私は昭和11年生まれで、89歳になろうかとしているところです。
そもそもぜんそくがありまして、転地をしたり、昭和20年は家族が喜多方へ疎開するというので、私は房総にいたんですけど、房総は艦載射撃などで大変だったんです。房総の小湊。空から艦載機がやってきて、人が歩いているとダーーーッ!と撃つんですけど、本当に何千本のろうそくが飛んでくるようで、火がついてるんですね。学校のピアノももう、ハチの巣になって、本当にもう、怖かった。すごかったですね。
東京の大空襲には出会わなかったんですが、ちょうど家族と一緒に喜多方に疎開する日、昭和20年3月でした。父親の宿舎がある東横線の菊名に泊まったとき、東京の空が真っ赤っかになりまして。その思い出は焼き付いています。
昭和20年に戦争が終わって、9月にまた転地って、房総に行くんですけど、まあ汽車に乗るっていうのが大変なことで、喜多方へ行くのも大変でしたけど、すごかったですね。
私は小学校4年のときに、全部で4年間学校を休みまして、普通の人と違っちゃったんです。
結核とぜんそくで、小学校4年の時に休んでいるところに、父親が昭和24年に肺結核でなくなったんです。それから母親が働きに出ましたので、うちは中学校3年の姉が取り仕切る。私は留守番も兼ねていたと思うんですが、行こうと思うとぜんそくになっちゃって行けない。
っていう感じで、1年また1年て気が付いたら4年間も遅れてしまって。
私が昭和11年生まれで、その次の次の弟が昭和14年生まれで。その弟のクラスに入れてもらって、小学校6年の1学期に復帰したんです。それで「あんちゃん、あんちゃん」て言われて。それからずっと、中学校も「あんちゃん、あんちゃん」で。
4年間学校を遅れたっていうのは、やっぱり大きなことでした。
それでまあいろいろあったんですけど、母親のつてでお茶の先生になったらどうかっていうんで、おばあちゃんの先生について、裏千家の準師範という資格を取って、今から思うと顔から火が出るようなもんですけど、若い10歳くらいの女性たちを教えるっていうことをやってたんです。
おばあちゃんは知り合いのおばあちゃんで自分の跡継ぎってことでやってたんですけど、どうしても縁を切りたい、お茶の先生から足を洗いたい、それにはどうしたらいいかと思うようになって。
それで東大入ったらお茶辞めますと言えるんじゃ、口実になるんじゃないかと思いついて、それで東大入って・・・。
東大では、6・15っていうのを今でも忘れていません。クラスで国会突入というのを計る。その時、私の横5メートルぐらいのところで樺美智子さんが亡くなられて。押しつぶされたんです。踏んだり、みんなで踏んだり。倒れたら終わりですよもう。樺美智子さんはそのとき文学部の4年生ですね。私は理学部の動物です。それでまあ、生物学も、もうちんぷんかんぷんだったんですけど、まあ停学。茅総長、茅総長っていましてね、それを缶詰にして停学を食らったり、しっちゃかめっちゃかでした。
そして1968年の今度は全共闘。私は助手だったんですけど、無期限の助手が27年ぐらいずーっと続いて。私立の助教授の口持ってきてくれる人もあるんですけど、どうも合わなくて、なんかやり過ごしているうちに27年。
定年間近、あと1年というところで辞めたんです。
星子が生まれたってことは大きなことです。
星子は8歳までは普通のダウン症児だったんです。ダウン症っていうのは知恵遅れとは言え、そう知恵遅れじゃないんですね。8歳までは歩いたりして。一緒に手をつないで歩いたりして。しゃべりますしね。
それが8歳で目が見えなくなって、白内障の手術をしたんですね。白内障の手術をして、でまあ落ち着いて、一ヶ月くらいして、突然なんか、変わっちゃったんですね、一週間くらいで。あーっという間にもう、完全な知恵遅れになってしまいましてね、それまではダウン症で、それが完全に痴呆症。もうなにが起こったかわからない。本当にわからない。原因なんか全然、お手上げです。あっという間に、見事に違う人間になっちゃったみたいでね。
目が見えないひと月間の間に何かあったんですね。それもわからない。
痴ほうなんですけど、痴ほうをひとつのジャンルと考えると、痴ほうともいえない。なんだろうって。それまでは普通のダウン症児だと思ってたんですけどね。
それから星子をめぐって、つまり星子とは何者かっていうのが大きな課題になりました。
養護学校を卒業して、そこから先なんですね。星子の居場所っていうのが問題で、カプカプっていうお店兼作業所を、『星子が居る』って本を作った編集者と作った。そこは喫茶店ですから、他の仕事できる子は働く。星子はけた外れの重度で、一日中そこで寝そべってる。(注1)
