスーツに身を包み、大学の入学式を無事に終えた。
史跡サークルに入り同年代の仲間たちと京都や奈良へ行った。
友達もたくさんできて、授業が終わった後、喫茶店で長いことおしゃべりして笑いあった。
いいなと思っていたサークルの先輩に告白されたときは夢のようだった。
初デートは緊張したけど楽しかったし、帰り道で先輩と手をつないで歩いていたら、胸が熱くなり体中の血が躍った。
しかし、先輩の就職活動が始まると会う時間が減り、関係は自然消滅した。
私は大学を無事に卒業し、就職先は商社の一般職に決まった。
お茶くみに資料作成、電話対応など、初めての仕事は分からないことばかり。
職場では上司が部下を叱責し、その場にいるのがいたたまれない。
残業も多く、ミスをすると上司にこっぴどく怒られたが、歯を食いしばって耐えた。
仕事を終えて家に帰ると、父が私に向かってこう言った。
「会社を辞めて、医学部に行く気はないか? 姉妹でうちの病院を継いでほしいんだ」
姉は一年浪人して医学部に入学していた。
それでは満足できず、妹の私にも医学部進学を夢見る父に怒りを感じた。
頑張っていい会社に就職したのに、私の仕事を少しも認めてくれない。
それどころか、まだ医学部に行けと言うなんて。私は医者になりたいなんて一度も言ったことがない。
私は父の夢を叶える人形じゃない。
しかし、父に嫌われたくなくて、本当の気持ちは胸に仕舞った。
精神の不調が続き、商社は一年で退職した。
失業手当をもらってブラブラすごしていたが、半年後に支給が切れたので、仕事を探した。
保険会社でアルバイト募集の求人票を見つけ、応募したら合格した。
仕事は一般事務だったので、それほど辛くはなかったが、職場の人間関係が上手くいかない。
過去のいじめや家庭環境のせいか、人の顔色ばかり伺い、嫌な仕事を頼まれても断ることができない。
さらに、気の利いた会話ができず、社内で完全に浮いていた。
給湯室に入ろうとしたとき、中から同僚の話し声が聞こえてきた。
「バイトで新しく入った子、なんか暗いよね。名前なんて言ったっけ?」
「高根恵子さんじゃない?」
「あー、そうそう。高根さんてさ、猫背でオドオドして、見てるとイライラしちゃうんだよね。服装も地味でさ、いっつも黒い服ばっか。ここは葬式会場じゃないっての!」
「あはは! マジウケる! 早紀ちゃん言いすぎだよ~」
早紀ちゃんと呼ばれた子は、髪の毛を茶色に染めて、爪はいつもピカピカで、白や薄いピンクの洋服に身を包み、近くを通ると香水のいい匂いがした。
私は早紀さんに対して特別な感情を抱いてないが、彼女からそんなふうに思われていたことがショックだった。
そして、脳裏に中学時代のいじめの記憶が蘇った。
「バイキン!」
「触ると菌が移るぞ!」
「こっちくんなよ!」
押し込めていたものが喉元まで溢れ、手で口を塞いでトイレに駆け込み、個室に鍵をかけ、便座に腰を下ろした。
「うっ、うっ、うっ……」
流れる涙をトイレットペーパーで拭うが、すぐにちぎれてしまう。
誰にも聞かれたくないので、声を押し殺して泣いた。
職場と実家を往復する生活が数年続いた。
「アルバイトじゃなくて、今の会社で正社員になったらどうだ」
と、父が言ってきた。
「そうだね、考えておく」
私は自分の気持ちとは正反対の答えを返した。
正社員になったら、居心地の悪い職場に一生いなければならないじゃないか。
いつでも辞められるバイトのままの方がいい。
一方、姉は医師免許を取り、その後、実家の病院を継いだ。
しかし、数年後、姉は勝手に医者を辞めて、一般企業に就職したと母が教えてくれた。
「え! そうなの? 頑張って医師免許を取ったのに、どうして?」
母は私から視線をそらし、そわそわとしている。
「そうね、本当に不思議よね。でも、お医者さんをやめた理由は、お姉ちゃんに聞かないでちょうだい。絶対よ」
都合が悪そうにしている母の姿を見ていると、それ以上追及できなくて、口をつぐんだ。
私は相変わらず保険会社のバイトを続けていた。
いつの間にか三十歳を過ぎ、大学時代の友人から結婚式の招待状が届くようになったが、体調不良を理由にして断った。
精神科でもらった薬を飲んでも、不安や悩みは消えなかった。
頭の中には過去の苦しかった思い出や、悔しかったことが何度も思い出されて、永遠にループし続ける。
ある朝、通勤電車に乗った時、急に心臓がバクバクして、呼吸が荒くなり、何度も息を吸う。
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
目の前が真っ暗になり、私はその場に倒れこんだ。
異常事態に気が付いた乗客が声を掛けてくれて、電車が止まった時にホームに下ろしてくれた。
駅員さんが私を抱きかかえ、休憩室に連れて行く。
結局、その日は仕事を休んでしまった。
メンタルクリニックの診察時に、電車内で倒れたことを伝えると、
「過呼吸発作ですね。きっと、パニック障害でしょう。閉鎖的な空間でたくさんの人と一緒にいる時になるんですよ。お薬、少し変えてみましょう。量も少し増やしましょう」
と、主治医に言われた。
会計を済ませ、薬局で大量の薬をもらい、帰途に着く。
しかし、通勤途中で度々、過呼吸発作に襲われた。
自分の体が会社を拒否しているのだと思い、三十代半ばで、親に内緒で退職した。
家にいると仕事を辞めたことが親にばれるので、急いで次の仕事を見つけた。
しかし、長続きせず、数か月で辞めてしまった。
その後、実家で寝てばかりいたら、父親に「暇ならうちの病院の仕事でも手伝え」と言われ、受付の仕事をしたが、次第に家族と衝突することが増えた。私はもう四十歳を過ぎていた。
仕事もあり、実家で暮らしている私は、世間から見たら幸せな方かもしれない。だが、精神疾患は全くよくならず、むしろ悪化していた。
ある日、ネットで区役所が行っている『こころの相談室』というお知らせを見つけて電話した。
「はい『こころの相談室』です。何かお困りですか?」
「何を話しても大丈夫でしょうか?」
「はい、秘密は守りますので、ご安心してお話しください」
その言葉を聞いて、私は堰を切ったように話し出した。
開業医の父から医学部進学を求められていたこと、中学でいじめに遭い、そのあと摂食障害になったこと、大学卒業後、就職した会社で嫌がらせに遭ったこと。
一時間以上、私の話を聞いた相談員が質問してきた。
「お話を伺うと、今現在もご家族と一緒に暮らしているということで間違いないですか?」
「はい。実家を出たことは一度もありません。今も家族と暮らしています」
「高根さん、よく聞いてください。高根さんは大学も出て、会社勤めも経験されて、とても立派な方です。でも、ご家族と一緒にいることが、高根さんにとって大きなストレスになっていると考えられます。ご家族と離れることが病気を良くする一歩になります。ご実家を出るお手伝いをさせていただいてもよろしいでしょうか?」
「家を出るんですか? この私が? そんなことできるんでしょうか?」
「私たちに任せていただければ可能です」
「本当に、出ることができるのなら、家を出たいです。お願いします」
それからはあっという間だった。
区役所の職員やソーシャルワーカー、様々な人が連携し、世帯分離が行われ、生活保護を受けることが決定し、救護施設に入所することになった。
その後、医者の勧めで精神科病院の閉鎖病棟に入院した。
最初は早く退院したいと思っていたが、数週間経つと仲の良い患者さんができ、皆んなとおしゃべりしているうちに徐々に心が癒されていった。
ある日、母と姉がお見舞いに来てくれた。母が買ってきてくれたシュークリームを面会室で食べながら、たわいもない話をした。
入院生活も四年目になり、閉鎖病棟から開放病棟へ移った。看護師さんに伝えれば、外にあるコンビニで買い物ができ、ずいぶん楽になった。病院内で行われている作業療法やセラピーに参加して、日々を過ごしていた。
ある日、母に電話したら、
「実はね……お父さんが二年前に亡くなったの。お葬式も納骨も済んでるわ」
と、告げられた。お父さんが死んだ? 私の知らない間に?
「どうしてもっと早く教えてくれなかったの!?」
感情が昂り、受話器に向かって大声を出した。
「恵子が入院したばかりだったので、具合が悪くなると思って知らせなかったの」
母はそう答えた。
父のことが嫌いだった時もあるが、もうこの世に存在せず、二度と会えないと分かると、足元の大地がガラガラと音を立てて崩れていくようだった。
私にとって父は強大な支配者であったが、優秀な医者であり、私の誇りだった。
そして、世界でたった一人の大切な私の父親だった。
父に認められる立派な娘になりたかった。
商社をやめた後、父に医学部受験を勧められて断ったことを後悔した。
電話口で泣きながら「退院したらお墓参りに行く」と言うと、母は嬉しそうだった。
父が亡くなった後、病院と実家は処分し、遺産は母と姉が相続したそうだ。私にも取り分があったが、もらうと収入になってしまい、生活保護が受けられなくなるので国に返したと保佐人の弁護士が教えてくれた。
母は現在老人ホームで暮らしており、姉は結婚せず一人暮らしをしている。父が作った家族はバラバラになったが、私たちは別に不幸じゃなかった。
精神病院を退院した後、また、救護施設で暮らしている。
ここでの生活も一年が過ぎ、職員さんから一人暮らしを勧められた。
人生で初めての一人暮らしは少し怖いけれど楽しみでもある。
父が敷いたレールでなく、自分で選ぶ人生は何が待ち受けているのだろう。
支援者の人と物件巡りをして、やっと気に入ったアパートが見つかった。
ショッピングモールやリサイクルショップへ行き、食器や家具を選ぶ。新しい家のカーテンの色は散々悩んで薄い水色にした。
自分が生まれる家は選べないけれど、大人になったら自分の家を好きなように作ることができる。
もちろん、家族もだ。
私は自分の人生を自分の足で歩き始めた。
私は親に1度も会ったことがない。
母はとある男性の子供として私を妊娠し、出産した次の日に、病院から出奔した。
産婦人科のスタッフがいろいろ手を尽くしたが母に連絡がつかず、母方の祖父母が引き取りに来て私は祖父母と一緒に暮らした。その時に由美子と名付けられた。しかし、その後、児童養護施設に預けられた。
数年後に祖父母がまたやってきて私を引き取った。
祖父母の家は、古い一戸建てで、防臭剤と埃が混じった匂いがした。
玄関で靴を脱ぎ、奥へ入ると、赤ちゃんがベビーベッドにいた。
「お前の妹で、里佳子だよ」
自分にきょうだいはいないと思っていたので、目を丸くした。
生まれて間もない里佳子は手を固く握りしめて口をもぐもぐさせている。
「育てられないから面倒をみてくれと、電話があってね。お前の時も同じだよ」
呆れた表情で祖母は答えた。
「お母さんはどこにいるの?」
私が尋ねると眉間にしわを寄せて答えた。
「知らないね。聞いても教えてくれない。連絡は向こうが一方的にしてくるだけ。本当に困った娘だよ」
祖父母は孫である私たちの食事を作り、お風呂に入れて、新しい洋服を着せてくれた。
しばらくして、幼稚園に通うことになった。水色のスモックを着て、黄色の帽子を被り、カバンを下げて登園する。お遊戯をして、みんなと一緒にお昼を食べた。次第に仲の良い子もできて、幼稚園に行くのが楽しみになった。
家に帰ると寝ている里佳子の顔を眺めた。ふにゃふにゃで頼りなく、甘い香りがする。
「私がお姉ちゃんだよ」
そっと話しかけると、里佳子が目を開けた。真っ黒な丸い目はどこを見ているのか分からない。
しばらくすると、ぐずりだしたので、おむつが濡れてないか確認したが違うらしい。
ミルクをまだ自分では作れないので、祖母を呼びに行く。哺乳瓶を咥えて喉を鳴らす里佳子は天使のようだった。
私は小学生になった。
幼稚園では友達がたくさんできたので、小学校でも大丈夫だと考えていたが、甘くなかった。
「由美子ちゃんて、色が白いね」
クラスメイトがまじまじと私を見る。
確かに私は他の子よりも色が白かった。それは、私の父親が白人とのハーフだということに由来している。しかし、それを言ったらいじめられるので黙っていた。
「真っ白でお化けみたい」
「ユーレイ! ユーレイ!」
クラスメイトがはやし立てる。私は下を向いてジッとしていた。
ユーレイと言われた私は、次の日からクラス全員に無視され、本当のユーレイになった。
暗い気持ちで、家に帰ると、祖母が知らない赤ちゃんを抱いている。
「その赤ちゃん、どうしたの?」
不思議に思って聞くと、祖母の口から驚きの言葉が飛び出した。
「お前の新しい妹だよ」
母は、またどこかで子供を産み、祖父母に押し付けたのだ。
中学生の頃には、妹が5人になっていた。祖母の話では父親は全て違うという。
その間、母が家に来たことは一度もない。もちろん、父親も誰も来ない。
私は長女として妹たちの面倒をみて、料理や掃除、幼稚園の送り迎えをした。
祖父母も手助けしてくれたが「長女が妹の面倒をみるのは当たり前」と言い、私たち姉妹のことは娘の後始末をしているといった感じだ。
妹たちの面倒を一手に引き受けている私も義務教育を受けている最中で、心の余裕がなく、しょっちゅう怒鳴っていた。
居間が騒がしいので、見に行くと、夏美が春奈のウサギのぬいぐるみを取り上げている。
ぎゃんぎゃん泣く妹の春奈はまだ4歳。
「ちゃーちゃん、なっちゃんが、あーちゃんのうさちゃんとった~」
春奈はまだ小さいので、言葉がしっかりしておらず、私のことをちゃーちゃんとよび、自分のことをあーちゃんと呼ぶ。
「夏美! 春奈に返しなさい!」
夏美は私の声が聞こえないふりをしている。
「夏美!」
夏美の手からウサギのぬいぐるみを取り上げる。
「やだ、やだ、返してよ、由美ママ~」
妹たちはいつの間にか私のことを「由美ママ」と呼ぶようになった。
実質的に世話をしているのは私なので、彼女たちからしたらママかもしれないが、私だってまだ子供だ。しかし、自分を子供だと思ったら、心の中の何かが壊れてしまうので、その考えを封印した。
中学三年になったが、高校へ進学するつもりは微塵もなかった。生活は祖父母の年金で賄っており、余裕がない。
学歴よりも資格が欲しい。手に職をつけて一生食べていけるようになりたい。もっと楽な生活をして、妹たちを高校に行かせてやりたい。できるなら、自分がやりたい仕事に就きたい。そうだ、私は動物が好きだからそれに関する仕事にしよう。
中学を卒業した後、公認トリマーの資格取得のために、一年間専門学校に通った。筆記と実技の試験を終えて、無事に資格を取得した。
私はペットショップに就職が決まり、トリマーとして働き始めた。
仕事は朝10時から始まる。店の掃除が終わると、予約していたお客さんがシーズーを抱えてやってきた。
「ご来店ありがとうございます。あら~、おとなしくていい子ですね」
やってきた子はまるで動くぬいぐるみのようだ。シーズーを施術台に乗せると、先輩のトリマーがお客さんにカタログを見せながらどんなカットにするかカウンセリングをしている。
その間に、私はシャンプーに取り掛かる。たいていの動物は水を嫌がるので、苦労する。それが終わるとカットが始まる。最後に足の爪を切りそろえ耳掃除をして、サービスで頭に小さなリボンをつける。全部終わるまで一時間以上かかるので結構な重労働だ。
「キレイになったね~」
毛を切りそろえられ、すっきりした飼い犬の様子を見て飼い主も満足そうだ。
午後にもう一件予約が入っている。飛び込みのお客さんが来るかもしれないから気が抜けない。
お昼休みに同僚が話しかけてきた。
「すごく色が白いわね~。何かの病気?」
またかとため息をつきながら冷静に答える。
「生まれつきです」
同僚は目をぱちくりさせて他の人と話を始めた。次第に肌の色が原因で周囲から避けられ、陰で悪口を言われた。
17時に退勤した後は、コンビニで夜10時まで働いた。それでも、5人の妹を育てるにはお金が全然足りない。家で求人誌を見ていると、高額の仕事が目に入った。
