小学校ははじめからつまらなかった。3年までは我慢できた。4年で我慢の緒が切れた。担任の女性教師がヒステリックに叫び散らす毎日が嫌で、体調不調を理由に学校をさぼった。鷹揚な両親は、家でおとなしく本を読んでいる私を無理に学校へ行かせようとはしなかった。自由に本を読んで過ごせる家での生活は快適だった。ところが、学校がほっておいてくれなかった。近所の同級生を動員して、私を学校へ誘うよう仕向けた。細かい記憶はないが、私はしぶしぶ学校へ行くことになった。嫌々行った学校では体育の授業で縄跳びの新しい跳び方を習っていた。運のよいことに私は縄跳びに夢中になった。跳んだ回数を友達のハヤセ君と競った。学校をさぼっていては、ハヤセ君に後れを取ってしまう。私の不登校は子どもらしい負けず嫌いから自然消滅した。担任は相変わらず金槌で教卓を叩き、喉を枯らして金切り声をあげていた。もう気にならなくなった。教科書の片隅にパラパラ漫画を描いて時間をつぶした。
たぶん、この時期だったと思う。学校の図書室で不思議な出会いがあった。家の近所に小児麻痺の後遺症が少し残っているぽっちゃり体形の少年がいた。ミト君といった。いつも穏やかに微笑んでいる二つ年上の彼とそれまで一緒に遊んだ記憶はなかった。空き地でソフトボールをしたり、山の斜面で草滑りをしたことはなかった。だから、放課後、ミト君から図書室で突然話しかけられた時は、どぎまぎした。本を探していた私に、藪から棒に「面白い本、あるよ」と謎めいた微笑みを浮かべて、話しかけてきた。すくんでいる私にお構いなく、ミト君は一冊の本を紹介してくれた。エーリッヒ・ケストナーの「エーミールと探偵たち」だった。半信半疑で読んでみると無茶苦茶面白かった。ケストナーに夢中になった。「飛ぶ教室」「二人のロッテ」どれも少年探偵団やアルセーヌ・ルパンよりおもしろかった。リンドグレーンのカッレ君シリーズも教えてもらった。「ワクワクするよ」それだけ言って、ミト君はチェシャ猫のように消えた。ミト君との図書館での交流は数カ月のことで終わった。彼は卒業し、交流は途絶えた。小学校4年のほんの刹那の付き合いだったが、思い出深い。
もうひとり、印象的な出会いをした人がいる。高校2年の秋、天気の良い日、私は退屈な物理の授業を抜け出して学校の外をふらふら歩いていた。坂道を登りきったところで、自転車に乗ってやって来るマツムラ先生にばったり出くわした。マツムラ先生は国語の先生で、俳句の授業はすこぶる面白く、切れ味の鋭い言葉が礫のように飛んできた。声が大きく迫力があり、授業を越えたスリリングな知的体験が味わえる先生だった。唯一尊敬できる人だった。その先生に「何しとるん?」と心配そうにきかれた。観念して、学校を抜け出してきたことを正直に話した。「戻った方がええで」と諭され、先生と一緒にもどった。昼休み、指示通り先生の所へ行くと、坂口安吾の随筆集を貸してくださった。「これは、戦後すぐに出版されたもので、カストリ雑誌いうんじゃ、おもしれぇけ読んでみぃ」分厚い眼鏡から、ぎょろりとした目をむきだしておっしゃった。渡された本は、粗末なつくりで、旧仮名遣い、旧字体の漢字、とても読む気がしなかった。すぐに全面降伏して読むのをあきらめた。返却する際、「読めませんでした」というと、先生は「ほうね」と大笑いされた。先生はその後山口に引っ越された。一年間授業を受けただけだが、受けた御恩は深く大きい。
人生において、学校でどんな教育を受けたかということは大切だ。でも誰と出会ったかの方がもっと重要に思える。組織や制度になじめなくても、出会う人々に癒されたり、励まされたりすることは多かったように思う。
1959年生まれ。早稲田大学中退、都内で塾講師を10年務めたあと、福山で独立開業。昨年、脳卒中で半年間入院。塾をたたむ。
右半身に麻痺を抱え、妻の介護なしには生活できない。
にもかかわらず、その自覚は乏しく、傲慢不遜な性格は、おそらく死ぬまで治らない。
→エッセイ『愚昧妄言』