星子が居るっていうのは本当に大きなことで、今もう50になろうっていうわけですけど、私が今89歳になるところですから、私が死んで、母親が死んでっていうとき、兄弟たちがみるっていったって、もうとても無理ですからね。
そのカプカプが今度代替わりで、それまでの責任者が新しく独立して、星子のことも考えて新しい施設を作る。ということに今なって、大変うれしいんです。本当にありがたい。
母親は何にも心配しないんですよ。そこがすごいところで。万事うまくいくっていうスタイルですね。((注2)
星子の今の標準は、ただ寝転がっているだけです。本当に不思議です。笑うっていうことはするんですね。ただ何を笑っているんだかわからない。それから涙を流さないですね。
自分の娘ながら、娘であってしかも、どういう存在なのかわからない。そういう大きな問題になって。
どうしてこういうことが起こるのかっていうことを、そういうことが起こるっていうことをめぐっての、漠然としたいろいろな考えで、そのなかで、二者性と言うことが、私のひとつの中心課題になってきました。二者性の中に星子が入っているわけです。
二者性っていうのは結局、私とあなたの問題、私の心の中の私とあなたの問題なんですけど、その二者性が、いろいろな人に投影されていくわけですね。星子は二者性のあるサンプルみたいなものです。
全共闘では「自己否定」っていうのが始まりました。
東大闘争っていうのは左翼運動じゃないんですね。7項目要求だとかは出しますけど、それを全部大学当局が飲んでも、そういうのはほとんど、問題の中心じゃなかったわけ。問題の中心は、自分が解決しなきゃいけない自己否定だった。自己の否定だったんですね。
つまりやっぱりブルジョアジーみたいなね。要するに労働者じゃない自分の自己否定っていうのが最初なんですね。自分に対する闘いみたいなのが東大闘争だと言ってもいいぐらい。
マルクス主義がらみのことばですけど、私にとっては自己否定っていうのは、それは大事だったんです。
西欧で4,5世紀頃、individual(個人)というのが出てくるわけです。その個人ていう概念が、日本では最初から水と油みたいなものだった。日本人にはあなたという相手がどうしても必要なもので・・・。
そう思うと、自分というのがあるかないかわからないのに、否定できるわけもない。自己否定、というふうに、簡単には否定できない。
やっぱり日本人にとっては成り立たない。
そこから私の「二者性」っていう考えになるんです。二者性はその自己否定から始まっている。
二者性は、近代そのものに対する挑戦でもあります。東大闘争を引きずっていることにもなりますね。
私の人生のある終わりに星子っていうのが出現してきたっていうのは、本当になんか、なんて言っていいか、奇跡とも言えるけれど、そういうことがすべて当てはまんないんですね。
星子という人が誕生してきたっていうこと、それでこういうふうになったっていうこと、なんか、すごいこと、すごいことなんです。単に知恵遅れっていうだけで、片付けられない。
検査を受けて障害児を産まない選択をする人が増えている。そうやっていろんな厄介者をみんな切って捨てて、あるいは見殺しにしていっても、迫害を受けても、そういう類の人はこれからも産まれてくる。人には多様性っていうのがあるわけで、やっぱり多様な人が生まれてくる。ずーっとそうなんです。
それはやっぱり人間のすごさというか、星子のような人間がいるっていうこと自体、人間のすごさでもあります。
すごさっていうと頭がいいとか、才能があるとか、みんなそういう方にいきますけど、なんか才能があるとかね、そんなのたかが知れたもんですよ。そのなかで才能の多様性というか、その多様性の方が問題でね、星子もそういう意味では、多様性として星子という一人のものを具現しているわけでね。やっぱり人っていうのはすごい、やっぱりすごい。
知恵遅れだのなんだので切れない。切っても切ってもそれは余っちゃう。切って捨てることはできない。余っちゃう。人はそういういろんな多様性をもって生きている。やっぱり人っていうのはすごいと思いますね。
確かにいろんなちゃんと天才と言えるような人もいますし、楽器を弾く人もいますし、そりゃいろんな人がいるけれども、多様性はそこらへんでは止まっていないんですね、人間の多様性は。星子も含めた多様性ってことになるともっと多様性は広がる。そう思うんです。
(聞き書き:塔島ひろみ)
1936年福島県生まれ。生物学者、社会学者、思想家。東京大学教養学部助手を27年間務め、1977年より第一次不知火海総合学術調査団(水俣病に関する実地調査研究)に参加、第二次調査団長を務めた。また障害者の地域作業所「カプカプ」の設立・運営に携わる。現在、和光大学名誉教授。著書に『能力で人を分けなくなる日』(創元社)『問学事始め』(これから出版)『いのちの言の葉』(春秋社)『星子が居る』(世織書房)ほか多数。