「フロアレディ 日給2万円から。お客様のお酒をお作りして、会話を楽しんでいただくお仕事です。お酒の作り方や接客についてなど、丁寧に教えます。お酒が苦手な方でも大丈夫! ノンアルコールカクテルもあります。未経験者大歓迎! Wワーク可能。18歳以上から」
トリマーの仕事はどんなに頑張ってもひと月10数万。コンビニのバイト代を合わせて20万いけばマシなほう。日給2万円につられて、私は履歴書を書き始めた。年齢の欄は少しごまかして、18歳ということにした。それを持って六本木のクラブに行った。私は、若干16歳で夜の世界に飛び込んだ。
無事に採用され、クラブを開ける前のミーティングに参加する。
お店のママが
「今日から働くミユさんです。初めてだからいろいろ教えてあげください」
と、紹介してくれた。
源氏名は由美子の「ユミ」を逆にしただけだ。
「ミユです。新人ですが、一生懸命働きますので、よろしくお願いいたします」
皆の視線が私に集中する。思わず身を固くすると、ママがお店の女の子に指示した。
「ナナさんは、ミユさんにドレスを貸してあげて。身長同じくらいだからいけるでしょ」
ナナさんと呼ばれた女性は二十代前半くらいに見える。黒のワンピースにベージュのジャケットを羽織り、髪の毛は明るく染めていた。
「はい、分かりました」
ママの方を見て、ナナ姉さんは返事をした。
ミーティングが終わり、控室でナナ姉さんにピンクベージュのロングドレスを渡される。着替えてドレッサーに座り、ポーチから化粧品を出してメイクを整える。
「もっと髪の毛、盛った方がいいよ。あと、うちの店、六本木でナンバーワンだから、それなりの接客を心がけてね。おさわり厳禁がルールだから何かあったらすぐに言って」
ナナ姉さんがコテを手にしてクルクルと私の髪を巻き、ブラシで髪を持ち上げてスプレーでボリュームを出す。鏡に映った自分が別人みたいで落ち着かない。
「次、店に来るときは髪の毛は茶色にしてきてね。これ、夜の女のジョーシキ」
ナナ姉さんはバチバチと音がしそうなつけまつげでウインクしてフロアに出た。私もあわてて彼女の後を追った。
昼間はペットショップのトリマーとして働き、夜は六本木のクラブで働く生活が始まった。稼ぎはぐっと上がり、家に入れるお金が増えたが、祖父母は「長女なんだから家に金を入れるのは当たり前」と言い、感謝の言葉ひとつくれない。
クラブでは同伴を取ることが大事だと知り、そのために地道な努力をした。まめに手紙を出し、菓子折りを持って会社営業に行き、店での接客時に次回同伴来店の予約を取った。
新人の私は先輩方のヘルプとして席に着き、グラスの水滴を拭き、お酒を作った。高級店であるこのクラブには社長や重役などのお偉いさんが多い。
おじさんたちの話を笑顔で聞き、タバコを出した時はサッとライターの火を差し出す。
この店では座るのに5万円払う。ワインは安くても1本10万円。高いものだと100万を超える。
「ここに来るお客さんは夢を買ってるの。私たちは最高のおもてなしをするのが役目」
クラブのママはそうやってホステスたちに話す。キレイに着飾った若い女の子と高いお酒。座り心地の良いソファとシャンデリア。これが男の夢なら、男とはなんて愚かな生き物だろう。だが、私はその男たちから払われる金をもらうためにここで働いている。給料はあっという間にトリマーで働く金額を超え、サラリーマンの月収を軽く越した。
17歳になり、相変わらず育児と仕事の忙しい日々を送っていた。そんな時、クラブの仕事に変化があった。うちの店でナンバーワンのナナ姉さんが結婚して引退するというのだ。彼女には店に入った当初から可愛がってもらったのでショックを受けた。
ミーティングでナナ姉さんのお別れ会を7日間やることが決定した。ナンバーワンの引退で店はざわついた。誰が、ナナ姉さんの係を取るのかでホステスたちは水面下で牽制し合っていた。
クラブのホステスには2種類あり、係と呼ばれるホステスとヘルプホステスがいる。係とはそのお客さんの担当という意味で、係1人とヘルプ数名でお客さんを接客することになっている。自分が係になっているお客さんがきたら、絶対にその人の席に着かないといけない。たくさん係をもっていれば、それだけ売り上げが上がる。うちのクラブでは1度係を指名したら変更できない永久指名制を取っているので、新しく係になるのはとても難しい。自分が係を持てるようになるのは、今回のようにホステスがやめた時がチャンスなのだ。
ホステスだけでやっている子はこの機を逃すまいと必死になっていたが、係になるとノルマがある。昼の仕事をやりながら、これ以上、働けるのかという不安があった。しゃべるのはいいが、大量の酒を飲まないといけないこの仕事は体に悪い。しかし、ナナ姉さんは「ミユにナンバーワンを譲る。一番同伴取ってるし。私のお客さんは全部ミユが担当して」と言った。この一言で、私は六本木のナンバーワンホステスになった。
昼間は地味な格好をして、ペットたちのトリミングをし、夜は六本木に行き、派手なドレスに着替える。自分の誕生日には、入口から店内まで大量の花で溢れかえる。
ナンバーワンホステスになってからの最高月給は800万円だ。さらに、お客さんは高価なアクセサリーやドレス、一流ブランドのバッグをプレゼントしてくれた。その中でも一番凄かったのは、ハリー・ウィンストンのダイヤモンドネックレスだった。大声を出してはしゃぎ、目の前で付けて見せ、お礼を述べた。後日、質屋に売ったら140万になった。札束をハンドバッグに突っ込むとタクシーに乗り込む。私はとにかく現金が欲しかった。ダイヤでお腹は膨れない。
久しぶりの休日、洗濯機を回していると末っ子の愛美がやってきてこう言った。
「たまには、どこかにお出かけしたい。クラスにディズニーランドへ行った子がいて、すっごく自慢してくるの。私も一度でいいから行ってみたい」
好きな服やオモチャを与えていたので、妹たちに不自由な思いはさせていないと思い込んでいたが、そうではなかった。確かに、今までどこにも遊びに連れて行ってやったことがない。
「じゃあ、今度の休みに皆でディズニーランド行こう」
それを聞きつけた他の姉妹が歓声を上げる。
「ディズニーランド! マジで!?」
「ミッキーマウスに会えるの!」
「何着ていこう~! 由美ママ、新しい服買って!」
毎日、働きづめで妹たちに怒鳴ることが多いせいか、家の中には張り詰めた空気が漂っていたが、この時ばかりは一気に緩んだ。
次の週、電車に乗って千葉の舞浜にあるディズニーランドへ行った。場内に入ると、大きなシンデレラ城が目に入った。
「すごーい!」
「大きいね~」
「超キレイ!」
妹たちはおとぎ話にでてくるお城に夢中だ。
シンデレラは意地悪な継母にいじめられていた。しかし、私たちには継母すらいない。
私たちの母親はいまだに一度も私たちに会いに来ない。末っ子の愛美を寄こした時の連絡が最後になっている。
「写真撮ろうよ、由美ママ」
里佳子の声でハッとしてカメラを出す。
「みんなで映りたいから誰かに撮ってもらおう。すみませ~ん」
近くにいるディズニーランドのキャストに声をかける。
私を中心にして妹たち五人がギュッと集まる。フレームに収まった私たちはみんなシンデレラのように美しかった。
ホステスの仕事は苦痛ではないが、楽しくなかった。
毎夜開けられるシャンパンやワイン、ガラスの大皿に乗ったフルーツ。若い女の子の嬌声と、おじさん達から吐き出されるタバコの煙。
こういったクラブは仕事の商談に使われることが多く、一流企業や政治家の名前が飛び出すが、私はそれを冷ややかな気持ちで聞いていた。私はこの場ではただの飾り物でしかないということを十分理解していたし、自分に価値があるのは若い時だけだと知っていた。
幼い時にオバケだと揶揄された白い肌は客に「色白でキレイだ」と褒められたが心は冷え切ったままだった。
私は二十歳になり、妹たちも大きくなって、服装や髪形が派手になってきた。
注意したら次女の里佳子が
「ホステスに言われたくねーわ」
と、生意気な口を叩くので、思わず手が出た。
「その金で高校まで行ったのは、どこの誰だ!」
里佳子は何にも言わず、ぷいっと外に出た。何度か小さな家出を繰り返しているうちに、里佳子は本当に家を出た。どうやら恋人と暮らし始めたらしい。
里佳子の家出を皮切りに、妹たちが次々に家を出た。私の躾が厳しすぎて家に居たくないというのが主な理由だった。
私も過去に男がいたが、長続きしなかった。どの男も話が面白くないし、そもそも育児があるので、男に使う時間がない。
私が30歳になった時に、妹たちは一人もいなくなった。私は悲しくなかった。長い子育てがやっと終わったのだ。
夜の仕事で覚えたタバコに火をつける。深く肺まで吸い込み、ゆっくりと煙を吐き出す。空を見上げるとチカチカと星が瞬いていた。静かになった家にいると、嬉しいのか悲しいのか分からない気持ちが込み上げてきた。新しいタバコに火をつける。私は少しだけ泣いた。
お金の必要がなくなったので、夜の仕事をやめて、トリマーの仕事一つに絞った。
毎日、犬たちに触れあっていると、自分の心の奥にある硬いものが溶けていくのを感じる。この仕事は天職だと思う。
ある日、同居している祖父が交通事故に遭った。緊急搬送されたが、あえなくそのまま亡くなった。葬儀の時に、妹たちは夫と子供を連れて参列した。さすがに母に連絡したほうがいいだろうと、祖母に電話番号を聞いたが、会いたい気持ちが沸いてこず、結局なにもしなかった。
祖父の葬儀からしばらくして祖母が認知症になり、あっという間に重症化した。勝手に家を抜け出すし、自分の名前も分からない有様で、ほとほと困り果てた。
市役所に相談すると、老人ホームを紹介され、祖母を預けることになった。しかし、数年後、そのまま他界した。
広くなった生家で祖母の遺品の片づけをしている時、急なめまいに襲われた。立とうとしても足に力が入らない。目の焦点が合わず、視界がぶれて見える。その場に横になり、症状が治まるのを待った。
翌日、出勤するも、足に力が入らないので、犬の体を抑えることができない。仕事にならないので、休みを取り近くの病院で検査をしたが、原因不明だと言われ、大学病院の紹介状をもらった。
採血やエックス線検査など、さまざまな検査をしたが、ここでも原因不明と言われてしまう。この頃には歩くのに杖が必要になっていた。低血圧も酷く、疲労と気分の落ち込みが激しい。
別の大学病院で検査をしても、やはり原因不明。有名な大学病院を何個も渡り歩いたが、どこに行ってもはっきりとした病名がもらえない。
2年ほど病院を転々としたのち、精神的なものではないかと言われ、精神科で躁うつ病の診断をもらい服薬を開始したが、他の症状は治まらない。結局、トリマーの仕事を辞め、精神科病院に入院することになった。入院生活は3年にも及んだ。さすがに私の貯金も底をつき、入院生活が続けられなくなり、生活保護を受けて救護施設に入所することになった。
この救護施設に来て7年経った。病気は良くならないが、生活はまあまあだ。お金はあまりないが、節約すればなんとかなる。
職員は一人暮らしを勧めてくるが、原因不明の病気を抱えて地域で安心して暮らせる自信がない。
喫煙所に行き、小さなバッグからタバコを取り出して火をつける。
先日、人から「母親のことをどう思っているのか」と聞かれた。
私は「なんとも思っていない」と、答えた。
一度も会ったことがないのだから、プラスにもマイナスにもなりはしない。母が生きているのか死んでいるのかすら、気にならない。
それよりも困るのは、これを吸い終わったらタバコのストックがなくなってしまうことだ。足が悪く自分で買いに行けないので、ここでできた恋人にお使いを頼む。
「ちょっとタバコ買ってきてよ」
恋人に声をかける。
「おう、まかせとけ」
頼もしい笑顔で彼はコンビニに向かった。
僕の父親はアル中だった。
黄桜の一升瓶を片手にぐびぐびと喉を鳴らす。
酒が切れると、五千円札を寄こしてこう言った。
「それでつまみと酒を買ってこい」
父から投げつけられたお金を手にし、リュックに空になった酒瓶を背負い、商店街に向かう。お総菜屋さんに行き、父が好んで食べているジャンボシューマイを買った。
それだけでは満足してくれそうにないので、商店街をうろついていたら魚屋のおじさんが声をかけてきた。
「タカちゃんじゃないか。何を探してるんだい?」
僕はなるべく元気に答えた。
「お父さんのおつまみを買いに来たんだ」
そういうと、おじさんはケースからカニを取り出した。
「これなんか活きがいいぞ。こんな良いカニが二千円だぞ」
どうやって食べたらいいかわからないが、断ることができないので、勧められるままカニを買った。
酒屋に行き、空の瓶を返して、新しいお酒を買う。
角打ちで飲んでるおっちゃんたちが僕の姿を見て、
「なんだ、お父さんと一緒に飲むのか?」
と、からかった。
恥ずかしくて胸の中がカーっと熱くなる。重い一升瓶をリュックに詰めて、家に帰る。
僕はまだ五歳にも満たなかった。
僕は両親からまともな愛情を受けて育った記憶がない。
家族旅行に行ったことがなく、両親が学校行事に来てくれたこともない。
運動会の時はスーパーで買ったキュウリとかんぴょうと沢庵のお寿司を自分で買って持って行く。
家族がだれも来ないので、校長先生と一緒にお弁当を食べる。
思えば、自分には食べ物を美味しいと思った記憶がない。
家族で食べる夕飯は両親が酔っているので、不快で仕方なく、早くこの時間が過ぎてくれることを祈っていた。
週末になると、母方の伯父が二人やってきて、夜通し賭け麻雀をやる。
僕と二歳年下の弟は三畳の子供部屋で小さくなっていた。
玄関のチャイムが鳴り、ドアを開けると配達のお兄さんが岡持ちからラーメンやチャーハンを出しては置いていく。
「代金、今持ってきます」
僕は両親たちがいる居間のドアを開けた。タバコの煙と酒の匂いが混じった空気がむわっと押し寄せる。
「これで払っといて」
母が一万円札を差し出す。僕はそれを受け取ると、玄関に戻り、配達のお兄さんに渡す。
子供部屋に戻り、弟と一緒に夕ご飯を食べた。チャーハンを食べている弟の聡志が、
「お兄ちゃん、美味しいね」
と、言った。
「うん、そうだな」
僕はそう答えた。
家に帰りたくない僕は、中学に入ってから街にある剣道と柔道の道場に通い始めた。
今日は柔道、明日は剣道。スケジュールをびっしりと埋め、家にいる時間を減らした。それに、疲れてクタクタになると、家族のことをあまり考えないで済んだ。
剣道の道場には同じ中学の生徒がいる。
「明日の遠足楽しみだなー。さすがに明日は道場に来なくてもいいよな」
確かに、遠足の日くらい休むのが当たり前か。
「遠足、山登りだもんな。僕も休むよ」
同じ中学の生徒は他にもいて、口々に「俺も休む」と言っている。
「じゃあ、また明日な」
そう言って別れた。
遠足が終わり、家に帰ってくつろいでいると、親父が怒鳴った。
「おい! 高志! 今日は剣道の日だろ。早く行け!」
いつもは僕のことに無関心のくせに、今日はやたらに絡む。父からは酒の匂いがした。
「今日は遠足に行って、疲れたから休むことにしたんだ」
と、答える。
「遠足くらいでなんだ! 遊びに行ってきただけじゃないか! 金を出してるんだからしっかり練習しろ!」
そう言うと父は、僕の剣道道具を持ってきて床に投げつける。
「それを持って早く行け!」
父の目は充血し、頭から火が出そうな勢いだ。しかし、行きたくないので、まごついていると、父が壁をダンダン叩く。
「行けと言っているのが聞こえないのか!」
このままでは殴られるかもしれないと怖くなり、仕方なく道場に向かった。
高校に進学して、剣道と柔道の部活に入り、道場にも通い続けた。しかし、中学から続けているため、軽くやっても先輩に勝ってしまうので、目をつけられた。
柔道部では締め落としの練習台にされ、剣道部では脛を叩かれる。
