3月8日土曜日、立川市の国文学研究資料館大会議室で「言葉にできない空気をぶっとばせ!」というシンポジウムが開催された。加島正浩著『終わっていない、逃れられない<当事者たち>の震災俳句と短歌を読む』(文学通信)の出版記念シンポジウムで、登壇者は歴史学者の西村慎太郎、美術家の金原寿浩、社会学者の石川洋行、文学研究者の加島正浩の各氏と私、三原由起子の5名によるもので、当日は会場参加者のほか、YouTubeライブ配信での参加者も受け付けた。
復興と言われてしまえば本当の心を言葉にできない空気/三原由起子『土地に呼ばれる』
今回のシンポジウムのテーマを考えたときに、この自作の一首が思い浮かんだ。「復興」と言えば何でもアリの風潮に、福島では本当の心を言葉にできない空気になっていると感じているからだ。私自身、一時はふるさとから目を背け、心が離れていきそうになったこともあった。今もなお「復興」という言葉が免罪符のように使われていると思う。その中で、「復興」の名のもとに原発事故がなかったことにされて、美化されていく空気感を打ち破りたい気持ちが蠢いていたのだった。
私は加島氏の著書の中で取り上げられていた浪江町の歌人・東海正史氏と大熊町の歌人・佐藤祐禎氏の作品を中心に「地元の先輩・東海正史氏と佐藤祐禎氏の短歌から学ぶこと」というタイトルで発表をした。
東海正史第三歌集『原発稼働の陰に』(2004年・短歌新聞社)、佐藤祐禎第一歌集『青白き光』(2004年・短歌新聞社)には二つの共通点がある。一つ目は老舗の短歌専門出版社だった短歌新聞社(現在は閉業)の出版物であるということ、二つ目はどちらも2004年に出版された歌集であるということ。そこで私が注目したのは2004年という時期である。私は、2004年の前に何か大きな事件があったのではないかと想像した。歌集を出版するにあたっては、ほとんどが自費出版なので、私財を擲っても訴えたいと思えるくらいの出来事があったのではないかと思ったからである。(私自身、東日本大震災と東京電力福島第一原発事故後の2013年に第一歌集『ふるさとは赤』を出版した。)
すると、2002年に「東京電力の原発トラブル隠しが発覚」という出来事にたどり着いた。「東電、原発トラブル隠す 80〜90年代に29件、点検記録に虚偽」(2002年8月30日「朝日新聞」朝刊)という記事があった。この原発トラブルに対する「危機感」が二人の歌人の心を歌集出版へと動かしたのではないか。と、私は推測したのだ。
次回、東海正史氏と佐藤祐禎氏の作品やあとがきを歌集から紹介したいと思う。2011年東京電力福島第一原発事故以前に、私の地元の先輩歌人はどのように原発と向き合ってきたのか。少しでも多くの方々にお伝えできればと思う。ひとつ、書いておきたいことは決して、反原発運動としてのスローガンではない。その土地で暮らす生活者としての「心」を詠んだものである。
iPad片手に震度を探る人の肩越しに見るふるさとは 赤 /三原由起子『ふるさとは赤』
私の実家は福島県双葉郡浪江町の新町通り商店街にあった、おもちゃ屋と自転車屋だった。「だった」というのは、東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故により、閉店を余儀なくされたからだ。うちのお店は曾祖父母の代から商いをしており、たくさんのプラモデルやラジコン、Nゲージなども売られていて、いわゆるマニア受けするお店だった。母屋よりも、祖父母や父母が店番をするお店の中で過ごすことが長かった私は、人見知りすることなく、幅広い世代の人と話すのが楽しみだった。今思えば、原発関係で働いていたと思われる外国人が時々、お客さんとしてお店にやってきた。そんなときはなぜかうれしくなって、ドキドキして、その国の言語を話せないのに話したいという気持ちでいっぱいになった。父に簡単な英語を教えてもらって、緊張しながら話しかけたことを今でもおぼえている。そんな私の性格は45歳になった今も変わらないままだ。
2018年10月29日、私は日本語教師養成講座を受講するために、新宿のとあるスクールに入学をした。と、いうのも、2015年秋に夫が大病にかかり、私の生活はあまりにも夫に依存しすぎていたことを思い知らされたため、何か自身で資格のようなものを持っていないとこれから先の人生は生きていけないのではないか。と、いう危機感を強くおぼえたからだ。その時、頭に一番先に浮かんだのが日本語教師だった。「外国語は苦手だけど、外国人とコミュニケーションをとるのが好き」というシンプルかつ浅はかな理由だった。初めの授業で自己紹介をしたときは「授業は休まず出席して、とにかく養成講座の修了資格を取れればいいです」というような挨拶をし、担当の先生に苦笑いされた。他の方々が高い目標を掲げている中で、あまりの志の低さに呆れていたと思う。
私は夫と小さな出版社を営んでいる。日々の仕事もこなさなくてはならないのだが、夫の理解を得て、通学することになった。基本的には午前中に通学し、午後は会社で仕事をするという日々が約一年二ヶ月続くことになった。
新宿に通学するようになって、さまざまな言語が飛び交っていることを目の当たりにした。今までは通り抜けていった外国語が耳に入ってくるようになったのだろう。なんだか自分が少し成長したような気持ちになって、うれしかった。
さまざまな言語飛び交う新宿を歩けば口元やさしくなりぬ /三原由起子『土地に呼ばれる』
また、日々の授業で学んでいくうちに「母語」「母語話者」という言葉に強くひかれた。私の視野が狭かったことを思い知らされたからだ。人種や民族、国籍などが違っても、生まれ育った国や地域の言語を話すということが、私の中で抜け落ちていた部分だったのだ。よく考えればわかることだが、日本で生まれ育ち、日本でしか生活をしたことがない私にとって想像しにくいことだったと思う。
母語という言葉は母性を呼び起こすほどに大きくやさしき言葉
奪いたる母語思うときかなしみを問い続けるべし日本語教育
民族や国籍越えて母語話者と呼ぶ言葉は国境を越えてきたから /三原由起子『土地に呼ばれる』
そして、私自身も刺激を受けて、頻繁に台湾や韓国を訪れるようになった。訪れるたびに、現地の人々に親切にしてもらい、私も日本で同じように外国人に恩返しがしたいと思うようになった。日本で困っている外国人がいたら、(話せないけど)積極的にコミュニケーションをとりたいと強く思ったのだ。
きみがわたしかもしれないから道迷う人に声かけることを恐れず /三原由起子『土地に呼ばれる』
私が日本語教師養成講座を修了したのは、2020年1月の終りだった。そう、あの新型コロナウイルスが世界で流行り始めた頃である。修了した勢いで経験を積みたいと思い、日本語学校の説明会にも参加していたのだが、その後の世の中の空気感で、タイミングをすっかり逃してしまった。それからあっという間に5年が経ち、その間に日本語教師は国家資格となってしまった。
新しい私になりたい朝に見る「NEWoMan」(ニューマン)の文字ただ白くあり /三原由起子『土地に呼ばれる』
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