REDDY 多様性の経済学 Research on Economy, Disability and DiversitY

学校
 村松勝康

2026年02月10日

学校

第1回

夢が消えた入学式

にとって学校は、高齢になった今でも一人ひとりの顔がはっきりと脳裏に焼きついている。なかでも小学校の入学は、人生の第一歩と言ってよい程新鮮でなつかしい。無邪気な笑顔に真新しいランドセルとキラキラ輝いている帽子は、まぶしいくらいだ。春とはいえ、雪どけの水がサラサラと流れいく。まるで子供達の夢を育むような季節の到来です。
かし僕の場合は、入学の喜びに沸くまでもなく、ある一通の手紙が届いていたのだった。その内容は「あなたのお子さんは、障害が重過ぎて学校としては、お預かり出来かねます。よって今回の入学は無理ですので御理解願いたく、お知らせ致します」という一方的な冷たく、思いやりのない手紙だった。
のショックは大きく、一瞬だんまり込んだと思うと、すぐに立ち上がり、「信一、校長先生のところへ行くべ」と言って背中に私をおぶって学校に走る。母はなりふり構わず学校へ、学校へと向う。きちんとまとめられた頭の髪の毛もバラバラになって風にゆれていた。学校に着いた母は、大きく息を吸って、ひと休みです。高ぶった気持ちを落ち着かせると校長室に向う。校長室に入った母は、「校長先生お願いに参りました。この子を学校に入学させてください!どうしてこの子だけが入学出来ないなんて・・・」母は言葉に詰ってしまった。突然の訪問に校長先生も目を丸くしてビックリした様子です。「お母さん、まず座ってください」と母をなだめようとしていた。母は校長先生の目を見つめながら、「先生この子を皆と同じように入学させてください。わだしが責任を持って送り迎えします!」と母の口調は一段と強くなった。校長先生もツバをごくりと飲み込むと、「お母さんの気持ちは分かります。しかし・・・・」と言葉をにごしたと思うと、先生は「お母さん、今の状態では、やはり無理でね・・・・」と説明に苦しむ顔は痛々しい。仕方なく学校を後にした母は、無言のまま家についた。いつもは賑やかな我が家もすーと静まり返っていた。すると僕は、「母ちゃん、オラ学校に入らなくていいよ。母ちゃんといた方がいい!!」と言いながら母に抱かれる僕だった。
の病気は、ウイルスの感染による脊椎性小児マヒでした。生まれた時は、丸々と太った大きな赤ん坊でしたが、一夜にして変ってしまったのです。高熱は続き、手・足は見る見るうちに痩せおとろえ、呼吸もままならない状態になり、家族の誰もが目を離すことは出来ない危険な日が続くのだった。母の顔色も変わり、「これじゃこの子が死んでしまうよ!病院へ連れて行くからな」 母は〝神様、仏様この子を助けてくださぁーい〟と何度も頭を下げた。先生は重い口を開きながら、「この子は小児マヒです、一生歩けないかもしれません」と言うと母の目から大きな涙がこぼれ落ちた。つづく

村松勝康:プロフィール

1歳にして背脊性小児マヒになり、両足機能喪失となる。小・中学校は母に背負われて通学。小学校入学の時、入学拒否という壁にぶつかり、社会の不条理を経験する。平成5年葛飾区議会議員に当選し、現在にいたる。障害者議員として最長の記録を持つ。