五時に部活が終わると、道場で稽古に励んだ。剣道も柔道も好きでやっていたわけではなく、家から逃げる口実だった。
高校三年になって、僕はとうとう家を出る決心をした。
アルバイトニュースの雑誌に載っていた競走馬を育てる厩務員という仕事に就こうと決めた。
勤務地は北海道の日高。騎手の養成も行っていて、馬にも乗れるという。
なにより住み込みというのが魅力的だ。
さっそく電話をかけると、後日、向こうから手紙が来た。無事、採用され、僕は単身北海道へ飛んだ。
北海道は東京のように細々とした建物はなく、少し行くとだだっ広い土地が広がっていた。勤務地の日高地方は緑が多く、牧場がたくさんあった。
朝は三時に起きて、馬の体温を測り、小屋の掃除をする。そのあとは馬に鞍をつけ、引き綱をつけたまま歩かせる曳き運動というトレーニングを行う。
その後は馬をブラッシングし、シャワーを浴びせ、餌をやる。それが終わったらようやく自分たちも食事にありつける。夕方になると放牧していた馬たちを厩舎に集め、餌やりをする。
仕事を終え、アパートに帰り、風呂から上がるとジンギスカン鍋が用意されていた。
僕以外には三人の厩務員がいた。ビールを飲みながら話に花を咲かせる。
やっと、家族という絆から開放された気がした。
「タカちゃんの職場に正雄おじさんが遊びに行くって。奥さんの実家が北海道で里帰りのついでだからだそうよ」
母から来た電話はギョッとする内容だった。
正雄おじさんは母方の伯父で、実家で週末に行われていた賭け麻雀の仲間だ。もう二度と会いたくない。
「来なくていいって言っといて。忙しいから会う時間ないし」
母にそう伝えたのに、正雄おじさんはやってきた。
家族から、親族から逃げるために北海道に来たのに、これじゃあ意味がない。それと同時期に、同僚がホームシックになり、ものが食べられなくなりやせ衰え、実家に帰ってしまった。
そのため、一気に仕事量が増え、業務が遅くなると、上司から嫌みを言われるようになった。
僕は職場に嫌気がさし、厩務員をやめて、ミンクを養殖している工場に転職した。
毛皮になるミンクたちに餌をやるだけの仕事に疲れ、1年後、東京に帰った。
東京の実家に帰ったが、両親はいい顔をしなかった。
「ちょっとだけならいいが、早く仕事を見つけろよ。実家に居るなら家賃と光熱費は入れるんだぞ」
父親の言葉に苛立ちを覚える。
「分かってるよ」
弟の聡志は高校三年生になっていた。思えば、僕がいない間、聡志は一人きりでこの家で暮らしてきたのだ。
「兄ちゃん、僕も高校出たら就職するよ」
僕たち兄弟にとって実家は居心地のいい我が家ではなく、生活能力がないために仕方なくいる場所だった。
コンビニで買った求人雑誌を見て、飲食関係に興味を持った。
板前になって手に職を付ければ安定した稼ぎが得られる。
僕は料亭で板前の修業を始めた。
板前の修業は「追い回し」から始まる。「追い回し」というのは「追い回されているほど忙しい」という意味から来ており、掃除や洗い物などの雑用全般を行う。
少し慣れてくると野菜を切らせてもらえるようになり、皿の準備も任せてもらえた。必死に働いているうちに、お客様に出す料理をさわらせてもらえる「八丁場」に昇格した。
店にも馴染み、季節ごとに変わるメニューが頭に入ったころ、料亭の中居をしている香奈という女性と恋仲になった。交際を経たのち、籍を入れ、一年後には、可愛い女の子が生まれた。
家族が嫌で北海道まで逃げたのに、自分が家族を作るとは思いもよらなかった。
朝から晩まで仕事に明け暮れ、一杯ひっかけてから帰宅する。
家に帰ると寝ている娘の顔を覗き込む。ふにゃふにゃとして触ると壊れてしまいそうだ。
台所では香奈が洗い物をしている。先月妊娠が分かり、今はお腹に二人目の子供がいる。
ずっと追い求めていた居場所を僕はようやく手に入れたのだ。
ある夜、いつものように料亭での仕事を終えた後、酒を飲みに行った。
タクシーで帰ろうかと思ったが、金がもったいないので、香奈に迎えに来てくれと電話した。しかし、香奈はなかなかやってこない。
その時、携帯電話が鳴った。知らない番号だ。
「塚田高志さんの携帯でよろしかったでしょうか」
聞き覚えのない男性の声だった。
「はい、塚田高志は自分ですが」
いぶかしがりつつ答えた。
「こちら、救急隊員の者ですが、塚田香奈さんの夫で間違いないでしょうか?」
香奈の名前が出てきたことに驚いた。
「香奈に何かあったんですか?」
酔いが急に醒めた。
「香奈さんは先程亡くなりました。一緒に車に乗っていたお子さんも死亡しました。即死です。乗っていたワゴン車が右折する時に、ダンプカーが突っ込んでそのまま……」
驚きのあまり声が出なかった。心臓が大きな音を立てる。
「即死、即死って。お腹にいた子供は二ケ月後に生まれる予定なんですよ!」
ああ、頭がおかしくなりそうだ。何が起こっているんだ。
「お腹にいる赤ちゃんも同時に亡くなりました。何と言っていいか言葉が見つかりません」
救急隊員は信じがたい事実を述べた。
その後のことは、あまり良く覚えていない。
数日後、香奈と子供たちの葬儀が執り行われた。
義理の両親に申し訳なくて顔向けができない。僕が殺したようなものじゃないか。
両の手が赤く染まり、目の前が真っ暗になる。
押し寄せる罪悪感と愛する家族を一気に亡くした喪失感から逃げるために僕は酒を飲んだ。
喪が明ける四十九日まで一升瓶を何本も空けた。
食事は喉を通らず、お新香を時折かじった。
もう、東京にはいられない。遠いところに行きたい。
過去から逃げるように全国各地の飯場を転々とした。
飯場では誰も僕の過去を聞かないので、せいせいした。
仕事が終わるといつものように飲みに行く。
酔いが回ると全てのことがどうでもよくなった。
憎かった両親も、失った香奈や子供のことも意識の果てに追いやることができた。
ただ困ったことは酔っぱらうとすぐに手が出ることだった。
土工仲間が「お前は酔うとおかしくなる」と言ってその様子をビデオに撮って見せてくれた。
ろれつの回らない口調で、怒りながら仲間に手を挙げている僕はまるで自分の父親のようだった。
酔うと酷い醜態をさらすと分かりながら、僕は酒を辞められなかった。
四十歳になった時、飲んでも少しも酔わなくなっていることに気が付いた。
大量に飲むと体が怠くなり、次の日は動けなくなる。
仕事に行けない日が続き、行き詰まりを感じた僕はAA(アルコホーリクス・アノニマス)に通い始めた。
土工の仕事を休み、ミーティングと作業所へ行く。
以前より落ち着いた日々を送り、作業所が主催する旅行に参加した時、仲間の女性と話していたら、
「塚田、いい気になってんじゃねーよ」
と、彫り物が入った加藤という男から凄まれた。
加藤は僕のことが気に入らないらしく、作業所の草むしりをしていると、
「点数稼いでやがる」
と因縁をつけてきた。
噂では加藤はヤクザだと言われていた。
確かにシャツの袖から立派な入れ墨が覗いているので、堅気の仕事ではなさそうだ。
嫌がらせに長い間、耐えていたが、ある日、加藤が酒を飲んでAAの会場に乱入した。会場がざわめく。手にはナイフが握られていた。
「塚田! てめえを見てっと、イライラするんだよ!」
仁王のように憤怒の表情をたたえた加藤は僕の腕からわき腹にかけて、深く切り裂いた。
そのショックで、大量の血が体中の穴という穴から吹き出す。
人々の叫び声が遠くの方で聞こえる。
そのまま意識を失った。
その後、医療センターに入院し、なんとか一命をとりとめたが、刺された傷跡は消えなかった。
その後の調べで加藤は事件当日、缶チューハイを飲んだまま車を運転し、頭がカッカして僕を刺したという。さらに、本物のヤクザで前科二十六犯だと分かった。
加藤は刑事裁判にかけられ、僕は加藤を死刑にして欲しいと訴えた。
それは叶わなかったが、慰謝料として一千四百六十万が支払われた。予想外の臨時収入に心が躍った。
まず、母親に借りていた金を返し、二百六十万円分の宝くじを購入した。
その後はキャバクラでパーッと全て使った。
後日、宝くじの当選結果を確認したが、十万円しか当たっておらず、膝から力が抜けた。
怪我をしてから実家の世話になり、人材派遣会社に登録し土工や引っ越しの仕事をした。
仕事が終わると繁華街に飲みに行くことを繰り返していたら、倒れてしまい救急車で運ばれた。その後、精神病院に入院するが嫌になって二週間で脱走した。
酒を飲みたい気持ちが止められず、いざ飲むと人が変わったように怒鳴り散らす。しかし、酒が抜けると元の自分になって周囲に頭を下げる。
僕は精神病院に入退院を繰り返し、数年が経った。
「今、ここにいる分にはいいけど、退院してから生活がどうなるか不安だよ」
精神病棟の喫煙所で入院仲間に愚痴をこぼした。もう、五十代半ばを過ぎ、力仕事に限界を感じていた。
「タカちゃんは生活保護って知ってる?」
僕より長く入院している佐々木さんはタバコの煙を吐いた後、こう聞いた。
「生活保護? なにそれ?」
佐々木さんは少し真面目な顔で話し出した。
「生活に困った人が受けられる福祉制度だよ。毎月の生活費と家賃を国が出してくれるんだ。俺も実は受けてるんだ。そのおかげで今回の入院費もゼロ円」
佐々木さんは指で丸を作って見せた。
「ただ、受けるのはちょっと難しい。自分一人で福祉事務所に行っても門前払いがオチだね。専門家がついてくれると比較的すんなり受けられるよ。今度の診察の時、主治医に相談してみたらどうだ」
実家の母も随分歳を取った。
これ以上迷惑はかけられない。
生活保護を受けよう。
診察の時、主治医に生活保護のことを聞いてみたら、僕と同じ意見だった。
病院のソーシャルワーカーは僕が生活保護を受給できるように動いてくれた。そして、アルコールの問題がまだ解決していないのに一人暮らしをするのは危険だという理由から、救護施設を紹介してくれた。
救護施設に来てから生活は落ち着いている。
土工時代にお世話になった社長から、毎年、年賀状が来る。『また、一緒に働かないか』と書かれていて、どうしようか迷っている。
香奈の実家へ久しぶりに電話をした。
今の状況を伝えたら「生活保護を受けるくらいだったら、うちに来い! 面倒見てやる」と言ってくれた。
お義父さんの心遣いに涙がこぼれそうになった。
僕は今、自分の人生を振り返り、それを文章にしている。
ひとつ作品を書き上げて雑誌に応募したら佳作を取った。体は動かないけど、頭は動く。僕にはこの仕事の方が向いているのかもしれない。文章を仕事にできないだろうか。
子供時代から遠く離れて今がある。
人気のない救護施設の食堂の片隅で、僕はペンを握る。
僕がまだ幼稚園児だった時、お父さんのギターに合わせてハーモニカで『きらきら星』を演奏した記憶がある。あの頃は、お母さんも元気で、僕を遊園地に連れて行ってくれた。僕の人生の最初の記憶は優しくて柔らかい。
僕の父は仕事のストレスで年中怒鳴ったり、暴れたりしていた。そのせいだろうか、母は僕が5歳の時に精神疾患になった。
「1円も稼げないやつが家にいるとイライラする。お前の顔を見たくないから、とっとと出ていけ!」
母はその言葉通りに実家に帰った。そのせいで、僕は風呂にも入れず、歯も磨けない。
しばらくして母は家に帰ってきたが、酷く老け込んでしまった。覇気がなく、背中は曲がり、顔には深い皺ができていた。
夜になると、いつものように、父は母に暴言を浴びせ、コップを投げつける。
「お父さんは病気なのよ」
母は僕にそう言った。しかし、父ではなく、母の方が精神科病院に入院してしまった。
小学2年生の時、父が買ってくれたファミコンでスーパーマリオを夢中でプレイした。その他には、大流行した漫画『キャプテン翼』を読んで、自分もサッカーを始めたくなった。しかし、幼馴染がリトルリーグに入ったので、僕も野球を始めた。けれど、サッカーをどうしてもやりたくて、学校のサッカークラブに入った。野球ではヘマをしてばかりだったが、サッカーでは小さい体躯を生かし、ドリブルで敵の間をすり抜けた。
僕の家から少し離れたところに母方の叔母が住んでいた。母は退院した後、しばらく叔母の家で暮らしていたが、急性精神錯乱状態で再入院してしまう。その後、父が古い木造の一戸建てを購入し、小学6年生の夏休みに、その家に引っ越しをした。それと同時に退院した母もやってきて、再び家族3人で暮らし始めた。
入学した中学校は、雰囲気が悪かった。クラスでは年中誰かが誰かをいじめていた。原田君というクラスメイトは自慢話ばかりしていたせいで、いじめのターゲットにされてしまい、みんなから無視された。馬鹿にされたり、叩かれたりもしていた。僕はクラスに馴染むため、いじめに加わった。しかし、いじめはやっぱり良くないと思いなおして、ある夏の昼下がり、僕から原田君を遊びに誘った。駄菓子屋でパピコを買って2人で半分こして食べた。
しかし、その後、いじめの標的が僕になった。原因はアトピーで肌が汚いことだった。僕をいじめるのに飽きると、別の人がいじめられた。それが終わると違う人がいじめられる。クラスメイトは皆、次は自分がいじめられるんじゃないかとビクビクしていた。いじめはクラスのボスが指示していたが、最後はボスがいじめられた。
中学の部活はパソコン部に入った。それが終わると、家に帰ってゲームをしていた。体を動かすことがなくなり、体育の成績がぐっと落ちた。
そして、この時、夢中になっていたのがF1だった。時速300キロを超えるスピードで競う男たちに僕は魅了された。ノートにマシンの性能をイラスト付きで描き、関連書籍を買い漁った。しかし、僕の熱狂はアイルトン・セナがレース中に事故死することで、パタリと幕を閉じる。
夜、眠ろうとすると、瞼にニュースで見た事故の現場が浮かぶ。破損した車体。立ち上る煙。人々の叫び声。3時間程度しか眠ることができず、フラフラになりながら朝食を食べていると、父が僕を睨んだ。
「ゲームばっかりやってるから、寝不足なんじゃないのか」
「違うわよ、お父さん。受験勉強で頑張りすぎたのよ」
母が口をはさむ。
この頃、母はずいぶん元気になって、喫茶店でウェイトレスの仕事を始めていた。しかし、父が仕事の不満を母や僕にぶつけることは続いていた。
中3の夏休み、父が僕を怒鳴りつけた。
「今年受験なのに、成績が全く伸びないじゃないか!」
それは確かだが、眠れない日々が続いていて、勉強に身が入らないのだ。次第に父が暴れることが増え、食器が宙を舞い、机が蹴飛ばされ、母と僕への暴言が増えた。
家にいることが耐えられなくなり、母と一緒に母方の伯母さんの家に避難した。伯母さんは優しく僕たちを迎え入れ「夏休みなのに、遊園地にも連れていけなくてごめんね」と言ってアイスを買ってくれた。
伯母さんの家に移ってから、毎日8時間勉強した。そして、勉強が終わると、ゲームをやるために歩いて実家に行った。
「そろそろ帰ってきたらどうだ」
ゲームをしている僕の背中に向かって父が話しかける。僕は適当に返事をした。
2学期になったが、実家に帰ることはせず、伯母の家から学校に通った。学校には伯母の家に住んでいることを秘密にしていたので、クラスメイトは僕を遊びに誘うとき、実家に行ってしまった。父は「息子は外に遊びに行っている」と嘘をついていたそうだ。
勉強の甲斐あって二学期の中間テストはいい点が取れた。しかし、僕は燃え尽きてしまい、一睡もできなくなった。ストレスで髪の毛は抜け落ちて、歯もガタガタ。被害妄想が激しく、近所の高校生が金属バットを持って待ち構えていると本気で信じていた。
母は僕を心配して、自分が通院している病院に連れて行ってくれた。医者の診断は『精神分裂病』*1だった。まだ15歳なのに死の宣告を受けたような気分だった。
そのまま3か月入院した。冬に退院したが、受験はさすがに無理なので、来年に見送ることにした。
3月、校庭の桜の木が淡いピンク色に染まる頃、クラスメイト達は浮足立っていた。しかし、僕は憂鬱な気持ちで深いため息をついた。進路が決まっていないのは、この学校で僕だけ。中学校を卒業したが、1ミリも嬉しくなかった。
伯母の家に住んでいた僕と母は、父がいる実家に再び住み始めた。しばらくして、伯母さんも同居することになった。
2週間に1度、精神科に通院し、服薬を続けた。勉強をしなければと思うが、病気の陰性症状でやる気が全く出ない。家族と一緒に進学先を話し合い、夜間高校に行くことにした。テスト中に緊張しすぎて吐いてしまったが、無事に志望校に合格できた。
春から夜間高校に通い始めた。周りを見ると、みんな15、16歳ばかりで、年上の僕は浮いていた。中には46歳の人や27歳の人がいるが、そちらのほうが話しかけにくい。
友人が1人もできず、辛くなり、学校に行かなくなった。暇を持て余していると、中学時代の友人がメールをくれた。どうやら僕と同じで高校に行っていないらしい。「家に遊びに来いよ」と誘われて、友人の家へ向かう。そこは、不良のたまり場になっていて、みんなタバコを吸い、酒を飲んでいたが、僕はそういうことはしなかった。みんなと一緒にゲームだけした。だが、ある日、財布からお金が盗まれていることに気が付き、それ以来付き合うのを止めた。夜間高校は夏まで通ったが、冬に退学届けを出して辞めてしまった。
その後、通信制の高校に進学した。自宅でレポートを書き、スクーリングへ行くが、やる気が起きず、こちらも1年の夏の終わりに退学してしまう。
同年代のクラスメイトは大学受験の準備をしているのに、僕は高校すら卒業できていない。うつの状態が続き、死ぬことばかり考えた。どんなに強い眠剤を飲んでも眠ることができず、自殺しようとして大量の薬を飲んだ。倒れている僕を伯母さんが発見し、救急搬送され、胃洗浄を受けた。
この頃、父と母は年中喧嘩をしていて、父が出て行けというと、母は本当に家を出た。すると父は母に帰ってこいと言う。その繰り返し。母だけならまだしも、伯母にも「出ていけ」と父は言い、伯母は本当に出て行ってしまった。伯母とはそれきり連絡が取れない。そんな環境でありながら、進学を諦めきれない僕は浪人中の友人と一緒に英語の勉強を図書館でしていた。
ある日、母がバイトの求人情報誌を僕に渡してきた。
「ちょっと働いてみたらどう?」
この頃、母はずいぶんと元気になっており、ウェイトレス以外にもヘルパーの仕事もこなしていた。
「ねえ、ここなんかいいじゃない。時給も高いし」
母が指さしたのはヒルトンホテルが募集しているビラ配りのバイトだった。ホテルで開催されるショーのチラシを配るのが業務内容だ。面接を受けたら採用された。
仕事は学校よりも続けることができた。同僚の女の子がプレステをくれたので、給料でサッカーゲームを買った。冬になり、仕事はいつもより忙しくなったが、チラシを配り終えて無事に今日の業務を終了する。
ある日、仕事が休みだった僕は、家でサッカーゲームをしていた。母は買い物に行っており、父は外に出かけていた。僕がゲームに熱中していると、誰かが激しく窓ガラスを叩くのでびっくりして振り向いた。
「誰かいるのか!」
父の声だ。
「逃げろ! 火事だ!」
その声を聴いて、ゲームを放り出して、慌てて窓を開けて、外へ逃げた。
古い木造の家は燃えやすく、乾燥した空気がそれを加速させる。メラメラと火の手が上がり、僕らの家が炎に包まれる。父はがっくりとその場に座り込んだ。職場から戻ってきた母も呆然としている。
あっという間の出来事だったので、貴重品はなにも持ち出すことができなかった。火災保険にも入っていなかったので、僕たち家族は都会の真ん中に無一文で放り出された。
僕たちは区役所に行き、自分たちの生活の相談をしに行った。
「生活保護を受ければ入所できる救護施設に行くか、ご病気なら入院するのはどうですか?」
以前のような家族3人の暮らしを想定していた僕たちは、どう答えていいか分からなかった。父はイライラして役所の人間に詰め寄り、母はオロオロしている。
「とりあえず、3万円渡すので、これで何とかしてください」
仕方なく、その場は引き下がり、ファミレスで食事を取るが何の案も浮かばない。数日でお金は無くなり、再び区役所へ行った。いろんな課をたらい回しにされ、避難入院という手段を取るのが良いということになった。精神科の診察を受け、父は躁うつ病の診断が下り、母と一緒に精神科病院の閉鎖病棟に入院することになった。僕だけ開放病棟に入院した。僕が20歳の時の出来事だった。
入院して半年が経った。仲のいい入院患者のおじいさんができて将棋を教えてもらった。駒の囲い方や守り方を覚えると楽しくなり、将棋を指すのが日課になった。そのうち、僕は病院から清掃の仕事に行けるくらい回復した。そして、主治医の勧めもあり、障害年金を申請し、受給を開始した。その後、ケースワーカーと相談し、生活保護を受けながら、アパートで暮らし始めた。入院中の母に伝えるととても喜んだ。母は父と一緒の病棟なので、寂しくないそうだ。
「今度、外泊の時に遊びに行くわね」
嬉しそうに母は言った。
良く晴れた日曜日、母が僕のアパートにやってきた。
久しぶりに会った母は以前より太っていた。薬の副作用かもしれない。なんとなく目がとろんとしている。
「来る途中に美味しそうなパン屋さんがあったからサンドイッチ買ってきたの。一緒に食べましょう」
そう言ってビニールから何個かパンを取り出す。2人でサンドイッチを食べていると、急に母が苦しみだした。
「どうしたの! 大丈夫、お母さん⁉」
どうやら、喉にサンドイッチが詰まって息ができないようだ。
僕は急いで救急車を呼んだ。やってきた救急隊員が母を担架に乗せ、そのまま入院したが治療の甲斐なく亡くなった。抗精神病薬の副作用には嚥下障害があり、多量の薬を服用していた母も例外ではなかった。父もかなりショックを受けていた。
葬式は行わず、骨になった母は合葬墓に埋葬した。僕の中学時代の友人が3人来てくれて、それだけが救いだった。
僕の病状は一進一退といった感じで、精神科の休息入院と、自宅療養を繰り返していた。そうやって、うまく病気と付き合いながら、なんとか大検の資格を取得した。父は精神科病院に入院しているが、月に1度の外出の時は、一緒に食事をした。
「俺、退院が決まったんだよ。生活保護も受けられそうだ。これから頑張って働いて、たくさん稼いで、福祉も切って、昔みたいな生活ができるようにする。そしたら一緒に暮らしてくれるよな?」
子供の頃、父との生活を辛く思うことがあったが、今の父となら暮らせる気がした。
「うん、ありがとう」
素直に僕は答えた。
ある日の夕方、携帯電話が鳴った。父が入院している病院からだった。
「急なお電話で申し訳ありません。突然ですが、お父さんが亡くなりました」
「え!」
「少し前に退院して、すぐに仕事を見つけて働き始めていたんです。けれど、入った給料で株を買って大きな借金を抱えていたそうです。悩んだ挙句、走っている列車に飛び込んでそのまま……」
声を出そうとしても何も出てこない。これが現実なのか夢の中なのかも分からない。ただ、ひたすらに不快だった。生ぬるい空気に首を絞められて、息を吐くこともできなかった。
両親を失った僕は天涯孤独になった。働いてお金を稼ぐ気力もなく、生活保護を受けながら、精神科のデイケアに通った。病院で覚えた将棋を指し、子供の頃に打ち込んだサッカーをやり、少しづつ元気を取り戻した。しかし、サッカーをやっている時に、膝の皿を割り、手術を受けた影響で、大好きなサッカーと距離を置くことになる。さらにヘルペスになってしまい、心身ともに不調が続いた。
デイケアに通っているうちに、気の合う女の子ができて、付き合うことになった。一緒にファストフード店でご飯を食べたり、カラオケに行ったりした。しかし、2人とも仕事をしていないので、あっという間にお金が尽きた。デートにはお金がかかるということを今まで知らなかった。1年間付き合ったが、病気で働けない僕たちは将来のことを考えると、どうしたらいいか分からなかった。そのうち、向こうに好きな人ができて僕たちの関係は終わった。
彼女と別れてから、デイケアにあまり行かなくなった。生活保護での暮らしは苦しく、これ以上、どこを節約すればいいか分からない。お腹が減った僕はコンビニでスナック菓子を万引きした。しかし、店を出たところで店員に捕まってしまい、逆上した僕は4発ほど相手を殴ってしまった。全治2週間のけがを負わせてしまい、警察に捕まり留置所に入れられた。
警察の取り調べは酷かった。いろんなことを聞かれ、話したくないことも話した。そのうち検察による取り調べが始まり、拘置所に入れられた。部屋は三畳程度しかなく、トイレも床にそのまま備え付けられている。何もすることができず、ただ寝ているしかできない。外には一切出られず、苦しくて死にそうだった。
僕は起訴され、裁判が行われた。もう、この頃のことはあまりよく覚えていない。初めてのことだらけだし、いつも飲んでいる精神科の薬も飲めなくて、ほとんど眠れていなかった。僕は有罪になり、懲役3年の実刑判決が下り、医療刑務所に入れられた。バスで護送されながら、人生の終焉を感じていた。
医療刑務所というのは、身体や精神に疾病がある受刑者を対象とした刑務所だ。ここでは、粘土での陶器作りや、袋張りなどの刑務作業をする。昼間は外でサッカーをした。ある日、同じ房の懲役囚に、ここに来た理由を話したら驚かれた。
「え! 初犯で執行猶予つかないの? おかしくない? 万引きしたのスナック菓子1個でしょ? 相手に全治2週間を負わせたのは大きいけど、初犯だしなあ」
自分でもおかしいと思っていたが、刑務所の中にいる人間がいうと真実味がある。拘置所に1年、刑務所で3年過ごし、出所した時には29歳になっていた。
帰る家もなく、頼れる家族もない。行く当てのない僕は精神科病院に入院することになった。病棟のスタッフや看護師が若い僕にいろいろな役割を与えてくれた。カラオケ大会の司会、お祭りの実行委員会。一生懸命こなし、みんなの評判も良かったが、ふとした時に途方もない不安に襲われる。自分は結局、高校に行くことができなかった。最終学歴は中卒、まともな職歴もない。30歳といえば働き盛りで、結婚をして子供を持つ人もいるのに、僕はここで何をやっているのだろう。たくさんの不安を抱えたまま、34歳の時に退院し、ソーシャルワーカーの勧めでグループホームに入所した。
グループホームでは個室が与えられ、食事も出てくる。僕はパソコンのアプリで将棋に熱中した。将棋の先生になれないかな、などと妄想した。
僕は入院中に知り合った女の子と年中メールのやり取りをしていた。その子が退院することになり、マンションに遊びに行くようになった。付き合いが深くなってから、彼女は家の事情を話してくれた。
「うちのお父さん、私の生活を全部管理してるの。私のメールもチェックしてるし、いつ外に出て、誰と会ってるかも年中聞いてくる。通帳の残高を見るのも当たり前だし、財布の中身もチェックするの。もうこんな家にいたくない」
僕と違って家族がいるのに、彼女は全く幸せじゃなかった。1年くらい付き合ったが、親の監視下で関係を続けることに疲れ、別れてしまった。
ある晴れた昼下がり、僕の体調は最悪だった。頭がガンガンして、身体がカチコチに硬い。そういえば、ここのところ薬を飲んでいない気がする。窓の外から声が聞こえてくる。
「犯罪者は死んじまえ!」
「お前なんて生きてても意味がない!」
はっきりとそう聞こえた。幻聴は幻の声というが、本人には現実の声だ。
「うるさい! 黙れ!」
怒鳴るとますます幻聴が大きくなる。
「そのマッチで体に火をつけて死んじまえ!」
僕は幻聴に負けてしまい、そばにあったマッチで自分に火をつけた。綿のシャツはパーッと燃え、あっという間に体が炎に包まれた。火災報知器が鳴り、グループホームの世話人や住人が僕の部屋に集まってきた。
「大変だ!」
「水、水を持ってきて!」
「救急車を呼べ! 消防車もだ!」
火は住人によって消し止められ、すぐに救急車と消防車が来た。火傷を負ったまま、担架に乗せられ、そのまま入院した。火傷が治った後、精神科病院に入院した。2年間の入院の後、救護施設に入所が決まった。僕は38歳になっていた。
救護施設に来て6年経った。生活は今が一番落ち着いている。住まいがあり、暖かい食事が食べられ、自分で使えるお金もある。作業所に通い始め、掃除や事務処理の仕事をしている。平和すぎて少し怖くなるくらいだ。
思えば、救護施設の外の世界は酷かった。家を失ったのに、生活保護を受けさせてくれず、3万円を渡して追い返す区役所。万引きして暴れたら、実刑3年を言い渡す裁判所。もう、外の世界に出たくないと思うことがよくある。けれど、救護施設の外の世界が安全なら、僕はここを出て1人で暮らしたい。時折、そんなことを考えたりもする。
*プライバシー保護のため各人の属性、場所や地域に変更が加えてあります。
注
日曜日は父と姉と三人で駅ビルのレストランに行く。父はハンバーグランチ、私と姉はお子様セットを頼んだ。その間、母は家にいた。母は貧乏性で贅沢を一切しない。お小遣いやお菓子をしょっちゅうくれる父とは真逆だった。そして、母は宗教に熱心な人だった。
「信仰があれば、幸せになれるのよ」
幼い私は母と一緒に手を合わせる。私と姉は生後一か月で洗礼を受け、この教団の信徒になっていた。経典の内容は難しくて理解できなかったが、教団の集まりは楽しかった。同じくらいの年齢の子供たちが参加していて、友達もたくさんできた。
ただ、大変だったのは、母が病気になり、鼻が効かなくなったことだ。そのせいで料理の味付けを失敗してばかりいた。父は短気で、一家の長という意識が強く、母が夕食にカレーを出すと「ステーキ肉を買ってこい」と怒鳴った。
小学生の時に2回引っ越しをした。九九を習っていた時期と転校が重なってしまったせいで、授業についていけなくなった。勉強はあまりしなかったが学校では楽しく過ごした。
休みの日は教団の施設へ行き、集会に参加する。宗教団体というと身構える人が多いかもしれないが、教団の人たちは優しくていい人ばかりだった。
中学生になっても相変わらず勉強が苦手だった。しかし、母は私に対して「勉強しなさい」と叱らなかった。むしろ、几帳面で勉強ができる姉に対して「神経質で細かい」と言い、私に向かって「おおらかでいい子」と褒めた。姉は内心不満だったかもしれないが、家ではプロレス技を掛け合ったりして遊んでいた。
高校は都立高校に進学したが、やはり勉強についていけない。しかし、高校生になったらアルバイトができるので、中学時代の友人に紹介してもらい駅ビルのレストランでウエイトレスとして働き始めた。しばらくして、1つ年上の彼氏ができた。彼氏は学校で教師を殴って退学になり、ここでバイトをしながら夜間高校に通っていると教えてくれた。初めての彼氏に浮かれ、バイトが終わってから2人でゲームセンターに行き、終電まで遊んだ。そのせいか、数学のテストで、とうとう0点を取ってしまう。学校に通うことに限界を感じ、1学期で退学した。両親はがっかりしていたが、私を慰めてくれた。良い高校に進学した姉にはこっぴどく怒られた。私はどうも、楽な方、楽な方へ流されてしまうところがある。
高校を辞めた後、朝10時から夜8時までバイトを入れた。仕事が終わると学校に行っていた時と同じように終電までゲーセンに入り浸った。実家で暮らしているのに、家にお金を入れず、全てゲーセンと交際費で使い切った。ゲームセンターの電子音とタバコの煙。喫茶店で飲むコーヒー。かっこいい彼氏。10代の私にはそれが1番大切だった。
遊ぶお金をもっと稼ぎたいので、駅ビルのレストランを1年で辞めて、時給が高い居酒屋に移った。ウエイトレスよりも仕事はハードで、開店前に店の掃除をし、その後は焼き鳥の仕込みをした。竹串に細かく切った鶏もも肉を何個も刺す。作っても作っても終わらない。数か月で嫌になり、居酒屋を辞め、喫茶店でウエイトレスとして働くことにした。
実家で暮らしながらアルバイトをする生活を始めて2年が経過した。バイトが終わってから、相変わらず遊び歩いている娘を見かねて、母は喫茶店のオーナーに電話を入れた。
「お願いがあるんですけど、あの子の給料から天引きしてアパートの敷金礼金を貯めてもらえないでしょうか。自分でお金を持っているとすぐに使ってしまって、少しも貯まらないんです。あの子には家を出て自立してほしいんです」
オーナーは母の願いを聞き入れた。私には寝耳に水の話だったが、母の言うことも一理あると納得し、了解した。数か月して無事にお金が貯まり、私は実家を出た。共同玄関の古いアパートで、部屋は四畳半。小さな台所が申し訳程度についていた。お風呂はついていないので、歩いて銭湯に行く。彼氏も家に遊びに来ていたが、結局別れてしまう。少し落ち込んだが、友達の紹介で、新しい彼氏がすぐにできた。
高校を辞めてから、アルバイトしかしていないことに焦りを感じていた。仕事が休みの日、駅ビル時代の友達のクミちゃんと喫茶店でお茶をした。
「私、ずっとバイトしかしてなくて、このままでいいのか正直不安なんだよね。クミちゃんがやってる駅ビルのエレベーターガールって正社員なんでしょ?」
「うん、そうだよ。でも、エレベーターガールって学歴関係ないよ。中卒でも大丈夫だよ。あたしも中卒だし」
「えー!そうなの!」
「試しに受けてみなよ。正社員だとボーナス出るし、社保にも入れるし、絶対いいよ」
クミちゃんの言葉に背中を押され、私は大手デパートを受けることにした。結果はみごと合格。私は白のシャツに紺のスーツを身にまとい、白い手袋をつけてエレベーターガールとして働き始めた。
エレベーターガールの仕事はびっくりするくらい楽だった。エレベーターに乗ってお客様がどの階に行くか尋ねて、ボタンを押すだけ。立ちっぱなしだが、30分経ったら案内係の仕事に移るので椅子に座れる。その後は待機と言って、休憩室で1時間休める。もちろん、迷子などの急な対応はあるが、基本的にはタバコを吸い、飲み物を飲んで同僚とおしゃべりしているだけ。こんな楽でいい仕事があるとは思いもよらなかった。
しかし、良いことは続かない。女ばかりの職場には派閥があり、それにどうも馴染めない。話している相手によってどの派閥か判断され、仲の悪い派閥の女たちはジロリと私を睨む。おおらかで明るいことが取り柄の私なのに、人に悪意を向けられた影響で、どんどん元気がなくなった。
せっかくの休日も気分が晴れない。洗濯機を回しながら、ふと、実家から持ってきた宗教の経典を手に取った。昔は頭に入ってこなかった言葉がするすると理解でき、感動して涙が出た。母も言っていたじゃないか。真面目に信仰すれば幸せになれると。
それからは、休みの日になると集会に参加し、教団の仲間と真面目に教義を学んだ。お布施も積極的に行い、朝晩は姿勢を正してお経を読んだ
集会に定期的に参加しているうちに、仲の良い男性ができた。とても明るく、しっかりとした会社で働いているサラリーマンだ。集会以外でも会うようになり、一緒に遊園地や映画館に行った。付き合ってから一年後、正式にプロポーズされた。ダイヤ入りのプラチナリングは燦然と輝き、私の心を溶かした。私は結婚を機にエレベーターガールを辞めた。27歳の時である。
結婚して一年後に男の子が生まれた。しかし、長男は言葉を一言もしゃべらず私を心配させた。さらに、あちこち動き回るので少しも目が離せない。二人目の子供がお腹にいる時も、動き回る長男を一日中追っかけていた。病院で診てもらったところ、長男は自閉傾向のある知的障害だと分かった。長男は幼稚園でいじめに遭っていたので、理由が分かって安堵したが、障害のある子供を育てることに不安がないと言ったら噓になる。しかし、私が辛いなんて言っていられない。一番大変なのは障害のあるこの子の方だ。長男は3歳になったら言葉を話し始め、その後、小学校の特殊学級1*に入った。長男の後に生まれた長女と次男には障害はなかった。
3人の子供を育てるのにはお金がかかる。夫の給料だけでは心もとないので、子供が小学校に行ってからスーパーでパートを始めた。割り当てられたのは魚売り場。若い兄さんが「アジを取ってきて」というのだが、どれがアジなのか分からない。多分これだろうとあたりを付けて持っていったら「これはイワシでしょ。アジとイワシの違いも分からないの?」と、呆れられてしまった。
「全く、今どきの主婦は魚の種類も覚えられないんだから嫌になるよ」
「ねー、家で魚料理作らないのかな」
兄さんとバイトの若い女の子が、私のことを馬鹿にするので、どんどん気分が落ちていった。その後、野菜売り場に配属替えされるが、ここでも上手くやれない。ストレスで食べられなくなり、私の体重は数か月で7キロ落ちた。
仕事が終わって家に帰ると、一人でマシンガンのようにしゃべり続けた。ストレスでうつになった後は、躁の波が来て、パワーで満ち溢れた。いてもたってもいられなくなり、家の自転車に乗って街中を突っ走る。月が煌々と照り、あたりはしんと静まり返り、自転車の車輪の音だけが空しく響く。走り続けた先に、学校があった。その校舎の中で誰かが私に手を振っている。それが私にだけ見えている幻覚だと夢にも思わず、校舎に向かって手を振り返した。深夜2時の事だった。
教団の集会に出た時、仲間から「目つきがおかしいから精神科に行った方がいい」と忠告された。信頼する仲間に言われたので、素直に精神科に行くと、統合失調症と診断が下り、目の前が真っ暗になった。医者の言葉も頭に入ってこない。たくさんの薬を出され、そのまま入院の手続きを行う。ペタペタと廊下を歩く自分のスリッパの音が虚しく響いた。
精神科病院での入院生活は単調だった。食事をして、服薬をし、毎日ベッドで眠った。思えば、ここ10年くらい、ずっと3人の子育てに忙殺されていた。そこへパートが加わり、心身への負荷は最高潮だった。ここにきて自分がいかに疲れていたのかやっとわかった。
体調が良くなると、あっさり退院が決まった。荷物をまとめて退院時の心がけを看護師さんから聞かされる。
「この病気は再発するごとに重くなります」
その言葉に思わず身震いした。今回の入院でも大変だったのに、これ以上酷いなんて想像がつかない。
「無理をしないで、よく寝て、きちんと服薬することが大事です」
私はこくこくと頷き、三ヵ月間の入院生活は終了した。
子供たちも成長し、長男は養護学校の高等部、長女は高校生、次男は中学生になった。食費や教育費にお金がかかるので、私は再びパートに出ることにした。
駅ビルの写真屋さんで働き始めたが、ここにも厳しいバイトの子がいて、嫌みをネチネチ言われてしまう。その頃、次男は不登校になっていて、こちらも悩みの種だった。一日が終わる頃には疲れ果て、酒をあおり、薬を飲まずにそのまま寝た。
服薬を辞めてから、躁状態が強くなった。それと同時に被害妄想も再び始まり、再び入退院を繰り返した。それらが落ち着いた頃、夫が仕事に行ったまま帰ってこない。携帯を鳴らしても出ないし、子供たちも知らないという。書置きもない。数日したら帰ってくるかと思ったが、1ヶ月たっても何の連絡もない。多分、私の病気に耐えられず、逃げ出したのだろう。
夫の給料が入ってこず、自分のパートだけで生活費を捻出しなければならないのに、出ていくお金ばかりが増える。休憩室でため息をついていると他の売り場で働いている同僚が話しかけてきた。駅ビルで働き始めてから、一番仲が良い人だ。
「ねえ、今日、仕事終わったらマック行くでしょ」
「うん、あのさ、今日、相談に乗ってもらいたいことがあるの」
「いいよ、何でも聞くよ」
仕事が終わった後、同僚とマクドナルドでコーヒーを飲み、タバコを吸いながら、自分の家庭のことを相談した。
「主人が帰ってこないのよ。もう1ヶ月経つ。生活費が全然足りないの。パートだとどんなに頑張っても月20万に届かないでしょ。3人の子供の食費と学費でお金が一番かかるのに、どうしよう」
頭を抱え込む私に向かって、同僚はこんなことを言ってきた。
「生活保護受けたら?」
「せいかつほご? なにそれ」
「お金がなくて生活に困っている人を助ける国の制度よ。市役所に行って相談してみなよ」
にっちもさっちもいかなくなった私はその言葉を信じて市役所に行った。生活保護課の人は、私に精神疾患があること、子供が3人いること、夫が失踪してしまい、パートだけでは生活できないという訴えを親身になって聞いてくれて、生活保護の申請の手続きをしてくれた。
1週間後、生活保護のお金が銀行に入金された。なんと、25万も入っていた。
「こんなにもらえるの!?」
調べてみると、どうやら子供が3人いることでこの金額になったようだ。自分たち家族の苦しさを国が理解してくれたことが嬉しかった。
生活保護を受けたことで、安定した暮らしを営むことができた。ある日、家事をしていると、携帯が鳴った。姉からだった。
「お姉ちゃん、久しぶり。どうしたの?」
「実は、息子が急性白血病で亡くなったの。本当に急だったから連絡が遅くなっちゃってごめんね」
電話口から喉を詰まらせて泣く姉の声が聞こえてくる。確か、甥っ子はまだ17歳になったばかりだ。こんな時、どうやって励ませばいいのだろう。
「お姉ちゃん、気を落とさないでね」
「ありがとう。お葬式をやる場所を今から言うね」
姉から教えてもらったお寺の名前と住所をメモする。電話を切ってから深くため息をついた。タバコを一本吸ってから喪服を押し入れの奥から出す。
「そういえば、甥っ子はあの人とも良く遊んでいたわ。一応、知らせた方がいいかしら」
携帯電話には、蒸発した夫の電話番号が登録されたままだった。
「出るわけないだろうけど、一応かけてみるか」
夫の携帯を鳴らすと、なんと本人が出た。驚いたが、相手に悟られないようにきわめて平静を装い、電話の向こうの夫に甥っ子が亡くなったことを伝え、葬儀のことを伝えた。そして、私は急いで市役所に向かい、離婚届をもらってきた。
葬式当日、夫は本当にやってきた。言いたいことは山ほどあるが、言ったら負けだ。葬儀が無事に済んだ後、スッと離婚届を出した。
「これにサインしてください」
夫は素直にサインをした。妹夫婦が証人になり、市役所に提出すると、離婚届は無事に受理された。一人親になると受けられる手当の金額が違うと知ってから、一刻も早く離婚したかったのだ。夫と一緒に暮らしていないのに、離婚できないなんて、結婚とはなんて不都合な制度だろう。
長女は勉強ができるので、大学進学を希望し、私は無利子の母子貸付を受けることにした。その後長女は私の世帯から大学卒業後、抜けた。次男は高校卒業後、専門職に就き、収入を得るようになったので、私の世帯から抜けた。自閉傾向のある知的障害の長男は、サポートを受けて飲食店の洗い場の仕事を得た。
長女と次男は無事に自立したが、障害のある長男は家に残った。親としてはずっと一緒に暮らしたいが、長男のサポートをしている支援者から「お母さんが亡くなった後のことを考えて、早めにグループホームで暮らせるようにした方がいいです」と言われてしまった。親元を離れる練習をした方がいいからと、時々、グループホームに一泊するようになった。
迎えに来た支援者と一緒に長男が家を出る。手を振ると長男も笑顔で手を振り返す。長男の姿が見えなくなると急に寂しさが襲ってきた。子供がいない家はシーンと静まり返り、自分の家じゃないみたいだ。一人きりで過ごすのは何年ぶりだろう。アルバイトをしていた10代の頃、アパートで暮らしていたが、彼氏が頻繁に出入りしていたので、寂しさはなかった。子供たちは自分に依存していると思っていたが、依存していたのは自分かもしれない。
長男が仕事に出ている間、洗濯をし、掃除機をかける。あらかた家事をすませると、もうお昼だ。家の近くのコンビニに行き、お弁当を買う。のり弁を頬張り、食べ終わると、ポットに入った麦茶をコップに注いでタバコを吸う。タバコの影響か、はたまた統合失調症の薬の副作用か、喉が酷く乾く。自分で作り置きした麦茶を1日に4リットル以上毎日飲んでいた。
夕暮れ時、いつものように麦茶を飲みながらタバコを吸っていたら急に気分が悪くなり、鼻から血がぼたぼたと垂れた。意識が遠くなり、口角から泡がこぼれる。丁度帰宅した長男が、倒れている私を発見し、救急車で運ばれた。
翌日に意識が戻ったが、目の前にいる女性が誰だか分からない。「お母さん、私よ。ねえ、分かる?」必死に問いかけられるが、意識が混濁し理解が追い付かない。2日目にやっと娘の顔を認識できた。今回倒れた原因は水中毒と言って、水分の取り過ぎが原因だそうだ。命の危険もあると、医者から厳しく指導を受けた。
水中毒で倒れてから、台所で料理をする時間がぐっと減った。お総菜やお弁当で済ませることが多くなった。タバコの数を減らし始めたものの、完全に止めることができず、いつものように換気扇の下でタバコを吸い、立ち上がろうとした瞬間、視界がぐらりと歪み、そのままバタンと倒れてしまった。遠くなる意識の向こうで携帯電話の音がする。しかし、身体はうんともすんともいわない。しばらくしたら次男が家にやってきた。救急車が呼ばれ、そのまま入院した。脳出血だった。
入院して一命は取り留めたものの、物忘れが酷くなった。内科の病棟から精神科の病棟に移り、1年入院した。長男も私の入院を機にグループホームに入所してしまった。賃貸の家は契約したままだが、あそこで独り暮らしするのはもう無理かもしれない。診察の時、そうこぼしたら、主治医が救護施設を勧めてくれた。骨粗しょう症で骨が潰れている状態で、救護施設を見学した。スタッフが24時間常駐しているのが心強い。栄養バランスが取れた食事が出るので、身体にも良いだろう。
救護施設で暮らし始めて5年経つ。集団生活なので、多少のいざこざはあるが、上手くやっている。なにより、何があっても安心というのが大きい。自分は守られており、生活を保障されているという感覚がある。時々、また長男と暮らしたいと考える。あの子は本当に素直でいい子だ。一時期、熱心だった宗教の方は、情熱がすっかり冷めてしまい、もう何年も集会に参加していない。
結婚した次男から先日、電話が来た。妻が妊娠して、来年には子供が生まれるという。私にとっては初孫だ。柔らかく、甘い匂いがする赤ちゃんを、もう一度抱けると思うだけで、私の胸は躍る。
*プライバシー保護のため各人の属性、場所や地域に変更が加えてあります。
1* 2006年から「特別支援学校」に名称変更された
僕の父親は大工をしている。母親は専業主婦。きょうだいは姉が1人いる。
家は平屋の借家で、庭には父が飼っている軍鶏やチャボが何匹もいた。ペットとして可愛がっているのではなく、闘鶏のために飼っているのだ。
庭の鶏小屋は工事現場からもらってきたベニヤ板を使って父自らが建てたものだった。飼っている軍鶏やチャボは血統書つきのもので、父の自慢だった。
「この軍鶏は日本一強い血統でな、別名『殺し屋の子』と呼ばれてんだ。見てみろ、立派な足だろ。これで敵を殺しちまうんだ」
子供の僕は父の言葉を聞いて、ぞっとした。「敵を殺しちまう」というのは比喩ではなく、実際の戦いで死ぬ軍鶏もいた。
休日になると、父の仕事仲間や友人が集まり、庭で闘鶏が始まる。円形の囲いの中で、2羽の雄の軍鶏が翼をばたつかせ、敵をつつく。戦わせるために品種改良された軍鶏は非常に闘争心が強い。くちばしの先は安全のため切られているのだが、そのせいで、軍鶏の顔が醜く変形し、不気味に見える。翼をばたつかせてジャンプしながら、鋭い爪と短いくちばしで相手の肉を切り裂くと、血しぶきが飛ぶ。
ワッと歓声が起こり、金をかけている大人たちは「やっちまえ!」「ぶち殺せ!」などと叫ぶ。最初は興味本位で戦いを見ていたが、目が潰れて、血が流れても戦い続ける軍鶏を見ていたら恐ろしくなった。なぜ、こんな残酷なことをさせるのだろう。しかし、嬉しそうに軍鶏の自慢をする父の姿を見ていたら、僕は何も言えなかった。
父は軍鶏を育てることにも熱心で、闘鶏仲間の間では有名らしく、父は自分が育てた軍鶏を希望する人に販売していた。
「こいつは血統がいいし強いよ。なんせ、10連勝したからね」
父が嬉しそうに買い手に話す。
試合に負けた軍鶏は料亭に食肉用として卸すことで軍鶏の飼育費を工面していた。
父の世界は闘鶏で回っており、それ以外の事には興味がないように見えた。しかし、悪いことばかりではなく、我が家は卵に困ることはなかった。それに、僕が風邪を引いて寝込んでいる時、父は自分のチャボが生んだ卵を使っておじやを作って食べさせてくれた。
父が少し変わった趣味をやっていること以外は、僕は普通の子供だった。学校へは真面目に通っていたので、成績も上位だった。放課後は近所のお兄さんとメンコをして遊んだ。
暗くなって家に帰ると、庭で父が軍鶏たちに餌をやっている姿が見えた。僕は父の姿を横目に居間へ向かう。母が出来上がったばかりの夕食を運んできた。
家族で夕食を囲んでいる最中、僕は父に話しかけた。
「お父さん、あのね……」
「黙ってろ」
父は焼酎を飲みながら、僕の方を見向きもせずに低くつぶやいた。
小学校高学年になった僕は、父に聞きたいことがたくさんあった。自分は将来何になればいいのか、なりたい自分になるためにどう頑張ればいいのか。勇気を出して再び父に話しかけると、早口で僕を潰しにかかる。
「黙ってろっていうのが聞こえなかったのか!」
語気を強めて怒る父の顔を見たら、何も言えなくなった。
中学を卒業し、高校に入学した。あんなに怖かった軍鶏も怖くなくなった。ずっと見ていて慣れたのだろう。父は相変わらず、休みになると人を集めて闘鶏をやっていた。
ある日、警察が家にやってきた。お金をかけて闘鶏をやっていることが問題だったようだ。しかし、大きな問題にはならなかった。
「俺は違法なものなんてやってないのによ。警察はほんと頭にくる」
警察の後姿を睨んで父はそう言った。
この頃、僕は将来について悩んでいた。尊敬している父の意見を聞きたいのに、父はまともに取り合ってくれない。
「うるさい」「黙ってろ」「なんでそんなことばかり聞くんだ」「将来なりたいもんがないなら、内閣総理大臣にでもなっちまえ」そんなことばかり言うのだ。
僕は精神的に追い詰められて、眠れなくなった。寝不足で授業が頭に入らず、成績が下がった。そんな僕を見かねて、父はキリスト教を僕に紹介してきた。
「俺はよ、昔、キリスト教の洗礼を受けたんだ。素晴らしい牧師の先生がいてな、坂井先生っていうんだけど、検事をやってるんだ。お前も坂井先生を見習って、検事にでもなったらどうだ。そうだ、今度、坂井先生に会わせてやる。教育係をやってもらおう」
日曜日、父に連れられて坂井先生のいる教会へ向かう。
朝の礼拝に参加し、その後、父も交えて話をした。父の目はキラキラと輝いていて、尊敬の色が見えた。僕も坂井先生のように立派な人になりたい。
そうしたら、父も僕の話を聞いてくれるだろう。僕はキリスト教の洗礼を受けることにした。
元気のない僕とは対照的に、姉は友達をたくさん作り、いろんなところに遊びに行っていた。姉は高校卒業後に就職し、その後、結婚して家を出て行った。
僕は高校卒業後、工務店に就職した。
そこでタイル張りの仕事をしたが、3日しか持たなかった。
相変わらず、夜になっても眠ることができず、休日は昼過ぎまで布団の中にいた。すると父が「日曜日くらいは教会へ行け」というので、その通りにした。
教会に行くと、いろんな人が親しげに挨拶してくる。僕もそっと会釈して通り過ぎる。牧師の説教を聞くが、寝不足で頭に入ってこない。
一年くらい教会に通ったが、状況は全くよくならず、父に話を聞いてもらおうとしても「幸せは自分の力で手に入れてみろ」と、言う。
父に話しても立て板に水なので、僕は精神科を受診することにした。
そこで、神経衰弱と診断された。眠れない僕のために主治医は睡眠薬を処方してくれたが、薬を飲むと眠すぎて昼過ぎまで寝てしまう。これでは働けないと、薬を減らしてもらうと、全く眠れない。
不安定な日々を送っていたが、このままではいけないと感じて、就職先を自分で見つけた。僕は20歳でクリーニング店に正社員として雇用された。
クリーニング店に就職して知った言葉が2つある。
ひとつは雇用保険、もうひとつは社会保険だ。仕事を辞めた後の給料の保証や、将来の年金額のことなど考えたことがなかった。とても大事なことなのに、なぜ両親や学校は教えてくれないのだろう。
仕事は工場でプレスの仕事を担当した。工場内は蒸気が立ち上り、暑い上に、洗剤の匂いがそこいらじゅうに漂っている。
ズボンの股下部分に蒸気を当てていると、いつのまにか体中、汗でびっしょりになる。
長時間の立ち仕事で腰が痛くなり、手は特殊な洗剤でガサガサになった。
クタクタになって家に帰るが、夜は相変わらず眠れない。
通院の時に薬を増やしてもらうが、そうすると、仕事に集中できない。
睡眠が安定しない状態で働いている僕の仕事の成績は悪かった。
作業が遅く、目標の数をこなすことができないのだ。
「今日もノルマ達成できなかったのか! まったく、お前は使い物にならないな」
そう上司に怒られるのが、僕の日常だった。
クリーニング店は2年4ヵ月勤めたが、体と心の限界を感じて退職した。
仕事を辞め、実家に居る僕に対して、父はこう言った。
「牧師の坂井先生は検事を30年やったんだぞ。それなのに、お前は3年もたなかったなんて! お前も坂井先生を見習って検事にでもなったらどうだ!」
父に怒られた僕は本屋に行って六法全書を買った。読めない漢字や意味の分からない単語を必死になって辞書で引く。一生懸命法律を勉強しているうちに疑問がわいてきた。そもそも、僕は検事になんてなりたくない。
僕が本当になりたい自分はなんだったのか。子供のころから、ずっと父に聞きたかった。僕に何の才能があって、どんな仕事が向いているのか。勇気を出して聞いたら、父は内閣総理大臣になれという。高卒の僕が内閣総理大臣になんてなれるわけない。
父に認めてもらえないと絶望した僕は、自宅のふろ場で手首を切った。力を入れて切ったので、手首から赤い血が噴き出した。そういえば、父が飼っていた軍鶏も真っ赤な血を流していた。3ヶ所深く切り、ぐったりしているところを母に発見された。
病院で傷を縫ってもらった後、精神科病院に11ヵ月入院した。入院中も眠れず、睡眠薬の頓服をもらいに行くのが日課だった。退院した時には24歳になっていた。
実家に戻った後、主治医の勧めで保健所にあるデイケアに通い始めた。僕と同じように精神疾患があって働いていない人がたくさんいた。そこのメンバーの一人と妙に馬が合い、よく一緒に出掛けた。好きな音楽の話で盛り上がり、安い居酒屋で語り合った。その時、彼が自分はある新興宗教を信じていると教えてくれた。父の影響でキリスト教を信仰している僕はなんとなく居心地が悪かった。彼は家族とは縁が切れていて、救護施設で暮らしているという。別れた後、大きな施設に帰っていく後ろ姿を不思議な気持ちで見送った。
デイケアに通い始めて1年が経過した。僕は相変わらず眠れない日々を過ごしていた。主治医に眠れないことを訴えて、強い薬を出してもらうと、日中も眠いし、副作用も酷い。種類の違う睡眠薬を出してもらうが、これも合わない。
死にたい気持ちが強くなり、自殺の事を考える日々が続いた。
ある日、街を歩きながら、高い建物を探した。
飛び降り自殺するなら、確実に死ねる高さでないといけない。しかし、高層マンションはセキュリティがあり、中に入れない。
うろうろしていると、7階建ての団地が目に入った。ここが良さそうだ。僕は人目を気にしながらエレベーターのボタンを押した。チーンという音と共に、ドアが開き、僕は足を踏み出した。
階段の踊り場から見る眺めは清々しかった。遠くに都心の高層ビル群が見えた。あのビルの中の一員として働けたら、こんな苦労はせずに済んだかもしれない。僕は誰にも聞かれないように声を殺して泣いた。
ひとしきり泣いた後、服の袖で涙をぬぐい、手すりに足をかけた。両の手に力を入れ、足で床を蹴ると、僕の体は宙を舞った。一瞬、青空が目に入った。雲がたなびき、白い月が浮かんでいる。こんなに美しい空があるのに、なぜ僕は下ばかり向いていたのだろう。その後、激しい衝撃が全身を貫く。地面に叩きつけられた僕の腰の骨は粉々に砕けた。
病院に搬送された僕は大手術を受けた。骨盤骨折のため、腰を切って開いてプレートを入れた。麻酔が切れると腰が痛くて辛い。
父と母と姉がお見舞いに来てくれた
「お父さんも姉さんも本当に心配したんだよ。生きてて本当によかった」
母が涙をぬぐいながら言う。
姉もハンカチを目に当てている。父は押し黙ったまま、目の端を拭った。
身体の治療が終わった後、精神科病院に6か月入院した。
退院して自宅に戻り、父と母と僕の生活が始まった。
僕が飛び降りてから、父は「黙ってろ」とか「検事になれ」ということを一切言わなくなった。
僕も父の言葉に対して、首を縦に振ることを止めた。初めて父に反抗することができた。
退院した後、デイケアで知り合って、居酒屋に一緒に行っていた友人に連絡しようとしたが、キリスト教徒の僕が新興宗教を信じている彼と仲良くするのは良くないのではないかと考えてしまい、連絡するのを止めた。
宗教がなければ友達でいられたかもしれない。
その後、僕は医師の勧めで、障害者手帳を取得し、障害年金を受給した。その手続きの際、市役所で作業所を紹介されて、26歳からそこで働き始めた。
作業所の仕事は紙袋作りだった。贈答用のお菓子を作っている会社から紙袋作成の仕事を受注し、それを納期までに皆で完成させる。僕は取っ手部分の紐を穴に通す作業をやった。賃金は安かったが、そこで4年間働いた。
30歳になって別の作業所に移った。そこの業務は石鹸づくりだった。しかし、石鹸を作る前に、汚物まみれのバケツを何個も洗わなければならないのには閉口した。
指導員の人に教えられた通り、油や米ぬか、苛性ソーダを混ぜながら火にかける。暑くて額に汗がにじむ。大きな石鹸の塊をカットし、丁寧に梱包する。前の作業所よりも大変だが、月給が良く、ひと月で5万円稼げた。
ずっと平屋の借家で家族と暮らしていたが、家の老朽化が進み、大家に「出て行ってくれ」と言われてしまった。引っ越し先は都営住宅になった。
集合住宅に住むのは初めてだったが、借家よりずっとキレイだ。しかし、父は軍鶏やチャボを飼えなくなってしまったので、寂しそうだった。大事にしていた鶏たちは友人、知人に譲ったそうだ。
僕は新居で大きな声を出すことや、大きな音で音楽を聴けないのがストレスだった。借家にいた頃は爆音でロックをかけても平気だったのに、ここでは壁一枚向こうに他人がいて、気を遣う。
自宅で好きに過ごせないので、ストレスが溜まり、不眠が酷くなった。いつものように薬を増やしてもらうと案の定、仕事にならない。違う種類の睡眠導入剤にしてもらうが、副作用が酷いので、副作用止めを出してもらう。
そうやって、どんどん薬が増えていき、この頃は一日に20錠くらいの薬を飲んでいた。
安定しない体調の中、実家から作業所に通う生活を過ごしていた。
父は仕事から帰ってくると、酒を飲みながらテレビを見ていた。キリスト教の信仰はいまだにあり、時折、坂井先生と嬉しそうに電話をしていた。
僕は、また別の作業所に移った。ここでの作業はカタログの発送業務だ。カタログにチラシを挟み込み、重さを計ってから結束バンドで留める。
作業所では仲間ができて、いろんな話をした。手を動かしながら仕事をするので、楽しくやれた。しかし、時代が変わりインターネットショッピングが主流になったので、カタログの発行が終了し、仕事がなくなった。
作業所から次に与えられた仕事は石に絵を描くことと、組紐を作るものだった。この生活は50歳まで続いた。
ある朝、父が亡くなった。94歳。死因は老衰。お葬式はキリスト教式だった。
僕の人生に長く君臨していた父が消えて、フッと心が軽くなった。
もう、父に認められたい、話を聞いて貰いたいと悩む必要はない。長年、自分を縛っていた紐が千切れた気がした。
父の死後、僕は主治医に自分の意見を正しく伝えられるようになった。今までは自分の意見を言えなかったので、薬の処方がうまくいかなかったのだと、やっと気が付いた。
僕の言葉を聞いて主治医が出してくれた薬を飲むと、とても効きが良かった。
その後、母が癌になり、治療が始まった。そのことを聞いた姉が実家に来てくれたおかげでずいぶん助かった。
しばらくして母も亡くなった。
悲しかったけれど、親がいなくなったことで、僕は初めて、自分で物事を考え、自分の意見が言えるようになった。
両親が亡くなったことを作業所のスタッフに伝え、都営住宅に一人で暮らすのが不安だと相談したら、救護施設を紹介された。
ここでの暮らしはとてもよく、満足している。
精神科病院と違っていつでも自由に外に出られるし、日中活動があり、飽きない。日曜日になると教会に行き、人生の役に立つ教えを聞いている。
でも、いつか、地域に出て暮らしてみたい。
一人暮らしに挑戦してみたい。
焦らないでゆっくり取り組めたらいい。
*プライバシー保護のため各人の属性、場所や地域に変更が加えてあります。
僕が4歳の時、父が死んだ。葬式の最中、母はずっとすすり泣いていた。母の代わりに14歳になったばかりの姉が、気丈に弔問客の対応をしている。幼い僕は父の死が理解できず、なんども棺桶に入っている父親の顔を覗き込む。見慣れた父の顔は、血の気が失せうっすらと青白い。身体の周りには白い菊が父の死を悼むように飾られていた。
父は火葬場で焼かれて、ただの骨になった。震える手で骨を骨壺に入れる母の肩を、姉が抱きしめる。僕は目の前で起こっていることが信じられなくて、夢の中にいるような気持ちがした。
父が亡くなってから、僕は夜になると家出を繰り返すようになった。行きたい場所があるわけではなく、ただ、街中をフラフラとさまよった。そんな僕を見かねた母が、ペットがいれば徘徊しないですむだろうと、チワワを飼ってくれた。目が大きくて真ん丸なので、マルと名前を付けた。
「マル、おいで」
小さなマルを抱っこすると、小刻みに震えている。
体に伝わるぬくもりと心臓の音を聞いていると不思議と落ち着いた。
マルが来てから僕の徘徊はなくなった。リードを付けたマルと一緒に夜の街を散歩したあと、きちんと家に帰った。
父が亡くなってから、母は躁うつ病を発症し、僕の家は生活保護を受けることになった。
母は病気になってから一切の家事ができなくなり、姉が代わりを務めた。しかし、姉も学校とバイトで忙しく、家事に時間をかけられないので、ヘルパーさんに来てもらうことになった。
ある日、僕が小学校から帰ってくると、母が剃刀で腕を切っていた。
「お母さん! やめて! 死んじゃうよ!」
血にまみれた母の腕を見て、恐ろしくなり、必死に止めた。
「やめて! やめて!」
父が死んだことだけでも辛いのに、母まで死んだら耐えられない。
「私なんて、生きていても仕方ない。死んだ方がマシだ」
母の目は暗くよどんでいた。
母のリストカットは止まらなかった。気が付けば常に切っている日々が続き、ある日、とうとう自殺を図った。
問題だらけの僕の家には頻繁に警察が出入りするようになった。姉は母の介抱で疲れ果て、僕はあまりしゃべらなくなった。
普通の子供と違う家庭で育った僕は、小学5年生になった時、いつの間にかいじめの標的になった。いじめっ子は僕のことをバイキンと呼び「菌が移る」と言って避けるようになった。担任はいじめの事を知っていたが、見て見ぬふり。大人なんて誰も信用できない。僕は、口をギュッとつぐんだ。
小学6年生になり、担任の先生が新しくなった。
その先生は僕がいじめられている様子を見て、いじめっ子に直接注意をした。僕にも「大丈夫か」と声掛けをしてくれた。そのおかげで、いじめが収まった。
家では相変わらず母がリストカットをしていたが、学校でいじめられなくなったので、少し元気になった。
僕が中学校に入った頃、やっと母に合う薬が見つかり、躁うつ病の症状が落ち着いた。頻繁だったリストカットもなくなり、以前より元気になった。しかし、相変わらず、家事をこなすことはできなくて、ヘルパーさんに来てもらうのが常だった。それでも、母が昔のように怒鳴ったり、泣いたりしないので、僕の気持ちはずいぶん楽になった。
中学校ではバレー部に入った。友達もでき、帰り道では馬鹿を言い合って笑い合いながら帰宅した。休日になると、友達の家に集まってプレステで格闘ゲームをした。
「くそ! 必殺技が決まらねえ!」
「お前、コマンド入力下手すぎ!」
コンビニで買ってきたスナック菓子を食べながら、皆ゲラゲラと笑う。
「なあ、今度、皆でディズニーランド行こうぜ」
「僕、ビッグサンダーマウンテンに乗ってみたい!」
思わず声を上げた。
「トモはまだ、ランドもシーも行ったことなかったんだっけ?」
僕は名前の一文字を取って「トモ」というあだ名で呼ばれていた。
「そうなんだよ」
「結構、金かかるからな。1万くらいは持ってきた方がいいぞ」
「わかったよ」
僕は笑いながら答えたが、内心ひやひやしていた。
生活保護を受けているので、お金にあまり余裕がない。母は出してくれないだろうから、お姉ちゃんにねだってみよう。
姉は20歳を過ぎ、学校給食を作る仕事に就いていた。母親との世帯は分離されているが、同居を許されていた。働きながら家の家事をこなし、阪神タイガースが好きな僕のために、野球場にも連れて行ってくれた。
生活保護を受けている状態で働いている場合は収入申告をすることが義務づけられている。しかし、働いて得たお金を全て国に返すわけではなく、必要経費などが控除されるので、いくらかは手元に残るのだ。
「お姉ちゃん、友達とディズニーランド行くからお小遣いちょうだい。1万欲しい」
姉は仕方なさそうに、財布から1万円札を取り出して僕に渡す。
「あんまり無駄遣いしないでね」
そう付け加えた。
母がお小遣いをくれないので、僕はいつもお金に困っていた。高校生になったらすぐにバイトしようと心に決めた。
生活保護世帯だと、公立高校進学の際、授業料が無料になる。しかし、行きたい高校がないので、私立高校を選んだ。学費は国からの支援金と、自分たちの生活保護費から支払った。高校2年生の時に、生活保護世帯や非課税世帯での私立高校授業料が全額免除となり、ホッと胸をなでおろした。
僕が高校生になっても、母は家事をせず、ほとんどの時間を家で過ごしていた。僕から見たら母は引きこもりだった。そんな母の代わりに姉が毎朝お弁当を作ってくれた。
同じクラスの男子生徒とおしゃべりをしていた時、話の流れで、家が生活保護を受けていることを打ち明けた。そしたら、そいつの家も生活保護を受給しているという。僕たちの会話は盛り上がった。
「僕、バイトしたいんだけど、生活保護を受けていると、収入申告ってやつをしないといけないんだろ?」
「そうだけど、俺は収入申告してない」
「え! やばいじゃん!」
「トモは高校卒業したら、進学するだろ?」
「うん、そのつもり。さすがに今の時代で高卒じゃロクな仕事ないし。うちの高校、上に専門があるじゃん。そこに行く。ケースワーカーが奨学金を利用すれば進学できるって言うしさ」
「でも、バイトで稼いだお金は、全部、将来の学費に当てなきゃいけないって、トモは知ってる?」
「は? どういうこと?」
「生活保護を受けながら、アルバイトで稼いだお金を、大学の入学金や授業料に当てるのは、収入として認定されないからそのままの金額もらえるんだよ。生活保護費は減らないの。でも、将来のための学費だから今は使えない」
「アルバイトで稼いだお金を、今、自分で使うにはどうすればいいの?」
「高卒で働くって決めているなら、収入申告すればいくらか手元に入ってくるんじゃない? でも、進学をするのなら、バイトのお金は全て将来の学費に当てることになるから、絶対に使えない」
「それじゃあ、いくらバイトを頑張っても、進学するなら、自分で使えるお金はないってわけ?」
「そういうこと」
「マジかよ! 高校生になったら絶対バイトするって決めてたのに、タダ働きみたいなもんじゃん。他の奴らは、バイトで稼いだお金は全部、自分で使ってるよ。不公平じゃね?」
「だから、俺は収入申告しないっていったろ」
「じゃあ、僕も申告するのやめとこうかな」
「そうしろよ。バレやしねえよ。だいたい、生活保護のルールの方がおかしいんだ。悪いことなんて何にもしてないどころか、家族や金の事で散々、苦労してるのに、バイトで稼いだ小遣いまで管理するんだぜ。ふざけんなって話だ」
僕は深くうなずき、収入申告しないことに決めた。
その後、僕は引越しのバイトを始めた。重たい荷物を運ぶ仕事は大変だったが、月末に給料がもらえた時は嬉しくて飛び上がった。
「お姉ちゃん、今度、一緒に野球見に行こうよ」
「私、野球好きじゃないから、一人で行ってきなさいよ」
中学生の時は、僕の野球に付き合ってくれた姉だったが、最近は冷たい。
姉が付いてきてくれないので、少し寂しかったが、阪神対ヤクルトの試合を一人で見に行くことにした。
神宮球場で、ずっと欲しかった阪神のユニフォームを買うと、その場で着替える。
ベンチに座ると自然に胸が高鳴った。緑色のフィールドの上で、選手が球を打ち、走る。一挙手一投足に興奮し、応援メガホンを打ち鳴らす。ヒットが出ると、六甲おろしの大合唱。大声を出して応援していると、嫌なことが忘れられた。
4歳の時に亡くなった父、家から出ないで寝てばかりの母、働きずくめの姉の姿もちりぢりに砕けた。
高校2年生になってから、姉との仲が悪くなった。姉も僕に対して冷たくなり、口喧嘩が増えた。姉は仕事先で仲の良い男性ができ、休日になると、その人と出かけることが増えた。
ある休日の夕食時、姉が衝撃的なことを口にした。
「私、結婚して、この家をでるから」
姉の言葉で僕の体は固まった。その後、怒りが体から湧いてきた。
「姉ちゃんは自分勝手だ! 僕たち家族の事はどうでもいいの⁉」
僕が怒鳴ると母も口を開いた。
「あんたがいなくなったら、この家の家事は誰がやるんだ! 私は病気なんだよ!」
姉は僕たちを見て、はっきり言った。
「私はお父さんが亡くなってから今まで、必死に頑張ってきた。家事をしながら、働いた。2年前にパニック障害にもなった。もう家族のために自分の人生を使いたくない。私は私の人生を生きたい。家事はいつも来ているヘルパーさんにやってもらえばいい。足りなければ、来てもらう時間を増やせばいい」
姉の言葉は真っ当だった。反論する言葉が見つからない。
「僕は結婚式にはでないからね!」
僕の精いっぱいの反抗だった。
だが、僕が高校3年になった時、姉は本当に結婚して家を出た。僕は意地を張って、本当に結婚式に出なかった。
結婚式当日、僕はテレビを付けながらぼんやりしていた。すると、ペットのマルが僕の気持ちを察して、すり寄ってきた。僕はマルの体をそっと抱き上げる。僕のところに来たときは、まだ子犬だったのに、人間だったらおばあさんといってもおかしくない年齢になっていた。動きも鈍くなり、食事の量も減った。
「マル、お姉ちゃんが家を出ていくってさ」
マルに顔を近づけると、ぺろりと舌を出して僕の頬をなめた。
「くすぐったいよ。マル」
マルの体をギュッと抱きしめる。細くて折れてしまいそうだ。
数か月後、マルは食べなくなり、眠り続けた。ある日、ひっそりとマルは死んだ。
僕は泣きながら空き地にマルの亡骸を埋めた。
姉が出て行ってから、母が怒りっぽくなり、攻撃的になった。
僕はそれに耐えて、高校卒業後、高校と同じ学校法人の専門学校に進学した。学費は奨学金を使った。
生活保護を家族全員で受けている場合、子供が18歳になると同時に世帯分離をする。児童扶養手当が切れるので、一緒の世帯にいる意味がないし、早く自立して欲しいという福祉事務所の意向もある。そのため、母と一緒に暮らしながら、僕だけの世帯で生活保護を受けることになった。
専門学校ではパソコンや事務の仕事についての授業を受けた。同じ高校の生徒がいればすぐに友達ができると踏んでいたのに、内部進学者は、全体の2割しかおらず、専門学校に知っている顔がない。友達ができなくて、1人でお昼ご飯を食べるハメになった。
「専門学校で全然友達ができない。学校行くの嫌だな」
学校の愚痴を家で漏らすと、イライラした母が台所に行き刃物を手に取った。
「トモは文句ばっかりいって、本当にうっとおしい。中退するんだったら、この家を出ていきな!」
僕は直ぐに警察を呼んだ。二人で怒鳴り合っていると収まりがつかないが、警察という第三者がいることで、ヒートアップするのが防げた。
警察官が母をなだめてその場は丸く収まったが、数日経つと、母が「家を出ろ」と怒鳴り、また刃物を出した。
僕は怖くなり家を出て、ネットカフェで寝泊りした。お金が必要なので、居酒屋でアルバイトを始めた。
過度のストレスと不眠で、僕の体調は最悪だった。仕方なく実家に帰ると母が僕を見るなり、こう言った。
「あんたの頭がおかしいってヘルパーさんが言ってたよ」
その言葉に僕はカチンときた。
「おかしいのはどっちだ! ヘルパーを今すぐここに連れてこい!」
母は僕の声に驚いて警察を呼んだ。家に来た警察官は僕に「疲れているようだから病院に行ってみてはどうか」と提案した。
精神科病院に行くと、そのまま入院になった。落ち着かない気持ちのまま眠り、食事をした。とても、学校に戻れるような精神状態ではなかった。
退学しよう。
ベッドで横になりながら、僕はそう決めた。
学校を辞めてフリーターになろう。
1週間後、退院してから、自分で専門学校に退学届けを持って行った。その後、福祉事務所から連絡が来た。
「入院していたそうですね。まだ、独立は難しかったかな。世帯分離はちょっと早かったね。もう一度、お母さんの世帯に入って生活保護を受けられるようにしておいたから」
ケースワーカーが善意で決めた母との暮らしは苦痛でしかなかった。
専門学校を辞めた僕に対して、母は暴言を吐き、暴力を振るった。
どこかに逃げたくても、お金がない。仕方ないので、なるべく家に近寄らないようにした。それから3年後、福祉事務所から連絡が来た。
「もしもし」
僕の言葉を遮るようにケースワーカーが受話器越しに怒鳴った。
「お前、高校生の時のバイト代、収入申告してなかっただろう! 生活保護を受けているくせに、世の中なめてんのか! 直接、事務所まで来い!」
僕は震えあがって福祉事務所へ行った。
ケースワーカーは鬼のような形相で僕を怒鳴りつけた。
僕が高校時代に稼いだお金は70万近くあった。それを全部返せという。「無理です」と答えると、生活保護費からバイト代を返せと言う。
結局、毎月500円ずつ返還することになった。さらに悪いことに、専門学校時代の居酒屋のバイト代の事もバレてしまい、ケースワーカーから、また怒鳴られた。すべての返済が終わるのは10年以上先だった。
僕は真面目に生きてきたつもりだったけど、本当はそうじゃなかったのだろうか。高校時代にしていたアルバイトの事で、こんなに長期間、責められなければならないのか。僕は好きで生活保護を受給している家に生まれたわけじゃない。僕が普通の家に生まれていたら、こんなことにはならなかった。
僕は家にある灯油を一口飲んだ。そして自分から119番した。救急車がやってきて、救急隊員が僕を家から連れ出してくれた。このままどこか知らない国へ行ってしまいたいなどと、ぼんやり考えた。
入院先の精神科病院はオンボロだった。カーテンもなく、ナースコールもない。入院しているのはお年寄りばかり。
お風呂は週2回。部屋は6人部屋。閉鎖病棟なので、楽しみが何もない。することがないので、僕はタバコばかり吸っていた。
喫煙室で50代のおじさんと仲良くなり、好きな野球チームの話で盛り上がった。
入院中に検査をしてADHDという診断が下った。医師からは適応障害だと言われた。
母といると具合が悪くなるので、実家には帰れない。引受先がない僕は、徐々に入院日数が増えていった。病院のソーシャルワーカーが退院先として、僕が入れるグループホームを探してくれたが、どこも満員だった。精神科病院に入院したまま僕は28歳の誕生日を迎えた。
その後、救護施設を紹介された。施設を見るのは初めてだった。静かな住宅街の中にあり、近くには学校もある。中に入るとつるつるとした廊下が続き、相部屋がいくつもあった。改築したばかりなのか、とても綺麗だ。病院と違って、出入りは自由だと説明された。僕は入所を決めた。
入所してからコロナ禍に見舞われ、外出が思うようにできなかったが、最近、自由に外出できるようになった。僕は早速、阪神の試合のチケットを取った。久しぶりに生で見る試合は最高だった。自分の中に沸き立つ血潮を感じる。生きて、阪神の試合が見られるのなら、それで十分だ。だけど、できるなら、グループホームで暮らしたい。もう少し、自分の人生を、自分の手で歩んでみたい。
母が私を出産した時、大量の出血があった。母子ともに命に別状はなかったが、母は二度と子供が産めない体になった。生後40日目に、40度の高熱を出した。脱水症状があり、危険な状態が続いたが、しばらくして回復した。
初めて生まれたわが子を抱いて、母は北海道の実家に帰省した。
「母ちゃん、歩、連れてきたど~」
荷物と私を抱えた母が、祖母を呼ぶ。
「よくけえってきたな~」
祖母は洗い物の手を止めて、玄関まで母を迎えに来る。
「母ちゃん、歩を抱っこしてくんろ」
母が私を祖母の胸に預ける。
「ああ、めんこいなあ」
私を抱いた祖母はほほ笑みながら私をあやす。
その時、ふと、私の異常に気が付いた。
「この子の足、なんかおかしくないかい?」
私の足は左足だけ変に浮いていた。
不安になった母は東京に戻ると、私を大きな病院に連れていき、検査を受けさせた。そこで小児麻痺という診断が下りた。
小児麻痺は時々、発作が起きる。それが起こる前は、決まって胸の中がざわざわする。
「お父さん」
私は父の所へ行き、身体をピタリとくっつける。
そうすることで、発作を鎮めようとするが、それをあざ笑うかのように身体が硬直する。
呼吸が上手くできず、手足が思うように動かない。
「大丈夫、大丈夫。歩は強い子だ」
父が私の体をさすりながらそう繰り返す。私はじっと耐えた。
小学校は普通科へ行ったが、小児麻痺の私は学校で浮いていた。友達がいない学校生活は惨めだった。
母は看護師をしており、夜は家にいないことが多い。私の面倒をみるのはもっぱら父の役目だった。
共働きで障害のある子供を育てる生活に、2人とも不満が溜まっていったのだろう。父と母は顔を合わせると、口げんかをすることが増えた。そして、私が小学校3年生の春休みに、母が大きな荷物を抱えて、家を出て行った。
「お父さん、お母さんはどこへ行ったの?」
「アメリカに行ったんだ」
馬鹿な私は父の言葉を信じ切っていた。
両親が離婚して、私は父に引き取られた。そしてすぐに新しいお母さんが来た。
しばらくして、障害者手帳を取得した。左半身の麻痺が普通の生活を送るのに障壁になっていると認められたのだ。学校も養護学校に変わった。
その後、義母が妊娠し、弟が生まれた。父と義母は弟に夢中だった。
私は養護学校に行く定期券で駅の改札を通ると、学校へ行かず、新宿に向かった。そして、特急列車に乗った。しかし、新横浜あたりで駅員に見つかってしまう。
駅員から家に連絡が行くと、父が迎えに来る。父はブスッとした表情をしていたが、私は父を独り占めできて嬉しかった。
義母はその後も妊娠し、妹を出産した。私は家に帰りたくなくて、また新宿に行き、特急列車に乗った。今回は終点の長野まで行った。
電車を降りて、駅を出ようとしたとき、無賃乗車で捕まった。私は警察に引き渡された。
「靴下とベルトを寄こせ」
黙って靴下を脱ぎ、ベルトを外す。
「ズボンのベルト通しのところに、安全ピンがついてるな。それも取れ」
ベルト通しの紐が千切れていたので、それを留めていただけなのに没収された。
その後、個室に入れられ鍵を閉められた。壁には鉄格子がはめられている。
トイレに行きたくなったので、素直に「トイレに行きたい」と警官に言った。
「馬鹿言うな」
「じゃあ、ここでするよ」
「本当にしたら怒るぞ」
「するったらする」
「仕方ねえなあ」
警官は折れて、私をトイレに連れて行ってくれた。
夜遅く、父が東京から私を迎えに来た。警官に父は何度も頭を下げ、私にも頭を下げさせた。
その日の最終列車に乗り、父と一緒に東京へ帰る。父は私の方を見もしない。それでも、私は父と一緒に居られることに幸せを感じていた。それくらい、私は愛情に飢えていた。
長野までの無賃乗車事件の後も、私は勝手に特急電車や新幹線に乗って、父を困らせた。
「なあ、どうしたら止めてくれるんだ?」
「あずさ号に乗って、お父さんと旅行に行けたらもう二度とやらない」
その後、父は休日に長野へ私を連れて行ってくれた。列車はもちろんあずさ号だ。
私は約束通り、無賃乗車して遠くに行くことを止めた。
ある日、父が神妙な顔つきで、私に言った。
「歩、悪いけど、これからはお母さんと一緒に暮らしてくれ。実は、お母さんは隣町に住んでいる。向こうも歩と暮らしたいそうだ。ここ数年、歩と暮らして良く分かった。子供には父親よりも母親の方が必要なんだ」
私は父の気を引きたくて特急電車に乗ったことを後悔した。しかし、後の祭りだ。
小学6年生になった時、母が私を引き取りに来た。昔は地味だった母が、紫色のニットにヒョウ柄のコートを羽織って現れたので私はギョッとした。どうやら、看護師をやめて水商売を始めたという。貯めたお金で自分のお店を開いたそうだ。お酒を提供しているだけで、変なことはしてないよ、と笑った。
「歩、お母さんが帰るのは深夜12時過ぎるけど、何かあったらお店に電話しなさいね」
母は大ぶりのイヤリングをつけ、胸の開いたワンピースを着て、ファーコートを羽織る。
私は母を見送ると、1人で食事を取り、テレビをつけた。
来年は、とうとう中学生になる。母が頑張って普通科の中学校に行けるよう、手配してくれた。
洗濯物を右手でだけで、取り込み、左手を添えながらたたむ。障害は固定化してきて、これ以上、良くなる気配はなかった。
春になり、中学校に入学した。学ランを切ると少し大人になった気持がする。友達ができることを期待していたが、友達ができるどころか、私の身体を理由にしたいじめが始まった。
汚い言葉を言われるのはマシな方で、酷いのになると、美術のテストの時間に私の身体を持ち上げて頭から床に落とした。私は脳震盪を起こして何も絵が描けず0点を取った。いじめは中学を卒業するまで続いた。
高校は商業科に進学した。中学の時とは打って変わって、楽しい毎日が始まった。友達がたくさんでき、放課後になると、私の家はたまり場になった。
「買ってきたプレイボーイ読もうぜ!」
男向けの週刊誌にはきわどい女性のグラビアが載っている。
「見ろよ、これ、たまんねえな」
高校生の私たちは興味津々でページをめくる。
「なあ、歩、この漫画読まして」
他の奴は私の本棚から漫画を漁る。みんなそれぞれ好き勝手にたわいもない話をしながら過ごした。
母の仕事が軌道に乗り、郊外に一戸建てを購入したのもあり、広い我が家は格好のたまり場になっていた。店が休みの時は母がみんなに夕食をご馳走した。
笑い声が家中に溢れていた。
高校のクラブ活動は旅行研究会に入った。入部理由は、いろんなところに行けて楽しそうという軽い気持ちからだった。
クラブ活動として、春休みと夏休みに日本三景を巡った。
松島の太平洋、天橋立から望む日本海、宮島を中心とした瀬戸内海は穏やかで心が和らいだ。思い返すと、私がした最初の旅行は父を独占するためだった。しかし、本来の旅とはその土地や文化を楽しむものだ。それを、私はこの旅で学んだ。
旅行研究会の部長は、旅行に関する仕事に就きたいと言って、高校卒業後は大手旅行会社に就職した。その姿を見て、私も部長と同じ会社に行きたいと考え始めた。
私は高校卒業後、専門学校に通い、その後、旅行会社に就職が決まった。先輩と同じ大手旅行会社は無理だったが、満足のいく就職先だった。障害があったが、健常者に負けないくらい働いた。
この頃は仕事が終わると、毎日、居酒屋に飲みに行った。家に帰ってからも飲み続けた。1日に飲む量はビールの大瓶4本。5本だと次の日に響いてしまうのが、飲んでいて分かったからだ。
そうやって生活しているうちにお金が足りなくなり、サラ金に通い始めた。
サラ金と言ってもいかがわしい様子は全くなく、銀行のように清潔な店内には、これまた銀行のようにしゃんとした女性の店員が座っている。
書類に記入し、保険証を見せて身分照会をすると、会社に在籍しているかどうかの連絡がいく。確認が取れると5万貸してくれた。
最初はすぐに返せると思っていたのだが、利息しか返せず、元本が減らない。
酒に金を使うのを止めればいいのだが、頭の中はアルコールの事でいっぱいだ。
仕事中、アルコールの禁断症状で指が震え、英文タイプが上手く打てない。
数年後、借金の額は300万にまで膨らんだ。
にっちもさっちも行かなくなった私を助けてくれたのは母の彼氏だった。
私の借金が発覚したその日に300万をポンと用立ててくれた。
母も私のことを心配して店をたたんだ。それ以来、一滴も酒は飲んでいない。
その後、人間関係が嫌になり、会社を辞めて人材派遣会社に登録し、旅行の添乗員を始めた。同年代が結婚していく中、私は実家で母親と暮らしていた。その母が卵巣がんになり、53歳という若さであっという間に亡くなった。
お店を経営していたせいか、母の葬儀にはたくさんの弔問客が来た。その中に、母の元夫である私の父親もいた。
父と顔を合わせるのは何年ぶりだろう。しかし、話したいことが何もない。他人行儀な挨拶をして私たちは別れた。
母が亡くなったので、一戸建てを売り、私は賃貸のマンションに引っ越した。
添乗員の仕事は楽しいが体力を使う。
北から南まで飛び回り、分厚い参加者名簿を見ながら、一人ひとり連絡する。
小児麻痺の影響もあり、体力的に限界を感じ、仕事を辞めた。
その後は旅行会社の営業をしたが、疲れてしまって家に帰ると何もできない。この働き方を続けていたら、きっと私は長く持たない。
正社員にこだわるのはやめよう。そもそも、私は障害者なんだ。障害者の働き方というのがあるはずだ。
職安で障害者雇用の仕事を探し、スーパーの商品管理の仕事に就いた。
障害者雇用だから、障害者に優しい仕事だと想像していたが、全くそうではなかった。
私は、1年でスーパーの仕事を辞め、次は営業の仕事をしたが、こちらも体に堪えた。
ある日、張り詰めていた糸がぷっつりと切れた。働くのをやめよう。私は今まで、たくさん頑張った。貯金は十分ある。残りの人生は好きなように生きよう。
それから私は、海外旅行にたくさん行った。
ハワイ、台湾、フィリピン、グアム、サイパン。
美しい海と、日本ではお目にかかれない珍しい料理。英語の看板が並んだショッピングモールでは、あちこちから外国語が聞こえてくる。
海外から日本に戻ると、見慣れた日本の風景はアジアの小国のものだと思い知らされる。
自分が生きている世界は大きいようで小さい。
旅行に行かないときは、家でダラダラと過ごした。1人というのは気楽だが、少し寂しい。
ある日、携帯電話に知らない人からメールが来ていた。
「はじめまして。メル友にならない?」
携帯電話が普及し始めた頃、メル友を探すために、適当な番号にメールを一方的に送るのが流行っていた。
いつもなら無視するのだが、この時はなんとなく「いいよ。メル友になろう」と返信した。
メールの相手は20代の女の子で名前は愛美と言った。
愛美からのメールは「暇してる」「お腹空いた」「今日天気良くて嬉しい」などのたわいもないものだったが、私の孤独な生活に色どりをくれた。
メールの着信音が鳴ると嬉しくなり、すぐに携帯を開いて返事を打つ。愛美からの返事が来るまで小さい液晶画面で携帯サイトを眺めていると、ピロリンと着信音が鳴り、私の胸は高鳴った。
ある日、愛美から「お母さんにメル友がいること話した。同じくらいの年齢だからやってみたらって勧めたよ」とメールが来た。その後、愛美の母親ともメールをするようになる。
愛美からこんなメールが来た。
「ねえ、今度、お母さんと愛美と一緒にご飯しない?」
私は直ぐに「もちろん行くよ」と返事を出した。
週末、都内のファミレスで愛美親子と食事をした。愛美は若さもあってか、コロコロと笑ってばかり。母親も娘に負けないくらい大声で笑う。私は久しぶりに楽しい夜を過ごした。
その後、愛美の母親と急速に親しくなり、母親は離婚して、私の家に来た。子供は3人とも成人しているので母親の行動に、一切、口を出さなかった。
1年後、私は愛美の母親と正式に籍を入れた。
45歳になって、誰かと結婚するとは思わなかった。自分でも、障害者である私は結婚とは無縁だと、どこかで考えていた。
妻との生活は楽しかった。しかし、他人と暮らすのが初めての私は、気に入らないことがあると、つい、怒鳴ってしまう。
洗濯物が溜まっている、食事の味付けが濃い、床にゴミが落ちている。他人からしたら些細なことだが、なぜか、自分はそれを許すことができず、火が付いたように怒鳴り散らしてしまう。そのうち、妻はノイローゼになった。
妻が仕事に行けなくなり、収入が途絶えた私たちは、生活保護を受けることになった。
その後、精神科に行った妻は統合失調症という診断を受けた。
「あなたも精神科に行って欲しいの。お医者さんに夫と喧嘩していると話したら、ぜひ連れてきてくださいって」
私が妻の言葉に従い、一緒に精神科に行くと、軽いうつ病と診断され、薬が少し出た。
薬を服用するようになってから、よく眠れるようになり、喧嘩も落ち着いた。
そんな時、愛美が一緒に暮らしたいと連絡を寄こしてきた。無下にすることもできず、愛美と養子縁組をし、3人で暮らすことになったが、その後、愛美はメールで知り合ったおじいさんと暮らすと言って家を出ていった。
また、妻との2人の暮らしが始まり、それと同時に、怒鳴り散らす癖も再発した。
妻は年中「眠れない」とつぶやき、精神科で大量の薬をもらってきた。そして、処方された2週間分の薬をすべて飲んだ。病院で治療してもらい、体調が回復しても、しばらくすると、また多量服薬をする。何回も繰り返すので、こちらも慣れてきてしまった。
ある日、「眠れない」と訴え続ける妻にとても強い睡眠薬が処方された。真っ赤な、真っ赤な錠剤。妻はそれをまとめて飲んだ。
ある夜、妻の寝室を覗くと、ぐっすりと眠っていた。しかし、多量服薬していると知らず、放っておいた。夜も遅いので、自分も薬を飲んで寝た。
次の日、妻はいびきをかいて昼過ぎまで寝ていた。きっと疲れているのだろうと思い、そのままにしておいた。
しかし、次の日になっても起きない。不審に思い、妻の口元に顔を近づける。昨日まであった呼吸がなくなっていた。大急ぎで119番する。
「妻が眠ったまま、息をしていないんです!」
「これから向かいます。それまで心臓マッサージをしてください」
「私は左手が不自由なので、できません!」
自分が酷くみじめに思えた。右手だけで胸を押し、死なないでくれと願う。窓の外から救急車のサイレンが聞こえる。妻は病院に運び込まれたが、もう、以前のように健康な体で家に戻ることはできなかった。
「延命治療を行う病院に移るか、一般の病院にするか、ご主人が決めてください」
妻の腕、口、足の付け根、様々な場所に管が刺さっていた。その姿があまりにも可哀そうで、見ているだけで胸が苦しかった。延命治療をするということは、一生妻が管だらけだということだ。それは受け入れられない。せめて、最後くらいは何もつけず、綺麗な姿のままでいて欲しい。
「一般の病院にしてください」
妻から全ての管が外され、その場で死亡が確認された。私は大粒の涙を流して泣いた。なぜ、気が付けなかったのか。いや、そもそも、私と結婚しなければもっと長生きできたはずだ。
妻の三女の夫が警察で働いている関係で、妻の死は私が伝えるより早く、子供たちに知らされた。愛美だけは連絡が取れなかった。長女と三女は私を酷く責めた。
生活保護を受けていて、家族が亡くなった場合、葬祭扶助を利用すれば、葬儀に関する費用を出してもらうことができる。お寺に行くときに、自分の家が墓を持っていることを話し、妻を家の墓に入れることになったのだが、これがいけなかった。葬祭扶助からは戒名や墓石に名前を彫るお金は出してもらえない。何十万ものお金を今の暮らしで用立てることは不可能だ。
どうしようもできない私は、妻の遺骨を自宅に持ち帰り、ずっと手元に置いていた。6年後、妻の長女から電話が来た。
「お久しぶりです。まだ、お母さんの遺骨はお墓に入ってないんでしょうか?」
私は答えることができず、黙りこくっていた。
「お母さんが夢に出るんです。お墓に入れなくて悲しいって泣くんです。お墓のことは、こっちで何とかするから、遺骨を送ってください。それと、もう二度と、うちの家族には関わらないで下さい」
私は骨壺が割れないように、タオルで何重にも包んで段ボールに入れた。
「何もしてやれなくてごめんな」
そうつぶやいて、ビニールテープでビリリと封をした。遺骨を宅急便で送った人間なんて、この世で私だけかもしれない。
妻の遺骨がなくなってから、自分の胸にぽっかりと大きな穴が開いた。私はなぜ、妻の苦しみを分かってやれなかったのか。妻を自殺にまで追い込んだ自分には生きる価値などないのではないか。
妻の真似をして、医者から処方された睡眠薬と精神薬を多量服薬した。しかし、倒れている私を訪問看護師が発見し、そのまま病院に送られた。
退院する時、迎えに来てくれたケースワーカーがこう言った。
「1人で暮らすのは不安でしょう。救護施設というところがあるんですよ。生活保護を受けながら暮らすことができて、スタッフもついています。ほら、ここです」
車窓越しに大きな敷地内に建てられている3階建ての建物が見えた。もう、1人で暮らすのは限界かもしれない。
見学と一時入所を経て、正式に救護施設に入所した。
救護施設で暮らし始めてから、1人で暮らすよりも大きな安心に包まれている。しかし、大部屋のため、プライバシーが保てないのが難点だ。
「老人ホームに移りたかったらいつでも言ってくださいね」
施設長は利用者の気持ちを尊重して、そう言ってくれた。老人ホームでは、小さいけれど、個室で生活できるそうだ。
思い返すと、長い人生、様々なものを得て失ってきた。しかし、まだ自分にはこの身体が残っている。私の母が命がけで与えてくれたものだ。
普通の人より劣る身体かもしれないが、この身体は色々なことを教えてくれた。身体の麻痺をからかう人間もいれば、そんなことを気にせず、愛してくれた人がいた。そのことを知れただけで十分だ。
秋の空は高く、どこからか金木犀の香りが漂ってくる。
顔をあげると、柔らかい陽の光が体中に降り注ぐ。
私はそっと目を細めた。
1977年生まれ。茨城県出身。短大を卒業後、エロ漫画雑誌の編集に携わるも自殺を図り退職。
その後、精神障害者手帳を取得。その後、生活保護を受給し、その経験を『この地獄を生きるのだ』(イースト・プレス2017)にて出版。各メディアで話題になる。
その後の作品には『生きながら十代に葬られ』(イースト・プレス2019)、『わたしはなにも悪くない』(晶文社2019)、『家族、捨ててもいいですか?』(大和書房2020)、『私がフェミニズムを知らなかった頃』(晶文社2021)『私たち、まだ人生を1回も生き切っていないのに』(幻冬舎2021)がある。
→エッセイ 地獄とのつきあい方
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